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ブラジル連邦共和国
Federative Republic of Brazil
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■地理
国土は、流域を含めると400万km2にも及ぶアマゾン川と、その南に広がるブラジル高原に分けられるが、広大な国土を持つだけに様々な地形があり、北部は赤道が通る熱帯雨林気候で、大河アマゾン川が流れる。近年、環境破壊によるアマゾン川流域の砂漠化が問題となっている。
南西部のパラグアイ、アルゼンチンとの国境付近には有名なイグアスーの滝のある、ラ・プラタ川水系の大河パラナ川が流れる。他にネグロ川、サン・フランシスコ川、シングー川、マデイラ川やタパジョス川がある。また、ボリビアとパラグアイとの国境付近は世界最大級の熱帯性湿地とされるパンタナール自然保全地域となっている。
■ブラジル帝国
Imperio do Brasilは、1822年から1889年まで南米ブラジルを統治した立憲君主制国家。1828年までは現在のウルグアイも含まれていた。1808年ポルトガルのブラガンサ王朝はナポレオン軍の侵攻を逃れて植民地ブラジルに逃れ、1809年リオデジャネイロに遷都した。ポルトガル宮廷のリオ滞在によってブラジルは人口も増え、文明も進歩した。この間、1815年にそれまで公国だったブラジルは植民地からポルトガルと対等な王国に昇格され、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国に再編された。
■ラプラタ川
ラプラタ川はウルグアイ川、パラグアイ川、パラナ川の各河川をはじめとする無数の支流を含む巨大な水系としての意味も持ち、その流域面積はおよそ310万km2でパラグアイ全土、ボリビア南東部、ウルグアイの大部分、ブラジルおよびアルゼンチンのかなりの部分を含んでいる。
■ガウチョ
Gauchoは、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部のパンパ(草原地帯)やアンデス山脈東部に17世紀から19世紀にかけて居住し、主として牧畜に従事していたスペイン人と先住民その他との混血住民である。
■アマゾン川
南米のブラジルとその周辺国の熱帯雨林(アマゾン熱帯雨林)を流れ、大西洋に注ぐ世界最大の河川である。数多くの巨大な支流を持ち、アマゾン川という名称はそれらの総称として用いられている。アマゾン川は河口から 1,600 km 遡っても高度は 32m 、3,800 km 遡っても高度は 80 m しかない。あまりにも巨大な川であるため、本流にはダムが一つも作られておらず開発から取り残されているので、アマゾン川は世界一健康な川(世界一汚染の少ない河川)でもある。
■マデイラ川
Rio Madeira)は南米を代表する大河であると同時にアマゾン川の最大の支流である。全長3,380km。マデイラ川はボリビアとブラジルの国境に沿って約100km北側に流れる。雨期には水位が15m以上も上がり、海洋航行船が河口から1,070km上流のポルトベリョ近くのサンアントニオ滝まで遡上できる。しかし6月から11月の乾期には2m程度の水位になるため、航空機で行き来することになる。
■サン・フランシスコ川
(Sao Francisco River)は、ブラジルを流れる河川である。全長3,160 kmは南米で4番目に長い。アッシジのフランチェスコ(聖フランシスコ)から名付けられた。
■シングー川
Rio Xinguはブラジル北部を流れる河川で、アマゾン川の主要な支流の一つである。全長1,980km。マト・グロッソ高原に源を発し、北へ流れアマゾン川河口デルタでアマゾン川に合流する。滝、急流が多い。
■パトス湖
Lagoon of the Ducksは、ブラジル連邦共和国南部のリオグランデ・ド・スル州にある湖である。ラテンアメリカで2番目の大きさを持つラグーンで、南北約280km、東西約70kmにわたり、面積は約9,850平方キロメートル。大西洋とは、幅約8kmの砂州によって隔てられている。
■カンポ・セラード
Campo Cerradoは、ブラジル高原に広がるサバナ。カンポとはポルトガル語で「畑」の意で、樹木のない植生を表す学術用語。セラードは草原にまばらにのみ低木の茂る植生を表し、「カンポ・セラード」で「見通しのきかない草原」の意味であるという。総面積はおよそ200万平方キロ。
■サンペドロ・サンパウロ群島
大西洋赤道海域の中心部にあるブラジル領の小さな岩礁群である。東北ブラジルのナタールの東北東1010km、北緯00度55.1分、西経29度20.7分にあり、五つの島と無数の岩礁からなる。最大のベウモンチ(Belmonte)島でも長さ180m、幅50mしかない。総面積は13.000 平方メートル、最高点はノルデスチ島(Nordeste)の18 mである。
■ポルトガル語
主にポルトガルおよびブラジルで使われている言語である。俗ラテン語から発展して形成されたロマンス語の1つで、スペイン語などと共にインド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する。スペインの作家セルバンテスはポルトガル語のことを「甘美な言語」と、ブラジルの詩人オラーヴォ・ビラックは「ラティウムの最後の、粗野で美しい花」と評している。ポルトガル語を母語とする人口は、約2億人である。ポルトガルの人口は1000万人程度だが、1億8000万人の人口を抱えるブラジルの公用語になっているため、話者人口は多い。
■ブラジルの歴史
約8000年ほど前、最初のアメリカ大陸先住民の移住者が現在のブラジルに定住した頃にさかのぼる。文書記録を伴う歴史は1500年のポルトガル人の来航をもって始まる。現在のブラジルの地に人間が居住したのは、アジアからベーリング海峡を渡った人々が、紀元前8000年頃に現在のブラジルに到達したのが最古のものであると確認されている。
■ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国
かつてポルトガルとブラジルにまたがって存在した同君連合の王国。1808年、ナポレオン戦争によってポルトガル本国からの亡命を強いられた摂政ジョアン王子(後のジョアン6世)は、女王マリア1世とともに植民地ブラジルのリオ・デ・ジャネイロへ宮廷を遷した。そしてブラジル公国(Principado do Brasil:実質的には植民地)を本国と同格の王国とし、1815年12月16日には正式に国名を「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」と改称した。
■人種と民族
ブラジル人は大きく4つのグループに分かれる。トゥピー・グアラニー語族の言葉を話す先住民( グアラニー人、アマゾン先住民など)、植民当時のポルトガル系、アフリカからの黒人奴隷の子孫(アフリカ系ブラジル人)、そして19世紀半ばからブラジルに定住するためにポルトガル以外のヨーロッパ、中近東、日本を中心としたアジア諸国からやってきた移民である。
■宗教
ブラジルは、世界で最も多くのカトリック人口を擁する国である。国民の約73%が、カトリックの信者で、これは1億1240万人に相当し、カルナヴァルなどをはじめとして現在も社会に強い影響を持つ。
■言語
公用語はポルトガル語(ブラジル・ポルトガル語)であり、ブラジル生まれの国民のほとんどにとっての母語でもある。ただし、ブラジルで使われるポルトガル語は語彙の面でアフリカやインディオの影響を受けているため、ブラジル・ポルトガル語と言われるほど本国ポルトガルのポルトガル語とは多少異なっている。
■カフェ・コン・レイテ
(Cafe com leite)とは、1894年のプルデンテ・デ・モライス大統領就任以後1930年のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスによるクーデターまでの間、ブラジルを支配した寡頭支配体制を指す。ブラジル帝国崩壊後、ブラジルの政治の実権を握ったのは大農園主グループだった。その中でも特に有力なコーヒー生産州サンパウロ州の農園主たちと、次に有力な畜産・酪農州ミナスジェライス州の農園主たちが連合を組み、交互に連邦の大統領を出した。そのため、両州の特産物にちなみ、「カフェ・コン・レイテ」(ポルトガル語でカフェオレの意)と呼ばれる。
<世界遺産>
■ 古都オウロ・プレット
オウロ・プレット (Ouro Preto) はブラジルのミナス・ジェライス州の歴史的都市。かつては州都であった。名前は「黒い黄金」を意味する。ブラジルの南東部の山間ミナス・ジェライス州に位置するこの地に金鉱が発見されたのが1693年。これをもって、この地に凄まじいまでのゴールドラッシュが起こり、それまで何もない高原に過ぎなかったこの地に次々と街が生まれていった。
■ オリンダ歴史地区
ブラジル国内の中で、最も保存状態のよいコロニアル風の建築物が残されている。
■ グアラニーのイエズス会伝道所群:サン・イグナシオ・ミニ、サンタ・アナ、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロレート、サンタ・マリア・マジョール(以上アルゼンチン)、サン・ミゲル・ダス・ミソンイス遺跡(ブラジル)「グアラニーのイエズス会伝道所群」は、ブラジルとアルゼンチンにまたがるユネスコの世界遺産登録物件。グアラニー族が住む現ブラジル南部、アルゼンチン北部、パラグアイ南部などには、いくつもの伝道所が築かれ、共同体での生活が営まれていた。しかし、1767年にスペイン王カルロス3世が発した、アメリカ大陸からのイエズス会追放令によって、伝道所の共同体生活は崩壊した。
