シューベルト
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チェンバロ12
チェロ
バイオリンバイオリン


<声楽家2>

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
(Dietrich Fischer-Dieskau, 1925年5月28日 - 2012年5月18日)はドイツのバリトン歌手。1943年、ベルリンの音楽院で2学年と1学期分をおさめた直後に、兵役に召集される。そして1945年にイタリア戦線で連合軍にとらえられ、2年間の捕虜生活を送った。1951年、ロンドンのEMIスタジオにおいてジェラルド・ムーアの伴奏ピアノではじめての歌曲のレコードを録音した。

以後ふたりは1967年のムーアの公演引退までしばしば演奏会や録音を行い、それらは高い評価が与えられた。特にシューベルトの歌曲については個人として多くの曲数を録音し、さらに主な重唱曲も合わせて収録しており、ドイツ・リート録音の名録音と言われる。


テオ・アダム
(Theo Adam, 1926年8月1日 ドレスデン − )は、バス・バリトンの音域をもつドイツの著名な声楽歌手。オペラ、歌曲、カンタータの分野で幅広く活躍。1946年から1949年までルドルフ・ディートリヒに声楽を師事。1949年に生地のドレスデンで《魔弾の射手》のヘルミット役でデビューする。1952年にはバイロイト音楽祭に出演した。

アンネリーゼ・ローテンベルガー
(Anneliese Rothenberger, 1926年6月19日 - 2010年5月24日)は、ドイツ、マンハイム生まれのオペラ歌手。リリック・ソプラノ。1954年にはザルツブルク音楽祭にデビューし、3年後には、ロルフ・リーバーマンの『Schule der Frauen』に出演した。

1954年からは彼女はウィーン国立歌劇場のゲスト歌手となった。ニューヨークの聴衆が彼女の素晴らしいソプラノを聞くことができたのは1960年、『ばらの騎士』においてである。彼女の歌唱はロッテ・レーマンをして「世界で最高のゾフィー」と言わしめた。

フラヴィアーノ・ラボー
(Flaviano Labo`, 1927年2月1日 - 1991年2月13日)は、1950年代から1980年代にかけて活躍したイタリアのテノール歌手である。特にヴェルディのオペラで優れた歌唱を聴かせた。青年期は鉄道員となったが、勤務中の歌声を聴いた乗客がスカラ座の指揮者、アントニーノ・ヴォットーに彼を推薦、同座からの奨学金でカルメン・メリス、ジナ・チーニャ、エットーレ・カンポガリアーニといった往年の著名歌手の下で4年間の研鑽を積むことができたとの伝説がある。

ピエロ・カプッチルリ
(Piero Cappuccilli, 1929年11月9日 - 2005年7月12日)は、イタリアのバリトン歌手。ヴェルディのオペラ、中でも『マクベス』や『シモン・ボッカネグラ』の歌唱で名高い。その卓越したブレス・コントロールと滑らかなレガート唱法から、20世紀後半最高のイタリア・バリトン歌手の一人とされる。

トリエステに生まれ、はじめは建築家を志すも、親戚の勧めもありオペラ歌手となる。ルチアーノ・ドナッジオに学び、地元トリエステのジュゼッペ・ヴェルディ劇場でいくつかの端役をこなした後、1957年にミラノのヌオーヴォ劇場で、レオンカヴァルロ作曲『道化師』のトニオ役で本格デビューを果たす。

ヘルマン・プライ
(Hermann Prey, 1929年7月11日 - 1998年7月22日)はドイツのバリトン歌手である。プライのレパートリーの最も核心をなしていたものは自身で「私の人生の中心」と語っていたように、シューベルトであり、シューベルトを初めとするドイツ歌曲は極めて高く評価された。ときおり音程が不安定になることもあるが、豊かな感情表現でそれを補っていた。

1997年にサントリー・ホールにおいて1月24日からシューベルトの誕生日である1月31日を挟んで2月5日までの12日間で伴奏ピアニストのミヒャエル・エンドレスとともに『シラー歌曲集』・『美しき水車小屋の娘』・『ゲーテ歌曲集』・『冬の旅』・『さまざまな詩人による歌曲』・『白鳥の歌』の、「シューベルティアーデ」と称する一連の連続コンサート(全6回)を行い、シューベルト・イヤーの目玉となった。


