■オーギュスト・フランショーム
(Auguste-Joseph Franchomme、1808年4月10日 リール - 1884年1月21日 パリ)はフランスのチェリスト・作曲家・音楽教師。フェリックス・メンデルスゾーンが1831年にパリを訪れると親交を結び、フレデリック・ショパンとも親しくなった。
ショパンは、チェロとピアノのための《ジャコモ・マイヤベーアの歌劇「悪魔ロベール」の主題による協奏的大二重奏曲》をフランショームと合作し、フランショームはショパンの《華麗なるポロネーズ》作品3のチェロ・パートを手直ししている。
■ダーヴィト・ポッパー
(David Popper、1843年6月16日 - 1913年8月7日 バーデン・バイ・ウィーン)は、オーストリア=ハンガリー二重帝国のチェロ奏者・作曲家。ユダヤ系チェコ人。1863年に最初の演奏旅行を行い、ドイツでとりわけハンス・フォン・ビューローの称賛を浴びる。1872年に、フランツ・リスト門下の女性ピアニスト、ゾフィー・メンター(1846年〜1918年)と結婚するが、1886年に離婚した。1896年よりブダペスト音楽院で教鞭を執る。フバイと親しかったが、バルトークと犬猿の仲であったといわれる。
■ユリウス・クレンゲル
(Julius Klengel 1859年9月24日 - 1933年10月27日)は、ドイツのチェリスト。チェロのための練習曲や小品で知られる。ライプツィヒに法律家の息子として生まれ、エミール・ヘーガー(Emil Hegar)に学んだ。15歳のとき、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に入団し、ヨーロッパやロシアを演奏旅行する。このとき同時にソリストとしてもデビュー。
■レオ・スターン
(Leo Stern, *1862年4月5日 − †1904年9月10日)はイングランドのチェリスト。1896年にソリストとして、アントニン・ドヴォルジャークの《チェロ協奏曲ロ短調》作品104をロンドンで世界初演した。当初はサウスケンジントン大学理学部で化学を学ぶかたわら、フーゴー・ダウベルトにチェロの個人指導を受けていた。実業家として1880年から1883年までグラスゴー近郊のソーンリーバンクに勤めるが、結局は化学を投げ出して王立音楽院に入学し、チェロをさしあたってアレッサンドロ・ペッツェに、次いでカルロ・アルフレード・ピアッティに師事した。
■ピエール・フルニエ
(Pierre Fournier ,1906年6月24日 - 1986年1月8日)はフランスのチェロ奏者。気品のある容貌と格調の高い表現、優雅で洗練された演奏で「チェロの貴公子」と呼ばれた。独奏者として優れていただけでなく、世界的な名手たちとの室内楽を多く手がけた。親日家としても知られる。同時代の作曲家たちからは、フランシス・プーランクのチェロソナタ、ボフスラフ・マルティヌーのチェロ協奏曲、フランク・マルタンのチェロ協奏曲などがフルニエに献呈されている。
■エマーヌエル・フォイアーマン
(Emanuel Feuermann, 1902年11月22日 コロミヤ Kolomyia - 1942年5月25日)は現在のウクライナ出身のユダヤ系で、オーストリア→アメリカのチェリスト。芸術的・年齢的にパブロ・カザルスに次ぐチェロの巨匠として期待されたが、若くして亡くなった。クレンゲルに学んだものの19世紀以来の伝統的奏法には馴染まず、カザルスの奏法を間接的に受け継いで独自の奏法を編み出していった。
■アンドレ・ナヴァラ
(Andre-Nicolas Navarra、1911年10月13日 - 1988年7月31日)は、フランスのチェリスト・音楽教師。ピエール・フルニエやポール・トルトゥリエ、モーリス・ジャンドロンらと並んで、フランスのチェロ楽派の偉大な伝統の継承者である。1933年にパリ・オペラ座管弦楽団に入団し、ワルター・ストラーラムやアルトゥーロ・トスカニーニ、ブルーノ・ワルター、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮で演奏する。
■アントニオ・ヤニグロ
