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2011
■ドイツ放射線防護協会からの提言 ■次のシーンを想像しよう ■平和さえあれば ■乏しくはない日本の資源 ■過去の火と違う原子の火 ■幼少の記憶と永遠性 ■心の栄養 ■あらゆる精神世界の人に ■馬鹿な連鎖を止めること ■人間の土壌 ■ヒューマニズムの問題 ■お金と嘘の固まりの原発 ■震災から5ヶ月 ■火星に水の痕跡 ■広島原爆投下から66年 ■小さなカエルの存在感 ■新世界と串カツ ■想像力の欠如と破壊 ■心理と物理時間 ■もっと知るべきだった ■知らない危険 ■原発労働者の死 ■未来のために ■自然エネルギーがもたらすもの ■ヨーロッパの事情 ■原発とエネルギー社会 ■次のシーンを想像する ■赤い風船が町に浮かび ■知れば知るほど ■原発事故用ロボット幻に ■自衛隊とレスキュー隊 ■分業と専門化への危惧 ■原子力発電の前に ■過去の原発事故

小さなカエルの存在感


一ヶ月ほど前の事、庭の草の間を何やら小さな生き物がぴょんと飛びました。眼を凝らして見るとどこから来たのか小指の先ほどの小さなカエルが草の間にちょこんと座っています。おたまじゃくしから変化してまだそう時間が経っていないような小さなカエル。何とかこの小さな庭に居着いて成長してくれないものかと念じて以来毎日、小さなカエルをおどかさないように気をつけながら観察するのが日課になりました。

2.3日探しても見つからない時はやっぱりここでは無理なのかなと落胆したとたん又ぴょんとはねてすまして座っています。カエルは成長してもう親指ほどの大きさになっています。見れば見るほど不思議で愛らしい生き物です。カエルは自然環境の状態を量る上でも重要な生き物であると聞いた事がありますが、日本でも水田が激減し、池や川の埋め立て、農薬や除草剤の影響でカエルは減りつつあって心配です。カエルが住みにくい環境は人間も住みにくい環境だからです。

ドイツでは1970年代にカエルの減少に自然環境の危機を見いだし、カエルを守ろうと言う動きが起こり、その運動は今も広く行われているそうですが、確かにカエルを守る事は自然環境への意識を高める事にもなると思います。カエルを交通事故から守るためにアウトバーンの下にカエルが通るためのトンネルが掘られたり、カエルの繁殖期にはドライバーに減速運転を求めるなどその意識は高いようです。今回のドイツの原発に対する意識の高さもどこかカエルと繋がっているようで考えさせられます。

 

 

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新世界と串カツ


通天閣界隈。屋台の串カツ屋や居酒屋と昔ながらの芝居小屋や映画館が往時を偲ばせるけど新世界独特の雰囲気はすっかり無くなってしまいました。天王寺駅から美術館へとつづく公園はたくさんの木が茂り、日陰には仕事にあふれた労働者や絵を描く人、歌や踊りで道行く人を楽しませる公園芸人が日常的にいた時代がありました。好奇心や冒険心の強い子供にとっては何とも魅力的な公園だったのです。美術館からつづく動物園より天王寺公園の方が面白いくらいでしたから、よほど面白い要素があったのだと思います。

その公園も役所の想像力のない施策ですっかり取り壊され後には味気ないデザインのしらけた公園ができて利用する人も疎らな状態です。浮浪者や路上生活者を閉め出す目的でやらかした事なのでしょうが、大阪の1つの文化エリアを壊したと言っても過言ではありません。公園界隈が様変わりしてから通天閣に象徴される新世界エリアも随分変わりました。ノスタルジックな喫茶店や洋食屋、大衆食堂に立ち飲み居酒屋など小さな個性ある店が連なっていた界隈はどこにでもある大型チェーン店に取って代わられ情緒はなし。もともと新世界にはづぼらやぐらいしか大きい店はなかったのです。京都や神戸の上品好みの友達を新世界に連れて来て驚かす事ももう出来なくなりました。

「滅茶苦茶柄悪いと思ってたけど案外いいとこだね」とか「いくら何でもこれは安過ぎるよ」「でもほんとうに美味いよ」とか「あの店の大将は変わった人だね、殺されるかと思ったよ」とか笑いとカルチャーショックを与えられる場はもうありません。久しぶりに昔からある串カツ屋に入って「瓶ビール」それと「牛2本と玉葱と椎茸」と言っては見たけれど串カツの味もソースの味も客の雰囲気も記憶にあるものとは違って、このたった10年の新世界激変にしばし呆然とした一日でした。

 

 

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想像力の欠如と破壊


1997年の4月に断行された諫早湾の締め切り。海外でも反環境的蛮行だと非難された干拓事業です。当時テレビ、新聞でもかなり問題にはなったのですが日本の世論は蛮行を阻止する事は出来ませんでした。利権にまみれた推進派の政治家、役人、企業、御用学者の言い分はひどいものでちょっと想像力のある人間なら「それは嘘だろう」と見破れるものでしたが、強欲と厚顔の前に有明の美しい自然と命の多くが奪われました。あのギロチンのような水門が落とされて行く光景には多くの人が眉をひそめたはずです。その後の有明海異変はあまり報道されていませんが年々ひどくなると言う現状です。一度*検証「諫早湾干拓事業」と言うホームページをご覧下さい。

今回の原発事故後に報道された幾つもの事実、そして現在進行形の深刻な放射能汚染問題に対して今だ事実を直視せず「電力不足」だとか「原発の安全性さえ確保できれば」と言う学者や評論家が後を絶ちませんが、彼らの頭の構造はどうなっているのでしょう。無知なのか頭が悪いのか利権構造に組み込まれているのか解りませんが、どちらにせよあまりにも非人道的な感覚です。友人の1人が怒って「そんなに原発を守りたいなら福島原発で文字通り命がけで作業する人々に混じって作業しろ」と言った言葉はもっともです。自然環境を破壊し人の命のみならずあらゆる命を危険におとしめるような行為はどんな理由があっても許されるものではありません。それ以上の優先順位はないからです。

 

