シューベルト
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バイオリン
バイオリン


<声楽家1>

ジュゼッピーナ・ストレッポーニ
(Giuseppina Clelia Maria Josepha Strepponi Verdi, 1815年9月8日 - 1897年11月14日)は、19世紀前半に活躍したイタリアのソプラノ歌手である。早くに引退したこともあり、今日ではむしろジュゼッペ・ヴェルディの妻(後妻)として有名である。

1834年にオペラ歌手としてデビューを飾り、1835年、トリエステで上演されたロッシーニ『シャブランのマティルデ(Matilde di Shabran, ossia Bellezza e cuor di ferro )』で最初の成功を得た。同年中にはウィーンでも歌い、ベッリーニ『ノルマ』アダルジーザ役、同『夢遊病の女』アミーナ役(主役)で大成功、特に『夢遊病の女』は彼女の十八番となった。

アデリーナ・パッティ
(Adelina Patti 1843年2月19日 - 1919年9月27日)は、19世紀に非常に高い評価を得ていたソプラノオペラ歌手。キャリアの絶頂期には、ヨーロッパやアメリカの音楽の中心地における活動で巨額の富を築いた。作曲家のジュゼッペ・ヴェルディは1877年に、パッティについておそらくかつてないほど優れた歌い手であり、「途方もない芸術家」であると記している。ヴェルディのパッティの才能に対する称賛は、同時代の多くの音楽批評家や社会評論家にも共通する意見であった。

リザ・レーマン
(Liza Lehmann, 1862年7月11日 ロンドン - 1918年9月19日 )は、イングランドのオペラ歌手(ソプラノ歌手)。また、主に歌曲の作曲家としても名を遺した。1885年11月23日にマンデイ・ポピュラー・コンサートにおいて声楽家としてデビューし、以後9年間イングランドの重要な演奏会に演奏者として携わり、ヨーゼフ・ヨアヒムやクララ・シューマンら、ヨーロッパ大陸の重要な音楽家からも激励を受けた。


エンリコ・カルーソー
(Enrico Caruso, 1873年2月25日 - 1921年8月2日)はオペラ史上最も有名なテノール歌手の一人。20世紀最初の20年間という時代もあって、カルーソーは円盤型蓄音機の普及を助け、それが彼の知名度も高めた。カルーソーが行った大衆的なレコード録音と彼の並外れた声、特にその声域の広さ、声量と声の美しさによって彼は当時の最も著名なスター歌手となったのである。


マリー・グートハイル=ショーダー
ウ)は、20世紀前半の最も重要なドイツ人ソプラノ歌手の一人。マーラーからは天才と呼ばれ、声楽家や舞台女優としても高い評価を受けていたが、さるウィーンの評論家が記したように、どうやら「声に恵まれない歌手」だったらしい。1927年から1933年までオペラの演出家(舞台監督)を務め、ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院では講座を開いている。

ティッタ・ルッフォ
Titta Ruffo, 1877年6月9日 - 1953年7月6日)は、イタリアのバリトン歌手。その大声量と力強い表現力から20世紀前半最高のバリトン歌手の一人とされる。ピサに貧しい金属工の息子として生まれる。若い頃は父親と同様の職人となるべくイタリア各地を徒弟奉公する。その美声は職人仲間で評判となり、ローマで親方の勧めもあり聖チェチーリア音楽院の聴講をするに至った。ルッフォの歌唱法はしばしば「歌唱でなく絶叫」と批判されたように、19世紀後半から同時代にかけてのバリトン――例えばモレル、バッティスニーニ、デ・ルーカ――の滑らかで優雅なそれとは明らかに一線を画するものであり、決して万人に受け入れられたものではなかったようである。

アルマ・グルック
(Alma Gluck、1884年5月11日 - 1938年10月27日)は、ルーマニア出身のソプラノ女性歌手。ユダヤ系。ドイツで活動した後、アメリカ合衆国に移住、オペラ歌手として華々しい成功をとげた。レオポルト・アウアー門下の名ヴァイオリニストエフレム・ジンバリストと結婚し、2児をもうけ、内臓疾患により急病するまで穏やかな家庭生活を築いた。グルックが録音したレコード「なつかしのヴァージニア」(Carry Me Back to Old Virginny) は、クラシック音楽家としては初めてとなる 100万枚以上のセールスを記録した。

