ボリビア Bolivia
南アメリカの共和制国家。国の面積はアメリカ大陸では8番目に、世界的には27番目に大きい国である。かつてはもっと大きかったが、周辺国との戦争に負け続けたために現在では最大時の半分ほどになってしまった。北と東をブラジル、南をアルゼンチン、南東をパラグアイ、南西をチリ、北西をペルーに囲まれた内陸国である。憲法上の首都はスクレだが、議会をはじめとした政府主要機関はラパスにある。
■スクレ
スクレ(Sucre)はボリビア共和国の憲法上の首都(事実上の首都はラパス)である。ボリビア独立時の調印が行なわれた場所で、今も16世紀に建造されて以来蓄積されてきたコロニアル様式の古い町並みが残っている。白く美しい建物が多いため、「白の街」と呼ばれることもある。1538年9月29日にスペイン人コンキスタドールのフランシスコ・ピサロの指示によってペドロ・デ・アンスレス (Pedro de Anzures)が設立した。当初の名前はCiudad de la Plata de la Nueva Toledo(新トレドの銀の街の意)であった。後にこの地はチュキサカまたはチャルカス(Charcas)と呼ばれるようになった。(チュキサカは現在はスクレ市を中心とする県の名前になっている。)
■ラパス
1548年10月20日にスペイン人アロンソ・メンドーサ(Alonso Mendoza)により設立された。設立当時の名称は「我らが平和の母の街」と呼ばれ、現在のラパス市の西隣にあるラハ(Laja)という場所が中心であった。その後、現在の谷底に中心が移された。中心街の標高は3600m強で、すり鉢状の地形を持つ。その高さから雲の上の町と呼ばれる。 おおざっぱに言うと、すり鉢の底の部分に高所得者が、縁の部分に低所得者が住んでいる。現在に至るまで人口は増え続けており、すり鉢の内側はほぼ飽和したために隣のエル・アルト(El Alto)に市街地が拡大している。そのため、市街地の上と下で、700mほどの標高差があると言われる。
■コチャバンバ
Ciudad de Cochabambaはボリビアで3番目の規模の都市。コチャバンバ県の行政府所在地であり、県西部に位置する。アンデス山脈中の東西に伸びた盆地内にあり、標高約2,600m。気候は比較的温暖であり、果樹栽培などに適したバジェ (valle,渓谷)地方に属する。キリスト像と植物園が観光名所である。キリスト像は市内を見下ろす市内東部のコンコルディア (Concordia)の丘に建てられた。1987年7月に建設が開始され、1994年11月に完成した。手を左右に広げた立像で、高さは約34mあり、台座も含めると約40mになる。鉄及びコンクリート製で重量は2,200トンに及ぶという。
外務省:ボリビア多民族国家
在ボリビア日本国大使館
■サン・アンドレス大学
Universidad Mayor de San Andresは、ボリビアの大学。略称はUMSA(ウムサ)。事実上の首都ラパス市にあり、国内最高学府とされる。創立からラパス市の商業、政治および社会生活に重要な影響を与えている。1830年10月25日、国の最高法令によって創立された。本部は市内中心やや南寄りのビジャソン通り (calle Villazon)にある。茶色の真四角な高層ビルで、モノブロック (monoblock)と俗称されている。本部のある敷地に数学科や情報学科などがある他、市内の数カ所に工学部、経済学部などが点在する。また、チャカルタヤに宇宙線研究施設を持つ。
■トマス・フリーアス自治大学
(Universidad Autonoma "Tomas Frias"、UATF)はボリビアポトシ県ポトシに本部を置くボリビアの公立大学である。1892年に設置された。
■エル・アルト
El Alto:スペイン語で「高地」の意)は、ボリビアのラパス県の都市である。実質上の首都ラパス(憲法上の首都はスクレ)に隣接し、ラパス都市圏の一部を形成する。ラパス市街は峡谷の地形に構築されたが、エル・アルトはその南西に位置するアルティプラーノ(Altiplano)と呼ばれる高原平地にあり、標高4,150mで世界で最も標高が高い都市の一つである。
■エル・アルト国際空港
El Alto International Airportは、ボリビアの中心都市ラパス(憲法上の首都はスクレ)近郊のエル・アルトにある国際空港。1925年に新設空軍のための基地として建設されたもので、現在もボリビア空軍が運営し軍民共用となっている。世界最高標高の国際空港。標高4,000メートルを越す位置にあり、酸素濃度が薄くエンジンの燃焼効率、翼の揚力発生能力が低下するため、大型機でも離陸時に充分な加速が得られ、着陸時も安全な速度が維持できるようボリビア国内で唯一4,000メートルの滑走路を有している。
