世界中の人に惜しまれて亡くなったマンデラ氏と対極の安倍晋三
2013/12/06 アパルトヘイト撤廃に命をかけたネルソン・マンデラ氏が5日、亡くなりました。1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受け、27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放。自由を求める不断の戦いと白人政権との対話によって人種隔離政策の法律をすべて撤廃した功績により1993年にノーベル平和賞を受賞しました。国家を硬直させ国民を萎縮させるような法案を強行成立させた安倍首相と、なんと言う人間性の違いでしょう。日本の経済界とアメリカのタカ派、軍需産業や多国籍企業の思惑通りに動かされる志の低さ。崇高なマンデラ氏とまさに対極です。
国民の不自由と戦争にさえつながりかねない秘密保護法案を成立させた自公の議員と世論を気にしながら自民党のお先棒を担ぐ維新、みんなの党の議員。そのような人間を選んだ国民の責任ではありますが、国民を無視する、まるで白紙委任のような政治家の態度には腹がたちます。次回の選挙まで「反秘密保護法」をねばりづよく続けて、選挙で逆転し、日本を平和で自由な道へと戻すことはまだできます。自由のために戦ったマンデラ氏はこう言うでしょう「平和憲法がある日本で何故?」これを機にノーベル平和賞に値するような人物が日本のリーダーになるような国を1人1人が目指さなければいけないと思います。
沈黙の春と沈黙の街
2013/11/29 一年を1月、2月と数えれば何の変哲もないけれど、睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走。と数えればそれぞれの季節と固有の時間を感じます。四季が曖昧になり、春夏秋冬の実感がなくなりつつある昨今ですがそれは気候だけの問題ではなく、植物から昆虫に至までの多様な生命が減少していることにも原因があります。ツバメ、鳶、トンボ、蝶、バッタ、もぐら、蝉、ザリガニ、黄金虫、てんとう虫、おけらなど都会であっても普通に目にすることができた時代。四季の移り変わりは生き物が知らせてくれました。それにしてもたった数十年でツバメやトンボはおろか、猫さえ見かけることがなくなった都会。表面的には近代的で快適な都市空間ですが、よく考えればレイチェル・カーソンの著書「沈黙の春」を連想する環境の激変です。はたしてこれでいいのか?もう少し自然環境に配慮しなければ騒音と活気があっても人間的には「沈黙の街」となって消えてしまった生き物のように心がどこかに行ってしまうような気がします。
「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」
2013/11/21 人類の歴史を100メートル競争に置き換えたら最初の文明が現れたのはゴールわずか10センチ手前だと言われています。メソポタミア、そしてシュメール文明。たった5000年前のことです。それにひきかえ人類の祖先と考えられる化石の発見は調査が進むにつれてどんどん過去へと遡っています。1974年にエチオピアで発見された化石人骨は318年前のものでアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)、別名「ルーシー」と呼ばれるようになったのは発掘を祝う騒ぎの中でビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」が何度も流れていたからだそうです。(ウィキペディア/ルーシー)。
近年、アフリカ大陸中部で600万年前から700万年前にかけての地層より出土したサヘラントロプス・チャデンシスが最古の人類となっていますが、まだまだ過去へ遡るだろうと思われます。700万年に及ぶ人類の歴史と5000年という文明の時間軸のアンバランスにはどんな謎があるのだろうと考えてしまいます。びっくり仰天の未知のピースがどこかに埋もれているのかも知れません。同じくウィキペディアにこんな記述もありました。「2004年2月13日に、ハーバード大学の天文学者は白色矮星BPM 37093の発見を発表した。BPM 37093は炭素で構成され、最大で1034カラット (2×1030kg、太陽質量程度) のが結晶化していると考えられた。彼らはその星をルーシーと名付けた。」化石人骨も星もどちらもユーモアと夢のあるネーミングです。