ニノン・ヴァラン
(Ninon Vallin, 1886年9月8日 - 1961年11月22日)は、フランスのソプラノ歌手。イゼール県モンタリュー=ヴェルシュー生まれ。リヨン音楽院で学び、1911年にドビュッシーの知己を得、彼の作品である《聖セバスティアンの殉教》の初演に参加した。その後もドビュッシーが亡くなるまでたびたび共演していた。


エリザベート・シューマン
(Elisabeth Schumann, 1888年6月13日 テューリンゲン - 1952年4月23日 ニューヨーク、1885年誕生説あり)は、ドイツのソプラノ歌手。オペラやオペレッタから、オラトリオや世俗歌曲まで、幅広いレパートリーを誇り、豊かな録音を後世に遺した。生き生きとした表情や優雅さ、美貌によって愛され、評価された。

リヒャルト・シュトラウスやオットー・クレンペラー、ロッテ・レーマン、ブルーノ・ワルター、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなど、往年のドイツ楽壇の錚々たる顔ぶれと親しかった(クレンペラーの事実上の愛人だったと伝えられる)。


ティート・スキーパ
(Raffaele Attilio Amadeo "Tito" Schipa, 1889年1月2日 - 1965年12月16日、誕生日は出生届による)は1910年代から40年代にかけて活躍したイタリアのテノール歌手である。イタリアでも最貧困地域であったレッチェの極貧家庭に生まれる。少年時代からその美声は教会で知られるところとなり、やがて19歳のとき、かつてメルカダンテの弟子であった音楽教師に見出されてミラノで声楽を学ぶ機会を与えられた。20歳になったばかりの1909年2月、早くも北イタリア、ヴェルチェッリの小劇場でヴェルディ『ラ・トラヴィアータ』アルフレード役でデビュー

レナート・ザネッリ
(Renato Zanelli Morales, 1892年4月1日 - 1935年3月25日)は、チリ出身のオペラ歌手。はじめバリトンとしてデビューした後、テノールに転向した。特にヴェルディ『オテロ』題名役での歌唱で高い評価を得た。1911年までヨーロッパで過ごす。19歳で兵役に服するため帰国し、除隊後、チリに客演していたイタリア人歌手にその美声を認められ、初めて本格的な声楽の訓練を受ける。

ローレンス・ティベット
(Lawrence Mervil Tibbett, 1896年11月16日 - 1960年7月15日)は、アメリカ合衆国のバリトン歌手。強靭な声、大声量、滑らかなレガート、優れた演技力によって第二次世界大戦前の最も有名なバリトン歌手の一人として知られ、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場を本拠に多くの出演を行った。

1896年、カリフォルニア州ベーカーズフィールドに、同地の副保安官の三男として生まれる。7歳のとき父親はギャングとの撃ち合いで殉職、ティベットは寡婦となった母および兄姉とともにロサンジェルスに転居し、やがて同市の演劇・音楽学校に進んだ。

シャルル・パンゼラ
(Charles Panzera, 1896年2月16日 ジュネーヴ − 1976年6月6日 パリ)は、スイス出身のバリトン歌手。フランスを拠点にオペラやコンサートで活躍した。天性のリリック・バリトンであるパンゼラの、温かく表情豊かな声は、芸術歌曲の精妙な世界において存分に発揮された。メロディやリートの解釈で世界的に有名になると、ほぼ40年にわたって積極的に演奏旅行を行なった。フォーレ以外に、ヴァンサン・ダンディやジョゼフ=ギィ・ロパルツ、アルベール・ルーセル、アルテュール・オネゲル、ダリウス・ミヨーらと個人的に協力し、その声楽曲を初演した。

