<建築と音楽についての雑感>
♪「ミスマッチ」の楽しみ?
いつだったか、お寺の本堂でのロックコンサートに来場者が湧いた、と言う記事を読んだ事がある。天井が高く(天井が無い場合もある)、容積が大きく、構造体も床も材質が木という適度な反響をする素材であることなどで、残響が長く、音楽が来場者全体を包み込むように鳴り響いたに違いない。
しかしそのような音響上の問題ばかりでなく、いやそれ以上に、大伽藍の佇まいと白熱灯の影を作る照明・・・それと、スピーカーを通した電子楽器によるロック音楽、出演者のGパンとTシャツの出で立ち、身振り、この「ミスマッチ」に興奮を覚えたのではないだろうか。
茅葺の民家でのコンサート、というような「和風の建物」に「洋風の音楽」という取り合わせに人気があるのも、このある種の「ミスマッチ」が楽しまれているような気がする。
人は何故か、「ミスマッチ」に興奮するようだ。「今度の首相はオペラが好きらしい」、とか。
歴代の政治家というイメージとは違う、という新鮮さが取り沙汰されているのだろうか。所謂日本の政治家という固定観念との「ミスマッチ」、つまりは意外性に興奮しているのだろうか。
しかしその興奮には、その首相たる人物がどれほどオペラに造詣があり、どれだけ音楽を愛し、芸術が分かるほどに繊細な心と人々の痛みの分かる人間かどうかを吟味する視点は全くない。思考停止状態である。
そして巷で目に付くことといえば、スカートの下からズボンが見えている姿。美的センスがいいと感じているのだろうか、或いはミスマッチを楽しんでいるのだろうか。
しかし、こういった意外性に端を発する興奮なり感動といったものは、時が経つうちに意外でなくなった時点で消滅してしまうだろう。
私が感ずるに、永平寺の本堂には、いくら綺麗にヴァイオリンが響こうがテノールの美声が聴衆を包もうが、やはり、声明(ショウミョウ)が似つかわしい。ゴシック建築の教会聖堂には、弦楽アンサンブルではなく、アカペラのグレゴリアンやパイプオルガンによるバッハが似つかわしい、と思うのだ。
茅葺の民家の囲炉裏端で私はクヮルテットを聴きたいとは思わない。住まう人の話しでもゆっくりと聴くのがいい。第一、畳の上で靴を履かずにヴァイオリンを弾いている人の姿は想像するだけでもぞっとする。
♪建築に宿るもの
近代以降の、「個人の作品」としての建築が幅を利かす以前、建築物は、正に歴史と文化の産物そのものであった。そして更にそこに住まう人々、そこに集う人々によって、その建築物に相応しい歴史が刻み続けられてきているのだ。
寺の本堂には、千年を超える年月、僧侶が一日も欠かさず行なってきた読経が染み付いている。教会聖堂には、数十年、数百年、信仰をもって作曲された作品が、聖歌とオルガンによって奏で続けられてきている。
数年前、ある男子修道院の小聖堂の改修工事に当たり、6畳間ほどのその小部屋に足を踏み入れた途端、そこに充満している「祈り」の濃厚な空気に圧倒されて立ち竦(スク)んでしまったことがある。そこは数十年に渡り、祖国を捨て、家族を捨てて神の国の為に来日した司祭・修道士達、そしてそれに続く邦人司祭・修道士達 が、朝に夕に、そしたまた夜を徹して祈りを捧げてきた場所であった。
祈りもまた、音楽に似て、建物に宿るものなのだと実感した時であった。
竜安寺の石庭の前に座して聴こえてくるものは何か。日常は音楽漬けの世界に在っても、そこではモーツァルトは聴こえて来はしない。神をも拒絶する禅の世界に在って聴こえてくるものは葉を戦(ソヨ)がせる風の音であり、その奥にあるのは「無音」の世界である。
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「音楽は『箱』とひとつである」とよく言われる。しかしこれは音響工学的な問題だけではないと思う。
ある建築物で演奏を行なおうとする時、その「箱」―建築物の空間に充満している「歴史の音」に耳を傾けたい。その「歴史の音」を体内に感じ取った時、そこがこれから行なおうとする奏楽の内容に相応しいかどうかが自ずと明らかになってくるに違いない。
どれ程由緒ある建築物で、音響的に申し分ない空間であれ、その中でそこに漂う「歴史の音」と「ミスマッチ」な音楽を聴くよりは、コンサートホールで聴く方がどれだけその音楽が美しく響くことか。
そして改めて思う、音楽は建築に宿り、建築は音楽を奏でる、と。 (2006.5.11)