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チリ共和国
Republic of Chile
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<地理>
西部の太平洋との海岸線、東部のアンデス山脈、北部のアタカマ砂漠によって囲まれた国土は南北に細長く、北から南までの総延長は約4,630kmに及ぶ。
■北部の砂漠地帯
年間を通してほとんど雨が降らない。銅など鉱物資源に富む。
■ラ・セレナの南
地中海性気候の渓谷地域となり、チリの主要輸出品目の一つであるブドウなどの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきたワインの生産に適している。19世紀後半から発展した歴史を有するこの国の主要地域であり、人口と農産物が集中する。
■バルディビアからプエルト・モントまでの南部地域
森林地帯の続く牧畜に適した湖水地方であり、火山地域である。年間を通して雨が多い。南緯40度以南はパタゴニアと呼ばれ、沿海部は典型的なフィヨルド地形が形成されている。マゼラン海峡を越えて南にはフエゴ島が存在し、島の西半分がチリ領となっている。
■南アメリカ
南アメリカ大陸とその周辺の島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。ラテンアメリカに含まれる。西半球、南半球に位置し、西は太平洋に、東と北は大西洋に面している。北アメリカとカリブ海が北西に横たわっている。17,780,000 km2、を占め、これは地球の陸地面積の約12%である。2005年の人口は、371,090,000人と見積もられている。南アメリカは六大州の中でアジア、アフリカ、ヨーロッパ、北アメリカに続いて5番目に人口が多い。
■パタゴニア
(Patagonia)は南アメリカ大陸の南緯40度付近を流れるコロラド川以南の地域の総称。アルゼンチンとチリの両国に跨る。アルゼンチンのネウケン、リオネグロ、チュブ、サンタクルス、ティエラ・デル・フエゴ各州とチリのアイセン、マガジャーネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ各州が該当する。またブルース・チャトウィンがこの地を旅した体験に基づいてかかれた小説パタゴニア(1977年)も紀行文の名作として知られている。
■太平洋
世界最大の海洋であり、大西洋やインド洋とともに、三大洋の一つに含まれる。アジア(あるいはユーラシア)、オーストラリア、南極、南北アメリカの各大陸に囲まれ、日本列島も太平洋の周縁部に位置する。面積は約1億5,555万7千平方キロメートルで、全地表の約3分の1にあたる。太平洋全体で最も大きい陸塊はニューギニア島である。ニューギニア島は世界で2番目に大きい島でもある。太平洋のほぼすべての小さな島は北緯30°から南緯30°の間、およそ東南アジアからイースター島までの間にある。
■アンデス山脈
主に南アメリカ大陸の西側に沿って、北緯10度から南緯50度まで南北7500km、幅750kmにわたる世界最大の褶曲山脈。山脈はベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリの7カ国にまたがる。 最高峰はアコンカグア(6960m・一説には7021m)で、6000mを越える高峰が20座以上聳え立っている。新生代第三紀末(鮮新世)から現在までの太平洋プレート、ナスカプレートと南米大陸のぶつかり合いで隆起してできたと考えられている。
■アタカマ砂漠
Desierto de Atacamaはチリのアンデス山脈と太平洋の間にある砂漠である。全体の平均標高は約2,000mにも達し、その過酷さからアタカマ砂漠への道は「死への道」と恐れられた。砂漠内にはオアシスがあり、東西交易の拠点としてアンデス山脈と沿岸を結んでいる。東西の幅は平均160kmに満たない一方、南北の広がりは1000kmあり長大な盆地状をなす。アンデス山脈と海岸の山地によって湿った空気が遮断されているため世界でも最も乾燥した砂漠であり、40年間まったく雨が降らなかった地域もある。
■サラ・イ・ゴメス島
太平洋はイースター島の付近にあるチリ領の絶海の孤島であり、火山性の岩肌がむき出した小島である。ポリネシアの東端に位置する。1793年にスペイン人ホセ・サラス・バルデスによって発見された。それは、1805年にホセ・マヌエルによって詳述している。
■ピクトン島・レノックス島・ヌエバ島
(Islas Picton, Lennox y Nueva)は南アメリカの最南端、チリのマガジャネス・イ・デラ・アンタルティカ・チレーナ州にある小さな3つの無人島。ナバリノ島の近く、アルゼンチンティエラ・デル・フエゴ州フエゴ島の南岸に位置する。この島の領海内には豊富な石油埋蔵量がある。
■ナバリノ島
(Isla Navarino)は、南アメリカの南端部に位置するティエラ・デル・フエゴ(フエゴ諸島、Tierra del Fuego)の島で、全土がチリ領。人口が、約3,000人いる。『世界最南端の町』とされるプエルト・ウィリアムズがあり、2,200人ぐらいがすんでいる。プエルト・ウィリアムズの領域には、チリ空軍管理の空港サニャルトゥ空港があって民間の小型機も夏季を中心に発着する。またチリ海軍基地もある。
■ファン・フェルナンデス諸島
Juan Fernandez Islands、- 群島とも)とはチリの沖合い約670kmの太平洋上のロビンソン・クルーソー島(旧名マサティエラ島)、セルカーク島、サンタ・クララ島の3つの島からなる島々。行政上はバルパライソ州に属する。岩肌がむき出した地形の火山性の諸島である。諸島最大の島であるロビンソン・クルーソー島(93km2)はその島の名のとおり、ダニエル・デフォーの小説『ロビンソン・クルーソー』の舞台として有名である。 セルカーク島はロビンソン・クルーソーのモデルになったといわれる、イギリスのスコットランド人航海長アレキサンダー・セルカークから名付いており、1704年に航海長だったセルカークは船長との争いが元で1人でマサティエラ島に取り残され4年4ヶ月間に自給自足の生活をして、1709年に海賊船に助けられたと言う。
■チムー王国
Chimuは, ペルー北部の沿岸部でチムー文化を担った王国で、850年頃から1470年頃まで存在した。後期中間期(プレ・インカ)最大の王国で、1000kmの海岸線とアンデスの人口の2/3を含んだ。現存する最大の遺跡はチャン・チャン。チムー王国はモチェ文化の遺民によって興された。最初の谷々が喜んで武力を合わせていたようだったが、シカンを征服した。カハマルカ文化とワリ文化の影響を大きく受けていた。伝説によれば、首都チャン・チャンは海からやってきたタカイナモという人物によって創られたという。
■マウレ川
マプチェ語ではrainy)は、チリの主要な河川のひとつ。全長約240km。流域面積約20,600 km2のうち1/3をアンデス山脈内に持つ。マウレ川は規模だけでなく、チリの歴史、農業などの経済、政治や文化などの側面においても重要な位置を占める。かつてインカ帝国はマウレ川を南の国境とし、マプチェ族と対峙していた。この川の流域にあたるマウレ州は著名な人物を多く輩出しており、またマウレ川はぶどう栽培(ビティカルチャー)とワイン製造の適地「マウレ渓谷」(Maule Valley)を形成し、チリワインの60%を生産している。マウレ川はチリの文学に特に優れた題材とされている。その影響は、詩作や演劇など小説、史観や弁論、作曲やフォークソングなど多様なジャンルに及ぶ。
■ビオビオ川
Rio Biobioは、 ビオビオ州を東から西に流れるチリの川。 アンデス山脈イカルマ湖とGalletue湖に端を発し、マレコ川とラジャ川をそれぞれ支流とし、太平洋のアラウコ湾に注ぐ。全長約380kmはチリ第2位だが、流域面積では3番目となる。だが、平均川幅は1kmにおよび、これはチリで最も広い。グラン・コンセプシオ(チリ2番目の都市圏)の市街区域では、ビオビオ川には4本の橋が架かっており、最も古いものは1889年に建設された鉄道橋である。
■マゼラン海峡
Estrecho de Magallanesは、南アメリカ大陸南端とフエゴ島とを隔てる海峡。太平洋と大西洋を結ぶ。航海の難所として有名であり、狭い海峡に速い潮流と幾多の暗礁が広がる。マゼラン隊がわずか7日で通過できたのは当時としては神業に近い。それゆえ太平洋の西回り航路として実際に利用するまで長い時間を要した。
■サン・フェリクス島
Isla San Felix,San Felix Islandとは、チリの沖合い太平洋にあるチリ領の乾燥した不毛の火山島で、島の近くにあるサン・アンブロシオ島とロス・デスベントゥラダス諸島を結成している。長さ5Km、幅1.6Kmほどの島である。1574年にスペインの航海者ファン・フェルナンデスによって発見された。
■サン・アンブロシオ島
(Isla San Ambrosio; Isla de San Amblosio)はチリの沖合いの太平洋上にある火山島であり、サン・フェリクス島と共にロス・デスベントゥラダス諸島を結成している。1574年にスペインの航海士ファン・フェルナンデスにより発見された。
■サラ・イ・ゴメス島
(Isla Salas y Gó冪剄纎 Island)とは太平洋はイースター島の付近にあるチリ領の絶海の孤島であり、火山性の岩肌がむき出した小島である。ポリネシアの東端に位置する。1793年にスペイン人ホセ・サラス・バルデスによって発見された。
■ホーン岬
Cape Horn)またはオルノス岬(スペイン語 Cabo de Hornos)は、南アメリカ最南端、チリ最南端、ティエラ・デル・フエゴ最南端の岬である。ホーン岬は裸岩の断崖になっており、頂上の標高は424メートル。近海は流速の速いホーン岬海流が流れ、荒天が多く航海の難所である。国際水路機関 (IHO) により、岬を通過する経線が大西洋と太平洋の境界と定められている。
■チリ領南極
Territorio Chileno Antartico)とは1940年以来チリが自国の領土と主張している南極大陸の一部領域である。南極点を中心として、西経53度から西経90度の間、南緯60度以南の扇形の範囲からなり、西経53度から西経80度まではイギリス領南極地域と、西経53度から西経74度まではアルゼンチン領南極と、部分的に重複している。