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心理的時間と物理的時間そして宇宙的時間


人生の時々に「時間は本当に同じ長さで流れているのだろうか?」そんな疑問にかられた事はないでしょうか。常識として知っている1時間、1日。それでも1時間が随分長く感じられたり、逆に1時間があっという間に過ぎ去ったり・・・数ヶ月が数日のように感じられたり。もしかしたら人間の時間感覚は予定や時刻表、勤務時間や時間給のような現実的尺度によってある種むりやり形成させられているものかも知れません。太陽が唯一の時計であった時代。

夜が明けて陽が沈むまでそれぞれの時間感覚は1人1人みんな違って固有の時間を感じて生きていたような気がします。今でも「この時がいつまでも続いてほしい」「早くご飯がたべたい」などと言う主観的、肉体的欲求が時間を伸び縮みさせるのではないか、そう思う事は誰にでもあるはずです。

一定方向に一律に流れる時間。はたしてそうだろうか?太陽や星の運行を基準にしてきた時間は原子や結晶の周波数を基準とする方法に代わって1/100秒でさえ腕時計で計れる時代になりましたが、心理的時間や時間が伸び縮みすると言う宇宙的時間に関しては面白そうな事実がこれから現れて来るような気がします。過去、現在、未来。昨日、今日、明日。こことあっちとこっち。太陽と星と人間。自然界の動物や植物はみんなどんな時間を持っているのだろうかなどと考えると一匹のカエルの眼の奥底を覗きたくもなります。

 

 

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もっと知るべきだった


女優の吉永小百合さんが広島での原爆詩の朗読会のあいさつで「原子力の平和利用」と言う言葉を今まであいまいに受け止めてしまっていた。「もんじゅ」が恐ろしい事は聞き、廃炉に向けた運動はしていたが、普通の原子力についてもっともっと知っておくべきだったとして「世の中から核兵器が無くなってほしい、そして原子力発電所が無くなってほしい」と述べたそうです。(8月1日朝日新聞朝刊)

「もっと知るべきだった」と言う言葉は多くの人の気持ちを代弁しているのではないでしょうか。地震大国日本で54基もの原発をつくってしまった現実は変えようもないけれど「原発は核兵器と同じ危険性を秘めている。原発はなくすしかないと認識すべきだ」と言った第五福竜丸事件の際の乗組員だった大石又七さんの思いを未来に向けて国民全員が持つべき時が今だと思うのです。

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知らない危険


ジャマイカ、ハイチなどカリブ海諸国でつくるカリブ共同体は英仏から日本に返却される原発の高レベル廃棄物を積んだ船のカリブ海航行を止めるよう日英仏政府に要請しました。原発の使用済燃料の再処理を英仏に委託して来た日本に向けて1995年から高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)が海上輸送で返還されて来たことに対する反応です。福島原発事故を受けての不安や反発です。パナマ運河を通って輸送されている高レベル廃棄物ですが、観光など美しい自然環境を誇っているパナマ諸国にとっては万が一の事故やテロ攻撃などへの不安は看過出来ないものだと思います。

去年の11月にフランスの再処理施設からドイツの貯蔵施設に向かう放射性廃棄物の輸送列車の行く手を、原発反対派の数千人が座り込み運行を阻止した事件がありましたが、高レベルの放射性廃棄物がどこをどのようにして運ばれているのかを考えると不安がよぎります。放射性廃棄物の処理方法も見つからない中、原発が動く限り廃棄物は増え続けます。日本に戻される核廃棄物と日本で増え続ける「高レベル廃棄物」と「原発のゴミ」。低レベル廃棄物であるゴミは1969年頃までは廃棄物業者がドラム缶に入った廃棄物を沖合に捨てていたそうですが、そんな無茶苦茶な行為も今は出来なくなり、ドラム缶はすでに青森の六ヶ所村に数十万本もたまっているそうで、先が思いやられます。日常の生活ゴミにさえ処理に困っている現実なのですから。

処理方法さえ見つからない「高レベル廃棄物」に関しては想像するだけで恐ろしいものです。原発が動く限りこのどうしようもない現実は確実に悪くなります。行き場を失った放射性廃棄物が日本のそこかしこにある世界など誰ものぞまないはずです。ある程度危険は想像出来ても「明らかな危険」は事実を知らされていない以上感知出来ないところもあります。この未来へと長くつづく放射能の蓄積は国民1人1人が真実を知る努力を続けて意識改革しないと未来の子供たちがあまりにも危険です。

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原発労働者の死


沖縄県うるま市の喜友名正(きゆな ただし)さんは2005年3月悪性リンパ腫で53才で無くなりました。3年後に「原発労働がもとで死亡した」と労災が認められたそうです。正さんは高校卒業後、那覇市の電気販売会社で20年以上修理の仕事をしていました。94年に諸事情で会社を辞めてから職を転々としていた正さんは97年にハローワークで原発施設の配管を検査する仕事を見つけ妻の末子さんに話したそうです。医療事務をしていた末子さんは「放射線を浴びると病気になる」と反対したそうですが家のローンや長男の学資などでひっ迫していた経済のため一ヶ月で40万ぐらいを稼げる原発作業を決心し沖縄を後にしました。

以来北海道の泊、愛媛の伊方、福井の駿河原発などを転々とし検査器機を運んだり、データをまとめたり、防護服とマスク姿で配管が張り巡らされた区域にも入りました。そして04年3月、沖縄に帰っていた正さんの顔の右半分が突然殴られたように腫れました。病院で緊急手術をしたものの医師は「治療しても助かる確率は50%です」と家族に告げました。その後正さんはあちこちに口内炎ができ、食事もろくにとれなくなり70キロの体重は47キロ迄減りました。1年近い闘病生活の末正さんは息を引き取りました。6年余りの間に8つの原発施設で累計99ミリシーベルトの放射線を浴びたと言います。(2011年8月1日付朝日新聞記事「核の時代を生きて3沖縄より抜粋)

何とも痛ましい話で、原発がいかに非人間的な装置であるかがよく分かると同時に怒りが湧いて来ます。誰かが放射能の犠牲にならなければ通常の運転も出来ない原発。過去に一体どれぐらいの作業員の方が犠牲になっているのかを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。作業員の人たちに放射能の怖さが本当に知らされていたのだろうか?と言う疑いは拭えません。世間を安全神話の嘘で洗脳したように、即命に関わる現場の人たちに対して完璧な安全策が取られていたとはとても思えません。