核のゴミどうすんの!? 山本太郎と広瀬隆のドイツ取材3000kmの旅
2013/11/17 放射性廃棄物を適切に始末する見通しがないまま建設・運転が進められてきたため「トイレなきマンション」と呼ばれて来た原子力発電。原発の危険性と非人道性、歪んだ利権構造、経済性の嘘など心ある科学者、技術者、ジャーナリストなどが長きに渡って警鐘を鳴らし続けて来たにも関わらず原発は増設されつづけ大量の核廃棄物を生んでしまいました。
「核のゴミどおすんの?」このDVDを観て原発の核廃棄物が人間の手に負えないものであるかを実感すると同時に原発というエネルギーを使ってしまった人類の愚かさを今後払拭できるのだろうかという不安がよぎります。2010年の国際環境映画祭でグランプリを取ったデンマーク映画「Into Eternity」(10万年後の安全)を観た時にも思ったのですが、強固な岩盤を掘り下げた地層処分でさえ、何万年と言う時間軸の中ではどうなるか分からず、放射性物質の底知れない恐ろしさを感じます。DVDを観てよく分かりましたが原発に対する意識が高いドイツでさえ核廃棄物の処分には困り果てているのが実態で、一度地下深くに貯蔵した核廃棄物を地下の状態の不安定さゆえに取り出すシーンには「安定した保存など不可能ではないか?」との不安さえよぎりました。
世界の科学力を結集し、核廃棄物の安全な処理方法を見いだすだけでも至難だと言うのに、まだ原発を動かして核廃棄物を増やすなどは気違い沙汰です。福島原発事故から2年半たった今の福島の現状を見るだけでも「2度と原発を動かしてはいけない」と思うのが人間として当然の感覚だと思うのですが、そうでない人間の頭の中には何が巣くっているのだろうと背筋が寒くなります。とにかく、圧倒的多数の人が、事実を認識して当たり前の判断をするまで、1人1人の働きかけと、ジャーナリズムの力を緩めることがあってはいけないと思います。「すでにつくってしまった核のゴミをどうするか」たとえ全原発の廃炉を決定したとしても、未来に向けて最大の問題が残ることには変わりがないのですから。
昔なつかしい卵の味。
2013/11/12 キャッチコピーにひかれて少し高い卵を買いました。パッケージの裏蓋に「この卵は、これまでわたくしが20年間、有機農業で培ってきた経験を、養鶏に応用した結果生まれた、とても安全でおいしい卵です。農薬や抗生物質などの化学物質を一切使用しないのはもちろんのこと、周辺地域ににも除草剤を使わないなど外部から悪い菌が入り込めないような、安全で理想的な環境づくりを心がけています。・・・また有効微生物群の発酵飼料の餌を与えることにより、盛っこりした黄身と弾力のある白身、硬くてきれいな殻の卵になりました。更に味にもコクがあり、臭みがない昔なつかしい卵の味を再現することができました。・・・」と書かれていてさっそく卵かけご飯にして食べると、確かに昔なつかしい大好きだった卵の味がします。
昔なら自然に育った鶏が普通に卵を産んだ結果の味。それが今や神経を使い研究と手数をかけなければできない味になったのかも知れません。普段スーパーなどの安価な卵を食べていますが、余りにも安いので、これで農家は儲かるのだろうかと思うこともしばしばです。そして、いったいどのようにしてこの安価な卵はつくられているのだろうと、不安にもなります。この卵の蓋の裏に書かれた説明書きの反対を考えれば、考え込んでしまいます。卵に限らず大量に安く食品をつくろうとすれば、陥ってしまう危険性。家畜や作物に課した過酷な環境は結局まわりまわって、人間に戻って来ます。農薬、遺伝子組み換え、放射能・・・一つ一つの影響だけでも案じられる要素が複合的ですから、不安にもなります。昔なつかしい味は、昔なつかしい心であり、昔なつかしい社会であるような気がします。
ジョルダーノ・ブルーノの信念
