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ウジェーヌ・ドラクロワ
(Ferdinand Victor Eugene Delacroix、1798年4月26日 - 1863年8月13日) はフランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。1822年に始まり、ジュール・ヴェルヌと共にノートが失われて1824年に中断、1832年に再開され、1863年の彼の死まで続いた。このドラクロワの個人的な日記は、この画家の文字通りの傑作である。そこには絵画、詩、音楽についての考えが書き留められている。

テオドール・ルソー
(Theodore Rousseau, 1812年4月15日 - 1867年12月22日)は、19世紀期のフランスの画家。ルソーがバルビゾンに初めて長期滞在したのは1836年のことで、以後、仲間の画家たちとともにしばしば滞在、1847年にはバルビゾンに移住している。サロンへの入選を拒まれた十数年の不遇時代にも、彼は画家としての志を変えず、「歴史画」や物語の背景ではない、純粋な風景画を確立しようとした。

ギュスターヴ・クールベ
(Gustave Courbet, 1819年6月10日 - 1877年12月31日) は、フランスの写実主義の画家。1855年、パリにおいて世界で2番目の万国博覧会が開催された。クールベは、この万国博覧会に大作『画家のアトリエ』と『オルナンの埋葬』を出品しようとする。しかし他の作品は審査を通過したにも関わらず、これらの大作は落選してしまった。そこでクールベは後援者ブリュイアスに資金を仰ぎ、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、「ギュスターヴ・クールベ作品展。入場料1フラン」という看板を立て、1855年6月28日から公開した。

ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
Pierre Puvis de Chavannes, 1824年12月14日 - 1898年10月24日)は、19世紀のフランスの画家。1824年、リヨンの織物業の名門の家に生まれる。リヨンとパリに学び、当初は父親と同じく技師になるつもりであったが、病気にかかり勉学を中断せざる負えなくなる。その後療養の為イタリアに旅をしたシャヴァンヌは帰国後画家の道を志すようになり、ロマン派の巨匠ドラクロワおよび古典的な作風の画家トマ・クチュール(1815−1879)に師事している。


アルノルト・ベックリン
(Arnold Bocklin, 1827年10月16日 - 1901年1月16日)は、19世紀のスイス出身の象徴主義の画家。ベックリンは1827年にスイスのバーゼルで生まれたが、青年期以降はヨーロッパ各地を転々とし、生涯の大部分をドイツおよびイタリアで過ごしている。『死の島』は暗い空の下、墓地のある小さな孤島をめざし、白い棺を乗せた小舟が静かに進んでいくさまを描いた神秘的な作品である。


ジョン・エヴァレット・ミレー
(Sir John Everett Millais, 1829年6月8日 − 1896年8月13日)は、19世紀のイギリスの画家。子供を描いた絵で人々に広く愛され、彼の孫息子を描いた代表作の一つ『シャボン玉』は、カラーで「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」紙に掲載され、後に石鹸の広告としても使用された。ミレイは肖像画家としても成功し、ディズレーリやディケンズら当時の著名人の多くが彼に肖像画を依頼した。

エドゥアール・マネ
(Edouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。1848年両親の意向で海軍兵学校を受験するも早々に落第。再試験を待つ間練習船に見習い船員となり、南アメリカへ半年間航海に出る。帰国後の翌年、再試験を受けるがまたもや失敗。両親はマネの希望を受け入れ、17歳の時に本格的に画家への道に邁進出来るようになった。

エドガー・ドガ
(Edgar Degas, 1834年7月19日 - 1917年9月27日)は、フランスの印象派の画家。1834年、パリに銀行家の息子として生まれる。ドガの作品には室内風景を描いたものが多い。初期の作品は海辺の情景などであったが、1870年代後半のモノタイプによる一連の作品では客と娼婦たちの姿が多く描かれた。そして1880年代半ば以降のパステル作品では、そうした特定の逸話的な場面でなく、閉ざされた部屋で黙々と日々の身づくろいに精を出す女の姿が描かれていく。

