ペルー Peru
南アメリカ西部に位置する共和制国家である。北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面する。首都はリマ。紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国(タワンティン・スウユ)の中心地だった。
■リマ/Lima
ペルー共和国の首都並びに政治、文化、金融、商業、工業の中心地である。人口約800万人で同共和国最大。南米有数の世界都市であり、2010年の国際連合の統計によると、近郊を含む都市圏人口は894万人であり、世界第27位である。インカ帝国の支配が及ぶ前の先コロンブス期には既に現在のリマの場所にはいくつかのアメリカンインディアンのグループが居住していたと考えられており、大地神パチャカマックを信仰するイチマ文化を形成していた。3世紀から8世紀ごろにかけてルリン河谷のパチャカマを中心に発展したもので、この地にはいくつかの独特な遺構が残されている。インカ時代に入ると巨大な太陽神殿や月の館が建設され、宗教的な中心地の役割を果たすようになった。
■インカ・マンコ・カパック国際空港
Inca Manco Capac International Airportとは、ペルー共和国プーノ県フリアカにある空港。国際空港とされているが国際線の発着はない。保有する滑走路は中南米で2番目に長い。名称はインカ皇帝マンコ・カパックにちなむ。
外務省:ペルー共和国
在ペルー日本国大使館
■ペルー・レイル
ペルー・レイルは、クスコ〜マチュピチュ間などを走る、地球上で2番目に標高の高い場所を走る列車。列車は、ペルー南部において観光、貨物、チャーターなど広範囲にわたるサービスを提供しており、特にマタラニ港とペルー第二の都市であるアレキパ間を結ぶ貨物列車として有名である。
■国立サンマルコス大学
国立サン・マルコス大学(スペイン語: Universidad Nacional Mayor de San Marcos、UNMSM)は、ペルーの首都リマにある公立大学。
■リマ大学
Universidad de Limaリマ大学 はペルー首都リマに位置する大学で、1962年設立の私立大学の1つである。1960年代、商学、産業学の大学教授たちのグループにより設立が計画され、リマ郡ヘススマリア地区のキャンパスでわずか120人の学生と共に始まった。 今日、リマ大学は10,470人の学生、8学部、大学院、科学研究機関など豊富に構成されている。
■太平洋大学
The University of the Pacific、はペルーの首都リマに位置する大学で、1962年設立、少人数教育を行う大学としてカトリカ大学とともにペルー国内の2大私立大学と称される。特に経済学部はラテンアメリカ各国の中でも最高峰であるとされている。
■カヤオ
El Callaoは、ペルー首都リマ西部に位置する、国内最大で主要な港町である。カヤオ特別区の中心地である。リマと共にリマ都市圏を形成する。国内人口の3分の1がここに居住している。カヤオは、1537年に設立した。1535年にリマが設立したちょうど2年後であった。カヤオはすぐさまスペインの太平洋における主要な貿易港となった。
■カハマルカ
(Cajamarca)はペルー北部の都市。標高2750m。山に囲まれた盆地にある。カハマルカ県の県都である。町並みは植民地時代の面影を濃く残し、インカ帝国最後の皇帝アタワルパがフランシスコ・ピサロによって幽閉され最期をむかえた地としても知られる。
■イキトス
(Iquitos)は、ペルー北東部にあるロレート県の県都。アマゾン川上流のマラニョン川を面している。河口から3700kmあり3500トンの大型船がさかのぼる。人口は33万4013人。「陸路ではいけない世界最大の町」といわれており、船か飛行機でしか町に入ることはできない。
■チクラーヨ
(Chiclayo)は、ペルー北西部の太平洋岸の商業都市。急激に近代化が進む。 人口は57万4408人。1987年 南東30km離れた郊外のシパンにモチェ文化の王墓が発見される。
■トルヒーリョ
(Trujillo)は、ペルーのラ・リベルタ県の都市である。ラ・リベルタ県の県都である。ペルーの北西部に位置する。国内第3位の規模である。ペルー北部の経済中心地である。モチェ川の河岸、太平洋への河口近くに位置する。
■ユンガイ