■アルティプラーノ
(altiplano) は、現在のペルー南部からボリビア、チリなどにかけて広がる高原地帯。アンデス山脈は、西山系と東山系という2列に山脈が平行して走っている。しかし、およそ南緯14度付近から、このアンデス山脈の間が広がり始め、標高およそ4000m前後で広大な高原地帯が広がりはじめる。この高原地帯をアルティプラーノと呼ぶ。その北部にチチカカ湖、南部にポオポ湖が存在する。
■コーノ・スール
Southern Coneは、南アメリカ最南端を指す地理的範囲。南回帰線以南をいう。アルゼンチン、チリ、ウルグアイの全域に加え、パラグアイの一部と、ブラジル南部のいくつかの州を含む。これら諸国の人口はアルゼンチン3,930万人、チリ1,640万人、ウルグアイ330万人となっている。ブエノスアイレスには最も大きな大都市圏があり1,310万人の、サンティアゴ・デ・チレは640万人の人口を擁する。
■経済
ほとんど輸出により成り立っている。輸出品目の第2位は農業関連製品で、第1位は以前より世界一の生産量を誇る銅である。1970年代初頭は輸出品の70%を銅が占めていたが、現在は40%とその重要度は低下している。最近では、各地で産出される良質なワイン、サーモン、木材パルプの輸出が始められた。
■観光
南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部のアタカマ砂漠の広漠とした風景、5月から9月にかけてのアンデス山脈のスキーシーズンが観光客を惹きつけている。また、パタゴニアや、モアイ等の独自の観光資源を持つラパ・ヌイも観光地としての人気がある。
■ウアッソ
アルゼンチン、ウルグアイのガウチョ、アメリカ合衆国のカウボーイ、メキシコのバケーロやチャーロと良く似たチリの田園人であり、優れた騎手である。ウアッソス(複数形)は通常チリ中部の渓谷地帯に見出すことができる。彼等はチリ馬に乗り、典型的に「チュパージャ」と呼ばれる麦わら帽子を被り、また、短いアンダルシア風のウェストジャケットの上に、尻の上の装飾された革脚絆と4つのラウエルと多くの典型的な衣類のある、美しく長い脛の拍車を支える生で隠された革の拍車のホルダーと同様に「マンタ」や「チャマント」(けれどもこちらは高価であるため、往々にして地主が身につけるものである)と呼ばれるポンチョを着る。
<世界遺産>
■ ラパ・ヌイ国立公園
ラパ・ヌイは、先住民の言葉で大きい島という意味である。イースター島に残るモアイ像が有名である。モアイは約900体が残っているがその殆どは、16世紀から17世紀に起きた部族抗争で破壊されてしまった。
■ チロエの教会群
チリのチロエ島にある木造の教会堂(聖堂)群である。18世紀から19世紀の間にかけて建設された。現在では、159棟が現存している。イエズス会の教会として建設され、その建築様式は、ゴシック建築やバロック建築などのヨーロッパの様式と地元の様式が混ざり合ったチロエ様式が特色である。
■ バルパライソの海港都市の歴史的街並み
バルパライソは急な斜面に多数の建築物、家屋が立ち並ぶ町並みに特徴がある。市内には、斜面を重力のみによって登り降りするアセンソール(Ascensore)と呼ばれる乗物がある(スペイン語でエレベータの意)。首都サンティアゴに近い港町。国会が所在し、チリの立法首都の役割を果たしている。
■ ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群
ハンバーストーンとサンタ・ラウラは、チリ北部のタラパカ地方、アタカマ砂漠にある町イキケ (Iquique) の東方 48 km に位置している。チリのほかの硝石工場群には、チャカブコ (Chacabuco) 、マリア・エレナ、ペドロ・デ・バルディビア、プエルマ、アグアス・サンタスなどが含まれる。なかでもチャカブコはピノチェト政権下で強制収容所として使われたという特殊なケースであり、今なお未撤去の地雷が周囲には埋設されたままである。
■ スウェルの鉱山都市
スウェル (Sewell) は、チリのリベルタドール・ベルナルド・オイヒンス州(第6州)カチャポアル県マチャリ市 (Machali にある、定住者のいなくなった鉱山都市である。シーウェル、セウェルなどとも表記される。標高 2,000 m から 2,250 m のアンデス山脈の斜面にある。町は、1904年にブラデン・カッパー社 (Braden Copper Co.) が銅の採掘のために建設し、1915年には同社の初代社長であるバートン・スウェル (Barton Sewell) にちなんで、町の名前をスウェルとした。
■マプチェ族
マプチェ族(Mapuche、マプーチェ族とも表記される)は、チリ中南部からアルゼンチン南部に住むアメリカ州の先住民族。民族名は、彼らが話すマプチェ語で「大地」(Mapu)に生きる「人々」(Che)を意味する。マプチェ族は、南アメリカ南部を支配し、インカ帝国やスペインの侵略に対し長く抵抗を続けた民族として知られている。マプチェ族の名が歴史に記されるのは、新大陸発見以降のスペイン進出に始まる。それ以前のマプチェ族は、大規模な連合こそ形成されなかったが、長年のインカ帝国の侵略に耐え、これを跳ね除けて来た。ラウタロやカウポリカンといった優秀な指導者の登場により、16世紀後半に現れた新たな侵略者・スペインに対しても300年以上闘い続けた。侵略初期に奪われた土地を取り戻し、19世紀後半まで自治を維持した例もある。ビオビオ川はマプチェ抵抗の地として知られ、彼らは自然の地形を利用してスペインへの反抗を続けた。
■コジェジャウジン
コジェジャウジン(マプチェ語 Kollellaullin)とは、チリのマプチェ族に伝わっている武術。スポーツという面もある。コロンブスが来る前からマプチェ族に伝わっていた伝統武術である。コジェジャウジンとはマプチェ語で蟻の事である。武術をこう呼ぶのは、自分よりもはるかに重いものを運ぶ蟻の姿を参考にしているからとも、勇士の広い背中と小さい腰が蟻のように見えるからともいわれる。精神と肉体を鍛えるという点が日本の武術に近いという。
■ケチュア
ケチュア(Quechua、またはQuichua)は、かつてインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られるインディオ。また、この民族が用いている言語。現在では、ボリビア、ペルー、エクアドル、チリ北部、コロンビア南部など、主に南米大陸各国で1300万人が使用している。ケチュア語から日本語に入った外来語としては、ジャーキー(スペイン語形: charqui, 干し肉、例えばビーフ「ジャーキー」)、コンドル(cuntur)などがあるが、いずれもスペイン語を介しているため、本来のケチュア語とは音声が異なっている。
■アラウカニア・パタゴニア王国
Royaume d'Araucanie et de Patagonie)とは、1860年にフランス人の弁護士で冒険家のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンが南アメリカ大陸の南部に建国した国家。19世紀半ばに南アメリカ大陸の南部においては、原住民族のマプチェ族(Mapuche)がアルゼンチンとチリの進出に武装抵抗を行っていた。1860年にこの地を訪れたオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンは、マプチェ族に共感し、1860年11月17日にアラウカニアの独立宣言を行い、12月20日にはパタゴニアもその領域に含めた。
■アイマラ
Aymara)は、南アメリカのボリビア、ペルーやチリのアンデス地域に住む先住民族、インディオの一部族。ボリビア、ペルーのチチカカ湖周辺、およびチリやアルゼンチンの一部に住む。人口はおよそ300万人といわれている。アイマラ語を話す。アイマラ族の歴史については、さまざまな説がある。一説では、アルティプラーノの代表的な遺跡であるティワナク遺跡(紀元前後頃から紀元後12世紀頃)の主な担い手だったという説があり、他方で、紀元12世紀頃にティワナク社会が崩壊したあと、チリやペルー南部の海岸部から北上してきたという説もあり、やがて彼らが現在のペルー領にルパカ王国 (Lupaqa) を、ボリビア領にパカヘ王国 (Paqaje) などのアイマラ諸王国を築いたという説がある。
■イースター島
イースター島(英:Easter Island)はチリ領の太平洋上に位置する火山島。現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語:Rapa Nui)モアイの建つ島である。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島である。「ラパ・ヌイ」とはポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」という意味。海底火山の噴火によって大海原に突然浮かび上がった島に、最初の移民が辿り着いたのは4世紀〜5世紀頃だとされている。この移民は、遥か昔に漢民族の南下に伴ってインドシナ半島から押し出されたポリネシア人である。
モアイは良く「海を背に立っている」と言われている。ただし正確には、集落を守るように立っており、海沿いに建てられたモアイは海を背に、内陸部に建てられたモアイには、海を向いているのもある。祭壇の上に建てられたモアイの中で、最大のものは高さ7,8m、重さ80tもある。島最大のアフ・トンガリキには、高さ5mを超えるモアイが15体も並んでいる。
住民はポリネシアで唯一文字を持っていた。ラパヌイ文字(ロンゴロンゴ文字)と呼ばれる絵文字がこれに当たる。この絵文字は古代文字によく見られる牛耕式と呼ばれる方法で書かれ、1行目を読み終えると逆さにして2行目を読むというように、偶数行の絵文字が逆さになっている。板や石に書かれ、かつては木材に刻まれたものが多数存在したようである。
■観光
近年観光業も成長を続けている。南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部のアタカマ砂漠の広漠とした風景、5月から9月にかけてのアンデス山脈のスキーシーズンが観光客を惹きつけている。また、パタゴニアや、モアイ等の独自の観光資源を持つラパ・ヌイも観光地としての人気がある。