■ホルヘ・ウィルステルマン国際空港
ホルヘ・ウィルステルマン国際空港は、ボリビアのコチャバンバにある国際空港。空港の名前は、ボリビア初の民間人パイロットのホルヘ・ウィルステルマンから。
■ビルビル国際空港
ViruViru International Airportは、ボリビアのサンタクルスにある国際空港。Viru Viruはグアラニー語で平野の意味。その名の通り、サンタクルスの中心から北に15kmの平野のなかにある。
■エルナンド・シレス競技場
(Estadio Hernando Siles)は、ボリビア最大の総合競技場である。45,000の観客が着席して観戦できる。この名称はボリビア第31代大統領、エルナンド・シレス・レイェス(1926年-1930年在任)にちなんで命名された。海抜は3,577m、世界一高い場所にある公的な競技場である。
■チュキサカ県
(Chuquisaca)、とは、ボリビアの中央南部に位置する県である。北側がコチャバンバ県、南側がタリハ県、西側がポトシ県、東側がサンタクルス県とパラグアイ国境になっている。10個の郡で構成されている。県の北西部はアンデス山脈東側にあたり標高も3,000mを超えるが、南東部はグランチャコの一部でパラグアイ川流域につながる低地帯であり、標高も500m以下である。
■コチャバンバ県
Departamento de Cochabamba)は、ボリビアのほぼ中央にある県。行政府所在地はコチャバンバ。他の主な町としてはサカバやトトラなどがある。県土の中央から西部にかけては、アンデス山脈中にあり、バジェ (valle,渓谷)地域に分類される。乾燥した温暖な気候であり、コチャバンバの平均気温は18度、年間降水量は約500mm。山地の標高は4,000mを越えている。
■ラパス県
Departamento de La Paz)はボリビアのアンデス地方にある県。事実上の首都ラパス市、チチカカ湖、ユンガス地方などを含む。チチカカ湖からラパス市方向の南側一帯は、標高4000mくらいの広大な平地になっている。この一帯はアルティプラーノと呼ばれる。
■オルロ県
Departamento de Oruro)は、ボリビア中西部にある県。行政府所在地は県北東部にあるオルロ。アンデス山脈中の標高約3,700mの高地(アルティプラーノ)にあり、東縁は4,000m級と西縁は5,000m級の山岳地帯であるが、県央部は平原が広がっている。
■パンド県
(Departamento de Pando)は、ボリビア北部の県。中心都市はコビハ。人口は約60.995人。熱帯性気候で県土の大部分は森林や川で埋め尽くされている。低い土地は水害が多いことが特徴で、何ヶ月も水が引かないこともある。現在コビハの最も大きな経済活動は鉱業とアーモンド生産で、その大部分がブラジルに輸出されている。鉱業では金、リチウム、朱、チタン鉄鉱、ボーキサイト、宝石などが見つかっている。
■ポトシ県
Departamento de Potosi)は、ボリビアの南西部の県。行政府所在地は北東部にあるポトシ。県土はアンデス山脈中に位置し、東部は標高4,000m以上の山脈地帯である。ノルテ・ポトシ (Norte Potosí) とは、ポトシ県の北部のこと。先住民はケチュア系が占める。この地方は、土地がやせていて、さらに水も少ないため、ボリビア国内でも最も貧しい地域のひとつとされている。また、この地のフォルクローレは、ボリビア国内でも特徴的なものである。小型の弦楽器チャランゴは、この地に起源があるのではないかと推測されている。
■サンタクルス県
Departamento de Santa Cruz)は、ボリビアのアマゾン地方に広がる県。ボリビアで最大の面積を持つ県である。ブラジルとパラグアイとの国境を持つ。温暖な気候を持ち、農業が盛んである。ユネスコの世界遺産に1990年に登録されたチキトスのイエズス会伝道所、1998年に登録されたサマイパタの砦、2000年に登録されたノエル・ケンプ・メルカード国立公園はいずれもサンタ・クルス県内にある。
■ベニ県
