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レオポール・セダール・サンゴール
(Leopold Sedar Senghor、1906年10月9日 - 2001年12月20日)は、セネガル共和国初代大統領(1960年9月6日 - 1980年12月31日)を務めた政治家で詩人。彼はアフリカ出身で初めてアカデミー・フランセーズ会員になった(1983年)。彼はセネガル国歌の歌詞も書いている。1930年代から1940年代にはマルティニークのエメ・セゼールと共にネグリチュード運動を牽引した。

モーリス・ブランショ
(Maurice Blanchot, 1907年9月22日 - 2003年2月20日)は、フランスの哲学者、作家、批評家。政治的には、エミール・ゾラやジャン=ポール・サルトルのような、知識人として公衆の面前に姿を現して意見や主張を述べ自らの影響力の大きさを利用して社会を動かそうとする政治参加の手法に批判的立場をとりつつ、自らの政治的活動を模索することになる。

フアン・カルロス・オネッティ
(Juan Carlos Onetti、1909年7月1日 - 1994年5月30日)はウルグアイの小説家。1950年に発表した長編『はかない人生』(La vida breve)もやはり売れ行きは芳しくなかったが、一人の男が人生の悲惨から逃れるために空想した架空の街サンタ・マリアの登場するこのメタフィクション的小説は、のちにラテンアメリカ文学「ブーム」の先駆的作品として高く評価されることになる。

ジュリアン・グラック
(Julien Gracq、1910年7月27日 - 2007年12月22日)は、フランスの作家。長く高校教師を勤めつつ創作を続け、小説と批評、そしていくつかの詩を著した。アンドレ・ブルトンのシュルレアリズムとドイツ・ロマン主義のノヴァーリスやフリードリヒ・ヘルダーリンの深い影響を受け、幻想的な作風は彼が偏愛を公言したドイツのエルンスト・ユンガーに近いとも言われた。

ウィルバート・オードリー
(The Reverend Wilbert Vere Awdry OBE,1911年6月15日 -1997年3月21日 )はイギリスの聖職者、汽車のえほんシリーズの作者(文章部のみ)。生前、華奢な体格から「やせぎす牧師(Thin Clergyman)」と、からかわれる事が多かった。この事もオードリーは原作22巻「小さな機関車たち」にて、題材として取り扱った。「汽車のえほん」作中にオードリー本人が出てくるのはこの巻と25巻「きえた機関車」のデューク探しのエピソードぐらいだが、牧師でありながら鉄道愛好家でもあった、という事実を社会一般に認めさせた。

ウィリアム・ゴールディング
(William Gerald Golding, 1911年9月19日 - 1993年6月19日)は、イギリスの作家。コーンウォルの生まれ。オックスフォード大学に学ぶ。第二次世界大戦に従軍、ノルマンディー上陸作戦にも参加している。生まれも軍事基地の近くだったため、人間が互いに殺しあうという残酷さや人の心の根底にある悪というものへのこだわりは、彼の創作の強いモチーフとなる。


ジョルジェ・アマード
(Jorge Amado, 1912年8月10日 - 2001年8月6日)とは、ブラジルの小説家である。20世紀ブラジル文学を代表する作家である。作品の多くが英語、フランス語をはじめとする48以上の言語に翻訳されている。リオ・デ・ジャネイロ大学法学部に入学し、在学中から『カカオ』などの執筆時活動を行い、1935年に卒業した。『砂の戦士たち』、『ジュビアバー』などで次第に作家として認知され始め、ブラジル共産党員だったアマードはこの時期にブラジルのプロレタリア文学を代表する作品を残した。


ハリー・ブルーム
(Harry Bloom、1913年 - 1981年)はユダヤ系南アフリカ人ジャーナリスト、小説家、政治活動家。小説家としての第1作は1956年発表の『エピソード』この小説は1952年から53年にかけてアフリカ民族会議が行った「不正な法律に対する不信任キャンペーン」(Defiance Campaign against Unjust Laws)の余波を受けてネルストルームという架空の町に起こった暴動を描いたもので、当時の南アフリカ政府から、アパルトヘイト政策の安全を脅かすものとして発禁処分を受けた。

この小説は1956年のイギリス作家クラブ最優秀小説賞を受賞したが、授賞式出席のための出国許可が得られなかった。映画監督のリチャード・アッテンボローはこの作品にたいへん感銘を受け、これを原作にした映画を作ることを企画したが叶わなかった。代わりに制作されたのが『遠い夜明け』である。

オクタビオ・パス
(Octavio Paz、1914年3月31日 - 1998年4月19日)は、メキシコの詩人・批評家・外交官。メキシコ・シティ出身。進歩的文化人だった祖父の影響で文学的関心を深め、19歳で処女詩集『野生の月』を発表している。1946年には外交官になり、ヨーロッパ各国を転々としながら『弓と竪琴』『孤独の迷宮』などを執筆する。

マルグリット・デュラス
(Marguerite Duras, 1914年4月4日 - 1996年3月3日)は、フランスの作家兼映画監督。1914年にフランス領インドシナ(現ベトナム)のギアダンに生まれる。法律を学ぶため、1932年にフランスに帰国。大学で法律・数学を専攻。1984年に発表した、インドシナに住んでいた時に知り合った華僑の青年との初めての性愛体験を描いた自伝的小説『愛人/ラマン』は、ゴンクール賞を受賞し、世界的ベストセラーとなった。

ペーター・ヴァイス
(Peter Ulrich Weiss、1916年11月8日 - 1982年5月10日)は、ドイツ出身の小説家、劇作家、美術作家。ユダヤ人の家系に生まれ、ナチス政権下にスウェーデンに亡命、以後ストックホルムで暮らした。小説のほか記録演劇の分野でも活躍。スウェーデン共産党のメンバーでもあり、1960年代後半から作品の政治色が強まっていった。

ハインリヒ・ベル
(Heinrich Theodor Bo¨ll, 1917年12月21日 - 1985年7月16日)は、ドイツの作家。1972年にノーベル文学賞を受賞。作品や発言はドイツ国内で大きな社会的影響力を持った。第二次世界大戦中はフランス、ルーマニア、ハンガリー、ソ連を転戦し、それらの戦地で四度の負傷をし、1945年4月にアメリカ軍に捕らえられ捕虜収容所に送られた。

しかし、彼は凍傷で足の指を全て失い、生涯病院への通院を余儀なくされた。戦後1946年から短編小説を書き始め、1949年に最初の長編小説『汽車は遅れなかった』を出版、1951年に『Die schwarzen Schafe』で47年グループ賞を受賞、1953年の『そして一言も言わなかった』でその名声を広める。

ロレンス・ダレル
(Lawrence George Durrell、1912年2月27日 - 1990年11月7日)は、イギリスの小説家、詩人、劇作家及び紀行作家であった。代表作に『アレキサンドリア四重奏』の長篇小説四部作。弟はナチュラリストで著述家のジェラルド・ダレル。

アーサー・C・クラーク
Sir Arthur Charles Clarke、1917年12月16日 - 2008年3月19日)は、イギリス出身のSF作家。20世紀を代表するSF作家の一人であり、科学解説者としても知られている。1917年12月16日にイギリス・サマセット州マインヘッドにて生まれる。少年時代は天体観測を趣味とし、アスタウンディングなどのパルプ誌をはじめとしたSF小説に熱中していた。