累計99ミリシーベルトは規制で認められる範囲の線量ですが「悪性リンパ腫を発症しうる量」だと放射線の専門家は指摘します。

のべどれだけの原発作業員の人がいてどれだけの人が命に関わる、あるいは健康を害する被曝をしたのかは分かりませんが、かなりの数に上るであろう事は想像がつきます。にも関わらず厚生労働省によると「被曝により病気になった」と労災認定されたのは1976年以降たったの10件との事。因果関係の解明が難しい放射線被曝ではありますが、これは明らかにおかしいと思わざる得ません。正さんのような悲痛な結果で亡くなったり苦しんでいる人は大勢いるのではないかと思うのは当然の事です。

原発の嘘が明るみに出るにつれ、安全性はもとより経済性そのものが嘘だと言う事も分かって来ました。危険で非人間的でコストが高くて将来性もない。これが原発の正体です。そんなものに命をかけさせられた作業員の人たち。そして今回の福島のような事故が起これば放射能汚染の脅威から誰1人逃げる事は出来ません。出来る限り早く、全ての原発の廃炉に向けてのシナリオを作り実行して行く事が犠牲になった多くの方々の無念に対する唯一の鎮魂ではないでしょうか。

 

 

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未来のために


想像を絶する地震と津波で失われたかけがえのないもの。命、家、仕事、人間関係。それだけでも現地の人たちの苦痛は計り知れませんが、「人災」である原発事故が暮らし育ったふるさとの土地まで奪おうとしています。放射能汚染は大きく広がり、土壌、海、そしてそこに育つあらゆる生物を汚染して日本中の人々を内部被爆の危険にさらしています。

福島原発事故の結果はあまりにも危険で非人道的なものです。東京電力の経営者たちは全財産を投げ出して全ての被災者を救う一端を担わなければなりません。原子力村の人々、原発企業、原発を推進容認してきたマスメディアや広告代理店なども人間としての心があるならば深く反省して被災者救済に全力を尽くし、これからは人間として正しい行動を取るべきです。時間はかかるかも知れませんが、日本から世界へ脱原発の流れが伝播して行く事を切に願うものです。

 

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自然エネルギーがもたらすもの


2011/07/06  アメリカのワールドウオッチ研究所が「フクシマ後の世界の原子力」で自然エネルギー発電が原発を超えたとの研究報告書を出しました。原発の3つの嘘「安全」「クリーン」「安価」は周知の通りことごとく発覚して世界の意識は確実に自然エネルギーに向かうでしょうが、現地点で自然エネルギーが原発を超えたと言う報告は心強いものです。もともとこの地震が多発する小さな島国に54基もの原発を造り続けて来た異常さはそのまま日本社会の近年の構造を象徴しています。

今回のフクシマでの事故が起こる迄僕自身も心のどこかで「3つの嘘」を受け入れて来た部分もあって、反省して目覚めた部分はあります。自身少しずつ原発の事を調べて事実を知れば知るほど「心ある人間ならば、原発は是非の問題ではなくいかにして無くしていくか」だけの問題である事が解るはずです。

巨額のコストがかかり「高価」、核廃棄物の処理方法さえ見つからず、放射能の危険性は常にそして永遠にあって「ダーティー」、地震などの不測の事態に対して極めて脆い「危険」と言う3つの要素はもともと「解っていた」はずのものです。にもかかわらず巨額の事業を次々と進めて来た国と関連企業の策略はエネルギー問題ではなく、原発がもたらす金脈と権力への癒着以外の何ものでもありません。

地震や津波、台風にも見舞われる日本ですが、自然エネルギーを考えるなら日本の変化に富む立地は有効に思えます。海に囲まれ山があり川があり風が吹く条件は自然エネルギーのあらゆる可能性を秘めています。もしせめて10年ぐらい前に巨額の原発資金を自然エネルギーの分野に向けていたら、すでに世界トップクラスの自然エネルギー国になっていたはずです。

しかし現実は愚かな原発利権のグループが自然エネルギーの芽を摘み取るような事をしてきたわけですから、国政にも国民にも大きな責任はあります。今回のような取りかえしのつかない事故があって、やっと正気に返った多くの人々、もともと原発の危険性と非効率性を訴え続けて来た人々、今は意識ある人たち全てが正しいエネルギー政策を軌道に乗せなくてはなりません。

雇用の問題、景気の問題、そして何よりも人命と未来の子供たちのためにも自然エネルギー開発は欠く事の出来ない条件です。太陽光、地熱、風力、小水力、海洋エネルギー、バイオテクノロジーなど、自然エネルギーがもたらす産業活性効果は大きいものです。そして、自然エネルギーを開発する中で生まれる意識は科学とかテクノロジーが一体何のためにあるかをもう一度人類に知らしめてくれるように思うのです。

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ヨーロッパの事情


2011/07/02  福島原発の大変な事故が起こってから自然エネルギーへの関心が高まり、環境先進国の多いヨーロッパの情報が新聞紙上などで少し報じられるようになりました。北欧、ドイツ、オーストリア、フランス、スペインなどヨーロッパ諸国の電力事情や国策のあり方が少しずつ分かって来ました。社会福祉や教育のあり方など、日本がヨーロッパ先進国に比べ遅れているのは分かっていましたが、自然エネルギーに対する姿勢やビジョンも恥ずかしくなるほど日本は遅れていて、経済力も技術力も決してひけを取らないはずなのに、これは一体どう言う事なんだろうとあらためて日本の政治、企業、国民意識の偏狭さに愕然とさせられます。

確かにテレビやマスコミなどの報道姿勢はアメリカ一辺倒で、極めて偏った情報しか流していないのは事実です。アフリカや南米、中東諸国などの情報はテロや飢餓や民族紛争の断片的な情報しか流さず、その国がどう言う国なのかはマスコミに頼って生きている人にはほとんど現在の国情は分からないのではないでしょうか。そして比較的知っていると思っているヨーロッパ諸国の実情もまたマスコミはそんなに伝えていません。

テレビの報道番組を見ても芸術やスポーツなど社会のある側面は分かりますが、福祉や教育、政治のあり方など国の全容が分かるような番組はほとんどありません。映画にしてもハリウッドの映画は頻繁に放映されますが、イギリスやスペイン、ポルトガルやフィンランド、オランダの映画などはほとんど放映されず、日常においてはそれらの国の文化の香りにすら触れる事はまれです。実際ヨーロッパ各国と言うよりインドでもイランでも、奥深い文化芸術があってすばらしい映画もたくさん製作されています。