Yungayは、ペルーの北部のアンカシュ県の村である。アンデス山脈に属し、ペルー最高峰であるワスカランの麓にある。村はリマの北約450kmに位置し、標高は約2,500m。2004年現在の人口は約9,000人である。1970年5月30日に発生したアンカシュ地震(マグニチュード7.7)により、ワスカランの北峰が氷河と共に大崩落を起こす。約15,000,000m3の土砂と氷塊が3000mの標高差から流れ落ち、時速300kmでユンガイの集落を襲った。当時のユンガイの人口は約18,000人であったが、そのほとんどが死亡した。
■アレキパ
(Arequipa)は、ペルー共和国南部にある同国第2の都市。人口は約90万人。アレキパ県の県都である。アレキパはインカ帝国の第4代皇帝マイタ・カパックの命によって建設された。アレキパの名前の由来は皇帝がケチュア語で人々に"Ari qhipay"(ここに住みなさい)と言ったことからきている。
■フリアカ
(Juliaca) はペルー共和国南部プーノ県サンロマン郡の中心都市にして郡都である。アンデス山脈東側、チチカカ湖近くの標高3825メートルに位置する、毛織物や羊毛取引の中心地である。市内はインカ・マンコ・カパック国際空港や世界有数の高所を走るペルー南部鉄道が発着する駅がある交通拠点となっており、首都リマや県都プーノ、および隣県の県都であるクスコや隣国ボリビアと結ばれている。
■アンカシュ地震
1970年5月31日にペルー北部アンカシュ県の高原地帯で発生した地震。現在に至るまで記録上ペルーで最も被害の大きかった地震でもある。地震による死者・行方不明者は約70,000人で、500,000人以上が家屋を失った。震源地に近かったアンカシュ州の州都ワラス(Huaraz)では当時の人口の約半分にあたる30,000人以上が死亡し、建物の約90%が倒壊した。
■プカルバ
(Pucallpa ケチュア語で「赤い土」の意)はペルー中部の内陸都市。アマゾン川流域のジャングル地帯に位置し、開発の拠点となっている。アマゾン川の支流、ウカヤリ川の両岸を占める。ウカヤリ県の県都。人口は20万人を超える。
■ワンカヨ
(Huancayo)は、ペルー中部にある都市である。フニン県に属する。人口は30万5039人(1998年)。アンデス山脈東部、標高3350mに位置する。有名である日曜市では周辺に在住する先住民が食料品、手芸品を販売する。大聖堂、国立中央ペルー大学がある。
■ワカチナ
(Huacachina)は、ペルー南西部イカ県にある小村。イカ近郊のリゾート地として知られている。人口は115人(1999年)。ワカチナは砂漠内の小さな湖の周囲にあり、「アメリカのオアシス」と呼ばれている。近年は数百メートルの砂丘を利用したサンドボーディングやサンドバギーの人気も高まっている。 伝説では、土地の美しい姫がハンターに入浴を覗かれているのに気付き、入浴していた水たまりを湖に変えて消えたのが、湖の始まりとされている。
■アヤクーチョ
(Ayacucho)は、ペルー南部に位置する都市で、アヤクーチョ県の県都。人口11万8960人。 アンデス山脈のマンタロ川の上流域、標高2731mに位置する。1825年まではワマンガと呼ばれていた。サン・クリストバル・デ・ワマンガ国立大学(1677年創立)がある。
■プーノ
(Puno) はペルー共和国南部にある県名および、都市名。人口は約22万人。他の多くのペルーの都市と同じく、市街の中心部にアルマス広場とカテドラルを持つ。世界有数の高所を走るペルー南部鉄道が発着する駅があり、インカ・マンコ・カパック国際空港のあるフリアカや隣県の県都であるクスコと結ばれている。
1.面積:約129万平方キロメートル(日本の約3.4倍)
2.人口:29.8百万人(2011年(推定)ペルー統計情報庁)
3.首都:リマ
4.民族:先住民45%、混血37%、欧州系15%、その他3%
5.言語:スペイン語(他にケチュア語、アイマラ語等)
6.宗教:国民の大多数はカトリック教
1821年 スペインから独立
1968年〜1980年 軍事政権
1980年〜1985年 ベラウンデ政権
1985年〜1990年 ガルシア政権
1990年〜1995年 フジモリ第一期政権
1995年〜2000年 フジモリ第二期政権
2000年〜2001年 フジモリ第三期政権、同政権退陣、パニアグア暫定政権
2001年〜2006年 トレド政権
2006年〜2011年 ガルシア政権
2011年〜 ウマラ政権
■主要産業:製造業、農牧業、鉱業
■主要貿易品目(1)輸出 銅、金、繊維製品、魚粉(2)輸入 工業用中間財、燃料・潤滑油、工業用資本財