2013/11/10 (Giordano Bruno, 1548年 − 1600年2月17日)は、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護したことで有名。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。・・・ロンドンに滞在する2年半のあいだに、ブルーノ前半期の主著とされる6つの対話篇『聖灰日の晩餐』『原因・原理・一者について』『無限・宇宙・諸世界について』『傲れる野獣の追放』『天馬のカバラ』『英雄的狂気』を上梓した。(ウィキペディア)
地動説が異端とみなされる時代に、ブルーノは宇宙の無限性と惑星の存在に思いを馳せていたというのですから、驚かされます。銀河系には現在2000億から4000億個もの恒星があるといわれていますが、地球と同じような条件で誕生し、同じような経過をたどった惑星の数も天文学的な数であり、生命が同じように進化した惑星の数も計り知れません。ただ至近の恒星でさえ4光年先ですから、今の科学では気の遠くなる距離です。1977年に打ち上げられたボイジャー探査機が1.6光年離れた地点へ到達するのに4万年を要すると言われています。現在の地球文明が破滅せずにこのまま4万年保てたとしたら、宇宙の何であるかがもう少し分かるかも知れません。核の脅威、環境破壊、地球温暖化、農薬汚染、遺伝子組み換え食物の不安、そして放射能汚染。過去2000年とこれからの2000年を考えただけでも存続において等比でないことは誰にでも分かることです。ある程度進化した文明が1万年を維持するためには、経済や科学を制御する高度な精神性がいるのは当然ですが、精神は進化しているでしょうか。ブルーノの火刑ではありませんが、正しい考えが抑圧され、真理が埋没させられるような低次元な精神社会は悲しいけれど継続していて、まさに「傲れる野獣の追放」がなさなければ4万年は夢のまた夢ではないでしょうか。
世界に点在するヒューマニズムこそ希望そのもの
2013/11/01 ゆたかな想像力と未来への憧憬に満ちた小説家であり科学者であるH.Gウェルズが1922年版の世界史概観の結びに・・・人類は統一と平和を達成するだろう・・・と希望的な予測が書かれています。しかし、1946年の改訂版にはその未来感は影をひそめ「行きづまりに立つ精神」と題された文章には・・・人間は険しい道を登るか下るかしなければならない。そして、下っていって退場することに賛成しているもののほうが多いように見えるのだ・・・と絶望とも思える言葉に変わっています。度重なる戦争、そして広島、長崎に投下された核爆弾のショックはウェルズの未来感をこなごなに打ち砕いたのだと思います。平和で調和がとれた未来像があってこそウェルズは「透明人間」や「タイムマシン」などの科学小説の世界に想像の羽をはばたかせ、科学はその道案内だと信じていたのでしょう。
それから半世紀以上がたち科学技術は飛躍的に進化したけれど、強力な農薬、遺伝子組み換え食品、放射能などの複合汚染は深刻度をまし、環境そのものが「精神のない科学」によって壊されつづけています。しかも核の脅威はそのままに、あろうことか原発などという核廃棄物の処理さえできない不完全で危険な装置までつくってしまいました。1946年に悲観的な思いの中で亡くなったウェルズが今の世界を見れば、希望の光をどこに見いだすのだろうと考えてしまいます。おそらくそれは科学ではなく人間そのものなんだと思います。平和のために、環境のために、子どものために、愛するもののために、人類のたった一つの生存圏である地球のために・・・世界中にそんな人たちが少なからずいる事実こそが希望そのものなんだろうと思います。
揺れ続ける日本列島
2013/10/20 日本周辺の地震記録(2012年USGS発表、M4以上 計666回)アメリカ地質調査所の発表による地震の記録です。666回!いつ大地震が来てもおかしくない地震の頻度ですが、その危機感は希薄です。ちなみに10月1日から今日までのM4以上の地震は28回記録されています。ほぼ毎日です。USGSの世界地図に記された地震発生ポイントの印を見ると日本列島は丸い印で覆われています。http://japonyol.net/editor/earthquake2012.html