ドリス・レッシング
(Doris May Lessing、1919年10月22日 - )はイギリス人作家。2007年にノーベル文学賞を受賞した。ドリスは、ソールズベリー(現ハラレ)カトリック系の女学校であるドミニカ女子高等学校に入学するが、13歳で学校を離れ、以後独学を続けた。15歳で家も離れると、メイドとして働き始めた。この時、雇い主からもらった政治や社会学の本を読み始め、作家活動を開始した。

ピーター・エイブラハムズ
Peter (Henry) Abrahams、1919年3月3日 - )は、南アフリカ共和国の小説家。父はエチオピア出身、母は南アフリカのカラードで、ヨハネスブルク郊外のフレデロープに生まれた。1939年に祖国を後にし、イギリスのエセックス州ルートンに妻とともに暮らす。この間、ジョモ・ケニヤッタなどの黒人運動家や黒人作家と親交を持った。

エイモス・チュツオーラ
(Amos Tutuola, 1920年6月20日 - 1997年6月8日)は、ナイジェリアの小説家。『やし酒飲み』などヨルバ人の伝承に基づいた、アフリカ的マジックリアリズムと言われる著作で知られる。1939年父親の死に伴い学校を辞める。このためチュツオーラの教育は僅か6年間の短いものだった。 学費の捻出が果たせなかったため鍛冶屋の技術を身に付け、1942年から1945年までナイジェリアのイギリス空軍で働く。ビルマでの後方勤務なども経て、第二次世界大戦終戦とともに職を失い、パン売り、ナイジェリア労働省のメッセンジャーなど、多くの職に就いた。

ボリス・ヴィアン
(Boris Vian, 1920年3月10日 - 1959年6月23日)は、フランスの作家、詩人である。セミプロのジャズ・トランペット奏者としても名をはせ、余技として歌手活動も行った。学位を生かし、フランス標準化協会に就職したが、取るに足りない仕事が多い閑職であったため、ヴィアンはよく暇をもてあましていた。第二次世界大戦中のヴィアンは自分の同僚を風刺する小冊子の出版や作曲にふけっていた。

マリオ・ベネデッティ
(Mario Orlando Hamlet Hardy Brenno Benedetti Farrugia、1920年9月14日-2009年5月17日)は、ウルグアイのジャーナリスト、小説家、詩人である。タクアレンボ県のパソ・デ・ロス・トロスで生まれた。1946年にルス・ロペス・アレグレと結婚。軍事独裁政権下にあった1973年から1985年まで、ブエノスアイレス、リマ、ハバナ、スペインに亡命した。

アウグスト・モンテローソ
(Augusto Monterroso Bonilla、1921年12月21日 - 2003年2月7日)はグアテマラ人作家である。11歳のとき、突然それまで通っていた小学校を自主的に退学、以後は市場の肉屋で仕事をしつつ、空いた時間は古典をはじめとする膨大な量の読書に費やした。モンテローソはしばしば、世界でもっとも短い短編作品「恐竜」(El Dinosaurio)の作者として言及される。(彼が目を覚ましたとき、恐竜はまだそこにいた。)

ジョゼ・ジョヴァンニ
(Jose Giovanni, 1923年6月22日 - 2004年4月24日)は、フランスの小説家、映画監督、脚本家である。第二次世界大戦中、フランスのレジスタンス運動を支援。戦後ギャングに加わって投獄、戦後犯罪人の増加に対する政府の方針で死刑を宣告されるが、父の尽力により大統領恩赦を受けてまぬがれる。出所後、小説家として活動。犯罪映画の監督としても活躍。

アミルカル・カブラル
(Amilcar Lopes Cabral、1924年9月12日−1973年1月20日)は旧ポルトガル領ギニア出身の農業技術者、作家、革命家である。弟のルイス・カブラルは後にギニアビサウ共和国の初代大統領となった。ポルトガル領ギニアのバファタにて、教師の父の息子として生まれた。両親はカーボベルデ出身だった。幼くしてカーボベルデに渡り、中等教育までをカーボベルデで受けた後、1945年から当時の宗主国であったポルトガルの首都リスボンで農学を学んだ。

ジョン・ファウルズ
(John Fowles、1926年3月31日−2005年11月5日)は、イギリスの小説家、エッセイスト。ベッドフォード校およびオクスフォード大学で、フランス語とドイツ語を学び、卒業後はフランス、ギリシアおよび英国で教師として働いた。1963年に処女作である『コレクター』を上梓すると、教職を辞し、作家としてのキャリアを出発した。

アマドゥ・クルマ
(Ahmadou Kourouma, 1927年11月24日 - 2003年12月11日)は、コートジボワールの作家。1927年、仏領コートジボワールに生まれる。西アフリカに広く分布しているマリンケ族の出身。仏領スーダンのバマコで学ぶ。1950年から1954年まで、「セネガル狙撃兵」として仏領インドシナで従軍した後、フランス本国のリヨンで数学を学ぶ。1970年に、植民地独立後の政治体制を批判した小説『独立の太陽 (Les soleils des independances)』を発表する。20年後に、植民地の歴史の一世紀を描写した『モネ、侮辱、挑戦』を発表。

マルティン・ヴァルザー
(Martin Walser、1927年3月27日 - )は、ドイツの小説家、劇作家。主な小説に『一角獣』『転落』『逃亡する馬』『砕ける波』など、戯曲に『樫の木とアンゴラ兎』『黒いスワン』『室内の戦い』などがある。

マリオ・ピント・デ・アンドラーデ
(Mario Pinto de Andrade、1928年8月21日 - 1990年8月26日)はアンゴラの詩人、政治家である。彼はポルトガル領アンゴラのゴルンゴ=アルトで生まれ、リスボン大学で文献学を、パリのソルボンヌ大学で社会学を学んだ。その間、彼はアンゴラにおけるポルトガル植民地支配に対する反抗活動を始め、反植民地詩を書いた。1956年に彼はアンゴラ解放人民運動(MPLA)の創設者となり、1960年から1962年まで議長を務めた。彼は後継者のアゴスティーニョ・ネトと衝突し、1974年にMPLAから分離した。アンゴラは1975年11月11日に独立したが、アンドラーデはギニアビサウ、カーボベルデ、モザンビークと放浪生活を続けた。彼はロンドンで死去した。

アラン・シリトー
(Alan Sillitoe、1928年3月4日 - 2010年4月25日)は、イギリスのノッティンガム出身の作家。 社会が不当に築いた彼らの周りの規制への反撥、その規制を守ろうとする権力者の偽善に対するアナーキックな憤りから、不道徳行為という方法で権威へのささやかなプロテストを試みる。代表作『長距離走者の孤独』『土曜の夜と日曜の朝』は、1959年、1960年に映画化され、いずれもアカデミー賞などを賑わせた。

ジャック・ヒギンズ
Jack Higgins, 1929年7月27日 - )は小説家。第二次世界大戦や、イギリス対アイルランドの紛争を題材にした冒険小説を得意とする。ヒギンズの作品は、第二次世界大戦の架空のエピソードと、アイルランド紛争にからんだ孤高のテロリストを主人公とした話の二つにわけられる。詳細な設定、魅力的な登場人物とその心理描写、ストーリー展開の意外性がヒギンズ作品の魅力である。

