シューベルト
このページの最後へ↓

作曲家 演奏家 指揮者 画家
文学 哲学 科学 先住民

世界の演奏家

Support Wikipedia

チェンバロチェロ
バイオリン
バイオリン

12
<ピアニスト1>

ダニエル・シュタイベルト
(Daniel Gottlieb Steibelt 1765年10月22日 - 1823年10月2日)は、ドイツのピアニスト、作曲家。ロシアのサンクトペテルブルグに没した。シュタイベルトはベルリンの生まれで、ヨハン・キルンベルガーに付いて音楽を学ぶが父にプロイセンの軍隊に入隊させられてしまう。彼は脱走し、放浪しながらピアニストとして活動するようになり、1790年にパリに落ち着く。

ジョン・フィールド
(John Field, 1782年7月26日 - 1837年1月23日)は、19世紀の初めに活動したアイルランドの作曲家、ピアノ奏者であり、特に最初に「夜想曲」(Nocturne)を書いた作曲家として知られる。ダブリンに生まれたフィールドは、バイオリン奏者の父にピアノの手解きを、また、教会のオルガン奏者であった祖父から音楽の基礎を学んだ。

フランツ・リスト
Liszt Ferenc, 1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリーに生まれ、ドイツやオーストリアなどヨーロッパ各国で活躍したピアニスト・作曲家。ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。

演奏会形式としての「リサイタル」を初めて行った人物と言われている。リストは即興に重点を置いていたため、楽譜はおろか鍵盤すら見ずに、絶えず生み出されるピアノの音に耳を傾けて演奏をしていたと言われている(演奏中のリストの写真や肖像画で鍵盤を見て弾いているものは1枚もない)。

top

カミーユ=マリー・スタマティ
Camille-Marie Stamaty、1811年3月13日 ローマ - 1870年4月19日 パリ)は、フランス人のピアニスト、ピアノ教師、また主にピアノの曲と練習曲を書いた作曲家。今日ではほぼ忘れ去られているが、彼は19世紀のパリにおいては高名なピアノ教師であった。彼の最も有名な弟子はゴットシャルクとサン=サーンスである。スタマティはカルクブレンナーの高弟であり、彼の指導法を受け継いでいた。彼は歯切れよく、明瞭で、透かし細工のようなピアノ奏法を教えており、音の粒の均等性、指の独立、身体と腕の動きを最小にするよう説いた。

シャルル=ヴァランタン・アルカン
(Charles Valentin Alkan1813年11月30日パリ - 1888年3月29日パリ)は、フランスのロマン派の作曲家、ピアニスト。アルカンは生涯をパリ周辺で過ごした。彼の外遊で知られているものは、1833年から1834年のイングランドへの演奏旅行と、家族の用事で1840年にメスへ赴いたことだけである。

アルカンは20代になって、教育に携わり、上流階級の集まりで演奏会を行うなどし、リスト、ジョルジュ・サンド、ヴィクトル・ユーゴーらと友好関係を築いた。1838年、25歳にして彼の経歴は頂点に達する。彼は自らの主催した演奏会で賛助出演したショパンとしばしば共演し、リスト、タールベルク、カルクブレンナーのライバルのヴィルトゥオーゾとして称されていた。

top

テオドール・デーラー
(Theodor Dohler 1814年4月20日 - 1856年2月21日)は、ドイツのピアニスト、作曲家。ジュリアス・ベネディクト、カール・ツェルニー、ジーモン・ゼヒターに師事し、ロマン派のヴィルトゥオーゾピアニストとして名をはせた。デーラーはナポリで生まれた。彼の父(1843年、ルッカで没)がそこに住み、カペルマイスターを務めていたからである。神童であったデーラーはこの地で指揮者のジュリアス・ベネディクトから最初の音楽教育を受けた。デーラーがナポリで公開演奏会をするようになったのは13歳の時である。

トマス・テレフセン
Thomas Dyke Acland Tellefsen1823年11月26日 - 1874年10月6日)は、ノルウェーのピアニスト、作曲家。トマスは18歳の時、生まれた街で最初の公開演奏会を開いた。翌年、彼はパリに赴き、そこで同郷のCharlotte Thygesonの弟子となり、後にはフリードリヒ・カルクブレンナーの講義を受けたことも何度かあった。彼は1844年から1847年の間、定期的にショパンに習っていた。ショパンはテレフセンの個人的な友人にもなり、その大きな影響はテレフセンの音楽的嗜好、演奏、作曲の様式にまで及んだ。

ニコライ・ズヴェーレフ
Nikolai Sergeyevich Zverev, 1832年 − 1893年10月12日)はロシアのピアニスト・音楽教師。ミリイ・バラキレフやアレクサンドル・スクリャービン、セルゲイ・ラフマニノフを世に送り出した名伯楽として名高い。ヴォロコラムスクにて貴族の家庭に生まれる。モスクワ大学に進み、数学と物理学を学ぶかたわら、アレクサンドル・デュビュック(1812年〜1898年)にピアノを師事。

ユリウス・ロイプケ
Julius Reubke, 1834年3月23日 - 1858年6月3日)はドイツの作曲家、ピアニスト、オルガニスト。ドイツのHausneindorf生まれ。父のアドルフ・ロイプケはオルガン製作者であった。ベルリンの音楽院でピアノをテオドール・クラックに師事。1856年にはハンス・フォン・ビューローの薦めでフランツ・リストに師事するためにヴァイマルに移り、彼の愛弟子となるも、その2年後に結核のため24歳の若さで死去。