地震だけでなく台風もあります。大雨もあります。近年では竜巻も起こります。原発の再稼働など脳裏に浮かぶことがそもそも異常です。軍隊どころか自衛隊を改変してせめて半分は救助隊にするべきです。国内と海外、国際救助隊なら世界と国民の支持は得られます。隊員ももっと誇りとやりがいをもって職務にあたるでしょう。中国や北朝鮮との関係は誠意と叡智を絞った外交努力しかありません。圧力や武力で関係が好転することなどあり得ないのは誰でも分かります。自然災害への対処、自然エネルギーへの転換、格差社会の是正。福島原発事故すら収束にはほど遠いのですから、施政者は揺れるこの日本の足元を見なければなりません。
電気をどうつくるかも大事だけれど、電気をいかに使わないかはもっと大事
2013/10/17 原発事故が起こってから電気に対しての関心が高まったのは確かです。電気を何によってつくるか。危険な事が分かってしまった原発を止めて自然エネルギーに移行するのに異論がある人は原発利権でがんじがらめになって来た人以外にはいないでしょう。舵を切る時間のずれはあっても未来を考えたら世界はその方向へ動くしかないのも分かっています。そして同時に電力消費の現状にも目が向くのは当然の流れです。地球という閉じられた環境でしか生きて行けない命を存続させるためには地球資源と地球環境を維持するしかないのですから資源の浪費、環境の汚染は大問題です。日本の現状を見ても電気を始め無駄な消費は目に余ります。企業と個人が意識改革をすればどれだけのエネルギーが節約できるだろうと想像します。
食肉1キログラムを生産するためには16キロの穀物と1万5000リットルの水が消費されると言われています。そしてそれは電力の消費でもあります。自分自身を考えても今まで無意識にエネルギーを使って来たと反省、再考しました。原発事故の後、生活スタイルをかなり変えましたが、よく考えてみれば必要の無いもの、使い方を加減できるものがたくさんある事にも気づきました。モノを大切にすることはエネルギーの節約であり環境や命を守る事につながることも再認識しました。昼間から煌煌と電気がついている大型店舗。電気だらけの夜の都会。あふれる車。食べられる食品、着られる衣料、使える道具の大量廃棄。すべてエネルギーの浪費です。そして恐ろしい事ですが、それはそのまま精神の荒廃にもつながっています。人間が人間らしくあるための大切な要素、万物に対する「感謝の心」が希薄になるからです。電気を無駄に使わない事は、頭を有効に使う事、人間的な心を育てる事でもありますから、実行しない手はないでしょう。
グローバル・ヴィレッジ
2013/10/10 文明批評、メディア論で知られる文学者マクルーハンが著書「グーテンベルグの銀河系」で地球村という言葉を使ったのはもう半世紀も前のこと。電子メディアによって地球規模のコミュニケーションが可能となり地球が一つの村になるという趣旨です。確かにマクルーハンの言う通り時間と空間の障害は取り払われました。ただ村の住民のコミュニケーションが取れているかというと残念ながらそうではありません。アメリカがアフリカや中東のピンポイントの場所を軍事衛星を使って本国からまるで近所の家でも狙うかのように遠隔操作で攻撃する。グローバル・ヴィレッジの悲劇です。
村の中で一軒の家が煌煌と無駄な灯りをつけ、まだ食べられる大量の食べ物を捨ててしまう。村人は眉をひそめていますが無神経な家人はそれに気がつかない。その家の表札には「日本」と書かれています。この地球が村と化したのなら助け合いと協調の精神ぐらい持つのは村人としての義務だと想うのだけれど、この村の中の一軒に過ぎない日本という家以外顧みない偏狭な家族を変えるには家風に染まっていないヒューマニズムの若き担い手が1人、また1人と現れ増えていくしかないのだろうと思います。
風評被害への疑問
2013/10/05 マスコミにしばしば登場する風評被害という表現を聞くたびに思います。風評被害を起こすのは正確な情報を公表しなかったり隠蔽されたりした結果起こるものですから、責任は国や自治体、関連企業やマスコミなど関係組織にあることは明白です。消費者は情報に関して受け身ですから、曖昧な情報しか得る事ができない場合は盲目的になるか、過分に慎重になるかどちらかしかありません。産地や生産国などのおぼろげな印象で買う買わないの判断をしている消費者も多いのではないかと思われます。原発事故の後、食品の放射能汚染に関しては注意せざる得ないのですが、防ぎようがないのが現実です。
