なぜ貧困や格差が広がるのだろう。
確かにまともな政治家、政党が見当たらないという現状は分かりますが、出来ることはとにかく最悪を排除して、社会の悪い流れにストップをかけることしかありません。次の政治家なり政党がだめならまたストップをかける。その繰り返ししかないだろうと思います。流れを変えれば少しは変わるでしょう。未来に向けて現状の少しの変化はとても大きな変化につながるかも知れません。水面下の意思が水面に現れて小さな波紋が無数に湧き出た時、悪質な政治家はそれこそ水面下に没するだろうと思うのです。 エンジェルフォールとアベノミクス 人間は考える葦である
・・・実際忙しいと言うのは現代人の口癖、合い言葉のようなものでその実はあれやこれやの物事を避ける口実、言い訳の部分が多分にあるような気がします。あえて忙しくするあるいは忙しいふりをして面倒な問題に対してなるべく関わらないようにする。それがある種の処世術であるかのごとくです。 多くの社会問題は1人1人が自分で考え判断しなければならない、それが民主主義の根幹です。思考を放棄すれば、社会はあらぬ方向へと傾き、結局そのしわ寄せは1人1人にかかって来ます。命に対する尊厳を欠く政治家や私利私欲にまみれた政治家が多数を占める今の日本においては特に考える力は必要です。 少しずつ光があたりだした過去の世界
今日のナショナルジオグラフィックスの記事に「50万年前のジグザグ、最古のアートか」との見出しがあって目を通しましたがインドネシアの河岸で発掘されたムール貝に刻まれた幾何学模様は43万年前のものだと推定され、これまでの7万年〜10万年と言われて来た認識が大きく変わるかも知れないというものでした。議論はまだこれからとのことですが、科学が進めばこれまでの常識を覆すような発見が次々となされるような気がします。 現代文明がまだ発展途上のレベルであることが分かれば、地球環境に対するお山の大将のような傍若無人の振る舞いにストップがかかるでしょう。先日他界された菅原文太さんのメッセージ「人間は植物や昆虫と一緒なんだ。人間だけがおごるのは違う」という言葉が謙虚に受け止めれるような時代にならなければ人類は自らのみならずこの地球の全てを破壊してしまうのは目に見えています。優れた人間が賢くなればなるほど謙虚になるように、文明もまたそうならなければならないと思うのです。 アメリカの悲惨と闇と日本
無抵抗の被害者が背後から警官に首を絞められて倒されそのまま絞め殺されたのですから、明らかな殺人です。ニュースでデモをする人々が被害者の最後の言葉「息ができない」を連呼していましたが、経済大国アメリカの華やかな背後にまさに「息が出来ない」社会が広がりつつある現実を感じます。アメリカのような人種や民族の混合、移民問題など複雑な要素のない日本ですが、アメリカがくしゃみをすれば風邪を引くと揶揄されるぐらいアメリカ追従の日本ですからアメリカで起っていることは日本でも起りえると考えなくてはなりません。 格差社会の進行、平和憲法に対する暗雲、秘密保護法による自由に対する懸念などいくつもあります。国民1人1人が日本はこうあるべきだと言う自覚と意思を持たなければ普通であることすら維持できない、今はそんな時代だと思うのです。 聞き捨てならない甘味料の話
原発なしで一年、明らかに原発はいらない。
自然環境、技術力共にドイツを上回ると思われる日本なら30%ぐらいは確実に実現できると思うのだけれど、未だ原発を動かそうとする勢力がいてあきれ果てます。それでも稼働する原発がゼロとなって1年。もともと原発は何のために造られたのかとの疑問があらためて浮上します。世界の趨勢を見れば、再生可能エネルギーへの移行は当然の結果で、躊躇する要素は無いはずなのだけれど、思考停止の人たちが国のトップに多くいます。原発が無ければ云々・・・の嘘はそろそろ終わりにして、未来に向かって欲しいものです。 見ざる聞かざる言わざるでもなくて
