■多国籍企業? ■本当の原子力村 ■見えない記憶 ■心の干潟 ■しっかりと見つめること ■原発とは/小出裕章 ■どれだけの思い? ■原発を止めれない事情 ■原発は海あたため装置 ■記憶と忘却 ■生きること ■人間としての抵抗 ■これだけの被害が出て ■人間であるならば
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多国籍企業(Wikipedia)
本当の原子力村 危険度の差はあるにしても海も山も川も放射能に汚染されますし、被害は原子力村にとどまりませんから、本当の原子力村構想はナンセンスな話ですが、義憤からそのような事を考えてしまいます。累積される放射能被害。人体や環境への影響はまだまだ計り知れないものがありますが、その恐ろしさは原爆やチェルノブイリの事故の追跡調査でかなりの部分明らかになっています。たとえ低線量被曝であっても無視できない影響があることだけは分かっています。被曝はこれぐらいなら大丈夫だ安全だと言うような単純なものではないことは明らかです。時間軸の長い未来に深刻な影を落とすのが原子力の実態です。膨大な核廃棄物の処理問題もありますが、食品汚染を考えても分かりますが避けようの無い被曝を生み出すのが放射能の恐ろしいところです。目に見えない、匂わない、味もない、人間の五感が感知できない放射能に対しては環境をきめ細かく検知する事と想像力を働かすことしかできません。 実際の防御などできないと言うのが放射能汚染のどうしようもないところです。放射能の性質を考えれば除染が移染でしか無い事は分かりますし、安全基準などあり得ない事も分かります。とにかく人間の能力を超えた問題です。にも関わらず愚かな施政者、企業、学者はまるで原子力をコントロールできるかのごとく振る舞っています。これは明らかに異常だと言うしかありません。何万年も安全に保管しなければいけない核廃棄物。過去の度重なる核実験と原子力発電で累積する放射性物質が今後どのように作用するかは分かりませんが、はっきりしているのは放射性物質がこれ以上出ないよう、世界の国が協調することしかないと思うのです。そしてまず日本がまず原発から脱却し技術大国としての全力を自然エネルギー開発に注ぐ事が急務ではないでしょうか。
見えない記憶
それはどれも大切なもの。そこにある心、そこにある愛。かすかな発信音を辿らなければ行き着かない世界があります。人間の五感にもう1つ足さなければ認識できない存在があります。可能な限りの想像力と自我を離れた客観的な視点。いやおうなしに体感させられた大台ケ原の底抜けの豪雨に圧倒されて気づかなかったもろもろの事象もまた心の奥深くに刻まれているのでしょうか。あの時の友人は40年に渡る時の流れの中でいつも常にそばにいて、もっとも見慣れた存在なのだけれど、まだ見えていない何かが、感知できない何かを潜めているのかも知れません。そしてこの文を読めばにやっと笑ってこう言うに違いありません。「お互い自分自身がまだ見えてないんだから、往生するよ」と。
心を育む干潟
漠然とですがこんなイメージが浮かびます。都会と言う大海は地方と言う干潟がなければ純化されないのではないだろうか。地方が元気で疲れ果てた都会人を癒す懐がなくなれば、結局みんな酸欠や栄養不良でおかしくなってしまうのではないだろうか。ここ数年地方を訪ねてその衰退ぶりにはぞっとするものがあります。町の小さな商店は心の干潟、地方もまた大きな心の干潟。経済に取りつかれた亡者たちが埋めて荒らしてしまった町と自然。町に、地方に、学校に、社会に、精神的な干潟を復活させなければ人間が絶対に必要とする、空気、水、光、と同じように大切な心がどんどん小さくなってしまうのではないかと思うのです。心が小さくなれば、友人も、恋人も、家族も、動物も、自然も、ほんとうに大切なものを愛する事が出来なくなってしまうのではないかと恐れるのです。