■ヌエボ・ソル
(nuevo sol) は、ペルーの通貨単位。一般には「ソル」と呼ばれる。日本語では「新ソル」と呼ぶことも多い。スペイン語のnuevoは「新しい」、solは「太陽」の意味である。1991年にこの通貨単位になったとき、以前使っていたソル(ペルー・ソル)という単位と区別するためにヌエボがつけられた。
■アンカシュ地震
1970年5月31日にペルー北部アンカシュ県の高原地帯で発生した地震。現在に至るまで記録上ペルーで最も被害の大きかった地震でもある。地震による死者・行方不明者は約70,000人で、500,000人以上が家屋を失った。震源地に近かったアンカシュ州の州都ワラス(Huaraz)では当時の人口の約半分にあたる30,000人以上が死亡し、建物の約90%が倒壊した。
■トゥパク・アマル革命運動
Movimiento Revolucionario Tupac Amaru − MRTAは、ペルーの左翼武装組織である。活動拠点は主としてリマに存在した。1983年に、アメリカ革命人民同盟(APRA)を中心とする武装闘争路線を採るペルーの左翼組織が合流し、ビクトル・ポライ・カンポス(通称「ロランド司令官」)により結成された。
■コロンビア・ペルー戦争
アマゾン川流域の国境地帯を巡って引き起こされたコロンビアとペルーの武力衝突である。小規模な戦闘ののちに、国際連盟の仲介などで解決した。事件は1932年にペルー国内での暴動から始まり、イキトスは蜂起した市民が支配する状態となった。ペルー国内は、同年7月に武装蜂起が起きるなど、政情不安であった。同年9月1日、イキトスの過激派市民は、越境してレティシアへ侵入し、コロンビア官憲を排除して占拠してしまった。
■アンコン条約
1883年10月20日に結ばれた太平洋戦争におけるペルーとチリの講和条約。太平洋戦争において、ペルーはチリに首都・リマを占領され、軍はアンデス山中に撤退し、抵抗を継続していた。しかし、その抵抗も限界と判断されたため、ボリビアはチリと戦闘を継続していたものの、ペルーはチリと講和することとなった。
1883年10月20日にリマの北の町、アンコンで講和条約は結ばれた。これにより、両国は戦闘を停止し、ペルーは南部のトラパチャ地方をチリに譲渡した。
■アメリカ革命人民同盟
Alianza Popular Revolucionaria Americana、略称:APRA)は、1924年5月7日にビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレが亡命先のメヒコ市で設立したペルーの社会民主主義政党である。社会主義インターナショナルに加盟している。党名の略称から単にアプラ(APRA)党とも。
■ミタ制
(mita )とは、スペイン統治下のペルーやボリビアにおける交代制の有償強制労働制度。インカ帝国時代の傭役制を規範として副王・トレドによって制度化された。ミタ制度は吏員や特殊技能者を除く原住民成人男子を対象にした労働力割当制度で、総数の7分の1ずつの原住民が数ヶ月交代で駆り出され、小麦やブドウ農園、オブラヘ、精糖所などでの労働に従事させられた。特にポトシ銀山では莫大な労働力を確保するために特殊な、「鉱山ミタ制度」が敷かれていた。
■経済
産業の中心は、銅・鉛・亜鉛・銀・金などの鉱業である。特に銀は世界第2位の産出量である(2003年)。石油やガスなどの天然資源も産出する。また、中華人民共和国に次いで世界第2位(2003年)の漁獲高を誇る水産業もペルーの主要な産業である。
■国民
ペルーの民族構成はメスティーソ45%、インディヘナ(先住民、公式にはカンペシーノなどと呼ばれる)37%、ヨーロッパ系ペルー人15%、アフリカ系ペルー人、中国系ペルー人(華人)と日系をはじめとするアジア系ペルー人などその他3%とされており、非常に複雑で多様な人種から構成されている。
■アンティクーチョ
(Anticucho)は、南米アンデス地域各国でよく食されている串焼き料理の1つである。インカ帝国の血を受け継ぐ国々で広く人気のある料理となっている。ペルー、ボリビア、チリなどでは屋台や出店(anticucherias)などで売られている。数cm角に切り分けた肉類を唐辛子(アヒ・アマリージョ)、ニンニク、クミン、赤ワインなどで作ったタレに漬け込み、5-6個を金串や竹串に刺して焼く(平らに切り出したハツを波打つように串に刺して焼く場合もある)。
■インカ・コーラ
