アルゼンチン共和国 Argentine
東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス。チリと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。
■ブエノスアイレス
Buenos Airesは人口303万人(2007年)を擁するアルゼンチンの首都。世界有数のメガシティである。どの州にも属しておらず特別区として扱われる(ちなみによく間違われるが、1880年の首都令以来、ブエノスアイレス州の州都はラ・プラタ市である)。意味はスペイン語で「buenos(良い)aires(空気、風)」の意。船乗りの望む「順風」が街の名前になったものである.ラ・プラタ川に面しており、対岸はウルグアイのコロニア・デル・サクラメント。近郊を含む都市的地域の人口は1,297万人であり、世界第21位である。「南米のパリ」の名で親しまれ、南米の中で最も美しい町の一つとして数えられる。
ブエノスアイレスは港町として発展してきた歴史を持ち、現在でもアルゼンチン最大の港を持つ。世界有数の肥沃な農業地域であるパンパの中心部にあり、さらにラプラタ川の水運とも連絡があるため、アルゼンチンの主要輸出品である牛肉や小麦、大豆やトウモロコシ、さらに羊毛や皮革などの輸出港として発展してきた。ラプラタ川を通じてパラグアイと、さらにウルグアイやブラジルともつながりがあり、アルゼンチンのみならず南アメリカ大陸南部の物流拠点となっている。
外務省:アルゼンチン共和国
在アルゼンチン日本大使館
■ラプラタ
(La Plata)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州の州都。ブエノスアイレスが連邦の首都として連邦地区となった1880年以降に開発された都市で、当時のブエノスアイレス州知事ダルド・ロチャによって建設が進められ、公式には1882年11月19日に開設が宣言された。人口は約54万人。ブエノスアイレスの南東にあり、ラプラタ川に面している。
■コルドバ
アルゼンチンのコルドバ州の州都。ブエノスアイレスの西北西に700kmに位置する。現在の人口は127万人であり(2001年)、ブエノスアイレスに次ぐ第二の都市である。ブエノスアイレスとコルドバを結ぶ高速鉄道建設事業が2008年に着工し、2年半から3年の期間をかけて完成する予定である。完成の暁にはブエノスアイレスまで3時間で結ばれる予定である。
■ロサリオ
Rosarioは、アルゼンチン、サンタフェ州最大の都市で、アルゼンチン全体でもブエノスアイレス、コルドバに次いで3番目に人口の多い都市である。この都市はブエノスアイレスの350km北西のパラナ川右岸(西側)に位置している。2001年現在の人口は約91万人。
■サン・ミゲル・デ・トゥクマン
(San Miguel de Tucuman)はアルゼンチン北部の都市。単にトゥクマンとも称される。人口525,853人(2001)。都市圏人口は806,000人でアルゼンチンにおいて第6位。 アニメ母をたずねて三千里で、主人公マルコが最後に母親にめぐり合う町としても有名。
■サンティアゴ・デル・エステロ
(Santiago del Estero)は、アルゼンチンの北部にある都市。1550年ごろのスペイン人の入植により建設されたアルゼンチン最古の都市で、マードレ・デ・シウダーデス(都市の母)との異名を持つ。大学は1973年に設立されたサンティアゴ・デル・エステーロ国立大学と1960年に設立されたカトリカ大学の二校がある。街の見どころは大聖堂やサント・ドミンゴ修道院、州立考古学博物館などがある。
■リオ・グランデ
(Rio Grande)は、アルゼンチン南端近く、フエゴ島に位置する都市。2010年現在、同国ティエラ・デル・フエゴ州の最大人口の都市である。2010年現在の人口69,175人。リオ・グランデは南緯53度47分 西経67度42分座標: 南緯53度47分 西経67度42分に位置する。市は南大西洋に面している。
■メンドーサ
同国西部、遠くアンデス最高峰アコンカグアを望む、標高約800mの高原地帯にあり、チリ側に向かうアンデス横断鉄道や道路の要地である。1561年に創設され、1861年の大地震により都市部は壊滅状態となったが、現在は南欧風の近代都市に再生されている。
■サンティアゴ・デル・エステロ
(Santiago del Estero)は、アルゼンチンの北部にある都市。1550年ごろのスペイン人の入植により建設されたアルゼンチン最古の都市で、マードレ・デ・シウダーデス(都市の母)との異名を持つ。大学は1973年に設立されたサンティアゴ・デル・エステーロ国立大学と1960年に設立されたカトリカ大学の二校がある。街の見どころは大聖堂やサント・ドミンゴ修道院、州立考古学博物館などがある。
■レシステンシア
(Resistencia)は、アルゼンチンの都市。アルゼンチン北東部、パラナ川の西岸に位置し、チャコ州の州都である。レシステンシアは「屋外の博物館」「彫刻の町」と呼ばれるとおり、街中に500を超える彫刻や芸術作品が配置されており、全国的に知られている。市は1988年からビエンナーレ国際彫刻コンクールを開催し、コンテスト終了後、展示されていた彫刻は、公園や歩道に設置されている。1997年以来、イベントはユネスコによって後援されている。また、多くの美術館や博物館がある。
■コリエンテス