Departamento del Beni)は、ボリビア北西部の県。8つの郡で構成されている。行政府所在地はトリニダ。主な町としては、リベラルタやマグダレナなど。県の南西端にアンデス山脈東縁がかかり、標高約1,500mほどの山地となっているほかは、アマゾン川上流地域にあたり、標高400m以下の低平な地帯が県土の大部分を占める。
■タリハ県
Departamento de Tarija)は、ボリビアの県の一。ボリビア最南部に位置し、北側がチュキサカ県、西側がポトシ県と接し、南側がアルゼンチン国境、東側がパラグアイ国境になっている。気温は20度から30度の温暖な気候で、適度な雨が降り作物がよく育つ。大麦、トウモロコシ、サトウキビや、多種の果物がとれる。ボリビア国内では良質のブドウの産地として有名で、ワインやシンガニ(ブドウから作る蒸留酒)の名産地である。
■タラブコ
(Tarabuco)とは、ボリビアのチュキサカ県にあるちいさな町。 スクレからバスで約2時間のところにある、山間の町である。伝統的な衣装を身につけた人々と、特徴的な祭りで有名。 ケチュア語が多く話されているが、スペイン語もほぼ通じる。以前はチチカカ湖周辺に住んでいた人たちがインカ帝国に追われてこの地にやってきたと言われている。
■タリハ
(Tarija)は、ボリビアにある市。タリハ県の行政府所在地であり、最大の都市である。県の西部に位置し、クアダルキビル川が形成した盆地の中にある。市街地の南東部にはキャピタン・オリエル・リー・プラザ空港が位置している。高等教育機関としてはプリビダ・ドミンゴ・サビオ大学がある。
■コビハ
Cobijaは、ボリビアのパンド県の都市である。首都のラパスから北に約600kmの距離に位置する。アマゾン盆地に位置し、ブラジルと国境を接する。アマゾン川の支流であるアクレ川沿いに位置し、対岸にはブラジルの都市Brasilaiaがある。
■ユンガス地方
Los Yungas)は、ボリビアの首都ラパス市の北東にあるラパス県の一地域であり、アンデス山脈の北東山麓にあたる。この温暖なユンガス地方では、コカ、コーヒー、サトウキビ、バナナ、パパイヤ、lacayotes(カボチャの一種)、lúcumas(熱帯産フルーツの一種)、アマランサス、achupallas や bromelias(パイナップル科の植物で帽子 (西: Chupalla) の材料)、トウモロコシ等が台地や段々畑で栽培されている。
■オキナワ移住区
Colonia Okinawa)は、ボリビアのサンタクルス県内にある日本人入植地である。1954年にアメリカ統治下であった沖縄県から入植したのが始まりである。この入植はボリビア政府の認可のもと、琉球政府と琉球列島米国民政府が共同で募集した計画的集団移民である。1969年以降は日本政府に移譲され、国際協力機構(旧国際協力事業団、JICA)が援助を続けている。
■サンフアン・デ・ヤパカニ移住区
(San Juan de Yapacaní)は、ボリビアのサンタクルス県内の市。1950年代から日本人移住者が住み、ボリビア国内にあって日本語が通じる町を作っている。現在は、日本からの移住者の子供や孫(いわゆる日系2世、3世)が中心となってきている。第二次世界大戦後に主に九州地方から移り住んだ人とその子孫が多く暮らしている。
■イゲラ
La Higuera、スペイン語で「イチジクの木」の意)は、ボリビアの小さな村。サンタクルス県にあり、サンタクルス市から南西に150kmほど離れた場所にある。チェ・ゲバラが殺害された村として有名である。1967年10月8日、アルゼンチン生まれの革命家であるチェ・ゲバラがボリビア軍によりふくらはぎを打ち抜かれ、捕縛されたのが、この村のすぐ近くのチュロ渓谷 (Quebrada del Churo)であった。チェ・ゲバラは学校に連れ込まれ、翌日殺害された。遺体はバジェグランデに運ばれ、しばらく晒しものにされた後、密かに滑走路に埋められた。1997年に、ゲバラの遺骨が掘り返され、キューバに返還された。
■リベラルタ
(Riberalta)は、ボリビアのベニ県の北部にある町である。アマゾン川の流域にあり、ブラジル国境にごく近い。人口8万人ほど。1908年頃、ペルーから日本人が50〜150人程度の規模で移住してきた。当時、天然ゴムの需要が高く、日本人移住者の多くはゴム採集またはゴム工場建設の労働に就いた。最盛期では千人以上の日本人がリベラルタとその周辺に居住していたとされる。近年は、国際協力機構(旧国際協力事業団, JICA)の援助も多く入り、青年海外協力隊や日系社会シニアボランティアなどが日本語教育などの活動を行なっている。
■国名