しっかりと見つめ想像力を働かせなければ
そして新たな登場人物、橋下徹。まさに小泉劇場が始まった時と様子がよく似ていて気味が悪いほどです。そしてよく似た手法。もともと市民がある程度不満を持つ役所や教育の現場などをやり玉にあげ、民意を煽る手法。二分する民意を総意のごとくすり替えて権力を行使するのはあまりにも強引で危険な方法です。確かに今の日本の現状は変えなければ行けませんが、日本の未来を思い、よりよい社会を目指すなら過去の失敗、教育における競争原理や経済絶対の政治方針をあらため、弱肉強食の世界を変えなければなりません。国民の人生に対する意識と価値観を変えるぐらいの大きな発想が必要です。何故なら行き過ぎた競争原理と利益優先社会への偏重がこのような現状をつくったのですから。たとえ時間がかかっても未来に向けて1人1人が生き生きと個性を発揮できる土壌をいかにつくるかが施政者の想像力と腕の見せ所だと思います。間違った方向へ進めば小泉政治のダメージにとどめを刺してしまうほど今の日本は危機的状況です。ですから国民1人1人もまた施政者の言動とその向こうにあるものをしっかりと想像力を働かせて見つめなければならないと思うのです。
小出・京都大助教の講演から
■事故を振り返って ■事故の大きさ 福島県の東半分を中心に、宮城、茨城、群馬、千葉、新潟、埼玉各県と東京都のそれぞれ一部地域が放射線管理区域以上に汚染された。私の仕事場である実験所は放射線管理区域で、そこでは飲食も寝ることも、子供の立ち入りも許されていない。汚染地域はまるで逆転した世界になっている。 被曝(ひばく)放射線量には「これ以下であれば安全」という値はない。どんなに微量でも危険というのが現在の学問の到達点だ ■第1原発の現状 1号機は約100トンのウランなどが圧力容器の中から溶け落ちた状態。格納容器の下の厚さ1メートルのコンクリートの床について東電は70センチは壊れたが30センチは大丈夫と言うが、近寄ることはできず測定器もない。この床を突き抜ければ防壁はない。危機的状況が続いている。 ■「原発」とは ■除染とがれき処理 私が最も訴えたいのは、事故に何の責任もない子供たちを守ることだ。校庭など子供が集中的に過ごす場所の土は必ず取り除き、東電の敷地にお返しするのが筋だ。 政府はがれきの広域処理で、各自治体に、現行の焼却施設で燃やしたうえで猛烈な放射能の塊となる焼却灰を処分させようとしている。放射能は隔離し閉じ込めるという原則に反する。汚染地に専用の焼却施設を作って処理するべきだ。だが、政府の無策の結果、福島を中心とした汚染地にがれきが取り残されたまま、現在も子供たちは被曝を続けている。もはや子供全体の被曝をどう減らすかしか選択の道はなく、全国の自治体が引き受けるしかないだろう。 それには二つの条件がある。一つは放射性物質が外に出ないフィルターなど特殊な装置必ず増設すること。もう一つは、焼却灰は各自治体が勝手に埋めるのではなく、東電に返すこと。福島第1原発の事故処理には膨大なコンクリートが必要で、その部材にすればいい。 http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311
どれだけの人がいるのだろう?