カミーユ・サン=サーンス
(Charles Camille Saint-Saens, 1835年10月9日 - 1921年12月16日)は、フランスの作曲家、ピアニスト。1835年に官吏の家庭に生まれる。モーツァルトと並び称される神童タイプで、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンたちの作品の演奏会を開き、16歳ではじめての交響曲を書いている。少年のころからさまざまな分野に興味を持ち、その才能を発揮した。一流のレベルとして知られるのは詩、天文学、数学、絵画などである。特に詩人としての活動は多岐にわたり、自作の詩による声楽作品も少なからず存在する。


フランシス・プランテ
(Francis Plante, 1839年3月2日 サンタヴィ − 1934年12月19日)はフランスのピアニスト。レコード史上、初めて録音を残した芸術家の一人として名高い。パリを離れてヨーロッパ各地で演奏旅行を行い、音色の質感や超絶技巧、情緒的な解釈によって名声を広げた。1908年に愛妻に先立たれると演奏会場から引退し、第一次世界大戦中に負傷した兵士を救済するための慈善演奏会に出演したことを除けば、一切の演奏活動を行わなかった。

カール・タウジヒ
(Carl Tausig, 1841年11月4日 - 1871年7月17日)はポーランド出身のピアニスト。ワルシャワでユダヤ系の家庭に生まれ、父親からピアノの手ほどきを受ける。その後フランツ・リストをヴァイマルに訪ねて師事を認められ、その後、演奏旅行に同行するようになる。この時タウジヒはわずか14歳であった。

ドイツに定住して1865年にベルリンでピアノ教室を開くが、すぐに教室を畳んでヨーロッパ各地で演奏旅行を行い、模範的な演奏技巧によって知られるようになった。29歳の時にライプツィヒにて、腸チフスにより他界した。

ゾフィー・メンター
(Sophie Menter, 1846年7月29日 − 1918年2月23日)はドイツのピアニスト・作曲家。フランツ・リストの愛弟子で[1]。聴き手を興奮に誘なう強烈な演奏様式ゆえに、当時の最高のヴィルトゥオーゾの一人に数えられ、パリでは「リストの再来(フランス語: l'incarnation de Liszt)」と呼ばれた。ピョートル・チャイコフスキーは、メンターと親しく交流して、《協奏的幻想曲 ト長調》の総譜をメンターに献呈している(但し初期のピアノ譜は、アンナ・エシポワに献呈と記されている)。

アガーテ・バッケル=グロンダール
(Agathe Backer Grondahl, 1847年12月1日 ホルメストラン - 1907年6月4日 オスロ)はノルウェーのピアニスト・作曲家。オスロでオットー・ヴィンテル=イェルムとハルフダン・シェルルフ、ルトヴィク・マティアス・リンデマンに師事。その後フィレンツェでハンス・フォン・ビューローの、ヴァイマルでフランツ・リストの薫陶を受ける。エドヴァルド・グリーグとは親友同士であり、バッケル=グロンダールが亡くなると、グリーグは「ミモザの花のような彼女の音楽はもう聴けない」と言って惜しんだ。

top

ルイーゼ・アドルファ・ル・ボー
(Luise Adolpha Le Beau, 1850年4月25日 ラシュタット − 1927年7月17日 バーデン=バーデン)は、ドイツ後期ロマン派音楽の女性作曲家・ピアニスト。バーデン大公国領のラシュタットにおいて、将校だった父親ヴィルヘルム・ル・ボーと母親カロリーネ・バラックの一人娘として生まれる。バーデン君主付きの少将として父ヴィルヘルムが引退してから、両親は娘に一般教育を受けさせるようになる。ルイーゼは、音楽家でもあって作曲も嗜んだ父親に、5歳の時からピアノ教育を受けており、16歳で私立の女学校の修了試験を突破して一般教育を終えると、その後は音楽に没頭した。

パーヴェル・パプスト
1854年5月15日 - 1897年6月9日)は、東プロイセン出身でロシアで活躍したピアニスト、作曲家である。教育者としてモスクワ音楽院教授も務めた。パプストは、偉大なフランツ・リストが折り紙をつけたように、当時の最も偉大なピアニストの一人であった。ピョートル・チャイコフスキーはパプストが開催した演奏会に足繁く通い、「神々しい優雅さをたたえたピアニスト」「神が遣わしたピアニスト」と評している。


アレクサンドル・ジロティ
Alexander Il'ich Ziloti, 1863年10月9日 ハリコフ近郊 - 1945年12月8日 ニューヨーク)はウクライナ出身のロシアのピアニスト・指揮者・作曲家・編曲家。フランツ・リストの最後の高弟の一人として、またセルゲイ・ラフマニノフの従兄として言及される。1917年のロシア革命までは、最も重要なロシアの芸術家の一人であり、リスト、チャイコフスキー、アントン・アレンスキー、ラフマニノフ、イーゴリ・ストラヴィンスキーらに作品を献呈されている。


ウィリアム・スタンデール・ベネット
(Sir William Sterndale Bennett, 1816年4月13日 - 1875年2月1日)は、イギリスの作曲家、ピアニスト。1836年から1842年にかけては頻繁にドイツを訪れた。ベネットの作品に感銘を受けたメンデルスゾーンは、彼をライプツィヒに招待し、歓待した。同地ではロベルト・シューマンとも親交を結び、彼はベネットの作品に熱狂的な称賛を送った。

top

ユリウス・エプシュタイン
(Julius Epstein, 1832年8月7日 アグラム - 1926年3月3日 ウィーン)はオーストリア=ハンガリー二重帝国のピアニスト。クロアチア出身のユダヤ人音楽家で、ヨハネス・ブラームスの親友やグスタフ・マーラーの恩師として名高い。地元アグラムで詩人で合唱指揮者のヴァトロスラフ・リヒテンエッガーに学んだ後、ウィーンでヨハン・ルフィナッチャに作曲を、アントン・ハルムにピアノを師事。1852年にデビューしてから、ウィーンで最も高名なピアニストおよび音楽教師のひとりとなった。