(INCA KOLA)はペルーのJose R. Lindley社が発売しているコーラ。ペルーの首都リマ市の建設400年を記念して1935年に発売された。黄色のコーラで、甘味が強く炭酸はあまり強くない。ペルーの飲料で、コカ・コーラをおさえてペルー国内シェアNo.1のコーラである。
■ピスコ
(Pisco) は、ペルー原産のブドウ果汁を原料とした蒸留酒。色は無色透明、あるいは淡い琥珀色でアルコール度数は約42度。16世紀にカナリア諸島からペルーへブドウが持ち込まれ、気候等の条件が合っていたため栽培が盛んに行われ、ピスコの製造が始まった。
■言語
公用語はスペイン語(ペルー・スペイン語)、ケチュア語(1975年から)、アイマラ語(1980年から)であり、人口の大部分はスペイン語を話す。セルバのアマゾン低地では、先住民によって独自の言語が話されている。
■宗教
ローマ・カトリックが89%程であるが、近年カトリックの数は減少しつつある。その他の宗教としては福音派プロテスタントが6.7%など。
■教育
主な高等教育機関はサン・マルコス大学(1551)、ペルー・カトリカ大学、太平洋大学(1962)など。
■イポカンポ出版社
Ediciones del Hipocampoはペルーに本社を置く出版社。本社を首都のリマに置く。2000年に創業。外国人旅行者を強く意識して、主にペルーの観光地の魅力を紹介する出版事業を行なっている。リマ、クスコ、ナスカ、アレキパ、マチュ・ピチュといったペルーの有名観光地やインカ文化とり上げた写真集や観光ガイド、絵葉書、カレンダー、トランプカード等を出版している。
■インディヘニスモ
Indigenismoは、ペルー先住民(「インディオ」あるいは「インディヘナ」)の擁護と文化的、社会的復権を求める社会運動。19世紀から20世紀にかけてのペルーにおいて、思想や文学に大きな影響を与えたほか、ラテンアメリカの各地域に共通する思想として、メキシコやボリビアへも波及した。
■クリオーリョ
criollo)とは、スペイン領植民地において、スペイン人を親として現地で生まれた人々を指す。"criollo" ”crioulo" という単語は "criar"(育てる)という動詞から派生しており、もともとは「現地で育った」あるいは「元来の土地とは異なる場所で生まれ育った」ことを意味する。したがって、動植物や、言語・料理に関しても、「その土地で生まれた」「その土地固有の」という意味合いで"criollo"という形容詞が付加されることもある(例えば馬のクリオーリョ種)。
■メスティーソ
Mestizo、は、白人とラテンアメリカの先住民(インディオ)の混血である人々。ポルトガル語ではメスチッソ、またスペイン語はメスティソ、メスチーソ、メスチソなどとも書く。Mestiçagemなど原語では、人種の違うもの同士での婚姻や交配を意味し、転じて混血児全般を表す言葉になった。特に白人とインディオの混血のことを指すことが多い。
■音楽
国内の全域において、ニューヨーク生まれのサルサが愛好されている。しかし、特に世界的に知られているのはやはり、『コンドルは飛んで行く』をはじめとするケーナやチャランゴを使ったアンデスのフォルクローレである。クリオーリャ音楽は、ペルーに土着したアフリカやヨーロッパの音楽を総称する言葉であり、特にコスタで発達した音楽を表す。
■コンドルは飛んでいく
この曲は1913年にペルー人作曲家であり民俗音楽研究家であったダニエル・アロミア=ロブレスが、自身で採譜した伝承曲のメロディをモチーフにして書いたオペレッタの序曲として発表された。すなわち、彼の作曲作品である。オペレッタそのものは当時のロシア革命やメキシコ革命などを時代背景として先住民系鉱山労働者の団結とアメリカ人鉱山主との闘争をうたったかなり政治的メッセージ色の強いものだったが、序曲であったため原曲には歌詞はない。
■ダニエル・アロミア・ロブレス
1871年1月3日 - 1942年6月18日はペルーのオペラとサルスエラの作曲家、音楽学者。フォルクローレをもとに、サルスエラのために『コンドルは飛んでいく』を作曲した。この曲はサイモン&ガーファンクルの編曲によって知られている。
ワヌコ出身。1882年に一家はリマに移住した。1892年に国立サンマルコス大学の医学部に入学するが、1894年に大学を辞め音楽の道に進んだ。南米各地の民謡を収集し、1910年にアンデス音楽の構造は五音音階であることを論文で発表した。
■ピエルマリア・オッドーネ