いるかが好きな人、猫が好きな人、カエルが好きな人を合わせただけでもどれだけの数になるのだろう。きっとそれだけの数の人は環境を壊すあらゆるものに反対だろうと思う。文学に浸り、音楽に耳を傾け、哲学を語る人もまた合わせればどれだけの数になるのだろう。きっとそれだけの数の人は戦争や差別や憎しみに対して反対するだろうと思う。何かを好きになると言う事は自由の価値に気づくと言う事。何かを大切に思うことは自分のエゴイズムに気づく事。海も山も川も湖も美しいままに保たなければならない。海を愛する人、山を愛する人なら誰でも思うはず。放射能などで汚してたまるものかと思うはず。 そう思う人の数を合わせたらいったいどれだけの数になるのだろう。心の時々に姿を変える月に思いを馳せ、無数の星に無限の神秘を感じる人たち。そんな人たちを合わせたらいったいどれだけの数になるのだろう。そしてそんな人たちなら地球の価値がわかるはず。そんな人たちの総数は決して少なくはないと思うのだけれど、少数と感じるのは何故だろう。声なき思いが堆積して、思いなき声が席巻する社会。堆積した思いがじわじわとあふれ、思いなき声がしぼむ時、世界はもっと笑顔に包まれ、きっと月も心から微笑むのだろうと思います。
原発を止めれない事情、大違いの日本とアルメニア
1988年12月7日アルメニアで起こったスピタク大地震。マグニチュード6.9、震源地から75キロメートル離れたメツァーモール原発では5.5の揺れを観測していたが震度6以上で自動停止するよう設計されていた原発は停止する事なく運転されていました。しかし地震の際に原発からスタッフが逃げてしまい、原子炉加熱の危機も生じていたといいます。それにしてもメツァモールの原発風景と日本の原発風景の差にもショックがあります。福井にしても福島にしても大間にしても日本の原発の立地は海の幸、野山の幸に恵まれた風光明媚なところばかりです。 それでも原発を止めれない事情。自然資源も乏しく財政難の国にあってはエネルギー変換の純コストが安く石油やガスなどのように国際的な要因に左右されるエネルギーに頼れないと言う事情はよく分かります。ウクライナとロシアのガス紛争を見れば分かりますが、資源国、大国の影響を受けざる得ない化石燃料より原発に依存する国内事情はどうしようもない部分もあると思います。それでも各国の未来、人類の未来を考えるならばあらゆる政治問題を平和的に解決し、再生可能エネルギーのシステムが確立するまで原発以外のエネルギーを効率よく使ってしのがなくてはなりません。(原発に必要なウラン資源は化石燃料資源より乏しいと言う報告もあります)そしてその先陣に立たなければいけないのは日本やドイツなどの先進国です。
日本には豊かな自然があります。 太陽、地熱、海洋、河川、風。反面恐ろしい地震が多発する国でもあります。世界の主要地震の1/10が起こるこの国で原発を54基もつくって来た過去はあまりにも非科学的で無責任ですが、その反省を強く肝に銘じて未来に向けて歩まなければなりません。日本とアルメニアの国情は大違いです。まず経済力があります。恵まれた自然環境があります。最新の科学技術があります。そしてすでに火力、水力などの代替エネルギーは揃っています。原発につぎ込んだお金を早い時期に自然エネルギー開発に向けていれば化石燃料によるエネルギーさえ減らす事が可能であったに違いありません。そして何より先進国としての正しいエネルギー政策の見本を世界に知らしめる事もできていたはずです。後進国のシステム援助、指導、など未来における産業としても大きく飛躍し、日本はもっと潤っていたはずです。「日本は世界の中でもっとも原発をつくってはいけない国」だと思います。国是に非核三原則を持ち、地震が多発し、人口が密集し、豊かな自然(資源)があり、経済力があり、科学技術力があります。そして同じ理由で「日本は世界でいち早く再生可能エネルギーの実効性を実感できる国」になれるはずです。 日本が原発を止めれない事情は明らかにアルメニアやウクライナとは違います。日本の場合は政治と経済界の歪んだ構図です。政・官・業・学の間違った癒着です。経済や競争に溺れた日本の社会構造のあり方が原発マネーを必要としているだけなのです。反対に考えれば原発を止めれば日本のある部分の腐敗が取り除けると言う事です。 原発を正しく言えば「海あたため装置」だ