にもかかわらず日本ではテレビは言うに及ばず劇場で観ようと思っても、ハリウッドや流行の日本映画のようにロードショーもされず上映されている劇場を探すだけでも苦労すると言うのが現実です。こんな映画がテレビのゴールデンタイムに流れたら、少しは意識が変わるのではないだろうか?などと思う映画はたくさんあります。それにしてもヨーロッパの現実を何故に知らさないのだろうか?とは20年ぐらい前からずっと思っていました。自分なりに考えた1つの答えは、やはり同じ先進国を自負する日本政府としては、ヨーロッパの現実を知らしめると都合が悪いからと言うのがあるのではないでしょうか。

社会福祉にしても、環境問題にしても、経済の捉え方にしても、明らかにアメリカとは違うヨーロッパの現実をつぶさに知れば国民の意識が変わってしまい、それはアメリカ的資本主義にとって都合が悪いからだと言うのが1つの答えです。実際影響力の強いテレビは大企業がスポンサーである以上、ある種の規制や操作は容易に想像出来ます。それは政府にとっても同じ事で国民が賢くなれば政策や社会的矛盾に目が行きますし、同じ先進国であるドイツやフランスやイタリアなどと比べられたら困ると言うのもよく分かります。それでも国民1人1人が賢く正しく強くならなければこれからの時代、日本が後退してしまうのは必然です。

そろそろ理念ある政治家、道徳心のある企業家、そして勇気あるマスコミ関係者が正しい情報を伝える時期ではないでしょうか。今回の未曾有の震災と原発事故を受けてこの国の意識は少しずつ変わりつつあります。それでもマスコミを通じて流される情報は非常に断片的で偏っている現実はあります。心ある有識者や出版社の勇気ある報道のおかげで、マスコミも極端な情報操作は出来なくなっていますが、強大な力を持つ電力会社や関連企業の圧力はとても恐ろしいものです。

利権や利害だけで原発と言う破滅的な推進が出来るのだろうかと?どう考えても疑問は湧きますがそれが現実ですから、国民1人1人が正しい意識で連帯するしかありません。放射性核廃棄物の無害化はもちろん安全な保管すら出来ないと言う絶対的な事実があるのですから、原発の存続は是非を問うような次元ではありません。段階的に少しでも早く世界中の原子炉を止める事、これは今に生きる人間全ての義務だと思うのです。ヨーロッパに遅れをとるどころか日本が先陣を切って脱原発の姿勢を世界に示してこそ、日本人として誇りを持てるのではないでしょうか。

 

 

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原発はエネルギー消費を助長する

ドイツシュレーダー政権で環境相として脱原発政策づくりに携わったユルゲン・トリティーンさんの日本記者クラブでの会見の中で(17日)、発電時に二酸化炭素を出さない原発は温暖化対策に役立つのでは?と言う記者の問いに対して「世界の原発の1/4がある米国の一人当たりの二酸化炭素排出量は、日本の2倍でむしろエネルギーを無駄に消費する構造を助長する」と持論を述べました。10年前に4%だった再生可能エネルギーの割合が現在17%以上になっているドイツの環境相らしい言葉だと思います。実際アメリカ型の大量消費経済に追従して来た日本は電力不足とか電力需要ばかりを社会発展の基盤に置いて政策を取って来ましたが、それがもたらして来た大きな弊害、「エネルギーそのものを大切に考えない」と言う風潮が生まれて来たのも事実です。

「ものを大切にしない」、企業は消費をあおり、国民は本当にその「モノ」が必要かどうか考えずに購買してしまう。過剰広告、過剰包装、過剰生産、大量にものを消費しなければ社会の経済や景気が潤わないと言う構図はどう考えても大量のエネルギーを消費しなければ成り立たないと言う事です。しかも大量消費社会で潤うのは結局一部の資本家などの人間で多くの人は働けども働けどもゆったりした心持ちで生きれないと言うのが現実の日本です。膨大なエネルギーを消費して大量の消費社会がもたらしているはずの「冨」の多くが一体どこに消えているのだろうと考えてしまいます。

大量消費社会だから原発はいると言って来た嘘と安全だと言い続けて来た嘘。そして原子力はクリーンだと思わせて来た嘘。

二酸化炭素は出さないけれど、その発電システムのリスク、今回の福島のような事故が起こらなくても恐ろしい核廃棄物の問題は明らかで、そのリスクを負ってまで原発を推進して来たのは「大量消費社会」と言う背景があるからだと思います。今や多くの人が気づいているように、原発に代わるエネルギーの可能性は多岐にわたって幾つも考えられます。一つ一つのエネルギーの確立はまだまだ開発研究する必要がありますが、いくつかあるエネルギーシステムを複合して取り入れれば明らかに「段階的に原発は無くせます」

そして何よりも国民1人1人がエネルギーを大切に考え、節電に取り組めば、この盲目的な大量消費社会にもう一度目を向けて考えれば、エネルギー問題は解決するに違いありません。そして本当の豊かな世界は「その先に」あると僕は確信します。なぜなら
今の日本をちょっと見渡せば分かりますが、「大量消費」と言うのは一部の経営者や企業に過分な冨を集中させてしまうと言う事で、決して1人1人の国民が潤うと言う事ではありません。これはマクロ経済がもたらす功罪の「罪」の側面です。

大量に仕入れ大量につくればモノが安くなるのは誰にでも分かる資本主義経済の原理ですが、問題はその過程がいつの間にか「経済がモラルを押しやってしまう」と言うある種必然的な結果を作り出す事です。

もちろん一部には昔ながらのコンセプトで「いいものを人間らしく」作って成功している企業もありますが、それはほんの一部でかつ中小の企業です。大企業にそれが出来ないのはマクロと言う組織的構造的理由があるからだと思います。

おいしくて評判の個人的な飲食店が、店舗を拡大したり、店舗数を拡張したりした結果、もともとあった「味」や「品質」が損なわれて行く経過を身近に何度か見て来ましたが、それは経営者が決してお金儲けしか頭にないわけではなく、大きくした結果「そうなってしまう」のです。もしそうならなければ「倒産」してしまうのです。そうならない企業やお店は本当に貴重で立派だと思いますが、それはやっぱり少数で特別だと思わざる得ません。おそらく経営者の強固な人間的哲学と人一倍の経営力があるからだと思いますが、ほとんどの経営者はそうはいきません。ましてや最初から儲ける事が目的のような人間が企業を拡張すれば答えは明らかです。