ピエルマリア・オッドーネ(Piermaria J Oddone, 1944年 - )はペルー生まれのの粒子物理学者である。アシンメトリック(非対称)Bファクトリー(B中間子を大量に作り出してCP対称性の破れを検証する実験法)の発明によりパノフスキー賞を受賞した。
■マリオ・バルガス・リョサ
ホルヘ・マリオ・ペドロ・バルガス・リョサ(Jorge Mario Pedro Vargas Llosa, 1936年3月28日 - )は、ペルーの小説家。アレキパ出身。ラテンアメリカ文学の代表的な作家でありジャーナリスト、エッセイストでもある。主な作品に『都会と犬ども』『緑の家』『世界終末戦争』など。1976年から1979年、国際ペンクラブ会長。2010年ノーベル文学賞を受賞。
■ホセ・マリア・アルゲダス
1911年1月18日 - 1969年12月2日は、ペルーの小説家、文化人類学者。ケチュア語を活かした独自の文体でインディオ世界を描くインディヘニスモの大家で、ペルーの国民的作家として敬愛された。代表作に『深い川』『すべての血』など。両親ともに白人で、父はインディオの権利を擁護する弁護士[1]であった。早くに母を亡くし、3歳で祖母のもとへ行く。6歳の時に継母を迎えるが、資産家であった継母に嫌われ、調理場の桶の中で寝泊まりするような生活を強いられた。そのため、もっぱら使用人のインディオ達に囲まれて育つことになるが、これにより少年時代はスペイン語よりもケチュア語を得意とした。
■グスタボ・グティエレス
グスタボ・グティエレス・メリノ (Gustavo Gutierrez Merino, 1928年6月20日リマ - ) はペルー出身のドミニコ会のカトリック司祭、神学者。解放の神学の提唱者の1人。ノートルダム大学で神学のジョン・オハラ枢機卿教授資格を持ち、教皇庁立ペルーカトリック大学の教授である。欧米の大学でも客員教授としての経験を持つ。ペルー言語学院の会員であり、1993年にはレジオンドヌール勲章も受賞している。
■タニア・リベルタ
Tania Libertad、1952年10月24日はペルー出身の歌手。1952年10月24日にペルーの北部のサーニャ(Zana)に生まれる。本名は、Tania Libertad de Souza Zuniga である。チクラージョ(Chizlayo)にて、育つ.5歳の時から、歌手として活躍している。十代のころ、リマに移り、ナイトクラブで歌う。ラ・コンタマニア(La Contamania)のRCA Victor のレコード録音が、ペルー国内でヒットし有名になる。ペルーの黒人系音楽風の曲を、いろいろリリースする。政治的メッセージの強いヌエバ・カンシオンの歌を、少なからず手がける。
■アルマンド・ロブレス・ゴドイ
Armando Robles Godoy, 1923年2月7日 - 2010年8月10日は、ペルー共和国の脚本家、映画監督。1970年の日本万国博覧会を機に開催された日本国際映画祭において、初めて日本に紹介されたペルー映画『みどりの壁』(1970年)の監督として注目を集めた。続いて公開された『砂のミラージュ』(1972年)では、その詩的な映像美で強い印象を残した。
■ホルヘ・チャベス
1887年1月13日 − 1910年9月27日はフランス系のペルー人で航空のパイオニアの一人である。アルプス越えの飛行に挑戦し、着陸寸前に墜落し事故死した。パリでペルー人の両親のもとに生まれた。Violet Schoolで工学を学んだ。ファルマン兄弟の飛行学校に入学し1910年2月28日ランスで初飛行した。フランスやヨーロッパ各国の飛行競技会に参加し8月8日にはイギリスのブラックプールまでブレリオ単葉機で飛行し1647mの高度記録を記録した。リマの国際空港はホルヘ・チャベス国際空港と命名されている。
■ワマン・ポマ
ワマン・ポマ(Felipe Guaman Poma de Ayala、1550年? - 1616年?)はインカ帝国出身のインディオ。1936年に出版された『新しい記録と良き統治』の執筆者として知られると共に、インカ帝国史及び植民地社会における重要な証跡を残した人物である。『新しい記録と良き統治』は、1615年に当時のスペイン国王フェリペ3世に宛てた1000ページ・挿絵500点を超える膨大な書簡で、インカ帝国時代、あるいはそれ以前のアンデスの歴史、スペイン人による征服史などの記録と植民政策に対する提言がカスティーリャ語で書かれたものである。
■ホセ・デ・サン=マルティン