「今日百万キロワットと呼ばれる原子力発電所が標準的になりましたが、その原子炉の中では三百万キロワット分の熱が出ています。その三百万キロワット分の熱のうち百万キロワットを電気にしているだけであって、残りの二百万キロワットは海に捨てています。私が原子力について勉強を始めた頃、当時、東大の助教授をしていた水戸巌さんが私に「『原子力発電所』と言う呼び方は正しくない。あれは正しく言うなら『海温め装置』だ」と教えてくれました。 三百万キロワットのエネルギーを出して二百万キロワットは海を暖めている、残りわずかの三分の一を電気にしているだけなのですから、メインの仕事は海温めです。そういうものを発電所と呼ぶこと自体が間違いです。その上、海を温めるということは海から見れば実に迷惑なことです。海には海の生態系があって、そこに適した沢山の生物が生きています。百万キロワットの原子力発電所の場合、一秒間に七十トンの海水の温度を七度上げます。日本にある、一秒間に七十トンの流量を超える河川、それぞれ巨大な河川であることはわかって頂けるはずですし、日本全体でも三十に満ちません。 原子力発電所を造るということは、その敷地に忽然として暖かい大河を出現させることになります。また、七度の温度上昇がいかに破滅的かは、入浴時のお湯の温度を考えれば判るでしょう。普段入っている風呂の温度を七度上げてしまえば、決して入れないはずです。しかも、それぞれの海には、その環境を好む生物が生きています。その生物からみれば、海は入浴時に入るのではなく、四六時中そこで生活する場です。その温度が七度も上がってしまえば、その場で生きられません。 ライフサイクル全体を評価したと言ってる原子炉推進派の評価では、この温排水についての考慮はありません。地球上の二酸化炭素の大部分は海水に溶けており、 1秒間に70トンだとすれば1分間で4200トン、1時間で25万2000トン。1基の原発が1時間稼働すれば10トントラック2万5200台分の海水が7度も温められるって、多すぎて想像できません。」 詳しくは2007/11月のエコ&ピースActioの記事を見て下さい。「海あたため装置」以外にもなるほどと思う話が掲載されています。
記憶と忘却
17年経った今この時も心の傷が癒えない人が多くいらっしゃると思います。不可抗力な自然災害ですが、そこには何時も、特に予知科学や技術力が進んだ近代においては自然災害に混じって「人災」の二文字が絡みます。防げたはずの事故や災難。阪神淡路の震災直後もこの「人災」については重大な問題がいくつか浮上するだろうと思っていましたが、構造的欠陥に疑問が湧く高架道路やビルの倒壊原因も究明する前に撤去してしまって、証拠隠滅の感がありました。闇から闇、忘却の彼方へ。震災に限らず戦後の日本が取ってきた基本的な姿勢です。そんな基本があってたまるか、とは誰でも思うはずですが過去の事件事故を振り返れば「うやむや」のうちに終わってしまったことが多いのは事実です。そして今回の過去もっとも恐ろしい「人災」である原発事故。震災当初に放射能の危険があるために近寄れず助けられたかも分からない命もあったはずですし、放射能からの避難で負荷がかかって亡くなったお年寄りもいます。汚染された土地に絶望して自殺した農家の方もいます。適切な判断がなされず、避けれたはずの被曝を受けてしまった人も多くいて、それは10ヶ月も経った今なお続いています。国内外の見識ある科学者が避難させなければならないと言っている場所に、未だ多くの人が暮らしています。今回の事故に至る経緯と事故後の対処は「人災」というより「犯罪」と言う方が的確な気がしてなりません。 地震大国日本に54基もの原発をつくってきたことは、戦後日本の権力者が犯しては闇に葬ってきた犯罪の集大成、無責任の象徴ではないかと思うのです。ただし決定的なことは今までのように「うやむや」では終わらないと言うことです。放射能汚染は「証拠隠滅」出来ないものです。この先、被曝と病気の関連性が疑われる症状が出た時に、因果関係を「うやむや」にするだろうと言う姿勢は現状を見ると明らかですが、医学も科学も進歩していますから、隠蔽も言い逃れもきっと難しくなります。今なお汚染が続き、環境と食品を通しての内部被曝が避けられない現実はもうどうしようもないけれど、せめて国策として子どもや若者の被曝を可能な限り減らす努力を、あらゆる案件に先んじて全力でやらねば後悔ではすまない未来になります。記憶が忘却とならないのが「原子力事故」の特徴であり、もう決して原発を稼働させてはならない理由なのです。 物理的に生きることと精神的に生きること