ポール・セザンヌ
(Paul Cezanne、1839年1月19日 - 1906年10月22日(10月23日説もある))は、フランスの画家。セザンヌは経済的な心配をせずに画業に専念できたのだが、父との間には後年まで確執があった。セザンヌは、のちに自然主義文学の代表的作家となったエミール・ゾラと、エクスの中学で出会った。後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えた。

オーギュスト・ロダン
(Francois-Auguste-Rene Rodin, 1840年11月12日 - 1917年11月17日)は、フランスの彫刻家。19世紀を代表する彫刻家とされ、『近代彫刻の父』と称される。ロダンはエコール・ボザールなどの美術の専門教育(アカデミズム)を受けず、特に青年期以降は殆ど独学で彫刻を習得した事で知られている。

彼は「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」と語っている。ベルギーに戻ったロダンは早速イタリア旅行で得た情熱を糧に『青銅時代』を製作、十数年ぶりに彫刻家として活動を開始した。

ピエール=オーギュスト・ルノワール
Pierre-Auguste Renoir、1841年2月25日 - 1919年12月3日)は、フランスの印象派の画家である。父は仕立屋、母はお針子であった。3歳の時、一家でパリに移住し、ルーヴル美術館に近い都心に住む。幼いころから画才を示していたが、美声でもあったルノワールは1850年頃に9歳前後で作曲家のシャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。

エミール・ガレ
(Charles Martin Emile Galle、1846年5月4日 − 1904年9月23日)は、アール・ヌーヴォーを代表するフランスのガラス工芸家、陶器・家具のデザイナー、アートディレクター、企業経営者。1846年5月4日、フランスロレーヌ地方ナンシーで誕生。1858年にナンシー帝立高等中学校(リセ)に入学。修辞学、文学、哲学、植物学、に優れた成績を修めた。

ポール・ゴーギャン
Eugene Henri Paul Gauguin 1848年6月7日 - 1903年5月8日)は、フランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。

しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。

フィンセント・ファン・ゴッホ
Vincent van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダ出身でポスト印象派(後期印象派)の画家。主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代に制作された。876年)4月、ゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートの港を見下ろす小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。

そこでいくつかの風景画のスケッチをした。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイルワースに移ることとなり、フィンセントはリッチモンドまで汽車で、その先アイルワースまでを徒歩で旅した。

ジョルジュ・スーラ
(Georges Seurat, 1859年12月2日 - 1891年3月29日)は、新印象派に分類される19世紀のフランスの画家。スーラは、印象派の画家たちの用いた「筆触分割」の技法をさらに押し進め、光学的理論を取り入れた結果、点描という技法にたどりついた。パリの裕福な中産階級の家庭に生まれる。1878年、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学するが、兵役のため1年ほどで学業を中止する。1883年、サロンに素描が1点入選。この年から最初の大作『アニエールの水浴』の制作に着手する。

ジェームズ・アンソール
(James Ensor, 1860年4月13日 - 1949年11月19日)は、19世紀〜20世紀のベルギーの画家。オーステンデのアンソールの両親の家は、観光客相手の土産物店を営んでおり、貝殻、民芸品、カーニバルの仮面などを商っていた。カーニバルの仮面が、後に画家としてのアンソールの重要なモチーフとなったことはよく知られる。

グスタフ・クリムト
(Gustav Klimt, 1862年7月14日 - 1918年2月6日)は、帝政オーストリアの画家。すでに装飾家として名声を得ていたクリムトは1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼される。『学部の絵』と名づけられたこの天井画は『哲学』、『医学』、『法学』の3部からなる。人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3枚の絵は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。