大量消費社会、利益再優先の社会的側面が「原発推進」には深く関係していて、特にこの日本においての「エネルギー問題」の根底は複雑です。戦後復興のためになりふり構わず経済政策を優先して来たのは致し方ない部分もあると思いますが、復興がある程度なされて(世界でも屈指の経済国になった地点)からの日本のあり方には大いに疑問が湧きます。それぞれの地方、地域で培われて来たミクロ経済は自由化と言う聞こえのいい大波に一気に押しつぶされました。地方の現状を見れば一目瞭然です。まだ使えるモノは捨てられ、まだ住める家は取り壊され、十分に補強のきくビルは解体され、まだまだ乗れる車はスクラップにされます。全てエネルギー問題に関係します。

モノを消費しなければ経済が回らないとか潤わないと言う脅しのようなセリフはある特定の資本家側から考えた経済論で、国民1人1人の「ゆたかさ」とか、「生きるための本当の経済」は大量消費社会から生まれるのではなく、むしろ「少量消費社会」から生まれるのだと思います。と言ってもここ迄来た社会の流れを変える事は不可能にも思えますが、今一度「食を始めとする安全性(モラル)の問題」と「原発の問題」の根っこは同じである事を認識しなくてはいけないと思います。

マグロはおいしい魚だけれど世界の1/4を食べる必要はないでしょうし、アメリカに次いで多い自動車の保有台数も日本は7600万台(2005年)。地方の人たちや車で生業を立てている人の事は分かりますが、それほど必要ではないのに車を所有している人もかなりの数いるはずです。他にも消費に関しては考え直さなくてはいけない部分がたくさんあります。全ては「エネルギー消費」に関わるのですから。

エネルギーの無意識な消費は、人間の心の問題にも大きな影響があると思います。「物理的」と「精神的」と言う言葉があるのなら、エネルギー消費は「物理的」な事ですし、無造作な消費感覚は「精神的」感覚を駆逐してしまうからです。大げさな言い方かも知れませんが、1人1人が意識して「少量消費社会」を目指せば経済のバランスを立ち直らせるとともに「精神的社会」もまた復活するのではないでしょうか。

 

 

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次のシーンを想像する・・・・

2011/05/26  個人的にも社会的にも次のシーンを想像する事はとても大切な事です。しかしともすれば人は近視眼的になったり、短絡的になったりして次のシーンどころか周りさえ見渡せなくなることもあります。知識や情報をいくら取り入れても想像力が働かないと次のシーンは現れてこないものです。

環境、経済、健康、平和、多くの人がこうあって欲しいと望む未来はそんなにかけ離れてはいないと思うのですが、国や人種や宗教などのあらゆる垣根を超えた人間1人1人の意識や想像力が正しく働かなければ誰しもが望まない未来がやって来る事は歴史が幾度となく証明しています。

ただ科学技術が飛躍的に進んだ現代においては一部の心ない資本家や政治家、御用学者たちのモラルの低さが国や地球そのものさえ滅ぼしてしまう危険さえあるのが過去との大きな違いだと思います。

福島原発の事故はまさにその一端で、想像力の欠如とモラル崩壊が起こした事故以外の何ものでもありません。放射能の怖さはその影響が数年後、数十年後に及ぶ事を今ではほとんどの人が知っています。それどころか子供やそのまた子供にだって遺伝子レベルで悪影響が及ぶ事だって推察出来る事です。

しかもエネルギー問題に関しては太陽光や風力、波力や潮力など新たな水力の利用、地熱やバイオなどのテクノロジーを開発すれば原子力どころか現状の火力発電すら減らす事が可能です。それらの開発を失速させて来たのも原子力開発にあったのですからひど過ぎる話です。

地元の人々の雇用の問題がクローズアップされますが、自然エネルギーの関連施設、会社や研究所や工場を現地につくれば原発をはるかにしのぐ雇用が生まれるのも確実ですし、同じ収入を得るのなら「不安と危険がつきまとう」原子力より「安全で未来がある」太陽電池などの自然エネルギー関係に携わる方がいいに決まっています。

国民に対して原子力は安全でクリーンで効率のいいエネルギーだと思わせて来たけどそれが嘘だった事も今は分かっています。安全でクリーンなどとは問題外ですが原子力発電は巨大なコストもかかります。まして事故が起こればその費用は底なしです。それを国(国民の税金)がリスクを肩代わりするのも理不尽な話ですし、リスクを電気料金に上乗せするなんてのは電気会社の企業としての感覚が異常です。

物事を判断、決断するには正確な情報や知識が要りますが加えて想像力と人間としてのモラル、未来に対するやさしさが不可欠です。

誰もが願う平和でのびのびとした未来。1人1人のちょっとした意識の持ち方や日常の振る舞いが連鎖し積み重なって次のシーンが出来上がって行くのだと思います。絵や音楽を愛する人、天体や遺跡に思いを馳せる人、日々の仕事、日々の出会いを大切にする人、動物や自然を大切に思う人、そんな人達がジャンルを超えて今を考え、次のシーンを想像すれば未来はきっと答えてくれるのではないでしょうか。

 

 

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赤い風船が町に浮かび

2011/05/21  赤い風船がゆらゆらと道案内。僕のおじさんが買ってくれたドーナツをパクつきながら海の見える場所へと向かうと途中一人二人と仲間が増えて見ればそれは三銃士。道には愉快なピエロが球に乗りマンオンワイアーが綱渡りの練習。街には笑いが、みんなのいい表情には太陽がいっぱい。真っ白なヨット、グランブルーな海にはイルカがはしゃぎ、ノーチラス号もぷかぷかと浮かんでいる。

ネモ船長は甲板でパイプをくゆらせダヴィンチのグライダーを面白そうに眺めているけど飛ぶ人は必死でちょっと心配。いつも神経質なホームズも今日はご機嫌でワトソンも意外な表情をしているけど虹をつかむ男がダニーケイを連れてくれば全ては一件落着でポアロとルパンが将棋だってしてしまう。101匹のわんちゃんは踊る箒とじゃれあって、ロックベイダーはヤシの木と何やら相談。