Corrientesは、アルゼンチンのコリエンテス州にある都市で、同州の州都。パラナ川の東岸に位置する。パラナ川対岸のレシステンシア(チャコ州の州都)へはヘネラル・ベルグラーノ橋が架かっている。近くのパラグアイ国境には世界最大級の水力発電施設、ヤキレタダムがある。
■パラナ
Paranaは、アルゼンチンのエントレ・リオス州にある都市で、同州の州都。パラナ川の東岸に位置し、対岸はサンタフェ州の州都サンタフェである。行政の中心としてだけでなく、一帯から穀物、家畜、魚介類、材木が集積される主要河川港でもある。
■ポサーダス
(Posadas)は、アルゼンチンの都市。1973年にはミシオネス国立大学が設立され、1990年にはサン・ロケ・ゴンサーレス・デ・サンタクルス橋が開通してエンカルナシオンとの結びつきが強化された。
■ネウケン
(Neuquen)は、アルゼンチンの都市。ネウケン州の州都である。州の東部に位置し、リメイ川とネウケン川の合流地点に位置する。人口355080人。パタゴニア最大の都市である。ネウケンとは以前にこのあたりの住民であったマプチェ人のマプチェ語で「隙間風の吹く」という意味のnehuenkenという言葉に由来する。マリオ・ロベルト・アルバレスが設計したBellas Artes国立美術館が2004年にオープンした。
■ウシュアイア国際空港
Aeropuerto Internacional de Ushuaia Malvinas Argentinasは、南アメリカ最南近くのフエゴ島のアルゼンチンにある世界最南の都市ウシュアイアにある国際空港である。1995年11月27日に開業する。ウシュアイアの市域にあり、ウシュアイアの中心部より4km離れた場所にある。世界最南の国際空港である。
■ホルヘ・ニューベリー空港
Aeroparque Metropolitano Jorge Newberyは、アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスにある空港であり、通称「アエロパルケ」と呼ばれる。名称は飛行家のホルヘ・ニューベリーにちなんで名付けられた。ラプラタ川に面した市街地に比較的近い場所に位置しており、国内線とウルグアイ・チリ・パラグアイ・ブラジルの一部行き近距離国際線はこの空港を離着陸する。
■エセイサ国際空港
Ezeiza International Airportは、アルゼンチン共和国の首都、ブエノスアイレス郊外のエセイサにある国際空港。正式名称はミニストロ・ピスタリーニ国際空港(Aeropuerto Internacional Ministro Pistarini)だが、ブエノスアイレス市街地から南西に約25kmで所在地のエセイサからエセイサ空港(Aeropuerto de Ezeiza)と呼ばれることが多い。 アグスティン・ペドロ・フスト・ロロン大統領時代(1932年〜1938年)に建設大臣だったファン・ピスタリーニにちなんで名付けられた。
■イグアスの滝国際空港
Aeropuerto Internacional Cataratas del Iguazuは、世界三大瀑布の一つとして知られるイグアスの滝の最寄の空港のうち、アルゼンチン共和国ミシオネス州にある国際空港。
■ブエノスアイレス地下鉄
Subte de Buenos Airesはアルゼンチンの首都ブエノスアイレス市内の地下鉄。郊外を走る公共鉄道路線とともにメトロビアス社 (Metrovias S.A.) によって運営されている。ブエノスアイレスにおける地下鉄の歴史は、1913年のA線開業から始まる。この地下鉄は、ラテンアメリカとスペインを含むスペイン語圏初の地下鉄として開通した。そのため、ブエノスアイレスの地下鉄はスペイン語本来のMetro(メトロ)ではなくリオプラテンセ方言のSubte(スブテ)と表記してある。ブエノスアイレスの地下鉄は日本最古の地下鉄銀座線建設のモデルにもなっており、この開業は日本地下鉄の歴史においても重要な出来事である。
■アルゼンチンの鉄道
アルゼンチンには、かつては総延長4万km近くに及ぶ世界でも有数の鉄道網があったが、道路整備が進んだ20世紀末以降、バス・トラック輸送にその主役の座を奪われ、現在ではごく一部の路線で貨物・旅客列車の運行がされているのみである。
■トレン・デ・ラ・コスタ
トレン・デ・ラ・コスタはアルゼンチンの大ブエノスアイレス都市圏で運行されている、旅客輸送を行う電気鉄道である。路線はTBAミトレ線の支線の一つの終点であるバルトロメ・ミトレ駅に隣接するマイプ駅を起点に、ラプラタ川に沿う形(河岸ではない)でブエノスアイレス州のティグレ市にあるデルタ駅までの15.5kmである。起終点を含めて11駅がある。
■交通
約215,471 kmの道路網と734 kmの高速道路があり、その多くが民営化された。 多車線の幹線道路は現在幾つかの主要都市を結び、さらに現在工事中である。
■オールド・パタゴニア急行
オールド・パタゴニア急行は、アルゼンチンチュブ州を走る列車である。愛称名は「トロチータ」(La Trochita)。イギリス人の作家、ポール・セルーの著書で紹介されたことから一躍有名となったが、1990年代初頭に廃止。現在は観光列車として復活を遂げている。
■コルドバ大学
(Universidad Nacional de Cordoba, UNC)は、アルゼンチンのコルドバに位置する国立大学である。1613年に創立された南米でも最古の部類に入る大学であり、アルゼンチンにおいては最古の大学。コルドバ大学歴史博物館を含め校舎の一部は当時のものが残存しており、世界遺産に登録されている。20世紀初頭よりブエノスアイレス大学に次いでアルゼンチン第二の大学としての地位を有している。