フリッツ・ヴンダーリヒ
(Fritz Wunderlich, 1930年9月26日 - 1966年9月17日)はドイツのテノール歌手。父パウルは音楽活動を再開したが、地元のナチスによって地位を奪われた上、戦争で重傷を負い、絶望してフリッツが5歳の時に自殺した。伝えられるところでは若い頃のフリッツはパン屋で働いており、彼の天性の美声と音楽的素質を見た近所の人々や通りすがりの人々の繰り返しの勧めで声楽の勉強を始めたという。1959年からはミュンヘンのバイエルン州立歌劇場にて最初は客演、翌1960年からは座付き歌手として契約を交わす。


モンセラート・カバリェ
Montserrat Caballe,1933年4月12日 - )はカタルーニャ(スペイン)生まれのオペラ歌手(ソプラノ)で、優れたベルカント歌唱技術とロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティらのベルカント・オペラの諸役での優れた歌唱で名高い。彼女は一時ポピュラー音楽の世界にも踏み出し、イギリスのロックバンドクイーンのヴォーカルで、カバリェを尊敬していたフレディ・マーキュリーとのデュエット『バルセロナ』(フレディ作)は1992年バルセロナオリンピックのテーマ音楽となった。

トム・クラウゼ
(Tom Krause,1934年7月5日- )は、フィンランド出身のバリトン歌手である。ヘルシンキに生まれる。初めは医学を学ぶためヘルシンキ大学の医学部に在籍し、その道を進んでいたが、歌やジャズなどを嗜んでいた彼は音楽に興味を示し、1956年からウィーン音楽大学に入学し、1957年、ヘルシンキでリサイタルを開催してデビューを果たす。

ドイツ・オペラを得意とするが、イタリア・オペラやフランス・オペラ、リート、宗教作品など、レパートリーは幅広いが、彼はモーツァルトのオペラを最も得意としている

ペーター・シュライアー
Peter Schreier, 1935年7月29日 - )はドイツのテノール歌手・指揮者である。1959年8月に、ベートーヴェンの『フィデリオ』で第一の囚人役を歌い、プロ音楽家としてのデビューを飾った。続く数年、モーツァルトの2つのオペラ、『後宮からの誘拐』(ベルモンテ役)、『魔笛』(タミーノ役)で成功した。2005年12月22日、チェコのプラハにあるルドルフィヌム(芸術家の家)のドヴォルザーク・ホールにおいて行われたチェコ・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会で、J・S・バッハの『クリスマス・オラトリオ』第1部〜第3部を指揮し、自らもエヴァンゲリストを歌った。

レナート・ブルゾン
(Renato Bruson, 1936年1月13日 - )は、イタリア、グランツェ生まれのバリトン。ほりの深いノーブルな声と歌い崩しのない折り目正しい歌唱で、バスティアニーニ後のイタリア・オペラ界において、ピエロ・カプッチッリとともに最も正統的なヴェルディ・バリトンと目された。1961年にスポレートでヴェルディの『イル・トロヴァトーレ』のルーナ伯爵を歌いオペラデビュー。以後ローマ、ボローニャ、ナポリ、ヴェネツィア等イタリア各地のオペラハウスに登場し評価を高める。

ルネ・コロ
Rene Kollo, 1937年11月20日 - )は、20世紀後半の四半世紀のドイツオペラ界を代表するテノール歌手。ルネ・コロ自身も当初はオペレッタやミュージカル、ポップスを歌い活躍していたが、後にオペラ歌手への転向を決意し、本格的に声楽を習う。1976年には「ニーベルングの指環」のジークフリート、1981年「トリスタンとイゾルデ」のトリスタンと重量級の役にもレパートリーに広げ、欧米の一流劇場の重要なワーグナー上演の多くで主役を歌い、当代最高のヘルデンテノールとしての名声を不動なものとしていく。

エディト・マティス
(Edith Mathis, 1938年2月12日 - )は、スイスのソプラノ歌手。夫は指揮者のベルンハルト・クレー。国際的に有名になったのは1960年以後で、ザルツブルク音楽祭の他に世界各国で歌い、1963年にはベルリン・ドイツ・オペラとともに来日しケルビーノで絶賛を浴びた。この世代のドイツ圏のソプラノとしてはトップクラスの美貌、それもどちらかといえば愛嬌のあるルクスも大きな魅力で、初来日時の人気ぶりは今なお語り草になっている。