ポール・シニャック
(Paul Victor Jules Signac, 1863年11月11日 - 1935年8月15日)は、19世紀〜20世紀のフランスの画家。ジョルジュ・スーラと並ぶ、新印象派の代表的画家。1863年、パリに生まれる。最初は建築を学んでいたが、18歳の時に絵画に転向した。1886年の第8回(つまり最後の)印象派展にスーラとともに出品している。シニャックは、理論家タイプで無口なスーラとは対照的に、話し好きで陽気な性格であった。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
(Henri de Toulouse-Lautrec, 1864年11月24日 - 1901年9月9日)は、19世紀のフランスの画家。1882年にパリに出て、当初はレオン・ボナの画塾で学んだが、まもなくして画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移り、以後は晩年まで同地で活動するようになった。なお、コルモンの画塾ではファン・ゴッホ、エミール・ベルナールらと出会っている。


ワシリー・カンディンスキー
Vassily Kandinsky、1866年12月4日(ユリウス暦)/12月16日(グレゴリオ暦) - 1944年12月13日)は、ロシア出身の画家であり、美術理論家であった。1922年からはバウハウスで教官を務め、1933年にナチス・ドイツによってバウハウス自体が閉鎖されるまで勤務した。1941年にフランスがナチスによって占領されたのにも関わらず、彼はアメリカへの移住を拒否し続け、パリ郊外に位置するヌイイ=シュル=セーヌでその生涯を閉じた。


ケーテ・コルヴィッツ
(Kathe Schmidt Kollwitz、1867年7月8日 - 1945年4月22日)は、ドイツの版画家、彫刻家。周囲にいた貧しい人々の生活や労働を描いたほか、自分自身の母として・女性としての苦闘を数多くの作品に残した。1890年、彼女はケーニヒスベルクに戻り、港で働く女性たちの活動的な姿を版画に描くようになった。1891年、兄の友人で健康保険医のカール・コルヴィッツと結婚した彼女はベルリンの貧民街に移った。彼女は生涯描き続けた自画像に取り組む一方、スラムに住む彼女の周りの住民たちや夫の患者たちに強い印象を受け、貧困や苦しみを描くようになる。

エドゥアール・ヴュイヤール
(Edouard Vuillard, 1868年11月11日 - 1940年6月21日)は、19世紀〜20世紀のフランスの画家。室内情景など、身近な題材を好んで描き、自ら「アンティミスト」(「親密派」という程度の意味)と称した。生涯独身を通し、酒もたしなまなかったヴュイヤールの絵画は、その渋い色調ともあいまって、穏やかな人柄を彷彿させる。


エルンスト・バルラハ
(Ernst Barlach、1870年1月2日 - 1938年10月24日)は20世紀ドイツの、表現主義の彫刻家、画家、劇作家である。第一次世界大戦に始めのうちは賛同していたが、自身が戦争を体験することにより転換。反戦的、厭戦的な作品を多く残すようになった。しかし、そのためにナチスによって退廃芸術の烙印を押され、多くの作品が没収、いくつかは破壊された。


ピエト・モンドリアン
(Piet Mondrian、1872年3月7日 - 1944年2月1日)は19世紀末-20世紀のオランダ出身の画家。ワシリー・カンディンスキーと並び、本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家とされる。1914年、父親の病気の知らせを受けてオランダに戻ったモンドリアンは、折りしも始まった第一次大戦のためにパリに戻れなくなり、オランダに残ることを余儀なくされる。しかし戦争のさなかに多くの芸術家と知り合い、特にテオ・ファン・ドースブルフと出会ったことはモンドリアンにとっても大きな転機となった。

アルベール・マルケ
(Albert Marquet, 1875年3月26日[1] - 1947年6月13日)は、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀〜20世紀のフランスの画家。1875年、ボルドーに生まれる。1893年、パリの装飾美術学校に学び、続いてエコール・デ・ボザール(官立美術学校)でギュスターヴ・モローの指導を受ける。ここで同窓生の6歳年上のマティス、ルオーらと知り合った。特にマティスとは親密で、マティスから絵の具を買ってもらったり、二人で肩を並べて描いたという。