ベルンハルト・シュターフェンハーゲン
(Bernhard Stavenhagen, 1862年11月24日 グライツ - 1914年 12月25日 ジュネーヴ)はドイツのピアニスト・指揮者・作曲家。テオドール・クラックにピアノを入門。その後エルンスト・ルードルフにピアノを、フリードリヒ・キールに音楽理論と作曲を師事。1879年に自作の《ピアノ協奏曲ハ長調》を弾いてメンデルスゾーン賞を受賞。1885年にヴァイマルに行ってフランツ・リストの薫陶を受け、その翌年から演奏旅行に乗り出す。リストの最後の高弟として名をなす。

ヴィルヘルム・ステーンハンマル
(Carl Wilhelm Eugen Stenhammar, 1871年2月7日 - 1927年11月20日)は スウェーデンの作曲家、ピアニスト、指揮者。1887年から1892年までストックホルムでピアノ・オルガン・作曲を学び、1892年春にピアニストとしてデビュー。同年秋から翌年まで、ベルリンにピアノ留学。この頃からステーンハンマルは、コンサート・ピアニストとして、熱心かつ積極的に活動を行う。ステーンハンマルは、スウェーデンの最も重要な作曲家の一人である。同世代のヒューゴ・アルヴェーンとともに、フランス・ベルワルド以降の最も重要な交響曲作家でもある。

top

リカルド・ビニェス
(Ricardo Vines, 1875年2月5日 - 1943年4月29日)は、フランスで活躍したスペイン人ピアニスト、作曲家。ドビュッシー、ラヴェルの一連のピアノ曲の初演者として歴史に名を残す。プーランクのピアノの師としてもたびたび言及されている。カタルーニャのリェイダ生まれ。パリ音楽院でピアノをシャルル・ド・ベリオに、作曲と和声法をバンジャマン・ゴダールとアルベール・ラヴィニャックに師事。ラヴェルに多くの書籍を教え、芸術サークル「アパッシュ」に参加するなど、ラヴェルに対して影響力があった。

ルドルフ・ニールセン
Ludolf Nielsen、1876年2月29日 − 1939年10月16日)は、デンマークの作曲家、ヴァイオリン奏者、指揮者、ピアニスト。今日では20世紀初頭におけるデンマークの重要な作曲家の一人とされている。他の芸術家同様、第一次世界大戦に多大な衝撃を受け、その頃交響曲第3番を書きかけだったにもかかわらず、1914年以降は一切ペンを取らなかった。戦後数年間は家庭音楽教師となり、その後作曲活動に復帰した。

ワンダ・ランドフスカ
(Wanda Landowska, 1879年7月5日:ワルシャワ - 1959年8月16日:コネチカット州レイクヴィル)は、ポーランド出身のチェンバロ奏者、ピアニスト。彼女は忘れられた楽器となっていたチェンバロを、20世紀に復活させた立役者である。かねてから自分の理想とするチェンバロの構想を練っていたランドフスカは、プレイエル社にその構想を持ち込む。1912年、ランドフスカ設計の近代チェンバロがブレスラウ音楽祭でお披露目され、大反響を呼ぶ。

イーゴリ・ストラヴィンスキー
Igor Fyodorovitch Stravinsky、1882年6月17日 - 1971年4月6日)は、ロシアの作曲家である。同じくロシアの芸術プロデューサーであるディアギレフから委嘱を受け作曲した初期の3作品(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)で知られるほか、指揮者、ピアニストとしても活動した。最晩年にはベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲のレコードばかり聴き、セリー主義に転向した際に賞賛したヴェーベルンの音楽も、自分の曲も、決して聴こうとはしなかったという。

アルフレード・カゼッラ
(Alfredo Casella, 1883年7月25日 トリノ - 1947年3月5日 ローマ)はイタリアの作曲家・ピアニスト・音楽教師。20世紀におけるヴィヴァルディ作品の復活は、カゼッラの尽力に負うところが大きい。1939年に、今度はエズラ・パウンドを巻き込んで「ヴィヴァルディ週間」を組織する。これ以降ヴィヴァルディ作品はほとんど世界的に成功を収めるようになる。

ヴィルヘルム・バックハウス
Wilhelm Backhaus、1884年3月26日ライプツィヒ - 1969年7月5日フィラッハ)は、ピアニスト。1900年、16歳の時にデビューし、最初のコンサートツアーを行った。1905年、パリで開かれたルビンシュタイン音楽コンクールのピアノ部門に出場し優勝した。ちなみに、そのときの第2位は作曲家として名高いバルトークで、自分の人生をピアニストとして描いていたバルトークは酷く落胆したとされる。


クララ・ハスキル
(Clara Haskil, 1895年1月7日 - 1960年12月7日)は、ルーマニア王国 (現:ルーマニア)出身のピアニスト。古典派と初期ロマン派のレパートリーで名高く、とりわけモーツァルト作品の録音と演奏で著名。当時の最も秀でたモーツァルト弾きとの異名もとる。

生涯の大半を清貧のうちに過ごし、正当な評価を勝ち得るようになったのは、ようやく第二次世界大戦後、1949年のオランダにおける一連の演奏会を通じてであった。1950年を境に脚光を浴び始める。カラヤンを始めとする著名な指揮者や、またカザルス、チャップリンとの交友にも恵まれ、フランスを始めとするヨーロッパ諸国での演奏活動も、熱狂的な聴衆に支持されるようになった。