食品衛生法で暫定基準キロあたり100ベクレルを決めたのなら可能な限り数値表示するべきだと思います。基準値以下の表示ですませるなら99ベクレルの不安は誰にでも起こります。広範囲の国土が汚染されてしまった以上大人は甘んじて100ベクレル未満の食品を食べるのはしかたないですが、影響が強いと言われる子どもたちには限りなくゼロに近い食品を食べさせたいのは当然の気持ちでもありますし、大人としての責任だと思います。でも実際はその判断すらできない状況で不安はつづきます。風評被害を無くすためにも正確な測定と情報を流すべきだと1人1人が思わなければいけないと思うのです。
心の大法則、アントナン・アルトー
2013/10/01 フランスの詩人であり俳優であるアントナン・アルトーが1925年にシュルレアリズム革命第三号に書いている言葉です。「今や心の大法則を見出さねばなりません。といってもそれは一個の牢獄にほかならぬ法則などではなくて、それ自身の迷宮に迷い込んでいる精神のための導きとしての法則です。科学をもってしては永久にとどかぬ彼方、理性の光の束も雲に遮られて折れ曲がってしまう境に、この迷宮は存在しており、これこそは存在のすべての力、精神のあらゆる葉脈の先端が結集している中心点なのです。」1925年からの世界の推移を見れば物質科学は精神をすっかり置き去りにしてしまったようです。この先、心の大法則が認識される時代が来るのだろうかと思ってしまいますが、精神の葉脈が静かに伸び続けているような気もします。
1人1人が人間としての意識を持つだけで世界は変わる
2013/09/29 なぜだろうと思うような人間がいます。道ばたにゴミを投げ捨てたり、公園で食べ散らかしたり、せっかくの美しい山や川に空き缶や弁当を置き去りにして帰る人もいます。なぜだろうと思います。暴言で相手を威嚇したり、暴力を振るったり、車の窓から道路に灰皿をぶちまけて走り去る人間もいます。低すぎる人格。無知や無教養だけでそのような人間ができるとは思えません。愛とか感性とか人間としての根源的な要素が一切培われなかったのが原因ではないかと思います。一つ言えることはそのような人間が反原発を思うことはまずないはずです。当たり前ですが、動物愛護とか環境問題についても同じです。でも、そのような人間は少数です。問題はそのような人間ではない大方にあります。
自分が関わる細部の世界には精通しているけどその他の事柄に対しては無関心であったり、無知であったり。日常と経済以外の問題に関して深く考えようとしなかったり。戦争の残酷さや放射能の脅威にたいして想像力が働かない人間。そのほとんどはあえて知ろうとしない「積極的無知」にあります。戦後長きに渡って真実を知るより目をそむけるほうが楽であるかのような洗脳ともいえるプロパガンダがそれこそ官民一体でなされて来た結果だと思います。煩わしい、難しい、関係ない、興味ない・・・とんでもないことです。重大なことほど実際は誰でも分かる簡単なことですし、しかも誰1人無関係ではすまされない問題ばかりです。しんどければ口に出したり行動に移したりしなくてもいいけれど、せめて1人1人が戦争と原発と環境問題の実態を知り、その真実を意識に入れておくだけでも世界はいい方向へ変わって行くと思うのです。
介護施設の現場に思うこと
2013/09/27 グループホーム、老健施設、特別養護老人ホームなどへ訪問に行く機会が時々あります。それぞれ運営の形態は違いますが、大方の施設で感じるのは看護士の数の少なさです。大きな部屋に集められ虚空を見つめる老人の姿を見て思わず声をかけることもあります。かまってもらえない老人も気の毒ですが、懸命に働く介護士の数を見るととても無理だなと思います。20人あまりの老人に対して、介護士が1人しかいないような現場を何度も見ました。施設運営がどんな形でなされているのか不安と疑問が起こりますが、経費と利潤の問題があるのは明らかです。教育や福祉に関しては国の主導がなければ歪みが出るのは当然です。福祉施設とはいえ経営者によってはブラック企業化している現実が新聞などで取り上げられてはいますが改善の兆しはありません。