■文化
スペイン人による征服の以前のチリの文化はインカ帝国とマプーチェ人によるものが主流だったが、スペインによる征服後はスペイン人の文化的影響を強く受けた。19世紀初頭の独立後にはエリート層が憧れを抱いたイギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の文化の影響を受けた。また、19世紀後半のドイツ移民の影響により、特に南部のバルディビアやプエルト・モントにはドイツのバイエルン地方の文化の影響が強い。
■食文化
チリ料理はスペイン植民地時代の料理に伝統を持つ。トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、牛肉、羊肉が使われ、長い海岸線を有するために大海産国であることもあって魚介類を使う料理も多い。代表的なチリ料理としてはカルネラ、カルボナーダ、アサード、クラント、ウミータ、パステル・デ・チョクロ、エンパナーダなどが挙げられる。北部のかつてペルー領だった地域ではセビッチェが食べられることもある。
■チリ地震 (2010年)
チリ中部沿岸で2010年2月27日3時34分14秒(現地夏時間; 6時34分14秒 UTC)に発生した地震。地震の規模は、USGS(米国地質調査所)によれば、モーメントマグニチュード(Mw)で8.8だった。1900年以降、チリでは1960年5月のチリ地震に次ぐ規模、世界でも発生当時では5番目の規模の地震となった。
■ベルナルド・オイギンス
(Bernardo O'Higgins、1778年8月20日 - 1842年10月24日)は、チリの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。日本の歴史書などではベルナルド・オヒギンス、ベルナルド・オイヒンスなどと表記されることもある。アイルランド系チリ人。ベルナルド・オイギンスは、チリのチジャンという町に生まれた。父であるアンブローシオ・オイギンスはアイルランド・スライゴ州出身のスペイン政府官吏で、母は現地の女性でチジャンでも評判の美人であった。スペイン政府はアメリカ州で上級官僚と現地住民との結婚を禁じていたが、ベルナルドの生誕時にアンブローシオはまだ下級の軍士官に過ぎず、ベルナルドの母と結婚しなかった理由は不明である。
■ホセ・デ・サン=マルティン
(Jose de San Martin, 1778年2月25日 - 1850年8月17日)は、アルゼンチンの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アルティーガスと並ぶ解放者として称えられている。7歳で家族とともにスペインに渡る。サン=マルティンは職業軍人としての道を進み、22年間スペイン軍で働いた。スペイン軍では陸軍中佐まで昇進し、1811年にはスペイン軍の師団長にまでなったが、母国アルゼンチンでの独立運動を耳にして、今まで築いた全ての地位を捨てて帰国を決意する。
■セバスティアン・ピニェラ
1949年12月1日 - は、チリ共和国の政治家。現在、同国大統領(第35代、2010年3月11日 - )。元上院議員。クレジットカード会社やメディア、航空会社など多数の会社をや株式を所有。米経済誌フォーブスでは総資産22億ドルで世界で437位ランクされ、他にもサッカーのクラブチームを所有するなどチリ有数の大富豪である。
■トゥパック・インカ・ユパンキ
(英: Tupac Inca Yupanqui、ケチュア: Tupaq Inka Yupanki:高貴な計理士の王、?-1493年、在位1471年-1493年)は、インカ帝国の10代サパ・インカ(皇帝)(上王朝5代目)である。トパ・インカとも。父は9代インカ皇帝パチャクテク、王妃はママ・オクリョ、子に11代ワイナ・カパックがいる。彼は父帝により1463年インカ軍隊の最高司令官に任命され、アンデス山脈に沿って北方へ帝国領土を拡張し、現エクアドルにまで達し、クスコの建築技師により再建されたキトの町に対し特別な愛着を持つようになった。
■フェルディナンド・マゼラン
(Ferdinand Magellan、1480年 - 1521年4月27日)は大航海時代のポルトガルの航海者、探検家であり、マゼランが率いた艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げた。マゼラン海峡のほかマゼラン星雲、マゼランペンギン、宇宙探査機マゼランなど多くの物が航海者マゼランの名にちなんで名付けられ、また南米パタゴニアや太平洋の名はマゼランが名付けたとされる。
■ディエゴ・デ・アルマグロ
(Diego de Almagro、1479年 - 1538年7月8日)は、スペイン人のコンキスタドール(征服者)。別名「エル・アデランタード(El Adelantado、アデランタードとは征服地の統治権を持つ司令官)」または「エル・ビエホ(El Viejo、老人)」とも呼ばれた。フランシスコ・ピサロの仲間だったが後にライバルとなった。スペインによるペルー征服に参加して、ヨーロッパ人として最初にチリを発見したことで知られる。
■ラウタロ
(Lautaro)とはマプーチェ族の軍事指導者であり、アラウコ戦争においてスペイン人と戦った主要な人物である。チリの征服を進めていた征服者、ペドロ・デ・バルディビアの捕虜になり、馬丁を務めていたものの、隙を見て脱走するとマプーチェ族を糾合し、スペイン人との戦いを指導した。チリに建設されたいくつものスペインの植民都市を破壊し、1552年にはバルディビアを打ち破って捕虜にし、拷問にかけて殺害した。その後ラウタロは戦死するが、カウポリカンらの優秀な指導者によってアラウコ戦争は継続されることとなった。
■ガブリエル・ゴンサレス・ビデラ
(Gabriel Gonzalez Videla, 1898年11月22日 - 1980年8月22日)はチリの政治家であり弁護士である。1937年人民戦線を結成し、1946年に大統領に就任した。急進党、社会党、チリ共産党の3党の連立内閣を組織した。1947年チリ共産党を連立政権から除外し親米政策を採択した。1952年9月に辞任した。
■エドゥアルド・フレイ・モンタルバ
(Eduardo Frei Montalva, 1911年1月16日 - 1982年1月12日)は、チリ共和国の大統領(第28代)。1911年1月16日、サンティアゴ・デ・チレに生まれる。ドイツ系スイス人の子孫である。1933年に、弁護士となる。1938年に、チリの保守党(Partido Conservador)で、政治家として活動を始める。1949年、チリ上院議員に当選する。1957年のキリスト教民主党(Partido Democrata Cristiano de Chile)の結成に参加する。
■サルバドール・アジェンデ
Salvador Isabelino del Sagrado Corazon de Jesus Allende Gossens、1908年6月26日 - 1973年9月11日)は、チリの政治家。1970年から1973年まで同国大統領であった。バスク系チリ人である。1908年にチリの港町バルパライソにバスク系の子孫として生まれる。チリ国立大学の医学部を卒業した後、チリ社会党結成に参加したアジェンデは、1938年に急進党を中心とする人民戦線政府に保健大臣として入閣、その後社会党と共産党の連合である「人民行動戦線」から1958年と1964年の大統領選に出馬した。
■アウグスト・ピノチェト
(Augusto Jose Ramon Pinochet Ugarte, 1915年11月25日 - 2006年12月10日)は、チリの軍人、政治家。第30代大統領(在任:1974年〜1990年)。バスク系チリ人。1973年9月11日にクーデターを敢行、翌12日に結成された軍事評議会の議長となる。これは、1970年に自由選挙によって樹立された史上初の社会主義政権であるサルバドール・アジェンデ政権を、冷戦時代に反共主義や反社会主義を唱える者であれば誰彼となく支援したホワイトハウスの支援によって倒したものであった。
■ミシェル・バチェレ
Veronica Michelle Bachelet Jeria, 1951年9月29日 - は、チリ共和国の政治家、外科医・小児科医。第34代チリ大統領。サンティアゴ・デ・チレ生まれで、先祖は19世紀なかばにフランスから移民してきた。父親はチリ空軍の准将アルベルト・バチェレ。1970年にチリ大学医学部に入学したが、軍人ながらサルバドール・アジェンデ政権に協力した父親が1973年9月11日のチリ・クーデターの際アウグスト・ピノチェトに逮捕され、1974年3月に拷問死を遂げた。彼女自身も1975年、母親とともに逮捕され拷問を受けた後、オーストラリアに亡命、その後旧東ドイツに移ってベルリン大学医学部に入学した。
■エドゥアルド・フレイ・ルイスタグレ
(Eduardo Frei Ruiz-Tagle, 1942年6月24日 - )は、チリ共和国の大統領(第32代)。1942年6月24日、サンティアゴ・デ・チレに生まれる。父は、弁護士で後にチリ大統領に選出されるエドゥアルド・フレイ・モンタルバである。青年時代の1958年より、キリスト教民主党の党員となる。 チリ大学工学部を卒業する。1964年に、父エドゥアルド・フレイ・モンタルバの大統領選挙活動に参加する。1969年から1988年までは、政治家としてではなく、シグド・コッペルス社(Sigdo Koppers)の経営に参画する。
■イサベル・アジェンデ
(Isabel Allende Llona 1942年8月2日 - )は、チリの女性小説家である。バスク系チリ人。1959年から1965年までFAO(国連食糧農業機関)での勤務の後、雑誌記者となった。最初に働いた雑誌は、娘(後述)と同じ名前の『パウラ』という女性誌だった。娘のパウラは、1992年、28歳の若さでポルフィリン症のため1年の昏睡状態の後亡くなった。「娘が意識を回復した時、途方に暮れないように」と、彼女に語りかけるように書き留めた自分と一族の半生の記録に、看病の体験を織り交ぜた作品が『Paula』(日本語訳『パウラ、水泡なすもろき命』)である。
■アレハンドロ・アメナーバル