■ サルヴァドール・デ・バイーア歴史地区
サウヴァドールは大西洋に面し、「諸聖人の湾」を取り囲む半島に位置している。主要な輸出港であるとともに、この湾周辺の大都市圏の中心でもある。2002年の人口は約254万人、ベロオリゾンチを抜いて現在ブラジルで三番目に大きな都市となっている。
■ ボン・ジェズス・ド・コンゴーニャスの聖所
この町は、ボン・ジェズス・デ・マトジーニョス聖堂というバシリカ式教会堂と、それに関連する彫刻群で知られている。この聖堂は18世紀のポルトガル人の金鉱採掘師フェリシアーノ・メンデスの依頼で建てられたものである。この聖堂の特筆すべき主要な彫刻群は、「ブラジルのミケランジェロ」の異名を取った世界屈指のバロック様式の芸術家アレイジャディーニョの手になるものである。
■ ブラジリア
ブラジルの首都で連邦直轄地区。中部の標高約1,100mの高原地帯に建設された、計画都市である。人口は約200万人。ブラジル人建築家ルシオ・コスタの設計により建設された計画都市地域は、人造湖であるパラノア湖のほとりに飛行機が羽根を広げた形をしており、飛行機の機首の部分に国会議事堂や行政庁舎、最高裁判所が並び、羽根の部分には高層住宅や各国の大使館がある。
■ セラ・ダ・カピバラ国立公園
ブラジル・ピアウイ州の国立公園。この国立公園は世界屈指の考古学遺産を保護するために創設されたもので、時には100メートル以上の高さにもなる絶壁に刻まれた、古いものでは6万年前にも遡る3万点もの線刻岩絵群が残されている。他に洞窟壁画も残っている。
■ サン・ルイス歴史地区
ブラジル・マラニョン州の州都。メアレム川、イタペクル川、ピンダレー川の三角州であるサン・マルコス湾内のサン・ルイス島にある。市人口は998,385人(2006年)を抱え、都市圏では1,227,659人となり、ブラジル第16位の都市である。現在、サン・ルイスはラテン・アメリカで、最も大きく最良の状態で保存された植民地時代のポルトガル風建築がある。アルイーシオ・アセヴェド、グラサ・アラニャ、ゴンサルヴェス・ディアス、フェレイラ・グラールといった多くの作家・詩人を輩出したことから、島は『愛の島』または『ブラジルのアテネ』として知られる。
■ ディアマンティーナ歴史地区
ディアマンティーナ(Diamantina, 正しくはジアマンチーナ)は、ブラジル・ミナスジェライス州の都市である。2004年現在の人口は、44,238人である。ディアマンティーナは、18世紀のポルトガルにおける植民地時代に建設された都市であり、名前から察することができるように、かつては、ダイヤモンドの採掘で繁栄した町である。町の名前もダイヤモンドに由来する。
■ ゴイアス歴史地区
ゴイアスは、ブラジル・ゴイアス州にある小都市である。2005年現在の推計人口は、26,705人。面積は、3,108平方キロメートル。ゴイアスが都市として建設されたのは、1727年である。名前は、近くに住んでいた先住民の民族名に由来する。18世紀前半に金鉱脈が発見され、ゴールドラッシュを経験する。ゴイアスに残る住宅や教会、博物館などは、当時の面影を残している。
■ サン・クリストヴァンの町のサン・フランシスコ広場
サン・クリストヴァン はブラジルのセルジッペ州の旧州都で、ブラジル国内では4番目に古い都市である。歴史的建造物群が残る町として、1938年には歴史地区が州指定の史跡となり、1986年には国定史跡となった[7]。2010年には山の手のサン・フランシスコ広場と隣接する建造物群が世界遺産リストに登録された。
<自然遺産>
■ イグアス国立公園
パラナ州にある1939年に設定された国立公園である。イグアスの滝があることで知られるが、滝はアルゼンチンにもまたがっているので、アルゼンチン国内にも「イグアス国立公園」が存在する。特に鳥類などの野生生物が多く生息し、5種の森林と生物系が同じ国立公園内に同居する世界的にも珍しい場所になっている。
■ コスタ・ド・デスコブリメントの大西洋岸森林保護区群
南アメリカ大陸の大西洋岸森林のうち、ブラジルのバイーア州南部からエスピリト・サント州北部にかけて存在する8つの自然保護区を対象とする世界自然遺産で、単位面積あたりで見た時の樹木の種の多様性は、世界屈指のものである。
■ 大西洋岸森林南東部の保護区群
核心地域だけでおよそ47万ha にもなる広大な熱帯雨林地区だが、本来の原生林の8% でしかない。人類の開発の歴史によってその多くが失われてしまったことから、残されている熱帯雨林の豊かな動物相・植物相を守ることを目的として、世界遺産に登録された。
■ ジャウー国立公園
ブラジル・アマゾナス州に拡がる国立公園である。南緯1度から3度、西経61度30分から64度に拡がる。総面積は、2.3万平方キロメートルを越える。ジャウー国立公園は、アマゾンにおける熱帯雨林が良い状態で保存されており、この地域に入るためには、ブラジル政府の許可が必要である。
■ パンタナル自然保全地域
パンタナールの名前の由来は、ポルトガル語の「pantano」(日本語では、沼地を意味する)である。水文学、地質学、生態学の側面においてパンタナールは特異な性質を持つ。1982年のRADAMBRASILにおいて、パンタナール地域には12種類の生態系が存在していると定義されている。
■ ヴェアデイロス平原国立公園
ブラジル・ゴイアス州にある国立公園である。約1億8000万年前に形成された平原であり、1961年1月11日に当時の大統領ジュセリーノ・クビチェックの署名により、国立公園に指定された。ヴェアデイロス平原国立公園は、地球上で最古の岩石形成地帯の1つである。水晶が産出され、かつては、ここの水晶はイギリスと日本に産業用に輸出されていた。
■ エマス国立公園
エマス国立公園では、典型的なセラードの生態系を見ることが可能である。40℃を超える暑さと厳しい乾燥の為、生育できる植物は限られ、ほとんどがイネ科の草である。灌木が多いサヴァンナが広がり、そこはシロアリの巣となっていることが多い。
■ フェルナンド・デ・ノローニャ
ブラジルのペルナンブーコ州に属する大西洋上の島々、及びその主島の名前である。主島フェルナンド・デ・ノローニャ島を中心に20の火山島などの島々からなる。面積約26km2、人口約1200人。
■ ロカス環礁
火山活動に起源を持つ、サンゴ礁のおりなす地形である。ロカス島とも呼ばれる。多くのカメ、サメ、イルカ、鳥たちが棲息している。主にサンゴと紅藻で構成されている環礁の環はほとんど閉じているが、北側に幅 200m の水路が、西側にはもっと狭い水路が、それぞれ開いている。
■リオのカーニバル
リオデジャネイロのカーニバル(ポルトガル語: Carnaval do Rio de Janeiro, 英語: Carnival in Rio de Janeiro)、あるいは、リオのカーニバル(ポルトガル語: Carnaval do Rio, 英語: Rio Carnival)として言及される、ブラジル・リオデジャネイロのカーニバル(謝肉祭)は、厳粛な雰囲気の四旬節の期間に入る前に行われる祝祭であり、世界最大の見世物のひとつと見なされている。音楽とダンスは、リオのカーニバルのあらゆる場面に結び付いている。最も有名なダンスは、かつて奴隷たちが海を越えてアフリカからもたらした、サンバである。
■サンパウロ国際映画祭
サンパウロ国際映画祭はブラジルのサンパウロで毎年10月に行われる国際映画祭。1976年より行われており、南米では最大級の映画祭である。2008年に行われた32回目の映画祭では、岡本喜八の回顧特集が組まれた。
■ブラジルの映画
ブラジルの映画は19世紀末にその歴史を遡る。1896年(明治29年)7月8日、リオデジャネイロのオウヴィドル街で、フランスのリュミエール兄弟の映画の興行が行なわれたのが最初である。1898年(明治31年)6月には、イタリアから移住したアフォンソ・セグレトによって、ブラジルで最初の映像として、グアナバラ湾の実景が撮影された。スペインから移住したフランシスコ・セハドールが、最初の映画館チェーンを築いた。
■ジルベルト・ジル
Gilberto Gil、1942年6月26日-は、ブラジルのミュージシャン、政治家。音楽活動では、カエターノ・ヴェローゾと共に、トロピカリア(トロピカリズモ)というムーヴメントを牽引し、MPBの重要人物の一人として評価されている。ボサノヴァに影響を受けて音楽活動を開始したが、その後ロック、ソウル、レゲエ、アフリカ音楽等、様々なジャンルの音楽を吸収していった。バイーア州サルヴァドールで、アフリカ系ブラジル人の家庭に生まれた。父は医師。ジルベルトは1970年代以降、自身がアフリカ系であることを強く意識した活動を行うようになる。
■ドリヴァル・カイミ
Dorival Caymmi、1914年4月30日 - 2008年8月16日は、ブラジルの歌手、作曲家。バイーア州サルヴァドール出身。1934年、歌手のカルメン・ミランダに映画『Banana-da-Terra』のための楽曲『O Que E Que A Baiana Tem?』を提供したのをきっかけに一気に知名度を上げる。その後カルメン・ミランダはハリウッドへと渡り成功を収めた。
■イヴェッチ・サンガロ
Ivete Sangalo、1972年5月27日 - はブラジルの歌手、ソングライター、女優、テレビ番組司会者。ブラジルのバイーア州ジュアゼイロ(Juazeiro)出身。グラミー・ラテン賞も受賞した。音楽のジャンルはアシェ、MPB、ポップ・ミュージックなど。バンドバンダ・エヴァ(Banda Eva)と6枚、ソロで7枚以上のアルバムを発売し、その力強い歌唱力とカリスマ性、ライブでのパフォーマンスで知られる、ブラジルの代表的な女性歌手。