逆にまともな経営者が運営に四苦八苦しているのも現実で理不尽です。しかもそのような介護保険が使える施設すら不足していて、特別擁護老人ホームは200人とか500人待ちの施設もあって明らかに国政に原因があります。不要な道路や危険な原発などに流用される税金の巨費を見れば、もっと人間的な介護の世界を構築するのはやろうと思えばできるはずですから、ひどい話です。安心した老後が保障されないような国が美しいはずもなく、未来を描けるはずもありません。教育、医療、福祉の質と充実は国の根幹で、先進国のバロメーターです。企業の利潤や我欲に支配される国を先進国とは呼べないでしょう。命と生活と未来に関わる問題に1人1人がもっと注意を向け、理不尽なことは少しでも減らしていかなければ、美しい国どころではないと思うのです。
山岳信仰の聖地、吉野へ
2013/09/25 ふらり気分転換にと霊山吉野へ。参道に並ぶ土産物のお店もぽつりぽつりと開いているだけで、桜の季節にはにぎわう山も深閑としています。山上にある修験道の本山金峰山寺には人影もなく、ひときわ爽やかな空気が漂っていました。風化退色したお寺の趣。それにしても壮大な建築。日本各地に点在する山中、山上のお寺を見るたびに思います。立地の困難をものともしない精神と建築技術。世界に残る遺跡にしても過去の人間の能力の高さには不思議感に加えて畏敬の念が伴います。ケーブルが休止していて、20分ほどの山道でさえ弱った足にはこたえたけれど、あふれる緑感と良質な空気に助けられました。
人間を生かしてくれている大自然。山も、海も、川も湖も、破壊や汚染から守るのが人間の使命だとつくづく思います。欲の絡んだ開発事業で環境を破壊するなど愚かすぎる行為ですが、想像力と愛をなくした近視眼的な人間は同じ過ちを繰り返します。でも、たとえ微力なブレーキだとしても1人1人が常に意識して踏み続ければ、大きな力にもなります。どん欲な政治家や企業を抑止、排除できるのは結局1+1を無限に続けて行くことしかないように思うのです。帰り道に小さなとのさまガエルが一匹いました。こんな山中に1人で大丈夫だろうかと心配しましたが、きっと1+1の一員なのでしょう。
国家としてのお手本がアメリカでなくフランスやドイツだったら
2013/09/21 もし日本が戦後復興の中でアメリカだけでなくフランスやドイツの文化、経済のあり方を見習っていたら国民の価値観や意識の持ち方は今とはずいぶん変わっていただろうなと思います。日本の風景も心のあり方もあまりにもアメリカ的になってしまって疑問が湧きます。1776年に独立宣言が公布された歴史の浅いアメリカ合衆国と紀元前660年に神武天皇が即位したとされる日本の歴史。歴史や文化に対する価値観が違って当然のはずですが、よく似た国になってしまいました。フランスやドイツに限らず歴史ある欧州の国々がアメリカの経済一辺倒の政策に一線を画しているのは当然のことで過度な経済志向が文化や歴史のみならず精神をも軽視するに至ることを分かっているからです。見る機会は少ないですが、欧州の映画やアニメーションなどを見るとはっとすることがあります。映像と物語の中に精神性、芸術性がにじみ出ていてこんな映画が生まれる国のあり方を考えてしまいます。
こんな映像を見ていれば子供も大人も感性が育つだろうなと思うからです。スポンサーに迎合し、大衆受けを狙うようなものをつくらなければ成り立たないからと言うのでは創造的仕事に従事する意味がありません。弊害だけです。皮肉なことですが官民一体となって大衆受けを狙う反面、官民どちらも大衆のことなど考えていません。社会の大多数を占める大衆の思考力を弱めればものが売れ、政治がやりやすくなる。煽れば流行り、煽れば売れる。まさに経済絶対主義アメリカの方法そのものです。国民性が対照的とも言えるフランスとドイツ。共通するのは過去の過ちを繰り返さないという信念と1人1人の自由を尊ぶ理念です。そのためには過去の記憶を残すものを大切にし、国民1人1人が自らを啓蒙し続ける努力があるとおもうのです。GDP(国内総生産)がドイツやフランスの倍近くもある日本。でも、あくせく働き、心の余裕をなくし、他者を顧みないような社会がいいとはとても思えません。
サマータイムブルース