■ブエノスアイレス大学
(Universidad de Buenos Aires, UBA)は、ブエノスアイレスに位置するアルゼンチンの国立の総合大学である。ブエノスアイレス大学は、当時のブエノスアイレス州内務相ベルナルディーノ・リバダビアによって、1821年8月12日ブエノスアイレスに設立された。大学には中核となるキャンパスが存在せず、学部ごとに数多くのキャンパスに分散している。現在13学部とそれに6病院、10の博物館と大学附属の3つの高等学校を擁し、約30万人の学生総数を誇るアルゼンチン最大のマンモス大学である。
■トルクァト・ディ・テラ大学
(UNIVERSIDAD TORCUATO DI TELLA、UTDT)とは、アルゼンチン、ブエノスアイレスにある私立大学である。 トルクァト・ディ・テラ基金およびトルクァト・ディ・テラ研究所によって、1991年に建学された。建学の精神は、「次世代を担う、企業家/経営者、政治家、社会活動家、学者を育成する」ことであり、特に社会科学の分野での研究が盛んである。
■ウマウアカ
(Humahuaca)はアルゼンチン北部のフフイ州 (Jujuy)にある町。1591年にフアン・オチョア・デ・サラテ (Juan Ochoa de Zárate)により作られた。この町の最大の行事は、8日間も続くカーニバルである。ウマウアカのカルナバルを歌ったフォルクローレ、エル・ウマウアケーニョ(ウマウアカから来た男もしくはモノ)は、アンデスのフォルクローレの中でも特に有名な曲の一つである。 町の観光名所はウマウアカの谷である。
■メンドーサ
Mendoza)は、アルゼンチン共和国メンドーサ州にある都市。同州の北部のアンデス山脈の東側に位置する。アルゼンチン西部の遠くアンデス最高峰アコンカグアを望む標高約800mの高原地帯にあり、チリ側に向かうアンデス横断鉄道や道路の要地である。1561年に創設され、1861年の大地震により都市部は壊滅状態となったが、現在は南欧風の近代都市に再生されている。
■マル・デル・プラタ
(Mar del Plata)は、アルゼンチン、ブエノスアイレス州の港湾都市。ブエノスアイレスの南西390kmに位置する。人口541,733人(2001年)。アルゼンチン第7位の大都市であるとともに最大のビーチリゾートであり、観光業が経済に大きな割合を占め、国内から多くの観光客が訪れる。
■サルタ
(Salta)は、アルゼンチンのサルタ州の都市である。サルタ州の州都である。アンデス山脈の麓、標高1,152mのレルマ谷に位置する。 気候は温暖で乾燥している。国境手前の町、サン・アントニオ・デ・ロス・コブレスとの間を往復する列車は、雲の列車(Tren de las nubes)と呼ばれる高地の自然を眺望するための観光列車となっている。途中、標高は4,220mの地点を通過するため、高山病対策の酸素ボンベを配備するとともに看護師が同乗している。
■サンタフェ
Santa Fe)は、アルゼンチンのサンタフェ州の都市である。サンタフェ州の州都である。パラナ川とサラド川の合流地点近くに位置する。 都市の人口は約369,000人(2001年調査)、都市圏の人口は454,238人である。サンタフェは、穀物、植物油、食肉を生産する豊かな農業地帯にあるため、商業や輸送の中心地である。
■サンフアン
(Ciudad de San Juan)は、アルゼンチンのサン・フアン州の都市で、同州の州都である。クージョ地域にあり、サン・フアン川の西、トゥルン谷に位置する。標高46m、人口は約112,000人(2001年調査)、都市圏の人口は450,000人以上である。
■バイアブランカ
Bahia Blanca、"白い湾"の意)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州の大西洋沿岸、ブエノスアイレスの南西635kmにある都市。2001年国勢調査によれば人口274,509人。水深12mの重要な海港。
■コリエンテス州
(Provincia de Corrientes)は、アルゼンチン共和国の州。アルゼンチンの東部メソポタミア地方に位置する。州都はコリエンテス。フォルクローレのチャマメの発祥地として有名である。コリエンテス州は、アルゼンチンでは唯一かなりの数の黒人が住んでおり、黒人文化の影響が見て取れる。ラスギド・ドブレはチャマメをよりリズミカルにしたものである。黒人はカンバ(グアラニー語で黒を表す)と呼ばれ、彼ら独自の地域を持っている。
■ブエノスアイレス州
Provincia de Buenos Aires)は、アルゼンチンの州。中東部ラプラタ川河口右岸に位置する。州都はラプラタ。ブエノスアイレスから概ね30〜40kmの地域は、大ブエノス・アイレス圏 (Gran Buenos Aires) に属し、住宅・商工業施設が密集しており、ブエノス・アイレス特別区と共に首都圏を構成している。
■ティエラ・デル・フエゴ州
(Provincia de Tierra del Fuego, Antartida e Islas del Atlantico Sur, 「フエゴ島、南極、および南大西洋諸島州」)はアルゼンチンの州である。アルゼンチン本土とはマゼラン海峡によって隔てられている。ティエラ・デル・フエゴの東側部分とイギリスとの間で領有権争いがあるフォークランド諸島(マラビナス諸島)やサウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島、現在は領有権の主張を凍結しているアルゼンチン領南極もこのティエラ・デル・フエゴ州に含まれる。
