<先住民・先住民族由縁の著名人>
■クアウテモック
(Cuauhtemoc, 1495年頃 - 1525年2月28日)は、アステカの第11代の君主(トラトアニ、在位1520年 - 1521年)。名の意味は「急降下する鷲」。エルナン・コルテスと戦った第9代の君主モクテスマ2世の従兄弟にあたる。1521年、エルナン・コルテスがアステカの首都テノチティトランを包囲すると、3ヶ月の攻防戦に耐えて勇敢に立ち向かったが、8月13日、脱出を試みる途中にスペイン軍に捕らえられて降伏し、アステカは滅んだ。
クアウテモックはコルテスの短刀を指さして自分を殺すように言ったが、コルテスは彼を殺さず、勇者として手厚くもてなした。しかしそれは始めのうちだけで、黄金の場所をつきとめるためにコルテスは彼を拷問にかけた。
■ラウタロ
(Lautaro)とはマプーチェ族の軍事指導者であり、アラウコ戦争においてスペイン人と戦った主要な人物である。チリの征服を進めていた征服者、ペドロ・デ・バルディビアの捕虜になり、馬丁を務めていたものの、隙を見て脱走するとマプーチェ族を糾合し、スペイン人との戦いを指導した。チリに建設されたいくつものスペインの植民都市を破壊し、1552年にはバルディビアを打ち破って捕虜にし、拷問にかけて殺害した。その後ラウタロは戦死するが、カウポリカンらの優秀な指導者によってアラウコ戦争は継続されることとなった。
■ハイアワサ
Hiawatha、は、16世紀のモホーク族インディアンの男性戦士、調停者。デガナウィダとともにカユーガ族、モホーク族、オナイダ族、オノンダーガ族、セネカ族の5つの部族をまとめ上げ、「イロコイ連邦」を成立させた英雄である。指導者、首長ではない。インディアンのチーフ(酋長)とは調停者のことであり、「ピースメーカー」と呼ばれることもある。アメリカ北東部のインディアン国家は「ロングハウス」という議会場で「会議の火」を囲んで酋長たちが合議を行い、すべての物事を決定する完全民主主義社会であり、現在も議会制で運営されている。ハイアワサとデガナウィダはその功績によって、とくに「グレート・ピースメーカー」と呼ばれている。
■マサソイト
マサソイト(Massasoit、別名「黄色い羽」を意味するオウサムクイン、OusaMequin 1581年 - 1661年)とはアメリカ・インディアンのワンパノアグ族の酋長。マサソイトはアメリカ最初期のイギリス人入植者であるピルグリムファーザーズに食糧を与え、彼らを救ったワンパノアグ族の酋長として知られる。イギリスから来たピューリタン(清教徒)のピルグリムファーザーズ一団は、ワンパノアグ族の住む村付近にプリマスの集落地を建設し入植した。
しかし白人入植者達は馴れない土地での環境に苦しみ、病気や寒さ、飢えなどで約半数近くが死んだ。そこへ付近に住むマサソイト酋長を始めとするワンパノアグ族がピルグリムファーザーズにトウモロコシを始めとする農作物の栽培方法を教え彼らを飢えから救った。「すべてを共有する」というインディアンの文化に従って、ワンパノアグ族は白人たちに惜しみなく食糧を与え、これを助けたのである。
■ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ
(Jose Gabriel Condorcanqui Noguera、1742年3月19日 - 1781年5月18日)、またの名をトゥパク・アマル2世は、植民地時代ペルーにおける反乱事件の指導者である。コンドルカンキは、インカ帝国の都であったクスコ南方140kmほどに位置するティンタ郡のクラカ(村長のようなもの)の家に生まれた(出生を1740年3月24日とする資料もある)。
彼はインカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルの末裔と自称し、その確認を求めてリマのアウディエンシア(最高司法院)に訴え出たこともあった。当時スペイン植民地当局の先住民に対する抑圧と収奪は非常に激しく、それに対する反乱も各地で頻発していた。コンドルカンキも、植民地支配に対する反感を次第に募らせていったものと推測できる。
■トゥパク・カタリ
(Tupac Katari : 1750年 - 1781年11月15日)は、アルト・ペルー(現ボリビア)においてスペイン統治政権に反旗を翻したアイマラ先住民族(インディオ)の指導者である。18世紀末に起こったこのインディオの蜂起は、地理的な広がりが最も大きく、最も多く支持されたものであった。植民地統治政権はその鎮圧に2年を要した。
ボリビアにおいて彼は現在に至るまで先住民族の英雄として語り継がれており、先住民族の権利拡大運動を行なう人はしばしば「カタリスタ」(Katarista: カタリ主義者の意)と呼ばれることがある。
■テクムセ
Tecumseh 1768年? - 1813年10月5日)は、アメリカインディアンのショーニー族の戦士、または酋長で、白人への植民地抵抗運動のシンボル的人物。名前のアメリカでの発音表記は「Tekooms?」(テクームセ)で、これはショーニー族の言葉で「流れ星」、または「天空を横切る豹」、「待ち伏せしている豹」を意味する。
1806年、テクムセはショーニー族の土地への白人入植者の侵入に抗議して、以下のように宣言した。白人たち(the white man)による侵略というこの悪を阻止する、唯一無二の方法は、インディアンが一致団結して、土地に対する共通の、しかも平等な権利を主張することしかない。土地というものは、かつて分割されたことなどなかったのだ。それは我々インディアンたち全員のものだ。
■サカガウィア
Sacajawea、1788年? - 1812年12月20日?1884年?)は、ショーショーニー族インディアンの女性。名前の正式な発音、綴り字はよく分かっていない。16歳のときに赤子を背負いながら、ルイスとクラーク遠征隊に同行した。この探検で重要な役割を果たし、白人に寄与した「良いインディアン」として、アメリカ合衆国建国神話の重要な人物であり、硬貨の肖像にもなっている。
