■チマブーエ
(Cimabue, 1240年 - 1302年)はイタリア、ゴシック期の画家である。ゴシック期のフィレンツェで活躍した画家。ジョットは彼の弟子と考えられている。西洋絵画が中世から近代へと歩み始める最初期に位置する画家として、美術史上に重要である。
■ジョット・ディ・ボンドーネ
Giotto di Bondone、1267年頃-1337年1月8日)は中世後期のイタリア人画家、建築家。フィレンツェ近郊の出身といわれており、その絵画様式は後期ゴシックに分類され、イタリア・ルネサンスへの先鞭を付けた偉大な芸術家と見なされている。
■ロレンツォ・ギベルティ
(Lorenzo Ghiberti、1381年頃 - 1455年12月1日)は初期ルネサンスの彫刻家、金細工師。鋳造技術においては並ぶ者のない腕前を示し、その技量は今日においても賞賛されている。フィレンツェの金細工師バルトロ・ディ・ミケーレの子として生まれる。幼い頃より細工師としての修行を積むが、フィレンツェの政情不安と伝染病の蔓延により、一時ペーザロに赴く。
■ヤン・ファン・エイク
Jan van Eyck、1395年頃 - 1441年)は、初期フランドル派のフランドル人画家。主にブルッヘで活動し、15世紀の北ヨーロッパ[1]で、もっとも重要な画家の一人と見なされている。ヤン・ファン・エイクは宮廷画家としてだけではなく、市井からの個人的な絵画制作依頼も受けていた。それらの絵画の中でもっとも重要な作品が、富裕な商人ヨドクス・フィエトとその夫人エリザベト・ボルルートの依頼で描いた『ヘントの祭壇画』である。
■フィリッポ・リッピ
(Fra Filippo Lippi, 1406年 - 1469年10月8日)はイタリア、ルネサンス中期の画家。ボッティチェリの師でもあった。フィリッポ・リッピは1406年、フィレンツェの下町の肉屋に生まれた。生年については確かな記録がない。幼くして孤児になったリッピはカルミネ派修道院で育てられ、修道士となった。
■ハンス・メムリンク
(Hans Memling, 1430年/1440年頃 - 1494年)は、15世紀フランドルの画家。15世紀後半にブルッヘで活躍した画家。ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンに続く世代の北方絵画を代表する画家である。宗教的な主題を、華麗な色彩と、北方絵画特有の細部までゆるがせにしない徹底した写実表現をもって描いた。
■サンドロ・ボッティチェッリ
Sandro Botticelli, 1445年3月1日? - 1510年5月17日)は、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェ生まれの画家。初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家。フィリッポ・リッピの元で学び、メディチ家の保護を受け、宗教画、神話画などの傑作を残した。
■ヒエロニムス・ボス
Hieronymus Bosch1450年頃- 1516年8月9日)は、ルネサンス期のネーデルラント(フランドル)の画家。現在のオランダのベルギー国境近くにあるス・ヘルトーヘンボスの画家一家に生まれた。ヨーロッパ各地からの求めによって多数の作品が制作されたが、ほとんどが16世紀の宗教改革運動での偶像破壊のあおりを受けて滅失した。現在、30点ほどの作品が残されている。
■レオナルド・ダ・ヴィンチ
(Leonardo da Vinci, 1452年4月15日 - 1519年5月2日 ユリウス暦)は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家で、万能人 (uomo universale, ウォモ・ウニヴェルサーレ) などと呼ばれている。幼少期のレオナルドは、原因は不明だが正当な教育を受けず、自然とともに暮らしていた。当時から左手で鏡文字を書いたと言われるが、これは彼が読み書きの教育を受けなかったためともされる。
■アルブレヒト・デューラー
(Albrecht Durer, 1471年5月21日 - 1528年4月6日)は、ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者。2,3年学校に通った後、デューラーは父親から金細工と描写の基礎を学び始めた。見習い期間を終了すると、デューラーは一般的なドイツの習慣であった、ギャップ・イヤー中に見習い人が他の地域で芸術家から技術を学ぶ遍歴の旅に出た。
■ジョルジョーネ
1477年/1478年頃 - 1510年)は、盛期ルネサンスのヴェネツィアで活動したイタリア人画家。その人物像と作品の記録がほとんど残っておらず、ジョルジョーネは西洋絵画の歴史のなかでももっとも謎に満ちた画家の一人となっている。ヴァザーリの著述によると、1500年にレオナルド・ダ・ヴィンチがヴェネツィアを訪れ、レオナルドの作品に大きな影響を受けていたジョルジョーネと出会ったとしている。
■ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
Tiziano Vecellio、1488年/1490年頃- 1576年8月27日)は、盛期ルネサンスのイタリア人画家。ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人である。ティツィアーノは同時代の人々からダンテ・アリギエーリの著作『神曲』からの引用である『星々を従える太陽』と呼ばれていた。
■ジョルジョ・ヴァザーリ
(Giorgio Vasari, 1511年7月30日 - 1574年6月27日)は、イタリアのマニエリスム期の画家、建築家。芸術家の列伝でも知られる。ミケランジェロを中心にルネサンス期の芸術家の評伝を書き、これは美術史の基本資料になっている。『画家・彫刻家・建築家列伝』は1550年に出版され、チマブーエからミケランジェロまで芸術家133人の作品と生涯を記している(1568年の第二版では30人を追加)。
■エル・グレコ
(El Greco、1541年 - 1614年4月7日)は、現在のギリシア領クレタ島、イラクリオン出身の画家。エル・グレコは 1541年に当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島の首都であり港市であるカンディア(現イラクリオン)で生まれた。その地で後期ビザンティン美術の伝統を継ぐ画家となり、同時に独学で部分的にイタリアルネサンス美術の手法を取り入れたと考えられる。
■ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ
Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年9月28日 - 1610年7月18日)は、バロック期のイタリア人画家。1593年から1610年にかけて、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動し、カラヴァッジョ(Caravaggio)という通称で広く知られている。カラヴァッジョは1594年にジュゼッペ・チェーザリの工房から解雇され、独立した画家として生計を立てることを決意した。このころがカラヴァッジョの生涯でもっとも底辺にあった時期だが、画家プロスペロ・オルシ、建築家オノーリオ・ロンギ、当時まだ16歳だったシチリア出身の芸術家マリオ・ ミンニーティら、カラヴァッジョにとって非常に重要な存在となる人々と友人になっている。
■フランス・ハルス
(Frans Hals, 1581年/1585年頃 - 1666年8月26日)は、17世紀のオランダで活躍した画家。ハルスは、オランダ絵画の黄金時代を代表する画家の1人で、レンブラントよりはやや年長ながら、ほぼ同時代に活躍している。オランダのハールレムで活躍し、作品にはハールレムの住人を描いた肖像画が多い。時に彼の作品は、グレーやピンクの下塗りの上にチョークや絵具でデッサンされ、そこからさらに多彩な、あるいは必要最小限の色を徐々に加えて描かれた。
■ホセ・デ・リベーラ
(Jose de Ribera, 1591年1月12日 - 1652年)は、バロック期のスペインの画家。リベーラはスペインの画家ではあるが、若くしてイタリアに渡り、生涯の大半をナポリで過ごして、ついに母国に帰ることはなかった。作品の大部分は宗教画で、聖人、殉教者像を得意としている。明暗の対比を強調した画面構成、老いた聖人の衰えた肉体やたるんだ皮膚をも美化せずに容赦なく描写する写実表現にはカラヴァッジョの影響がうかがえる。
■ニコラ・プッサン
(Nicolas Poussin, 1594年6月15日 - 1665年11月19日)は、バロック時代のフランスの画家。17世紀のフランスを代表する画家であるが、画家としての生涯の大半をローマで過ごした。1594年、フランス・ノルマンディー地方のレ=ザンドリに近いヴィレという村で生まれた。
ルーヴル美術館にある『アルカディアの牧人たち』(1638-1640頃作)は、楽園アルカディアで、墓石の周囲にたたずむ4人の人物(羊飼い)を表している。この絵は20世紀末から21世紀初頭にかけて流行したミステリー『ダ・ヴィンチ・コード』のモチーフとなったレンヌ・ル・シャトーを巡る謎にも、アイテムの一つとして登場している。
■フランシスコ・デ・スルバラン
(Francisco de Zurbaran, 1598年11月7日 - 1664年8月27日)は、バロック期のスペインの画家。スペイン絵画の黄金時代と言われる17世紀前半に活動した画家であり、宗教画、静物画に優れた。キリスト教を題材にした作品には深い宗教的感情が表現されている。また、静物画はごく少数が現存するのみであるが、迫真の描写力を発揮し、独自の世界をつくっている。
■アンソニー・ヴァン・ダイク
Anthony van Dyck、1599年3月22日 - 1641年12月9日)は、バロック期のフランドル出身の画家。ヴァン・ダイクは、1599年にアントウェルペンの裕福な家庭に生まれた。幼少のころから優れた芸術の才能を見せ、1609年までにアントウェルペンの画家ヘンドリック・ファン・バーレンのもとで絵画を学び始めている。