■フォークランド紛争
Falklands Conflict/Crisisとは、フォークランド諸島(スペイン語名/アルゼンチン名:マルビナス諸島。以下はフォークランド諸島で記載を統一)の領有を巡り、イギリスとアルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた紛争である。スペイン語やポルトガル語では「マルビナス戦争」(Guerra de las Malvinas)と表記されることが多い。フォークランド紛争は、近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは実戦を経験していなかったが、この紛争で定量的に評価されることになった。また、アルゼンチンはイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの西側第三国で設計開発された兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴があった。
■サンロレンソの戦い
Combate de San Lorenzo)とは1813年2月3日、サンロレンソでホセ・デ・サン=マルティンの指揮するリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合軍の騎兵隊が、ホセ・サバラの指揮するスペイン王党派軍を撃破した、アルゼンチン独立戦争の最初の戦い。この戦いの最中に、サン=マルティンは落馬して足が馬の下敷きになり、身動きが取れなくなっているところを王党派軍に攻撃された。ファン・バウティスタ・カブラルが身代わりの盾となったため、危機一髪で命を救われた。カブラルはサン=マルティンの命を救った者として、後世に名を残すこととなる。
■三国同盟戦争
Guerra de la Triple Alianza、1864年-1870年は、パラグアイと、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟軍との間で行なわれた戦争。戦争はパラグアイの完全な敗北に終わった。開戦前にアルゼンチンのミトレ大統領が三ヶ月で終わるといった戦争は実に五年に渡り、政府軍同士による戦いが終結した後も長期に渡るゲリラ戦が続き、捕虜はサン・パウロの奴隷市場で売り飛ばされ、軍民問わず多数のパラグアイ人が死亡した。ある推測によると、戦争および戦争中の疫病により、開戦前にいた525,000人ほどのパラグアイ人のうち、211,009人しか生き残らなかったと言われている。
■アルゼンチン・ブラジル戦争
(Guerra Argentino-Brasilena)は、バンダ・オリエンタルを巡ってリオ・デ・ラ・プラタ連合州とブラジル帝国との間に起きた戦争である。独立後のラテン・アメリカでは初の本格的な域内戦争となった。500日戦争と呼ばれることもある。
■バンダ・オリエンタル
1815年に、ホセ・アルティガスがこの地域の権力を握り、東方州を建設するまで呼ばれた、ラ・プラタ地方の地域のことである。西はウルグアイ川を、北はラ・プラタ川を境にし、現在のウルグアイの全てと、リオ・グランデ・ド・スル州の一部を含んだ。リオ・デ・ラ・プラタ副王領の東方地域より大きかった。住人は自らをオリエンターレス(東方人)と自称し、フアン・アントニオ・ラバジェハ将軍と共にウルグアイ独立のために戦った33人の東方人が特に有名である。
■非同盟
非同盟または非同盟運動または非同盟諸国運動(英語: Non-Aligned Movement、NAM)は、第二次世界大戦後の東西冷戦期以降に、東西いずれの陣営にも公式には加盟していない諸国による国際組織である。
■汚い戦争
Dirty War)とは、1976年から1983年にかけてアルゼンチンのホルヘ・ラファエル・ビデラ(Jorge Rafael Videla)将軍率いる軍事政権によってアルゼンチン国民に対して行われた弾圧行為を指す言葉である。この弾圧の始まりについては諸説あり、既に1973年には労働組合員が暗殺の対象とされており、実際の弾圧発生の時期がいつからかについては今も議論が続いている。なお、独立作戦(Operativo Independencia)と呼ばれる対ゲリラ作戦を実行中の1975年にイサベル・ペロンによって布告された「絶滅命令」がこの汚い戦争の起源とする説もある。
■国名
式名称は、Republica Argentina(スペイン語: レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentina(アルヘンティーナ)。アルゼンチン Argentina の名は、この「銀の川」にちなみ、ラテン語で「銀」を意味する Argentum に拠って、地名表現のために女性縮小辞を添えたものである。
1.面積:278万平方キロメートル(我が国の約7.5倍)
2.人口:3,988万人(2008年世銀)
3.首都:ブエノスアイレス(Buenos Aires)
4.民族:欧州系(スペイン、イタリア)97%、先住民系3%
5.言語:スペイン語
6.宗教:カトリック等
1816年 独立
1946年 ペロン政権の成立
1973年 軍部介入など変遷の後再度ペロン大統領が就任
1976年 クーデターにより軍事政権成立