ヨーゼフ・シュミット
(Joseph Schmidt, 1904年3月4日 - 1942年11月16日)はユダヤ人のテノール歌手・映画俳優。タウバー、ヤーライ、キープラと共に戦前のドイツ語圏に於けるオペレッタと音楽映画の黄金時代を飾ったスターテノールの一人で、ナチス・ドイツの犠牲となり悲劇の夭折を遂げた。1925年からはワイセンボーンの発明者であり、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの師であるヘルマン・ヴァイセンボルンに師事した。


ハンス・ホッター
(Hans Hotter, 1909年1月19日 - 2003年12月6日)は、ドイツのバスバリトン歌手である。1909年 ドイツのオッフェンバッハ・アム・マインで生まれる。ミュンヘン音楽大学でレーマーに学ぶ。1930年 トロッパウで『魔笛』の弁者を歌ってオペラデビュー。1932年 プラハ国立歌劇場で歌う。1934年 ハンブルク国立歌劇場で歌う。1937年 バイエルン国立歌劇場のメンバーになる。R.シュトラウスの作品に重用され、『平和の日』『カプリッチョ』などの初演に出演する。

ピーター・ピアーズ
(Sir Peter Neville Luard Pears, 1910年6月22日 ファーナム - 1986年4月3日 オールドバラ)は、イギリスのテノール歌手。作曲家ベンジャミン・ブリテンの生涯にわたるパートナーとして知られた。

サリーのファーナムに生まれたピアーズはオックスフォード大学キーブル・カレッジで音楽を学ぶかたわら、同大学ハートフォード・カレッジのオルガニストを務めた。キーブル・カレッジを中退後は王立音楽大学で2学期間声楽を学んだ。



ユッシ・ビョルリング
(Jussi Bjorling, 1911年2月5日 - 1960年9月9日)は、スウェーデン出身のテノール歌手。独特の品格、清澄な透明感、また輝かしさもそなえた美声で広く知られた。1930年同地の王立歌劇場で正式デビュー(役はドン・オッターヴィオ/モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』)。同劇場所属の時代に再び活発な録音活動を行なって、世界的に評判を高めていく。1960年、ストックホルムにて心臓発作で死去。49歳没。ステレオ録音本格化時代に入り、録音での更なる活躍も期待された矢先だった。


ティート・ゴッビ
(Tito Gobbi, 1913年10月24日 - 1984年3月5日)は、イタリアのバリトン歌手。演技派として知られる。バッサーノ・デル・グラッパに生まれ、パドヴァ大学にて法学を学んだ後ジューリオ・クリーミに声楽を学ぶ。スカルピア役で1958年パリおよび1964年ロンドンでのカラスとの共演(ただし第2幕のみ)がそれぞれ映像で残されており、彼の演技の素晴らしさをうかがわせる。また第二次世界大戦終戦直後には多くの映画にも主演しており、中には女優ジーナ・ロロブリジーダと共演したフィルム数本もある。


エリーザベト・シュヴァルツコップ
(Olga Maria Elisabeth Frederike Schwarzkopf, 1915年12月9日 - 2006年8月3日)は、ドイツのソプラノ歌手で、ドイツのオペラと歌曲における優れた歌唱で知られる。フィッシャー=ディースカウとは理知的な歌唱、技術の高さ、広範なレパートリーでドイツ声楽界をリードした業績などが男女の双璧といわれるが、ドイツ語に強い誇りとこだわりを持つ点も共通している。言葉のニュアンスをじゅうぶん理解せずに歌う行為を嫌い、自身も外国語の歌唱には比較的慎重である。


アルダ・ノーニ
(Alda Noni, 1916年4月30日 - 2011年5月19日)は、イタリアのソプラノ歌手。コロラトゥーラタイプのソプラノとして、モーツァルトやロッシーニ、ドニゼッティなどのオペラに深い適性を示した。アルダ・ノーニは1916年4月30日に、トリエステで生まれる。生地の音楽院で声楽とピアノを修めた後、ウィーンで声楽を学び、1937年にリュブリャーナでロッシーニ『セビリアの理髪師』のロジーナ役を歌ってデビューを果たした。