ミヒャエル・エンデ
(Michael Ende, 1929年11月12日 - 1995年8月28日)は、ドイツの児童文学作家。ドイツ南部のガルミッシュ=パルテンキルヒェンで生まれた。父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ。1945年 16歳の時、疎開した14〜15歳の少年が軍に徴兵され、一日訓練を受けた後、前線に送られ、初日に学友3名が戦死する。ミヒャエルにも召集令状が来たが、彼は令状を破り捨て、ミュンヘンまでシュヴァルツヴァルトの森の中を夜間のみ80km歩いて、疎開していた母の所へ逃亡。

アリーファ・リファアト
Alifa Rifaat、1930年6月5日 - 1996年1月4日)はエジプトの作家。ムスリムの女性の視点を生かした短篇小説を発表し、作品は英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語などに翻訳されている。リファアトは女性器切除問題や性交渉における充足、抑圧される感情など物議を醸す問題提起を行い、女性の人権に関する主張を提示し続けた。

フアン・ゴイティソーロ
Juan Goytisolo,1931年1月6日 - )はスペインの小説家。1956年にフランス・パリへ亡命している。代表作として『天国の悲しみ』、『禁猟区』、『サラエヴォ・ノート』などがある。1956年に兵役を終えた後はフランスのパリへ亡命し、執筆活動を行なう。パリとモロッコのマラケシュを拠点に世界各地を訪れ、小説のほか数多くの評論やルポルタージュを発表している。古典文学やイスラム文化への造詣も深い。

V・S・ナイポール
(Vidiadhar Surajprasad Naipaul、1932年8月17日 - )は、イギリスの作家。旧イギリス領西インド諸島トリニダード島のインド人の家系に生まれる。祖父はヒンドゥー教徒の農園労働者。父はジャーナリスト。1950年より奨学生としてイギリスのオックスフォード大学で4年間学んだ後、BBCの仕事をした後、作家として出発し、以来創作に専念した。

エマニュエル・アルサン
(Emmanuelle Arsan, 1932年 - )は、フランスの女性作家、生まれはタイのバンコクでタイ人女性のペンネームである。元々は映画の脚本家。16歳でフランスの外交官と結婚。1968年ロバート・ワイズ監督で、スティーブ・マックイーン、リチャード・アッテンボローらが出演した映画『砲艦サンパブロ』に、マラヤット・アンドリアンヌ(Marayat Andriane)の名で出演、メイリーの役を演じている。 その後、執筆活動に転じ、『エマニュエル夫人』で、一躍有名作家の仲間入りを果たした。

ウォーレ・ショインカ
(Wole Soyinka, 1934年7月13日 - )は、ナイジェリアの詩人、劇作家。1959年発表の『ライオンと宝石』が処女作。アフリカ人としては初のノーベル文学賞受賞者(1986年)。『死と王の先導者』が代表作。 他に、小説、評論、演出、映画などのジャンルでも才能を発揮している。

ショインカはナイジェリア南西部のアベオクタでヨルバ族の家族に生まれ、そこで初等教育を受ける。その後イバダンガバメント・カレッジ(Government College, 公立学校)での中等教育の後、1952年から1954年まではイバダン大学で、1954年から1957年まではイギリスのリーズ大学で学び、英文学の学位を受けた。

ジョルジュ・ペレック
Georges Perec, 1936年3月7日 - 1982年3月3日)はフランスの小説家、随筆家である。パリ出身。ユダヤ系。"Un homme qui dort (1970)"『眠る男』は映画化され、1974年度ジャン・ヴィゴ賞を受賞した。他の代表作に"La Vie mode d'emploi (1978)"『人生使用法』など。

ブライアン・フリーマントル
(Brian Freemantle, 1936年 - )は、イギリスの作家。デイリー・メイル紙に勤務。外報部長を務める1973年に処女作『 GOODBYE TO AN OLDFRIEND 』でデビュー。1975年に退職し、ジャーナリストとして活動。特派員として30カ国以上に滞在。23歳に脳内出血で倒れ、1988年にも再発するが、手術で一命を取り留めた。


ベッシー・ヘッド
(Bessie Head, 1937年7月6日 - 1986年4月17日)はボツワナの作家。南アフリカ出身。白人の母、黒人の父のもとで生まれる。母はピーターマリッツバーグの精神病院に入院しているときにベッシーを産む。ベッシーは里親のもとで暮らすが、養父は彼女が6歳のときに亡くなり、同じ頃に実の母も亡くなる。養母の暮らしが苦しくなったため、ベッシーは13歳のときに孤児院に入る。

このときはじめて実の両親について知り、大きなショックを受けた。ボツワナではセロウェに住み、はじめは教師として暮らす。『ニューステイツマン』に掲載された記事がもとで、ニューヨークの出版者に小説を依頼され、長篇小説『雨雲のわく時』を発表した。孤独と貧困のなかで創作活動を続け、アパルトヘイトの撤廃を見ることなく1986年に肝炎により48歳で死亡するが、死後も評価が高まり、作品集や書簡集などが出版されている。


フォルカー・ブラウン
Volker Braun, 1939年5月7日 - , ドレスデン生まれ)は、ドイツの著作家。フォルカー・ブラウンは、アビトゥーア取得後、数年間採掘・構内採掘の仕事につき、ライプツィヒ大学で哲学を専攻、社会主義国家のなかでの矛盾と希望をテーマとした。1960年からはドイツ社会主義統一党のメンバーになったにも関わらず、東ドイツでは体制批判者と見なされ、国家の検閲を回避する巧みな戦術を使ってしか、散文と詩を出版することができなかった。

ブルース・チャトウィン
(Bruce Charles Chatwin, 1940年5月13日 - 1989年1月18日)はイギリスの作家。シェフィールド生まれ。サザビーズに勤めたのち、エジンバラ大学で考古学を学び、新聞社の特派員をへて作家活動に入る。南米、西アフリカ、オーストラリア、プラハなど世界各地を舞台に小説を発表。第1作『パタゴニア』はイギリスのホーソンデン賞、E・M・フォースター米国芸術文学アカデミー賞などを受賞、ニューヨーク・タイムズ・ブックレヴュー最優秀書籍に選ばれる。

エマニュエル・ドンガラ
(Emmanuel Boundzeki Dongala、1941年 - )は、コンゴ共和国出身の化学者、小説家。化学者としての専門分野は立体化学と不斉合成、環境毒性学である[1]。小説家としても多くの賞を受けており、『狂犬ジョニー』 (英語: Johnny Mad Dog、フランス語: Johnny Chien Mechant) や、『星々から来た少年』 (英語:Little Boys Come from the Stars)などの作品で知られており、イギリスの出版社であるペンギンブック社のPenguin Book of Modern African Poetry でも特集されている。

ルイス・ベルナルド・ホンワナ
(Luis Bernado Honwana,1942年-)とはモザンビークの著述家である。ホンワナは『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』(Heinemann, 1969)の著者である。この作品は大きな影響と現代モザンビーク物語文学の試金石となることができた事例であることを証明している。『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』はポルトガル植民地時代における1960年代とアントニオ・サラザール政権下で苦しむ黒人の生活を描いた短編集である。