1982年4月〜6月 フォークランド(マルビーナス)諸島紛争
1983年12月 アルフォンシン大統領就任(民政移管)
1989年7月 メネム大統領就任
1995年7月 メネム大統領再度就任
1999年12月 デ・ラ・ルア大統領就任
2002年1月 ドゥアルデ大統領就任
2003年5月 キルチネル大統領就任
2007年12月 フェルナンデス・デ・キルチネル大統領就任
■主要産業:農牧業(油糧種子、穀物、牛肉)工業(食品加工、自動車)
■主要貿易品(1)輸出 燃料、大豆油かす、自動車、動植物油、穀物(2)輸入 機械、自動車、電気機器、化学製品
■アルゼンチン・ペソ
アルゼンチン・ペソ(peso)は、アルゼンチンの通貨単位。国際通貨コード(ISO 4217)はARS。補助通貨はペソの1/100のセンターボ。紙幣には2, 5, 10, 20, 50, 100 ペソがある。硬貨には5, 10, 25, 50センターボと、 1, 2, 5ペソがある。
■正義党
Partido Justicialista,略称:PJとはアルゼンチンの政党である。通常ペロン党(Partido Peronista) として知られている。アルゼンチンにおける最大政党であり、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領の与党である。またアルゼンチン下院においては最大議席を保有しており、上院においても多数派を占めている。なお、支持者はペロニスタと呼ばれる。
■急進市民同盟
Union Civica Radical, 略称:UCRとはアルゼンチンの政党である。「急進党」とも呼ばれる。正義党(ペロン党)とともに、アルゼンチンにおける二大政党制を担っている。1891年6月26日の結成である。国民自治党(Partido Autonomista Nacional)の政権に反対し、その当時の暴動にも関与していたとされる。
■テアトロ・コロン
Columbus Theatreは、ブエノス・アイレスに位置するオペラ劇場。1960年、テアトロ・コロン劇場内に芸術大学(芸術高等研究所)が設立された。国際的に著名な卒業生にはバレエダンサーのパロマ・ヘレーラやリリアーナ・ベルフィオーレ、また声楽家のベルナルダ・フィンクやマリア・クリスティーナ・キーアなどがいる。
■タンゲリア
(tangueria)とは、タンゴを生演奏する店のことである。アルゼンチンのブエノスアイレスやウルグアイのモンテビデオばかりでなく、世界中にあるタンゴ生演奏の店をタンゲリアという。軽い食事とワイン、オリーブ、その他の酒類をたしなみながら、タンゴ楽団の演奏を直に聴けるという場所である。「タンゴ・パプ」 という言葉もある。店によっては、プロダンサーによるタンゴダンスを行っている店もある。
■音楽
1920年代以降、カルロス・ガルデルのフランス公演が大成功するとヨーロッパでも大流行し、コンチネンタル・タンゴにもなった。1930年代の最盛期を過ぎるとこの流行は長くは続かずに1950年代ごろには下火になり、その後タンゴはアルゼンチンでも衰退を辿るが、アストル・ピアソラの登場により持ち直した。タンゴはやはりラ・プラタ川流域の音楽であり、内陸部ではサンバ、パジャドール、チャカレーラ、チャマメ、カルナバリート(実質ワイニョ)などのさまざまなフォルクローレ(民謡)が存在する。
クラシックやジャズやポップスの分野でも、作曲家のアルベルト・ヒナステラ、ピアニストのマルタ・アルゲリッチ、イングリット・フリッター、ラロ・シフリン等、時折注目すべき人物を輩出することもある。1960年代生まれからは、作曲や指揮の領域でも傑出した人材を輩出している。その他に特筆されるべき音楽家としては、扇情的なサクソフォーンとフリージャズを構成するガトー・バルビエリが存在する。
■タンゴ
タンゴはアルゼンチン・ブエノスアイレスやウルグアイ・モンテビデオのダンスおよび音楽。および、それを擬したダンス・音楽で、音楽業界から「タンゴ」と公認されたもの。ポピュラー音楽およびダンスの一形態で、カンドンベ、ミロンガ、ハバネラなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレス、モンテビデオ近辺のラ・プラタ川流域で生まれたとされる。
■チャマメ
(Chamame)とはアルゼンチンのメソポタミア地方(リトラル三州)でのフォルクローレの音楽ジャンルである。チャマメには−オリジナルのチョッティスはヴォルガ・ドイツ人の移民によってもたらされたが−特筆されるべきグアラニー族の衝撃があった、20世紀初頭にこの地域に渡って来た移民によってもたらされたスペイン人のギターとヨーロッパのアコーディオンが混成した。
■チェ・ゲバラ
Ernesto Rafael Guevara de la Serna、1928年6月14日 - 1967年10月9日は、アルゼンチン生まれの政治家、革命家で、キューバのゲリラ指導者。未熟児として生まれ肺炎を患い、2歳のとき重度の喘息と診断された。両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数回転居している。幼い頃は痙攣を伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。しかしラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。在学中の1951年に年上の友人のアルベルト・グラナードとともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験した。旅の過程で、チリの最下層の鉱山労働者やペルーのハンセン病患者らとの出会いなど、当時比較的裕福であったアルゼンチン以外の南米各地の状況を見聞するほか、ホセ・カルロス・マリアテギの著書に影響を受けマルクス主義に共感を示すようになった。