アストリッド・ヴァルナイ
(Astrid Varnay, 1918年4月25日 - 2006年9月4日)は、ハンガリー系アメリカ人の声楽家。ソプラノ歌手として主にオペラで活躍した。スウェーデン生まれでドイツに亡くなっている。18歳で歌手になることを決心し、母親から猛烈な声楽の指導を受ける。1年後にフラグスタートが手はずを整え、メトロポリタン歌劇場の指導員ヘルマン・ヴァイゲルト(1890年〜1955年)の薫陶を受ける。22歳になるまでにハンガリー語やドイツ語、英語、フランス語、イタリア語を覚え、ワーグナー作品の11の役柄を含めて、ソプラノ・ドラマティコの重要な15の役柄を身に付けた。

ジュゼッペ・ディ・ステファーノ
(Giuseppe Di Stefano, 1921年7月24日 - 2008年3月3日 )は、イタリアのテノール歌手。1940年代から1970年代前半にかけて活躍した。マリア・カラスとの公私にわたる深い関係でも有名。

シチリア島・カターニア近郊の小村モッタ・サンタナスタージアに生まれる。両親が靴の修理屋と裁縫を営む貧しい家庭の一人息子であった。司祭となるべく、ミラノのイエズス会修道院で学ぶが、そこで美声を認められ、有名なミラノのドゥオーモの合唱隊に入る。

セーナ・ユリナッチ
(Sena Jurinac, 1921年10月24日 - 2011年11月22日)は、ソプラノ歌手。『ばらの騎士』のオクタヴィアンなどで有名。1921年10月24日、ボスニアの小都市トラヴニクに生まれる。父はクロアチア人で、母はオーストリア人。ザグレブ音楽院で声楽を学び、1942年にザグレブの歌劇場で『ボエーム』のミミ役でデビュー。1944年、23歳の時にカール・ベームの招きでウィーン国立歌劇場と契約。


エットーレ・バスティアニーニ
(Ettore Bastianini, 1922年9月24日 - 1967年1月25日)は、イタリアのバリトン歌手。特にヴェルディのオペラで優れた歌唱を残した。シエナで父親不在の貧しい家庭に生まれ、地元の合唱団にバスとして参加、兵役の後1946年に『ラ・ボエーム』(プッチーニ)のコッリーネ役で初舞台を踏む。バス歌手としてもそこそこの評価を得ていたらしく、1948年には『エディプス王』(ストラヴィンスキー)のティレシアス役でスカラ座デビューも果たしている。

ソプラノでレナータ・テバルディとマリア・カラス、テノールではマリオ・デル=モナコ、ジュゼッペ・ディ・ステファーノ、フランコ・コレッリなど群雄割拠の「オペラ黄金時代」1950年代にあってそれら大歌手と共演して数々の名舞台、名録音を残している。


ジャンニ・ライモンディ
(Gianni Raimondi, 1923年4月13日 - 2008年10月19日)は、1950年代から1970年代にかけて活躍したイタリアのテノール歌手。輝かしい高音を響かせる代表的なリリコ・テノーレとして幅広いレパートリーを誇り、ミラノ・スカラ座を中心に活躍した。1956年には、ミラノ・スカラ座にデビュー、カルロ・マリア・ジュリーニの指揮のもとマリア・カラスと共演、ヴェルディ『ラ・トラヴィアータ』アルフレード役を歌った。


マリア・カラス
(Maria Callas、1923年12月2日 - 1977年9月16日)は、ソプラノ歌手である。ニューヨークで生まれパリで没し、20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。特にルチア(ランメルモールのルチア)、ノルマ、ヴィオレッタ(椿姫)、トスカなどの歌唱は、技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で際立っており、多くの聴衆を魅了すると共にその後の歌手にも強い影響を及ぼした。カラスの特に傑出した点は、そのテクニックに裏打ちされた歌唱と心理描写と演技によって、通俗的な存在だったオペラの登場人物に血肉を与えた事であろう。必ずしも美声とはいえない持ち前の個性的な声質をすら武器にして、ベルカントオペラに見られるありきたりな役どころにまで強い存在感を現した。

ジェニー・リンド
(Johanna Maria Lind 1820年10月6日 - 1887年11月2日)は、スウェーデンのオペラ歌手。ジェニー・リンドとしてよく知られており、しばしば「スウェーデンのナイチンゲール」と称された。19世紀において最も注目を集めた歌手の一人であり、スウェーデンやヨーロッパ中でソプラノの役を演じていた。