■レンブラント・ファン・レイン
(Rembrandt Harmensz. van Rijn、1606年7月15日 - 1669年10月4日)は、17世紀を代表する、オランダの画家。製粉業を営む中流階級の父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン、都市貴族でパン屋を生業とする一家の娘である母ネールチェン(コルネリア)・ヴィレムスドホテル・ファン・ザウトブルーグの間に生まれた。
■ヤーコプ・ファン・ロイスダール
Jacob Izaaksz van Ruisdael, 1628年頃 - 1682年3月14日)は、17世紀のオランダの画家。レンブラントやフェルメールが活躍した17世紀は、オランダ絵画の黄金時代と言われ、他にも多くの優れた画家が輩出した。こうしたオランダ絵画の黄金時代において、もっとも重要な風景画家と見なされるのがヤーコプ・ファン・ロイスダールである。
■ヨハネス・フェルメール
(Johannes Vermeer、1632年10月31日? - 1675年12月15日?)は、17世紀にオランダで活躍した画家。父親の死後、1655年に実家の家業を継いで、居酒屋・宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。こういった収入やパトロン、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。
■トマス・ゲインズバラ
(Thomas Gainsborough, 1727年5月14日 - 1788年8月2日) は、18世紀のイギリスの画家。故郷サフォークの風景や自然をこよなく愛した彼が真に描きたかったのは風景であり、「肖像画は金のために、風景画は楽しみのために描く」と言っていたと伝えられる。
■ジャン・オノレ・フラゴナール
(Jean Honore Fragonard、1732年4月5日 - 1806年8月22日)は、ロココ期のフランスの画家。1732年、コート・ダジュール(南フランス)のカンヌに近いグラースで、皮手袋製造業を営むイタリア系の家庭に生まれた。1738年、家族とともにパリに出て、シャルダンとブーシェという、作風の全く違う2人の巨匠に短期間ではあったが師事した。
■ジャック=ルイ・ダヴィッド
(Jacques-Louis David, 1748年8月30日 - 1825年12月29日)は、フランスの新古典主義の画家。1748年、パリに商人の子として生まれた。9歳の時、父親は決闘で亡くなっている。ロココ絵画の大家であるフランソワ・ブーシェはダヴィッドの親戚(母の従兄弟)であった。
■ウィリアム・ブレイク
(William Blake, 1757年11月28日 - 1827年8月12日)は、イギリスの画家、詩人、銅版画職人。1787年頃、新しいレリーフ・エッチングの手法を発明。その手法を用いた彩飾印刷(Illuminated Printing)によって、言語テクストと視覚テクストを同列に表現することが可能となっただけでなく、出版者から独立し、自分の印刷機で自分の本を印刷することも可能となった。
■ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
(Joseph Mallord William Turner、1775年4月23日 - 1851年12月19日)は18世紀末から19世紀のイギリスのロマン主義の画家である。1775年、ロンドンのコヴェント・ガーデンに理髪師の子として生まれる。母親は精神疾患をもち、息子の世話を十分にすることができなかった。ターナーは学校教育もほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごしたようである。13歳の時、風景画家トーマス・マートンに弟子入りし絵画の基礎を学んだ。
■フィリップ・オットー・ルンゲ
(Philipp Otto Runge, 1777年7月23日 - 1810年12月2日)は、ドイツのロマン主義を代表する画家の1人。親の仕事を継いで当初商人になったが、画家になりたいとの希望を捨てきれず、コペンハーゲンのアカデミー(1799年-1801年)で学び、その後ドレスデン(1801年-1804年)に移りそこでさらに研鑽を積んだ。彼は色の球体によって、芸術論にも貢献を果たしている。それについて彼は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテとも手紙のやり取りを残している。彼が、初めての三次元の色彩の体系を作り出したのである。
■テオドール・ジェリコー
(Theodore Gericault, 1791年9月26日-1824年1月26日)は19世紀前半に活動したフランスの画家。同時代に起きた生々しい事件を題材とした『メデューズ号の筏(いかだ)』が代表作である。後輩画家のドラクロワはこの作品で漂流者の1人(筏の帆の真下でうつぶせになっている男)のモデルを務めており、ドラクロワ自身によるこの部分の模写が残されている。 |
■ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ
(Duccio di Buoninsegna, 1255/1260年頃 - 1319年頃)は、ゴシック期のイタリアの画家。13世紀末〜14世紀初頭にシエナで活動した。その様式はビザンティン絵画を基盤としながらも、人間描写や空間把握は現実感を増している。
■シモーネ・マルティーニ
(Simone Martini, 1284年頃 - 1344年)はイタリア、ゴシック期の画家。国際ゴシックの先駆けを作ったといわれる。イタリア中部のシエナ出身。ゴシック期のシエナ派の代表的な画家であり、イタリアのゴシック絵画のもっとも典型的な様式を示す作品を残した。
■ドナテッロ
Donatello、 1386年頃 - 1466年12月13日)は、ルネサンス初期のイタリア人芸術家、彫刻家。ドナテッロは立像や浅彫のレリーフを制作した彫刻家として有名だが、透視図法を使用した錯視的表現の発展にも寄与した、15世紀でも最重要な芸術家のひとりである。
■ピサネロ
(Pisanello, 1395年頃 - 1455年頃)は、15世紀に活動したイタリアの画家。国際ゴシック様式を代表する画家の一人であり、記念メダルの作家としても知られる。彼の作品はかつてその多くが他の画家の作と考えられていた(ピエロ・デラ・フランチェスカ、アルブレヒト・デューラー、レオナルド・ダ・ヴィンチなど)。
■マサッチオ
Masaccio, 1401年12月21日 - 1428年)は、ルネサンス初期のイタリア人画家。作品に最初に透視図法を使用した最初の画家の一人であり、絵画に消失点などの概念を導入した最初の画家だった。それまでの芸術で主流だった国際ゴシック様式のイタリア人画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノたちが描いていた複雑で装飾的な表現ではなく、遠近法やキアロスクーロなどを用いることによってより自然で写実的な絵画を描いた。
■カルロ・クリヴェッリ
(Carlo Crivelli, 1430年頃? - 1495年)は、イタリアのルネサンス初期の画家。古典主義的だが気品のあるフォルムは精緻を極め、聖人画ではあるが高貴なエロティシズムが画面に満ちている。現在では、運よく残された僅かな作品が一部の礼拝堂に存在するのみである。
■アントネロ・ダ・メッシーナ
(Antonello da Messina, 1430年頃 - 1479年)は、15世紀ルネサンス期に活動したイタリアの画家。ティツィアーノ、ヴェロネーゼらの巨匠を生んだヴェネツィア派の初期の重要な画家であり、フランドル風の細密描写をイタリア絵画に導入した。
■ドメニコ・ギルランダイオ
(Domenico Ghirlandaio, 1449年 - 1494年1月11日)は、ルネサンス期のイタリアの画家。彫金家であった父は、息子も彫金家になることを希望したが、ギルランダイオは絵画の道に進んだ。修業時代のことはよくわかっておらず、絵画の師も不明である。ギルランダイオは、若き日のミケランジェロが最初に師事した画家としても知られている。
■ヴィットーレ・カルパッチョ
(Vittore Carpaccio, 1455年頃 - 1525年頃)はイタリア、ヴェネツィア派の画家で、同じくヴェネツィア派のジェンティーレ・ベッリーニに師事した。風景描写に優れる。カルパッチョはとりわけ、「聖ウルスラ物語」として知られる、9枚の絵画よりなる連作で著名である。
■ピエロ・ディ・コジモ
(Piero di Cosimo, 1462年頃 - 1521年)は、イタリア・ルネサンス期のフィレンツェで活動した画家。宗教画のほか、古代の神話などに想を得た幻想的な作品を多数残しており、イタリア盛期ルネサンスにおける異色の画家である。
■ミケランジェロ・ブオナローティ
Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。ジョルジョ・ヴァザーリは著書でミケランジェロの言葉として「私が幸運だったのは、アレッツォの繊細な環境に生まれたことだ。乳母の乳を飲みながら鑿と金槌の使い方と人物彫刻のコツをつかむことができた」と記載している。
■ラファエロ・サンティ
Raffaello Santi、 1483年4月6日 - 1520年4月6日)は、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家。ラファエロの母マージアは、ラファエロが8歳の1491年に死去し、その後再婚していた父ジョヴァンニも1494年8月1日に死去している。11歳で孤児となったラファエロの後見人となったのは唯一の父方の伯父で、聖職者のバルトロメオだった。
■アンドレア・デル・サルト