(Antonio Janigro, 1918年1月21日-1989年5月1日) はイタリアのミラノ生まれの、チェリスト、指揮者、教育者。アントニオ・ヤニグロの父はピアニストを目指していたが、戦争で腕を撃たれキャリアを断念していた。アントニオ・ヤニグロは6歳でピアノ、8歳でジョバンニ・ベルティ(Giovanni Berti)からチェロを習う。ヤニグロはすぐさまこの楽器の虜になり、数年後にはミラノ音楽院に入学が認められ、ジルベルト・クレパック(Gilberto Crepax)に師事した。
■ダニイル・シャフラン
Daniil Shafran, 1923年1月13日 ペトログラード - 1997年2月7日 モスクワ)はソビエト・ロシアのユダヤ系チェリスト。シャフランは生涯にわたって守り続けた訓戒(勤勉かつ規則的な練習、最高の目標に対する努力の重要性)を吸収した。この時に固く決めた原則は、作品が要求する演奏力を遥かに超越して演奏できるようになること。それによって技術的障害を克服することであった。
■ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
Mstislav Leopol'dovich Rostropovich, 1927年3月27日 - 2007年4月27日 )はアゼルバイジャン(旧ソビエト連邦)出身のチェリスト・指揮者。特にチェリストとしては20世紀後半を代表する巨匠として名高い。チェリストとしてのロストロポーヴィチは、圧倒的な技巧と豊かな音量に裏付けられた、スケールの大きな表現性で広く知られた。
レパートリーはバロック音楽から現代音楽まで幅広い。室内楽では、ホロヴィッツ、リヒテル、ギレリス、アルゲリッチ、コーガン、オイストラフら世界的演奏家と共演した。ロストロポーヴィチは芸術や言論の自由を擁護する立場から、さまざまな活動を繰り広げた。とりわけソビエト時代に物理学者アンドレイ・サハロフを擁護したことや、アレクサンドル・ソルジェニーツィンに別荘の車庫を仕事場として提供し、4年間かくまったことが知られる。
■アンナー・ビルスマ
Anner Bijlsma1934年2月17日 - )はオランダのチェロ奏者。バロック・チェロの先駆者かつ世界的な名手として知られる。ビルスマは、バロック・チェロと使用されるガット弦の特徴を活かし、親密で語るようなフレージング、多彩なニュアンスを聴かせる。
アムステルダム及びハーグ音楽院で教授を務め、ピーター・ウィスペルウェイや鈴木秀美を育てた。また、アンナ・マクダレーナ・バッハの写譜が残されている作品のボウイングについて研究書を著している。
■アルト・ノラス
(Arto Noras,1942年5月12日 トゥルク - )は、フィンランド出身のチェリストである。世界を代表するチェリストの一人である。8歳の時にヘルシンキのシベリウス・アカデミーでユリヨ・セリンにチェロを学ぶと同時に師事し、その後はパリ音楽院でポール・トルトゥリエのマスタークラスで研鑽を積む。1964年にプルミエ・プリを得て卒業する。
■ジョルディ・サバール
(Jordi Savall, 1941年8月1日 - )は、スペインのヴィオラ・ダ・ガンバ奏者、指揮者。バーゼル・スコラ・カントルムでヴィオラ・ダ・ガンバを学ぶ。1974年にオリジナル楽器使用のエスペリオンXX(現エスペリオンXXI)を設立。
1987年に声楽アンサンブルのラ・カペイラ・レイアルを、1989年にはコンセール・デ・ナシオンを設立。ルネサンスやバロックなどの作品を得意とするが、近年19世紀の音楽も演奏している。
■ミッシャ・マイスキー
(Mischa Maisky, 1948年1月10日 - )はラトヴィア(旧ソビエト連邦)出身のチェロ奏者。レパートリーは幅広く、チェロ用に書かれた作品のほか、フランツ・シューベルトの歌曲をチェロで演奏するという試みもある。1970年、マイスキーは逮捕され、ゴーリキー郊外の強制労働収容所で18ヶ月間の生活を強いられる。
師のロストロポーヴィチも別荘でアレクサンドル・ソルジェニーツィンをかくまい、ソビエト当局から演奏活動を停止させられている。出所後も兵役を命じられたマイスキーは、ユダヤ人医師に相談、医師はマイスキーを精神病院に入院させることで、兵役を回避したという。