公式の英語表記は Plurinational State of Bolivia。通称は Bolivia となっている。独立前はアルト・ペルー(上ペルー、高地ペルー)と呼ばれていたが、独立に際してラテンアメリカの解放者として知られるシモン・ボリバル将軍と、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍に解放されたことを称えて、国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。
1.面積:110万平方キロメートル(日本の約3倍)
2.人口:1,043万人(2010年 国家統計局)
3.首都:ラパス(憲法上の首都はスクレ)
4.民族:先住民55%、混血32%、欧州系13%
5.言語:スペイン語(他にケチュア語、アイマラ語)
6.宗教:国民の大多数(95%以上)はカトリック教
1825年 スペインより独立
1964年〜1982年 軍事政権
1982年〜1985年 シーレス・スアソ大統領(民政移管)
1985年〜1989年 パス・エステンソロ大統領
1989年〜1993年 パス・サモラ大統領
1993年〜1997年 サンチェス・デ・ロサダ大統領
1997年〜2001年8月 バンセル大統領
2001年〜2002年 キロガ大統領
2002年8月〜2003年10月 サンチェス・デ・ロサダ大統領
2003年10月〜2005年6月 メサ大統領
2005年6月〜2006年1月 ロドリゲス大統領
2006年1月〜現在 モラレス大統領
■主要産業:鉱業(亜鉛、錫、鉛)、農業(大豆、木材、砂糖)
■主要貿易品目(2009年国家統計局)(1)輸出 天然ガス、亜鉛、鉛、銀、大豆、錫(2)輸入 自動車、鉄鋼製品、ゴム製品
■ボリビアーノ
(boliviano) は、南米・ボリビアの通貨単位。複数形はボリビアーノス(bolivianos)。 略称Bs(単数形複数形とも)。在ボリビアの日本人は「ボリ」と略して呼ぶことが多い。ボリビア人の日常会話では、1986年まで使用されていた"ペソ"と呼ばれることも多い。1, 2, 5ボリビアーノスは硬貨で、10, 20, 50, 100, 200ボリビアーノスは紙幣である。
■政治
大統領を元首とする共和制国家であり、国家元首である大統領は、行政府の長として実権を有する。任期5年。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。建国以来政治的に非常に不安定なため、クーデターが起こりやすい政治文化があり、過去百回以上のクーデターが起きている。
■民族革命運動党
(Movimiento Nacionalista Revolucionario : MNR)はボリビアの政党。20世紀のボリビアの歴史で最も重要な役割を果たした政党。略称のMNR(エメエネエレ)と呼ばれる事が多い(本稿も以降MNRと表記する)。
■ボリビアガス紛争
ボリビアの膨大な天然ガス資源にまつわる国内紛争である。元は天然ガスの輸出計画に対する反対行動であったが、政府のコカ廃絶政策に対する反発や、ストライキに対する武装鎮圧部隊の強硬な措置などが絡み合って激化してゆき、2003年10月にピークに達した。先住民や労働者団体によるストライキや道路封鎖が頻発し、国政が行き詰まりをみせ、武装部隊による鎮圧行動は70人に及ぶ死者を出すに至った。
■ペルー・ボリビア連合
(Peru-Bolivian Confederation)は、南アメリカに1836年から1839年の短期間存在した国家連合。ペルーとボリビアを版図とし、首都はタクナに置かれた。1836年に ボリビア大統領のアンドレス・デ・サンタ・クルスは、ペルーの支配者アグスティン・ガマーラを破ってペルーを南ペルー共和国と北ペルー共和国に分けてボリビアと統合した。10月にペルー・ボリビア連合の成立を宣言し自らは終身・世襲の連合護民官になった。首都は南ペルー共和国のタクナに置かれコビハ、アリカ、カヤオ、パイタの計4港を自由港としその他の港から輸入される物品の課税率を引き上げて国内産品を保護した。
■ボリビア革命
ボリビア革命は南アメリカ大陸中部の国家ボリビアにおいて政権を奪取した民族革命運動党(MNR)が1952年から1964年にかけて実施した社会改革および経済改革を指す呼称。1942年12月、軍によるカタビ鉱山労働者虐殺事件を契機としてMNRはスズ鉱山労働者の組織化に注力し、労働者層の支持を取り付け急速に勢力を拡大した。1951年5月6日の選挙で勝利を収めた後、これを認めない軍部に対してMNRは鉱山労働者や国家警察部隊と結託してラパスにて武装蜂起し、パスとシレスがそれぞれ正・副大統領に就任した。