メンデルスゾーンは彼女と様々な機会に共に仕事をしており、彼女のためにライン川の少女ローレライ伝説に基づくオペラ「ローレライ」の作曲に着手していた。しかし、これは彼の死によって完成されずに終わった。

イヴァン・メルニコフ
Ivan Aleksandrovich Melnikov、1832年3月4日(ユリウス暦2月21日) - 1906年7月8日(ユリウス暦6月25日))は、帝政ロシア時代の有名なオペラ歌手(バリトン)。サンクトペテルブルクに生まれる。1850年に商業学校を卒業する。1861年から1866年までの間、無料音楽学校の校長を務めたガヴリイル・ロマーキンに声楽の個人レッスンを受ける。1866年、イタリアに赴き研鑽を積み、翌1867年、マリインスキー劇場で上演されたヴィンチェンツォ・ベッリーニのオペラ『清教徒』のリッカルドを歌いデビューする。

エマ・アルバーニ
(Dame Emma Albani, 1847年11月1日 - 1930年4月3日)は19世紀と20世紀初頭において先導的な役割を果たしたソプラノ歌手であり、また国際的スターにまで登り詰めた最初のカナダの歌手 。1868年にアルバーニはパリに赴き、パリ音楽院でジルベール・デュプレの下で学んだ。6ヶ月のパリでの修業の後、彼女は次にイタリアに向かい、そこでフランチェスコ・ランペールティよりイタリア・オペラ歌唱法を学ぶ。

フローレンス・フォスター・ジェンキンス
(Florence Foster Jenkins、1868年7月19日 - 1944年11月26日)は、米国のソプラノ歌手。歌唱能力が完全に欠落していたことで有名である。彼女の演奏したレコードを聴くと、ジェンキンスは音程とリズムに関する感性がほとんどなく、極めて限られた声域しか持たず、一音たりとも持続的に発声できないこと、伴奏者が彼女の歌うテンポの変化と拍節の間違いを補って追随しているのがわかる。にもかかわらず、彼女はその型破りな歌いぶりで大変な人気を博した。

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アントニーナ・ネジダーノヴァ
Antonina Vasil'evna Nezhdanova、1873年6月16日、オデッサ近郊クリヴァヤ・バルカ ― 1950年6月26日、モスクワ) はロシア及びソヴィエト連邦のソプラノ歌手。ロシアの声楽界を代表する歌手の一人である。

夫は指揮者のニコライ・ゴロワノフ。彼女が演じた主な役にはグリンカ『ルスランとリュドミラ』のリュドミラやチャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』のタチアナ、ロッシーニ『セビリアの理髪師』のロジーナ、ドリーブ『ラクメ』のラクメ、リムスキー=コルサコフ『雪娘』の雪娘、『サトコ』のヴォルホヴァ、『金鶏』のシェマハの女王などがある。

メアリー・ガーデン
(Mary Garden, 1874年2月20日 − 1967年1月3日)は、フランスとアメリカ合衆国でオペラ歌手として活躍したスコットランド人ソプラノ歌手。「オペラ界のサラ・ベルナール」と評されているように、有能な声楽家であっただけでなく、演技力に秀でた女優でもあった。声色の興味深い使い分けをする陰翳に富んだ演技は、特に称賛の的であった。広い声域と柔軟性に恵まれた美声によって、1900年代のパリで最初の成功を掴んだ。


アメリータ・ガリ=クルチ
(Amelita Galli-Curci、1882年11月18日 − 1963年11月26日 )はイタリアのコロラトゥーラ・ソプラノ。20世紀初頭の最も偉大な女声声楽家の一人に数えられている。他人のソプラノ歌手の歌唱を傾聴したり、発声法の書かれた古い教本に目を通したり、歌いながらピアノを練習したりすることで、自らの選択でほとんど独学で声楽を習得した。ガリ=クルチは、インド人の導師(グル)パラマンサ・ヨガナンダに瞑想法とヨガを師事した。ヨガナンダの著書『永遠からの息吹(Whispers from Eternity )』(1929年)には、序文を寄せている。