ヴァルター・ギーゼキング
(Walter Wilhelm Gieseking, 1895年11月5日 - 1956年10月26日)は、ドイツのピアニストかつ作曲家、アマチュアの蝶類研究者。世界で初めて「ピアノのために書かれた作品を全て演奏できる」という特技をトレードマークにした。初等教育は「面倒くさい、私はもう読み書きが出来るのだから学校には行かない」と言って受けず、幼少時は家で百科事典と楽譜を読み漁る毎日だった。蝶の趣味はこの頃に覚える。両親が心配してハノーファーの音楽学校を紹介し入学させた。そこで師のライマーを紹介され、ドビュッシーなどの(当時の)現代音楽すら新刊を持ち込んでレッスンする姿勢に彼は大きな感銘を受けた。

ヴィクトー・ショアラー
(Victor Schioler, 1899年4月7日 - 1967年2月17日)は、デンマーク出身のピアニスト。 父親は作曲家のヴィクトー・ベンディクス。コペンハーゲンの生まれ。 幼少時よりピアニストの母親、アウグスタ・ショアラーから基礎教育を受け、イグナーツ・フリードマンとアルトゥル・シュナーベルの薫陶も受けた。 1914年からピアニスト兼指揮者として国際的に活躍したものの、第二次世界大戦でナチス・ドイツがデンマークに侵攻してくると、ナチス政権下での演奏活動を拒否し、医学を学んだ。

アルベルト・ゲレーロ
(Antonio Alberto Garcia Guerrero, 1886年2月6日 ラ・セレナ - 1959年11月7日 トロント)はチリ出身のカナダのピアニスト・作曲家・音楽教師。現在では、グレン・グールドの学生時代の指導者として記憶されるが、トロント音楽院での長年にわたる指導を通じて、何世代にもわたって人材を輩出してきた。母親と兄ダニエルからピアノの手解きを受けるも、その他については独学であった。1890年代初頭に家族とともにラ・セレナからサンチャゴに移った後、芸術家や知識人のサークル「ロス・ディエス(Los Diez)」に参加する。

パウル・ウィトゲンシュタイン
(Paul Wittgenstein, 1887年5月11日 - 1961年3月3日)は、オーストリア生まれのピアニスト。第一次世界大戦で右腕を失った後も演奏活動を続け、多くの有名な作曲家に左手だけで演奏可能な作品を委嘱したことで有名である。1946年にアメリカ合衆国の市民権を取得した。

レオ・オーンスタイン
Leo Ornstein、1893年12月2日 - 2002年2月24日)は、アメリカ合衆国のピアニスト・作曲家。アメリカで演奏家・作曲家として20世紀ヨーロッパ音楽の流れを汲む緻密な書法の前衛音楽・実験音楽を追究した。40代で演奏界から退いたものの、終生にわたって旺盛な創作活動を続けた。

シモン・バレル
(Simon Barere, 1896年9月1日 - 1951年4月2日 )は、ウクライナ出身のアメリカ合衆国のピアニスト。ユダヤ人。1932年にベルリンに移住したところ、翌1933年にヒトラーが権力を掌握したため、スウェーデンに向かう。1934年から1936年まで国際的な名声を高めてから、最終的にアメリカ合衆国に落ち着いた。バレルは、伝説的な演奏速度と、凄まじいばかりの巧みな指捌きでとりわけ名高い。例えばバレルの《イスラメイ》の演奏は、超絶技巧の輝かしさで知られている。


マリヤ・グリンベルク
Maria Grinberg, 1908年 - 1978年7月14日)は、ソビエト連邦のピアニスト・音楽教師。おそらく20世紀屈指のピアニストの一人であったが、ソ連時代の(ソ連当局による)ユダヤ人敵視の風潮から、継続的で安定した演奏活動を阻まれ、西側諸国ではほとんど無名のままだった。

ロシア・ピアノ楽派の重要人物としての活躍が見込まれた矢先の1937年、夫と父親が「人民の敵」の烙印を押されて逮捕され、処刑されてしまう。グリンベルク本人も、国によるマネジメントから外され、アマチュアのバレエ団の伴奏者として、時にはオーケストラのティンパニ奏者として糊口を凌がなければならなかった。


カール・ウルリッヒ・シュナーベル
(Karl Ulrich Schnabel, 1909年8月6日 - 2001年8月27日)は、オーストリア生まれのユダヤ系のピアノ奏者。世界60カ国以上のマスタークラスにて後進の指導にあたり、多くのピアニストに影響を与えた。ルドルフ・ゼルキンの信頼を得て、その息子ピーター・ゼルキンを幼少の頃より指導したことでも有名である。他にもリチャード・グードやマレイ・ペライアなどが教えを受けている。

ウラディミール・ホロヴィッツ
(Vladimir Samoilovich Horowitz、1903年10月1日 - 1989年11月5日)は、ウクライナ生まれのアメリカのピアニストである。ホロヴィッツは最初セルゲイ・タルノフスキーに、次にフェリックス・ブルーメンフェルトに師事した。一般的に、速度重視で弾く場合は“指を曲げて(立てて)弾く奏法”で弾き、音色重視の場合は“指を伸ばして弾く奏法”で弾くことが多いが、彼の場合、速度が犠牲となる“指を伸ばした奏法”で速度と音色の両方を得ることができたのは驚異的である。

アイリーン・ジョイス
Eileen Alannah Joyce CMG、1908年1月1日 - 1991年3月25日)はオーストラリア出身のピアニストである。主にイギリスを中心に活躍し、その類稀な美貌のためもあってイギリスやヨーロッパ、オーストラリアで卓越した人気を獲得した。映画『逢びき』のサウンドトラックにおいてラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏したことでも知られる。アイリーン・ジョイスは1908年1月1日にタスマニア州の鉱山の町、ジーアンの貧しい家庭に生まれた。父はアイルランド系、母はスペイン系である。

 