ケン・サロ=ウィワ
(Kenule Beeson Saro-Wiwa, 1941年10月10日 - 1995年11月10日) はナイジェリアの作家、テレビプロデューサー、環境活動家。サロ=ウィワは1950年代から原油の採掘が始まったニジェール・デルタの先住民の1つである少数民族オゴニの出身で、現在のリバーズ州南部オゴニランドのボリで生まれた。オゴニ民族生存運動 (Movement for the Survival of the Ogoni People, MOSOP) の創立者の一人で当初は広報係のちに代表として非暴力で国際石油資本とりわけシェルの操業による環境汚染に反対した。

パトリック・モディアノ
(Patrick Modiano、1945年7月30日 - )は、フランスのパリ近郊オー=ド=セーヌ県ブローニュ=ビヤンクール生まれの作家。歌手のマリー・モディアノは娘である。ある人物や自己のアイデンティティなど、何かを探し求めるという作品が多い。ミステリー的要素を含んだ物語と叙情的な文の運びから、フランスでは「モディアノ中毒」という言葉があるほど人気が高い。

ジャン・エシュノーズ
(Jean Echenoz、1947年12月26日 ‐ )は、フランス出身の小説家。南仏オランジュ生まれ。社会学を学んだ後、日刊紙リュマニテに短期間携わる。1979年、デビュー作『グリニッジ子午線』を刊行。1983年に『チェロキー』でメディシス賞、1999年に『ぼくは行くよ』でゴンクール賞を受賞した。

パウロ・コエーリョ
(Paulo Coelho、1947年8月24日 - )は、ブラジルの作詞家、小説家。ブラジル文学アカデミー会員。ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに生まれる。大学の法学部に進学するも、1970年、突然学業を放棄して、旅に出る。メキシコ、ペルー、ボリビア、チリを経て、ヨーロッパ北アフリカにも足を伸ばす。1988年に出版した第2作『アルケミスト - 夢を旅した少年』(O Alquimista)はブラジル国内で20万冊を超えるベストセラーとなり、38ヵ国の言語に翻訳された。

クリスチャン・ジャック
Christian Jacq、1947年 -)は、作家、エジプト学者。フランスパリの生まれ。ソルボンヌ大学で哲学と古典文学を学んだ後、エジプト学の研究で学位を取得した。古代エジプトを舞台にした作品を多数執筆している。 1995年には5巻からなる「太陽の王ラムセス」のシリーズを発表した。 これはベストセラーとなり日本を含む25ヶ国以上で出版された。

パコ・イグナシオ・タイボ二世
(Paco Ignacio Taibo II、1949年 - )は、メキシコの小説家、ジャーナリスト、歴史学者。男性。スペイン北部のアストゥリアス州ヒホン生まれ。1958年にメキシコに移住し、1980年にメキシコに帰化。メキシコの首都メキシコシティ在住。小説では、スペイン語で書かれた最も素晴らしい推理小説に贈られるダシール・ハメット国際推理小説賞(国際推理作家協会主催)を三度受賞している。

ペトラ・ハメスファール
(Petra Hammesfahr、1951年5月10日 - )は、ドイツの小説家、推理作家、脚本家。女性。ドイツ西部のノルトライン=ヴェストファーレン州ティッツ生まれ。ケルン郊外のケルペン在住。ドイツでは「ケルンのアガサ・クリスティー」、「ライン河畔の女性版スティーヴン・キング」などと呼ばれている。


カマ・シウォール・カマンダ
(1952年11月11日 - )はコンゴ出身の詩人、小説家、語り部、劇作家。エジプト系コンゴ人作家であるカマ・シウォール・カマンダは、自身の個人的体験と空想の世界、そして黒人大陸における伝統と現実から霊感を得た文学的物語集で名高い。先見性を備えたお伽話ともいえるそれらの物語は、アフリカの大地の文化・文明がその隅々までしみ込んでいるが、ついには時間と空間を超越した普遍的世界へと到達する。


ヤスミナ・カドラ
Yasmina Khadra1955年1月10日 - )はアルジェリア出身の作家。現在はフランス在住。初期は推理小説を書いていたが、やがてイスラーム世界の問題を題材とするようになる。小説 Morituri は、テロ事件での体験をもとにしているが、事件当時の記憶が1ヵ月近く欠落しており、どのように執筆したかを覚えていないという。

フランク・シェッツィング
(Frank Schatzing、1957年5月28日 - )は、ドイツ・ケルン出身の小説家。仕事の傍ら小説の執筆を始め、1995年(38歳)、出身地ケルンの中世を舞台とした歴史冒険サスペンス小説『黒のトイフェル』で成功を収める。2004年に発表した海洋冒険小説『深海のYrr(イール)』は、生物海洋学・地質学・地球物理学などの知識に裏打ちされた優れた描写力が賞賛され、ドイツ国内で200万部以上を売り上げ、27の言語に翻訳されて世界中でベストセラーとなった。


ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ
(Jose Eduardo Agualusa,Alves da Cunha,1960年-)とは、ポルトガル系白人として生まれたアンゴラのジャーナリストであり、作家である。アグアルーザは2007年にダニエル・ハーンによって英語に翻訳された彼の作品『カメレオンの書』(The Book of Chameleons)でインデペンデント紙外国フィクション賞を受賞した。彼は1990年に同賞が創設されて以来、初のアフリカ人受賞作家となった。


ヤーコプ・アルユーニ
(Jakob Arjouni、1964年10月8日 - 2013年1月17日)は、ドイツの小説家、推理作家、劇作家。フランクフルト生まれ。ベルリン在住。トルコ人私立探偵カヤンカヤ・シリーズでハードボイルド作家として高い評価を受け、各種メディアで「ドイツのレイモンド・チャンドラー」、「ドイツのダシール・ハメット」などと評された。

J・K・ローリング
J.K. Rowling、女性、1965年7月31日 - )は、子ども向けのファンタジー小説『ハリー・ポッターシリーズ』の作者として有名なイギリスの児童文学作家。1990年に、マンチェスターからロンドンに向かう4時間遅れた列車の中で、魔法学校に通う少年ハリー・ポッター、そしてロンとハーマイオニー3人の着想が突然誕生し、自宅に帰り、その晩のうちに書き始めた。

ダニエル・ケールマン
(Daniel Kehlmann、1975年1月13日 - )は、ドイツ出身の小説家。現在はウィーン在住。2005年に発表した小説『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』が世界的ベストセラーとなった。長編第4作『世界の測量』は、2005年秋にドイツで発表されて以降、100週以上にわたりベストセラーリストに名を連ねており、ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』、パトリック・ジュースキント『香水 ある人殺しの物語』に並ぶヒット作となった。

チママンダ・アディーチェ
(Chimamanda Ngozi Adichie、女性、1977年9月15日 - )は、ナイジェリア・イボ民族出身の作家。1977年ナイジェリア南部エヌグに生まれ、大学町スッカで育つ。ナイジェリア大学で短期間、医学と薬学を学び、19歳で奨学金を得て渡米。ドレクセル大学、東コネティカット大学でコミュニケーション学と政治学を学ぶかたわら、創作活動を開始する。