■ベニート・フアレス
(Benito Pablo Juarez Garci´a, 1806年3月21日 - 1872年7月18日)は、先住民族から選出された初のメキシコ大統領で、2度(1861年 - 1863年および1867年 - 1872年)大統領を務めた。フアレスは最も偉大で敬愛されるメキシコの指導者であり、「建国の父」とたたえられており、20ペソ紙幣に肖像が使用されている。
■ジェロニモ
(Geronimo、本名:Goyathlay、1829年6月16日 - 1909年2月17日)はアメリカインディアン、アパッチ族のシャーマン、対白人抵抗戦である「アパッチ戦争」に身を投じた戦士。なお、部族の酋長と誤解されている例も多いが、実は酋長ではなく部族の「指導者」でもない。メキシコ軍に家族が虐殺されたのを機に、アパッチ族の戦士たちとともに対白人のゲリラ戦に従事した。ちなみに戦士集団だったアパッチ族には「酋長に戦士が服従する」という義務も風習もない。戦士は結束はしてもすべて個人行動で動くものであって、戦士たちはジェロニモ個人を慕って抵抗戦をともにしたのである。
■クレイジー・ホース
(Crazy Horse (Tasunka witko) , 1840年? - 1877年9月5日?)は、インディアン部族のラコタ・スー族の一支族、オグララ族に属するパヤブヤ族の戦士。しばしば誤解されるが、酋長ではない。タシュンケウィトコ、通称クレイジー・ホースは1840年頃に、現在のサウスダコタにあるベア・ビュット近くのベル・フーシェ川のそばで生まれた。
彼の服装はいつも必要最小限で、彼を描いた映画や絵画にあるように、派手な羽根冠をつけて戦に出るようなことは一度もなかったとハンプやヒー・ドッグ、ブラック・エルクら近しい者たちは揃って証言している。「常に弱きものを助け、分け与えよ」との啓示を受け、生涯それを実行した。そのために、彼は部族の中の弱い立場の人たちから熱烈に愛された。
■ローゼン
(Lozen、1840年代? - 1887年?)は、アメリカインディアンのチリカウア・アパッチ族チヘンネ部族 (Chihenne band) の女性戦士・祈祷師。チリカウア・アパッチ族の酋長ヴィクトリオ (Victorio) の妹。ローゼンの名前はヴィクトリオがアパッチ語で「小さな妹」と呼んでいたことに由来する。本名は不明。1876年、アメリカ合衆国の騎兵隊が保留地(Reservation)として残されていたオホ・カリエンテに侵入し、アパッチ族の虐殺をおこなった。ローゼンは殺されそうになった甥(ヴィクトリオの息子)を救ったが、多くの同胞を失った。これ以降、連邦政府との関係は悪化し、チリカウア・アパッチ族はアリゾナへ強制移住させられたため、ヴィクトリオ、ローゼンらはオホ・カリエンテへ帰還、潜伏しゲリラ戦を開始した。
■ルイ・リエル
Louis "David" Riel, 1844年10月22日 - 1885年11月16日)はカナダの政治家で、プレーリー地区のメティのリーダーである。リエルはカナダ政府に対しノースウェスト準州に基盤を置くメティの権利、文化保護を求め二つの反乱を主導したが、この反乱は次第にカナダ全土に勢力を拡大していった。レッドリヴァー居留地は、名目上ハドソン湾会社によって経営されたルパートランド内の共同生活体であり、その主な居住者はカナダ先住民及びクリー族、オジブウェー族、ソルトー族、フランス系、スコットランド系、イギリス系の混血からなる民族すなわちメティであった。
■ファン・デ・ディオス・フィリベルト
(Juan de Dios Filiberto, 1885年5月8日 - 1964年11月11日)は、タンゴの作曲家。「フアン・デ・ディオス・フィリベルト」と表記している文献もある。1885年5月8日、ブエノスアイレスのボカ地区(La Boca)に生まれる。イタリア移民三世(イタリア系アルゼンチン人)であり、先住民のマプーチェの血も受け継いでいる。9歳から学校に通わず働き出した。若い頃に、無政府主義系の労働組合運動に参加したりしていた。
■ロスト・バード
(Lost Bird, zintkala nuni, 1890年 - 1920年)はアメリカ・インディアンのラコタ・スー族の女性で、ウーンデッド・ニーの虐殺の生き残りの赤ん坊だった人物。スー族の言葉では「ジトカラ・ヌニ(失われた鳥)」。1890年、現在のサウスダコタ州で生まれた。この時期、平原のインディアンは保留地(Reservation)に押し込められ、生業の狩猟を禁止された上に白人管理官のサボタージュで食糧が供給されず、飢餓状態となっていた。こうした中、パイユート族のウォヴォカを教祖とするゴースト・ダンスがスー族ら平原部族の間で熱狂的に広まっていった。「ゴースト・ダンスを踊れば、白人の銃弾が身体を通さなくなる」という教義をアメリカ政府は警戒し、これを徹底的に武力弾圧していた。
■ルフィーノ・タマヨ
(Rufino Tamayo、1899年8月26日 - 1991年6月24日)は、メキシコの画家。1899年8月26日、オアハカ州フアレスの、メキシコ先住民のサポテク系の家に生まれる。1911年、メキシコシティの伯母のところで育つ。1917年、国立造形芸術学校(Escuela Nacional de Artes Plasticas)に入学する。そこで、印象主義やキュービズムそしてフォービズムの画法を学ぶ。1979年、故郷のオアハカで、「ルティーノ・タマヨ美術館」(Museo Rufino Tamayo)が設立される。
■マリア・トールチーフ
(Maria Tallchief, 1925年1月24日 - )は、アメリカ・オクラホマ州フェアファックス出身のバレエダンサー。本名はエリザベス・メアリー・トール・チーフ(Elizabeth Marie Tall Chief)。父はアメリカ・インディアンのオーセージ族酋長、母はスコットランドとアイルランドの血を引く白人だった。幼少時代にカトリックの学校に通い、のちに一家はビヴァリーヒルズに移住した。