■イタマール・フランコ
1930年6月28日 - 2011年7月2日は、ブラジルの政治家。1992年から1995年まで同国の大統領を務めたのを筆頭に、長い政治人生で上院議員、市長、大使、知事、副大統領を歴任した。ミナスジェライス州ジュイス・デ・フォーラで育ち、1955年にジュイス・デ・フォーラ技術学校を卒業、エンジニアになった。
■ガル・コスタ
Gal Costa 、本名:マリア・ダ・グラサ・コスタ・ペンナ・ブルゴス Maria da Graca Costa Penna Burgos 、1945年9月26日 - は、ブラジル、サルヴァドール出身の歌手である。レコード店を経営する父親に若い頃から影響されたコスタは、1960年代後期から70年代の間、ブラジルのトロピカリア(トロピカリズモ)・ムーヴメントにおける女性歌手・ギタープレイヤーの第一人者となった。1968年、音楽での抗議が検閲されると、友人のマリア・ベターニア Maria Bethania とともにブラジルの軍事政権としばしば衝突する政治活動家となった。
■カエターノ・ヴェローゾ
Caetano Veloso, 1942年8月7日 - は、ブラジルの作曲家および歌手。彼は1967年に、ガル・コスタとのデュエット・アルバム「ドミンゴ(Domingo)」をリリースし、ボサノヴァ・シンガーとしてミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせた。つまり、彼のミュージシャンとしてのキャリアは、ボサノヴァ歌手として始まった。
■ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス
Getulio Dornelles Vargas, 1882年4月19日 − 1954年8月24日は、ブラジルの政治家。1930年から1945年までの間と、1951年から1954年までの間にブラジル大統領を務めた。1951年には、ヴァルガスはかつてのような軍事クーデタでなく、ブラジル史上初の民主的選挙によって大統領に就任した。その際、都市プロレタリアートや左翼からの支持を集めるため、その政治姿勢はかつてより左傾化しており、このために第二次ヴァルガス政権と、以降1964年までの諸政権の時代をポプリズモ時代と呼ぶ。
■シコ・ブアルキ
Chico Buarque、本名フランシスコ・ブアルキ・ヂ・オランダ - Francisco Buarque de Hollanda シコはフランシスコの略称、1944年 6月19日 - , リオ・デ・ジャネイロ生まれ)はブラジルの詩人、歌手、音楽家、作曲家、劇作家、小説家である。シコは特権階級の家庭で育った。彼の父親、セルジオ・ブアルキ・ヂ・オランダ (Sergio Buarque de Hollanda)は有名な歴史家、社会学者で、彼のおじで辞書編集者であるアウレリオ・ブアルキ・ヂ・オランダの「アウレリオ」という名は、ブラジルでは著名な辞書の名である。
■シモーネ
シモーネ・ビッテンコート・ジ・オリヴェイラ(Simone Bittencourt de Oliveira, 1949年12月25日 - )は、ブラジル出身の女性歌手。ブラジリアン・ポピュラー・ミュージック (MPB) で主に活動している。シモーネは1949年12月25日、ブラジルのバイーア州サルヴァドール市で、9人兄弟のうちの第7子として生まれた。父親は無類のオペラ好き、母親はピアノとギターを弾いていた。シモーネが初めて母親のギター伴奏で歌った曲は、Ary Barrosoの「Risque」だった。子どもの頃はスポーツが好きで、水泳、自転車、陸上競技などが得意だった。
■アウストレジェジロ・デ・アタイデ
Austregesilo de Athayde、1898年9月25日 - 1993年9月13日は、ブラジルの作家、ジャーナリスト。世界人権宣言の審議には、ブラジル代表として参加した。1898年、ブラジルのペルナンブコ州に生まれる。リオデジャネイロ連邦大学卒。1930年代、新聞記者として活躍。精力的にジャーナリスト活動に携わり、生涯で書いたコラムは5万本。テレビには20年間、毎週1回出演。ラジオには30年間、毎週1回出演。講演も40年にわたっ毎週のように行った。
■ジョルジェ・アマード
Jorge Amado, 1912年8月10日 - 2001年8月6日とは、ブラジルの小説家である。20世紀ブラジル文学を代表する作家である。作品の多くが英語、フランス語をはじめとする48以上の言語に翻訳されている。1912年に北東部バイーア州イタブーナのカカオ農園に生まれた。リオ・デ・ジャネイロ大学法学部に入学し、在学中から『カカオ』などの執筆時活動を行い、1935年に卒業した。『砂の戦士たち』、『ジュビアバー』などで次第に作家として認知され始め、ブラジル共産党員だったアマードはこの時期にブラジルのプロレタリア文学を代表する作品を残した。
■ジョゼ・デ・アレンカール
Jose Martiniano de Alencar、1829年5月1日 - 1877年12月12日は、ブラジルのロマン主義文学を代表する文学者である。卒業後、帝都リオに上京し、弁護士、ジャーナリストとなった後に政界に入り、1861年に下院議員に当選した。しかし、皇帝ペドロ2世との対立によって失脚した後、1886年に死去した。
■ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
Nelson Pereira dos Santos、1928年10月22日 サンパウロ - は、ブラジルの映画監督である。グラウベル・ローシャとならぶ「シネマ・ノーヴォ」の中心人物として知られる。1928年10月22日、ブラジル・サンパウロ州の州都サンパウロに生まれる。1955年、初めて監督した長篇映画『リオ40度』が公開される。同作は、リオデジャネイロのファヴェーラでの生活のクロニクルであり、ほかの何人かの映画作家たちに影響を与え、「シネマ・ノーヴォ」運動を噴出させた。そればかりでなく、1956年、フランス・パリで上映され、フランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールを熱狂させた。ヌーヴェルヴァーグの誕生を加速させた作品である。
■アントーニョ・カルロス・ゴメス
Antonio Carlos Gomes, 1836年7月11日 - 1896年9月16日は、19世紀ブラジルを代表するオペラ作曲家。新大陸出身ながらもヨーロッパ楽壇に受け入れられ、名声を獲得した音楽家の一人である。1864年にイタリア留学が可能になった。ミラノ音楽院に入学するが、通常4年かかるところを3年間の在籍で卒業し、マエストロの称号を授与された。真にブラジル的な主題によるオペラ作曲への興味から、次回作では、ブラジルの作家ジョゼ・デ・アレンカール(Jose de Alencar)によるロマンス小説『グワラニー族 O Guarani』を主題に選んだ。これはブラジルの先住民を主題にしたオペラで、1870年5月にスカラ座において、《グワラニー族の男 Il Guarany》の名で初演された。この作品の成功は凄まじく、とりわけ厳格な評論家でさえ、ゴメスの名は、ロッシーニやヴェルディのようなヨーロッパの巨匠と比較してみせた。
■ジルマ・ルセフ
Dilma Vana Rousseff、1947年12月14日- は、ブラジルのエコノミスト及び政治家。現在、同国大統領(第36代、2011年 - )。ブラジル史上初めての女性大統領。1960年代の軍事政権時代において非合法左翼ゲリラ組織の武力闘争に参加、秘密警察に拘禁された経験もある。1967年9月、同じゲリラ組織で活動していたジャーナリストと結婚するも、70年代末に離婚。その後、政治活動家の男性と再婚するも、2000年に離婚している。
■ビセンテ・ヤーニェス・ピンソン
(Vicente Yanez Pinzon, 1460年頃 - 没年不明)はスペインの航海者であり探検家。ピンソン3兄弟の末弟。没年は不明だが、1523年までは生存した記録がある。1492年、クリストファー・コロンブスによる新大陸に向けた最初の航海において、ニーニャ号の船長として航海に同行し、兄であるマルティン・アロンソ・ピンソン、フランシスコ・マルティン・ピンソンとともに多大な貢献を果たした。
■アメリゴ・ヴェスプッチ
(Amerigo Vespucci、1454年3月9日 - 1512年2月22日) は、アメリカ州を探検したイタリアの探検家にして商人。フィレンツェ生まれ。アメリゴ・ヴェスプッチはフィレンツェ共和国のフィレンツェ南部のモンテフィオラッレ (Montefioralle) で生まれ、彼のおじに育てられた。 彼は、ロレンツォ・デ・メディチとその息子のジョヴァンニに仕えていた。1492年、スペイン、セビリアにあるメディチ銀行の支店に出向となった。1497年 - 1504年の間に、4度、新大陸へ航海。コロンブスを始めとするヨーロッパ人がアメリカ大陸を東アジアであると考えたのに対し、ヴェスプッチはアジアとは別の大陸、すなわち(ヨーロッパから見て)新大陸であると主張した。
■フェルナンド・コロール・デ・メロ