人間関係の希薄、夢や希望を持ちにくい環境、経済一辺倒の思考ゆえの精神喪失。インドのガンジーは三猿を用いて「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と説いてまわったと伝えられていますが、その心はいかなる時も邪悪に染まるなと言うような意味であったろうと思います。何事も「見えざる、聞こえざる、言葉が見つからざる」では悪すら認識できず、ただ浮遊しているに過ぎないのではないか。時代環境もあるでしょうが、農薬や食品添加物、遺伝子組み換え食物に放射能汚染などが徐々に人体を蝕んでいるのではないかなどとも想像します。50年に渡る環境汚染の蓄積が人体に何の影響も与えないなどとは考えようもありませんが、この先どうなることやら、日本も世界も生命体としての人間という視点が不可欠な時代に入っているのだと思います。 1万1000個の不安
10年後か1万年後かは分らないけれど可能性はあることです。核兵器とか原発とか1つ間違えば自滅するような要素をまず一掃して、この地球の防御を考えるぐらいの知恵がなぜ働かないのでしょうか。集団的自衛権は宇宙と大自然の脅威に対して世界全体が持たなければいけない意識で、この時代にそれが戦争に対してなどとは余りにも浅はかなことです。 過剰なのに貧困?とてつもなくおかしな国
報道の自由度は180カ国中、59位。男女平等度は136カ国中105位でひどすぎると思う。世界平和度指数は162カ国中8位で、これは誇れるけれど安倍政権はこれすら地に落とすかも知れません。(世界経済ネタ帳より)「食糧の廃棄率では世界一の消費大国アメリカを上回り、廃棄量は世界の食料援助総量470万トン(WFP)をはるかに上回り、3000万人分(途上国の5000万人分)の年間食料に匹敵しています。(地球村より) なんか憂鬱になるけれど日本には世界に誇れる平和憲法があります。「不戦の誓」これだけは世界の鏡となるものです。それにしても戦争になれば致命的な弱点となる原発施設を54基も海岸線に並べておいて、集団的自衛権も何もないだろうとは誰でも思うはず。なんか政治が狂っています。1台10億円前後もする戦車、1機100億円もする戦闘機。建設費、廃炉費のどちらも1基数千億円もかかるという原発。 福島の悲惨な事故であらゆる欠点と危険性が露呈したにも関わらずまだ動かそうという浅はか。ブラック企業率なるものがあれば、おそらくアメリカと1、2を争うだろうとも思える現状。あれこれ考えるとおかしなことばかりですが、それをおかしいと思わない、あるいはそれらに無関心な人が大勢いることが一番おかしいことなのかも知れません。 スコールのような雨とサンダーバード
広島の大災害。多くの死傷者をだした土砂災害の悲惨さを見て自衛隊を救助隊に変えれないものかとつくづく思います。膨大な軍事費を人命を助けるため、事故や自然災害に対して専門的な知識と機動力を持った救助隊にあてることができたなら、どれだけの命が守られ、助けることができるでしょう。現在の科学力と経済力を持ってすれば50年前にテレビ放送されていたイギリスの人形劇「サンダーバード」のような国際救助隊をつくることだって夢ではありません。サンダーバードが活躍する設定年代は2065年ということですが、原発再稼働や集団的自衛権など血迷ったとしか思えない現政権のていたらくを是正しなければ自然ではなく人的災害によって2065年の日本は暗澹たる状態になっているのではと思うのです。 イルカがしゃべった
毎日新聞の記事には「イルカが言葉をしゃべった−−。村山司(つかさ)・東海大教授(54)らの研究チームは、イルカが人の言葉をまねられることを世界で初めて証明し今月、国際心理学誌電子版に発表した。「しゃべった」言葉は「ピヨピヨ」「おはよう」など8種類。イルカとの会話を夢見て研究者になった村山さんは「あと一歩」と胸を躍らせる。」・・・ イルカが人間の言葉をまねるのではなく、人間がイルカの言葉を理解できたらもっとすばらしいだろうにと思います。おそらくイルカは人間のことをこう考えているでしょう「あなたたちは決して思っているほど賢くもなく、高度な生き物でもありません。それはあなたたちが起こして来た戦争を見るだけで分ります。 しかもあなたたちはまだ懲りずに戦争を続け、地球を破壊するかも知れない核さえ放棄しません。そこにあふれるほど自然エネルギーがあるのに、放射能汚染を引き起こす原始的な原発をあれだけの事故があってもまだ動かそうとする馬鹿もいて・・・」おそらくイルカの説教は延々と続くでしょう。 反戦、反核、反原発、どんなシーンでも、合い言葉にしよう。