ファンタージェンよりファンタジックでビートルズよりメロディアックなシーンが世界中を覆えば、戦争どころかいじめだって無くなってしまう。四面体の不思議な太陽電池。螺旋形の奇妙な風車。そう言えば原発とか言う原始的で危険なエネルギーを使っていた時代があったんだよと、ワニのゲーナがささやくけどチェブラーシカには意味も分からない。

科学とはなんだろう?ロマンとは何だろう?そして幸せとは何だろう?海を見ればイルカとネモ船長が銀河系の話をしていてダルタニアンはもっと勉強しなくてはと思ったりする。赤い風船がゆらゆらと道案内。そう人間には確かな道案内が必要なんだと誰もが空を見上げる。

人を育てるいい映画やいい本がこれだけたくさんあって、シューベルトからビートルズまで心を優しくする音楽だって無数にあってもし人間が植物だったら生き生きと葉を伸ばしまっすぐに育つだけの土壌は十分にあるのだけど、土壌汚染と同じような汚染が人間世界には蔓延していていい養分が吸収出来ない、そんな現実があります。それでも汚染に負けず生きている人は少なからずいて何とか人間はこうあるべきだと言う体裁は保っているけれど、時代が進むにつれ心持たない部分も確かにあります。

原子力は科学が進んだゆえに人類が扱えるようになったけど、それが安全に扱えるためにはまだまだ科学力は未熟でそれ以上に人間としてのモラルが先行しなければ悲惨な結果を招く事だけは多くの人が想像出来るはずです。

環境破壊や環境汚染を付随するダムや化石燃料による発電には限界があるのは分かりますが、だからと言って原発ありきではあまりに短絡的で危険な選択だと言うしかありません。永続可能なしかも地球環境に優しい自然エネルギーの利用はこれから加速するのは間違いありませんし、日本が原発開発に投じて来た巨額な資金の半分でも太陽光や風力発電の開発費にまわして来ていたら、おそらく日本はその方面で世界の先陣を切っていただろうと思います。過去20年、未来に向けて遅れをとってしまったけれどこれからは日本が世界の模範となるような自然エネルギー国とならなければ、核や放射能の危険はもとより、日本人としての心の汚染まで進んで行くような気がしてなりません。

 

 

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知れば知るほど

2011/05/20  1986年に起こったチェルノブイリ原発事故以降の日本の世論は世界と呼応して原発反対が推進を上回ったと86年の朝日新聞の世論調査にある通り日本もエネルギー政策の見直しが必然的に起こるはずでした。にもかかわらずその後の流れはまさに逆流し政府と電力会社の盲目的な原発推進で巨大なリスクが積み重ねられ巨額の資金が渦を巻いて現在に至ったと言うのは今回の福島原発の事故以来始めて表面化した幾つかの事実によって多くの人が認識したのではないでしょうか。

電力会社の圧倒的な広告宣伝費によって、原子力は安全だと言う虚像が作り出されて来たのはまぎれもありませんし、良識ある知識人の原発に対するまともな意見を封じ込めて来たのも事実です。もともと競争する必要のない電力会社が何故にあれだけ巨額の宣伝広告費を使うのか疑問に思っていましたが、それはやはりマスメディアに対する圧力と、原子力に対するあやまった安全神話を作り出すためでした。

マスメディア、特にテレビの持つ影響力の怖さは想像以上でコマーシャルや番組内容のあり方一つで国民は知らず知らずのうちに洗脳され誘導されてしまいます。企業の飽くなき利潤追求の有力手段としてメディアが利用されている現状にもやり過ぎの感を覚えますが、まして原子力などと言う徹底議論を重ね尽くしても足らないような重要問題をモラルの偏った政治家や電力会社、自分の狭い視野の中でしかモノを考えられない専門家たちが原発を推進するために巨資を持ってメディアを操作するのは犯罪的な行為ではないでしょうか。

「原発村」と呼ばれる利権と強欲と無責任の集合とも言える存在さえ僕は知らなかったのですが、知らない事は恐ろしい事だと痛感します。今回の福島原発の惨憺たる事態が原発を推進してきた関係者たちの良心を目覚めさせ、原発に無関心であったり、無関心にさせられて来た国民1人1人の意識を喚起させて、脱原発への流れが止まる事がないよう祈るような気持ちになります。

 

 

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原発事故用ロボット幻に


2011/05/14  原発事故での使用を想定し国が30億もの予算を投じて開発製造された遠隔操作用ロボットが、東京電力などが「活用の場がほとんどない」との理由で実用化されなかったとの朝日新聞の記事にあります。ロボットは2001年には完成していたと言うからあまりにも馬鹿らしい話です。廃棄処分された内の一部は東北大学に引き取られて1台が現在も仙台市科学博物館で展示されているとの事ですが、日立のマークの入ったロボットは写真で見る限り完成度も高そうです。

東電などの関係者で構成された「実用化評価委員会」は2002年12月に災害現場では人が作業出来るエリアは必ず確保されており、人が現場で作業する事が十分可能だとしてこのロボットを「原発などの災害で活用する場面はほとんどない」と結論づけたそうです。今回の福島原発の事故で地震から一ヶ月以上たった4月17日にアメリカ製のロボットが投入されたと言う流れを見ても、日本の原発事故に対する認識の甘さと危機への想像力のなさがあまりにも無さ過ぎます。

それにしても小出しに出て来る原発関連の巨額な費用実態を知るにつけ、これだけコストがかかるエネルギーを嘘と情報の隠蔽を重ねてローコストでクリーンなエネルギーなどとテレビを始めあらゆるマスコミで宣伝してきた東電も国も背景に何があるのかは定かではありませんがあまりに非人間的だと言わざる得ません。

原発を詳しく知る心ある学者や技術者が早くから原発の危険性に警鐘を鳴らし、代替エネルギーの開発を訴えて来たにも関わらず、それを真摯に検証しようともせず今回のような重大な事態に至った事は言い逃れなどできようもない事です。東電から巨額の研究費を貰っていた東大の学者の1人は(それは同時に口止め料でもあるのですが)自らが行って来た原発への関与を恥じて反省の弁を述べていましたが、原子力の恐ろしさを一番分かっているはずの当事者としてはあまりにも人間としてのモラルが低すぎます。