■コチャバンバ水紛争
ボリビアのコチャバンバで2000年1月から4月にかけて発生した一連の抗議行動。コチャバンバでは、1967年より水道事業を担っていた SEMAPA(市営上下水道サービス公社)が世界銀行の主導によって民営化され、民間会社であるロンドン国際水供給会社(International Waters Limited of London : IWL)が上下水道事業の40年間のコンセッション契約を受注した。IWL社は米ベクテル社(Bechtel Corporation)の完全子会社で、コチャバンバでは「トゥナリ水供給会社(Aguas del Tunari)」と称した。
■チャコ戦争
Guerra del Chaco)とは、1932年から1938年にかけてボリビアとパラグアイの間で行なわれた戦争。両国の未確定国境地帯であったグラン・チャコに石油の埋蔵があるという仮説を受けて、その地域の国境を確定させ、また国土拡大の為にボリビアの先制攻撃で始まったが、戦闘はパラグアイが優勢となった。周辺国とアメリカの仲介によるブエノスアイレス講和条約で戦争は終結した。
■セロ・リコ銀山
1545年、スペイン人により発見された銀山。セロ・リコ (Cerro Rico) とはスペイン語で豊かな丘という意味である。以後、スペイン統治下で中南米三大銀山に数えられるまでになる。しかし銀の掘削は、生き残った場合は高額の賃金が支払われるものの、強制的に集められたインディオの奴隷により行われた。一説には、800万人が犠牲になったといわれ、人を食う山として恐れられた。
■言語
言語はスペイン語、ケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が公用語である。田舎ではケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が用いられているが、スペイン語を全く解さない人は近年少なくなってきている。都市部ではスペイン語以外の言葉を話せない人の方が多い。
■グアラニー語
Guaraniは、トゥピ語族のトゥピ・グアラニー語族に属する南アメリカ先住民の言語である。ボリビアでは他の先住民言語とともに公用語のひとつとして、アルゼンチンのコリエンテス州ではスペイン語に次ぐ第二公用語に指定されている。
■音楽
ボリビアの音楽は土着の音楽が発達したアウトクトナ音楽と、ヨーロッパから持ち込まれた音楽を基盤に都市で発達クリオージャ音楽に大きく分けられるが、どちらもフォルクローレと呼ばれる。ボリビア全体がフォルクローレの里と呼ばれるが、特にオルロとポトシが有名である。オルロでは年に一度、世界遺産にも指定されているカルナバル(カーニバル)が行なわれるが、これはクスコ、リオデジャネイロと並んで南米三大祭りの一つといわれる。主なリズムとしてはワイニョ、クエッカ(クエッカ・ボリビアーナ)、バイレシートなど。
■コンドルは飛んでいく
El Condor Pasa)とはアンデスのフォルクローレの代表的な曲である。1970年にアメリカ合衆国の歌手コンビ、サイモン&ガーファンクルによってカバーされ日本やその他の国々に広く知られるようになった。この曲は1913年にペルー人作曲家であり民俗音楽研究家であったダニエル・アロミア=ロブレスが、自身で採譜した伝承曲のメロディをモチーフにして書いたオペレッタの序曲として発表された。
■ケーナ
ケーナ(quena)は、南米ペルー、ボリビアなどが発祥の縦笛(気鳴管楽器)である。縦笛で、表側に数孔と裏面1孔。表側の穴は、古くは3〜4孔だったが、現在は西洋音階に対応するため、6孔が標準である。リードがなく、上部にあるU字またはV字型の切り込みが歌口で、そこに息を吹き付けることで音が出る。材料としてはもともとはカーニャと呼ばれる葦が用いられていた他、遺跡からの出土品では、動物の骨を使ったものも発見されている。現在は楽器としてある程度以上の水準のものは、葦よりも格段に硬い材質の竹(バンブー材)または木で作られることが多い。
■サンポーニャ