(Andrea del Sarto, 1486年7月16日 - 1531年1月21日)は、ルネサンス期のイタリアの画家。ミケランジェロやラファエロらがローマで華々しく活躍していたのと同じ頃、フィレンツェの美術の伝統を守っていた画家である。
■ハンス・ホルバイン
(Hans Holbein der Jungere, 1497年/98年 - 1543年)は、ルネサンス期のドイツの画家。南ドイツのアウクスブルクに生まれ、後に英国で活動した。国際的に活躍した肖像画家として著名であるとともに、木版画シリーズ『死の舞踏』の作者として、版画史上も重要な作家である。
■ピーテル・ブリューゲル
(Pieter Bruegel de Oude, 1525/30年 - 1569年9月9日)は、16世紀のブラバント公国 (現在のベルギー)の画家。画家自身、人文主義者とも交流のある教養人であり、この時代の絵画題材は農民を「無学で愚かな者」の象徴として描写されたものが多かったため、以前はブリューゲルの絵画もその例にならっただけであるとの説を採り、絵の中にキリスト教的な寓意を読み取ろうとする見方が多かった。
■アンニーバレ・カラッチ
(Annibale Carracci, 1560年11月3日 - 1609年7月15日)はバロック期のイタリアの画家。イタリア美術における初期バロック様式を確立した画家の一人であり、イタリア北部のボローニャを中心に活動したボローニャ派の代表的画家である。1585年頃、カラッチ一族はボローニャにアカデミア・デリ・インカミナーティという画学校を設立した。この画学校では、人体素描や古典彫刻の模写などの基礎技術の習得を重視し、グイド・レーニ、ドメニキーノ、グエルチーノなどの著名画家を輩出した。
■ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
(Georges de La Tour,1593年3月19日 - 1652年1月30日)は、現フランス領のロレーヌ地方で17世紀前半に活動した画家である。ラ・トゥールは1593年、当時まだフランスの一部ではなかったロレーヌ(ロートリンゲン)公国の小さな町ヴィック=シュル=セーユに生まれた。家業はパン屋だったという。人物を照らす光はろうそく、たいまつなどの単一の光源から差し、「明」と「暗」の劇的な対照が見られる。
■ピーテル・パウル・ルーベンス
Peter Paul Rubens、1577年6月28日 - 1640年5月30日)は、バロック期のフランドルの画家、外交官。祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残した。ルーベンスはアントウェルペンで人文主義教育を受け、ラテン語と古典文学を学んだ。1590年、生活に困窮していたマリアは、13歳のルーベンスをフィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュの下へ小姓に出した。
■パオロ・ヴェロネーゼ
Paolo Veronese、1528年 - 1588年4月19日)は、ルネサンス期のヴェネツィアで活動したイタリア人画家。『カナの婚礼』、『レヴィ家の饗宴』などの作品で知られる。ヴェロネーゼのもっとも有名な作品は劇的で色彩に満ちたマニエリスム様式で描かれた精緻かつ物語性豊かな連作絵画群で、壮重な建築物と壮麗な画面構成が特徴である。
■ピエトロ・ダ・コルトーナ
Pietro da Cortona,1596年11月1日-1669年5月16日)、本名ピエトロ・ベレッティーニ(Pietro Berrettini, またはPietro Berettini)は、盛期バロックのイタリアの画家、建築家である。代表作であるローマのバルベリーニ宮殿の巨大な天井画は、建築装飾、絵画、現実空間の区別がつかないようなイリュージョン(錯視)効果をもち、後世の美術家に多大な影響を与えた。
■ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
(Gian Lorenzo Bernini,1598年12月7日-1680年11月28日)は、バロックの時期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家。「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたバロック芸術の巨匠である。古代遺跡が残る古き都ローマは彼の手によって、壮大なスケール、絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌していった。
■ディエゴ・ベラスケス
(Diego Rodriguez de Silva y Velazquez, 1599年6月6日(洗礼日) - 1660年8月6日)はバロック期のスペインの画家。マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠である。ベラスケスは寡作であり、2度のイタリア旅行や公務での国内出張を除いてはほとんど王宮内ですごした上、画家としてのほとんどの期間を宮廷画家として過ごしたためにその作品のほとんどが門外不出とされ、21世紀の現在でも半分がマドリードにあるプラド美術館の所蔵となっている。
■バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
(Bartolome Esteban Perez Murillo、 1617年12月31日 - 1682年4月3日)は、バロック期のスペインの画家。甘美な聖母像や、愛らしい子どもの絵で知られるムリーリョは、スペイン絵画の黄金期である17世紀を代表する画家である。疫病で亡くしてしまった自分の子供達を愛しむかのように、子供を描いた絵も多数残している。ぼろをまとった貧しい少年たちをありのままに描いた風俗画にも傑作がある。
■ウィリアム・ホガース
(William Hogarth, 1697年11月10日 - 1764年10月26日)は、ロココ時代のイギリスの画家。1697年ロンドンに貧しい教師の息子として生まれた。銀細工師の弟子、版画家として下積み生活を送った後、当時の世相を痛烈に風刺した連作絵画で知られるようになる。なかでも欲得ずくの政略結婚とその不幸な結末を描いた『当世風の結婚』シリーズが著名である。
■ジャン・シメオン・シャルダン
(Jean-Baptiste Simeon Chardin, 1699年11月2日 - 1779年12月6日)は、ロココ時代のフランスの画家。1699年、パリで家具職人の父親のもとに生まれた。1718年から歴史画を得意としていたカーズ(Pierre-Jacques Cazes)の工房に入って画業を開始。ロココ美術全盛の18世紀フランスを生きた画家であるが、その作風は甘美で享楽的なロココ様式とは一線を画し、穏やかな画風で中産階級のつつましい生活や静物画を描き続けた。
■フランシスコ・デ・ゴヤ
(Francisco Jose de Goya y Lucientes、1746年3月30日 - 1828年4月16日)は、スペインの画家。ディエゴ・ベラスケスとともに、スペイン最大の画家。父親は鍍金師であり、芸術を愛好する気風の中で育った。カルロス4世とその家族を描いた集団肖像画は、一見普通の宮廷肖像画に見えるが、仔細に見ると、いかにも暗愚そうなカルロス4世の風貌や、絵の中心に据えられた狡猾で底意地の悪そうな夫人の表情などには、ゴヤの精一杯の風刺が感じられる。
■エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
(Marie Elisabeth-Louise Vigee Le Brun, 1755年4月16日 - 1842年3月30日)は、フランス画家。18世紀で最も有名な女流画家であった。ヴィジェ=ルブランは18世紀の最も重要な女性芸術家だと考えられている。彼女は660の肖像画と200の風景画を残した。優雅な自画像もよく知られる。
■カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ
Caspar David Friedrich、1774年9月5日 - 1840年5月7日)はドイツの画家。作品は、自然の風景、それも高みや遥か彼方を見据えるもの、廃墟になった僧院、墓地、古代の巨石墓、槲の木などがよくモチーフとして取り上げられる。無人の荒涼とした風景を題材とした、宗教的崇高さと静寂感に満ちた作品が多い。
■ジョン・コンスタブル
(John Constable、1776年6月11日 - 1837年3月31日)は19世紀のイギリスの画家である。ロマン派色が濃く劇的な画面を創造したターナーに対し、ジョンは終生故郷サフォーク周辺の身近な風景を描き続けた。野外での制作を始めたこと、刻々と変化する光の効果を捉えようとしたこと、パレットで色を混ぜ合わせるのでなく画面上に異なる色価の筆触を並べる(たとえば微妙に色調の異なる緑のタッチを併置する)などその制作態度や技法は印象派に先駆するものといえる。
■ドミニク・アングル
(Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1780年8月29日 - 1867年1月14日)は、フランスの画家。アングルも幼少期から絵画とともに音楽も学んでおり、ヴァイオリン奏者としての一面もあった。実際、ニコロ・パガニーニと弦楽四重奏団を結成し、彼のスケッチを残している。アングルは絵画における最大の構成要素はデッサンであると考えた。その結果、色彩や明暗、構図よりも形態が重視され、安定した画面を構成した。
■ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
(Jean-Baptiste Camille Corot, 1796年7月17日 - 1875年2月22日)は、19世紀のフランスの画家。19世紀の4分の3を生き、次世代の印象派との橋渡しをした画家である。詩情あふれる森や湖の風景画で知られるが、『真珠の女』のような人物画にも傑作がある。
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