(Fernando Collor de Mello、1949年8月12日 - )は、ブラジルの政治家で、元ブラジル連邦共和国大統領。元空手チャンピオン。1982年に民主社会党から連邦下院議員に当選し、1986年のアラゴアス州知事選では、ブラジル民主運動党の支持により当選。民主化後の1989年11月、ほぼ30年ぶりにの一般の投票による大統領選挙に出馬、職業政治家に対する痛烈な批判を展開して労働党のルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァに対し、僅差ながらも過半数を獲得して勝利した。
■セザーレ・ラッテス
(Cesare Mansueto Giulio Lattes 、1924年7月11日 - 2005年3月8日)はブラジルの実験物理学者。パイ中間子の発見者の一人である。ラッテスはユダヤ系イタリア人移民の家に生れた。サンパウロ大学の数学科、物理学科を1943年に卒業した。1947年にセシル・パウエルのチームの一員となって、寿命が短く地表に到達できないパイ中間子をボリビアにあるアンデス山脈の標高5000mの山に登って写真乾板を使って発見した。24歳の時である。
■ヴァンダレイ・シウバ
(Wanderlei Silva、男性、1976年7月3日[1] - )は、ブラジルの総合格闘家。パラナ州クリチバ出身。アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガス在住。ヴァンジ・ファイトチーム/キングスMMA所属。ブラジリアン柔術黒帯。元PRIDEミドル級王者。ブラジルのパラナ州クリチバに生まれる。13歳のとき、シュートボクセ・アカデミーに入門した。1996年11月、ブラジルのヴァーリ・トゥード大会でプロ総合格闘技デビュー。
■イザベリ・フォンタナ
(Isabeli Bergossi Fontana, 1983年7月4日 - )は、ブラジル・パラナ州クリチバ出身のファッションモデル。イタリア系ブラジル人。身長178センチ。1999年、16歳でヴィクトリアズ・シークレットの下着カタログのモデルとなった。21歳以下のモデルとは契約しないポリシーであったヴィクトリアズ・シークレットが、これまでの常識を覆したとして論争を巻き起こした。
■エリス・レジーナ
(Elis Regina Carvalho da Costa、1945年3月17日 - 1982年1月19日)は、ブラジルの歌手。1960年代から1970年代にかけて、ブラジルで最も人気のある女性シンガーであった。彼女のヴォーカルは、心躍らせる歌声と、優れた抑揚を持ち合わせており、特にアップテンポなナンバーに卓越していると言える。1960年代の後期から1970年代の初頭にかけて、ジルベルト・ジルなどのミュージシャンたちと共にレコーディングを行ったりして、トロピカリア運動の普及に貢献。
■エンリキ・オスワルド
(Henrique Oswald, 1852年4月14日 リオデジャネイロ −1931年6月9日 リオデジャネイロ)はブラジルの外交官・作曲家・ピアニスト。「ブラジル近代芸術週間」宣言の後に、忘れられた存在となった。1902年に『フィガロ』紙主催のピアノ・コンクールにおいて優勝し、1903年から1906年までリオデジャネイロ国立音楽学校(Instituto Nacional de MUsica)の校長に就任した。
■ペドロ・アルヴァレス・カブラル
Pedro Alvares Cabral, 1467/1468年 - 1520年は、ポルトガル王マヌエル1世に顧問官として仕えたキリスト騎士団の一員で、彼が隊長として率いた第2回インド遠征隊は1500年4月22日、ブラジルに「漂着」した。1468年頃、カブラルはポルトガルのベルモントで生まれる。マヌエル1世は、第1回のヴァスコ・ダ・ガマのインド遠征隊を引き継がせようと、航海技術などを学び、訓練を受けていたカブラルを後継者に選んだ。
■アドリアナ・リマ
Adriana Lima、1981年6月12日 - は、ブラジル出身のファッションモデル。178センチメートル、86-61-89。 なによりファッションブランド『ビクトリアズ・シークレット』の『エンジェル』(広告塔モデル)の一員としての活動から著名。世界屈指の収入を誇るファッションモデル。
■ジュセリーノ・クビチェック
(Juscelino Kubitschek de Oliveira, 1902年9月12日 - 1976年8月22日)は、ブラジルの政治家で、元ブラジル連邦共和国大統領。愛称は"JK"。1955年に「50年の進歩を5年で」をスローガンに大統領選挙に出馬し当選する。国民へのアピールに航空機を多用して南から北までブラジル中を周ったため、「ジェット大統領」と呼ばれた。1956年1月31日に大統領に就任し、日本やアメリカ、ドイツなどからの外資導入と工業化を積極的に推進するとともに、同年に内陸部の発展促進を目的に新首都ブラジリアの建設に取り掛かる。
■ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ
(Luiz Inacio "Lula" da Silva, ルイース・イナスィオ・ルーラ・ダ・スィウヴァと発音、1945年10月27日 - )は、ブラジルの左翼政治家、第35代大統領(在任:2003年 - 2011)。ルーラはルイス・イナシオ・ダ・シルヴァとしてペルナンブーコ州の貧しい無学の農民の一家に生まれた。1956年に一家はサンパウロに移り住む。ルーラは母親と7人の兄弟と共にパブの裏の小さな部屋で暮らした。 ルーラは公的教育をわずかながら受けたが、四年生で学校を離れた。彼は12歳で靴磨きとして働き始める。1980年2月10日、ルーラを含む学者、労働組合リーダー、知識人のグループが労働者党(Partido dos Trabalhadores, PT)を発足させる。
■マリオ・ピント・デ・アンドラーデ
(Mario Pinto de Andrade、1928年8月21日 - 1990年8月26日)はアンゴラの詩人、政治家である。彼はポルトガル領アンゴラのゴルンゴ=アルトで生まれ、リスボン大学で文献学を、パリのソルボンヌ大学で社会学を学んだ。その間、彼はアンゴラにおけるポルトガル植民地支配に対する反抗活動を始め、反植民地詩を書いた。
■クルス・イ・ソウザ
Joao da Cruz e Sousa、1861年11月24日 - 1898年3月19日はブラジルの詩人。サンタカタリーナ州フロリアノーポリスに解放奴隷の子として生まれる。生後まもなく孤児となり、父の雇い主であったデ・ソーザ将軍の養子になる。自然主義的素養と美学を修め、のちにボードレールやポルトガルの詩人の影響を受ける。
■ジョアン・ギマランエス・ローザ
(Joao Guimaraes Rosa, 1908年6月27日 - 1967年11月19日)は20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるブラジルの作家、外交官。彼の最もよく知られた作品は『大いなる奥地:小径』であり、ブラジル人にとってはユリシーズにも比すると考える者もいる。私はポルトガル語、ドイツ語、フランス語、英語、スペイン語、イタリア語、エスペラント、そして幾つかのロシア語を話し、スウェーデン語、オランダ語、ラテン語、ギリシャ語を(辞書片手にではあったが)読んだ。私はドイツ語の幾つかの方言も理解し、ハンガリー語、アラビア語、サンスクリット語、リトアニア語、ポーランド語、トゥピ語、ヘブライ語、日本語、チェコ語、フィンランド語、デンマーク語の文法を勉強していた。他の言語にもちょっと手を出していたが、全く基本的なレベルだった。また私は、他の言語の精神と構造を学ぶことは、母語(つまりブラジル語)のより一層の理解に非常に役立つと考えた。しかし結局、私は喜びや欲望、気晴らしのために学んだのだった。
■ルイ・ゲーハ
(Ruy Guerra, 1931年8月22日 - ) は、ブラジルの俳優、映画監督、脚本家である。ポルトガル領であったモザンビークのマプト生まれ。パリの高等映画学院で学ぶ。日本公開作品は少ないが、ベルリン国際映画祭の銀熊賞を2度受賞、カンヌ国際映画祭のパルム・ドールに3度ノミネートされるなど活躍している。
■ソニア・ブラガ
(Sonia Braga, 1950年6月8日 - )はブラジル・パラナ州マリンガ出身の女優。1960年代に舞台デビューし、1970年代にブラジルのテレビに出演するようになり、ブラジル国内で人気を博す。1985年の『蜘蛛女のキス』でアメリカへも進出。最近はテレビ出演が多く、『CSI:マイアミ』『セックス・アンド・ザ・シティ』『エイリアス』『LAW & ORDER』などにゲスト出演している。
■ウォルター・サレス
(Walter Salles、1956年4月12日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ市出身の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。彼のテーマは亡命者とアイデンティティの追究であるとされている。1995年に、ダニエラ・トーマスとの共同監督による劇映画『Foreign Land』は、ブラジル映画のルネッサンスにおいて重要な作品といわれる。この作品は7つの国際的な映画賞を受賞。また数々のドキュメンタリー作品も手がけ、様々な賞を受けた後、『セントラル・ステーション』でベルリン映画祭で金熊賞を受賞したことで、一躍有名になった。
■ペレ