南米アンデス地方の民族音楽フォルクローレに使われる笛の一種。先住民の言葉アイマラ語ではシーク(sicu)と呼び、またこの楽器を使用した合奏をシクリアーダ(sicuriada)と呼ぶ。南米の旧インカ帝国の文化圏内で用いられる、閉塞した葦の管を吹いて音を出すパンパイプと呼ばれる管楽器の一種である。元々は2人が1組になって、一方がドミソ〜と束ねた楽器、他方がレファラ〜と束ねた楽器を持ち、各人が自分の担当する音階を交互に吹鳴させて、あたかも一つの楽器で一曲を奏でているかのように旋律を織り成すという「コンテスタード(西:contestado /応えるの意)という奏法で演奏されていたことである。ただし、このような奏法がいつごろから行われているのかはわかっていない。現在の商業音楽化されたフォルクローレの中では、この2つの楽器を重ねて持って1人で演奏する奏法の方が一般的である。
■チャランゴ
charangoは、南米アンデス地方周辺の民族音楽・フォルクローレに使われる40から60cmほどの弦楽器。もともとは、16世紀にスペイン人が持ち込んだギターの前身であるビウエラ・デ・マノが発展したもので、ボリビアのポトシ北部地方が発祥の地ではないかと推定されている。現在一般的な形のものは、マンドリンと同じくらいの長さで若干小型の胴体というサイズで、マンドリンに似て胴体は丸底のものが多い。
■フォルクローレ
アウトクトナ音楽:先住民がインカ時代以前から受け継いできたスタイルを基礎に置いていると考えられる音楽(実際には目に見えないかたちでヨーロッパ音楽の影響を少なからず受けているとも指摘される)。弦楽器を使わず、各種の笛と太鼓だけの合奏で演奏される。もともとは伝統的な祭りのための音楽として伝わってきたが、近年は商業音楽としてコンサートでの演奏やCDの録音なども行われている。
ノルテ・ポトシの音楽:ポトシ北部地方は、チャランゴの発祥の地ではないかと推定されており、現在もチャランゴの原型となった各種の弦楽器と、独特の奏法で現在も盛んに演奏されている。
エストゥディアンティーナ:学生が伝統的な衣装をまとってセレナーダを演奏する風習をエストゥディアンティーナまたはトゥーナと呼ぶ。スペインで生まれてメキシコやボリビア、ペルーなどラテンアメリカ各国にも伝わった。ボリビアのクエッカやバイレシートなど白人系のリズムの曲の中には、エストゥディアンティーナの演奏として世に出たものも多い。
■ロス・カルロス
ロス・カルカス(Los Kjarkas)はボリビアのフォルクローレグループ。コチャバンバでエルモサ兄弟が中心となって1965年に結成された。1980年代はじめ、"Bolivia"と"Wa Ya Yay"の2曲の大ヒットにより、確固たる人気を得た。コーラスを重視したその演奏スタイルは以降の多くのグループの音楽に影響を与えた。1984年から91年にかけて数度来日公演を行っている。
■ハイメ・ラレード
Jaime Laredo, 1941年6月7日 - はアメリカ合衆国のヴァイオリニスト・指揮者。ボリビアのコチャバンバ出身。5歳で音楽を始め、1948年に北米入りしてアントニオ・デグラスに学ぶ。フランク・ハウザーにも入門した後クリーブランドに移り、1953年にジョーゼフ・ギンゴールドに師事した後、カーティス音楽院でイヴァン・ガラミアンの薫陶を受ける。ヴィオラ奏者や室内楽奏者としても活躍し、アイザック・スターンやヨーヨー・マ、エマニュエル・アックスらとのコンビでピアノ四重奏団として録音を残した。カリクシュタイン=ラレード=ロビンソン・トリオとしても活動している。グレン・グールドと共演した録音も名高い。
■アントニオ・ホセ・デ・スクレ
1795年2月3日 - 1830年6月4日は南アメリカの諸国をスペインから独立に導いた軍人、政治家。第二代(初代はシモン・ボリバルが名目的な立場のみだったので事実上の初代)、ボリビア大統領。シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも)の部下で良き理解者としても知られる。1795年、スペイン領ベネズエラ総督領東部、現スクレ州のクマナで生まれた。父はビセンテ・デ・スクレ、母はマリア・マヌエラ・デ・アルカラ。幼くして母をなくした。代々軍人の家系で、子供の頃から軍事教育を受け、要塞建築と砲術の知識を身に付けた。
■エボ・モラレス
Juan Evo Morales Aima, 1959年10月26日 - )は、ボリビアの政治家であり、社会主義運動党 (Movimiento al Socialismo : MAS) を率いる。2005年12月18日の選挙で大統領に当選した(任期は2006年1月22日より)。ボリビア史上初めての先住民出身の大統領である。オルロ県でアイマラの農家に生まれた。最終学歴は中学卒であり、本人は「人生という大学で学んだ」としている。17歳で兵役に就いた他、様々な職を転々とした後、コチャバンバ県チャパレに移住し、コカの栽培農家となる(ボリビアにおいてはコカの栽培は合法である)。