1953年、大学卒業の25日後、友人のカルロス・ペレルとともに再び南米放浪の旅に出る。J.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、ボリビア革命の進むボリビアを旅した際に、それまで虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな衝撃を受けた。その後ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン時代のポプリスモ(社会主義とする見方もある)政権下のグアテマラに行き着いた。グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くとともに、彼女と結婚する。
■ホルヘ・ルイス・ボルヘス
Jorge Francisco Isidoro Luis Borges Acevedo、1899年8月24日 - 1986年6月14日は、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)として知られるアルゼンチン出身の作家、詩人。家庭では英語とスペイン語の二ヶ国語が同じように使われていた。一家にはまた文学的伝統が受け継がれており、父方の先祖には何人かの詩人、文学者もいた。父は幾つかの文学作品の執筆を試みており、父方の祖母も80を過ぎてゴールズワージーやH・G・ウェルズに親しむ大変な読書家だった。1921年3月、一家とともにブエノスアイレスに帰郷したボルヘスは本格的な作家活動を開始し、この年に若い作家を集めて壁雑誌『プリスモ』を発行した。
■キリーノ・クリスティアーニ
Quirino Cristiani、1896年7月2日 - 1984年8月2日は、アルゼンチンのアニメーション監督および漫画家であり、世界最初の長編アニメーション映画2本と、世界最初の音声を備えた長編アニメーション映画1本の制作者であると考えられている。クリスティアーニは世界最初の純粋な切り絵アニメーションの制作者でもある。1896年7月2日、クリスティアーニはイタリアのサンタ・ジュレッタで生まれた。1900年にクリスティアーニ一家はアルゼンチンのブエノスアイレスに引越し、キリーノはこの南米の大都市で先進的かつ左翼的な政治思想を吸収しながら少年時代を過ごした。1931年9月16日、クリスティアーニは『ペルードポリス』を公開した。この作品は世界初の音声付き長編アニメーション映画であった。
■キンケラ・マルティン
Benito Quinquela Martin、1890年3月1日 - 1977年1月28日は、アルゼンチンの画家。キンケラ・マルティンは、1890年3月20日にブエノスアイレスで修道女に捨て子として発見された。正確な生まれた日時は分からず、戸籍上は3月1日としている。6歳のとき、チンチェジャ(Chinchella)夫妻の元に養子として引き取られた。キンケラ(Quinquela)は、彼の養父の洗礼名から来る。14歳の頃、ブエノスアイレスのボカ地区(La Boca)の夜間美術学校に通う。1925年にはフランスのパリに行く。1927年にはアメリカ合衆国のニューヨークへ行く。1929年にはイタリアのローマに行く。1930年にイギリスのロンドンに行き、アルゼンチンに戻る。それからは主にアルゼンチンに根差して、画家としての活動に終始する。アルゼンチンでは篤志家として、学校や病院のために金を出した。1938年にはアトリエの建物を購入し、一階が幼稚園となるようにした。この建物が今のキンケラ・マルティン・ボカ美術館となる。また、ボカ地区での色彩感覚のある家並みの実現に寄与した。
■ホセ・エルナンデス
Jose Hernandez、1834年11月10日 - 1886年10月21日)とは、アルゼンチンの詩人、ジャーナリスト、軍人、政治家である。ガウチョの生活風景を歌った詩文にして、ガウチョ文学の最高峰、「アルゼンチンの聖書」とも呼ばれ、アルゼンチンの国民文学と称される『マルティン・フィエロ』(Martí錘 Fierro)の著者として知られる。
■レオポルド・ルゴネス
Leopoldo Lugones, 1874年6月13日 - 1938年2月18日は、アルゼンチンの詩人。アルゼンチンを代表する文学者の一人で、モデルニスモ文学の担い手の一人。行動的な性格と旺盛な知的好奇心の持ち主で、著作の中には哲学や数学に踏み込むものもある[1]。斬新な詩風と巧みな修辞が評価されている。アルゼンチンのコルドバ州サンタ・マリア・デル・リオ・セコに生まれる。大学を卒業後、1891年にブエノスアイレスへ出て郵便局員などさまざまな職業に就く。
■マヌエル・プイグ
Manuel Puig、1932年12月28日-1990年7月22日はアルゼンチンの作家。主な作品に『蜘蛛女のキス』、『ブエノスアイレス事件』、『このページを読む者に永遠の呪いあれ』、『赤い唇』、『リタ・ヘイワースの背信』など。ブエノスアイレス州ヘネラル・ビジェーガスで生まれる。5歳のころから映画館通いをする少年で、グレタ・ガルボ、リタ・ヘイワースなどのハリウッドスターに憧れる少年時代を過ごす。1945年、首都ブエノスアイレスの寄宿学校で学び、大学では外国語、哲学の学習に励んだ。