(Alejandro Amenabar, 1972年3月31日 - )は、スペイン出身の映画監督、脚本家である。チリ人の父親とスペイン人の母親の間に、チリで生まれるが、生後1年で家族でスペインに戻る。マドリードの映画学校で学ぶ。19歳から映画作りをはじめるが、23歳のときに監督したサスペンス『テシス 次に私が殺される』がスペインで大ヒット。
■ラウル・ルイス
(Raul Ruiz, 1941年7月25日 - 2011年8月19日)はチリ出身の映画監督・脚本家。1960年代から精力的に活躍しているが、日本公開作品は非常に少ない。2011年8月19日、死去。70歳没。ロック公国/ジャゾンIII世 Regime sans pain (1984)アルマ橋で目覚めた男 L'Eveille du pont de l'Alma (1985)三つの人生とたった一つの死 Trois vies & une seule mort (1996)
■トム・アラヤ
(Tom Araya,Tomas Enrique Araya 1961年6月6日 - )は、アメリカのミュージシャン。スラッシュメタルバンド、スレイヤーのメンバーとして知られる。チリのビニャ・デル・マール生まれ。1966年、5歳の時に家族と共にアメリカのカリフォルニア州に移住した。ギターを弾く兄の影響で8歳のときからベースを始め、ビートルズやローリング・ストーンズを弾いていたという。1980年代の初め頃、父に仕事を探すか就学するかの選択を迫られ、姉の薦めもあって二年の間、呼吸療法士になるための勉強をした。その間、彼は空気の混合比率や採血法、気管挿管を学んだという。
■アルベルト・ゲレーロ
Antonio Alberto Garcia Guerrero, 1886年2月6日 ラ・セレナ - 1959年11月7日 トロント)はチリ出身のカナダのピアニスト・作曲家・音楽教師。現在では、グレン・グールドの学生時代の指導者として記憶されるが、トロント音楽院での長年にわたる指導を通じて、何世代にもわたって人材を輩出してきた。母親と兄ダニエルからピアノの手解きを受けるも、その他については独学であった。1890年代初頭に家族とともにラ・セレナからサンチャゴに移った後、芸術家や知識人のサークル「ロス・ディエス(Los Diez)」に参加する。才気煥発の作曲家にして有能な演奏会ピアニストとして、改革に意欲的な気風をチリ楽壇に吹き込み、ドビュッシーやラヴェル、シリル・スコット、スクリャービン、シェーンベルクなど同時代の音楽を聴衆に紹介した。
■ロベルト・マッタ
Roberto Antonio Sebastian Matta Echaurren、1911年11月11日 - 2002年11月23日)は、チリ出身の画家。サンティアゴに生まれたが、家系的にはバスク、スペイン、フランスの血を受け継いでいる。建築家を目指してサンティアゴの学校に通っていたが、のちにその仕事に幻滅し、1933年パリに旅立った。そこでルネ・マグリットやサルバドール・ダリ、アンドレ・ブルトン、ル・コルビュジエなどと出会い、特にブルトンの薦めもあってシュルレアリスムのメンバーに加わり、創作を行うようになった。
■ルイス・アヤラ
Luis Ayala、1932年9月18日 - は、チリ・サンティアゴ出身の男子テニス選手。フルネームは Luis Alberto Ayala Salinas (ルイス・アルベルト・アヤラ・サリナス)という。1958年と1960年の2度全仏選手権で準優勝し、当地の男子テニス選手として史上初の4大大会シングルス決勝に進出した人である。彼は全仏選手権の混合ダブルスでも、1955年から1957年まで3年連続決勝進出があり、1956年にテルマ・コイン・ロング(オーストラリア)とのペアで優勝した。右利きの選手で、全仏選手権をはじめとする赤土のクレーコートを最も得意にした。
■ウンベルト・マトゥラーナ
Humberto Romesin Maturana、1928年9月14日 - は、チリの生物学者。神経生物学 (neurobiology) の実験から得られた観察事実に基づいて、哲学や認知科学とも関係した領域の研究を行った。 特に、1970年代はじめに教え子のフランシスコ・バレーラとともにオートポイエーシスの概念を創出したことで有名である。サンティアゴ出身。チリ大学で医学のちに生物学を学び、1954年よりロックフェラー財団の奨学金を得てロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで解剖学と神経生理学 (neurophysiology) を学び、1958年にハーヴァード大学で博士号を取得した。
■エンリケ・バリオス
Enrique Barrios、1945年 - は、チリの作家。1986年にチリで出版された『アミ 小さな宇宙人』はベストセラーになり、11ヶ国語に翻訳されている。1945年9月にチリのサンチアゴにて誕生。生後まもなくベネズエラのカラカスに引越し幼少期を過ごす。11歳の頃チリに戻ったが、その後もカリブ海地域を行ったり来たりしていた。若かりし頃から自己探求の為世界各地を旅する。その経験により更に哲学的に人生の意味、神の存在、死後の世界について考察を始めた。13歳の時に聖職に就くためカトリック系の学校に入学するが、何故自分の宗教が唯一だと信じ込んでいる宗教が世の中に沢山あるのか疑問に感じ退学してしまう。その後世の宗教は真実のごく一部に過ぎず、偉大なる真実とは誰にとっても共通に有効であるべきでそれは明白であるとの確信を持った。友人達に全ての宗教がまとまり、全ての人にとって共通である地点を探す事への興味を伝えていた。
■ワイナ・カパック
Huayna Capac、すばらしい若者、?-1527年、在位1493年-1527年)は、インカ帝国の11代サパ・インカ(皇帝)(上王朝6代目)である。父は10代インカ皇帝トゥパック・インカ・ユパンキ、母は現エクアドル南部のカニャーリ族の女と言われている。インカ皇族は通常兄と妹による近親結婚によって生まれた一族であり、最も有力な後継者候補は、この近親結婚により産まれた皇子になるが、父帝の正妻に皇子がなく、側室の子ながら父の後を継ぎ即位したと言われている。
■フランシスコ・ピサロ
Francisco Pizarro、1470年頃 - 1541年6月26日)は、スペイン人のコンキスタドール。ペルーのインカ帝国を征服した。カスティーリャ王国エストレマドゥーラのトルヒージョの生まれで、父はゴンサロ・ピサロ、母はフランシスカ・モラレス。父は軍人で小貴族、母は召使であったといわれる。教育されず、文字も知らないままで育った。
■オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナン
(Orelie-Antoine de Tounens、1825年5月12日‐1878年9月17日)は、フランス人の弁護士兼冒険家。1860年に南アメリカの先住民族マプチェ族の英雄、カウポリカンの再来であると称して、土地と人民を組み込みアラウカニア・パタゴニア王国を建国、同国の王位を戴いた(オルリ・アントワーヌ1世)。これがアントワーヌによる勝手な名乗りなのか、マプチェ族各部族の首長(loncos)たちに推挙された結果なのかは、識者によって見解が分かれる。
■ミルトン・フリードマン
Milton Friedman、1912年7月31日 - 2006年11月16日)はアメリカ合衆国ニューヨーク出身のマクロ経済学者である。マネタリズムを主唱して裁量的なケインズ的総需要管理政策を批判した。1976年、ノーベル経済学賞受賞。弟子にゲーリー・ベッカーがいる。「巨匠」や「異端児」、「小さな巨人」など数々の通り名を持つ。20世紀後半における自由主義的経済学者の代表的存在。戦後、貨幣数量説を蘇らせマネタリストを旗揚げ、裁量的総需要管理政策に反対しルールに基づいた政策を主張した。
■パトリシオ・エイルウィン
Patricio Aylwin Azocar、1918年11月26日 - )は、チリの政治家。同国大統領(第31代、1990年-1994年)などを歴任。アイルランド系チリ人。名誉法学博士(早稲田大学)などの称号を保有する。元大統領。ビーニャ・デル・マルにて父ミゲル・エイルウィンと母ラウラ・アソカルの5人兄弟の長男として生まれた。法律家の一家で、父は後にチリ最高裁長官を務めた。チリ大学科学・法・社会部で学び、弁護士になった。
■カルロス・イバニェス・デル・カンポ
(Carlos Ibanez del Campo,1877年11月3日 - 1960年4月28日)は、チリの軍人、政治家。同国大統領(第20・26代)、カラビネーロス・デ・チレ長官(初代)を歴任。フランシスコ・イバニェスとマリア・ニエベスの息子として1877年11月3日、リナーレスに生まれた。幼少時には父親が所有していたサンフランシスコの農場で生活していた。
■ロベルト・ボラーニョ
Roberto Bolano Avalos、1953年4月28日 - 2003年7月14日)はチリの小説家、詩人。 代表作として『通話』『野生の探偵たち』『2666』がある。チリのサンティアゴ出身。幼少期をロサンゼルス、バルパライソなどで過ごす。1968年、メキシコに移住。1973年、サルバドール・アジェンデを支持してチリに帰国。
■マルセロ・サラス
(Jose Marcelo Salas Melinao, 1974年12月24日 - )は、チリ共和国テムコ出身の元サッカー選手。チリ代表の歴代最多得点の記録保持者。インディオのマプチェ族から派生したアラウカナ族にルーツを持つ。1994年、ウニベルシダ・デ・チリでデビューを飾り、25試合で27得点を挙げる大活躍を見せる。翌年にはフランスW杯南米予選では11得点を挙げてチリを4大会ぶりのワールドカップ出場に導き、自身も南米最優秀選手に選ばれた。
■フェルナンド・ゴンサレス
(Fernando Francisco Gonzalez Ciuffardi, 1980年7月29日 - )はチリの首都サンティアゴ・デ・チレ出身の男子プロテニス選手である。2007年の全豪オープン男子シングルス準優勝者であり、アテネ五輪のダブルス部門で金メダル、シングルス部門で銅メダル、北京五輪のシングルス部門で銀メダルがある。シングルス自己最高ランキングは5位(2007年1月)。
■マヌエル・プラサ