テレサ・ストラータス
Teresa Stratas, 1938年 - )は、カナダ出身のオペラ歌手(ソプラノ)。トロント生まれのギリシャ系。欧州各地の歌劇場やメトロポリタン歌劇場で活躍。多くのオペラ映画に主演した。60年代にやはり美貌で人気を集めたアンナ・モッフォと入れ替わるように70年代にピークを築く。イタリアオペラでは「道化師」、「トラヴィアータ」、「ボエーム」、英語オペラで「アマールと夜の訪問者」などの映像がある。喜劇ではコケティッシュな、悲劇では薄幸な雰囲気を漂わせ、人気を博した。

ルチア・ポップ
(Lucia Popp, 1939年11月12日 - 1993年11月16日)は、スロバキア出身でオーストリアを中心に活躍したオペラ歌手。声域はソプラノで、リート歌手としても録音・演奏に活躍した。当初は演劇を学びにブラティスラヴァ・アカデミーに通っていたがここでのレッスンを受けるうちに声楽を志すようになる。1963年にブラティスラヴァ歌劇場でオットー・クレンペラーの指揮による『魔笛』の夜の女王役でデビューを果たし、同年にウィーン国立歌劇場と契約した。

ジョゼ・ヴァン・ダム
(Jose van Dam, 1940年4月25日 - )、本名ジョゼフ・ヴァン・ダム[1](Joseph van Damme)はベルギーのバス・バリトン歌手。男爵。1940年、ベルギー・ブリュッセルに生まれる。17歳のときブリュッセル王立音楽院に入学、フレデリック・アンスパシュに学び、最優等で卒業する。オペラでのデビューは1961年、パリ・オペラ座でのロッシーニ『セビリアの理髪師』のドン・バジリオ役(異説あり)。1988年には映画監督ジェラール・コルビオの処女作『仮面の中のアリア』(Le Maitre de musique )に年老いたオペラ歌手の役で主演、その(オペラ歌手とは思えないほど自然な)演技も評判となった。


プラシド・ドミンゴ
(Placido Domingo,1941年1月21日 - )は、スペイン生まれのテノール歌手で、指揮者、歌劇場芸術監督としても活動している。スペインのマドリード生まれ。両親はサルスエラ歌手。1949年、サルスエラ劇団を経営する家族とともにメキシコに移住、両親の一座で子役として舞台に立っていた。1981年には、アメリカ合衆国のフォーク/ポップ歌手のジョン・デンバーとデュエットで歌った『パーハップス・ラヴ』を録音したことで、オペラ界以外からも広く知られる歌手となった。


ペーター・ホフマン
(Peter Hofmann, 1944年8月22日 - 2010年11月30日[1][2])は、ドイツのテノール歌手。チェコ(当時ナチス・ドイツの保護領)のマリエンバートに生まれる。1972年にリューベック市立歌劇場で『魔笛』のタミーノ役でデビュー。1980年代からは少年時代から好きであったロックのCDも出し、大いに人気を博したが、1980年代の終盤頃からしばしばその歌唱は不調に見舞われ、不安定なものとなることがあり、評論家たちは「ロックを歌って発声を崩した」と批判した。

ホセ・カレーラス
Jose Carreras、1946年12月5日 - )は、スペインのカタルーニャ州バルセロナ生まれの著名なテノール歌手で、ヴェルディやプッチーニなどのオペラの名唱で知られる。カレーラスはバルセロナに生まれ、幼い頃から音楽的才能を現した。8歳でスペイン国立放送に出演、『女心の歌』(ヴェルディ)を歌って初めての公開の演奏を行った。1988年、カレーラスは白血病の研究と骨髄提供者の登録の支援事業に財政的支援を行う慈善活動のため「ホセ・カレーラス国際白血病財団」を設立した。


カーティア・リッチャレッリ
(Katia Ricciarelli, 1946年1月16日 - )はイタリアのオペラ歌手・女優。ヴェネト地方ロヴィーゴ出身。実家は非常に貧しかったという。イタリア・オペラの上演だけでなく、オペラ映画の制作においても主演に抜擢され、フランコ・ゼッフィレッリ監督の《オテロ》においてデズデモーナ役により、主役のプラシド・ドミンゴと共演した。