イヴォンヌ・ルフェビュール
(Yvonne Lefebure, 1898年6月29日 - 1986年1月23日)はフランスのピアニスト、音楽教育者。明晰なタッチで感興豊かな表現を聴かせる、20世紀を代表するフランスの奏者のひとり。エルモン生まれ。4歳でピアノをはじめ、驚異的な才能を示したことから、アルフレッド・コルトーの推薦によってパリ音楽院に入学。1950年、プラドに隠棲中のパブロ・カザルスのもとで開催されたプラド音楽祭に参加、バッハの平均率クラヴィーア曲集を弾く。翌1951年にもペルピニャンで開かれた音楽祭に参加、カザルス指揮ペルピニャン音楽祭管弦楽団と共演し、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番の録音を残す。

マリア・アンナ・モーツァルト
(Maria Anna Walburga Ignatia Mozart, 1751年7月30日 - 1829年10月29日)は、愛称ナンネルで知られる、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの実姉。弟ヴォルフガングがある程度まで父親に反抗したのに対して、ナンネルはひとえに父親の監督を受け続けた。このため、また当時の女性観のために、レオポルトは弟を中心に考え、彼女は結婚するのが相応しいと見なしたのである。

7歳のときに父親の手ほどきでクラヴィーア演奏を始める。当初は彼女も神童であるかに思われた。我が子の楽才を世に知らしめんとした父親に同伴されて、ウィーンやパリなどの都市を旅する。幼い頃には演奏旅行で、時に最高の俸給を稼ぎ出したように、傑出したチェンバロ奏者やピアニストとして認められていた。


ファニー・メンデルスゾーン
(Fanny Mendelssohn-Hensel, 1805年11月14日 - 1847年5月14日)はドイツのピアニスト・作曲家、アマチュアの指揮者。19世紀前半において、フランスのルイーズ・ファランクと並んで女性作曲家のパイオニアとなったことにより、女性作曲家およびジェンダー研究の対象として再認識されている。

ファニーの作品は、個別に数えると600曲近い作品を遺したと言われている。あまりにも膨大な数から、その全貌が解明されたとはまだ言えない。しかしながら、楽譜の出版や演奏・録音によって、作品の一部は身近になりつつある。


フレデリック・ショパン
Francois Chopin 、810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説もあり) - 1849年10月17日)は、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。

top

ジギスモント・タールベルク
(Sigismond Thalberg, 1812年1月8日 - 1871年4月27日)は19世紀スイス出身、ロマン派のピアニスト・作曲家。同時代者のフレデリック・ショパン、フランツ・リストなどと並んで、19世紀において最も傑出したピアノの名手の一人だった。オペラ、協奏曲、室内楽曲、歌曲なども残したものの、他人の作品を土台にした変奏曲や幻想曲の様式の作品が多いため従来は忘れられることが多かったが、「3本の手」と呼ぶ奏法など、後世の音楽に与えた影響は小さくない。

クララ・シューマン
Clara Josephine Wieck-Schumann, 1819年9月13日 - 1896年5月20日)は、ドイツのピアニスト、作曲家。ピアノ教師フリードリヒ・ヴィーク(Friedrich Wieck)の次女(長女は生後まもなく死亡)として生まれる。19世紀に活躍した女流ピアニストであり、また作曲家ロベルト・シューマンの妻としても広く知られている。彼女の作品を聴いたフランツ・リストは「クララ・シューマンの作品は本当に驚くべきものです。特に女性としては。それらの中には、タールベルク(リストのライバル)の過去と現在のすべての幻想曲と比べてみても、100倍もの独創性と真の感受性があります」と絶賛した手紙をパリの音楽誌ルビュ・エ・ガゼット・ミュジカルと新音楽時報に投稿し、クララの歌曲3曲をピアノ独奏用歌曲に編曲した。

ヨアヒム・ラフ
(Joseph Joachim Raff, 1822年5月27日 - 1882年6月24日/25日)はスイスのピアニスト、作曲家。チューリッヒ湖畔の小さな町ラッヘン(英語版、ドイツ語版)で生まれた。学校の教師をしながら、日曜コンサートなどに出演していたが、1845年、バーゼルにやってきたリストのコンサートを聞き、そのままリストの演奏旅行についてドイツへ行く。ドイツではメンデルスゾーンや生涯の友となったハンス・フォン・ビューロー等と知り合うが、一時スイスへ戻る。

top

アントン・ルビンシテイン
Anton Grigoryevich Rubinstein, 1829年11月28日 - 1894年11月20日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。ロシアを含むヨーロッパやアメリカで精力的に演奏会を開き、ロシアのピアニストとして初めて世界的名声を博してロシア・ピアノ流派の祖となった。また、1862年にロシア最初の専門的な音楽教育機関であるサンクトペテルブルク音楽院を創設し、1859年にはロシア音楽協会を創設した。

ヨハネス・ブラームス
(Johannes Brahms, 1833年5月7日 - 1897年4月3日)は、19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者である。ハンブルクで生まれる。彼に最初の音楽レッスンを行った父は、市民劇場のコントラバス奏者であった。ピアノの早熟な才能を現し、10歳で作曲家でピアニストのエドゥアルド・マルクスゼンに師事。

レストランや居酒屋でピアノを演奏することによって家計を支えた。その後、作曲を始めたものの、1851年になるとすでに自己批判から作品を廃棄し始めていた(19歳以前の作品は記録が残るのみでまったく現存しない)。1853年にハンガリーのヴァイオリニスト・エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことが創作活動に大きな影響を及ぼした。