■カリーナ・ゲオルギアン
(Karine Georgian)は旧ソ連出身のチェリスト。モスクワでアルメニア系ロシア人音楽家一家に生まれる。父の手ほどきで5歳よりチェロを始める。モスクワ音楽院でムスティスラフ・ロストロポーヴィチに師事。1980年、ロンドンに居を移したカリーナ・ゲオルギアンは、2年後アンドレ・ナヴァラの後継者としてドイツ・デトモルト高等音楽学校の教授となった。
■マリア・クリーゲル
(Maria Kliegel, 1952年 - )は、ドイツ出身のチェロ奏者。ドイツ中西部ヘッセン州のディレンブルク生まれ。10歳でチェロを始める。後にアメリカに渡り、インディアナ大学にてヤーノシュ・シュタルケルに師事。1981年、ロストロポーヴィチ国際コンクールでグランプリを受賞、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ本人の指揮でスイス、アメリカ、フランスなどを回る大規模なコンサート・ツアーを行う。
■スティーヴン・イッサーリス
(Steven Isserlis, 1959年12月19日 - )は、イギリス生まれのチェロ奏者。多岐にわたるレパートリーと、ガット弦を用いた個性的な音色によって有名。祖父ユリウス・イッセルリスはロシア帝国に学んだモルドバ出身の音楽家である。
協奏曲と室内楽の演奏に活躍し、長年忘れられてきた作品の復活にも取り組んでいる。コーンウォールでマスタークラスを主宰。ジョシュア・ベルやタベア・ツィンマーマンなどと長きにわたる協力関係のもとに、数多くの音楽祭を組織している。 |
■フリードリヒ・グリュッツマッハー
Friedrich Wilhelm Grutzmacher 1832年3月1日 − 1903年2月23日)は、19世紀後半を代表する高名なドイツ人チェリスト。グリュッツマッヒャーは、ボッケリーニの《チェロ協奏曲 第9番》を校訂する際に、改変を加えたことで今日とりわけ知られている。このグリュッツマッヒャー版は今なお出版され、演奏されている。また、バッハの《無伴奏チェロ組曲》を編曲し、和音やパッセージ、装飾音を完全に書き換えることもした。
■カルル・ダヴィドフ
Karl Davidov、1838年3月15日 - 1889年2月26日 モスクワ)は19世紀ロシア帝国の著名なチェリスト。チャイコフスキーから「チェロ界の帝王」と呼ばれた。リトアニア(ポーランド分割当時はロシア帝国領)のクルディガに音楽愛好家の家庭に生まれる。父親は医師で、素人のヴァイオリン奏者だった。
18歳でサンクトペテルブルク大学で数学を専攻した後、作曲家としての道を究めるべくライプツィヒ音楽院でモーリツ・ハウプトマンに入門するが、22歳の時にはドレスデンで、ボッケリーニ作品の改訂で有名なグリュッツマッハーにも指導を受けた。
■ヴィルヘルム・フィッツェンハーゲン
(Wilhelm Fitzenhagen, 1848年 - 1890年)は、ドイツのチェリスト、作曲家、教育者。フィッツェンハーゲンは1870年にヴァイマルのベートーヴェン音楽祭に出演して、同地の元楽長フランツ・リストの注目を惹き、ヴァイマル宮廷楽団に入団するよう説得されたが、既にモスクワ音楽院での教授職を引き受けていたため、その話は実現しなかった。チャイコフスキーから《ロココの主題による変奏曲》を献呈されたこと(およびこの作品を作曲者に無断で改竄し、今日でもその版で演奏される場合が多いこと)でも名高い。
■ハヌシュ・ヴィハーン
(Hanus Wihan, 1855年6月5日 − 1920年5月1日)はチェコのチェリスト。19世紀のボヘミアで最高のチェリストと看做されている。アントニン・ドヴォルジャークと縁が深く、《森の静けさ》作品64や《ロンド ト短調》作品94に加えて、かの《チェロ協奏曲ロ短調》作品104までもがドヴォルジャークから献呈された。ボヘミア四重奏団を結成してチェロを担当し、40年間にわたる世界的な名声を不動のものにした。
■アナトーリー・ブランドゥコーフ