ベルカント唱法の伝統を受け継ぐソプラノとして有名。ロッシーニやドニゼッティ、ヴェルディ、カタラーニ、プッチーニを得意とし、囁くようにしぼり出す弱音の艶美なことでは、他の追随を許さない。


ルネ・フレミング
(Renee Fleming, 1959年2月14日 - )は、アメリカ合衆国のソプラノ歌手。当代随一のソプラノと評される。彼女自身も少女時代から声楽を学ぶが、ジョニ・ミッチェルなどのポピュラー音楽やジャズにも親しんだ。ニューヨーク市立大学卒業後、ジャズ歌手となったが、後にクラシックに転じ、イーストマン音楽学校、ジュリアード音楽院に学ぶ。レパートリーはリートを含む歌曲からオペラ、現代音楽にジャズと幅広く、『フィガロの結婚』(伯爵夫人)、『ばらの騎士』(元帥夫人)、『アラベラ』(表題役)、『カプリッチョ』(伯爵夫人)など、モーツァルトとリヒャルト・シュトラウスのヒロイン役で特に評価が高い。

ディミトリー・ホロストフスキー
Dmitri Hvorostovsky, 1962年10月16日 - )は、ロシア、クラスノヤルスク市出身のバリトンオペラ歌手・声楽家である。クラスノヤルスク芸術学校に学び、クラスノヤルスク・オペラ・ハウスで『リゴレット』のモンテローネ伯爵の役でデビュー。

ホロストフスキーは世界の主要なオペラハウスで演じ、その中にはメトロポリタン歌劇場(1995年デビュー)、コヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウス、ベルリン国立歌劇場、スカラ座、ウィーン国立歌劇場が含まれる。当たり役は『エフゲニー・オネーギン』のオネーギン役で、ニューヨークタイムズ紙は「彼はこの役を演じるために生まれてきた」と評した。

ブリン・ターフェル
(Bryn Terfel CBE, 1965年9月9日 - )は、イギリスのバス・バリトン歌手。北ウェールズのパントグラスの農家に生まれ、ロンドンのギルドホール音楽演劇学校を卒業。1989年にBBCカーディフ国際声楽コンクールで入賞(優勝はディミトリー・ホロストフスキー)し、1990年にウェールズ・ナショナル・オペラにおいて「コジ・ファン・トゥッテ」のグリエルモ役でデビュー。

一方でポピュラー音楽など他分野にも意欲的であり、バリー・ワーズワース指揮ロンドン交響楽団と協演したアルバム「シンプル・ギフト」で2007年の第49回グラミー賞を獲得している。2000年からウェールズでファイノル・フェスティヴァル(Faenol Festival)を自ら主催している。

パトリシア・プティボン
(Patricia Petibon, 1970年2月27日 - )は、フランスのコロラトゥーラ・ソプラノ歌手。モンタルジの生まれ。パリ国立高等音楽・舞踊学校で学び、1995年に一等賞で卒業する。ウィリアム・クリスティ、ジョン・エリオット・ガーディナー、マルク・ミンコフスキ、ニコラウス・アーノンクールおよびウィーン・コンツェントゥス・ムジクス、ロバート・ウィルソンらと仕事をする。

カルメラ・レミージョ
(Carmela Remigio, 1973年 - )はイタリア・アブルッツォ州ペスカーラ県ペスカーラ出身のソプラノオペラ歌手である。 5歳でバイオリンを習いはじめ、その数年後よりバリトン歌手アルド・プロッティのもとで声楽を学び始める。1992年19歳でルチアーノ・パバロッティ国際コンクールで優勝。ルチアーノ・パバロッティとともにロイヤルアルバートホール、カーネギーホールをはじめ、パリ、ブカレストなど70箇所以上のコンサートに出演する。