そこでマリアは、ブロニスラヴァ・ニジンスカの元で5年間学んだ。ニジンスカのバレエ哲学が彼女の基礎をつくったという。『夜眠るとき、バレリーナのように眠りなさい。通りでバスを待っているときも、バレリーナのように立つのよ』と教えられたと後に語っている。
■ロバート・ラウシェンバーグ
(Robert Milton Ernest Rauschenberg, 1925年10月22日 - 2008年5月12日)は、20世紀のアメリカの美術家。ジャスパー・ジョーンズとともにアメリカにおけるネオダダの代表的な作家として活躍した。のちのポップ・アートの隆盛にも重要な役割を果たしたことでも知られる。1925年、テキサス州ポート・アーサーに生まれた。父親はドイツ系アメリカ人とチェロキー族インディアンの混血、母親はイングランド系アメリカ人。
■アルマンド・マンサネーロ
(Armando Manzanero, 1935年12月7日 - )は、メキシコ出身のポピュラー音楽の作曲家・歌手。「アドロ」の作曲家として有名である。1935年12月7日に、メキシコのユカタン州メリダに生まれる。先住民のマヤ人の子孫としているサイトもある[1]。1965年の、アメリカ合衆国のマイアミのフェスティバル・デ・ラ・カンシォン(Festival de la Cancio´n)で、"Cuando Estoy Contigo" (意味:二人でいるとき)で第一位をとる。1967年に、""Adoro" (アドロ)を発表するが、この曲は、日本では、グラシェラ・スサーナの歌として有名になり、イージーリスニングの曲としても有名である。
■メルセデス・ソーサ
(Haydee Mercedes Sosa, 1935年7月9日 - 2009年10月4日)はアルゼンチン・フォルクローレの女性歌手である。北西部のトゥクマンで貧しい労働者の家庭に生まれる。15歳の時にラジオ局のコンテストに優勝して二ヶ月の出演契約を結ぶが、ディレクターがフォルクローレをバカにしたことに怒って喧嘩して帰ってきてしまった、というエピソードが知られている。
その後、首都ブエノスアイレスに出て様々な職を転々としたのち、1960年代半ば、30歳頃に歌手として世に出る。1973年、作詞のフェリックス・ルナ、作曲のアリエル・ラミレスと組んで、アルゼンチン史上の8人の女性(7人のアルゼンチン人と1人のボリビア人)を歌ったアルバム「アルヘンティーナの女(Mujeres argentinas)」を発表、フォルクローレ史上に不朽の名を残す。
■ジミ・ヘンドリックス
(James Marshall Hendrix、1942年11月27日 - 1970年9月18日)は、アメリカ合衆国のミュージシャン、ギタリスト。黒人の父親とインディアンの母親との間に生まれたブラック・インディアンである。純血のチェロキー族だった父方の祖母ノラ・ヘンドリックスから、幼少期のヘンドリックスはチェロキー族の昔話を教えられたという。
多くのブルースやロックのミュージシャンと同様、ヘンドリックスもレコードなどを聴いて、独学でギター演奏を学んだ(父アルの談話)。父アルは庭師の仕事をしていたが、生活は貧しかった。ヘンドリックスが15歳の頃ギターに興味を示したため、アルは当時のアパートの家主の息子から古いアコースティックギターを5ドルで買い取り、ヘンドリックスに与えた。これがギターとの最初の出会いだった。
■ジェシ・エド・デイヴィス
(Jesse Ed Davis)(1944年9月21日 - 1988年6月22日、43歳死去)は、アメリカ合衆国オクラホマ州ノーマン生まれのロック・ギタリスト、シンガー。本名Jesse Edwin Davis V。コマンチ族の父とカイオワ族の母を持つ、生粋のインディアン。スワンプ・ロックを代表する名ギタリストで、特にスライド・ギターが印象的。音楽好きの両親の影響で、3歳の頃にピアノ、6歳の頃にヴァイオリンを始める。少年時代、エルヴィス・プレスリーやジミー・リード等に影響を受け、本格的にギターを始める。
■イシ
Ishi, 1860年頃? - 1916年3月25日)は、アメリカ・カリフォルニア州に先住していたヤヒ族インディアンの最後のひとりである。イシは生涯の多くを欧米人社会から全く隔絶されて暮らした生粋の「野生のインディアン」のひとりだった。ヨーロッパ人と接触する以前のヤヒ族人口は3000人弱であったと推定され、カリフォルニア北部の丘陵地帯で3000〜4000年前と変わらぬ原始的な生活を営んでいた。
■マリー・スミス・ジョーンズ
(Marie Smith Jones, 1918年5月14日 - 2008年1月21日)は、アラスカ中南部でかつて話されていたイヤック語の最後の話者。ジョーンズの死去により、イヤック語は死語となった。ジョーンズは1918年5月、アラスカ州コルドバで生まれた。彼女は最後の純血のイヤック族でもあり、イヤック族の名誉首長であった。その後、ジョーンズは政治に関して活発になり、国連で二度、平和と固有言語の問題について演説した。
■ティナ・ターナー
(Tina Turner、1939年11月26日 - )は、アフリカ系アメリカ人の女性歌手、女優、作家。チェロキーと黒人の混血歌手。旧姓名はアンナ・メイ・ブロック。後に夫となるアイク・ターナーに見出され、1960年にアイク&ティナ・ターナーとしてデビュー。野性的でパワフルな歌唱と激しいステージングで人気を博し、R&B界で多くのヒットを飛ばす。1971年には、CCRのカバー曲「プラウド・メアリー」がポップチャートでも大ヒットする。
■リタ・クーリッジ
(Rita Coolidge、1945年5月1日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州出身の女性歌手。アメリカ・インディアンのチェロキー族の血を引く。幼い頃からゴスペルに親しみ、1960年代末期から本格的にプロの歌手として活動。1969年の暮れには、デラニー&ボニーのツアーに帯同。このツアーには、エリック・クラプトンも参加していた。