アフリカや中東で今この時も物理的な死に直面している人たち。懸命に生きようとする自己防御本能さえ意味をなさず、内戦による殺戮や飢餓の中でかけがえのない命が失われている現実があります。物理的に生きることすら叶わない不条理な現実があります。精神的に生きるなどと言う言葉さえ無意味で厳しい現実があります。では、日本はどうでしょうか。他者を思ったり、自然を思ったり、未来を思ったりする基本的条件、物理的「生」がそこまで圧殺されているでしょうか。僕はぜんぜんそうではないと思います。むしろ精神的「生」がないから物理的「生」が脅かされていると思うのです。明らかに間違っていること、明らかに人間的でないこと、それを判断するぐらいの物理的余裕は多くの日本人が持っているはずです。持っていないのは、失ってきたのは精神的余裕です。精神的価値観です。目に見えない形のないもの、でも人間をましな生き物足らしめる大切なもの、いっぱいあります。気品、意志、温情、理性、勇気、名誉、誠実、自信、思慮、叡智、正義、忍耐、節制、芸術性・・・まとめて言えば「やさしさ」です。 物理的に生きることを達成した国なら「精神的に生きる国」を目指さなければいけません。でなければ、物理はとどまることを知りませんから、競争は激化しもともとふんだんにある資本はますます偏って結局、エゴイズムだらけの格差社会、とても先進国とは呼べない惨状になるのは目に見えています。何故見えるかと言えば、すでにその傾向があるからです。これからの日本が教育を含め改めなければならないこと、それは1つしかありません。物理的生き方が補償されて、戦争とか内紛とか暴動とかがない間に、精神性を高めることです。ヒューマニズムを培って揺るぎない社会を構築することしかありません。原発などなくても問題ないのは分かっていますし、競争社会や格差社会など間違っているのも分かっています。そのような方法はもう要らないのです。1人1人が賢くなり、勇気を持ち、やさしくなるためにどうしたらいいか、それだけを親も、施政者も、教育者も考えればいいと思うのです。いくつもの方法があります。まず馬鹿な競争社会をなくすることです。それぞれの分野で本当に優秀な人は自由で垣根のない教育現場さえつくれば必然的に育ちます。優秀の対価としてお金や地位など何ら関係のない風土をつくらなければなりません。何故ならすでに日本は全員が物理的に生きれるだけの土台があるのですから。それぞれの生き甲斐、それぞれの喜び、十人十色、千差万別の人が、まず私は人間だと誇れるような精神性を育てなければならないと思うのです。
1人の人間としての抵抗「あさこはうす」の今 2012/01/10 以前テレビで青森県の大間原発近くに暮らす女性が電力会社や原発見返りのお金目当ての住人からの嫌がらせや買収にもめげず小さな小屋を立てて、必死に抵抗している状況を取材した番組がありました。その後気になっていたのですが、先日友人から現状をネットで知れると聞き、サイトを開いてみるとあまりにも酷い状況がありました。立ち退かない自分の敷地回りをぐるっと柵で囲まれ、非人間的な状況に追いやられています。無言の圧力と圧迫で追い出そうと言う意図が見え見えで、原発の悪の側面があからさまに出ています。郵便物が届くだけでも励みになるとサイトに書かれていましたので、さっそくハガキを出しましたが、出来ることなら現地へ行って励ましてあげたい気持ちです。 A Woman Refuses to Give In to A New Nuke Plant/あさこはうす 脱原発の日のブログに紹介されている文章です。 