マルクス・ヴェルバ
Markus・Werba 1973年11月14日−)はオーストリア・ケルンテン州ヘルマゴール郡出身のバリトンオペラ歌手である16歳より声楽を学ぶ。クラーゲンフルト音楽院、ウィーン国立音楽大学卒業(ラルフ・デーリング、ロベルト・ホルおよびヴァルター・ベリーに師事)1998年から2年間ウィーン・フォルクスオーパーに在籍し『魔笛』『ドン・ジョヴァンニ』『愛の妙薬』『ドン・パスクヮーレ』『チェネレントラ』『こうもり』『メリー・ウィドウ』などに出演した。

ガリーナ・ヴィシネフスカヤ
Galina Vishnevskaya、1926年10月25日 - 2012年12月11日)は、ソビエト連邦出身のソプラノ歌手である。夫はチェロ奏者・指揮者のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ。ベンジャミン・ブリテン作曲の「戦争レクイエム」、そしてブリテンとも交流のあったドミトリー・ショスタコーヴィチの『交響曲第14番』の初演時に計画されていたソリストとして知られる。

その類まれなソプラノの歌声を生かし、1952年にボリショイ劇場に入り、首席ソリストとして活躍。ソ連人民芸術家の称号を得た。しかし反体制運動を行なっていた作家のアレクサンドル・ソルジェニーツィンを夫とともに支援したため政府当局より弾圧を受け、1974年以降は夫婦ともどもアメリカ合衆国で亡命生活を余儀なくされた。


ジョン・ヴィッカーズ
(Jon Vickers, 1926年10月29日-)は、カナダのテノール歌手である。1926年にカナダのサスカチュワン州プリンス・アルバートに生まれる。幼少時には聖歌隊で歌い、その後商店などで働きながら声楽をメリー・モリソンに学び、1950年に奨学金を得て、トロント・ロイヤル音楽院に進学し、ジョージ・ランバートに師事。その翌年の1951年からトロントを中心に演奏活動を行った。1958年にはバイロイト音楽祭にも出演し、『ワルキューレ』のジークムントを歌った。また同年にはダラスで、ソプラノ歌手マリア・カラスとルイジ・ケルビーニの『メデア』を歌っている。

ジョーン・サザーランド
(Joan Sutherland, 1926年11月7日 - 2010年10月10日 )は、オーストラリア・シドニー郊外出身のソプラノ歌手。シドニー音楽院に学び、1947年にコンサート形式による『ディドとエネアス』で歌手デビュー。1950年に奨学金を得てロンドン・王立音楽大学でクリーブ・カレイに師事し、1952年に『魔笛』の第一の侍女役でロイヤル・オペラ・ハウスでのデビューを飾る。最初に彼女が世間の注目を受けたのは1959年である。彼女はコヴェント・ガーデンでドニゼッティのオペラ『ランメルモールのルチア』のタイトル・ロールを歌い(指揮はトゥリオ・セラフィン)、驚異的な大成功を収めたのである。

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アルフレード・クラウス
(Alfredo Kraus, 1927年11月24日 - 1999年9月10日)は、スペインのテノール歌手。20世紀後半のもっとも偉大なリリコ・テノール歌手とされている。大西洋上に位置するカナリア諸島、ラス・パルマス・デ・グラン・カナリアに3人兄弟の末っ子として生まれる。カナリア諸島はヨーロッパ大陸の歌手が南米大陸にツアーに赴く際しばしば寄航する土地であり、地元の歌劇場もそこそこの上演水準を維持していたらしい。1945年からは電気技師となるべく工業学校に通学するが、その一方で地元合唱団などで歌った。


ビヴァリー・シルズ
Beverly Sills, 1929年5月25日 - 2007年7月2日)は、アメリカ合衆国の最も有名なオペラの歌手の一人。1960年代から1970年代にかけて、コロラトゥーラ・ソプラノとして活躍した。1980年に引退してからは、ニューヨーク・シティ歌劇場のゼネラル・マネージャーに就任した。ニューヨーク州ブルックリン近隣に住む労働者階級の、ロシア語やルーマニア語を話す家庭に育った。3歳のときに赤ちゃんコンテストに出場し、歌を歌って受賞。娘の音楽的才能を確信した母親により、ダンスや声楽、舞台発声法の稽古に通わせられた。1980年に引退後は、1991年までニューヨーク・シティ歌劇場のゼネラル・マネージャーを勤め、当時経済的に苦境にあった同劇場が、企業として独立できるように尽力した。