1970年にはジョー・コッカーのアメリカ・ツアーでバック・コーラスを担当。この時、リタにスポットを当てたコーナーで、レオン・ラッセル作の楽曲「スーパースター」を歌っており、その様子はコッカーのライヴ・アルバム『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』(1970年)にも収録された。
■ブライアン・アキパ
(Bryan Akipa) はアメリカ、ダコタ・スー族の伝統のインディアンフルート(ネイティブ・アメリカン・フルート)のフルート奏者で、独学でネイティブアメリカンフルートのメーカーを立ち上げ、フルートにダコタ・スー族伝統の木彫を削る木彫師でもある。
サウスダコタ州北東部のスー族の支族、シセトン・ワーペトン・ダコタの保留地で生まれた。青年期にニューメキシコ州サンタフェのインディアン美術学校のインステュート・オブ・アメリカン・アーツ(IAIA)で学び、サウスダコタ州のヴァーミリオンのサウスダコタ州大学でインディアン絵画の第一人者でもあるオスカー・ハウの元で絵画を学んだ。
■ヴァル・キルマー
(Val Kilmer, 1959年12月31日 - )は、アメリカ合衆国の俳優。カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。母からスウェーデンの、父からドイツ、アイルランド、ネイティブアメリカンのチェロキー族の血を引く。幼少の頃に両親が離婚し、ニューメキシコ州に移り住んで祖父母に育てられた。最年少の17歳で名門ジュリアード音楽院演劇科に入学し、後に著名な俳優となるケヴィン・スペイシーらと共に演劇を学び、数々の舞台に出演。
■ジョン・オキセンダイン
(John W. Oxendine、1962年4月30日-)はアメリカ合衆国は、ジョージア州出身の政治家で、同州の保険長官及び安全消防委員、弁護士。所属政党は共和党。1962年4月30日にラムビー族(ノースカロライナ州最大のネイティブアメリカンの部族)の血を引く、裁判官の父ジェームズ・W・オキセンダインと母ルイーズ・オキセンダインとの間で、テネシー州ナッシュビルで生まれ、5歳時から、ジョージア州タッカーで育つ。
■リヴ・タイラー
Liv Rundgren Tyler, 1977年7月1日 - )は、アメリカ合衆国の女優。父親はロックバンド、エアロスミスのボーカルのスティーヴン・タイラー。母親はモデルのビビ・ビュエル。ニューヨーク州ニューヨークで生まれ、メイン州ポートランドで育つ。母ビビ・ビュエルはドイツ系アメリカ人、父のスティーヴン・タイラーはイタリア系とウクライナ系ユダヤ人(当時はロシア)とインディアンのチェロキー族の血筋。
■アリーヤ
Aaliyah Dana Haughton, 1979年1月16日 - 2001年8月25日)は、アメリカ合衆国ニューヨークブルックリン出身の歌手、女優。「アリーヤ」とはスワヒリ語で「最高の存在」という意味。アフリカ系アメリカ人とアメリカインディアンの両親のもとで1979年にブルックリンで生まれ、5歳のころにデトロイトに移る。6歳で『アニー』の舞台に孤児役として立ち、ニューヨークを中心に9歳から芸能活動を始める。11歳の頃はラスベガスでショーをこなしていた。
■ビヨンセ
(Beyonce Giselle Knowles, 1981年9月4日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン出身のシンガーソングライター、音楽プロデューサー。デスティニーズ・チャイルド初期からのメンバーで、グループではリードボーカル、プロデューサーも兼ねた。身長170cm。その美貌は多くの女性達からの羨望を受け、トミー・ヒルフィガーの香水「トゥルースター」をプロデュースしたりと、いつしか知名度はデスティニーズ・チャイルドを超えた。アフリカ系アメリカ人のマシュー・ノウルズ(Matthew Knowles)とルイジアナ・クレオールの祖先(アメリカインディアン、フランス人の血を引く)を持つティナ(Tina)との間に、長女として生まれた。
■ソランジュ
(Solange Piaget Knowles、1986年6月24日)はアメリカ合衆国テキサス州ヒューストン出身の女性シンガーソングライター、女優、モデル。アフリカ系アメリカ人のマシュー・ノウルズ(Matthew Knowles)とルイジアナ・クレオールの祖先(アメリカインディアンの血を引く)を持つティナ(Tina Knowles)との間に次女として生まれる。
■ジョジョ
(JoJo、本名:ジョアンナ・レヴェック (Joanna Levesque)、1990年12月20日 - )はアメリカ合衆国のポップ/R&Bシンガー・ソングライター、音楽プロデューサー、女優。1990年にバーモント州のBrattleboroで生まれる。イングランド、ポーランド、スコットランド、フランス、(母親はアイルランド人とアメリカインディアンのハーフ)の血を引いている。
■マイリー・サイラス
(Miley Ray Cyrus, 1992年11月23日 - )は、アメリカ合衆国出身の歌手、女優。父はカントリー歌手のビリー・レイ・サイラス。出生名はデスティニー・ホープ・サイラス。身長168cm。米People誌の最も美しい100人の内の一人に選ばれ、Forbes誌の有名人100では2500万ドルを稼ぎ35位だった。2009年には29位に上がった。「ハンナ・モンタナ」は社会現象になるほどの人気を誇った。自毛は栗色で、2012年半ばまでは、ゴージャスなスーパーロングであった。
■ミーガン・フォックス
(Megan Fox, 1986年5月16日 - 、は、アメリカ合衆国の女優、ファッションモデル。テネシー州ロックウッドにて、アメリカインディアン・フランス・アイルランドの血を引く両親の間に生まれる。姉、妹、弟がいる。両親は離婚しており、実母と継父によって育てられた。セクシーな女優として有名であるが、それと同時に彼女は論争の的となる過激な発言でも知られる。雑誌「マキシム」のインタビューで自分はドラッグをやっていない数少ない俳優の1人であると語った。 |