コンスタンティン・ブランクーシ
Constantin Brancusi, 1876年2月19日 - 1957年3月16日)は、ルーマニア出身の20世紀を代表する独創的な彫刻家である。20世紀の抽象彫刻に決定的な影響を与え、ミニマル・アートの先駆的作品も残した。非常に要素を切り詰めた一見してミニマルな作風を持つ。また、彫刻などが置かれる台座も作品として一緒に制作する。


カジミール・マレーヴィチ
1878年2月23日(ユリウス暦2月11日) - 1935年5月15日)は、ウクライナ・ロシア・ソ連の芸術家。特に画家として知られ、戦前に抽象絵画を手掛けた最初の人物である。彼は前衛芸術運動「ロシア・アヴァンギャルド」の一翼を担い、純粋に抽象的な理念を追求し描くことに邁進した。

パウル・クレー
(Paul Klee、1879年12月18日 - 1940年6月29日)は20世紀のスイスの画家、美術理論家。ワシリー・カンディンスキーらとともに青騎士グループを結成し、バウハウスでも教鞭をとった。

1879年、スイスの首都・ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれた。父は音楽教師、母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家であった。クレー自身も早くからヴァイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くなど、その腕はプロ級であり、1906年に結婚した妻もピアニストであった。

エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー
(Ernst Ludwig Kirchner, 1880年5月6日 - 1938年6月15日)は、20世紀前期のドイツの画家。エーリッヒ・ヘッケル、カール・シュミット=ロットルフらと並ぶドイツ表現派の代表的画家である。1880年、バイエルン州アシャッフェンブルクに生まれた。1901年、ドレスデン工科大学で建築を学んだ後、1903年から1904年にかけてミュンヘンで美術を学んでいる。

アーサー・ダヴ
(Arthur Garfield Dove; 1880年8月2日 - 1946年11月23日)は、アメリカの抽象系の画家。その作品は、ヨーロッパにおける抽象絵画の源泉となっているキュビスム・表現主義のいずれの影響もあまり受けておらず、アメリカ独自の、一種土着性の強い、アメリカの土地や自然(山・空・太陽・雲・雷・湖・植物・動物など)に根ざした、抽象絵画といえる。

ミハイル・ラリオーノフ
Mikhail Fyodorovich Larionov、1881年6月3日 − 1964年5月10日)はロシア・アヴァンギャルドの画家。オデッサ近郊のティラスポリ出身。1898年にモスクワ美術・彫刻・建築学校にてイサーク・レヴィタンとヴァレンティン・セーロフに師事。過激な意見のために3たびにわたって停学の憂き目を見るが、1900年にナターリヤ・ゴンチャローワと出逢い、生涯にわたる関係を築く。

ジョルジュ・ブラック
(Georges Braque, 1882年5月13日 - 1963年8月31日)は、フランスの画家。パブロ・ピカソと共にキュビスムの創始者のひとり。ピカソよりも画家としてのキャリアでは劣ったが、絵画における発明の才はピカソも一目を置いた。セーヌ川沿いの町アルジャントゥイユで生まれル・アーヴルで育った。少年時代は家業のペンキ屋・装飾画家の見習いをしながら、1897年頃から1899年までエコール・デ・ボザールで夜に絵を学んだ。

ウンベルト・ボッチョーニ
(Umberto Boccioni、1882年10月19日 - 1916年8月17日)はイタリアの画家、彫刻家、理論家。彼はマルクス主義者のアナキストであり、未来派の主要メンバーでもあった。第一次大戦の布告に伴って、ボッチョーニはヴェローナ近郊のソルテで砲兵連隊に入隊する。1916年8月16日、騎兵隊訓練中に落馬して馬に踏みつけられ、その翌日に33歳で死亡した。

テオ・ファン・ドースブルフ
(Theo van Doesburg,1883年8月30日-1931年3月7日。は、オランダの画家、建築家、美術家。1920年代初頭にはバウハウスと交流し、講師にはなれなかったが、自身の思想をバウハウスに浸透させることに成功した。1920年代半ばには、要素主義を導入し、モンドリアンと対立、モンドリアンは、デ・ステイルを離脱した。