ジョヴァンニ・マルティネッリ
(Giovanni Martinelli, 1885年10月22日 - 1969年2月2日 )は、1920年代から1940年代にかけて活躍したイタリアのテノール歌手である。輝かしい高音、ドラマティックな表現にすぐれ、主としてニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で活躍した。

ヴェネト州モンタニャーナに建具屋の息子として生まれる。マルティネッリは20歳のとき応召し、軍楽隊でクラリネットを吹くことになったが、音楽を学ぶ過程で声楽の才を見出され、除隊後はミラノで声楽の研鑽を積むことになった。

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マリア・イェリッツァ
(Maria Jeritza, 1887年12月6日 ブルノ - 1982年7月10日 ニュージャージー州オレンジ)は、ドイツとオーストリアを中心に、フランスからロシアまで欧州各地で幅広く活躍した名ソプラノ歌手。オペラ界で活躍し、ヤナーチェクやコルンゴルトのような19世紀末から20世紀初頭の新作オペラに初演者として名を連ねた。とりわけリヒャルト・シュトラウスのお気に入りのプリマドンナとして有名で、その楽劇の初演に抜擢されただけでなく、(彼女が上演に加わらなかったものも含めて)いくつかの作品は彼女の声を念頭において作曲されている。

ロッテ・レーマン
(Charlotte (Lotte) Lehmann, 1888年2月27日 - 1976年8月26日)は、ドイツのソプラノ歌手。彼女は主としてドイツ語で歌われるオペラや歌曲をレパートリーとしており、リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』のマルシャリンは、彼女のオペラ歌手人生の中で最も記憶に残る役と考えられている。1926年、彼女はザルツブルク音楽祭にデビューし、1937年までアルトゥーロ・トスカニーニなどの大指揮者の棒のもとで歌い、またブルーノ・ワルターのピアノ伴奏でリサイタルも催している。

ベニャミーノ・ジーリ
(Beniamino Gigli, 1890年3月20日 - 1957年11月30日)は、イタリアのテノール歌手。20世紀前半の最も偉大なオペラ歌手の一人である。ジーリはイタリアのアンコーナ近郊のレカナーティで、オペラファンで靴屋の父のもとに生まれた。1914年パルマで行われた国際声楽コンクールで1等賞を取った。彼のオペラ・デビューは1914年10月15日で、ロヴィーゴにおいてポンキエルリの『ジョコンダ』でエンツォ役を歌ったもので、非常に注目された。

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ジャコモ・ラウリ=ヴォルピ
(Giacomo Lauri-Volpi, 1892年12月11日 - 1979年3月17日)は、1920年代から1950年代にかけて活躍したイタリアのテノール歌手である。ローマ近郊ラヌヴィオに生まれる。ローマ・ラ・サピエンツァ大学にて法学の学位を得るが、声楽を志してサンタ・チェチーリア国立アカデミーに入学、著名なバリトン歌手、アントニオ・コトーニに師事する。同アカデミーでの勉学は第一次世界大戦に従軍したため中断したが、復員後、1919年9月にヴィテルボの劇場で、テノール歌手としてのデビューを飾った。

マドレーヌ・グレイ
(Madeleine Grey, 1896年6月11日 − 1979年3月13日)は、フランスの声楽家。通常はソプラノ歌手に分類されるが、メゾソプラノの声域にもレパートリーを持っていた。パリ音楽院に入学してピアノをアルフレッド・コルトーに、声楽をアメデー=ルイ・エティックに師事。

間もなく声楽家としての比類ない力量が認められ、1919年にはパドルー管弦楽団と共演してパリにデビューした。この最初の公演には、ガブリエル・フォーレとモーリス・ラヴェルが出席しており、やがて両者とも自作の演奏会で彼女に密に協力するようになった。