<先住民・先住民族由縁の著名人>
■アトゥエイ
(Hatuey、生年不詳 - 1512年2月2日)とは西インド諸島に定住していた原住民アラワク語族に属するタイノ族の伝説な首長。イスパニョーラ島(現ハイチ、ドミニカ共和国辺り)出身だが、キューバでスペイン征服者に対して最初に決然たる反逆運動をした人物である。しかしアトゥエイは仲間に裏切られ、ベラスケスはアトゥエイを捕まえ反逆の罪に罰し火刑にした。
火刑の際、木に縛り付けられたアトゥエイは、スペイン人神父ラス・カサスから「悔い改めキリスト教に改宗すれば天国に行ける」と説かれ、キリスト教への改宗をするよう勧められる。アトゥエイは「天国にはどんな人がいるか?」とカサス神父にたずね、「キリスト教徒なら誰でも行ける」と聞かされた時、「お前達、みんないるのなら、そんな所に死んでまで行かなければならないとしたら、キリスト教徒になりたいとは思わない」とキリスト教の改宗に死ぬまで断乎拒否した。アトゥエイの死は、キューバで最初の独立のための苦悩の殉教者として色んな伝説を生んだ。
■グアイカイプロ
(Guaicaipuro、生年不明 - 1568年)は、16世紀の南アメリカ北部でスペイン軍の侵攻に対して戦ったインディオの指導者である。現在のベネズエラ、カラカス南方にいたテケス人の指導者で、ひとたびはスペイン人を撃退し、周辺諸部族を糾合して大連合を作ったが、再度の侵攻に対して敗れて死んだ。最終的に敗れたものの、ベネズエラのインディオの中では顕著な善戦を示した。インディオ抵抗の代表者としてベネズエラ史に記され、その名はグアイカイプロ市に冠された。
■デガナウィダ
Dekanawida、1550年頃-1600年)はインディアンの酋長(調停者)。指導者、首長ではない。デガナウィダは和平のために湖の南へと旅をした。彼はあちこちで和平の呼びかけを行い、湖の東にあるモホーク族の村でハイアワサと出会った。ハイアワサは村でも強力な戦士であり、人食いでもあったが、戦いに虚しさを感じ、眠れない夜を過ごしていた。ハイアワサは家族を集め、デガナウィダの話を聞くことにした。デガナウィダはこう話し始めた。「私は、天空の大精霊の酋長の良き知らせとともに来ました。国同士の戦いは終わらなければなりません。良き精霊は、人間たちが血を流し合うことを決して望んでいません。」
■ポカホンタス
(Pocahontas、1595年頃 - 1617年) はアメリカインディアン・ポウハタン族 (Powhatan) の女性。ポカホンタスの生前の唯一の肖像画は1616年、オランダ生まれの版画家サイモン・ヴァンダーパッセ (Simon Van de Passe) により制作された。西洋の服を着せられているが、彼女のアメリカインディアンとしての個性は強く残っており、銅版画からは彼女の強い個性を感じることができる。
■メタコメット
Metacomet、1639年 - 1676年8月12日)とはアメリカ・インディアンのワンパノアグ族の酋長で、メタコム(Metacom)あるいは、白人からフィリップ王(King Philip's)とも呼ばれた。メタコメットは酋長(調停者)として申し分のない働きをした。飢えや病気で苦しんでいた「ピルグリムファーザーズ」(プリマスに入植したイギリス白人)に食糧を与えてその命を救った、有名なワンパノアグ族のマサソイト酋長の次男であり、メタコメット本人も1621年にピルグリムファーザーズと友人になった。
■オブワンディヤグ
Chief Pontiac、1720年 - 1769年4月20日)は、カナダとアメリカ合衆国に原住するオタワ族インディアンの酋長。ポンティアクの戦争(1763年-1764年)でイギリス人入植者に対する反乱に関わった事で知られる。フレンチ・インディアン戦争にも関与したと言われている。ミシガン州にポンティアック市がある他、デトロイトにある自動車メーカー、ゼネラルモーターズが製造・販売していた乗用車のブランドの一つポンティアックなどは彼の名から因んでいる。
■ジョセフ・ブラント
Joseph Brant、本名タイエンダネギー(Thayendanegea)1742年頃 - 1807年11月24日)は、モホーク族インディアンの酋長、アメリカ独立戦争中のイギリス軍の士官。タイエンダネギー(ブラント)は当時のインディアンではおそらく最も知られた存在であった。ブラントは、ジョージ・ワシントンやイギリス王ジョージ3世など、当時の多くの著名な人と会ったことがあった。
タイエンダネギー(ブラント)は今日のオハイオ州アクロンの近く、カヤホガ川の堤にあるオハイオ領土カヤホガで生まれた。折りしも狩の季節であり、モホーク族がその地に移動してきていた。ブラントはタイエンダネギーと名づけられた。
■レッド・クラウド
赤い空(Makhpiya Luta、1822年 - 1909年12月10日)は北米インディアン・オグララスー族の部族員である。しばしば誤解されるが、酋長ではない。戦争指導者でもない。生まれたときに空が真っ赤に焼けていたので、「マアピヤ・ルタ(赤い空)」と名づけられた。「空」が「雲(クラウド)」になっているのは、白人が誤訳したためである。ラコタスー族に属するオグララ族のなかの、「イテシカ族」の名門の生まれ。レッド・クラウドは白人によって「スー族の大指導者」に祭り上げられた人物である。が、そもそもスー族には部族すべてを統括するような「大酋長」など存在しない。
■ラナルド・マクドナルド
(Ranald MacDonald, 1824年2月3日 - 1894年8月5日)は、アメリカ人。日本初のネイティブスピーカーの英語教師。オレゴン・カントリーのアストリア砦(英語版)(現アストリア (オレゴン州))でスコットランド系の父親と、アメリカインディアンチヌーク族(英語版)の母親の間に生まれる。子供の頃、音吉と出会い、インディアンの親戚に自分達のルーツは日本人だと教えられて信じ、日本にあこがれた。1848年、捕鯨船員となり、船が日本近海に来た6月27日(グレゴリオ暦)、単身でボートで日本に上陸を試みた。