(Manuel Plaza Reyes、1900年3月17日 - 1969年2月9日)は、チリの元陸上競技選手。1928年のアムステルダムオリンピックのマラソンでチリのオリンピック選手として初めて母国に銀メダルをもたらした。タイムは2時間33分23秒であった。また彼は1924年に行われたパリオリンピックにも出場しており、その時は2時間52分54秒で6位だった。
■ホルヘ・ガルシア
(Jorge Garcia, 1973年4月28日 - )はアメリカ合衆国の俳優。ネブラスカ州オマハ出身。父親はチリ出身の医師、母親はキューバ出身の大学教授。舞台に出演したり、スタンダップ・コメディアンとして活躍し、テレビにも出演するようになる。『スピン・シティ』やコメディ『Becker』に出演した後、人気ドラマ『LOST』のハーリー役でブレイクしたが、元々は、マシュー・フォックス、ドミニク・モナハンとともにソーヤー役のオーディションに参加していた。
■マルレーネ・アーレン
Marlene Ahrens Ostertag 1933年7月27日 - )は、チリのコンセプシオン出身の女性陸上競技選手。メルボルンオリンピックにチリ選手団の中で唯一の女性選手として出場、やり投で50m38cmを投げて銀メダルを獲得した。チリの女性選手でオリンピックメダルを獲得したのはこれまでのところ彼女1人である。
■エリアス・フィゲロア
(Elias Ricardo Figueroa Brander、1946年10月25日 - )は、チリ出身の元サッカー選手。史上屈指のセンターバックとされ、国際サッカー歴史統計連盟による最優秀サッカー選手では、南米出身のDFで最上位となる37位にランクされている。サンティアゴ・ワンダラーズから16歳でデビューし、すぐに頭角をあらわす。1967年には前年南米王者に輝いたCAペニャロールへと移籍。1967年、1968年とリーグ連覇し、フィゲロアも2年連続でリーグ最優秀選手に選ばれた。
■レオネル・サンチェス
(Leonel Sanchez、1936年4月25日 - )は、チリ出身のサッカー選手。ポジションはFW。チリ代表での国際デビューは1955年9月19日のブラジル代表戦。1962年FIFAワールドカップ・チリ大会で4得点を挙げ、ガリンシャ、ババ、ドラジャン・イェルコヴィッチ、アルベルト・フローリアーン、ワレンチン・イワノフと並び得点王となった。
■フランシスコ・バレーラ
(Francisco Javier Varela Garcia, チリ、タルカワノ、1946年9月7日 ― パリ、2001年5月28日) はチリ生まれの生物学者・認知科学者。オートポイエーシス理論の提唱で知られる。 1980年にチリ大学の生物学教授として再びチリに帰国した後、1986年からはパリに拠点を定め、1988年よりその死までフランス国立科学研究センター (CNRS) で研究部長を勤めた。1987年にはチベット仏教と科学者との対話を通じて心の科学の発展をめざす団体の設立にかかわり、ダライ・ラマ14世をはじめとする仏教徒との会議を開催している。
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チリ Chile
南アメリカ南部に位置する共和制国家である。東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接しており、西と南は太平洋に面している。首都はサンティアゴ・デ・チレ。
1818年にスペインより独立した。アルゼンチンと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島及びポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、アルゼンチン、イギリスと同様にチリ領南極として知られる南極の1,250,000 km2の領有権を主張している。
■サンティアゴ
サンティアゴ・デ・チレ(Santiago de Chile)、通称サンティアゴ (Santiago) は、チリ共和国の首都である。チリ中央の盆地に位置し、首都機能を有するが、ただし、国会はバルパライソにある。人口は466万8473人。近郊を含む都市的地域の人口は580万人と世界第48位で、南米有数の世界都市である。サンティアゴは、1541年2月12日にスペイン人の征服者ペドロ・デ・バルディビア(Pedro de Valdivia)によりサンティアゴ・デ・ヌエバ・エクストレマドゥーラ(Santiago de Nueva Extremadura)市として建設された。
■アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港
Aeropuerto Internacional Comodoro Arturo Merino Benitezは、チリの首都、サンティアゴ・デ・チレにある国際空港。1967年に開港。ラン航空の主要ハブ空港である。当初の名称プダウェル国際空港や、サンティアゴ国際空港とも呼ばれる。
■サニャルトゥ空港
Aeropuerto Guardiamarina Zanartuとは、南アメリカ最南近くのフエゴ諸島のチリ領ナバリノ島にある世界最南の町村プエルト・ウィリアムズにある空港である。
■ビーニャ・デル・マル空港
(Aeropuerto Vina del Mar)は、チリ共和国バルパライソ北東のビニャ・デル・マールにある空港。小型機用の滑走路一本の施設である。
■マタベリ国際空港
Mataveri International Airportはチリのイースター島にある国際空港。
■ランカグア空港
(Aeropuerto De la Independencia)は、チリのオイヒンス州の州都ランカグアにある空港。
■チリ大学
Universidad de Chileとはチリ最大かつ最古の高等教育機関であり、アメリカ州全体で見ても同様である。1842年にかつての植民地時代の王立サン・フェリペ大学(1738)の延長として創設された。しばしば初代総長アンドレス・ベーリョに因んでCasa de Bello(ベーリョの館)とも呼ばれる。チリ大学の著名な出身者にはノーベル賞受賞者が二人存在し(パブロ・ネルーダとガブリエラ・ミストラル)、二十人の国家元首とその他にも大勢の人物が存在する。
■マガジャネス大学
Universidad de Magallanes UMAGは、チリ南部プンタアレナスに本部にある大学。1961年にチリ国立工業大学プンタアレナス校が、現在のマガジャネス大学の本部敷地に実現したのが、前身である。1981年に総合大学『マガジャネス大学』として発足する。
■サンティアゴ大学
Universidad de Santiago de Chile、通称:USACHはチリの首都サンティアゴ・デ・チレに所在する国立大学である。「サンティアゴ大学」、「ウサッチ」と表記される事もある。
■チリ国鉄
Empresa de los Ferrocarriles del Estado(国有鉄道会社の意味)、略称EFE)は、チリの国有鉄道である。チリの鉄道は、1852年に民間の事業者により銀鉱山の町コピアポと港町カルデラ (Caldera) を結ぶ路線が開通したことに始まる。また首都サンティアゴとその外港バルパライソを結ぶ路線も1863年に開通した。その後、チリ政府はサンティアゴから人口と産業の集中する南部へ向けて路線網を建設する民間の請負業者を募集し建設に当たらせたが、この民間会社が資金難に陥ったために1873年に買収して国有化し、1884年1月4日に国有鉄道会社 (EFE) が成立した。
■サンティアゴ地下鉄
Metro de Santiago)は、チリの首都サンティアゴ・デ・チレの地下鉄で、南アメリカで最も発展した地下鉄網である。まだ建設中のものを含めると、全部で6つの路線、120の駅がある。サンティアゴ地下鉄は毎日250万人の旅客を輸送している。
外務省:チリ共和国
在チリ日本国大使館
■サンティアゴ中央郵便局
Correo Central de Santiago)は、チリの郵便組織コレオス・デ・チレ(スペイン語: Correos de Chile)の本局である。サンティアゴ市内、プラザ・デ・アルマスの北側の一角を占めており、国立歴史博物館に近い、橋と大聖堂のある一角にあたる。1908年に建築家・ラモン・ファーマン(Ramon Fehrman)の手によって、フランスの新古典主義建築の影響を受けた設計で改築された。
■チヤン
チリのビオビオ州にある都市。チジャン、チリャンなどとも表記される。首都のサンティアゴ・デ・チレから南へ400kmほど行った同国の中央部に位置し、ニュブレ県の中心都市にもなっている。人口は約17万人だが、周辺地域を含むと25万3000人となる。街なかには鉄道駅、都市間バスターミナル、コンセプシオン大学の施設、軍事連隊基地などが置かれている。
■タルカ
Talcaは、チリの都市。首都のサンティアゴ・デ・チレから南へ240kmの地点に位置する、タルカ県とマウレ州の中心都市である。2002年国勢調査時の人口は19万3755人。1742年と1928年の地震で少し被害をこうむったが、そのたび復興を遂げた。2010年のチリ地震では震源が近くだったため大きな揺れを受け、旧市街の多くが崩壊した。1818年にはホセ・イグナシオ・シエンフエゴス上院議長とベルナルド・オイギンスがこの地でチリの独立を宣言した。
■アントファガスタ
(Antofagasta) は、チリの北部にある都市、第II州-アントファガスタ州の州都である。2002年における人口は約32万人。太平洋に面した港湾都市である。チリの産物の輸出の他、ボリビアの産物の輸出に関しても重要な港である。特に、チュキカマタの銅鉱の積出港としての役割が重要である。
■プンタアレナス
(Punta Arenas)は、南アメリカ大陸チリ共和国最南部マガジャネス・イ・デラ・アンタルティカ・チレーナ州(XII州)の州都である。ブルンスウイック半島の根元に位置し、マゼラン海峡(マガリャネス海峡)中間部にあたり、この地域の中心都市である。
■プエルトモント
(Puerto Montt)は、チリ南部にある都市で、ロス・ラゴス州の州都。パン・アメリカン・ハイウェイが通じているため、長距離バスの運行が盛ん。サンティアゴ(片道14時間)のほか、バルパライソなど各都市へ向けたバスが多数の会社により運行されている。
■アリカ