スティーヴン・バクスター
(Stephen Baxter、1957年11月13日 - )は、イギリスの小説家、SF作家。最も奇想天外なスペースオペラすら凌ぐ、気宇壮大なスケールのアイデアを用いたハードSFを得意とする。超弦理論や超対称性粒子など、最先端の物理学理論をメインの大ネタとして用いる傾向が強い。

アンリ・シャリエール
(Henri Charriere、1906年11月16日 - 1973年7月29日)は、フランスの小説家、映画俳優。南フランスのアルデーシュ県出身。11歳の頃に母親を失い、ぐれ始めた。後にパリでモンマルトルのひもとなるなど、環境に恵まれなかった。1931年に殺人事件の容疑者として、フランス領ギアナのデビルズ島の徒刑場で無期懲役受刑囚として過ごす。

「パピヨン(小説・映画)」に出てくる刑務官のセリフに、 "ギアナの処刑場は人間を壊すための刑務所だ" とあるように、刑務所でのアンリ・シャリエールの囚人生活は凄惨を極めるものだった。この囚人生活と脱獄を描いた小説「パピヨン」は、1969年に発表されると、17ヶ国語に翻訳され、累計で1,000万部のベストセラーとなった。

イアン・フレミング
(Ian Lancaster Fleming、1908年5月28日 - 1964年8月12日)は、イギリス・ロンドン生まれの冒険小説家。1939年からMI6 (SIS) に勤務、同年にイギリスも参戦した第二次世界大戦中は実際に安全保障調整局 (BSC) のスパイとして活動する。第二次世界大戦の終結後にスパイ活動から引退する。その後、ジャマイカの別荘「ゴールデンアイ」に居住。1953年に、それまでの経験をもとに「ジェームズ・ボンド」シリーズ第1作となる長編『カジノ・ロワイヤル』を発表する。1964年に遺作となった『黄金の銃をもつ男』を校正中に心臓麻痺で死去(56歳)。

ジャン・ジュネ
(Jean Genet, 1910年12月19日 - 1986年4月15日)は、フランスの作家、詩人、エッセイスト、劇作家であり、政治活動家である。少年期から30代までは、犯罪や放浪を繰り返していた。1942年に中央刑務所に投獄される。このとき、初めての詩集『死刑囚』を自費出版した。

また、ジュネはパリで作家・ジャン・コクトーに自分の作品を読ませ、自らの文才を認めさせることに成功し、1944年には文芸誌「ラルバレート」に小説『花のノートルダム』の抜粋が掲載される(これが公に発表されたジュネの最初の作品となる)。

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ナギーブ・マフフーズ
Naguib Mahfouz、1911年12月11日 - 2006年8月30日)は、エジプトの作家で、アラビア語で著述する小説家。1988年にエジプト初、アラブ圏初のノーベル文学賞を受賞。代表作に『バイナル・カスライン』、『カイロ三部作』、『ゲベラウィの子供たち』、『渡り鳥と秋』、『蜃気楼』、『ハン・ハリーリー物語』、『ミダック横丁』など。


エルネスト・サバト
(Ernesto Sabato、1911年6月24日 - 2011年4月30日)は、アルゼンチンの作家。ブエノスアイレス州ロハスに生まれる。両親はイタリア系のアルバニア移民で製粉所を営んでいた。中学時代より文学、数学に親しみ、大学では物理学を学ぶ傍ら共産党に入党するが、国際会議に出て失望を味わってからは科学の世界に没頭した。

ピエール・ブール
(Pierre-Francois-Marie-Louis Boulle, 1912年2月21日 - 1994年1月30日)は、フランスの小説家。1939年に第二次世界大戦は始まるとフランス領インドシナでフランス軍に徴兵される。ナチス・ドイツがフランスを占領し、仏印の植民地政府が親独派のヴィシー政権の側に付くと、彼はシンガポールに逃れドイツとの抗戦を訴える自由フランス軍に加わっている。投獄された経験を基に書いた『戦場にかける橋』や『猿の惑星』で知られる。『戦場にかける橋』、『猿の惑星』は共に映画化され、ヒットした。

クロード・シモン
(Claude Simon, 1913年10月10日 - 2005年7月6日)は、フランスの作家。当時のフランス領植民地マダガスカル、アンタナナリボで生まれた。アラン・ロブ=グリエ、ミシェル・ビュトール、サミュエル・ベケットらと並ぶヌーヴォー・ロマンの旗手の一人。1985年 ノーベル文学賞を受賞。代表作に『フランドルへの道』『ファルサロスの戦い』など。

アルベール・カミュ
Albert Camus、1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランスの小説家、劇作家。フランス領アルジェリア出身。アルジェ大学卒業後ジャーナリストとして活動、第二次大戦中に刊行された小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで注目される。1918年に公立小学校に入学。貧しいサンテス家ではもともと高等学校へ進学する希望はなかったが、この学校の教諭ルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜いて彼の家族を説得し、おかげで1924年に、奨学金を受けながらアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学することができた(カミュは彼から受けた恩を生涯忘れず、ノーベル賞記念講演の出版の際に「ルイ=ジェルマン先生へ」との献辞を添えている)。

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フリオ・コルタサル
(Julio Cortazar、1914年8月26日 - 1984年2月12日)は、アルゼンチンの作家・小説家。1960年の『懸賞』と1963年の『石蹴り遊び』の2作の長編小説により英語圏においてもラテンアメリカを代表する作家と見なされるようになり、イタリアの映画監督ミケランジェロ・アントニオーニによって短編小説「悪魔の涎」が映画化され(映画タイトルは『欲望』)、スペイン語圏を越えて世界的に知られる作家となった。

ロアルド・ダール
(Roald Dahl, 1916年9月13日 - 1990年11月23日)はイギリス・南ウェールズ・カーディフ出身の作家・脚本家である。ノルウェー人の両親のもとに生まれる。シェル石油で働き、タンザニアやカナダにも行ったが、第二次世界大戦が始まってからはイギリス空軍の戦闘機パイロットとして従軍した。乗っていた飛行機が墜落し脊髄に重傷を負うも、なんとか生還した。しかしこの傷は後々まで彼を苦しめることになる。

アウグスト・ロア=バストス
(Augusto Roa Bastos、1917年6月13日 - 2005年4月26日)はパラグアイのジャーナリスト、脚本家、小説家。パラグアイ史上最も著名な作家であり、ラテンアメリカ作家の中でも最重要人物の一人である。1932年にパラグアイとボリビアの間にチャコ戦争が勃発すると、10代だったロア・バストスは学校を中退して、補助の衛生要員として兵士になり、そしてこの期間に彼は残りの人生を強く規定することになる決定的な恐怖を体験した。

フアン・ルルフォ
Juan Rulfo, 1917年5月16日 - 1986年1月7日)は、メキシコの小説家、写真家。ラテンアメリカの作家のなかでも重要な作家のひとりであるルルフォは、2冊の薄い本、『ペドロ・パラモ(Pedro Paramo)』(1955年)と短編集『燃える平原(El llano en llamas)』(1953年。『殺さねえでくれによって評価されている。

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アレクサンドル・ソルジェニーツィン
Alexandr Isaevich Solzhenitsyn、1918年12月11日 - 2008年8月3日[2])は、ソビエト連邦の作家、劇作家、歴史家。ソビエト連邦時代の強制収容所・グラグを世界に知らせた『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し、1970年にノーベル文学賞を受賞。1974年にソ連を追放されるも、1994年に帰国した。