ダニエーレ・バリオーニ
(Daniele Barioni, 1930年9月6日 - 、生年には1933年説もあり)は、1950年代から1960年代にかけて活躍したイタリアのテノール歌手である。活躍の時期は短かったが、その強烈なスピントの声質でオペラ・ファンに強い印象を残した。フェラーラ近郊コッパーロの農家に生まれ、ミラノで声楽の研鑽を積む。はじめバリトンの声域からスタートしたともいう。1954年、ミラノ・ヌォーヴォ劇場のマスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』トゥリッドゥ役で本格的な舞台デビューを飾り、すぐにイタリア各劇場で活躍するようになった。

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ユーリー・グリャーエフ
Yury Aleksandrovich Gulyayev, 1930年9月9日 - 1986年6月24日)は、ソビエト連邦のバリトン歌手、作曲家。クラシックと軽音楽の両分野で活躍した。ソ連人民芸術家(1968年授与)。1954年にスヴェルドロフスクにあるウラル音楽院を卒業する。スヴェルドロフスクの歌劇場に所属した後、ウクライナに赴き、1956年からドネツクのオペラ・バレエ劇場、1960年からキエフのタラス・シェフチェンコ記念ウクライナ国立オペラ劇場でソリストとして活躍した。

エリー・アーメリング
(Elly Ameling, 1933年2月8日 ロッテルダム - )はオランダのリリック・ソプラノ。可憐そのものというよりほかない、ヴィブラートの少ない透明な声質により、幅広い聴衆を獲得した。レパートリーは幅広く、モーツァルトやシューベルトのようなドイツ・リートだけでなく、フランスのメロディや、ガーシュウィンやバーバーの英語歌曲のほか、山田耕筰や中田喜直などの日本語歌曲までを原語で歌った。

レナータ・スコット
(Renata Scotto, 1934年2月24日 - )は、イタリアのソプラノ歌手。ベルカント唱法の正統な伝統を受け継ぐオペラ歌手として、歌唱力に加えて美貌と演劇力によっても幅広く称賛された。2002年をもって舞台から引退したが、現在は舞台監督に加えて、イタリアやニューヨークに設立したオペラ学校で教鞭を執っている。

スコットはレパートリーが幅広く、およそ45の役柄を演ずることが出来た。蝶々さん役のほかに、《椿姫》のヴィオレッタ、《愛の妙薬》のアディーナ、《ラ・ボエーム》のミミ(時にムゼッタ役のときも)、プッチーニ《三部作》のすべてのヒロイン、リッカルド・ザンドナーイ《フランチェスカ・ダ・リミニ》のフランチェスカなど。

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ミレッラ・フレーニ
(Mirella Freni, 1935年2月27日 - )は、イタリアのオペラ歌手(ソプラノ)で、若々しい声質と優れた演技力で評価が高い。フレーニはイタリアのモデナで労働者階級の家庭に生まれた。彼女の母親はルチアーノ・パヴァロッティの母親と同じタバコ工場で働いており、同じ乳母の乳で育ったという。彼女は音楽的才能に恵まれ、10歳でラジオ局の主催したコンクールで『ある晴れた日に』(プッチーニの『蝶々夫人』)を歌い優勝した。


ルチアーノ・パヴァロッティ
(Luciano Pavarotti、1935年10月12日 - 2007年9月6日)は、イタリアのオペラ歌手。イタリアのモデナ生まれ。父親はパン焼職人の傍ら、才能あるアマチュア・テノール歌手でもあった。同郷で同い歳の名ソプラノ歌手、ミレッラ・フレーニとは幼なじみの上、同じ乳母によって育てられた。2006年のトリノオリンピックの開会式では『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」を歌い、オリンピック開会式の掉尾に花を添えたが、これがパヴァロッティにとって人生最後のステージとなった。

ギネス・ジョーンズ
(Dame Gwyneth Jones DBE, 1936年11月7日 - )は、イギリスのソプラノ歌手。オペラと歌曲における優れた歌唱で知られる。彼女のレパートリーは幅広いが、特にワーグナー作品においての評価が高い。

バイロイト音楽祭にも出演し、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のエヴァ、『さまよえるオランダ人』のゼンタ、『パルジファル』のクンドリー、『ワルキューレ』のジークリンデなどを歌ったほか、パトリス・シェロー演出の『ニーベルングの指環』にてブリュンヒルデを歌っている。

