もう一つのグランブルー 2002/05/16 物が有り余り繁栄する日本の陰の場所だと思います。大阪で育った人間でもこの場所を訪れる人は少なく、現状を知らない人のほうが多いと思います。それよりも見たくもなく関わりあいたくないと言うのが事実かも知れません。僕自身たまたま子供の頃からこの場所に土地勘があり、今友人がそこに住んでると言うのも度々訪れる要因かも知れません。 そんなわけで僕はその場所に出かけるのです。そして、そこに暮らす人々と話してみて、こう思うのです。この人達がここに追いやられたのはこの人達の個人の責任ではなくて、社会のほうに責任があるんじゃないかなって。これは僕の率直な感想です。もちろんぐーたらでエゴイストでどうしょうもない人達もいると思います。しかし、多くの人はどちらかというとまじめで気のやさしい人のような印象を受けます。 社会で人にだまされたり、争いが出来ずに逃げてしまったりした結果、いき場所をなくしてしまったように思えるのです。もちろんその事自体が弱肉強食の世界から見れば落伍者なのかも知れません。でも待てよ、「真面目(要領が悪い)」「気の弱い」「へんこつ」などの性格は人の個性だからそれはそれで受け入れられるような社会でないといけないんじゃないかって。何故なら「不真面目(要領がいい)「気が強い」「ありきたり」に比べて全然劣ってるように思われないからです。 ある時こんな光景を見ました。舗道脇に段ボールを敷いておじさんが丸まって寝ています。何かを大事そうに抱えてるのです。近寄ってみるとそれは中ぐらいの大きさの犬で、おじさんはその犬をいたわるようにやさしく抱いてるのです。そして犬も何とも言えない安らいだ顔をしておじさんにしがみついてるのです。「野良犬」と「野良人」そんな言葉がふと浮かびました。自分自身食べる物も確保されてないのに野良犬や野良猫のために食べ物を分け与えてあげる、この街にはそんな気持ちのやさしい人がそこここにいるのです。 そして、この心は「グランブルー」とおなじでしょう?
銀河の彼方へ 2002/04/23
青い海でイルカや海洋生物を守るために生きている人々もいます。森林を守ったり、絶滅しかかってる生物を保護するために生涯をかけてる人もいます。また、過去の人類が残した素晴らしい遺跡を修復しつづけてる人もいます。彼らのような人間らしい人々を揺り動かしてる原動力は一体何でしょう?
僕は思うのです。彼らに共通するのは神秘的なものへの尊敬と愛情じゃないかなって。決して詰め込みの知識や教育からは生まれてこない感性をみんな持ってるんじゃないかなって。その素晴らしい感性を身につける方法、それが分かれば教育はもっと素晴らしい人材を作り出せるのではないでしょうか?
そこは居心地のいい場所
じっと目を閉じて耳を澄ますと小さな命がさわさわと動く音が聞こえてきます。 それはまるでそよ風や清水が湧き出るようなかすかな音です。 そして、じっとその音を聞いていると、自分の心臓の鼓動や息をする音と同じだと分かってきます。自分がこの宇宙の細胞の一部だと言う認識が芽生えてくるのです。 広大な空間を疾走する地球の背中につかまって、みんな存在してるんだという実感が湧いてくるのです。
心と体 逆に充実してるときでも怪我や病気になると、今までの満ち足りた毎日は何だったんだろう?って思うほど不安になって考え方が後ろ向きになったりする・・・ 体が健康でないと、人はなかなか前向きな考え方にはなれないものです。でも辛い持病に苦しめられ、不治の病と闘いながら前向きに生きてる人もたくさんいらっしゃるのも事実です。 きっとそんな生き方が出来る人は心が先行しているんでしょうか?そして命や健康の大切さがいやというほどわかるから、どんなに辛くても命ある限り目一杯生きようとされてるのでしょうか? そう考えると体より心の持ち方、考え方の方が何かをなしうるためには重要なのかなって思います。もちろん両方揃えばいうことなしですが、たとえ二つが揃ったとしても前向きに生きて行くのはなかなか難しいものです。
教育の素晴らしさと学歴の無意味 ああ、これが教育の魅力で、本来日本の子供達も教育に対して同じ思いと憧れをもっていたんじゃないかなって、思いました。 何かをしたい、そしてそのために学びたい、誰かを助けたい、そしてそのために教養を身につけたい。 これが本来の教育の意義じゃないでしょうか? 教育と学歴を置き換えてしまった、近年の日本の社会があらためて考えなおさなくてはならないのは、教育って何ですか?というこのもっとも最初の言葉ではないでしょうか。 学歴のためだけだったら、その目的にたいして魅力を感じない子供達が、勉強する気がなくなるのも当たり前のことではないでしょうか? ?みなさんは教育と学歴に関してどう思われますか?