ハンス・ヘルムート・キルスト
(Hans Hellmut Kirst、1914年12月5日 - 1989年2月23日)は、ドイツの小説家。代表作に第二次大戦時のドイツ軍の実相を描いた『08/15』三部作がある。1947年、キルストはミュンヘンに転居し、最初は庭師、道路工事作業員、劇団の文芸部員、地方自治体の書記などの臨時雇いの仕事に就いた。1972年まで続いた「ミュンヒナー・ミットターク」紙(現在「ミュンヒナー・メルクーア」)での映画批評もこの時に始まったものである。

ミュリエル・スパーク
(Dame Muriel Spark, DBE, 1918年2月1日 - 2006年4月13日)は、スコットランドの小説家。戦後、結婚後の名前ミュリエル・スパーク名義で、本格的に執筆活動を開始した。最初は詩や文芸評論が主な活動であり、1947年に『ポエトリー・レビュー』誌の編集者となった。

アイリス・マードック
(Jean Iris Murdoch, 1919年7月15日 - 1999年2月8日)は、アイルランド出身の英国の哲学者・作家・詩人。その小説は、倫理的・性的な主題を巻き込んだ、キャラクター造形の豊かさと、読者を惹き付けるような構想ゆえに名高い。「愛する事を教えてくれたあなた。今度は忘れる事を教えて下さい」という格言が有名である。

ローズマリー・サトクリフ
(Rosemary Sutcliff、1920年12月14日 - 1992年7月23日)は、イギリスの歴史小説・ファンタジー小説家。1950年の『ロビンフッド年代記』から作家としての経歴を積んだ。代表作にカーネギー賞を受賞した『ともしびをかかげて』(The Lantern Bearers)、『アーサー王と円卓の騎士』(The Sword and the Circle) などがある。多くは子供向けの歴史小説だが、大人向けの作品も書いている。

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ヴォルフガング・ボルヒェルト
(Wolfgang Borchert、1920年5月20日 - 1947年11月20日)は、ドイツの小説家、劇作家、詩人。戦後の「瓦礫文学」の代表的な作家であり、表現主義の流れを組む鮮烈な文体で40ほどの掌編などを残したが、27歳で夭折した。ハンブルクに生まれる。父は小学校教師でオルガン奏者、母は郷土作家。両親の影響で15歳から詩を書き始めた。


リチャード・アダムス
(Richard George Adams、1920年5月9日 - )は、イギリスのファンタジー作家。処女作「ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち」は、本として書き上げるのに2年かかり、13の出版社に断られた後にやっと出版されたものだが、イギリスの二大児童文学賞、カーネギー賞とガーディアン賞を受賞して大ベストセラーとなった。

ハインツ・G・コンザリク
(Heinz G. Konsalik、1921年5月28日 - 1999年10月2日)は、ドイツの小説家。男性。ケルン生まれ。本名はハインツ・ギュンター。「コンザリク」は母方の姓。時事性を重視したエンターテインメント小説を40年を超える作家生活で百数十冊刊行。その執筆ジャンルは冒険物や恋愛物、スパイ物、戦記物からメディカルスリラーまで多岐にわたる。

アラン・ロブ=グリエ
(Alain Robbe-Grillet、1922年8月18日 - 2008年2月18日)は、フランスの小説家・映画監督。ヌーヴォー・ロマンの代表的作家とされる。ブレストに生まれる。1944年、国立農業学校卒業。1954年、デビュー作『消しゴム』を発表。ロラン・バルトによって絶賛される(「対物的文学」)。1956年からの『新フランス評論』誌上の評論で、自らヌーヴォー・ロマンの旗振り役となる。

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センベーヌ・ウスマン
Sembe`ne Ousmane, 1923年1月1日 - 2007年6月9日)は、セネガルの映画監督、作家。「アフリカ映画の父」とも呼ばれた。1948年、25歳のときにフランスへ渡り、マルセイユで働きながらフランス語を独学で身につけ、ロジェ・マルタン・デュ・ガールなどの小説を読む。1956年、自伝的要素の強い小説『黒人沖仲仕』を自費出版で発表し、アフリカ人の港湾労働者の過酷な生活を伝えた。


ナディン・ゴーディマー
(Nadine Gordimer, 1923年11月20日 - )は南アフリカの作家であり、1991年ノーベル文学賞を受賞した初めてのサハラ以南(サブサハラ)のアフリカ女性作家である。父はリトアニアからのユダヤ系移民、母はイギリス系のユダヤ人。9歳から創作活動をはじめる。一時期はイヴリン・ウォーの『スクープ』を読んでジャーナリストを志望したこともある。16歳のときに短篇が雑誌に掲載され、本格的に作家活動をはじめる。『保護管理人』(1974年)で、ブッカー賞を受賞。

ブライアン・オールディス
(Brian Wilson Aldiss OBE、1925年8月18日 - )は、イギリスの小説家。SF作家、評論家。SF史研究書『十億年の宴SF―その起源と発達』では、「SFの起源は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』である」と主張。宇宙と人類の運命をまたにかける、軽薄だがアイディア満載で、壮大かつ華麗なSFを「ワイドスクリーン・バロック」と命名し、「SFの中でも、もっとも魅力的な分野である」と書いた。

ミシェル・ビュトール
(Michel Butor, 1926年9月14日 - )はフランスの小説家、詩人、批評家、ブック・アーチスト(livre d'artiste)。1956年、小説第2作『時間割』でフェネオン賞(le Prix Feneon)を受賞、翌年1957年第3作目の『心変わり』(La Modification)でルノードー賞(le Prix Theophraste Renaudot)を受賞し注目を集めた画家とのコラボレーション作品が数多く、書物を利用した表現の可能性を追究し続けている。文学をはじめ絵画、音楽などを論じた批評集『目録』がある。

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ギュンター・グラス
(Gunter Grass, 1927年10月16日 - )はドイツの小説家、劇作家、版画家、彫刻家。代表作に『ブリキの太鼓』など。1999年にノーベル文学賞受賞。主な作品に、ダンツィヒ三部作といわれる『ブリキの太鼓』『猫と鼠』『犬の年』や、フェミニズムを料理と歴史から描いた『ひらめ』、20世紀の百年それぞれに一話ずつの短編を連ねた『私の一世紀』などがある。

グードルン・パウゼヴァング
Gudrun Pausewang、1928年3月3日−)は、1928年にボヘミアのヴィッヒシュタドル(Wichstadl、現在のムラドコウ Mladkov)に生まれたドイツの女流作家である。1972年に、2歳になる息子と共にドイツに帰国した。それ以降、彼女はヘッセン州のシュリッツに住居を定めた。シュリッツは、彼女の作品、『みえない雲』(Die Wolke)や『最後の子どもたち』(de:Die letzten Kinder von Schewenborn)の話の舞台となっている。

ガブリエル・ガルシア=マルケス
(Gabriel Jose Garci´a Marquez, 1928年3月6日 - )は、コロンビアの作家・小説家。架空の都市マコンドを舞台にした作品を中心に魔術的リアリズムの旗手として数々の作家に多大な影響を与える。1982年にノーベル文学賞受賞。『百年の孤独』、『コレラの時代の愛』が2002年、ノルウェイ・ブッククラブによって「世界傑作文学100」に選ばれる。