ヒルデガルト・ベーレンス
(Hildegard Behrens, 1937年2月9日 - 2009年8月18日)は、ドイツのソプラノ歌手。オルデンブルクの医師の家庭に生れる。当初はフライブルク大学にて法学を学び、税理士の国家資格を有するとも言われる。その後、フライブルク音楽大学に学び、1971年卒業。同年デュッセルドルフのライン歌劇場と契約し、幅広いレパートリーを持つようになる。ヘルベルト・フォン・カラヤンによって見出され、1977年ザルツブルク音楽祭の「サロメ」で国際的にセンセーショナルなデビューを飾ることで、メジャーへの糸口をつかんだ。

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イヴォンヌ・ミントン
(Yvonne Minton, 1938年12月4日 - )は、オーストラリア出身の声楽家。ニュー・サウス・ウェールズ州シドニー出身。ワーグナーやリヒャルト・シュトラウス、ベルクの楽劇での活躍や、マーラー歌手としての活躍により有名である。ソプラノからアルトまで幅広い音域を柔軟にこなし、近現代の音楽への造詣の深さから、ピエール・ブーレーズやダニエル・バレンボイムなどと共演してシェーンベルク作品などの録音を残した。

イレアナ・コトルバシュ
(Ileana Cotrubas、1939年6月9日 - )は、ルーマニアの名ソプラノ歌手である。1960年代から1980年代に活躍し、舞台での演技力と多数の言語でオペラを歌いこなす才能が賞賛された。コトルバシュが国際的に大きな注目を浴びるきっかけになったのは1975年1月7日のミラノ・スカラ座においてミレッラ・フレーニの代役としてミミを歌ったときである。彼女はイギリスのケントにある自宅で急遽出演要請を受けると、直ちにミラノまで空路駆けつけ、幕が開く15分前にぎりぎり到着した。公演は成功で、彼女の歌唱は批評家からも聴衆からも絶賛されたのである。

ジークフリート・イェルザレム
(Siegfried Jerusalem, 1940年4月17日 - )は、ドイツ出身のテノール(ヘルデンテノール)歌手。ドイツオペラ、主にワーグナーを中心に歌う。元はシュトゥットガルト放送交響楽団のファゴット奏者だったという、歌手としては変わり種である(先例としてウィーン交響楽団のファゴット奏者からテノール歌手に転じたウェルナー・クレンが存在するが、イェルザレムのように中年以降の転進は珍しい)。プロとしてオーケストラで演奏するかたわら、音楽大学で声楽を学んだ。

アンナ・トモワ=シントウ
(Anna Tomowa-Sintow,,1941年9月22日 - )は、ブルガリア出身のソプラノ歌手である。ブルガリアのスタラ・ザゴラで生まれる。6歳の頃からピアノを始め、ソフィアの国立音楽学校で声楽とピアノを学ぶ。1957年、16歳の時に全国声楽コンクールで優勝。1965年にスタラ・ザゴラ劇場でチャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のタチアーナを歌ってデビューを果たす。ジェームズ・レヴァインとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共演したリヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』はベスト・オペラとして1988年にグラミー賞を受賞している。

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マーガレット・プライス
(Margaret Price, 1941年4月13日 - 2011年1月28日[1])は、イギリス・ウェールズ出身のソプラノ歌手。1941年、ウェールズのカーディフにほど近いブラックウッドで生まれた。幼い頃の夢は、自然科学者であった父にならい科学者になる事だったという。

少女時代に合唱団に入った事からやがて本格的に歌の道を志すようになった。しかし進学では、父の反対から音楽大学を受験する事はなく、ロンドンのトリニティ・カレッジに進み音楽教育学を専攻するが、大学でも歌の勉強も欠かさなかった。


キリ・テ・カナワ
(Dame Kiri Janette Te Kanawa, ONZ, AC, DBE, 1944年3月6日 - )は、ニュージーランド出身のオペラ歌手、声楽家。ギズボーン生まれ。誕生名はクレア・メアリー・テリサ・ローストロン(Claire Mary Teresa Rawstron)で、ヨーロッパ人とマオリ族の血を引いているが、生みの親は不明である。