■シッティング・ブル
(Sitting Bull)、本名タタンカ・イヨタケ(Tatanka Iyotake)、(1831年 - 1890年12月15日)は、アメリカインディアンのラコタ・スー族のオグララ族に属するハンクパパ族の戦士、呪術師。 しばしば誤解されるが酋長、族長、指導者ではない。ハンクパパ族を始め、スー族は白人の侵略に断固として立ち向かい、合衆国から絶滅対象部族となった。米軍とスー族・シャイアン族の戦いでも目覚ましい戦いぶりを見せ、翌1867年にはチャンテ・チンザ(ストロング・ハート戦士団)の中心戦士となった。彼はこのとき、こう述べている。
「昔の戦士たちはもういない。 私自身が勇気を出す」シッティング・ブルはのちに、白人に「インディアンの戦士」についてこう語っている。「我々にとっての戦士とは、お前さんたちが考えるような、ただ戦う者ではない。本来誰にも他人の命をとる権利はないのだから、戦士とは、我々のためにあり、他者のために犠牲となる者だ。その使命は、歳取った者やかよわき者、自分を守れない人々や将来ある子供たちに注意を払い、守りぬくことにあるのだ。」
■クアナ・パーカー
Quanah Parker、1840年代後半-1911年2月23日)は、19世紀後半のアメリカ・インディアンの指導者である。コマンチェ族インディアン酋長ペタ・ノコナとヨーロッパ系アメリカ人女性シンシア・アン・パーカーの息子であり、クァハディ・コマンチェ族最後の酋長になった。クアナ・パーカーはネイティブ・アメリカン教会運動の最初の偉大な指導者達の一人とされている。
■ヘンリー・ベリー・ローリー
(Henry Berry Lowrie、1844年-1874年?(1872年の沼地での戦いで消息を絶つ))とはアメリカノースカロライナ州出身のアウトロー。良く組織された集団を率いて、1864年から1874年の10年間、公民権や個人の自由、インディアン(ラムビー族やタスカローラ族)の先住民としての民族自決のため、森で連合国(南軍)の義勇軍に抵抗して戦った。(ローリー戦争)((Lowry War))。ロビンフットの様な生き様から、インディアンのラムビー族やタスカローラ族から"インディアン・ロビンフット"(又は"ラムビー・ロビンフット")とも呼ばれ、ノースカロライナ州では英雄的存在である。
■ツー・ムーンズ
(Two Moons、1847年-1917年)は、北米インディアンシャイアン族の戦士。正式な名前は、イシャイニシュス(Ishaynishus、二つの月)である。北部シャイアン族の、「狐戦士団」の戦士の一人だった。父親はアリカラ族のキャリーズ・ザ・オッター。1970年代における、平原部族の合衆国に対する抵抗戦で活躍した戦士。イシャイニシュスのバンドは1877年に合衆国に降伏し、保留地への強制移住を受け入れた。イシャイニシュスは退屈な保留地生活を選ばず、かつての宿敵ネルソン・マイルズ将軍のもとでインディアン斥候を務めた。
■チャールズ・カーティス
Charles Curtis、1860年1月25日 - 1936年2月8日)は、アメリカ合衆国の政治家。カンザス州選出の下院・上院議員で、第31代アメリカ合衆国副大統領になった。カーティスの祖先はアメリカインディアンで、母親はカンサ族であった。彼はカンサ族居留地で幼年期を過ごし、アメリカ合衆国で二番目に高い地位に就いたヨーロッパ人の祖先を持たない最初の人物である。
■フベンティーノ・ローサス
(Juventino Rosas Cadenas, 1868年1月25日 - 1894年7月9日)はメキシコの作曲家・ヴァイオリニスト、バンドマスター。グヮナタフヮート州サンタ・クルス・デ・ガレアナにおいて、貧しい先住民のオトミ族に生れる。7歳から、教会の鐘つきから街路でのフィドル演奏にいたるまで、ありとあらゆる音楽関係の仕事に就いて生計を立てる。10代前半で、有名な歌手アンヘラ・パラルタの伴奏者を務めるようになった。
国立音楽院に2度入学して一時的に学んだものの、たいていは独学であった。その後オーケストラやブラスバンドを率いて、国際的な演奏旅行を行なった。最も有名な作品は、ワルツ『波濤を越えて "Sobre las Olas"』である。この古典的なワルツは、『ドナウ河のさざ波』とともにしばしばウィンナ・ワルツと混同されているが、最初に出版されたのは、1884年にルイジアナ州ニューオーリンズで、ローサスが有名なメキシコのバンドとともに、同地の万博に参加していた時期のことだった。
■ジム・ソープ
Jim" Thorpe, 1888年5月28日 - 1953年3月28日)は、陸上競技、野球、アメリカンフットボールなどで幅広く活躍したアメリカのスポーツ選手。サック&フォックス族インディアンで、部族員としての名は「輝ける道」を意味するワ・サ・ハク(Wa-Tho-Huk)という。
1912年のストックホルムオリンピック陸上競技では走幅跳、走高跳、五種競技、十種競技の4種目に出場した。7月7日、最初の種目五種競技に出場、走幅跳は7m07cmで1位、やり投46m71cmで3位、200m22秒9で1位、円盤投35m57cmで1位、1500m4分44秒8で1位と圧倒的な成績で優勝した。
■ミゲル・アンヘル・アストゥリアス
(Miguel Angel Asturias, 1899年10月19日 - 1974年6月9日。ミゲル・アンヘル・アストリアスとも)は、グアテマラの小説家。キューバのアレホ・カルペンティエルと共に魔術的リアリズムの担い手となり、その後のラテンアメリカ文学ブームの先導者となった。判事でインディオの血をひく父と、教師をしていたインディオの母との間のメスティソとして生まれる。両親は独裁者エストラーダ・カブレラに反抗したために職を追われ、ミゲルが5歳の時に祖父の住む田舎に移り、現地のインディオ達や母から伝説や様々な話を聞いて育つ。
■フリーダ・カーロ
マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderon、1907年7月6日 - 1954年7月13日)は、メキシコの画家。インディヘニスモの代表的美術作家。 メキシコの現代絵画を代表する画家であり、民族芸術の第一人者としても数えられる。フリーダは1907年7月6日、メキシコシティの近郊にあるコヨアカンで父ギリェルモ・カーロと母マティルデ・カルデロン=イ=ゴンザレスの三女として生まれた。
■アタウアルパ・ユパンキ
(Atahualpa Yupanqui, 1908年1月31日 - 1992年5月23日)はアルゼンチンのフォルクローレのギタリスト、歌手、作家である。本名エクトル・ロベルト・チャベーロ(He´ctor Roberto Chavero)、でアタウアルパ・ユパンキの名はインカ帝国歴代の皇帝2人の名をつなぎ合わせたものである。
ブエノスアイレス州ペルガミーノで鉄道員の家庭に生まれ、のち父親の転勤によって北西部のトゥクマンに移る。父はケチュア系先住民の血を受け継ぎ、母親はバスク系移民。1929年、処女作「インディオの小径」(Caminito del indio)でデビューし、1930-40年代に多くの作品を発表するが、その活動が反政府的と目されて1950年代初頭にはヨーロッパへの亡命を余儀なくされたこともある。
■マイケル・フォレスト
(Michael Forest、Michael Forrest、1929年4月17日 - )は、アメリカ合衆国の俳優、声優。ノースダコタ州ハーヴェイ出身、ワシントン州シアトル育ち。ラコタ族及びオジブワ族の血を引く。1968年から1978年まではローマを活動の拠点とし、ヨーロッパの映画作品に出演した。1979年にアメリカに帰国。ロサンゼルスで映画に出演した後、ニューヨークに移り舞台を中心に活動。後に再びロサンゼルスに活動の拠点を移し、俳優・声優として活動している。
■ジェームス・ブラウン
(James Joseph Brown, Jr., 1933年5月3日 - 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国のソウルミュージックシンガー・音楽プロデューサー・エンターテイナー。通称JB。彼の父はアパッチ族インディアンで、母はアフリカ系黒人アメリカ人と、アジア人の系統であり、彼は日系人及び日本人のクオーターと自称していた。幼少時は、綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。
■マリオ・バルガス・リョサ
(Jorge Mario Pedro Vargas Llosa, 1936年3月28日 - )は、ペルーの小説家。アレキパ出身。ラテンアメリカ文学の代表的な作家でありジャーナリスト、エッセイストでもある。主な作品に『都会と犬ども』『緑の家』『世界終末戦争』など。1976年から1979年、国際ペンクラブ会長。
2010年ノーベル文学賞を受賞。1936年、ペルー南部のアレキパに生まれる。生活のためにさまざまな職業につきながらリマの国立サンマルコス大学にて法律、文学を学ぶ。1958年よりスペインのマドリード・コンプルテンセ大学に入学、同大学で博士号を取得した後はパリに渡りAFP通信社などで働いた。
■チャック・ノリス
Chuck Norris, 1940年3月10日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州出身の武道家、俳優、映画製作者、作家、政治評論家、実業家、社会運動家。界プロフェッショナル空手選手権ミドル級チャンピオンに輝き、6年間タイトルを保持し無敗のまま競技生活を終える。生涯戦績は195戦183勝10敗2分[4][5]。貧しい労働者階級からスーパースターへと成功したことで知られている。父親の祖父がアイルランドからの移民で祖母はチェロキー・インディアン。
■ロビー・ロバートソン
(Robbie Robertson、1943年7月5日-)は、カナダ出身のギタリスト、シンガーソングライター。ザ・バンドのメンバーとして活動した後、1987年にソロ・デビューを果たす。オンタリオ州トロント生まれ。父はユダヤ人、母はモホーク族インディアン。幼くしてギャングだった父が殺され、ロビーは貧しい環境の中、母親の手で育てられる。7歳のときにギターを覚えやがてロックンロールに熱中し地元のアマチュアバンドでファッツ・ドミノなどの作品に触れる。
■シェール
(Cher, 1946年5月20日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州エルセントロ出身の歌手・女優。アカデミー賞とグラミー賞という映画界と音楽界の頂点の賞を手中に収めた。父親はアルメニア系、母親はチェロキー・インディアン。1998年にヨーロッパで先行してリリースしたシングル「Believe」が大ヒット。その後、各国で1位を記録した。このヒットを受け"Believe"は米国でも1位を獲得し、世界を席捲した。
■グラハム・グリーン
(Graham Greene, 1952年6月22日 - )は、カナダのオンタリオ州出身の俳優。オナイダ族出身。舞台俳優としてトロントやイギリスで活躍。1983年に映画デビューしたが、アカデミー助演男優賞にノミネートされた1990年の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が最もよく知られている。
■オプラ・ウィンフリー
(Oprah Gail Winfrey, 1954年1月29日 - )は、アメリカ合衆国の俳優、テレビ番組の司会者兼プロデューサー、慈善家である。司会を務める番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』はアメリカのトーク番組史上最高の番組であると評価され、多数の賞を受賞している。彼女が独自に行ったテストの結果によると、彼女の血筋は89%はブラックアフリカ人で、8%はアメリカインディアンで、3%が東アジア人の系統らしい。
■ケビン・コスナー