2013/09/19 久しぶりにRC サクセションの歌を聞きました。「東海地震もそこまで来てる、だけどまだまだ増えていく、原子力発電所が建っていく、さっぱりわかんねえ誰のため?・・・」歌を聴いていると歌詞の中に原子力発電所が37個も建っているとあります。曲の発売予定が原発企業東芝の圧力で中止になった1988年当時は37個だったんだとあらためて認識。37個でも滅茶苦茶な数だけど、それから54個まで増やしたあげくの果ての大事故だからまさに絶句です。推進して来た自民党と原発関連企業、学者はひど過ぎますが、自分も含め強く反対してこなかった国民にも責任があります。コストが半端じゃないこと、電力が足りているのが分かっていて、しかも危険性を訴える科学者、技術者、ジャーナリストなどの人たちが真剣に警鐘をならし続けていた中でのことですから、異常としか言いようがありません。原発が見える海でなんか泳ぎたくもないけれど、事故が起これば泳ぐどころか土地や家まで捨てて逃げなければならない。2009年、福島原発事故の2年前に亡くなった忌野清志郎が生きていたら絶句のあと絶叫するだろうと思います。「さっぱりわかんねえ誰のため」そして「人間なら考えろ」と。
リニア狂騒曲、狭い日本そんなに急いでどこへ行く
2013/09/18 青春18切符でも回れるこの狭い日本。新幹線があればもう十分だと思うけど、またしてもリニア新幹線。巨額の利潤を得ると思われる企業の顔ぶれを見れば、ああ、またかとうんざりしますが大切な税金は原発事故で難儀を極めている人たちや、福祉、教育、医療など困っている国民がいっぱいいる世界になぜ投入できないのかと怒りが湧きます。除染をすればあらんことか暴力団まで潤うという国ですから、汚染水どころか国そのものがコントロールできていません。と言うより悪しき輩にコントロールされているのが実情です。それにしても新幹線すら料金が高過ぎてしんどい夜間の長距離バスを利用なければならない人も多くいます。しかも新幹線のグリーン車など1車両に1人か2人しかいない光景もしばしばで、本当に理不尽です。田中角栄の時代じゃあるまいし、闇雲に目先の欲得で暴走するのを止めなければ、国自体が脱線、衝突してしまうのではないかと恐れます。1人1人が客観的にこの国を眺め、人生にとって国にとって何がほんとうに大切なのかを見極めて、少しでも人間的で心ゆたかな世界をめざしたいものです。
まあるい月がくっきりと見える夜
2013/09/16 台風一過、夜の空にはまあるいお月さんが輝いています。ふだん見えない星たちもするどくひかり、都会ではともすれば忘れてしまいそうな星空を演出しています。星の見えない夜も多い都会の空。空気のきれいな田舎の空を見たこともない子供達がいきなり満天の星を見たら驚くに違いありません。久しぶりの澄んだ空、満天の星にはほど遠いけれどいくつかの星と月を眺めながらふと思いました。「本当の夜空」を見たのは何年前だろう・・・多過ぎて空にあふれた星が今にも降って来そうで怖さすら感じた夜。今夜の空は忘れていたその時の神秘的な宇宙を思い出させてくれます。無数の星の中の一つである太陽を周回する地球。限りなく小さい惑星ですが、人間はともすれば大宇宙を忘れ近視眼的で自己中心的な思考に陥ってしまいます。謙虚なんて言葉では足りませんが、小さな地球に生かされている生物としてできるかぎり賢く宇宙の神秘に感謝しながら生きたいものです。
生命の源、水の大切さ
2013/09/12 ケニア北部で巨大な地下水源が見つかったとユネスコが発表しました。衛星による探査と掘削による調査で確認されたそうです。ケニアは長年の干ばつから水をめぐって死者がでるほど治安が悪化し、人口4100万人のうち1700万人は水を確保できず、2800万人が不衛生な環境に置かれているとのことですから、水源が利用できるようになればまさに夢のような出来事です。科学技術はこのようなことに使われなければならないとつくづく思います。一方、福島原発では毎日のように汚染水漏れのニュース。今日も観測用井戸で、地下水1リットル当たり6万4千ベクレルのトリチウムが検出されたと東電が発表。連日なので何がなんだかわからなくなります。恐ろしいことだけど命を育む大切な海が汚染され続けていることだけは事実です。生命にとってこの上なく大切な水。