社会的弱者をあえてつくらなければ戦争も原発も成り立ちません。誰が好んで命を落とすかも知れない戦場や致命的な被ばくをするかも知れない原発作業に従事したいでしょうか。格差を深め、経済的に立ち行かない人をあえてつくりあげて危険な作業や軍隊に従事させる。まともな国家がやることではありません。逆に考えれば戦争や原発を無くせばそのような目論みは意味を失います。大きな悪の根を断てば、この社会の多方面に渡る暗い部分が是正されるはずです。それぞれの夢や笑顔があふれる明るい社会のために、反戦、反核、反原発への関心を持つこと。どんなシーンででもこの話題だけはベーシックとして、語り合わなければならない問題だと思います。 戦争だけは絶対に嫌だ、が総意にならなければ
観た後にあるいは読んだ後に、戦争は何があっても絶対に嫌だ、いけないことだと感じさせることが戦争にまつわる映画や文学の使命であり、意義でなければならないはずです。そうでない映画や文学は命や人間性に対する軽視であり戦争を肯定するプロパガンダの片棒を担ぐようなものです。 戦争の野蛮と残酷さ、人を人でなくしてしまう戦争の実態は九死に一生を得て生き延びた戦争体験者の方々の多くの証言が切実に伝えています。いかに想像力が乏しくとも分る戦争のおぞましさに対して、戦争を知らない世代がしなければならないことは、戦争だけは2度と起こさないという誓と信念を持つことです。 戦争を阻止するためのあらゆる知恵と行動。戦争につながるいかなる気配も見落とさない関心と監視。他国との摩擦は全力の外交努力で解決することが国民の総意とならなければいけないのだと思います。 中東、アフリカ、南米、東欧・・・世界各地で戦火の止まない時はありませんが、反戦が世界全体の総意となって人が人を殺め、人が人でなくなるような戦争が少しでも減じて行くよう、悲惨な戦争体験国である日本が平和のための規範国となってこその美しい国であり、愛すべき国なんだろうと思います。 日本人としてのアイデンティティーを取り戻さなければ・・・
古きものへの忘却と破壊。アメリカ的な経済至上主義の中で失われた日本文化は計り知れません。「自分は何者であり、何をなすべきか」・・・日本人としての主体性が乗っかるべき基盤が伝統であり文化であると思うのですが、ずいぶん希薄になってしまったものです。 自己喪失、アイデンティティークライシス、などという言葉がありますが、それは個人や世代の問題ではなくこの国そのものの問題なのだろうと思います。都市を歩けば「ここはどこの国だろう」と思ってしまいますし、田舎を訪ねればどこも同じような風景になってしまっていて、過去から連続する同一のものは青い空だけではないかと・・・。 経済至上主義は行き過ぎた合理性を生み、合理性は画一性に、画一性は当然のごとく個性を否定します。個性が圧殺され希薄になればなるほど政治は危ないものとなりますし、社会がブラック化するのも当然です。1人1人が過去を見つめて、日本人としてのアイデンティティーを取り戻さなければ、格差社会の向こうにある忌まわしい戦争は決して絵空事ではないでしょう。 ヒューマニストたちの足音
吉永小百合さんは「どういう形にせよ、核の傘に入っているにせよ、あれだけひどい広島、長崎の原爆被害があったんだから、それをみんなしっかり勉強して、どんな状況でも核兵器はノーと言ってほしい」原発については「でも、原子力の発電というのは、特に日本ではやめなくてはいけない。これだけ地震の多い国で、まったく安全ではない造り方、管理の仕方をしているわけですから。どうやって廃炉にしていくかを考えないと」そして「政治が悪いから、と言っている段階ではない気がします。一人一人の権利を大事にし、しっかり考え、自分はどう思うかを語らなければいけない」(2014/08/06朝日新聞) 歌手の加藤登紀子さんは「史実とは、そこに人がいて、何月何日何時何分に何をしたかの積み重ね。だれもがその一翼を担っている。それは戦争も原発事故も同じ」(2014/08/06朝日新聞)と語ります。 被爆体験の証言を重ねる竹本成徳さん(82)は戦争を回避し、核兵器をなくすために何が必要か。との問いに「最後は人間の英知が問われる」と答えました。(2014/08/06毎日新聞) 作家で精神科医の帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんは安倍政権の集団的自衛権行使容認の閣議決定に対して「・・・戦争はいったん始まったら制御できないんです。真っ先にやられるのは東京であり、原発ですよ。日本の破局につながり、勝ちも負けもない。戦争が始まったらどうなっていくか、想像する力がいまの社会は弱まっているのではありませんか」(2014/08/06朝日新聞)・・・ これらの意見に共感する人が大勢いるに違いありません。そして平和へと向かう足音は決して小さくないはずです。 地域猫と地域人間