(Kevin Michael Costner, 1955年1月18日 - )は、米国の映画俳優、映画監督・映画プロデューサー。1987年、『アンタッチャブル』の主演に抜擢され、ショーン・コネリーやロバート・デ・ニーロを相手に正義感溢れる主人公を演じる。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』はインディアンに関した作品であったが、自身もチェロキー族インディアン、ドイツ、アイルランドの混血である。
■リゴベルタ・メンチュウ
(Rigoberta Menchu Tum, 1959年1月9日キチェ県チメール - )はグアテマラのマヤ系先住民族の1つキチェの人権活動家・実業家である。1992年にノーベル平和賞、1998年にアストゥリアス皇太子賞国際協力部門を受賞した。幼少期から不正、差別、人種差別、グアテマラの極貧状態で生きる何十万もしくは何百万人もの先住民に対する搾取の事実を痛切に感じていた。軍と準軍組織により、両親、兄弟、共同体のメンバーが暗殺されている。1991年、メンチュウは先住民族の権利に関する国際連合宣言を協議する作業部会に加わった。
■エボ・モラレス
(Juan Evo Morales Aima, 1959年10月26日 - )は、ボリビアの政治家であり、社会主義運動党 (Movimiento al Socialismo : MAS) を率いる。2005年12月18日の選挙で大統領に当選した(任期は2006年1月22日より)。ボリビア史上初めての先住民出身の大統領である。
オルロ県でアイマラの農家に生まれた。最終学歴は中学卒であり、本人は「人生という大学で学んだ」としている。17歳で兵役に就いた他、様々な職を転々とした後、コチャバンバ県チャパレに移住し、コカの栽培農家となる(ボリビアにおいてはコカの栽培は合法である)。
■クエンティン・タランティーノ
Quentin Jerome Tarantino, 1963年3月27日 - )は、アメリカ合衆国の映画監督。1990年代前半、入り組んだプロットと犯罪と暴力の姿を描いた作品で一躍脚光を浴びた。脚本も書き、自身の作品に俳優として出演もする。アカデミー脚本賞とカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞している。タランティーノの父はイタリア系アメリカ人、母親はアイルランド系アメリカ人でチェロキー族の血も引いていた。母親は僅か16歳で未婚のままタランティーノを生んだ。
■ジョニー・デップ
Johnny Depp, 1963年6月9日 - )は、アメリカ合衆国の俳優、ミュージシャン。フランス人、アイルランド人、ドイツ人、チェロキー族の血を引く。クリーク族の血を引いているとも言われている。「The Kids」をリードギタリストとして率い、イギー・ポップの前座も務めた。バンドは商業的に成功を収め、さらに活動を本格化させるべくロサンゼルスに活動拠点を移し「Six Gun Method」と改名し様々なバンドとコラボレーションを行った。
■シャーマン・アレクシー
(Sherman Joseph Alexie, Jr.,1966年10月7日 − )は、アメリカ人詩人、小説家、脚本家、映画監督である。1966年、アメリカワシントン州のスポケーンインディアン居留地の中にある町ウェルピニットで生まれた。スポケーン族とクール・ダレン族の血を引く。高校生の時、よりよい教育を受けるために居留地外のリアーダン高校に転校した。奨学金を受けてゴンザーガ大学に進学し、2年後にワシントン州立大学で学んだ。初めは医師になるためにメディカル・スクールへの進学を志望していたが、解剖学の授業で何度も気絶したため進路を変更せざるを得なくなった。
■アダム・ビーチ
(Adam Beach、1971年-)はカナダ出身の俳優。ソルトー族の生まれ。子供の時に別々の事故で相次いで両親を亡くし、2人の兄と共に叔父と叔母に育てられる 。 若い頃からバンド活動や演劇に携わり、1990年にカナダのテレビでデビュー。1998年、 インディアンの青年を演じた『スモーク・シグナルズ』で知られるようになる。
■アンジェリーナ・ジョリー
Angelina Jolie,1975年6月4日 - )は、アメリカ合衆国の女優、映画プロデューサー、ファッションモデル及びUNHCR親善大使。愛称は「アンジー」である。カリフォルニア州ロサンゼルス出身。父はスロバキアおよびドイツ系アメリカ人俳優のジョン・ヴォイトで母はフランス系カナダ人とイロコイ族(ワイアンドット族)の血をひく女優のミシェリーヌ・ベルトラン。
■ジェシカ・ビール
(Jessica Claire Biel, 1982年3月3日 - )は、アメリカ合衆国の女優。ミネソタ州イーリーで生まれ、コロラド州ボールダーで育つ。父親のジョンは起業家、母親のキンバリーは主婦。1985年生まれの弟ジャスティンがいる。ドイツ人・フランス人・イングランド人、インディアン(チョクトー族)の血を引く。
■マンディ・ムーア
Mandy Moore、1984年4月10日 - )はアメリカ合衆国のポップス歌手・女優。父方からアイルランド人とチェロキー族インディアンの、母方からイングランド人とユダヤ人の血を引く。2001年、『プリティ・プリンセス』で映画デビュー。青春映画などに積極的に出演し、特に2002年に出演した『ウォーク・トゥ・リメンバー』は世界中でスマッシュヒットした。 また背の高さを活かしてファッションモデルとしても人気である。
■ヴァネッサ・ハジェンズ
(Vanessa Hudgens, 1988年12月14日 - )は、アメリカ合衆国の 女優、歌手、アイドル。身長157cm。カリフォルニア州サリナスで、父グレッグと母ジーナの下に長女として生まれる。フィリピン人、中国人、スペイン人、アイルランド人、アメリカインディアンなど、様々な人種の血を引いている。8歳の頃からダンス、ピアノ、ボイストレーニングのレッスンを受けてきた。
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