Anatoliy Andreyevich Brandukov , 1859年1月6日 モスクワ− 1930年2月16日 )は、ロシア帝国末期からソビエト連邦草創期にかけて活躍したロシア人チェリスト・音楽教師。生後まもなく父親に先立たれたため、母親とおばによって養育された。
姉が演奏していたボリショイ劇場において初めて芸術音楽に触れ、1867年にエクトル・ベルリオーズの指揮によりベートーヴェンの《交響曲 第5番》に接したことが最も重大な転機となった。ピョートル・チャイコフスキーこそは、ブランドゥコーフの出世の大立役者であった。チャイコフスキーはブランドゥコーフの演奏を高く評価しており、1887年の夏に《奇想的小品》からの数ページをブランドゥコーフに送って講評を求めている。
■パブロ・カザルス
Pablo Casals、 1876年12月29日 - 1973年10月22日)は、スペインのカタルーニャ地方に生まれたチェロ演奏家、指揮者、作曲家。指揮者フルトヴェングラーはチェロ奏者としてのカザルスへ次のような賛辞を残している。「パブロ・カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」。カザルスは平和活動家としても有名で、音楽を通じて世界平和のため積極的に行動した。
■ガスパール・カサド
(Gaspar Cassado i Moreu 1897年9月30日 - 1966年12月24日)は、20世紀前半で最も影響力あるチェリストの一人。作曲家としても活動し、最晩年には後進の指導や若い才能の発掘にも熱意を示した。カサドーの楽器に対する姿勢は伝統的なものではなかったが、無伴奏チェロのための《組曲》や《ソナタ》は、古典的で自然なたたずまいとカタルーニャの情緒が融合された作品として、チェロ奏者の間でかなり知られている。
■ヨーゼフ・シュースター
(Joseph Schuster, 1903年 イスタンブル − 1969年)は、ロシア系のチェリスト。ロシア帝国への道中でアレクサンドル・グラズノフに演奏を聴いてもらう。感銘を受けたグラズノフの後押しで、10歳でペテルブルク音楽院に入学する。エマヌエル・フォイアーマンのかつての愛器(1720年製のゴフリラのチェロ)を入手して愛用した(現在はヤッシャ・シルバーステインの手に渡っている)。
■ポール・トルトゥリエ
(Paul Tortelier ,1914年3月21日 - 1990年12月18日)はフランスのチェロ奏者、作曲家、指揮者。チェロ演奏では卓越した技巧、芯の太い音色の上に、真摯で深い精神性を湛えた表現で名高い。作曲家としても、『イスラエル交響曲』やチェロ作品など優れた作品を残した。トルトゥリエは教育者としても知られ、ジャクリーヌ・デュ・プレ、アルト・ノラス、日本人チェリストの倉田澄子らが彼に師事している。
■レナード・ローズ
(Leonard Rose, 1918年7月27日 - 1984年11月16日)はアメリカ合衆国のチェロ奏者。20世紀のアメリカ人チェリストの中では、世界的な幅広い知名度を得た最高の演奏家のひとりと認められている。
1951年以降はソリストとして数多くの録音を行い、ジョージ・セルやブルーノ・ワルター、ユージン・オーマンディ、レナード・バーンスタインらの指揮者と共演した。また、アイザック・スターン、ユージン・イストミンらと結成したピアノ三重奏団は名高く、彼らとともに録音したベートーヴェンのピアノ三重奏曲全集は、1971年度のグラミー賞最優秀室内楽部門に輝いた。
■ジークフリート・パルム
(Siegfried Palm, 1927年4月3日 - 2005年6月6日)はドイツのチェリスト。バルメン(現ヴッパータール)の生まれ。 8歳で父親から手ほどきを受け、ヴッパータール市のオーケストラでチェロを弾いていたが、音楽院に入学することはなかったという。1976年からは、オペラ演出も手がけ、ベルリン・ドイツ・オペラでヒンデミットの《カルディヤック》やオッフェンバック作品などのプロダクションを手がけ、1980年ごろまで演出家としての活動に力を入れていた。
■ニコラウス・アーノンクール