餌をやることはできるけれど、その結果の繁殖や糞尿の被害などには責任を取れません。被害を受けた家の人が憤慨するのも分りますし、可哀想だからと餌を与える人の気持ちも分りますが、結果として人間関係の軋轢を生みます。都会の町中において猫を可哀想と思うなら「地域猫」と言う方法しか無いように思います。そもそも元をたどればその原因、責任は猫を放置した人間にあるのですが、そのしわ寄せは猫好きな人にも、猫嫌いな人にも、そして何の罪も無い猫たちに被さって来ます。理不尽な事です。 ひと昔前、都会の下町にはたいてい野良猫がいて、それはこころ和む風景の要素でした。今考えてみればそれは野良猫ではなく、地域猫的存在であったように思います。世話好きな爺さんや婆さんが路地を行き来して、掃除したり猫に餌をやったり、子供のいたずらを叱ったり、まさに「地域人間」が存在していました。猫や犬に限らず、子供たちもまた地域に育てられていた時代でした。命を守り育てるのは家庭だけではなかったのです。 地域猫とはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/地域猫 人類はもっと謙虚な乗客にならなければ・・・
戦争と飢餓という問題解決に対して未だに培った科学力を発揮できない現状。大自然を守れるだけの知恵と技術は備わっているのに愚かにも逆行する現代文明。科学は経済ではなく芸術や哲学の香りに包まれなければ、そしてそれらを基盤としなければあらぬ方向へと走ります。そして科学の暴走はこのかけがえのない地球の難破、破壊へとつながるのですから、恐ろしいことです。地球の歴史から見ればごくごく新しい人類という乗客。この宇宙船地球号に乗せてもらっているという謙虚さがあまりにも足りないのではないかと思うのです。 おかしいことが多過ぎる原発の過去と今
猫と人間
じゃあ猫は?猫は僕が生まれた時からいつもそばにいて、以来ずっと観察しているけれど、ほとんど変化はありません。猫としてのコンセプトは不変で、相変わらず無邪気で可愛い生き物です。猫に限らずどんな動物でもその心、行動は不変で、変化があるとしたら結局人間のエゴイズム故の結果で、常に彼らは被害者です。世界では人間同士殺し合う状態がいまだ続き、まともな神経なら絶対にあり得ない戦争への道を、70年に渡って平和を築き上げたこの日本でご破算にしようとする政治家などがいて、人間の劣化は止まらないけれど、でもやっぱりそれは一部、何らかの理由、原因で人間性を欠損した人間の仕業であって、多くの人間は平和を愛し、動物や自然を愛する心を保っていると僕は思います。 人間の身勝手で捨てられた野良猫を「地域猫」として大切に世話している街もあります。それを実現する努力、労力は大変なものだと思いますが、やっぱりそれが人間で、そのような視点、感性があればくだらない人間同士の争いごとはいつかこの地球上から無くなるでしょう。核兵器の廃絶にしても、原発の廃絶にしてもそれは可能性があります。もっとも難しいのは人間性を何らかの理由で失ってしまった人間を再生することではないかと僕は思うのです。人間よりはるか多数を占める動物はそれぞれ安定しているし、大丈夫なわけですから。 「ありがとう大五郎」へのありがとう