不思議な生き物 2002/03/26
人を信じ自然を愛し、生きてきた君も、 度重なる悲劇に全てを呪った時もあった・・・ でもその度に君は杖をつき勇気を振り絞って歩き出して来たんだ。 君の行く先にはいつも希望の虹がかかり、 悲しみの過去は全て君の背後に残して、君は歩き続けてきた。 いつしか悲しみは記憶の彼方に沈み、 憎しみは時の風にかき消されて、大地へと帰っていった。 君は今度こそ悲しみを喜びに、 憎しみを愛に変えようと、希望の虹に誓ったんだ。 そう 君こそ「永遠の旅人」またの名を『人類』と呼ばれ 夢に向かって歩き続ける不思議な生き物なんだ・・・
むずかしいことはいらない
仕事の垣根をこえて。 そしてその結果違う職業の人と人が上手くコミュニケーション取れなくなってるようです。話してもどうせ分からないだろうとか、この仕事やってるものにしかわからないだろうとかどこか垣根を作ってしまってる人が多いのではないでしょうか。 もちろん仕事における専門的なことは部外者には分からないことも多いでしょうが、考えたり、人に話したりしたいことは、仕事の話ばかりじゃ無いはずです。そして仕事や職場の話以外ならどんな人でも共通に話せると思うのです。ただ各々が長い時間の中で、仕事やそれにまつわる出来事に呪縛されてしまってるのではないでしょうか? 以前から思っていたことですが、職業はあくまで職業であって、あくまでその人の生き方の一部の話だと思うのです。時間的にも、肉体的にも多くの束縛はあるにしても、やはり一部の事だと思うのです。ライフワークとして生き方そのものを仕事に重ねられるのはほんの一握りのラッキーな人だけだと思います。 ですから仕事は別として、一人の個性ある人間として相手がどんな職業の人であっても、人間として同じ土俵で話すことが自然に出来るようになればいいなって、思うのです。 プライベートな関心事や趣味への情熱が職業そのものを上回っている人達は別ですが、もともと持ってる個性や考え方を忘れてしまってるのではないでしょうか?その事を思い出せば、職業的な呪縛や垣根は取り払えると思うのです。 そしてその中からもっと柔軟な考え方が生まれて、ギスギスした今の社会をほんの少しでも、和らげられると思うのです。
人は変わらない? 反対に自分を変えようと努力しない人、意識を持たない人は周りの環境や人によって変わってしまうものです。それがいい方向に変われば言うこともないですが、多くは流されて、自分を見失って、その人の個性や良さまでも無くしてしまうのです。 数学的な表現でいうなら人は常に前向きのベクトルを与えていなければ、後退するベクトルの力に引っ張られて、ゼロ地点にも定置出来ない生き物なのです。 自然界は人間がバランスを破壊しない限り、宇宙のリサイクル法によって、現状は維持していきます。でも人間という生き物は自身をいい方向にコントロールしていかないとケセラセラだけでは後退してしまうのです
君の瞳に乾杯! 2002/03/12 きっと 鳥はそよ風に、魚達は その青い海に、そして地上の動物達は 豊かな緑に いつも乾杯してるのですね。
人は自然に対して謝らないと! 2002/02/27 今は殆どの川が埋め立てられて道路になりました。残っている川は汚染されて、とても泳ぐどころではありません。確かに便利にはなりましたが、失った環境の大きさを考えると手放しで喜べる事ではありません。そして、思慮の足りない人達が、田舎のかけがえのない自然までダムや埋め立てで破壊しようとしています。 長い長い歴史を綿々と培ってきた木々や魚や無数の小動物の命が一瞬に奪われるのです。そして、その馬鹿さ加減が分かっても、もうその自然は回復できないのです。間違った公共事業、しかもそこにあるのは利権だけです。そんなモノのためにかけがえのない自然を破壊するなんて、それは完全に犯罪行為です。 自然は決して人間だけのものではないし、その自然を汚してるのは人間だけなのだから、その意味でも人間は常に自然に謝り、自然をいたわり、そして自然に感謝する意識を持ち続けなくてはなりません。
価値あるものって? 宇宙の片隅のこの小さな星で生きる生命の中でもし、1番進化した生き物が人間だとしたら、そう思うのです。でも、現実はまるで貨幣の一神教のようにお金崇拝主義で流れています。そうでない人もたくさんいるのでしょうが、何か大きな流れの中で、埋没しないように、一人一人が頑張りたいものです。
少年の手 2002/02/21 繰り返し集めた泥を村まで持って帰った少年は、一生懸命に泥を型に入れて、煉瓦を作るのです。少年の手は泥と陽射しに繰り返しさらされてもうごわごわになっています。指先や手の甲はひび割れて痛々しいほどです。 一日に何百個も日干し煉瓦を作っても何十円にしかならないのです。でも少年は信じられないような努力を払って煉瓦を作り続けます。ある時、村を通りかかった旅行者が少年に訊ねました。「君はどうしていくらにもならないのにそんな厳しい作業をしてるのか?」少年は悲しそうな顔をしてこたえました。 「だって、土は食べれないんだもの」「僕はパンが食べたい、だからパンを食べるために土をこねてるんだ」そう言って黙々と仕事を続ける少年の手は、まるで、痛みを感じない道具のように見えました。