■シモン・ボリバル
1783年7月24日 - 1830年12月17日)は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。ラテンアメリカでは「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれる。多くの武将を配下にして使いこなし、特にアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍との親交は有名である。アメリカ大陸有数の資産家ボリバル家の男子としてさまざまな家庭教師を付けられた。このときの教師の1人シモン・ロドリゲスの考えがボリバルに大きな影響を与えている。
■ビクトル・パス・エステンソロ
1907年10月2日 - 2001年6月7日)はボリビアの政治家。1952年4月にMNRはボリビアの軍部による相次ぐクーデターと独裁を止めるべく革命を引き起こした。エステンソロが革命後の新政権の最初の大統領になり、1952年から1956年までの4年間務めた。その後の期間は政権を握る事が許されず、1956年から1960年まではシレスが大統領を務める事になった。
■レネ・バリエントス・オルトゥーニョ
1919年5月30日 - 1969年4月27日)は、ボリビアの軍人、政治家。空軍軍人であり、1964年5月にビクトル・パス・エステンソロ大統領の下で副大統領を務めたが、64年11月の軍事クーデターで、エステンソロ大統領を国外に追放し、自ら「軍事評議会」議長となり、軍事政権を樹立し、ボリビア革命後のMNR体制を崩壊させた。
■ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダ
1930年7月1日 - 、愛称ゴニ(Goni)はボリビアで2度大統領を務めた人物。シカゴ大学で文学と哲学を学ぶ。民族革命運動党(Movimiento Nacionalista Revolucionario : MNR)の党員。 人差し指と中指を立てる、いわゆるピースサインが彼のトレードマーク。国民の多くから「ゴニ」の愛称で呼ばれる。
■カルロス・メサ・ヒスベルト
Carlos Diego Mesa Gisbert : 1953年8月12日 - はボリビア大統領。2003年10月17日に着任。それ以前は前大統領であるゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダの下で副大統領を務めていたが、「ボリビアガス紛争」と呼ばれる激しい紛争によりサンチェス・デ・ロサダが辞任及び亡命したことにより着任した。同紛争の再燃により2005年6月6日に辞任。
■ハイメ・パス・サモラ
(Jaime Paz Zamora : 1939年4月15日 - )はボリビアの元大統領。1989年8月6日から1993年8月6日まで務めた。左派革命運動党 (Movimiento de Izquierda Revolucionaria, MIR)を1971年に創設し、以来ずっと党首を務める。同党は社会主義インターナショナルに加盟している。左派革命運動党のトレードマークは鶏である。このため、パス・サモラはしばしばガジョ(Gallo : 雄鶏)の愛称で呼ばれる。
■エドゥアルド・ロドリゲス・ベルツェ
ボリビアの前暫定大統領。大統領職に就く前は最高裁判所の裁判長であった。天然ガス会社の民営化を巡る暴動により政治的混乱が起こり、前大統領であるカルロス・メサ・ヒスベルトは議会に辞任を申し出た。このとき、上院と下院の議長であるオルマンド・バカ・ディエスとマリオ・コシオがいずれも大統領職に就く事を拒否したため、暫定大統領就任順位が4番目である最高裁判所長にその椅子がまわることになった。
■スルマ・ユガール
(Zulma Yugar、1952年1月6日 - )は、ボリビアの歌手、政治家。オルロ県オルロ県出身。フォルクローレの女王と呼ばれ、ボリビアの国民功労勲章に何度も選ばれているボリビアを代表する女性歌手である。日本でも1994年にベスト盤である『ボリビアの詩情』が発売されている。ユネスコ平和芸術家として大使に選ばれたことがある。2010年1月23日よりエボ・モラレス大統領により文化大臣に選ばれている。