(Arica)は、チリ最北部、ペルーとの国境に近いアリカ・イ・パリナコータ州の港湾都市。アタカマ砂漠北部の乾燥地帯にある。考古学的調査により現在のアリカの場所には、少なくとも1万年の間、異なる原住民が居住していたことが判明した。 アリカは1541年にスペイン人のルーカス・マルチネス・デ・ベガゾ (Lucas Martinez de Begazo) が創設した。1545年より町はポトシ銀山から産出される銀の輸出港となった。
■イキケ
イキケ地域には、紀元前7千年以上前から人類が居住していたことは判明している。西洋人によって発見されたのは16世紀のことである。その後、スペインの植民地を経て、19世紀末にはペルー領となっていた。19世紀末におけるイキケの主要産業はアタカマ砂漠で産出される硝石によるものであった。
■ラ・セレナ
(La serena)は、チリ中部コキンボ州の都市で、同州の州都。首都サンティアゴ・デ・チレの北方約470kmに位置する。観光地として発達しており、チリ国内のみならずアルゼンチンからも観光客が訪れる。チリで二番目に古い町として知られる。
■バルパライソ
(Valparaiso)はチリの首都サンティアゴに近い港町(サンティアゴより約120km)。国会が所在し、チリの立法首都の役割を果たしている。もともとは、マゼラン海峡を航海してきた船が停泊する港として栄えた。パナマ運河完成後は重要度が低下し、人口減少が続いた。1990年には首都サンティアゴより国会議事堂が移転した。
■ランカグア
(Rancagua)は、チリの都市。人口214,344人(2002年)チリ中部に位置し、リベルタドール・ベルナルド・オイギンス州(オイギンス州)の州都である。首都サンティアゴからは87km南に位置する。ランカグアの経済は鉱業、製材、観光、農業、食品工業、および地域の中心としての商業からなっている。
■タルカ
Talcaは、チリの都市。首都のサンティアゴ・デ・チレから南へ240kmの地点に位置する、タルカ県とマウレ州の中心都市である。市街は1742年に初代スペルンダ伯のホセ・アントニオ・マンソ・デ・バラスコによりサン・アグスティン・デ・タルカの名で建設された。1742年と1928年の地震で少し被害をこうむったが、そのたび復興を遂げた。
■コンセプシオン
(Concepcion)は、チリ中南部にある商工業都市で、ビオビオ州の州都。コンセプシオンは1550年、コンキスタドールのペドロ・デ・バルディビアによってビオビオ川の北岸、現在のベンコ(Penco)地区に創設された。設立当初の町の名前はConcepcion del Nuevo Extremoであった。入植者は、チリ人、スペイン人の領土とマプチェ族の土地の間のラ・フロンテラ(La Frontera)地区の北側数キロメートルに住んだ。マプチェ族はアメリカインディアンの部族で、1870年代まで抵抗を続け支配されることはなかった。
■コイハイケ
Coihaique/Coyhaiqueはチリのアイセン・デル・G・カルロス・イバニェス・デル・カンポ州の州都。人口は約5万人。コイハイケはパタゴニアの中でも風光明媚な場所として知られ、シンプソン川とコイハイケ川に挟まれており、周囲の山には万年雪が見られる。年間降水量は1,200mmほどであるが、海から遠くないにも関わらず、急峻なアンデス山脈の麓にある。このため、天候の変化が大きく、日によっては「四季を一日で体験できる」といわれるほどである。
■ビニャ・デル・マール
(Vina del Mar)はチリ中部・バルパライソ州の都市。州都のバルパライソの北東に位置する。人口約30万人。バルパライソと首都サンティアゴが鉄道で結ばれてから、サンティアゴ市民の観光リゾート都市として発展した。市街地や海岸部は南欧風に整備され、海浜保養施設や娯楽施設も整っている。
■タルカワノ
Talcahuano)は、チリ・ビオビオ州にある基礎自治体であり、港湾都市でもある。コンセプシオン都市圏の一部。タルカワノという名前は、スペイン人が到達したその地域の住民マプーチェ人の族長であるタルカワノ(Talcahuenu) に因む。マプチェ族の言語マプチェ語で「雷鳴とどろく空」を意味する。
■プエルトモント
(Puerto Montt)は、チリ南部にある都市で、ロス・ラゴス州の州都。人口は17万5938人(2002年推定)。パン・アメリカン・ハイウェイが通じているため、長距離バスの運行が盛ん。サンティアゴ(片道14時間)のほか、バルパライソなど各都市へ向けたバスが多数の会社により運行されている。
■トランスペアレンシー・インターナショナル
(Transparency International, 略称:TI)は、腐敗、特に汚職に対して取り組む国際的な非政府組織である。世界中の腐敗をリスト化した「腐敗認識指数」(Corruption Perceptions Index) を毎年発表していることで知られる。本部所在地はドイツ・ベルリン。トランスペアレンシーとは「透明性」の意。
■国名
公式の英語表記は Republic of Chile。通称 Chile (チリ)。チレ(Chile)という言葉の語源には諸説あり、ケチュア語で「寒い」、アイマラ語で「雪」、マプーチェ語で「世界の果て」を意味しているなどの説がある。なお、植民地時代初期はスペイン語でもChiliと表記されていたこともあった。
1.面積:756,000平方キロメートル(日本の約2倍)
2.人口:1,680万人(2008年 世銀)
3.首都:サンティアゴ
4.民族:スペイン系75%、その他の欧州系20%、先住民系5%
5.言語:スペイン語
6.宗教:カトリック(全人口の88%)
1818年 事実上の独立
1970年 アジェンデ社会主義政権誕生
1973年 クーデターによりピノチェット軍事政権誕生
1980年 新憲法草案に対する国民投票の実施
1981年 新憲法発効
1988年 ピノチェット大統領信任投票
1989年 大統領選挙、国会議員選挙
1990年 エイルウィン政権成立(民政移管)
1994年 フレイ政権成立
2000年 ラゴス政権成立
2006年 バチェレ政権成立
2010年 ピニェラ政権成立
■主要産業:鉱業、商業、農業、農産加工業
■主要貿易品目(1)輸出 銅、モリブデン、木材・チップ、サケ・マス、メタノール、果物、魚粉(2)輸入 石油・石油製品、輸送機器、通信機器、金属製品、天然ガス、化学製品
■チリ・ペソ
Peso)はチリの通貨。1817年から1960年にかけて旧チリ・ペソが、1975年より現行のチリ・ペソが流通している。通貨記号は$。ISO 4217の通貨コードはCLP。補助単位は100分の1のセンターボだが、現在は通貨として流通していない。
■工業国
アジア太平洋経済協力(APEC)に加盟しており、メルコスール準加盟国であるゆえに南米共同体にも加盟している。また、ブラジルやアルゼンチンなどともにラテンアメリカで最も工業化された国の一つであり、域内ではベネズエラ、アルゼンチン、ブラジル、メキシコとともに中進国とされ、2007年からOECD加盟に向けて交渉を進め、2010年5月7日に加盟を果たした。
■アジア太平洋経済協力
Asia-Pacific Economic Cooperation、略称:APEC[2])は、環太平洋地域における多国間経済協力を進めるための非公式なフォーラム[3]である。APECは、1989年にオーストラリアのホーク首相の提唱で、日本・アメリカ合衆国・カナダ・韓国・オーストラリア・ニュージーランド及び当時の東南アジア諸国連合 (ASEAN) 加盟6か国の計12か国で発足し、オーストラリアのキャンベラで閣僚会議(Ministerial Meeting)を開催した。
■一次産業
農業については、果樹類の生産が特筆される。16世紀からポトシ市場向けにワインの原材料としてぶどうが広く生産されている。1970年代には過剰生産とワインの品質低下がたたって、一時生産量が低迷したが、ワインの品質改良などの地道な努力が功を奏し、1990年代以降は再び生産量を増やしている。
■コンセルタシオン・デモクラシア
(Concertacion de Partidos por la Democracia)は、チリの中道〜中道左派政党連合の名称である。正式には民主主義のための政党盟約(コンセルタシオン)と称する。アウグスト・ピノチェト将軍の軍事独裁政権が終わりを告げた1989年以来2010年まで一貫して政権を握っていた。コンセルタシオンは、軍事政権の延長の是非を問うため1988年10月に行われた国民投票に際し、軍政延長反対派のキリスト教民主党やチリ社会党及び“民主主義のための政党”など16政党が統一協定を結び同年2月に結成された「ノーをめざす運動本部」(Concertacion por el No)を母体として、1989年7月6日に結成された。
■チリの奇跡
Miracle of Chile)とは、ノーベル経済学賞受賞者のミルトン・フリードマンが1980年代から2000年代にかけてチリ国内で行った新自由主義的改革の成果を指して用いた言葉。一連の経済改革は経済的自由主義、国営企業の民営化そして物価の安定という3つの主たる目標に向け、所謂「シカゴ・ボーイズ」(シカゴ大学出身の経済学者)が立案。
■人民戦線
Front Populaire f.)は、反ファシズム、反帝国主義、反戦主義を共同目標とする集団であり、その起源はフランスの労働階級における統一戦線から発展したものであるが、人民戦線という言葉は1935年の第7回コミンテルン世界大会においてブルガリア共産党の指導者ゲオルギ・ディミトロフによる提唱の後に一般化した。フランス・スペイン・チリでは政権を掌握し、労働改革・社会改革などを実現した。
■チリ共産党
Partido Comunista de Chile, PCCh)は、チリ共和国の共産主義政党。1912年にルイス・エミリオ・レカバーレンらによって、チリ社会主義労働党として結成され、1922年にチリ共産党に改称した。1920年代にはイバーニェス大統領の下で非合法化を経験するが、1930年代にはチリ社会党、急進党などと共闘する人民戦線戦術によって勢力を拡大した。
■人民連合
Unidad Popular、 UP)は、チリで1960年代末から70年代にかけて存在した左翼政党連合である。1970年に成立したアジェンデ政権の与党であったが、73年のクーデターによって崩壊した。日本では、国名を加えて「チリ人民連合」と称されることも多い。
■キリスト教民主党