オノレ・ドーミエ
(Honore-Victorin Daumier, 1808年2月26日 - 1879年2月10日)は、19世紀のフランスの画家。1808年、マルセイユにガラス職人の子として生まれた。職人であった父・ジャン=バティストは、文学趣味の強い人物で、詩人として身を立てるため、1814年(1815年とも)、家族を置いてパリに赴いた。ドーミエは少年時代から弁護士の使い走りや書店の店員として走り回っていた。ドーミエは国王や政治家を風刺した版画で一世を風靡した。


ジャン=フランソワ・ミレー
(Jean-Francois Millet, 1814年10月4日 - 1875年1月20日)は、19世紀のフランスの画家。パリの南方約60kmのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家たちを、今日「バルビゾン派」と称している。1814年、ノルマンディー地方ラ・マンシュ県の海辺にあるグリュシーという小さな村に生まれた。8人兄弟の長男で、父は農民であり村の教会の合唱指揮者でもあった。


ジャン=レオン・ジェローム
(Jean-Leon Gerome, 1824年5月11日 - 1904年1月10日)はフランスの画家・彫刻家。歴史や東方(オリエント地域)の描写を得意とした。オート=ソーヌ県ヴズール生まれ。1841年にパリへ出てポール・ドラローシュのもとで学び、ドラローシュのイタリア旅行(1844年 - 1845年)にも同伴した。フィレンツェ、ローマ、ヴァチカン、ポンペイを訪れるも、都市よりむしろ自然に魅力を感じる。

ウィリアム・アドルフ・ブグロー
(William Adolphe Bouguereau, 1825年11月30日 - 1905年8月19日)は、フランスの画家。画風はアングルなどの新古典主義の流れを汲む伝統的なもので、キリスト教、神話、文学などに題材をとった構想画のほか、肖像画を数多く残している。20世紀以降、さまざまな絵画革新運動の勃興とともにブグローの名は次第に忘れられていった。再評価されるようになるのは20世紀末のことである。

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ギュスターヴ・モロー
(Gustave Moreau, 1826年4月6日−1898年4月18日)は、フランスの象徴主義の画家である。パリに生まれパリで亡くなった。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られる。1826年、パリに生まれた。父はパリ市とポリーヌ・デモティエの建築家ルイ・モロー fr:Louis_Moreau_(architecte)。母は音楽家だった。ギュスターヴは体が弱く、6歳のころから素描をして遊ぶようになった。1843年に最初のイタリア旅行をした。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
(Dante Gabriel Rossetti, 1828年5月12日−1882年4月10日)は、19世紀のイギリスの画家・詩人。ラファエル前派の一員に数えられる。ロセッティは絵画と同じく文学も愛し、シェイクスピアやゲーテを読みながら5歳で戯曲『奴隷』を書くなどの才能を見せていた。絵画技法について、在学中はノリッジ派の水彩画家ジョン・セル・コットマンに師事したが、特別熱意があったわけでもなく、コットマンもまた特別目をかけていたわけではなかった。

カミーユ・ピサロ
(Jacob Camille Pissarro, 1830年7月10日 - 1903年11月13日)は、19世紀フランスの印象派の画家。カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島(サン=トマ)島にて、ボルドー出身のセファルディムの四兄弟の三男として生まれる。ピサロの両親はボルドーからこの地に来て小さな貿易雑貨商をしていた。少年時代をこの島で過ごしたピサロは1841年、11歳の時フランスに渡り、寄宿舎制の学校に通うが、1847年ふたたび帰郷。

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー
(James Abbott McNeill Whistler, 1834年7月10日-1903年7月17日)は、19世紀後半のアメリカ人の画家、版画家。おもにロンドンで活動した。パリでは当時のリアリズムの巨匠であったシャルル・グレールのアトリエに通うが、その伝統的な画風にあきたらず、当時の革新的な画家であったギュスターヴ・クールベに強い共感を覚えた。