ミゲル・フレータ
(Miguel Burro Fleta, 1897年12月28日 - 1938年5月30日、誕生日には異説あり)はスペインのテノール歌手。活躍期間は短かったが、そのドラマティックな声質と劇的な表現で知られた。スペイン北東部、アラゴン州ウエスカ県に生まれる。農業に従事するかたわら11歳から声楽を始め、1917年、20歳のときサラゴサで初舞台を踏む。1925年からは故国スペインと隣国ポルトガルを活動の中心とする。世界各地で絶賛された30歳前のこの若きテノールは本国では右に出るもののない大スター扱いであり、彼は巨万の富を入手した。

マリオ・フィリッペスキ
(Mario Filippeschi, 1907年6月7日 - 1979年12月25日)は1940年代から50年代にかけて活躍したイタリアのテノール歌手である。ピサ県のモンテフォスコリ(パラーイア)に農家の四男として生まれる。特にオペラに関心のある一家でもなかったし、彼自身も歌唱に縁遠い少年時代を送ったという。20歳で入営し3年間務めた軍務中、フィリッペスキは余興で流行歌などを歌う機会があり、それが同僚・上官に好評だったことで、彼は初めて自らの声楽の才能に開眼、除隊後に声楽のレッスンを開始する。

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エーリッヒ・クンツ
(Erich Kunz, 1909年 - 1995年)はウィーン生まれのオペラ歌手。喜劇的なバリトン役を得意とし、特にモーツァルトにかけては絶対不動の地位を占め続けた。ウィーン国立歌劇場には1940年から所属しているが、同劇場の戦後分だけで、フィガロ249回、パパゲーノ338回、レポレロ211回という、今日では近づくのも不可能な記録を打ち立てている。他に『こうもり』ではファルケやフランク、『コシ・ファン・トゥッテ』のグリエルモ、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のベックメッサーも得意とする。ドイツ学生歌やドイツ民謡の録音も多く残した。


レナード・ウォーレン
(Leonard Warren, 1911年4月21日 - 1960年3月4日)は、アメリカのバリトン歌手。ヴェルディ作曲のオペラでの傑出した歌唱で名高い。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で活躍し、その舞台上で急死したことでも有名。

「溶けるような」と評される美しい声色、巧みなブレス・コントロール、バリトンには類まれな高音部の輝き(彼は「トロヴァトーレ」マンリーコ役(テノール)の有名な難アリア「見よ、恐ろしい火を」のハイCを歌い上げ、同僚のテノール歌手の度肝を抜いたという逸話がある)


ラモン・ヴィナイ
Ramon Mario Francisco Vinay Sepulveda, 1912年8月31日 - 1996年1月4日)は、チリ生まれのオペラ歌手。1940年代から60年代にかけてテノールおよびバリトンの両声域で活躍した。特にヴェルディ『オテロ』に多く出演したことで有名。幼くして母親を亡くし、1920年に父親らと共にフランスに移住、ディーニュ=レ=バンに育つ。1928年には単身でメキシコに再移住、同地で歌唱の才能を認められ、初めバリトンとして訓練を受ける。

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マリオ・デル=モナコ
(Mario Del Monaco、1915年7月27日ガエータ - 1982年10月16日メストレ)は、イタリアの名テノール歌手。ペーザロの音楽院にてA.メロッキに声楽を学び、1937年にはトゥリオ・セラフィンに招かれローマ歌劇場で研鑽。1941年にミラノでプッチーニの『蝶々夫人』でピンカートンを歌って初舞台を踏む。日本には1959年のNHK主催の「第2回イタリアオペラ公演」で初来日し『オテロ』(オテロ)、『カルメン』(ドン・ホセ)に出演。


ルドルフ・ショック
(Rudolf Schock、1915年9月4日 - 1986年11月13日)は、ドイツのテノール歌手。1932年に父が早逝、兄弟達は酒場やイベントなどで民謡や流行歌などを歌い家計を支えた。1932年、姉のエルフリーデと共にデュイスブルク市立劇場の歌劇場合唱団に加わり、間もなくケルンのピルケン教授に師事、ソロとしての活躍を始めた。生前、ショックが軽音楽を頻繁に歌うことを疎ましく思う評論家も居たが、ショック自身は「親しみやすい音楽を聞いてもらうことで新しい世界を切り拓くことができる」と反論した。