ニコライ・ルビンシテイン
Nikolai Grigoryevich Rubinstein, 1835年6月2日 - 1881年3月23日)はロシアの音楽教育者、ピアニスト、作曲家、指揮者。アントン・ルビンシテインの弟で、チャイコフスキーの親友である。父親が小さな工場を開いていたモスクワに生まれ、母親から音楽の手ほどきを受ける。1866年9月1日にモスクワ音楽院を開設し、初代院長を務めた。こんにちでは兄の名声の陰に隠れてしまっているが、存命中は、最も偉大なピアニストの一人に数えられていた。

top

ユゼフ・ヴィエニャフスキ
(Jozef Wieniawski, 1837年5月23日 - 1912年11月11日)はポーランドのピアニスト、作曲家、指揮者、教育者。現在では忘れられているが、かつてはヨーロッパ最高の音楽家の一人と評価されていた。最晩年になって若いジャーナリストに、いつまで音楽を続けるのかと尋ねられると、「若いうちはずっとさ!」と答えたという。

top

ヨーゼフ・ラーボア
(Josef Labor, 1842年6月29日 ボヘミアのホロヴィッツ - 1924年4月26日 ウィーン)はオーストリアの作曲家・ピアニスト。現在は音楽史からほとんど忘れ去られているが、生前は音楽家として高い地位を与えられていた。シェーンベルクやアルマ・マーラーの最初の音楽教師でもあった。幼児期に病弱だったラーボアは、1845年に天然痘にかかって失明した。

ウィーンの盲学校で教育を受けるかたわら、ウィーン音楽院で音楽教育を受け、さらに個人指導でジーモン・ゼヒターに音楽理論を、ピアニストのエドゥアルト・ピルクヘルトに鍵盤楽器の演奏を師事。若くして演奏旅行でヨーロッパ各地をめぐってフランス、イングランド、ロシア、スカンジナビアを歴訪し、やはり盲目だったハノーファー王ゲオルク5世と近しくなり、ついには親交を結ぶに至った。

ワシーリー・サフォーノフ
(Vasily Ilyich Safonov1852年2月6日 - 1918年2月27日)はロシアのピアニスト・指揮者・音楽教師・作曲家。カフカス地方でコサックの家系のロシア人将校の家庭に生まれる。サンクトペテルブルクで教育を受け、法学学士号を取得するかたわら、1881年よりペテルブルク音楽院に入学、1885年に大金メダルを得てピアノ科を修了した。

テオドール・レシェティツキとザレンバにも師事する。作曲家としては特に成功しなかったが、練達の音楽教師として成功し、1889年にはモスクワ音楽院院長に就任した。ニューヨーク・ナショナル音楽院の院長も勤めた。ピアノの門弟に、アレクサンドル・スクリャービン、ヨゼフ・レヴィーン、ロジーナ・ベッシー、ニコライ・メトネルらがいる。

ユリウシュ・ザレンプスキ
(Juliusz Zarebski, 1854年2月28日か3月3日 ジトーミェシュ(ジトームィル) - 1885年9月15日ジトーミェシュ)はポーランドのピアニスト、作曲家。ショパン(1849年没)とシマノフスキ(1882年生)の間の時期に活躍したが、1885年に結核により31歳の若さで亡くなった。16歳でウィーンに赴きピアノをJ. Dachsに、作曲をF. Krennに学んだ。六年の音楽院のコースを二年で、ピアノと作曲の両方で金メダルを得て修了した。19歳でペテルブルクに赴くが、二ヶ月の在学後に卒業試験に挑み、「優」の評価および「自由芸術家」の称号を得て修了する。

top

セシル・シャミナード
Cecile Louise Stephanie Chaminade, 1857年8月8日 - 1944年4月13日)は、フランスの作曲家・ピアニスト。出版作品と演奏活動によって、経済的に自立した最初の女性作曲家といわれる。パリのブルジョワジーの家庭に生まれる。母の手ほどきでピアノを始める。幼年期から作曲を試み、8歳のときいくつかの宗教曲をジョルジュ・ビゼーに演奏して聴かせ、「小さなモーツァルト」と呼ばれて可愛がられた。18歳で最初の演奏会を行い、徐々に作曲家としての認知を受けるようになった。1879年に国民音楽協会の正会員に迎えられる。アンブロワーズ・トマは彼女を評して、「作曲する女性というより、女性の作曲家というべきだ」と述べている。

イグナツィ・パデレフスキ
(Ignacy Jan Paderewski, 1860年11月18日 - 1941年6月29日)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家・外交官である。第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代首相。父親はポーランド貴族(シュラフタ)で、自宅の屋敷で経済学者として働いていた。

生母はパデレフスキを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキは遠い親族によって育てられた。第1次世界大戦の末期、まだポズナニ市と大ポーランド全域の運命に決着がついていなかった時期にパデレフスキはポズナニを訪れ、1918年12月27日の演説において、ポズナニのポーランド人住民がドイツに対して武力蜂起を起こすように呼びかけた。

アルテュール・デ・グレーフ
(Arthur De Greef, 1862年10月10日 ルーヴァン - 1940年8月29日)はベルギーのピアニスト・作曲家。王立ブリュッセル音楽院でピアノを、イグナーツ・モシェレス門下のルイ・ブラッサンに師事。17歳で優等で卒業後、ヴァイマルに行きフランツ・リストの薫陶を受け修業時代を仕上げる。親交を結んだエドヴァルト・グリーグからは、「私がこれまで出会った中で一番の私の作品の理解者」と呼ばれ、カミーユ・サン=サーンスからも支持を得た。

top

エルネスト・ナザレー
(Ernesto Julio Nazareth 1863年3月20日 - 1934年2月4日)は、ブラジルのピアニスト・作曲家。一生をリオ・デ・ジャネイロで過ごした。「ブラジル風タンゴ」やショーロなど、国内の民族音楽に影響されたピアノ曲を量産した。中産階級ながらもあまり豊かでない下級官吏の家庭に生まれ、ショパンを愛する母親からピアノの手ほどきを受ける。