ペレ(Pele)こと、エドソン・アランチス・ドゥ・ナシメント(Edson Arantes do Nascimento, 1940年10月23日 - )は、ブラジルの元サッカー選手。アフリカ系ブラジル人。サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録したその実績から、「サッカーの王様」(英語: The King of football、ポルトガル語: O Rei do Futebol)あるいは「20世紀最高のサッカー選手」と評され、多くのサッカー選手、サッカーファンから「サッカー史上最高の選手の一人」と見做されている選手である。
■エルデル・カマラ
(Helder Pessoa Camara, 1909年2月7日フォルタレザ - 1999年8月27日レシフェ)はブラジルのカトリック教会のオリンダとレシフェの大司教。彼は広く20世紀のカトリックの偉大な人物の1人と考えられている。カマラはラテンアメリカの解放の神学の主な先駆けとなり、鉛の時代のブラジルで人権を護り政治的にも注目されるようになった。彼は貧しい者への妥協のない関与で運動に影響を与えたので、彼の神学が後の解放神学者(例えばグスタボ・グティエレス)のそれと同一視されたとしても当然である。彼はこの言葉で有名である。「私が貧しい者に食物を与えると、彼らは私を聖者と呼ぶ。私が貧しい者になぜ食物がないか尋ねると、彼らは私を共産主義者と呼ぶ」
■シコ・メンデス
(Chico Mendes,1944年12月15日 - 1988年12月22日)は、ブラジルのゴム樹液採取者であり環境保護活動家。ゴムノキの生える熱帯雨林を伐採し牧草地へ変えようとする大土地所有者や牧畜業者に対して戦い、ゴム樹液採取人組合を結成して、ブラジルにおける熱帯雨林保護活動を展開した。アマゾンの熱帯雨林の伐採に対する反対運動を行っていたさなかの1988年に、ブラジル西部のアクレ州で大土地所有者の放った刺客により暗殺されて亡くなった。彼の死後、ブラジルでは歌手シモーネ (歌手)が歌った LOUVOR A CHICO MENDES をはじめ、彼を讃えるいくつかの曲が作られて歌われている。またポール・マッカートニーも、How Many People をメンデスに捧げる歌として作曲している(アルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』に収録)。 |
ブラジル Brazil
南アメリカに位置する連邦共和制国家である。南米大陸で最大の面積を誇り、ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ペルー、コロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナ(つまりチリとエクアドル以外の全ての南米諸国)と国境を接している。また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、セントピーター・セントポール群島もブラジル領に属する。国土面積は日本の約22.5倍で、アメリカ合衆国よりは約110万km2(コロンビア程度)小さいが、ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きい。首都はブラジリア。
ブラジルは、世界で最も多くのカトリック人口を擁する国である。国民の約73%が、カトリックの信者で、これは1億1240万人に相当し、カルナヴァルなどをはじめとして現在も社会に強い影響を持つ。
■ブラジリア
ブラジリアは、ブラジルの首都で連邦直轄地区。中部の標高約1,100mの高原地帯に建設された、計画都市である。人口は約200万人。
■サンパウロ
人口は1100万人以上でブラジル最大かつ南半球最大のメガシティである。2010年の近郊を含む都市的地域の人口では2,018万人であり、世界第7位、南半球では第1位である。サンパウロの起源はインディオに対する布教のためポルトガル王ドン・ジョアン3世(在位1521年ー1557年)の依頼で派遣されたイエズス会宣教師団の一人ジョゼ・デ・アンシエタ が1554年にとして創設した宣教村である。
■サンパウロ美術館
Museu de Arte de Sao Paulo は、ブラジルのサンパウロにある、南半球屈指の美術館である。サンパウロ美術館は、中世から現代に至る各時代の西洋美術の名品を数多く収蔵している。 アメリカ合衆国およびヨーロッパの美術館以外で、これほど質が高くまとまった西洋美術のコレクションを持つ美術館は他になく、そのために「奇跡の美術館」と称されている。
外務省:ブラジル連邦共和国
在ブラジル日本国大使館
■リオデジャネイロ
Rio de Janeiroは、ブラジル南東部に位置するリオ・デ・ジャネイロ州の州都。世界有数のメガシティであり、ブラジル最大の港湾都市である。人口は600万人を超えており、サンパウロに次ぐブラジル第2の都市である。2010年の都市圏人口は1,167万人であり、世界第22位、国内ではサンパウロに次ぐ第2位である。
■コパカバーナ
Copacabanaは、ブラジルのリオデジャネイロ市南東部に位置するリゾート地である。大西洋に面している。レーミからコパカバーナ要塞までの、全長約4キロメートルにわたる白い砂浜のビーチは世界的に知られ、コパカバーナ海岸、コパカバーナビーチとも呼ばれる。
■サルヴァドール
Salvadorはブラジル北東部、大西洋岸にある港湾都市。同国バイーア州の州都である。なお一般的には、サウヴァドールよりもバイーアと呼ばれる方が多い。市街はcidade alta(上の町)とcidade baixa(下の町)に分かれている。大聖堂と政府関係の建物が最も高い地点にある。町にはブラジル初の大聖堂、最古の医学校など植民風の建築物が多く残されているとともに、アフリカの影響を受けた文化の存在も有名になってきている。
■マナウス
Manausはブラジル北部にある都市。同国アマゾナス州の州都である。大西洋のアマゾン川の河口から、約1500キロのアマゾン本流とネグロ河の合流地点に位置する。19世紀に天然ゴムやコーヒー豆、ジュート(麻)栽培の集積地として開かれて以来、アマゾン内部の経済、交通および流通の要衝都市として繁栄して来た。現在の人口は約150万人で、ブラジルのアマゾン地域最大の都市である。
■グアルーリョス国際空港
Aeroporto Internacional de Guarulhosとは、ブラジル連邦共和国サンパウロにある国際空港。コンゴニャス国際空港やヴィラコッポス国際空港と並ぶサンパウロの主要空港の1つで、24時間運営されているブラジルのハブ空港である。サンパウロ市北東部に隣接するグアルーリョス市クンビッカ地域(サンパウロ市中心部から約25km)に1985年1月に開港した。
■コンゴニャス国際空港
Aeroporto de Congonhasは、ブラジルのサンパウロ市内にある国際空港。サンパウロ市内中心部から8キロのカンポ・ベロ地区の住宅地(現在)の真ん中に、1919年に飛行機の離発着場として整備され、1936年に空港として本格的に運用されるようになった。
■アフォンソ・ペーナ国際空港
Aeroporto Internacional Afonso Penaは、ブラジルのパラナ州クリチバ圏サン・ジョセ・ドス・ピニャイスに所在する国際空港で、ブラジルの南部地域では最大の空港とされる。IATA空港コードは「CWB」。
■フォス・ド・イグアス国際空港
Aeroporto Internacional de Foz do Iguacuは、ブラジル連邦共和国のパラナ州フォス・ド・イグアスにある国際空港。世界三大瀑布の一つとして知られるイグアスの滝の最寄の空港のひとつ。
■ヴィラコッポス国際空港
Aeroporto Internacional de Viracoposは、ブラジルのサンパウロ州のカンピーナス市郊外にある国際空港。所在地の名を取って「カンピーナス国際空港」と呼ばれる場合もある。
■パラナ連邦大学
The Federal University of Paranaは、1912年に設立されたパラナ州に置かれているブラジル連邦立大学の1つである。
■サンパウロ大学
Universidade de Sao Paulo,略称 USPは、ブラジル・サンパウロ州にある州立大学である。1934年に設立された。設立に際して、その母体となったのは1827年創設の法律学校である。現在、大学を構成する部局(機関等)は40を数える。ラテンアメリカでは、事実上一番難関な大学、またブラジルで最も入学が難しい大学であり、世界大学ランキングのベスト100にも入っている。
■リオデジャネイロ連邦大学
リオデジャネイロ連邦大学(リオデジャネイロれんぽうだいがく、ポルトガル語: Universidade Federal do Rio de Janeiro,略称 UFRJ)とは、ブラジルのリオデジャネイロに置かれている連邦大学である。
■オロドゥン
Olodumとはブラジルのバイーア州にある国際的認知を得ているアフリカ系ブラジル人の文化団体である。主にカーニバル中心に活躍し、音楽、舞踊、演劇そして芸術を通して、アフリカの文化、伝統等を受け継ぎ伝えるものとして1979年に発足された。特にサルヴァドール・ダ・バイーア(ブラジル北東部の主要都市)で発達したと言われている。音楽は特にサンバやパーカッションを中心としたものが多いという。また海外でも広まり、ポール・サイモンを筆頭にマイケル・ジャクソン、スパイク・リー等も活動に参加している。
■リオデジャネイロオリンピック
2016年8月5日から8月21日までブラジルのリオデジャネイロで開催される第31回夏季オリンピックである。ブラジル国内及び南アメリカ大陸で夏季オリンピックが開催されるのは初めてである。また南半球での開催は1956年開催のメルボルンオリンピックと2000年に開催されたシドニーオリンピックに続き16年ぶり3度目の開催となる。