アルフレッド・シスレー
(Alfred Sisley, 1839年10月30日 - 1899年1月29日)は、フランス生まれのイギリス人の画家。1857年、18歳のときにロンドンに移りビジネスを学ぶが、4年後には中断してパリに戻る。ロンドンでターナー等の作品に触れたシスレーは1862年から マルク=シャルル=ガブリエル・グレールのアトリエで学び、またフレデリック・バジール、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワールらと出会う。

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クロード・モネ
Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家。「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。モネは少年の頃から絵画に巧みで、10代後半の頃には自分の描いた人物のカリカチュア(戯画)などを地元の文具店の店先に置いてもらっていた。


オディロン・ルドン
(Odilon Redon, 1840年4月20日(4月22日説もあり) - 1916年7月6日)は、19世紀−20世紀のフランスの画家。20歳の頃植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。後にルドンが制作した版画には植物学の影響が見られ、版画集『夢の中で』はクラヴォーに捧げたものである。


アンリ・ルソー
(Henri Julien Felix Rousseau、1844年5月21日 - 1910年9月2日)は、19世紀〜20世紀フランスの素朴派の画家。高校中退後、一時法律事務所に勤務する。1863年から1868年まで5年間の軍役を経て1871年、パリの入市税関の職員となる。現存するルソーの最初期の作品は1879年(35歳)頃のものである。1886年からアンデパンダン展に出品を始め、同展には終生出品を続けている。

マックス・リーバーマン
(Max Liebermann, 1847年7月20日 - 1935年2月8日)は、ドイツの画家でベルリン分離派創立者の一人である。彼はベルリンのユダヤ人実業家の息子で、法学や哲学を学んでいたが、その後1869年にヴァイマル、1872年にパリ、1876年にはオランダに移り絵画を勉強した。

リーバーマンは当初、田園の人物や、彼の生活風景などを描いていた。後に、彼はロヴィス・コリント(Lovis Corinth)、マックス・スレーフォークト(Max Slevogt)らとともにドイツ印象派の代表的作家となる。

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ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
(John William Waterhouse, 1849年4月6日 - 1917年2月10日)は、イギリスの画家。神話や文学作品に登場する女性を題材にしたことで知られる。両親共に画家であった。一家は、ジョンが5歳のときに、当時設立されたばかりのヴィクトリア&アルバート美術館の近くのサウス・ケンジントンに引っ越す。1870年に英国王立美術院に入るまで、若かりし頃のジョンはずっと父・ウィリアムの元で学んでいた。

ジョン・シンガー・サージェント
(John Singer Sargent;1856年1月12日 - 1925年4月14日)は、19世紀後半から20世紀前半のアメリカ人の画家。フランスで美術教育を受け、おもにロンドンとパリで活動した。上流社交界の人々を描いた優雅な肖像画で知られる。サージェントは1905年頃からほぼ毎年アメリカを訪問しており、1916年にはボストン美術館のロトンダ(円形大ホール)の天井画制作を依嘱されている。

テオドール・キッテルセン
(Theodor Severin Kittelsen、1857年4月27日-1914年1月21日)は、ノルウェーの画家。ノルウェーで最も人気のある画家の一人である。主に自然を描いた絵画 (風景画)と、伝説や説話の絵画、特にノルウェーの伝承に登場する妖精、トロール (troll)を描いた絵画で有名。1882年にはパリへ留学するための奨学金が付与される。5年後の1887年にノルウェーに戻る。ノルウェーに戻った時、彼はノルウェーの自然から大きなインスピレーションを受ける。

アルフォンス・ミュシャ
(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー。25歳のときエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学、卒業し、28歳のときパリにてアカデミー・ジュリアンに通う。彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターである。

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ミハイル・マチューシン
Michael Vasilyevich Matjuschin、*1861年 ニジニ・ノヴゴロド - †1934年10月14日 レニングラード)はロシアの美術家・作曲家でロシア・アヴァンギャルドの主要人物のひとり。1876年から1881年までモスクワ音楽院に学び、1882年から1913年までペテルブルク宮廷楽団のヴァイオリン奏者として活動する。