「テント村では、青森で新しく稼動されそうな大間原発に、たった一人で抵抗していたおばあちゃんの遺志を継ぎ、抵抗を続けている「あさこ はうす」のお母さんとお孫さんが、必死にアピールしていました。「おばあさんは、どうして原発の危険を知ったのですか」と質問したら「母は、放射能とか難しいことは、分りませんでしたが、原発がくれば、海の温度が高くなり、魚たちは、生きてゆけず、漁業もやっていけないと推論したようです。」と応えておられました。きっと祝い島の人たちと同じように直感したのだろうと思います。原発技術者や御用学者に欠けていたのは、この素朴な直感だったと思いました。 いま「あさこ はうす」に通ずる道路を電源開発J東北パワーは、閉鎖しようとしていて、毎日、交通量をチェックしているそうです。だからこの道が、車のよくとおる公道であることを示したいそうです。そこで郵便局の車が毎日通れば、道路が閉鎖されないだろうと考えて、「あさこ はうす」宛てに、激励のはがきを送ってほしいとのことです。カンパの意味で、はがきを買ってきたのですが、もうなくなってしまいました。普通のはがきでもいいから、どうか「あさこはうす」宛てに、げきれいのはがきを出してあげてください。長々と書いてきましたが、実は、このメールの主要な目的は、「あさこ はうす」宛てに、激励のはがきをだしてほしい、というお願いです。」 039−4601 紹介した内容を知って感ずるところがあるならば
これだけの被害が出て
人間であるならば
ほんの数十年でこれだけ変わってしまうとは思いもよらなかったけれど、地方の過疎化と衰弱がなければこれだけ無謀な原発が造られることはなかったのにと思わずにはいられません。子どもの頃から慣れ親しんだ美しい環境に気味の悪い原発などおそらくほとんどの住民は造りたくなどないはずです。経済的貧窮と地域の空洞化でなんでもいいからお金が落ちて少しでも地域が潤い、生活が楽になればいいと思う一部の住民の人と、原発は安全だと言うプロパガンダと地元にこれだけのお金が落ちるんだと言う誘惑、しかも反対派の住民にはあの手この手の買収と脅しまでかけて造ってきたのが原発です。大量に電力を消費する東京こそ原発が必要なのだから都内に原発を造ると言ったら誰が賛成するでしょうか。 それだけ危ないと言うことをどこかみな感じているはずなのです。ならば地方の人だって同じです。地方を弱らせておいてお金と嘘と脅しで強引に事を進めるなど民主国家のやることではありません。でも、54基もの原発が造られてしまいました。懸命に阻止しようとした人たち、何十年にも渡って原発のもついくつもの問題点に警鐘を鳴らし続けて来た人もいるのだけれど、結局国民はその真実を知らされず理解することもなく福島の原発事故が起こってしまいました。放射能汚染と言う取りかえしのつかない事故です。後は汚染された環境とどう向き合うか、少なくとも子どもたちへの影響をどう少なくするかを一時も早く答えを出し実行するしかありません。もちろんもう一度このような事故が起こればどうなるかもう誰もが分かっているのですから、残りの原発を稼働させることなくできるだけ早く廃炉にすることも必要です。 科学的にも道義的にも原発は造るべきでないと言う結論は出ています。経済的にも原発コストの嘘は明らかになりました。電力不足の不安をあおる手ももう通じません。現状でさえ発電力が余っていることも周知の事実ですから。足りないように演出しているだけだと言うことはもうみんなうすうす分かっています。節電の効果も分かっています。後は効率のいい安全なガスタービンなどで電力を調整しながら、ハイピッチで自然エネルギーの開発を進めるだけです。原発ありきの間違ったエネルギー政策で30年も遅れをとっているのですから。それにしても原発さえなければ日本はもっと活性化していただろうし、こんな恐ろしい事故はなかっただろうし、ことごとく残念無念です。それでも同じことを繰り返すことだけは人間ならやめなければいけません。自然界を守るために、子どもたちの未来を守るために。 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。
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