共著のカメラマン大谷英之さんの文中の言葉です 「昭和46年に両親を連れて高崎山へ遊びに行った私は、餌付けしている猿の中に奇形をもつものが多いことに驚いた。帰ってからもそのことが脳裏を離れず資料をあさったりしてみたが、明確な答えは得られなかった。公害や輸入食品、川の水の汚染などいろいろな原因が考えられたが、いずれにしてもただ単に野猿の問題ではすまされないことだった。 翌年から各地の野猿たちを追って写真を撮り続けたが、淡路島のモンキーセンターで大五郎に出会った。仮死状態で薮の中に転がっていたのを保護されていたのだが、後足は付け根から全く無く、前足は肘から少しついているだけだった。私は後わずかしか生きれないだろう、というその猿を家に連れて帰って良いかと申し出た。許可を得て手続きをして、その足で東京へ戻った。・・・」 ここから妻の大谷淳子さん、4歳の真穂さん、7歳の一世さん、大学受験を控えた聖子さんたちと不自由な体に生まれた猿の大五郎との奇跡的な2年4ヶ月の生活が始まります。読んでいて随所に涙をこらえきれないシーンがあります。生き物に対する大谷さん一家の情愛、大五郎の感受性、1つの命を守ることの大変さ。人間が人間としてあるための根源的な心の波動とはこういうものなんだと、あらためて気づかされました。大五郎と子供たちの心の交流、猫のぬいぐるみを支えにして突然立ち上がった大五郎の表情。どんな命もかけがえの無い、そして愛おしいものだということが胸にしみ渡りました。小さな文庫本ですが、貴重な写真と家族それぞれの意味深い文章で構成されたヒューマニズムが凝縮された重たい一冊です。 「ありがとう大五郎」 少年でもないけれど どこから持って来たのか夜店のヨーヨーぐらいの大きさの風船が大量にあります。1つ1つに水を入れて水風船を大量生産。夜店でもやるのだろうかと思ったけれど、それは違っておそらく風船爆弾を投げ合って遊ぶのだろうと思い当たりました。結果を見届けずに席を立ちましたが、感じのいい若者たちでした。太陽と水と笑顔。ふざけ合いながら走り回っている彼らを見ていると、いじめとか、陰湿な暴行事件とかを起こす若者とは無縁な感じがします。抽象的だけれど、太陽と水と笑顔、そして気の置けない友人さえいれば若者はまっすぐ育つのではないかと思いました。 太陽の下でのびのびと四肢を伸ばし、汗をかき汗を洗い流し水をがぶがぶと飲む。お互いのちょっとした言葉、表情、しぐさに大笑いする。そんな若者ならなんでもないあたりまえのことが時代とともに消え失せているような気がしてなりません。 無関心という名の病気と治療法
無関心という病気にたいする耐性を子供はみんな持っています。それがある時に、人によって年代は様々ですが、その耐性を失ってしまいます。それが就職が機であったり、結婚が機であったり、学問や職業が機であったり、さまざまです。ただ共通するのは閉鎖的な思考だと思います。エゴイズムの確立と言ってもいいかも知れません。知識のない何も知らない子供のエゴとは大きな違いがあります。もともとあった面白いこと、大自然や大宇宙に対する好奇心が欠落してしまった結果ですから。子供の頃の好奇心がそのまま保たれ、知識や人生の機微を学び取った大人なら、環境や命に関わる問題に無関心でいられるはずはありません。 だって、科学であれ芸術であれ哲学であれ、経済であれ、すべて命あってのものなんですから。無関心の治療法はまず子供の心を思いだすこと、次に愛することの意味を考えること、そして自分が生きる、自分の命を大切にすることです。伝染力の強い病気ではありますが、治療法もまた強力です。愛は無関心を治癒するワクチンです。子供の心は偏狭を打ち破る教科書です。そして自分を大切にすることはエゴイズムに対する抑止です。戦争、放射能汚染、環境汚染。どれも絶対にあってはならないものですし、人間が阻止できるものです。そのための条件として、無関心と言う名の病気を世界から無くすこと、まず先進国に住む住人から無くすことだと思うのです。
平和と非暴力、それは日本人の誇りではなかったのか
よく知られているように食料の廃棄率では消費大国アメリカをも上回り、廃棄量は年間1800万トンでこれは途上国の5000万人分(年間)に当たるというのですから、絶句です。可哀想な犬や猫たち。日本では動物の殺処分数が年間20万頭。ドイツの殺処分ゼロは有名ですが、イギリスでも年間7000頭ですからこれも絶句です。他にどれだけのワーストがあるのだろうと怖くなります。 それでも平和憲法の下、戦後70年をかけて築いてきた平和と非暴力という誇りがあります。先進国として恥ずかしい社会状態もありますが、もっとも大事な平和と非暴力というキーワードに関しては胸を張れます。今までは・・・。集団的自衛権の行使容認。安倍政権がやっていることは、日本人にとって致命的な精神的ダメージをもたらすだろうと思います。憲法九条の平和主義こそ日本人の精神的基盤だと思うからです。平和でありさえすれば国の形態はいかようにも修正できます。先述のワーストも改めることはできます。何があっても平和主義だけは守らなくてはならないと思います。 「集団的自衛権の行使」容認。歴史的汚点と国としての後退