■フアン・マルダセナ
(Juan Martin MALDACENA、1968年9月10日 - )は、アルゼンチンのブエノスアイレス出身の理論物理学者である。専門は素粒子理論。アメリカ合衆国のプリンストンにある高等研究所自然科学部門の教授を務めている。ブエノスアイレス大学、クヨ大学のバロセイロ研究所で物理学を学び、1996年にプリンストン大学で博士号を取得。その後ラトガーズ大学を経てハーバード大学助教授、准教授、教授に就任し、2001年から現職に就く。
■イポリト・イリゴージェン
Juan Hipolito del Sagrado Corazon de Jesus Irigoyen Alem、1852年7月12日 - 1933年7月3日)は、アルゼンチンの政治家、大統領。1916年に男子普通選挙で選出された初の大統領である。2度大統領に選出されたが、1930年に軍部のクーデターで退任に追い込まれた。イリゴージェン政権下でアルゼンチン経済は繁栄を謳歌していた。第一次世界大戦中は中立を貫き通し、主要な輸出品の肉類や穀類の新市場の開拓や牛肉価格の高騰による恩恵を受けた。
■フアン・ペロン
(Juan Domingo Peron、1895年10月8日 - 1974年7月1日)は、アルゼンチンの軍人、政治家、大統領。大統領に3回当選したが、独裁者と呼ばれたこともあり、アルゼンチン国内でもその評価は分かれる。ペロンの支援者「ペロニスタ」が母体となった正義党は、現在でも同国内で大きな影響力を持っている。1895年にアルゼンチンの首都のブエノスアイレス郊外のロボスで、中産階級の下の家庭でイタリア系の父とスペイン系の母の間に生まれた。なお、私生児とされ、母方の家系をさかのぼれば、先住民の先祖にたどりつく。
■イサベル・ペロン
(Isabel Martinez de Peron、1931年2月4日 - )は、アルゼンチンの政治家、大統領。フアン・ペロンの3番目の夫人。世界初の女性大統領として世界から注目を浴び、国民からはエバ・ペロンの再来として期待されたが、政治家としての力量はなく、治安、経済共に悪化させ遂には解任された。ラ・リオハ州で六人兄弟の末っ子として生まれ、父親を早くに亡くし苦しい生活をおくりながら母親に育てられた。18歳で職業ダンサーとなり各地で巡業し、パナマでナイトクラブで働いていた時に亡命していたペロンと知り合う。
■カルロス・ガルデル
(Carlos Gardel, 1890年12月11日? - 1935年6月24日)は不世出のタンゴ歌手として知られるアルゼンチンの歌手・俳優であり、その人気の絶頂期に飛行機事故で急逝した事と相まって、現在なおタンゴ界の偶像というにとどまらずアルゼンチンの国民的英雄としての地位を不動のものにしている。ガルデルは歌のみならず、タンゴの作曲の世界でも名を残している。元々自分のレパートリーを広げるために始めた作曲だったが、ガルデルの作品は他のタンゴ楽団もこぞって取り上げ、現在でもタンゴ歌手のほとんどが程度の差はあれ、レパートリーにガルデルの作品を加えている。
■アルベルト・ヒナステラ
(Alberto Evaristo Ginastera,1916年4月11日 - 1983年6月25日)は、アルゼンチンのクラシックの作曲家。ヒナステーラとも呼ばれる。ブラジルのヴィラ=ロボス、メキシコのチャベスやポンセらと並び、ラテンアメリカでもっとも重要なクラシック作曲家の一人である。ブエノスアイレス生まれ。1938年、ブエノスアイレス音楽院を卒業。1945年から1947年にかけてアメリカ合衆国を訪れ、アーロン・コープランドにタングルウッド音楽センターで学んだ。その後ブエノスアイレスに帰り、そこで作曲家協会を共同で設立した。
■ラロ・シフリン
(Lalo Schifrin、1932年6月21日 - )は、アルゼンチン出身の作曲家、編曲家、ジャズピアニスト、指揮者。『ブリット』、『ダーティハリー』、『燃えよドラゴン』といった映画や、『スパイ大作戦』、『スタスキー&ハッチ』といったテレビシリーズの作曲家として有名。本名は、ボリス=クラウディオ・シフリン。ブエノス・アイレス生まれ。父はヴァイオリン奏者。6歳からピアノを習い始め、エンリケ・ダレンボイム(ダニエル・バレンボイムの父)、次いで、アンドレア・カラリスに師事し、アルゼンチンの大学でクラシックを学んだ。ジャズにも傾倒していたが、1950年代初頭にパリに留学し、パリ国立高等音楽・舞踊学校で、オリヴィエ・メシアン、シャルル・ケクランに師事した。
■マリオ・ケンペス
(Mario Alberto Kempes、1954年7月15日 - )は、アルゼンチン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。長髪をなびかせて突進する姿と豪快なプレー、高い得点能力で『エル・マタドール(El Matador、闘牛士)』と称されたアルゼンチンを代表するストライカー。地元開催となった1978年ワールドカップ・アルゼンチン大会では、6得点を挙げて得点王とMVPを獲得し、アルゼンチンのW杯初優勝に大きく貢献した。決勝のオランダ代表戦では、延長前半に持ち味のドリブルから決勝ゴールを決め、前半の先制点と合わせて2得点の活躍だった。
■エバ・ペロン