■サントス
(Santos)は、ブラジルのサンパウロ州にある港湾都市。1543年に設立。ポルトガルの植民地時代から港湾都市として栄え、1908年に日本から最初の正式移民が神戸港から笠戸丸でサントス港に到着した。また、ドイツやイタリアなどのヨーロッパ諸国からの移民の多くもサントス港を利用した。
■パラナグア
(Paranagua)は、ブラジルの都市。人口138,748人(2008年)。ブラジル南部、パラナ州に属し、ブラジル有数の貿易港となっている。パラナグアは1648年に建設され、パラナ州で最も古い町である。州都クリチバからは東に94kmの地点にあり、道路や鉄道が通じ、クリチバやパラナ州の外港となっている 。
■クリチバ
Curitiba)は、ブラジル南部に位置する都市で、パラナ州の州都。現在の人口はおよそ170万人であり、ブラジル南部では最大の都市である。クリティーバは、都市計画の優れた成功例とみなされている。専用レーン、2連結ないし3連結のバス、バリアフリー化も図られたチューブ型のバス停などを用い、大量かつ高速の輸送を実現した極めて効率的な公共交通システムを有している。
■ベレン
Belemはブラジル北部の港町。パラー州の州都である。市内のマンゴー並木が有名である。人口約130万人(都市圏人口208万人)。市内には、日本人、日系ブラジル人が合わせて、約3,000人住むと推定され、日系団体、日系病院もあり、日本国総領事館がある。
■カンピーナス
(Campinas)は、ブラジル南東部サンパウロ州の都市。標高約700mの高原に位置する。サンパウロにつぐ同州第二の都市。人口99万人(2003年)。1930年代になるとコーヒーの価格が暴落し、代わりに工業が盛んになった。工業の急速な発展は労働力の需要を大きく増加させ、カンピーナスにはイタリアを始めとした多くの国々からの移民が流入した。
■ポルト・アレグレ
(Porto Alegre)は、ブラジル南部の都市で、リオグランデ・ド・スル州の州都である。都市名は「陽気な港」という意味。140万人を超える人口を持つ、ブラジルを代表する港町である。グアイバ川に面し、南に大西洋と接するパトス湖がある。
■ミナスジェライス
(Minas Gerais)はポルトガル語で「万人の鉱山」を意味する名前。ベロオリゾンテを州都とするブラジル南東部の州ミナスジェライス州。鉱産資源が豊富なため、"Minas dos Matos Gerais"「万人の森の鉱山」と呼ばれていたのが短縮されて現在の地名の由来となる。
■フォス・ド・イグアス
Foz do Iguaçuはブラジルのパラナ州の都市。 イグアスの滝に最寄の国際観光都市。パラグアイ、アルゼンチンとの国境の町でもある。
■ポルト・ヴェーリョ
(Porto Velho)は、ブラジルのロンドニア州の都市である。ロンドニア州の州都で、アマゾン川盆地上流に位置する。人口379,186人(IBGE/2008年)。アマゾナス州との州境に接する。錫石の重要な交易の中心地である。
■クイアバ
(Cuiaba) はブラジルの都市で、マットグロッソ州の州都。ブラジル中西部、南アメリカ大陸のほぼ中心に位置する。18世紀前半、金鉱の発見にともなって形成された集落が起源となる。1835年にはマット・グロッソ州の州都になった。先住民との抗争や、19世紀後半におけるパラグアイとの戦争(三国同盟戦争)などで一時は荒廃するが、徐々に都市化が進んでいった。
■ブルメナウ
(Blumenau)はブラジル南部のサンタカタリーナ州にある都市。比較的湿度、湿気が低い上、ドイツ風の街並みが特徴であることもあり避暑地、観光地としてブラジル国内やアルゼンチンなどの近隣諸国から多くの観光客が訪れる。なお、ドイツ移民が製造したワインやビール、ドイツ料理やチョコレートが名物である。
■ベロオリゾンテ
Belo Horizonte,は、ブラジル南東部、標高約 800 メートルの高原に建設された計画都市。ミナスジェライス州の州都。人口は約240万人(2009年)。2010年の近郊を含む都市的地域の人口では486万人であり、サンパウロ、リオデジャネイロに次ぐ同国第3位である。
■ニテロイ
(Niteroi)はブラジルのリオ・デ・ジャネイロ州にある都市である。建築界の巨匠のオスカー・ニーマイヤー(オスカール・ニエ・マイエルと発音)が設計したニテロイ現代美術館や、セルジオ・メンデスなど、多くのミュージシャンを輩出したことでも世界的に有名である。
■ペトロポリス
(Petropolis)はブラジル東南部のリオデジャネイロ州の高原上にある都市。町の名前は、ブラジル帝国時代の皇帝であるペドロ2世にちなむ。ペトロポリスは高地に位置するために避暑地として発展し、19世紀にブラジル皇帝の夏の離宮や貴族の別荘が建てられた。
■ナタール
Natal、は、ブラジル北東部リオグランデ・ド・ノルテ州の州都。海岸沿いの8kmにも及ぶ海岸道路が設置されて、1980年代に州をあげての観光客誘致が始まった。主要ホテル、レストランが州都ナターウに集中している。
■ヴィトーリア
(Vitoria)はブラジル南東部の都市。エスピリトサント州の州都。河川が海に注ぎ込む、湾の中の小島にある都市である。人口では国内14位となる。1998年、国際連合は、ヴィトーリアをブラジル国内の州都の中で第4位の『生活しやすい都市』に挙げた。
■国名
公式の英語表記は Federative Republic of Brazil (フェデラティヴ・リパブリク・オヴ・ブラズィル)。通称Brazil(ブラズィル)。 ポルトガル語では “Brasil” と綴られるが、英語では “Brazil” と綴られる。ただし、首都のブラジリアについては英語でも Brasília と表記される。
1.面積:851.2万平方キロメートル(日本の22.5倍)
2.人口:約1億9,400万人(2008年、国連統計)
3.首都:ブラジリア
4.民族:欧州系(55%)、混血(38%)、その他(アフリカ系東洋系等)
5.言語:ポルトガル語
6.宗教:キリスト教(カトリック約74%、プロテスタント約15%)(2000年、地理統計院)
1500年 ポルトガル人カブラルによるブラジル発見
1822年 ポルトガルより独立(9月7日)
1889年 共和制樹立(11月15日)
1964年 カステロ・ブランコ軍事政権樹立
1985年3月 民政移管(サルネイ政権)
1988年10月 新憲法公布
1995年1月 カルドーゾ政権成立
1999年1月 第2期カルドーゾ政権成立
2003年1月 ルーラ政権成立
2007年1月 第2期ルーラ政権成立
2011年1月 ルセーフ政権成立
■主要産業:製造業、鉱業(鉄鉱石他)、農牧業(砂糖、オレンジ、コーヒー、大豆他)
■貿易品目(2008年、ブラジル開発商工省)(1)輸出 工業製品(完成品)46.8%(航空機、乗用車、自動車部品等)、一次産品 36.9%(鉄鉱石、原油、大豆)、 半製品13.7%(鉄鋼半製品、化学木材パルプ、粗糖等)(2)輸入 原材料及び中間材48.1%(化学・医薬品、鉱産物、輸送用機器・アクセサリー等)、資本財20.7%(産業用機械、事務・科学用機器)、燃料及び潤滑油18.2%、非耐久消費財5.7%、耐久消費財7.3%
■レアル
レアル(Real)は、ブラジル連邦共和国の現在の通貨単位である。国際通貨コード(ISO 4217)は“BRL”である。補助通貨単位としてセンターボ(Centavo)があり、1レアルは100センターボに相当する。
■労働者党
Partido dos Trabalhadores 略称:PT は、ブラジルの社会主義政党で、現政権(ジルマ・ルセフ大統領)の与党である。ブラジル共産党(PCdoB)や民主労働党(PDT)、民主運動党(PMDB)などの左派・中道左派政党と連立を組んでいる。現在の党首は、ジョゼ・エドゥアルド・デ・バロネス・ドゥトラ
■ブラジル共産党
共産主義を政治的理念として掲げるブラジル連邦共和国の政党である。現在の議長(党首)は2009年11月の第12回党大会で選出されたジョゼ・レナート・ラベロ(Renato Rabelo)
■民主労働党
Partido Democrático Trabalhista、略称:PDTは、1981年11月に結成されたブラジル連邦共和国の中道左派政党である。社会主義インターナショナル加盟政党。2003年1月に大統領に就任したルーラ(労働者党 PT)を支える連立与党の一角を占めている。
■ブラジル民主運動党
PMDB−Partido do Movimento Democratico Brasileiro パルティード・ド・モヴィメント・デモクラティコ・ブラジレイロ)は、ブラジル連邦共和国の政党である。政治的立場は中道路線である。
■音楽
ブラジルの音楽はトゥピー・グアラニー系のインディオ、アンゴラ、ナイジェリアをはじめとするアフリカ、ポルトガルやその他ヨーロッパの伝統が混じりあって発展した。したがってブラジルにおける音楽的文化は非常に高く、貧富の差を問わず多くの国民が音楽を好む傾向にある。また、それらの複合的なメロディーと独特なリズムやハーモニーの要素から、古くより世界的に高い評価を得ている。主な音楽のジャンルとしては、日本でも一般に知られるサンバやボサノヴァに加え、インストルメンタルではアメリカのジャズよりも古い歴史を持つといわれるショーロ、ポピュラー音楽であるMPB、あるいはフォホーをはじめとするノルデステ(北東部の音楽)、バイーアのアシェーなどが挙げられる。
■ブラジル文学