Partido Democrata Cristiano de Chile、PDC)は、キリスト教民主主義に立脚するチリ共和国における中道政党で、2010年まで与党の座を維持し続けていた「コンセルタシオン・デモクラシア」(民主主義のための政党盟約)の一員である。
■アラウカニア制圧作戦
Occupation of the Araucania)は、1861年から1883年にわたり、陸軍と移民者によるアラウカニア地区の併合を目的としチリ政府が展開した政策と侵攻を主な手段とした戦役の総称。アラウカニアの先住民族はマプチェ族と呼ばれ、古からインカ帝国の進入を食い止め、スペインの南アメリカ進出以降も300年間にわたってアラウコ戦争と呼ばれる反抗を続けてきた。マプチェとインカ帝国の国境がマウレ川であったように、スペインの移住者とマプチェ族はビオビオ川を境界線として対峙していた。
■アラウコ戦争
(La Guerra de Arauco)とはチリ南部に居住していた先住民族のマプチェ族と、 スペイン人征服者、及び独立後のチリ共和国の間での戦争である。マプチェ族の不屈の闘志により、戦争はマプチェ族が完全に征服されるまで、実に300年以上にも及んだ。
■チュキカマタ
南米チリ北部にある、世界最大の露天掘りの銅山。海抜3,180mの高地にある。太平洋沿いのアントファガスタは銅鉱の積出港。米国のアナコンダが経営していたが、1969年に国有化されチリ銅公社が採掘を行っている。
■カラマ
Calama)は、チリ北部、アタカマ砂漠にある市。世界最大の露天掘りの銅山であるチュキカマタ銅山のベッドタウンである。 今まで一滴も雨の観測はされていない。
■テムコ
Temuco)は、チリ南部ラ・アラウカニア州のカウティーン県にある都市で、州都。首都サンティアゴ・デ・チレの南約670kmに位置する。 人口は2002年現在28万7,326人。インディオ(マプーチェ族)の市場がある。
■国民
リの人口は約1,750万人程であり、1990年代から出生率の低下と共に人口増加率は低くなっている。2050年までには人口2,020万人に達すると見積もられている。国民の85%が都市部に居住し、内40%が大サンティアゴ都市圏に居住している。チリの国民は約95%がヨーロッパ系の白人もしくはメスティーソであり 、人口の52,7%[24] が純粋な白人であり、44,1%が白人系メスティーソとなっている。
■カラビネーロス・デ・チレ
Carabineros de Chile、チリの騎兵隊)は、チリの警察軍。単にカラビネーロス(Carabineros)と呼ばれることも多い。陸軍、海軍、空軍に継ぐ第4の軍であり、形式上は国防省の指揮下とされているが、平時は事実上内務省の指揮下にある。任務は国法の遵守に基いて、平時は国内の社会秩序の維持や教育など警察業務を行い、有事の際には準軍事作戦を行なうことである。
■言語
チリの公用語はスペイン語(チリ・スペイン語とチロエ・スペイン語)であり、日常生活でも広く使われている。その他にはインディヘナによってマプーチェ語や、ケチュア語、アイマラ語、ラパ・ヌイ語、ウイリンチェ語などが話されており、植民地時代にマプーチェ人はアラウカナイゼーションを進めたため、マプーチェ語はチリ最大の非公用語言語となっている。また、移民のコミュニティ内でドイツ語やイタリア語やクロアチア語が話されることもある。
■宗教
チリは伝統的にローマ・カトリックの国だったが、2002年のセンサスによればカトリックは国民の70%程となっており、福音派、またはプロテスタントが15%、エホバの証人が1%、末日聖徒イエス・キリスト教会が0.9%、ユダヤ教が0.1%、その他が4.4%、無宗教が8.3%、ムスリムと正教はそれぞれ0.1%以下である。
■教育
19世紀にフランスとドイツの制度を参考に近代的教育制度が確立された。6歳から13歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となり、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。識字率は約96.4%であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、キューバと共にラテンアメリカで最も高い部類に入る。
■パペルーチョ
(Papelucho)は、チリの作家、マルセラ・パスの童話シリーズ。またその童話の主人公の名前。1947年に第1巻が発売され、全シリーズ本編は12巻。2007年にアニメの映画化された。チリの児童文学の最も重要な本だと考えられ、子供に必要な読書とみなされる。世界中でも色々な言語に翻訳されている。
■文学
チリは大衆的伝統の中で多くの詩人を生み出してきた。これはチリの文学者の持つ長い歴史に相応して重要なことであり、特に詩の分野において傑出した人物としてはニカノル・パラ、ビセンテ・ウイドブロ、ホルヘ・テイジエール、エンリケ・リン、ゴンサロ・ロハス、パブロ・デ・ロカが挙げられ、ガブリエラ・ミストラルとパブロ・ネルーダはノーベル文学賞を、ミストラルは1945年に、ネルーダは1971年にそれぞれ受賞した。
■映画
チリ出身の著名な映像作家としては、『戒厳令下チリ潜入記』、『サンディーノ』のミゲル・リティンや『クリムト』(2006)のラウル・ルイス、ボリス・ケルシア、アレハンドロ・ホドロフスキー(チリ出身)などが挙げられる。
■音楽
チリのフォルクローレにおいてはクエッカと呼ばれるリズムが中央部で発達し、その他に北部のケチュア人、アイマラ人にはワイニョなどが、南部のマプーチェ人や、パスクア島のポリネシア系住民にも独自のフォルクローレが存在する。
■インティ・イリマニ
(Inti-Illimani)は、チリのフォルクローレグループである。歌を通じて社会変革を目指したヌエバ・カンシオン運動を代表するグループである。名前は、インティはインカ帝国の公用語だったケチュア語で太陽を、イリマニ (チリでは、しばしば「イジマニ」と発音される)はボリビア・アンデスの高峰の名前である。
■ヌエバ・カンシオン
(Nueva cancion)は、「新しい歌」を意味するスペイン語である。キューバなどでは、ヌエバ・トローバ(Nueva trova)とも呼ばれる(意味は同じ)。字義通りの新しい歌という意味ではなく、音楽を通した社会変革運動として、1960年代以降ラテンアメリカ各地で大きく盛り上がり、特にアジェンデ政権のチリ、革命後のキューバ、アルゼンチン、メキシコなどでは優れた音楽家を輩出した。
■キラパジュン
(Quilapayun)は、チリのフォルクローレのグループ。1965年より、長い間、チリのフォルクローレを担っていた、政治的メッセージの強いヌエバ・カンシオンの代表格である。1965年に、フリオ・ナムハウセル(Julio Numhauser)、フリオ・カラスコ(Julio Carrasco)、エドゥアルド・カラスコ(Eduardo Catrrasco)によって結成。グループ名「キラパジュン」(Quilapayun)は「三人のひげ男」という意味のチリ先住民マプーチェの言葉による。 チリ大学におけるバルパライソが最初のコンサートである。パトリシオ・カスティージョ(Patricio Castillo)が加わり、アンデスの音楽をイメージして黒いポンチョをかぶった衣装を身に着けた。その後フォルクローレの巨匠のビオレータ・パラ(Violeta Parra)の息子のアンヘル・パラ(Angel Parra)、1966年からはビクトル・ハラ(Victor Jara)と長く共演することとなる。ちなみにキラパジュンの最初のレコード録音はアンヘル・パラ作曲の「民衆」(El Pueblo)である。
■ガブリエラ・ミストラル
Gabriela Mistral, 1889年4月7日 - 1957年1月10日は、チリの女流詩人、教育者、外交官。本名はルシラ・ゴドイ・アルヤガ(Lucila Godoy Alcayaga)。1945年にラテンアメリカ圏で初となるノーベル文学賞を受賞。「ラテンアメリカの母」との敬称を受ける。同国でもっとも尊敬される教育者でもあり、同国の「5000チリ・ペソ」紙幣の肖像画となっている。バスク系チリ人。チリ北部のビクーニャに生まれる。3歳の時、父親のフアン・ジェロニモ・ゴドイが出奔。送金が途絶えたため、異父姉が働くアンデス山中の寒村で9歳まで過ごす。転校先で放校処分を受け、独学で詩を書き始める。14歳の時、小学校の代用教員就任をふり出しに、独学で教員資格をえて、教師や学校長として国内各地に赴いた。
■パブロ・ネルーダ
Pablo Neruda, 1904年7月12日 - 1973年9月23日は、チリの国民的英雄である詩人であり、外交官・国会議員でもあった。ネルーダは筆名で、本名はリカルド・エリエセール・ネフタリ・レイエス(Ricardo Eliecer Neftali Reyes Basoalto)。チェコの詩人ヤン・ネルダから筆名を取ったが、後にこれを本名とした。バスク系チリ人。1934年、外交官としてスペインに赴任した。スペイン内戦を目の当たりにして共産主義に接近し、人民戦線とスペイン共和国を支援した。1945年には上院議員に当選、同時にチリ共産党に入党したが、1948年にビデラ政権によって共産党が非合法化されたため、国外逃亡を余儀なくされた。イタリア亡命時代を題材に映画『イル・ポスティーノ』が作られた。
■ホセ・ドノソ
Jose Donoso、1924年10月5日 - 1996年12月7日は、チリ・サンティアゴ出身の作家、小説家、教師、ジャーナリスト。ザ・グランジェ・スクール卒業。1955年に物語の編集Verano y otros cuentosで作家デビューした。彼の最初の小説、Coronacionはラテンアメリカとスペインで大ヒットし、2000年に映画化された。彼の作品は絶えず社会問題や同性愛などのテーマを扱った。1973年にアウグスト・ピノチェトのチリ・クーデターののち、迫害は彼にもおよび、スペインに亡命した。
■ルイス・セプルベダ
Luis Sepulveda、1949年10月4日 - はチリの小説家。元アナーキストの祖父の影響で、青年期には社会主義運動に傾倒する。1973年9月にアジェンデ人民連合政権がアウグスト・ピノチェトのチリ・クーデターによって倒れると、同年末に逮捕・投獄され942日間の獄中生活を送る。アムネスティの働きかけで釈放された後もラテンアメリカ各地で社会主義活動を行うが、1980年にニカラグアで国外追放処分を受けヨーロッパへと渡る。ドイツの雑誌社に勤めラテンアメリカ各地のルポ活動を行う一方、グリーンピース運動にも参加した。