カール・ヘルベルト・シェール
(Karl Herbert Scheer,1928年6月19日 - 1991年9月15日)は、ドイツのSF作家。ヘッセン州ハールハイム生まれ。フランクフルトの高校に入学後、海軍でUボートの乗組員をし、終戦後にはクラリネットやサックスの奏者など仕事を転々とし、1948年にデビューし、さまざまなペンネームを駆使してSF・ミステリーなど多くの作品を発表した。1961年9月に、クラーク・ダールトンらとSFの大長編『宇宙英雄ペリー・ローダン』シリーズの刊行をはじめた。

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カテブ・ヤシーン
Kateb Yacine, 1929年8月2日 - 1989年10月28日)はアルジェリアの作家。1945年、アルジェリアの民族運動の高まりにより起きたコンスタンティーヌの暴動に参加して逮捕される。この事件でヤシーンの親族に犠牲が出たため母が発狂し、作風に影響を与える。逮捕後に創作活動をはじめ、処女詩集『ひとり言』を発表。日刊紙の記者や肉体労働者などを転々としつつ、フランス植民地時代を舞台とした小説『ネジュマ』を発表し、高く評価される。

ギリェルモ・カブレラ=インファンテ
(Guillermo Cabrera Infante, 1929年4月22日 - 2005年2月21日)はキューバ出身の小説家、評論家。スペイン語と英語で作品を著した。ハバナ学院の卒業後に作家活動をはじめるが、作品がフルヘンシオ・バティスタ政権の検閲にかかり、投獄される。それ以降は反政府活動に協力しつつ、ペンネームを使って執筆を行なう。ブリュッセル時代に発表した小説 Tres Tristes Tigres(未訳)は、スペインのビブリオテーカ・ブレーベ賞を受賞した。

チヌア・アチェベ
(Chinua Achebe、1930年11月16日 - )は、ナイジェリア出身のイボ人の小説家。アフリカに多い口承文学を題材にした小説を描く。アチェベは1976年以降のアナンブラ州にあたる地域の町オギディで生まれた。そして当時ロンドン大学のカレッジであった現在のイバダン大学で、英語と、歴史、神学を学んだ。BBCで放送について学んだ後、1961年にナイジェリア放送の最初の海外放送部ディレクターになる。アチェベは「あるアフリカのイメージ コンラッドの『闇の奥』にみる人種差別」と題した批評を発表し、世界的な議論を呼び、この文章がディベートの題材として用いられるようになった。

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オコト・ビテック
(Okot p'Bitek、1931年6月7日-1980年7月20日)は、ウガンダの作家、詩人、社会学者、サッカー選手。グル県グル出身。高校卒業後、教師として働きながらサッカー選手としてウガンダ代表に選ばれていた。イギリスへとサッカー遠征を行ったのをきっかけにイギリスへと留学し、ブリストル大学、アベリストウィス大学、オックスフォード大学などで学んだ。代表作に『ラウィノの歌』(Song of Lawino、1966年)と『オチョルの歌 』(Song of Ocol、1970年)がある。

マヌエル・プイグ
(Manuel Puig、1932年12月28日-1990年7月22日)はアルゼンチンの作家。主な作品に『蜘蛛女のキス』、『ブエノスアイレス事件』、『このページを読む者に永遠の呪いあれ』、『赤い唇』、『リタ・ヘイワースの背信』など。5歳のころから映画館通いをする少年で、グレタ・ガルボ、リタ・ヘイワースなどのハリウッドスターに憧れる少年時代を過ごす。


ウーヴェ・ヨーンゾン
(Uwe Johnson、1934年7月20日 - 1984年2月23日)はドイツの作家。社会主義の中で人間らしく生きられず、かといって資本主義に自由や正義を見出すこともできず居場所を見つけられない現代人の苦悩を描いた。


ダイアナ・ウィン・ジョーンズ
(Diana Wynne Jones、1934年8月16日 - 2011年3月26日)は、イギリスのファンタジー作家。魔法をテーマとした子ども向けのファンタジー小説を得意とした。子どものときから古典に親しみ、英雄がほとんどが男性で、女性がいつも受身であることに歯がゆさを覚えたという。オックスフォード大学では、J・R・R・トールキンやC・S・ルイスに師事した。『魔法使いハウルと火の悪魔』がスタジオジブリ作品『ハウルの動く城』として映画化され、日本でも人気のある作家となった。

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フランソワーズ・サガン
(Francoise Sagan、1935年6月21日 - 2004年9月24日)は、フランスの小説家、脚本家、映画台本作家。彼女のペンネームはマルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の登場人物から取られた。アメリカに於いて彼女は旅行を好み、トルーマン・カポーティとしばしば旅行し、1957年には自動車事故で重傷を負った。中流の人々のやや平穏無事な生活の描写で有名。彼女の最初の小説『悲しみよこんにちは』は1954年、18歳の頃に出版された。

ハンス・クナイフェル
(Hans Kneifel、1936年6月1日 -2012年3月7日 )は、ドイツの作家、SF作家。オーバーバイエルン地方に移住したのち菓子職人を目指したが、1962年に高校卒業資格を取得し、1967年から小学校の教師となる。SFに関心を持つきっかけとなったのが、1950年のアメリカ映画「月世界征服」(ロバート・A・ハインラインのSF小説「宇宙船ガリレオ号」によったもの)であった。1968年に大長編スペースオペラ「宇宙英雄ペリー・ローダン」の執筆陣に加わり、以後主要執筆者として活躍する。

フレデリック・フォーサイス
(Frederick Forsyth, 1938年8月25日 - )は、イギリス、ケント州アシュフォード出身の作家。スパイ小説や軍を舞台にした作品が多く、世界各国で読まれている。1961年にロイター通信社の特派員としてパリ、西ドイツ、チェコスロバキアで過ごす。1965年にBBC放送入りし、1967年にナイジェリア内戦(ビアフラ独立戦争)取材の特派員として現地入りした。そして1970年に、フランスのシャルル・ド・ゴール大統領暗殺未遂事件を書いた処女作『ジャッカルの日』を世に送り出した。

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グギ・ワ・ジオンゴ
(Ngugi wa Thiong'o, 1938年1月5日 - )は、ケニアの作家。当初は植民言語である英語を使用していたが決別し、現在は母語であるキクユ語を用いる。小説に始まり、戯曲、児童文学、映画、論文、批評まで幅広く手掛ける。ナイロビの西方約40キロに位置するリムルにあるカミリズ村付近の貧しい農家に生まれた。母親は強制収容所に入れられ、兄はマウマウ団の乱に参加した。1964年、東アフリカで当時最高峰の東アフリカ大学(マケレレ大学)を卒業。記者活動を経て、翌年から3年間、英国大使館奨学金を得てリーズ大学に留学し、主に西インド文学を専攻した。

ジェフリー・アーチャー
(Jeffrey Howard Archer, Baron Archer of Weston-super-Mare, 1940年4月15日 - )は、イギリスの作家。元イギリス上院・下院議員。保守党副幹事長を務め、一代貴族(男爵)となっている。三たびの政界復帰を視野に活動していた1999年には偽証罪に問われ、2001年7月に裁判で実刑が確定した。服役後、2003年7月に保護観察となり、“A Prison Diary”(『獄中記』)を出版、その後社会復帰した。出獄後初の短編集であるCat O'nine Tales (『プリズン・ストーリーズ』)は、12作の短編小説のうち9つがアーチャーが獄中で聞いた話を小説にしたという形をとっている。