そんな重要な憲法を時の政権が軽々に触れることなど絶対にあってはいけないことですが、安倍政権は一線を越えてしまいました。安倍晋三首相が何故に戦争ができる国へと変えたいのか、それが本意なのか圧力なのか分りません。作家の森村誠一さんが朝日の声欄に投稿された文に・・・「それなのに、急いで恣意(しい)的に9条を葬ろうとしている魂胆は、どこにあるのでしょうか。思うに、(1)「支持率が高いうちに」というタイミング(2)祖父の岸信介元首相から引き継いだ改憲への私的執念(3)右派の側近や支持団体の圧力(4)歴代内閣ができなかった解釈改憲をやって歴史に名を残すという野心――といったところでしょう。」と書かれていましたが、どうしようもない低次元の動機です。 国民の命を左右し、国の未来を決定づけるかもしれないこの上なく重要な問題に対して一国の首相が胸に描くべきものではないだろうし、アメリカを始めいかなる圧力がかかろうとも影響されてはいけない、それほど大事な問題であるはずです。これはおかしい、危ないと気づいた国民1人1人が自らと日本の未来のため、こんな馬鹿げた政策には「ノー」を集積して反故にさせなければなりません。ことが起これば戦地や危険な場所で恐怖し苦しむのは未来ある若者であり、決して政治家ではないことを国民は肝に銘じておかなければいけないと思います。 ルネ・コロの言葉/未来を生きる若者への言葉
この言葉は声楽の世界だけではなく、未来ある若者全てが心がけるべき姿勢であると感じました。短絡的な世界に埋没しなければ生きて行けないような強迫観念を与える社会ではありますが、長い人生、そして未来を考えれば何が大切かは明らかです。音楽に限らず、あらゆるジャンルにおいて「人間がもっとも大切にすべきは「ノーという勇気」そして考え方次第で心もまた生涯熟成を重ねてゆける生き物だと思うのです。 未来への透視能力(フラーの明晰)
科学者の正しい知見によれば、こうあるべき未来の姿は予見できるのだけれど、現実の世界は逆行とまではいかないけれど、化石燃料や原子力の扱いを間違っています。先の文章の続きです「あまりにも近視眼的に未来を見通すこともなく、化石燃料や原子力エネルギーを濫用し開発していくことは、ちょうどセルフ・スターターとバッテリーだけで自動車をはしらせるようなもので、・・・」地球に備わっている自然エネルギーの能力を生かさなければ愚かすぎると思うのです。
心にとって大切な風情や情緒は経済や効率とは相反するもの
古いものを大切にするヨーロッパ諸国の一端がうかがえます。反して日本ではほんの数年訪れなかった町や場所に行くのが怖くなるぐらいの変貌です。壊してしまえば2度と戻らない環境としての意識があまりにも希薄で、古いものは情緒や思い出とともに瓦礫と化します。経済ありき、効率ありきで出来上がったものが、人間の精神にいい影響を及ぼすとは思えないのだけれど、破壊は止まりません。せめて東京、大阪、神戸など大都市に点在していた古き良き町を存続させていたら、社会にもう少し潤いがあっただろうと残念です。
被爆線量の不安と不可解
責任感から個人的に線量計を使う生産者も報じられていますが、何故国や自治体が徹底的に精査しないのか不可解です。放射能の長期的な影響を考えれば、うやむやにして「のど元過ぎれば」という無責任な姿勢は通用しないと思うのだけれど、食品による内部被爆と健康被害との因果関係は決して証明されないだろうとタカをくくっているようにも見えます。科学はよくも悪くも進化しますからそうはいかないと思いますが、どちらにせよ時間を巻き戻すことはできません。国民を守るのが政府の義務だとしたら放射能に関しては可能な限り神経を使うしかないはずです。 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。
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