二つの道 2002/02/18 ですから幼い頃の思い出しかないのですが、言葉というのは心のどこかに宿っていて、案外自分の性格を決定してるのかも知れません。もちろん、楽な方の道を選んだことも度々ですが、どこかで父の言葉が引っかかってUターンしてしまうのです。 今、父が他界した時と同じ年齢になって、少し父が考えていたであろう意味が分かりかけています。それは、しんどい方の道は、障害や、不安要素が多いから、緊張もあるし自分の知らないことに遭遇する可能性の多い道だと言うことです。そして、その不安定な道を歩くことで、自分が少し成長すると言うことなんだと思います。 そして一つの道を辿り詰めたら、また岐路があって、どんどん選択しながら進んでいくのが人生なんだなって、今、思います。まるで、あみだくじのようです。そして出来るだけ後戻りしないようにと気を配って歩いてはいるのですが、結局後戻りを余儀なくされることも多いです。そうなんだ・・・後戻りの道もまたしんどい方の選択だからいいのかも・・・
見えない流れ星
僕は君のしっぽにつかまるだけで、目がまわりそう そんなに急がなくてもいいと思うけど、 君はどんどん先へ行ってしまう・・・ きっと君にはたどり着かなければならない場所があるのかな? それとものんびりやの僕に、見せたい場所でもあるのだろうか・・・ 広大な星と星の間を縫って、時はどんどん駆けていく・・ しっぽにつかまってる僕は、見えない流れ星
海の色 春夏秋冬、季節によっても色は変わるし、色のバリエーションは青の世界の中で無限にあります。マリンブルー・コバルトブルー・セルリアンブルー・ブルーグレイ・ありとあらゆる青の色がそのときどきの表情を見せてくれます。 そしてあまりにきれいな色なので手で掬ってみると、どこの海の水も透明なのです。人間の視覚って、不思議なものだなあって、つくづく思います。海は人間に、同じものがその時々で、いろいろ違って見えることを教えてくれているような気がします。
大きな事と小さな事 2002/01/20 生理的に息苦しくなったり、閉鎖的な神経の中で恐怖すら覚えたこともあります。 僕は後者の方で、現実の忙しさとか事件の中では悩みを解決することが出来ないタイプです。 一人で人気の無い場所へ行くのは、より寂しさもまし、心も暗くなるのですが そして、ふと見上げると樹齢数百年の大きな木がまっすぐと空に向かって伸びています。 すると、ごわごわした樹皮をとおして、やさしい木の心が伝わってきます。 でも何週間も眠れず、不安に駆られて食事も出来ず、うろたえていた自分は いつも思うのですが、海を見たり山で大きな木を見たりすると、自分を客観的に見れる状態になれます。だから落ち込んだときやいいアイデアが浮かばないときに山や海にでかけます。 いたわりの心
2002/01/28 自分自身難病と闘いながらもボランティアをしている若者もいます。集団で弱っている人を襲うような神経はきっと普段から病んでいるのに違いないですが、それなら両親や学校の先生が確実に気づいてるはずです。 僕には何か事勿れ主義が根付いてるようにおもわれます。弱者を見たら反射的にいたわるようなそんな教育が出来ないものでしょうか。僕たちの世代が子供の頃には弱気を助け強きを挫く見たいな文化がありました。それは漫画でも小説でも主流であったように思います。当時の大人も弱いものいじめする子供には厳しく注意してました。 でもそうして育った僕たちの世代が今親となって、こんな社会を作り上げてしまったのだから、言葉を失います。きっとどこかにいたわりの心を置き忘れて来たのでしょうか。もう一度社会全体がいたわりの心を取り戻さないと、古い言い方だけれども天罰が下るような気がしてなりません。
<衣><食><住>について/ものを作らなくなった大人達 2002/01/30 自分への防御が確保されて他人への思いやりややさしさもうまれてきました。そして、人間以外への生物や自然環境への関心や思いやりも生まれてきたのです。ですから衣・食・住が確保されている国、少なくても日本ではもっと他人へのいたわりややさしさが芽生えてきてもいいはずです。ところが現実はまるで逆行してるかのごとくです。何故でしょうか? 一つの原因は、ものがありすぎてものへのありがたさを忘れてしまったからではないでしょうか。一つのものを大事に使いそのありがたさを子供に伝えてきた先人の心が失われてしまったからではないでしょうか。僕の親の世代、大正の時代ぐらいまでは、大抵のお父さんやお母さんは自分でものを作っていました。ちょっとした大工仕事や着物を縫ったり漬け物をつけたりぐらいは何処の家庭でも見かけた風景でした。 子供達はそれを見て、大人はえらいなと、思っていたものです。社会的地位や経済力じゃなく、総じて大人はえらいなって思ったのです。そして大人がものを作る姿を見て真似たものです。ものづくりはむづかしいけど、面白いものだって。どんなものでもつくるのは大変なものだなって分かったときに、ものに対する愛着とものを大切にする心が生まれました。 最近僕自身手作りのものという意識がどれだけ大切なものかを再認識しています。料理や大工仕事や絵や彫刻や音楽など人間が自分の手でものを作るということからやさしさは生まれるように思います。 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。
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