J・M・クッツェー
(John Maxwell Coetzee, 1940年2月9日 - )は南アフリカ出身の文学者で、2003年のノーベル文学賞の受賞者。米国永住を希望していたが、ヴェトナム反戦の学内集会に出ていたとき参加者全員が逮捕されたことが原因でVISA取得がかなわず、1971年に南アフリカに帰国して、1972年からケープタウン大学で教職に就く。ノーベル賞授賞時にスウェーデン・アカデミーがあげた理由は、「数々の装いを凝らし、アウトサイダーが巻き込まれていくところを意表を突くかたちで描いた。その小説は、緻密な構成と含みのある対話、すばらしい分析を特徴としている。しかし同時に、周到な懐疑心をもって、西欧文明のもつ残酷な合理性と見せかけの道徳性を容赦なく批判した」というもの。

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セルゲイ・ドヴラートフ
1941年 - 1990年)は、ロシアの小説家。1944年からは、戦火の収まったレニングラードで暮らす。1959年、レニングラード国立大学文学部(フィンランド語学科)に入学したが、二年半後に退学を余儀なくされた.1978年、政府からの追及を逃れるため、ドヴラートフはウィーンに亡命し、その後、家族とともにニューヨークに移り住んだ。ニューヨークでは、リベラルな移民系新聞「The New American」(ロシア語)を発行した。そして、『見えない本』(1978年)、『アンダーウッドのソロ』(1980年)、中編小説『妥協』(1982年)、『サンクチュアリ』(1983年)、『わが家の人びと』(1983年)など、相次いで自身の小説を出版した。80年代半ば頃、大きな文学的成功を収め、権威ある雑誌「ザ・ニューヨーカー」に自身の作品を発表した。

リュドミラ・ウリツカヤ
1943年2月21日 - )は、ロシアの小説家。バシコルトスタン共和国のダブレカノボに生まれる。モスクワ大学(遺伝学専攻)卒業後、1967年から研究員としてモスクワ学術院に所属。1983年に児童文学作品でデビュー、1993年刊行の小説『ソーネチカ』から、散文作家として認められていく。

ベルンハルト・シュリンク
(Bernhard Schlink, 1944年6月6日 - )は、ドイツの小説家、法学者。法学者としての専門は公法学。ビーレフェルト出身。ハイデルベルク大学やベルリン自由大学で法律を学び、卒業後はノルトライン・ヴェストファーレン州の憲法裁判所判事などを務める。1982年から1991年までボン大学で、現在はフンボルト大学ベルリンで教鞭を執っている。1987年にヴァルター・ポップとの共著による推理小説『ゼルプの裁き』で作家デビュー。

アンヌ・ヴィアゼムスキー
(Anne Wiazemsky、1947年5月14日 - )は、フランスの女優、小説家、映画監督である。1964年、16歳のとき、ロベール・ブレッソンの映画『バルタザールどこへ行く』で女優としてデビュー。1967年、ジャン=リュック・ゴダールの『中国女』に主演、同年7月22日ゴダールと結婚したが、1979年に離婚。小説家や脚本家として数本の作品がある。日本では『愛の讃歌』(日之出出版)『少女』(白水社)が邦訳されている。

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ソニー・ラブ=タンシ
(Sony Labou=Tansi、1947年7月5日 - 1995年6月14日) は、コンゴ共和国の小説家、劇作家。本名マルセル・ソニー(Marcel Sony)。『一つ半の生命』で世界的に注目される。コンゴ共和国のキンワザに生まれる。ブラザヴィル、ポワントノワールで教育を受け、英語、フランス語の教師や、科学研究省に勤める。1979年にフランス語で書いた小説『一つ半の生命』で注目され、第1回仏語圏フェスティヴァル特別賞を受賞。

ルイス・セプルベダ
(Luis Sepulveda、1949年10月4日 - )はチリの小説家。元アナーキストの祖父の影響で、青年期には社会主義運動に傾倒する。1973年9月にアジェンデ人民連合政権がアウグスト・ピノチェトのチリ・クーデターによって倒れると、同年末に逮捕・投獄され942日間の獄中生活を送る。1989年に長編『ラブ・ストーリーを読む老人』を発表。1992年に出た仏語訳版が驚異的なベストセラーを記録し、一躍脚光を浴びる。


トマス・アカレ
(Thomas Akare, 1950年 - )はケニアの作家。ヴィクトリア湖に面した都市でルオ族の中心地であるキスムの出身。ナイロビのマジェンゴ地区やマコンゲニ地区などを舞台にした小説『スラム』を執筆。廃車に住み、カタンガ・ベース(由来はカタンガ州)と呼ばれるタクシーの車庫で洗車を仕事にする青年エディを主人公にスラムの生活を描いた。


アルトゥーロ・ペレス=レベルテ
Arturo Perez-Reverte Gutierrez、1951年11月25日 - )は、スペインの小説家、ジャーナリストである。カルタヘナ生まれ。1973年よりプエブロ紙でジャーナリストとしての活動を開始し、後にスペイン国営テレビに移籍。1994年に小説家に転身するまで一貫して戦場特派員として取材を続ける。

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ヘルタ・ミュラー
(Herta Muller、1953年8月17日 - )は、ルーマニア出身のドイツ語作家。チャウシェスク政権下のルーマニアにおける困難な生活や、バナート地区のドイツ人の歴史、ソ連占領下ルーマニアのドイツ系民族迫害などを主題にした作品で知られる。2009年ノーベル文学賞受賞。

ミア・コウト
(Mia Couto,1955年7月5日-)とは、モザンビーク出身の作家である。彼のポルトガル語作品は22以上の国で出版され、広く翻訳されている。ポルトガル系モザンビーク人。最初の小説『夢遊の大地』(Terra Sona^mbula ,1992)がジンバブエの国際書籍展で「20世紀のアフリカの書籍のうち、最も優れた12冊」に選ばれたことをきっかけに次第にコウトの詩や小説はモザンビークのみならず、ポルトガルやアフリカ諸国、さらにはブラジルの読者にまで広く読まれるようになった。

 

アレクサンドラ・マリーニナ
1957年7月16日 - )は、ロシアの推理作家。ウクライナ・リヴォフ(リヴィウ)で生まれ、サンクトペテルブルクで育つ。モスクワ大学法学部卒業後、ソ連内務省アカデミーで犯罪心理学などの研究に従事。1993年、デビュー。モスクワ市警の女性捜査官アナスタシナ・カメンスカヤを主人公とするシリーズはベストセラーとなり、1998年のモスクワ国際ブックフェアでライター・オブ・ザ・イヤーに輝いた。

エルビラ・リンド
(Elvira Lindo, 1962年1月23日 - )は、スペインの小説家、ジャーナリスト、脚本家。カディスに生まれる。12歳の時に、家族と共にマドリードに移る。マドリード・コンプルテンセ大学ではジャーナリズムを専攻。1994 - Manolito Gafotas 『めがねっこマノリート』(小学館、2005年)

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