長年ナザレーは、映画館オデオン座の待合室でピアニストとして働き、ここで最も有名な作品の一つ『オデオン』を作曲した。1920年代に聴覚異常を来たし始め、最晩年まで悪化する一方だった。娘と妻の相次ぐ死によりトラウマが引き起こされ、心の病も重くなるばかりだった。1933年に精神病院に収容されたが、翌年に脱走して行方不明となり、懸命の捜索の結果、やがて森の中の滝で(滝壺の中とも滝のほとりとも伝えられる)、変死体となって発見された。

オイゲン・ダルベール
Eugen Francis Charles d'Albert (1864年4月10日 - 1932年3月3日)は、スコットランド出身のピアニスト・作曲家。もっぱらドイツで活躍し、帰化もしている。第一次世界大戦中には自らがドイツ人であると宣言した。

名ピアニストとして演奏と録音の両面で活躍、恩師リストのピアノ曲を、レコードや自動演奏ピアノに録音した。ベートーヴェンやリストを得意とし、力強く情感こまやかな演奏によって、ウィーン・デビューに接したブラームスを震撼させたと伝えられている。

レオポルド・ゴドフスキー
Leopold Godowski レオポルト・ゴドフスキ, 1870年2月13日 - 1938年11月21日)は、ポーランドのピアニスト、作曲家、教師。「ピアニストの中のピアニスト The Pianist of Pianists」と呼ばれる。幼少の頃、彼はピアノ演奏と音楽理論のレッスンを受けていた。14歳になるとベルリン高等音楽院に入学し、エルンスト・ルドルフの下で研鑽を積み始めるも3ヶ月で辞めてしまう。それ以外では、彼は基本的に独学家だった。なお、彼の息子レオポルド・ゴドフスキー2世(Leopold Godowsky Jr.)はヴァイオリニストになったが、友人のピアニスト・レオポルド・マネス(Leopold Mannes)と共にカラー写真の開発に当たり、コダック社の協力により1935年に初の本格的なカラーフィルム「コダクローム」を開発した。

top

アレクサンドル・スクリャービン
1872年1月6日 - 1915年4月27日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト。作曲者自身はフランス語風に Alexandre Scriabineと綴ることを好んだ。幼児期からピアノを始める。自ら望んで陸軍兵学校に進むが、小柄で虚弱なことと学業が優秀なこと、そして楽才が顕著なことから、特別にモスクワ音楽院への通学が認められ、14歳から院長タネーエフに作曲と音楽理論を、ズヴェーレフにピアノを師事。

手の大きかったラフマニノフ比べ、10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。

ヴィレーム・クルツ
(Vilem Kurz, 1872年 - 1945年)は、チェコのハヴリーチュクーフ・ブロト出身のピアニスト、ピアノ教師。リヴィウとウィーンの国立音楽大学、プラハ音楽院で教授を務めた。クルツの名が広く知られているのは、ドヴォルザークが1876年に作曲したピアノ協奏曲のソロ・パートを改訂したことによってである。

アーネスト・シェリング
(Ernest Henry Schelling, 1876年7月26日 - 1939年12月8日)はアメリカ合衆国のピアニスト・指揮者・作曲家。ニュージャージー州ベルヴァディアー出身。スイス出身の父親の手ほどきを受けて音楽的神童として名をはせ、わずか4歳にしてフィラデルフィア音楽アカデミーに入学。7歳でヨーロッパに留学し、パリ音楽院に進学する。

ヨゼフ・ホフマン
(Josef Casimir Hofmann, 1876年1月20日 クラクフ - 1957年2月16日 ロサンジェルス)は、ポーランド出身のユダヤ系アメリカ人ピアニスト。1887年年末から1888年年頭におけるアメリカ楽旅が、演奏活動の頂点となり、初期の報道機関をその名で大いに賑わせた。その後、演奏旅行から退き、アントン・ルビンシテインの個人指導を受ける。ショパンの『バラード第4番』の燃え盛るような演奏(「カシミール・ホールにおける歴史的演奏会」、1938年)は、ホフマンの演奏様式がいかにアントン・ルビンシテインに近しく、いかに冷戦後のピアニストとは違っているかを物語っている。

top

イグナーツ・フリードマン
(Ignaz Friedman, 1882年2月13日 − 1948年1月26日)はポーランド出身のユダヤ系のピアニストで作曲家。クラクフ大学で哲学を修め、教育の仕上げに作曲と音楽学を学んだ。1904年に(3つのピアノ協奏曲を演奏して)ウィーンにデビューし、世界的な活動に入る。ある集計によるとフリードマンは合計2800回以上の演奏会を行なっており、ヴァイオリニストのブロニスワフ・フーベルマンとたびたび開いた二重奏の演奏会もその中に含まれる。

ルイス・グルーエンバーグ
(Louis Gruenberg、1884年8月3日 - 1964年6月9日 ビバリーヒルズ)は、アメリカ合衆国の作曲家、ピアニスト。0代前半で渡欧してベルリンとウィーンでフェルッチョ・ブゾーニに師事する。1912年から教育活動と演奏活動に入り、第1次世界大戦までソリストや伴奏者として演奏旅行を行なった。最晩年の20年間は、次第に音楽界や演奏界で孤立するようになった。また渡米後の最晩年のシェーンベルクと親交を保っていた。

レオ・シロタ
(Leo Sirota, 1885年5月4日 キエフ - 1965年2月25日)は、ウクライナ出身のユダヤ系ピアニスト。ベアテ・シロタ・ゴードンの父親。5歳でピアノを始め、9歳までに演奏活動を行なってイグナツィ・ヤン・パデレフスキの注目を浴び、自分の門人になるようにと招かれた。しかしながら両親が、息子は幼すぎるためにそれに相応しくないと判断したため、当初はキエフ音楽院に、その後はペテルブルク音楽院に学んだ。