■ビオレータ・パラ
Violeta del Carmen Parra Sandoval, 1917年10月14日 - 1967年2月5日は、チリのフォルクローレの音楽家であり、歌を通じた社会変革を目指したヌエバ・カンシオン (新しい歌)運動の先駆者であった。チリ中部のチジャン近郊で生まれた。父親は小学校の音楽教師だったが、急進党党員であったため、政治的弾圧によって失職し、ビオレータが小学生の頃、結核で亡くなった。一家は極貧生活に陥り、ビオレータは、姉のイルダ・パラとデュオで、食堂や酒場で歌い、生活費と食料を稼いだ。
■ビクトル・ハラ
Victor Jara、1932年9月23日 - 1973年9月16日はチリのフォルクローレのシンガー・ソングライターであり、演劇人、舞台演出家でもあった。歌を通じて社会変革を目指した「ヌエバ・カンシオン(新しい歌)」運動Nueva cancionの旗手の1人として知られる。チリ南部チジャンの貧しい農家に生まれ、10歳の時首都サンティアゴに家族で移住。16歳の頃パントマイム劇団に加入し、その後チリ大学演劇学部に入学。同じ頃、民謡の研究演奏集団にも加入。1961年、チリ大学付属演劇研究所に勤務し、舞台演劇の演出を次々と手がける。それと並行し、1965年頃からシンガーソングライターとしての活動も開始する。
■ミゲル・リッティン
ミゲル・リッティン (Miguel Littin)はチリ出身の映画監督、脚本家。父親はパレスチナ人、母親はギリシャ人。これまで二度カンヌ国際映画祭のパルム・ドールにノミネートされている。1992年から1994年、1996年から2000年までの間、パルミージャの市長を務めた。
■アレハンドロ・ホドロフスキー
アレハンドロ・ホドロフスキー(スペイン語:Alexandro Jodorowsky,国によってはAlejandro Jodorowsky 1929年2月7日 - )はチリ出身の映画監督。チリのボリビア国境近くの小さな町でロシア系ユダヤ人の子として生まれる。12歳の時にサンティアゴへ移住。サンティアゴ大学で心理学・哲学を学んでいたがマルセル・カルネの『天井桟敷の人々』に感動し、パントマイムにのめり込んだ後大学を中退。パリで単身放浪生活を送る中、マルセル・マルソーと知り合い、共にメキシコシティーへ渡り100以上の芝居を演出する。
■ペドロ・デ・バルディビア
Pedro de Valdivia、1500年 - 1554年1月1日は、スペイン王国の探検家、コンキスタドール、チリの征服者。イタリア戦役のベテランでフランシスコ・ピサロの腹心だった。エストレマドゥーラ地方の現在のバダホス県ビジャヌエバ・デ・ラ・セレーナ出身。1540年、少数の兵を率いてペルー南の土地を占拠する為に新たな遠征を敢行すべくクスコを出発した。アタカマ砂漠などを乗り越え陸路で1年進行した後に1541年2月12日、マポチョ川辺、現在のサンタ・ルシアの丘付近に現在のチリの首都であるサンティアゴ市を建設した。
■クラウディオ・アラウ
(Claudio Arrau Leon 1903年2月6日 - 1991年6月9日)は、南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。早くから神童として知られ、5歳で最初のリサイタルを持った。1911年にサンティアゴでデビューし、同年チリ政府の援助によってドイツに留学。ベルリンのシュテルン音楽院で、リストの高弟であるマルティン・クラウゼに師事(同門にエトヴィン・フィッシャーがいる)。ベルリンでのデビューは1914年。大成功を収め、以後ニキシュ、メンゲルベルク、フルトヴェングラーらの大指揮者と共演。ヨーロッパでの名声を確立する。
■ラモン・ヴィナイ
Ramon Mario Francisco Vinay Sepulveda, 1912年8月31日 - 1996年1月4日は、チリ生まれのオペラ歌手。1940年代から60年代にかけてテノールおよびバリトンの両声域で活躍した。特にヴェルディ『オテロ』で数多くの名演を残したことで有名。幼くして母親を亡くし、1920年に父親らと共にフランスに移住、ディーニュ=レ=バンに育つ。1928年には単身でメキシコに再移住、同地で歌唱の才能を認められ、初めバリトンとして訓練を受ける。初舞台は1931年9月16日、メキシコ・シティ、ベラス・アルテス劇場にて、ドニゼッティ『ラ・ファヴォリータ』のドン・アルフォンソ役。
■アタワルパ
(英: Atahualpa、ケチュア: Atawallpa:幸福な鶏、1502年頃-1533年8月29日、在位:1532年-1533年)は、インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)である(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル)。父は11代インカ皇帝ワイナ・カパック。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位した。
■ウラジミール・ヴェガ
(Vladimir Vega)はチリ出身でイギリスで活躍する俳優・ミュージシャン。ピノチェト政権下で5年服役した経験がある。その後イングランドに渡り、音楽活動を続けていたが、1994年にケン・ローチ監督の「レディバード・レディバード」で主人公ホルヘを演じて俳優としてデビューした。
■ダニエル・エミルフォーク
Daniel Emilfork、1924年4月7日 − 2006年10月17日は、フランスの舞台俳優兼映画俳優。ウクライナ人とユダヤ人の出身である。チリのサン・フェリペ生まれ。両親は、ウクライナのオデッサ出身。ユダヤ人虐殺から逃れるためチリに定住したのだという。彼が25歳の時チリを離れ、フランスに落ち着いた。チリではホモセクシュアルである自分には居心地が悪かったためだという
■セルヒオ・バディーリャ・カスティーリョ
(Sergio Badilla Castillo、1947年11月30日-)はバルパライソで生まれたチリの詩人で、現代詩におけるトランスレアリスムを確立した人物である。彼はフィンランド人のEdith Sodergran、Elmer Diktonius、Paavo Haavikko、Pentti Saarikoskiやスウェーデン人のGunnar Ekelof、Tomas Transtromer、Lars Gustafssonなど北欧の詩人の影響を強く受けていると考えられている。カスティーリョはチリ大学でジャーナリズムを学び、1972年に卒業した。またストックホルム大学でも社会人類学を学んだ。
■ニコラス・マスー
(Nicolas Alejandro Massu Frir, 1979年10月10日 - )は、チリ・ビーニャ・デル・マール出身の男子プロテニス選手。2004年のアテネ五輪にて、男子シングルス・男子ダブルスともに金メダルを獲得した選手である。これまでにATPツアーでシングルス6勝、ダブルス1勝を挙げている(オリンピックの単複金メダルを含む)。
■クラウディオ・ブラーボ
(Claudio Bravo、1936年11月8日 - 2011年4月6日)は、チリの画家。バルパライソ州バルパライソ出身。スーパーリアリズムに分類される写実的な作品を手がけており、静物画や肖像画などの作品を得意とした。スペインで主に活動し、晩年はモロッコのタンジェで暮らしていた。
■イバン・サモラーノ
(Ivan Luis Zamorano Zamora、1967年1月18日 - )は、チリ出身の元サッカー選手、現在は指導者。選手時代はフォワードを務め、チリ代表のエースストライカーとしても活躍。空中戦に強かった事から、「ヘリコプター」の異名をとった。レアル・マドリードに所属した4年間でリーグ戦137試合に出場し、77得点を記録。リーグ、カップ、スーパーカップを獲得した。移籍初年度に26得点を挙げたほか、1994-1995シーズンには28得点を挙げて得点王に輝いた。
■アレクシス・サンチェス
(Alexis Alejandro Sanchez Sanchez, 1988年12月19日 - )は、チリ・アントファガスタ州トコピジャ県出身のサッカー選手。ポジションはFW(ウイング、セカンドトップ)。貧しい家庭に生まれ、練習後にスタジアムでアルバイトをして生計を助けた[1]。15歳の時にチリの新興クラブCDコブレロアの下部組織に入団し、16歳だった2005年にプロデビュー。2011年7月にFCバルセロナと5年契約を結び、クラブ初のチリ人選手となった。移籍金は2600万ユーロ(約29億4000万円)であり、成績次第で1150万ユーロ(約13億円)が上乗せされる。
■カレン・パオラ
(Karen Paola、1985年2月9日 - )は、チリの女性歌手である。2003年のTeam Mekano(チーム・メカノ)に最初に選ばれたうちの一人。すぐにMekanoで人気になり、歌手として活動を始める。初めは、「Ven Ven Ven」と「Viva la Noche」のようなショーで歌っていた。
■カロリナ・ソト
(Carolina Soto、本名:Carolina del Rosario Soto Munoz、1983年6月29日 - )は、チリ・ランカグア出身の女性歌手である。2002年は、TVN系『Rojo Fama Contra Fama』のオーディションで選ばれ、歌手デビュー。その年の終わりは第3位に勝った、そして永久に次の生成を支えるショーにとどまる権利 2003年12月は叙情詩の歌手の依頼によりサンティアゴの市劇場の認識を得た。
■コルネリオ・サアベドラ・ロドリゲス
Cornelio Saavedra Rodriguez、1823年 - 1891年4月7日)は、チリの政治家、軍人。アラウカニア制圧作戦で主要な役割を担った人物である。ロドリゲスは、アルゼンチンの将軍コルネリオ・サアベドラ(Cornelio Judas Tadeo Saavedra)の孫として、サンティアゴで生まれた。15歳でチリ陸軍に入隊し、1851年と1859年に勃発した反乱にも加わった。
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