1968年の『魔笛』(サドラーズウェルズ劇場)でデビュー。1969年のカムデン音楽祭でロッシーニの『湖上の美人』を歌い劇場デビューする。2004年にサミュエル・バーバーの歌劇『ヴァネッサ』を最後にオペラ歌手を引退する。オペラ歌手引退後も引き続きイギリスを中心に、リサイタル、コンサートへ出演をしている。


エディタ・グルベローヴァ
(Edita Gruberova, エディタ・グルベロヴァー, 1946年12月23日 - )は、ソプラノ歌手。チェコスロバキア(現在はスロバキア)のブラティスラヴァに生まれる。圧倒的な美声と驚異的な技巧を兼備したコロラトゥーラ・ソプラノ。 同郷からオーストリアに移った先輩であるルチア・ポップがおおむねドイツオペラを中心に活躍したのに対しイタリアオペラ等にも積極的で、特にベルカントでは当代を代表する歌い手の一人である。

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キャサリン・ボット
(Catherine Bott, 1952年9月11日 - )は、イギリスのソプラノ歌手である。古楽、とりわけ中世とバロックの音楽を専門としており、録音活動のかたわら、世界的な演奏活動に取り組んでいる。フィリップ・ピケットの指揮するニュー・ロンドン・コンサートと関係が深い。

サイモン・キーンリーサイド
(Simon Keenlyside, 1959年8月3日 - )は、イギリスのバリトン歌手である。父レイモンドはエオリアン・クヮルテットの第2ヴァイオリン奏者で、祖父もまたプロフェッショナルのヴァイオリン奏者であった。「ほかの子供にとっては童謡であったところが、私の場合はハイドンやモーツァルト、シューベルトを子守歌にして寝ていた。」とキーンリーサイドは述べている。

サラ・ブライトマン
(Sarah Brightman, 1960年8月14日 - )は、イギリスのソプラノ歌手、女優である。1980年代にミュージカル女優として輝かしい成功を収め、1990年代以降はソロ歌手として活動している。クラシックとポップスを融合した独自の音楽スタイルはクラシカル・クロスオーバーの世界的な隆盛をもたらしている。アメリカにおけるビルボード・チャートのクラシック音楽部門とダンス音楽部門で同時に1位を獲得した唯一の歌手である。彼女の声域は3オクターヴに及び、彼女自身によると最高音はF6にまで達するという。

フランツ・ハヴラタ
(Franz Hawlata, 1963年12月26日 - )は、ドイツのバス・バリトン歌手。1994年よりウィーン国立歌劇場と契約し、これまでに200公演以上に出演している。また、メトロポリタン歌劇場、パリ・オペラ座、英国ロイヤル・オペラ、ベルリン・ドイツ・オペラ、バイロイト音楽祭、ザルツブルク音楽祭などに出演している。2011年4月、東日本大震災の影響により指揮者(クリスティアン・アルミンク)や多くの歌手が新国立劇場の『ばらの騎士』をキャンセルする中、予定通り来日し、オックス男爵を歌い、絶賛を博す。

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アレッド・ジョーンズ
(Aled Jones, 1970年12月29日 - )は、ウェールズ北部の都市バンゴール出身の歌手。現在はテレビ・タレントとして活躍しているが、1980年代に、地元の聖歌隊に入り、間もなく世界屈指の美声と非凡な歌唱力によって、ソロのボーイソプラノとして発掘された。英語圏を中心に、国際的にレコード売り上げ記録をはじき出した。変声期を終えた後は、フィッシャー=ディースカウなどに師事して声楽家を目指すが挫折。ミュージカル歌手への転向をはかるなどの苦節の末に芸能界入りし、現在はテレビリポーターとして活動するかたわら、歌手として再起を図っている。

アンナ・ネトレプコ
Anna Yur’yevna Netrebko, 1971年9月18日 - )は、ロシア出身のソプラノ歌手である。卓抜した実力のみならずその美貌によっても名高い、現代を代表するオペラ歌手の一人である。1986年にチェルノブイリ原発事故を経験しており、開演の3ヶ月前に発生した福島第一原子力発電所事故に端を発する懸念を払拭できないため降板。

 

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チェンバロ12チェロ
バイオリン
バイオリン
<声楽家2>


 

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