Nikolaus Harnoncourt1929年12月6日 - )はオーストリアの指揮者、チェロ奏者、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者、貴族(伯爵)。1970年代からはチューリッヒ歌劇場をホームグラウンドとしてオペラにも取り組むようになり、ジャン=ピエール・ポネルが演出したモンテヴェルディとモーツァルトの一連のシリーズで世の注目を浴びた。
■ナターリヤ・グートマン
Natalia Grigorievna Gutman、1942年11月14日 カザン - )はソ連出身のチェリストである。音楽家の家庭に生まれ、レオポルト・アウアーに学んだ祖父アニシム・ベルリンに手ほどきを受け、5歳でチェロの学習を始める。13歳のときモスクワ音楽院に進み、ガリーナ・コズルポワに入門する。卒業証書を得た後ムスティスラフ・ロストロポーヴィチの助手となり、またスヴャトスラフ・リヒテルの知遇を得て、大きな影響を受けるようになる。リヒテルの側もグートマンに影響され、彼女のことを根っからの音楽家と呼んでいた。
■ダヴィド・ゲリンガス
(David Gilevich Geringas、1946年7月29日 - )は、リトアニアのヴィリニュス生まれのチェロ奏者。リトアニア語名、ダヴィダス・ゲリンガス(Davidas Geringas)。現在はドイツ国籍である。質の高い演奏活動と教育活動で尊敬を集め、現代を代表するチェリストの一人である。リトアニアの有名な音楽一家に生まれ、幼い頃から神童として名を馳せる。1761年製のガダニーニをメインで使用しているが、バロック期の作品ではバリトン・チェロやヴィオラ・ダ・ガンバを用いての演奏も行う。
■ジャクリーヌ・デュ・プレ
Jacqueline du Pre、1945年1月26日 - 1987年10月19日)は、イギリスのチェロ奏者。夭折の天才チェリストとして名高い。教育熱心な家庭の次女として生まれたデュ・プレは、4歳の時にラジオでチェロの音楽を聞いたことがきっかけでチェロの演奏を志す。最初、母親のアイリス・デュ・プレからチェロの演奏を習い、5歳からはロンドン・チェロ・スクールで姉のヒラリー・デュ・プレとともに正式に音楽演奏家としての道に踏み出す。1966年末に21歳でピアノ演奏家で指揮者でもあるダニエル・バレンボイムと結婚。夫となったバレンボイムとは数々の演奏を残した。
■ハインリヒ・シフ
(Heinrich Schiff、1951年11月18日 - )は、オーストリアのグムンデン生まれのチェリスト、指揮者。ドイツ・オーストリア系の正統派チェリストとして評価が高い。いくつかのコンクールでの入賞を基に音楽キャリアをスタートさせたが、1972年にオーストリアのグラーツで開かれた国際現代音楽協会(ISCM)演奏会で病気のムスティスラフ・ロストロポーヴィチの代役としてルトスワフスキのチェロ協奏曲を演奏し大絶賛を博し、これにより彼の名が世界に知れ渡るようになった。
■ハイディ・リチャウアー
Heidi Litschauer)はオーストリアのチェリスト。ウィーンに生まれ、ウィーン音楽大学を1964年に首席で卒業した後、ガスパール・カサド、ウラディーミル・オスロフ、エンリコ・マイナルディ、パブロ・カザルス、アルト・ノラスに学ぶ。1957年より1970年までペーター・グート(Vn)、ルドルフ・ブッフビンダー(Pf)とウィーン三重奏団として活動し、1961年ミュンヘン国際音楽コンクール優勝。
■アントニオ・メネセス
(Antonio Meneses, 1957年8月23日 - )はブラジル出身のチェロ奏者。ブラジル、レシフェ生まれ。リオデジャネイロ歌劇場の首席ホルン奏者であった父親の勧めで10歳からチェロを始めた。14歳でリオデジャネイロの交響楽団に入団し、16歳の時、南米ツアー中のチェロ奏者アントニオ・ヤニグロと出会い、渡独。デュッセルドルフのロベルト・シューマン大学、シュトゥットガルト音楽演劇大学でヤニグロの指導を受ける。
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