(Maria Eva Duarte de Peron, 1919年5月7日 - 1952年7月26日)は、アルゼンチンの女優、政治家。フアン・ペロン大統領と結婚し、ファーストレディとなった後は政治にも手腕を発揮した。親しみを込めて呼ばれる通称としてエビータ(Evita) のほか、アルゼンチンではサンタ・エビータ(聖エビータ)という呼称もある。現在でもアルゼンチン国内では偶像的な存在である。バスク系アルゼンチン人。貧困者の優遇政策に務め、女性参政権を実現(1947年)したのも事実で、特にアルゼンチン国民の多くを占めるブルーカラーの労働者階級から支持を受け、エビータと愛称で呼ばれるようになり、当時のアルゼンチンで最も影響力のある人物となった。1952年に33歳で子宮癌によって死去、ブエノス・アイレスで行われた葬儀には数十万の市民が参列した。また、エバ・ペロンの墓の建立のために寄付金が集められたが、台座のみが作られただけであった。その後遺体はエンバーミング処理を施されて展示された。
■フェルディナンド・マゼラン
Ferdinand Magellan、1480年 - 1521年4月27日)は大航海時代のポルトガルの航海者、探検家であり、マゼランが率いた艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げた。マゼランはヨーロッパから東洋の香料諸島(モルッカ諸島)への西回りでの渡航ルート発見を目指して旅立ったポルトガル人航海者である。人類初の世界一周航海(周航)を達成した艦隊は「マゼランの艦隊」として後世に名を残している。マゼラン海峡のほかマゼラン星雲、マゼランペンギン、宇宙探査機マゼランなど多くの物が航海者マゼランの名にちなんで名付けられ、また南米パタゴニアや太平洋の名はマゼランが名付けたとされる。
■シルエロ・カブラル
(Ciruelo Cabral 「椰子の木のカブラル」 1963年7月20日 - )、本名グスターヴォ・カブラル(Gustavo Cabral)はアルゼンチンのファンタジーイラストレーターである。特にドラゴンを得意とする。シルエロはブエノスアイレスに生まれた。先天的に色覚異常があったが、それを物ともせず13歳でフェルナンド・ファデル美術学校(Instituto Fernando Fader)に入学し正式に勉強を始めた。18歳でグラフィック広告会社でイラストレーターとして働き始め、すぐに漫画の表紙を担当するようになる。
■アタウアルパ・ユパンキ
Atahualpa Yupanqui, 1908年1月31日 - 1992年5月23日)はアルゼンチンのフォルクローレのギタリスト、歌手、作家である。1929年、処女作「インディオの小径」(Caminito del indio)でデビューし、1930-40年代に多くの作品を発表するが、その活動が反政府的と目されて1950年代初頭にはヨーロッパへの亡命を余儀なくされたこともある。その後アルゼンチンに帰国したが、後年には再び生活の拠点を海外(フランス)に移し、死の直前まで世界各国で演奏活動を行っていた。
■レオン・ヒエコ
Leon Gieco、1951年11月20日 -)は、アルゼンチンのフォーク・ポップス歌手。伝統的なフォルクローレとロックミュージックの融合で人気を博した。社会派でメッセージ性の強い曲を数多く発表しており、「アルゼンチンのボブ・ディラン」とも呼ばれている。アルゼンチンサンタフェ州北部の貧しい家庭に育つ。8歳のとき、自らお金を貯めて入手したフォークギターに熱中し、上達した腕前は学園祭でプロミュージシャンと共にステージに立つ程だった。
■グラシェラ・スサーナ
(GRACIELA SUSANA、1953年1月22日-)はアルゼンチン出身の歌手、ギタリスト。菅原洋一により見出され、1971年11月に初来日し、1970年代にヒットした。幼い時からギターに関心を持ち、アンヘル・パラシオ、アルノルド・ピントに師事した。また、歌をミセス・アルバ・デ・ベリオンに師事した。
■オマール・ナルバエス
(Omar Andres Narvaez、男性、1975年7月10日 - )は、アルゼンチンのプロボクサー。現WBO世界スーパーフライ級王者。元WBO世界フライ級王者。アマチュアボクシングで培ったテクニックをベースにした攻防兼備のアウトボクサー。アルゼンチン代表として1996年のアトランタオリンピック、2000年のシドニーオリンピックの2度のオリンピック出場をしている。「El Huracan(ハリケーン)」の愛称を持つ。2012年10月20日、ブエノスアイレスにてジョニー・ガルシア(メキシコ)と対戦し、11回KO勝ちで5度目の防衛に成功した。総試合40,勝ち37,KO勝ち20,敗け1,引き分け2
■リオネル・メッシ
Lionel Andres Messi, 1987年6月24日 - )は、アルゼンチン共和国サンタフェ州ロサリオ出身、リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに所属するアルゼンチン代表のサッカー選手。アルゼンチンのロサリオにて、工場労働者の父とパートタイムの清掃員である母の間に生まれた。父方の祖先アンジェロ・メッシはイタリアのアンコーナ出身であり、1883年にアルゼンチンに移住した 。5歳の時には父親がコーチを務めるクラブで本格的にサッカーを始め、1995年には地元のクラブであるニューウェルス・オールドボーイズに入団する。3度のバロンドールに輝くなど、世界最高の選手の1人とされ、ジョゼップ・グアルディオラやシャビ、セルヒオ・バティスタなど、歴代最高の選手とする声も多い。