1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルが率いるポルトガルの艦隊がブラジルを「発見」し、カブラルの船員の一人だったペロ・ヴァス・デ・カミーニャが『書簡』(1500)を著したところから、文字によるブラジル文学の歴史は始まった。
■セバスチャン・サルガド
Sebastian Salgado, 1944年2月8日生まれ
当初写真とは関係のない仕事をするも、やがて、写真家としての正式な教育を受けぬまま、1970年代前半に写真家として活動を開始。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどの発展途上国を回り、貧困、飢餓、過酷な労働、難民、内戦などを写し取った作品を多く制作する。
■アストラッド・ジルベルト
1940年3月29日生まれ
ブラジル出身の、ボサノヴァ・ジャズ、ポピュラー音楽の歌手。「イパネマの娘」の大成功により、彼女は一躍ジャズスターとなり、その後すぐにソロ・デビューする。彼女はブラジルのボサノヴァと、アメリカのジャズ・スタンダードの架け橋的な役割を果たす。動物虐待や動物実験には批判的な姿勢を持っており、自らも反対運動に参画している。
■バーデン・パウエル
1937年8月6日 - 2000年9月26日
父親は靴屋であり、チューバ奏者であった。バーデンにはヴァイオリンを習わせていたが、4歳の頃、自らの意思でギターに転向。8歳の頃から正統派ブラジル古典音楽の教育を受け始める。10代の頃は、エスコーラ・ヂ・サンバ・エスタサォン・プリメイラ・チ・マンゲイラに所属し、また15歳でナイト・クラブで演奏を始めたりと、ギタリストとしての腕を上げていく。70年代にはヨーロッパに活動の拠点を移し、ヴィニシウス・ヂ・モライスと産みだした土着的宗教をテーマとした世界観やブラジル民謡、バッハなどクラシックを取り入れた作曲をさらに追求し、ボサノヴァの範疇に納まらないギター奏者として活躍する。
■アイルトン・セナ
アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジル人のレーシング・ドライバー、1988年、1990年、1991年の3度F1ワールドチャンピオン。ブラジル最大の都市であるサンパウロ市の地主で、農場や牧場、小規模商店、自動車修理工場などブラジル国内でも有数の多角経営者であるミルトン・ダ・シルバの長男として誕生。4歳のとき父からレーシングカートを与えられると、たちまちそれに夢中となり、その才能を磨き、父の豊富な資金と環境がドライビング技術の向上を支えた。また、8歳のころに工場のスクラップ寸前のジープをクラッチを使わずに走ったという珍話もある。
■アウストレジェジロ・デ・アタイデ
Austregelilo de Athayde、1898年9月25日 - 1993年9月13日は、ブラジルの作家、ジャーナリスト。世界人権宣言の審議には、ブラジル代表として参加した。精力的にジャーナリスト活動に携わり、生涯で書いたコラムは5万本。テレビには20年間、毎週1回出演。ラジオには30年間、毎週1回出演。講演も40年にわたっ毎週のように行った。毎日約6本の記事を書き続け、晩年も毎日3本の記事を執筆していた。
■イヴァン・リンス
Ivan Guimaraes Lins, 1945年6月16日 - は、ブラジル出身のミュージシャン。ブラジリアン・ポピュラー・ミュージック (MPB) やジャズ界で主に活動している。初期のヒット作である"Madalena"は、1970年にエリス・レジーナによって録音されたことでも有名である。リオ・デ・ジャネイロに生まれる。海軍技術者であった父が、リオの士官学校での研究をマサチューセッツ工科大学の大学院で行ったため、幼少の頃の彼は数年マサチューセッツ州ボストンに暮らす。帰国後、リオ・デ・ジャネイロ連邦大学 (UFRJ) で産業化学工学の学位をとる。音楽活動を開始する以前は、バレーボールの道へ進もうとしていた。
■ジョルジェ・アマード
Jorge Amado, 1912年8月10日 - 2001年8月6日とは、ブラジルの小説家である。20世紀ブラジル文学を代表する作家である。作品の多くが英語、フランス語をはじめとする48以上の言語に翻訳されている。1912年に北東部バイーア州イタブーナのカカオ農園に生まれた。リオ・デ・ジャネイロ大学法学部に入学し、在学中から『カカオ』などの執筆時活動を行い、1935年に卒業した。『砂の戦士たち』、『ジュビアバー』などで次第に作家として認知され始め、ブラジル共産党員だったアマードはこの時期にブラジルのプロレタリア文学を代表する作品を残した。
■エイトル・ヴィラ=ロボス
Heitor Villa-Lobos 1887年3月5日 - 1959年11月17日はブラジル出身の作曲家。独学で作曲を勉強し、クラシックの技法にブラジル独自の音楽を取り込んだ作風で知られる。ヴィラ=ロボスは、南米のみならず、20世紀を代表する作曲家の一人である。ヴィラ=ロボスは1887年、リオ・デ・ジャネイロに生まれた。彼に音楽の手ほどきをしたのは、アマチュア音楽家であった父親と叔母であった。特に叔母はJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集を好んで弾いたと伝えられており、エイトルのその後の音楽に大きな影響を与えた。こうした家庭で、ピアノ、クラリネット、チェロを演奏することを学んだ彼は、1899年の父の死後、10代でカフェでチェロを弾いて生計を立てることとなった。
■カルトーラ
Angenor de Oliveira - アンジェノール・ヂ・オリヴェイラ、1908年10月11日 - 1980年11月30日は、ブラジル・リオデジャネイロにおけるサンバの作曲家、歌手。ブラジル音楽やサンバを語る上で外せない“重要人物”の1人。カルトーラは、ブラジル音楽の歴史において燦然と輝く、まさにその名の通りCartola(重要人物)である。また、カルトーラはアペリード・愛称であるが、これは左官として働いたときに、上からセメントが落ちてきて髪の毛につくと取れなくなるのが嫌で、いつもCartola(山高帽)を被っていたことから呼ばれるようになった。
■アントニオ・カルロス・ジョビン
Antonio Carlos Jobim、1927年1月25日 - 1994年12月8日は、ブラジルの作曲家、編曲家、ミュージシャン。20世紀のブラジル音楽を代表する作曲家である。1950年代後半、ジョアン・ジルベルト、ヴィニシウス・ヂ・モライスなどとともに、ボサノヴァという音楽ジャンルを創生したと言われている。リオ・デ・ジャネイロのチジュッカ地区生まれ。14歳の頃からピアノを始め、また作曲を学びはじめる。音楽家として生きていきたいと願っていたが、家族を養うことを考えて建築学校に入学する。しかし、音楽への夢を捨てきれず、ラジオやナイトクラブでのピアノ奏者として働いていたが、ハダメス・ジナタリに見いだされ、コンチネンタル・レコードに入社し、曲の譜面起こしや編曲などの仕事をこなす。
■オスカー・ニーマイヤー
Oscar Ribeiro de Almeida Niemeyer Soares Filho、1907年12月15日 - は、ブラジル、リオデジャネイロ市生まれの建築家。1907年に、当時ブラジルの首都であったリオ・デ・ジャネイロのドイツ系の家庭で生まれた。なお、本人は「自分にはインディオか黒人の血も混ざっているかもしれない。でもそれは私にとっては誇りである」と語っている。1935年からリオ・デ・ジャネイロのルシオ・コスタとカルロス・レアンの設計事務所に勤務し、旧教育保健省庁舎の設計に関わった。この際、ルシオ・コスタが設計顧問としてル・コルビュジエを招いたことをきっかけにコルビュジエと出会う。
■パウロ・フレイレ
Paulo Freire, 1921年9月21日 - 1997年5月2日は、ブラジルの教育者。ブラジル北東部のペルナンブーコ州に生まれる。大学では法律を学び、卒業後弁護士になるが最初の1件で引退。ブラジル北東部の町、レシフェ市で貧しい農村の非識字の農夫たちに、自分たちの境遇を考え、自分の暮らし、生活を変えていく(意識化)力としての言葉の読み書きを教えるという斬新な識字教育を始めて大成功を収める。これが大資本家たちの機嫌を損ね、1964年のクーデターで軍事政府により国外追放になる。フレイレは、「自由は、贈り物のように差し出されるものではなく、勝利によって獲得される。それは、常に、そして敏感に、追求され続けなければならない。それは、人間の外に存在する理想などではなく、神話の世界の観念的なものでもない。自由とは、人間が完成を目指して行う冒険のために欠かすことのできない条件である」と述べている。
■マシャード・デ・アシス
ジョアキン・マリア・マシャード・デ・アシス(Joaquim Maria Machado de Assis、1839年6月21日 - 1908年9月29日)はブラジルの小説家、詩人、短編作家である。1839年にブラジル帝国の首都リオ・デ・ジャネイロで生まれる。彼の父親フランシスコ・ジョゼ・デ・アシスはムラートの画家で、母親のマリア・レオポルディーナ・デ・アシスはアソーレス諸島出身だった。彼はブラジル文学で最も重要な作家として認められているが、生前は有名にならなかった。
■パウロ・コエーリョ