ジェラール・スゼー
(Gerard Souzay, 1918年12月8日 − 2004年8月17日)は、フランスの声楽家。シャルル・パンゼラやピエール・ベルナック以降の世代の中で、近代フランス芸術歌曲の解釈に最も秀でたバリトン歌手と認められた。スゼーは比類ない語学力に恵まれ、ポルトガル語やロシア語、ヘブライ語を含めて13の言語を操ることができたため、歌唱に説得力を持たせることができた。同時代の音楽では、アルテュール・オネゲルの《死の舞踊(La danse des morts)》の上演や、イーゴリ・ストラヴィンスキーの《聖歌 (Canticum sacrum)》の世界初演にも加わっている。

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ビルギット・ニルソン
(Birgit Nilsson, 1918年5月17日 - 2005年12月25日)はスウェーデンのソプラノ歌手。ニルソンはマルメから100キロ北にあるヴァストラ・カルップス(Va¨stra Karups)で生まれ、本人の回想によれば歩き出す前から歌い始めていたという。彼女は教会の聖歌隊で歌った後、ストックホルムの王立音楽院で学んでいる。

ニルソンはワーグナーばかりを歌っていたという訳でもなく、多くのドラマティック・ソプラノのレパートリーを手がけており、多くの録音も残されている。代表的な役を挙げるとレオノーレ、アイーダ、トゥーランドット、トスカ、エレクトラそしてサロメなど枚挙に暇がない。

マリオ・ランツァ
(Mario Lanza、1921年1月31日 - 1959年10月7日)は、アメリカ合衆国の歌手、映画俳優。力強い独特なテノールの歌唱でコンサート、ラジオ番組への出演等を通じ、時代の寵児となった。1942年に同地を訪れた21歳のときユダヤ系ロシア人指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーに出会う。クーセヴィッキーは直ちにアルフレードの才能を見出し、マサチューセッツ州タングルウッドのバークシャー音楽センターへ奨学生としてランツァを送りこむ。

フランコ・コレッリ
(Franco Corelli, 1921年4月8日 - 2003年10月29日)は、イタリアのテノール歌手。劇的表現に適したスピント系の美声、力感あふれる歌唱、輝かしい高音で知られ、激発性をも含んだ情熱、悲劇性の表現に秀でて高い人気を誇った名テノール。アンコーナに生まれ、ペーザロの音楽院で学ぶ。造船会社で会社員生活も送ったが、1951年フィレンツェ5月音楽祭声楽コンクールで優勝、同年スポレートのテアトロ・ヌオーヴォで『カルメン』のドン・ホセを歌ってデビューを飾る。

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ステファニア・ヴォイトヴィチ
Stefania Woytowicz、1922年10月8日 - 2005年8月31日)は、ポーランドを代表する最も優れた声楽家(ソプラノ)のひとり[1]。ヴォイトヴィチは、ワルシャワで開催される現代音楽祭「ワルシャワの秋」には何度も参加し、カロル・シマノフスキ、クシシュトフ・ペンデレツキ、タデウシュ・バイルト、ヘンリク・グレツキ、ボレスワフ・シャベルスキ、クシシトフ・メイエル(Krzysztof Meyer: en)、エドヴァルト・ボグスワフスキ(Edward Bogus?awski)らの作品を歌った。


レナータ・テバルディ
(Renata Ersilia Clotilde Tebaldi, 1922年2月1日 - 2004年12月19日)は、イタリアのオペラ歌手(ソプラノ)。1950年代から1960年代にかけてのミラノ・スカラ座の黄金期に活躍し、20世紀後半におけるイタリア・オペラの代表的な歌手と見なされている。1950年代から1960年代にかけてイタリア・オペラ界でマリア・カラスと人気を二分する人気を得た。またマリオ・デル=モナコ、ジュゼッペ・ディ・ステファノ、フランコ・コレッリ、ジュリエッタ・シミオナートなどの名歌手と共演し、数々の名舞台とともに優れたレコード録音を行ったことも特筆すべきである。

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チェンバロ12チェロ
バイオリン
バイオリン
<声楽家1>


 

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