水源に恵まれた日本ではありますが、更なる原発事故で地下水脈や琵琶湖などの水源が汚染されることを考えたら再稼働などという方針がどれだけ馬鹿げているかは誰にでも解るはずです。地震多発国という立地、被ばくする作業員がいなければ動かせないという人道的な問題、そして福島原発事故が日々証明しているように底なしのコスト。しかも経費の調達は税金と電気料金への上乗せと言うのですから空いた口がふさがりません。なおかつ原発がなくとも電力が足りている確証と事実があるのですから、やりきれません。ケニアの現状を見れば水がいかに貴重なものかあらためて実感します。環境に恵まれた日本を自らの手で破壊するような行為には国民1人1人が強い意志で立ち向かわなくてはならないと思います。そして海も大気も境界などないのですから尚更のことだと思うのです。
エコノミック・アニマルの彷彿
2013/09/10 目に余る経済利潤追求の姿勢に対してエコノミック・アニマルと批判された1965年。本家のアメリカには言われたくないけれど世界に対して恥ずかしい思いをした人は多かったのではないでしょうか。動物には全くいわれのない言葉ですが、人間としてあるべき姿からはかけ離れた状態の生き物だと思います。当時、「人間に近づかねば」と自嘲の混じった言葉が飛び交ったのを思い出します。あれからの半世紀、軌道修正できそうな時期もありましたが、現状があります。原発事故の対応もままならない中でのなりふりかまわない安倍首相の原発セールスにはエコノミック・ビーストなる比喩が使われ、またしても恥ずかしい思いです。生存本能だけで生きる野獣だってこんな馬鹿げた行動はしないでしょう。東京オリンピック決定に湧く経済界。オリンピック開催をアベノミクス第4の矢と呼ぶ政府と金、金で蠢く企業のどこにスポーツマンシップがあるのでしょう。ビーストの次は何が来るのだろうと恐れます。オリンピックの精神を記したオリンピック憲章の中に「オリンピズムの目標は、スポーツを人類の調和のとれた発達に役立てることにあり、その目的は、 人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。 」とあります。1964年の東京オリンピックは西洋の先進国の文化を吸収し、アジアの一国としてその資質を世界に世界に知らしめる目的がありました。50年の時を経て経済大国となった日本。これからは西洋や発展途上の国々に対して経済ではなく日本の精神性を発信できる国にならなければいけないと思うのです。オリンピック憲章の中には次のような言葉もあります。「オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。」
おばあさんと自転車
2013/09/06 3日間まともに寝ることもできなかった足の痛みから解放され久しぶりに外に出ると爽やかな青空が広がっていました。何か買い物をしようと徒歩20分ほどのスーパーへと進撃。この速度なら何分かかるだろうと考えながら歩いていると前方にかなり年配のおばあさんが自転車を押して歩いています。後輪が2つある倒れない自転車です。速度の遅い僕よりもゆっくりと進んでいます。しばらくして追いついたので「こんにちは」「お元気ですね」と声をかけると「ええ、毎日のことですから」との返事。聞けばお年は87歳で、おばあさんも僕が向かうスーパーが目的地とのこと。小さな段差、少しの傾斜があれば降りて自転車を押しながらの小旅行。しばらく並行しながら話をして「じゃあお先に」と挨拶をして追い越しました。時々振り返っておばあさんを見ると自転車を漕いでいます。普通の自転車なら確実に倒れる速度。三輪車ならでは超微速。買い物難民という言葉がありますが車のないお年寄りにとっては過酷な世の中だと思います。考えれば歩いていて見かけるのは大抵お年寄りで、そもそも長い距離を歩く人なんかほとんどいない現状です。振り返って「おばあさん、車には気をつけて下さいね」とつぶやくように言ったとたん、脇を車が猛スピードで走り抜けました。運転するのは若い女性です。どこへ行くのも車、車、車。おばあさんこそ車に乗せてあげたい、そう思ってまた振り返ると少し距離が縮まったように見えました。
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