研究開発費や原子力発電は安全だと思い込ますための宣伝広告費。地元民を納得説得するための見境のない経費。原発システムの構築、建設費も巨額です。今回のようにひとたび事故を起こせば桁違いの費用がかかるのも事実です。そしてそれ以上に放射能廃棄物に対する費用があります。冷静に考えれば国が国民の税金で費用をまかなわなければとても東電が利益を得る事なんてできないように思われるのです。利益どころかもともと民間企業が採算の取れるようなエネルギーシステムではないような気さえします。にも関わらず現在に至る異様なまでの原発推進の流れについて今こそ国民1人1人がその実態を知り、そしてその背景に何があるのかを考えねばならないのではないでしょうか。

地震多発国日本。自然エネルギーを開発する技術能力も高い日本。世界で唯一原子力爆弾を投下され、放射能の恐ろしさを知っている日本。日本が自然エネルギーの効率的なシステムを次々と考案、実行し世界の国にその技術とノウハウを提供し世界中から原発を無くすような大志を持つのは日本としての使命ではないかと思うのです。国策として脱原発を進め、そして国民1人1人がそのバックアップをするような国にならないと日本も世界も未来はあまりにも危険で夢のない世界になってしまいます。

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自衛隊の一部をレスキュー隊に


2011/03/31  
恐ろしい地震と津波。3月11日午後2時46分ごろに起こった東北地方太平洋沖地震は恐ろしい津波の映像とともに一生消えない記憶となりましたが、20日経った今も津波の傷痕はなまなましく、被害の全貌がつかめないほど深刻な災害です。災害救助の手も、阪神淡路大震災の教訓があまり生かされたとは思えない対応で、ヘリコプターなど大幅に増強されたはずの災害対策装備がどれだけ機能したか、今現在機能しているのか疑問があります。も少し早ければ、も少し的確な対応ができていれば、多くの命が助かったに違いありません。

震災直後から「自衛隊5万人規模の動員」とかけ声はいさましかったのですが、ニュース報道を見る限り現地での自衛隊員の姿が見られるようになったのは日にちが経ってからのことです。最も活躍出来そうなヘリコプターにしても、新聞社やマスコミのヘリが取材を行っていたものの自衛隊機や警察、消防署、他県の自治体が保有する数百機はあるはずのヘリが活動していた様子はなく国民の多くが何故だろう?の気持ちを抱いたに違いありません。

おそらく緊急時の命令指揮系統の統一不足とレスキューと言う意味合いの訓練がなされていなかったとかいくつかの要因があるでしょうが、情けない限りです。直後の救命活動は難しいにしても孤立する人達への迅速な対応はヘリだったらできるはずです。在日アメリカ軍のおそらく報道を見て止むに止まれない気持ちからのパイロット単独の行動ではないかと思われるヘリ1機が孤立する避難所の校庭に着陸し物資を届ける様子がテレビに映っていましたが、避難所の多くは空からなら物資の支援はもっと迅速に行えるはずです。何かがおかしい

・・・阪神淡路の時の救急の遅れを教訓に組織された救急医療チームもヘリでいち早く現地へ入ったものの、自分たちの食料が確保出来ず無念にも引き返さざる得なかったと不満を押し殺したような表情でインタビューに応えていましたが、何故自衛隊のヘリや警察のヘリが医療チームの食料をアシスト出来ないのかあまりにも変です。

とにかく緊急時には普段縦割りの組織であっても一部を即座に組み替えて災害救助にあたるシュミレーションを幾度も実施訓練しておく必要があります。できれば自衛隊の2万人ぐらいをレスキュー隊として改編して日頃から訓練しておけばどれだけの人命が助かる事でしょう。自然災害、人的災害がこれだけ多発する時代において、それこそが国防ではないでしょうか。

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分業と専門化への危惧

2011/04/03  科学の本質そのものが進んでいるのかどうかはとても怪しい部分がありますが、少なくとも科学技術は加速的に進んでいます。コンピューターの演算能力の飛躍はあらゆる産業機械の驚異的な効率性をもたらし、ミクロからマクロまでの観察、探求に無限とも言える可能性を示唆しています。それは人間の労働力をはるかに超え、創造能力さえ超える域にまで達しようとしています。近い将来コンピューターが人間にその存在理由を問いかける時が来るのではないだろうかと言う恐ろしい思いさえあります。

逆に多くの人間は哲学的に廃退し、想像力を奪われ、複雑化した機械文明に乗っかるだけの単細胞的な生き物に堕落しつつあります。現代人と自称するけれど簡単な道具や農作物さえ自分で作れず、電気や燃料がなければほとんど無能、無力な存在になっているのが現実です。それどころか過去から伝承されて来た知識や技術さえ途絶えようとしています。過去の時代の人間より一体何が優れているのかそれぞれの胸に問いかけて見なければなりません。そう遠くない時代、まだ手の届く大正や明治の人間の創造した、科学、哲学、芸術を見ても現代より優れたものが多いのは明らかで、これだけ生活環境が整った現在が何故精神的に(創造的に)不毛なのかは強く再考する必要があります。人間は生きるための糧、豊かさを目指し、それが実現さえすればもっと博愛的になり賢くなるだろうと言う予測のもとに邁進して来た部分があります。けれど・・・

かっては駆け込み寺的なお医者さんがどこの町にもいて、病気や怪我のみならず人生のよろず相談までも請け負ってくれたものです。一般庶民より学識があって、体験があって、夫婦喧嘩さえ仲裁できる器量がありました。もちろん医者としての腕もかなりのもので付近住民の信頼はあつくその医院があるだけで安心感がありました。外科、内科、小児科、精神科、一通りの対応は的確に出来る腕と経験を持ったお医者さんです。

それは学校の先生にも当てはまる事で、絵の上手い国語の先生とか、楽器演奏の上手い算数の先生なんかがいて、生徒の悩み相談どころか生徒の家庭が持つ悩みさえ受け止めるだけの器量を持った人も少なからずいたものです。近所には学校もろくに出ていないのに物知りなじいさん、ばあさんがいて子供が感じる疑問に的を得た答えをおもしろおかしく教えます。代々の伝承と長い実体験から得た智慧は教科書と違った説得力があって、一度聞くとなかなか忘れないものです。違う視点から見れば出るかも知れない可能性。どんなジャンルにもそれはあって、極度な分化、専門化は発想の可能性を大きく妨げてしまいます。