1778年2月25日 - 1850年8月17日は、アルゼンチンの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アルティーガスと並ぶ解放者として称えられている。1778年、アルゼンチン北東部の小さな村である、コリエンテス州のヤペユーにスペイン系貴族であり、スペイン軍の軍人だった父の子として生まれる。7歳で家族とともにスペインに渡る。
■シモン・ボリバル
1783年7月24日 - 1830年12月17日は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。ベネズエラのカラカスにアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなってボリバルはその後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。このため、ラテンアメリカでは「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれる。
■アントニオ・ホセ・デ・スクレ
1795年2月3日 - 1830年6月4日は南アメリカの諸国をスペインから独立に導いた軍人、政治家。第二代(初代はシモン・ボリバルが名目的な立場のみだったので事実上の初代)、ボリビア大統領。シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも)の部下で良き理解者としても知られる。
■フアン・ベラスコ・アルバラード
(Juan Velasco Alvarado、1910年6月16日 - 1977年12月24日)は、ペルーの軍人、政治家。ベラスコはトゥパク・アマルー2世による反乱以来、ペルー近代史上はじめてペルーの抱える病理に対して抜本的な対策を採った人物であり、ペルー革命によってインディオの復権が進められた結果、インディオはピサロの征服以来400年以上の長きに渡って失われていた自尊心を取り戻すきっかけを掴み、革命以降白人に対してのインディオやチョロによる卑屈な態度は著しく減少した。
■アラン・ガルシア
(Alan Gabriel Ludwig Garcia Perez、1949年5月23日 - )は、ペルーの政治家。同国の大統領を2度(1985-1990、2006-2011)歴任した。リマの中流家庭の出身。父親もAPRAの書記で、ガルシアは幼い頃からAPRA支持者の子供向けの学校「カサ・デル・プエブロ(人民の村)」に出入りしていた。APRAの創設者、ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレから教えを受けたこともある。
■マンコ・カパック
Manqu Qhapaq 、1200年前後)は、インカ神話によるクスコ王国の初代国王である。マンコ・カパックの出自については複数の伝承が伝えられている。マンコ・カパックは太陽神インティ(Inti)の息子にして天の神パチャカマック(Pachacamac)の兄弟とされており、自身は炎と太陽神として崇拝されたという神話がある。
■インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ
(Inca Garcilaso de la Vega、1539年 - 1616年)はメスティソの歴史家、文筆家。ペルーに在住し、1561年にスペインに移った。父はスペイン人の征服者、カピタン・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガで、母はインカ王女のチンプ・オクリョ(チンプ・オクリョは、ワイナ・カパックの四男のワルパ・トゥパック・インカ・ユパンキの娘)。
■ホセ・カルロス・マリアテギ
(Jose Carlos Mariategui、1894年6月14日 - 1930年4月16日)20世紀ペルーの政治思想家、ジャーナリスト。「ラテン・アメリカ最初のマルクス主義者」と称される。8歳の時に血腫で左膝を痛め、以来左足が不自由になる。4年間の病院生活の間で、手に入る書物をすべて読みあさったという。14歳からリマの『ラ・プレンサ』紙で働き、20歳頃からファン・クロニケル(Juan Croniquer)のペンネームで詩を書きはじめた。
■ホセ・ルイス・カランサ