その間、生涯の伴侶となったエレーナ・グロとともに私塾で絵を学び、一連の風景画を描いていた。やがて画壇における未来派運動の指導者のひとりとして活躍し、カジミール・マレーヴィチと生涯にわたる友情を培う。

ニコ・ピロスマニ
Niko Pirosmanashvili, 1862年 - 1918年4月9日)は19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家。彼はグルジア東部のMirzaani(ミルザーニ)の村で生まれた。後にトビリシに出て、グルジア鉄道で働いたり自分の商店を持ったりしたが、体が弱いうえに人付き合いがうまく行かなかったため長続きしなかった。その後、独学で習得した絵を描くことに専念するようになった。


エドヴァルド・ムンク
(Edvard Munch, 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀〜20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。1886年10月、絵を印象づけるため、あえて素描風に仕上げるスタイルを無意識的にとっていたのだが理解されず、クリスチャニア秋季展に『病める子』を発表すると、この絵は物議を醸し、罵倒と思えるほど批判される。

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シュザンヌ・ヴァラドン
(Suzanne Valadon, 1865年9月23日 - 1938年4月7日)はフランス、モンマルトルの画家。画家モーリス・ユトリロの母である。人物をほとんど描かなかったユトリロとは対照的に、ヴァラドンの作品の主題はほとんどが人物であり、高いデッサン力に支えられた太い簡潔な線は、対象の特徴を容赦なく捉え力強い。ヴァラドンはユトリロが画家として成功するまで、息子に絵画の才能があるとは思っておらず、また息子も母から絵画を学ぶことはなかったため、互いに影響を受けることなく、独自の画風を確立している。

ピエール・ボナール
(Pierre Bonnard, 1867年10月3日 - 1947年1月23日)は、ナビ派に分類される19世紀〜20世紀のフランスの画家。1867年、陸軍省の役人の息子として、オー=ド=セーヌ県・フォントネー=オー=ローズに生まれた。1887年、大学の法学部に入学するが、その傍らアカデミー・ジュリアンに通い、ポール・セリュジエやモーリス・ドニと出会う。

エミール・ノルデ
(Emil Nolde, 1867年8月7日 - 1956年4月15日)は、19世紀末から20世紀のドイツの画家。ノルデの作品は原色を多用した強烈な色彩と単純化された形態が特色で、ファン・ゴッホやオセアニア美術の影響が感じられる。木版画や水彩画の名手でもあり、特に水彩は北ドイツの風景、草花などを題材にし、水彩という画材の持ち味を存分に生かしたもので、卓越した技術をもっている。

アンリ・マティス
(Henri Matisse, 1869年12月31日 - 1954年11月3日)は、フランスの画家。フォーヴィスム(野獣派)のリーダ−的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。

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ジョン・マリン
(John Marin、1870年12月23日 - 1953年10月2日)は、20世紀前半のアメリカのモダニズムを代表する画家、版画家。ニューヨークの摩天楼やハドソン川、ブルックリン橋に強く魅せられ、これらの多くを作品の題材とした。その作品は、都会的な対象物を、半抽象的に、ダイナミックに描いたもので、動きのある画風は、未来派に通じるものも感じさせる。

ジョルジュ・ルオー
(Georges Rouault, 1871年5月27日 - 1958年2月13日)は、野獣派に分類される19世紀〜20世紀期のフランスの画家。ルオーは14歳の時、ステンドグラス職人イルシュに弟子入りする。後年のルオーの画風、特に黒く骨太に描かれた輪郭線には明かにステンドグラスの影響が見られる。ルオーは終生、師モローへの敬愛の念が篤く、1903年にはモローの旧居を開放したモロー美術館の初代館長となっている。ルオーは同美術館に住み込みで働いていたが、給料は安く、生活は楽ではなかったようだ。