パウロ・コエーリョ(Paulo Coelho、1947年8月24日 - )は、ブラジルの作詞家、小説家。ブラジル文学アカデミー会員。ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに生まれる。大学の法学部に進学するも、1970年、突然学業を放棄して、旅に出る。メキシコ、ペルー、ボリビア、チリを経て、ヨーロッパ北アフリカにも足を伸ばす。2年後、ブラジルに帰国して、流行歌の作詞を手がけるようになり、人気歌手ラウル・セイシャスに詞を提供する。1974年、ブラジルの軍事独裁政権に対する反政府活動に関与との嫌疑を受け、短期間投獄される。その後、しばらくレコード制作を手がけるが、1979年、再び仕事を放棄して、世界を巡る旅に出る。1987年、『星の巡礼』(O Diáio de um Mago)を執筆刊行して、作家デビューを飾る。
■ジャイメ・レルネル
Jaime Lerner, 1937年12月17日 - は、南米ブラジルのパラナ州の元知事である。建築家、都市計画家として有名であり、パラナ州の州都であるクリチバの市長を3期にわたって務めた(1971年 - 75年、1979年 - 83年、1989年 - 92年)。この間の施策により、それ以前は名もない地方都市に過ぎなかった同都市を、都市計画の見本とまで称えられる先進的な都市にした辣腕で世界的によく知られる。
■フェルナンド・メイレレス
Fernando Meirelles,1955年11月9日 - はブラジル・サンパウロ出身の映画監督。サンパウロ大学で建築を学んでいたが映画制作に興味を持つようになり、仲間達と短編映画を作り始める。テレビ局で働いた後、自分のプロダクション・カンパニーを立ち上げ、本格的に映画制作に携わるようになる。特に2002年に制作した、リオデジャネイロのファヴェーラ(スラム)の子供達の抗争を描いた『シティ・オブ・ゴッド』は世界中で高く評価され、アカデミー監督賞にもノミネートされた。2005年にはジョン・ル・カレの原作を基に『ナイロビの蜂』を制作し、この映画でレイチェル・ワイズはアカデミー助演女優賞を受賞した。
■エルネスト・ナザレー
Ernesto Julio Nazareth 1863年3月20日 - 1934年2月4日は、ブラジルのピアニスト・作曲家。一生をリオ・デ・ジャネイロで過ごした。「ブラジル風タンゴ」やショーロなど、国内の民族音楽に影響されたピアノ曲を量産した。そのような作曲姿勢から、しばしば「ブラジルのショパン」と呼ばれている。ナザレーは、心底からのブラジル人音楽家であり、音楽は楽しまれるべきであるとして、それ以上を望みはしなかった。ほとんど独学であり、音楽活動のほとんどは、劇場や映画館の伴奏ピアニストとして、あるいは小劇場のアンサンブルでのピアニストとして、演奏するのに振り当てられた。
■ハダメス・ジナタリ
Radames Gnattali、1906年 1月27日 - 1988年 2月3日、は、ブラジル・ポルトアレグレ生まれの音楽家・作曲家。クラシック音楽とポピュラー音楽双方に垣根なく携わった。6歳でピアノを初め、ヴァイオリンも演奏していた。15歳のときにはさらにカヴァキーニョやギターもマスターしていた。1924年には、州立芸術学院へ入学し、その後リオ・デ・ジャネイロの国立音楽学校に入学する。
■カルロス・マリゲーラ
(Carlos Marighella、1911年12月5日 - 1969年11月4日)は、ブラジルのマルクス主義革命家。都市ゲリラの民族解放行動(ALN)を指揮し、軍事政権に抵抗した。著書「都市ゲリラ教程」[1]で都市ゲリラの戦術について書いている。1911年12月5日、バイーア州サルヴァドールで貧しいイタリア系移民の家庭に生まれ、ブラジル共産党の執行委員会に所属して国会議員を務めた。1932年に投獄され、1939年から1942年まで再度投獄されていた。その後、フィデル・カストロを支持して党から追放され、ALNを組織して銀行強盗や外国大使の誘拐を繰り返した。
■グスタボ・クエルテン
(Gustavo Kuerten, 1976年9月10日 - )は、ブラジル・サンタカタリーナ州フロリアノーポリス出身の男子プロテニス選手。1997年、2000年、2001年の3度、全仏オープン男子シングルスで優勝した。ATPツアーで全仏オープン3勝を含むシングルス20勝、ダブルス8勝を挙げた。1997年の全仏オープンで、当時20歳だったクエルテンは、世界ランキング66位のノーシード選手であったが、当時世界最新の打ち方と言われた腰の回転を最大限に生かしたフォアハンドや、正確で鋭いバックハンドのストレートを武器にして勝ち進んだ。
■ジョゼ・デ・アンシエタ
(Jose de Anchieta, ジョゼ・デ・アンシェッタ、1534年3月19日 - 1597年6月9日)は、スペイン領カナリア諸島出身のイエズス会士で16世紀の後半にブラジルで伝道を行った。1500年4月22日のブラジル発見から1世紀にわたり、ブラジルの歴史に大きな影響を与えた。アンシエタは1554年のサンパウロ、1565年のリオデジャネイロ創立の際の創立者の一人でもある。彼は文筆家で詩人であり、ブラジルで最初の文筆家とされている。
■エリコ・ヴェリッシモ
(Erico Verissimo、1905年12月17日 − 1975年11月28日)は、ブラジル人小説家である。1905年、ブラジル、リオグランデ・ド・スル州クルース・アルタ生まれ。マシャード・デ・アシス賞、グラッサ・アラーニャ賞を受賞した。
■ジョアン・ジルベルト
(Joao Gilberto Prado Pereira de Oliveira、1931年6月10日 - )は、ブラジルの歌手、ギタリスト。作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンや作詞家のヴィニシウス・ヂ・モライスらとともに、ボサノヴァを創成したとされている。特にジョアンのことを「ボサノヴァの神」、「ボサノヴァの法王」などと呼ぶこともある。アストラッド・ジルベルトはジョアンの元妻である。
■エリゼッチ・カルドーゾ
Elizeth Moreira Cardoso, 1920年7月16日 - 1990年5月7日は、ブラジル・リオデジャネイロ出身の歌手。ブラジル音楽でも史上最高・最高峰で不世出の歌手、さらには彼女なくしてブラジル音楽は語れないとまで評される。このようにエリゼッチは国民的に親しまれた偉大な歌手であった。著名なサンバの詩人・作詞家で、レコードプロデューサーとして彼女のアルバムも手がけたエルミニオ・ベロ・ヂ・カルヴァーリョは、エリゼッチを“Divina Magnifica, Enluarada e Cantadeira do Amor”(偉大な女神で月光に包まれた愛の歌い手)と評している。
■グラウベル・ローシャ
(Glauber Rocha, 1938年3月14日 ヴィトリア・ダ・コンキスタ - 1981年8月22日 リオデジャネイロ)は、ブラジルの映画監督、俳優、脚本家である。影響力のある人物で、ブラジルのニューウェイヴ・ムーヴメントである「シネマ・ノーヴォ」の旗手であり、『黒い神と白い悪魔』(1964年)の監督として知られる。1938年3月14日、ブラジル・バイーア州のヴィトリア・ダ・コンキスタに生まれる。9歳のときに家族とともに同州の州都サルヴァドールへ引っ越す。そこで、有名かつ尊敬されている長老派教会の学校で学ぶ。少年時代は芸術に対する多大な興味をふくらませ、とくに演劇と映画については相当なもので、劇団に加わりすらした。政治活動についても非常にアクティヴであり、その後の彼の作品にも強烈な影響を及ぼしている。
■ジルベルト・フレイレ
(Gilberto de Mello Freyre, 1900年3月15日 - 1987年7月18日)は、20世紀のブラジルを代表する文化人であり、社会学者、文化人類学者、歴史家、ジャーナリスト、政治家として多方面にわたる活躍で知られる。代表作であるCasa-Grande & Senzala(『大邸宅と奴隷小屋』)は、植民地時代のブラジルにおけるプランテーション(大農園)での家父長制下の社会と生活を描いたもので、欧米各国で翻訳され西洋思想の古典として高い評価を受けている。
■アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ
(Antonio Rodrigo Nogueira、男性、1976年6月2日 - )は、ブラジルの総合格闘家、ブラジリアン柔術家。バイーア州ヴィトリア・ダ・コンキスタ出身。4歳から柔道を始め、10代半ば頃にはブラジルのボクシングオリンピックコーチのルイス・カルロス・ドリアからボクシングを学んでいた。11歳の頃[3]、トラックの下敷きになるという事故で両肺が潰れ、肋骨1本と肝臓の一部を失う大怪我を負い、丸4日間生死の境を彷徨う。当時の医者には2度と歩けなくなるとまで宣告されたが、懸命のリハビリによって回復した。
■レオナルド・ボフ
(Leonardo Boff) 1938年12月14日 - ) はブラジル出身の神学者・哲学者・作家。元カトリック司祭。貧困層や排除された人たちを支援する活動家としても知られている。2007年現在リオデジャネイロ州立大学 (UERJ) に倫理学、宗教哲学、環境の名誉教授として在職。彼は常に人権の擁護者として新しいラテンアメリカの「尊厳を保ち生きる権利と方法」への展望を形作るのを助けた。解放の神学者の働きはブラジルとラテンアメリカの貧しいカトリック信徒による100万以上の教会基礎共同体 ("Comunidades Eclesiais de Base", CEBs) の結成を助けた。この運動とボフは抑圧された共同体で活動する中でカトリック教会の社会的、経済的な秩序における役割を批判するものとなった。
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