個人の能力を専門、特化しないと最先端世界に追いつかないと言う現代の事情はありますが、その弊害が現代社会の脆弱さをもたらしている以上、そろそろ考えを改める時期に来ているのではないでしょうか。

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原子力発電の前に

2011/05/06  人類が原子力を安全に活用するためにはまだまだ科学力とモラルが不足しています。過去の原発事故を見ても原子力がどれだけ危険なものかは誰でも分かるはずです。平和利用などと言う言葉がどれだけ虚しく短絡的であるかはチェルノブイリの事故やスリーマイル島の事故を見れば明らかです。原子力は人類がもっと宇宙の摂理や科学の深淵を理解、認識してから始めるべきです。巨額の開発費、建設費に加えて放射性廃棄物の処理にかかる費用も甚大でかつ安全な廃棄方法も不確実性があり、未来における不安をぬぐい去る事は現状の科学力では解決出来ていません。累積した放射性廃棄物が未来に及ぼす影響を考えると不安要素は未知数であまりにも危険が大きすぎます。

そして何より現代の科学力で十分に開発、利用出来る自然エネルギーがあります。太陽光、風力、そして水のエネルギーは原発にかかる費用をその研究開発に充てれば近い将来すばらしいアイデアが出て来る事は十分に予測出来ます。実際、現状の太陽光発電や風車などに改良を加えるだけでもかなりの電力は補えますし、水力発電もダム以外の方法(潮流や波のエネルギーなど)も考えられます。他に地熱の利用とかバイオテクノロジーとか、各分野の研究者が目的を共有すれば一気に加速して安全で経済的で不変のエネルギーを得る事が出来ると思うのです。それまでは無理のない節電だって日本においてはまだまだ出来ると思いますし、自然エネルギーに向かってのシフトは今やらなければ遅きに失するのではないでしょうか。

原発にまつわる情報は国民が判断するにはあまりにも少なくて(テレビや新聞の情報は操作されているとしか思えないほど僅かです)安全とかクリーンだとか、とても真実だとは思えない情報が多く流されて来ましたが、今回の福島原発で露見したように安全などと言う言葉はまちがっても口に出来ないのが原子力発電です。未来に向けて原子力の研究は不可欠だと言う事は理解出来ますが、代替エネルギーの可能性が大きくある以上、原子力発電は段階的に廃止するのが賢い選択だと思います。原子力は人類がもっと賢く、利権や欲得などの低モラルから脱した時に再度取り組むべきエネルギーだと思います。

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日本における過去の原発事故(wikipediaより抜粋)

1973年3月 関西電力美浜発電所燃料棒破損
美浜一号炉において核燃料棒が折損する事故が発生したが、関西電力はこの事故を公表せず秘匿していた。この事故が明らかになったのは内部告発によるもの。

1974年9月1日 原子力船「むつ」の放射線漏れ事故
1978年11月2日 東京電力福島第一原子力発電所3号機事故
日本で最初の臨界事故とされる。
戻り弁の操作ミスで制御棒5本が抜け、午前3時から、出勤してきた副長が気付きゆっくり修正し終わる10時半までの7時間半臨界が続いたとされる。

1989年1月1日 東京電力福島第二原子力発電所3号機事故
原子炉再循環ポンプ内部が壊れ、炉心に多量の金属粉が流出した事故。レベル2。

1990年9月9日 東京電力福島第一原子力発電所3号機事故
主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。レベル2。

1991年2月9日 関西電力美浜発電所2号機事故
蒸気発生器の伝熱管の1本が破断し、非常用炉心冷却装置(ECCS)が作動した。レベル2。

1991年4月4日 中部電力浜岡原子力発電所3号機事故
誤信号により原子炉給水量が減少し、原子炉が自動停止した。レベル2。
1995年12月8日 動力炉・核燃料開発事業団高速増殖炉もんじゅナトリウム漏洩事故
2次主冷却系の温度計の鞘が折れ、ナトリウムが漏洩し燃焼した。レベル1。この事故により、もんじゅは15年近く経った2010年4月まで停止を余儀なくされた。

1997年3月11日 動力炉・核燃料開発事業団東海再処理施設アスファルト固化施設火災爆発事故
低レベル放射性物質をアスファルト固化する施設で火災発生、爆発。レベル3。

1998年2月22日 東京電力福島第一原子力発電所
第4号機の定期検査中、137本の制御棒のうちの34本が50分間、全体の25分の1(1ノッチ約15cm)抜けた。

1999年6月18日 北陸電力志賀原子力発電所1号機事故
定期点検中に沸騰水型原子炉(BWR)の弁操作の誤りで炉内の圧力が上昇し3本の制御棒が抜け、想定外で無制御臨界になり、スクラム信号が出たが、制御棒を挿入できず、手動で弁を操作するまで臨界が15分間続いた。点検前にスクラム用の窒素を全ての弁で抜いてあったというミスと、マニュアルで弁操作が開閉逆だったと言うのが、臨界になる主な原因。

2004年8月9日 関西電力美浜発電所3号機2次系配管破損事故
2次冷却系のタービン発電機付近の配管破損により高温高圧の水蒸気が多量に噴出。逃げ遅れた作業員5名が熱傷で死亡。レベル0+。

2007年7月16日 新潟県中越沖地震に伴う東京電力柏崎刈羽原子力発電所での一連の事故
同日発生した新潟県中越沖地震により、外部電源用の油冷式変圧器が火災を起し、微量の放射性物質の漏洩が検出された。この地震により発生した火災は柏崎刈羽原子力発電所一カ所のみであるとされる。
震災後の高波によって敷地内が冠水、このため使用済み燃料棒プールの冷却水が一部流失。
1999年 東海村JCO臨界事故
東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェー・シー・オーりんかいじこ)は、1999年に茨城県那珂郡東海村に所在する住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(以下「JCO」)が起こした原子力事故(臨界事故)。死者2名と667名の被曝者を出した。
1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料を加工中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡した。国際原子力事象評価尺度でレベル4(事業所外への大きなリスクを伴わない)の事故。

2011年 福島原発事故
放射能の危険さと放射能被害の大きさはマスコミ報道されているだけでも計り知る事は出来ますが、海が汚染され土地が汚染され、自宅に帰る事すらままならない近隣の人達の不安と苦痛は言うに及ばず、地域が離れていても影響があるのが放射性物質の怖さです。

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自然エネルギーへ
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。

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