(Jose Luis Carranza, 1964年1月8日 - )は、ペルー・リマ出身の元サッカー選手。ポジションは守備的ミッドフィールダー。デビューしてから引退までをウニベルシタリオ・デポルテス一筋で過ごし、ペルー代表としては55試合に出場した。
■アマドール・バルムブロシオ
(Amador Ballumbrosio Mosquera、1933年11月26日 - 2009年6月8日)は、ペルー出身のミュージシャン、ダンサー。アフリカに起源をもつ、アフロペルー人を代表するミュージシャンである。ペルー南西のイカ県のチャンチャの農家の家の生まれ。15人の兄弟はすべてミュージシャンである。ヴァイオリンやカホンの演奏者として早くから注目を浴びた。
■カパック・ユパンキ
Qhapaq Yupanki=すばらしい計理士、生没年不詳、在位1320年頃〜1350年頃)は、クスコ王国の5代サパ・インカ(皇帝)(下王朝5代(最後))である。父は4代サパ・インカであるマイタ・カパック、王妃はインカの敵であったアンタの首長の娘ママ・クシ・ヒルペイ(又はコリヒルペイ、ママ・チュキ・イリュパとも)、子に上王朝の始祖で6代サパ・インカであるインカ・ロカがいる。
■トゥパック・インカ・ユパンキ
Tupaq Inka Yupanki:高貴な計理士の王、?-1493年、在位1471年-1493年)は、インカ帝国の10代サパ・インカ(皇帝)(上王朝5代目)である。彼は父帝により1463年インカ軍隊の最高司令官に任命され、アンデス山脈に沿って北方へ帝国領土を拡張し、現エクアドルにまで達し、クスコの建築技師により再建されたキトの町に対し特別な愛着を持つようになった。この頃、父帝パチャクテクは、これまでのクスコ王国を「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。
■ネストル・セルパ・カルトリニ
Nestor Cerpa Cartolini, 1953年8月14日- 1997年4月22日は、ペルーの左翼反政府武装組織トゥパク・アマル革命運動(MRTA)の指揮官。ペルー南部アレキパ出身。工場労働者。労働運動を経て1980年頃MRTAに加入し、すぐにリマのサン・マルティン地区のリーダーとなる。その後は外国商店や政府系企業に対する武装強盗や放火などのテロ活動を行っていたが、セルパを一躍有名にしたのが1996年12月17日の在ペルー日本大使公邸占拠事件である。
■フランシスコ・デ・アビラ
(Francisco de Avila、1573年 - 1647年)は、南アメリカで活動した司祭である。彼は「偶像崇拝撲滅運動家」でありつつも、インディオの儀式と慣習に関しての、彼の時代における最も活動的な調査員の一人であった。1573年 - クスコにおいてスペイン人とインディオの女性との間に生まれたが、貨幣検査官のクリストバル・ロドリゲスの家の前に捨てられ、その家で育った。
■マリオ・テスティーノ
(Mario Testino, 1954年-)はペルー出身・イギリス在住の写真家である。イタリア人の父とアイルランド人の母のもとにペルーで生まれる。大学卒業後の1976年にイングランド、ロンドンに移住し、ヴォーグやヴァニティ・フェアの写真家として活躍。
■リマのローザ
(Santa Rosa de Lima,1586年4月20日- 1617年8月24日)は、カトリック教会の聖人。ペルー生まれの、アメリカ大陸初の聖人である。ローサはペルーの首都リマで生まれた。本名はイサベル・フローレス・デ・オリバIsabel Flores de Oliva。裕福な家の出身で、父ガスパルはスペイン軍兵士。母マリアは、インカとスペインの血を引いていた。
■センデロ・ルミノソ
(Sendero Luminoso、スペイン語で“輝ける道”の意)は、ペルーの極左武装組織。毛派共産党。1920年代にラテンアメリカ全体でも独創的なマルクス主義思想家として活動したホセ・カルロス・マリアテギが、インディヘニスモに近い立場から独自の革命理論を説いた理論書『マリアテギの輝ける道』にちなんで命名された。
■アレハンドロ・トレド
(Alejandro Celestino Toledo Manrique、1946年3月28日 - )は、ペルーの政治家。元大統領(在任2001年7月28日 - 2006年7月28日)。1946年に、アンカシュ地方のケチュア系の家族の16人兄弟の1人として生まれ。レンガ工を父に持つ。チンボテで育つ。チョロ。20歳の時に、奨学金を得て、アメリカ合衆国のサンフランシスコ大学に留学する。そこで、経済学学士の学位を取得する。