アルトゥール・ルービンシュタイン
(Arthur Rubinstein, 1887年1月28日 - 1982年12月20日)は、ポーランド出身のピアニスト。前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカ合衆国で活躍した。ショパンの専門家として有名だが、ブラームスやスペインのピアノ音楽も得意とした。20世紀の代表的なピアニストの1人である。第一次世界大戦中は主にロンドンに暮らし、ウジェーヌ・イザイの伴奏者を務めた。1916年から1917年まで、スペインや南米を旅行し、同時代のスペインの作曲家に熱狂して多くの新作を初演する。

top

イヴ・ナット
(Yves Nat, 1890年12月29日 ベジエ - 1956年8月31日 パリ)はフランスのピアニスト、作曲家。幼くして音楽の才能を示し、10歳のときに自作を指揮。その演奏を聴いた、サン=サーンスやフォーレにパリ音楽院への進学を勧められる。パリ音楽院では1907年にピアニストのルイ・ディエメのピアノ・クラスで首席を獲得している。彼の国際的な活動は、1909年にドビュッシーに連れられた渡英にはじまる。ヨーロッパやアメリカ各地各地で演奏旅行を行い、ベートーヴェンやシューマンの演奏で評価された。ヴァイオリニストのジャック・ティボーやジョルジュ・エネスコ、ウジェーヌ・イザイらとも頻繁に演奏旅行を行っている。

マグダ・タリアフェロ
(Magda Tagliaferro,1893年2月19日 − 1986年9月9日)はブラジル出身のフランスのピアニスト。アントナン・マルモンテルとアルフレッド・コルトーに師事。コルトーによって体現された音楽理念の実現に向けて飽くことなき探究心を繰り広げ、明晰さと甘美さの完全な一体化、内面的な表現と情緒、演奏する作品を造形する際の古典的なバランス感覚が特徴的な演奏を行なった。20世紀の主要な指揮者、ヴァンサン・ダンディやワインガルトナー、ピエール・モントゥー、アンゲルブレシュト、フルトヴェングラー、そのほかにも、コルトーやティボー、カザルスらと共同演奏会を組むこともあった。

top


ヴィルヘルム・ケンプ
(Wilhelm Kempff, 1895年11月25日-1991年5月23日)は、ドイツのピアニスト、オルガニストである。作曲も行い、バッハの作品をピアノ小品として編曲したものも残している。ピエール・フルニエと組んだベートーヴェンのチェロソナタ全集と、ヴォルフガング・シュナイダーハンと組んだベートーヴェンのヴァイオリンソナタの全集も極めて評価が高い。また、それらが広く演奏されるようになる前、1960年代にシューベルトのピアノソナタを世界で初めて全集として録音した。


ギオマール・ノヴァエス
(Guiomar Novaes, 1895年2月28日 − 1979年3月7日 )はブラジルのピアニスト。独創的なフレージングや温かな澄んだ音色、歌いこまれた旋律線、陰翳に富んだ精妙な作品解釈で名高く、20世紀の最も偉大なピアニストの一人に数えられている。1909年にパリ音楽院においてイシドール・フィリップに師事[2]。同年パリ音楽院の外国人枠が2名しか空きがないところに、志願者が387人も殺到した中での快挙であった。ノヴァエスは、演奏中の力の抜けた感じや、困難を感じさせない特徴から、ピアノが演奏家の腕や指に複合的な緊張をもたらす楽器であるということをほとんど感じさせないようなピアニストの一人であった。


ステファン・アスケナーゼ
(Stefan Askenase, 1896年7月10日 - 1985年10月18日)はポーランド生まれのベルギーのユダヤ系ピアニスト。ガリツィア(現ウクライナ領)のレンベルク(現リヴィウ)に生まれる。カロル・ミクリの弟子だった母に5歳からピアノの手ほどきを受ける。

フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(W・A・モーツァルトの息子)の弟子のクサヴェラ・ザハリャシェヴィチに7歳から師事。1965年には芸術音楽協会を設立して、ライン河畔ローラントゼックの古い駅舎を改装し、ピエール・フルニエやヘンリク・シェリング、サルバドール・ダリ、そしてアスケナーゼ自身といった芸術家たちのスタジオ会場として使用した。

top

 

マリヤ・ユーディナ
(Maria (もしくは Mariya) Yudina, 1899年9月9日(ユリウス暦8月28日) - 1970年11月19日 モスクワ)はロシアのピアニスト。ペトログラード音楽院にレオニード・ニコラーエフに師事。同級生にドミートリイ・ショスタコーヴィチやヴラディーミル・ソフロニツキーがいた。

公然と正教を信仰し、クリューエフ、マンデリシュターム夫妻を援助するなどの反体制的言動があだとなり、教育活動や演奏活動を禁じられたことは一度や二度ではなかった。バッハのゴルトベルク変奏曲の各変奏にテクストを書き残すなど、彼女にとっては宗教と音楽は一体の存在であった。1970年に死去。葬儀ではリヒテルがラフマニノフを演奏した。

 

top

 

チェンバロピアノ01ピアノ02チェロ
バイオリン01
バイオリン02声楽01声楽02
<ピアニスト1>

 

↑このページの最初へ

bians

freedom


バースデザイン研究所ビアンス_創造と調和
プロニティ理論ヘキサグラム幾何学
ラブソング_もっとやさしく
グランブルーな人々へデザイン寺子屋
アロット_ちょっと古きもの
アンディムジーク
メモランダム今月の言葉why?NEXT
県別リンク集ヒューマニストニュースのかけら
知らない国を知るために世界のインテリジェンス
サイトポリシーサイトマップサイトリンク
著作権お問い合わせWORKS