モーリス・ド・ヴラマンク
(Maurice de Vlaminck, 1876年4月4日 - 1958年10月11日)は、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀末〜20世紀のフランスの画家。1876年、パリで音楽教師の子として生まれるが、16歳の時には家を飛び出してシャトゥーに住んだ。18歳の時に結婚し、自転車選手をしたり、オーケストラでバイオリンを弾いたりして生計を立てていた。

ヴラマンクは、徹底した自由主義者で、自分の才能以外の何ものも信じず、何ごとにも束縛されたり、服従することを嫌った。こうした性格から、絵画についてもあらゆる伝統や教育を拒否し、少年時代に多少絵の手ほどきを受けた程度で、ほとんど独学であった。

ラウル・デュフィ
(Raoul Dufy, 1877年6月3日 - 1953年3月23日)は、野獣派に分類される、19世紀末から20世紀前半のフランスの画家。「色彩の魔術師」20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家。デュフィの陽気な透明感のある色彩と、リズム感のある線描の油絵と水彩絵は画面から音楽が聞こえるような感覚をもたらし、画題は多くの場合、音楽や海、馬や薔薇をモチーフとしてヨットのシーンやフランスのリビエラのきらめく眺め、シックな関係者と音楽のイベントを描く。

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フランシス・ピカビア
(Francis-Marie Martinez Picabia, 1879年1月22日 - 1953年11月30日)は、20世紀前半の画家、詩人、美術家。パリでキューバ大使とフランス人の間に生まれ、1913年のアーモリーショー以降アメリカとヨーロッパを行き来した。1945年にはパリに戻り、最後はパリにて没す。モンパルナス墓地に埋葬されている。

アンドレ・ドラン
(Andre Derain, 1880年6月10日 - 1954年9月8日)は、フォーヴィスム(野獣派)に分類される20世紀のフランスの画家。イヴリーヌ県シャトゥー出身。アンリ・マティスらとともにフォーヴィスム(野獣派)の運動において指導的役割を果たした画家。風景、人物、静物などさまざまな画題の作品がある。作風も、ポール・シニャック風の点描に近い技法を用いた風景画から、キュビスム風の静物画まで幅広い。


フランツ・マルク
(Franz Marc, 1880年2月8日、ミュンヘン - 1916年3月4日、ヴェルダン)は、20世紀初期のドイツの画家。動物を愛し、動物とひとつになろうとした画家であった。画家としての活躍はわずか10年。動物によって心開かれ、自らの魂を動物たちに投影したマルクはその人生の最後、世界の再生を動物たちに託し、この世を走り去った。


パブロ・ピカソ
(Pablo Picasso、1881年10月25日 − 1973年4月8日)はスペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。パリ時代初期には、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタイン、アンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていた。

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ナターリヤ・ゴンチャローワ
Natalia Sergeevna Goncharova、1881年7月4日 - 1962年10月17日)はロシア・アヴァンギャルド運動の著名な美術家・デザイナー。生涯にわたるパートナーとなるミハイル・ラリオーノフとともに立体未来主義を標榜した。モスクワ美術アカデミーに彫刻を学ぶが、1904年に絵画に復帰。ロシア民芸のプリミティヴな側面に深く触発されて、フォーヴィズムやキュビズムの要素も取り入れつつ、自作でプリミティヴィズムを確立しようと模索した。

エドワード・ホッパー
(Edward Hopper, 1882年7月22日 -1967年5月15日)は、20世紀のアメリカの画家。20世紀アメリカの具象絵画を代表する1人。1925年に制作された『線路脇の家』はホッパーの最初期の連作の一つで、その後の彼のスタイルを決定づけた作品である。都会の街路、オフィス、劇場、ガソリンスタンド、灯台、田舎家などアメリカ人には見慣れた都市や郊外の風景を、単純化された構図と色彩、大胆な明度対比、強調された輪郭線で描く彼の作品は今日のアメリカでも高い人気をもっている。

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