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パプア・ニューギニア
Papua New Guinea

大洋州

■地理
パプアニューギニアはオセアニア州に属し、ニューギニア島東半分とビスマルク諸島、ルイジアード諸島、アドミラルティ諸島、ダントロカストー諸島など1万近くの島で成り立っている島嶼国家である。

タブルブル山
(Tavurvur、日本名: 花吹山)は、パプアニューギニア領ニューブリテン島のラバウル近郊にある活火山、ラバウルカルデラ(英語版)の東縁にある噴火口である。ラバウルを破壊した噴火で知られる。1937年、タブルブル山はカルデラ西部のブルカン火山(英語版)(Vulcan、西吹山)とともに噴火し、507人が死亡した。2006年の10月7日にも噴火し、12kmまで離れた家の窓を破壊し、噴煙柱は18kmの成層圏の高さまで及んだ。

オーエンスタンレー山脈
(Owen Stanley Range)は、パプアニューギニア南東部にある山脈。最高峰はヴィクトリア山の4,072m。ビスマーク山脈から連なる山脈であり、ニューギニア島の南東端まで続いている。北東-南西方向に伸びており、山脈の延長は約600km。19世紀にイギリス海軍のオーエン・スタンレーによって発見された。

ビスマーク山脈
Bismarck Range)は、パプアニューギニアの中央、セントラル山脈(Central Range)やカリウス山脈(Karius Range)など4,000m級の山々が連なる内の1つの山脈である。ドイツ語読みでビスマルク山脈とも言う。名称はオットー・フォン・ビスマルクにちなむ。第一次世界大戦まで統治していたドイツ(ドイツ領ニューギニア)の名称の名残である。

マーカム川
(Markham River) はニューギニア島及びパプアニューギニア東部にある川である。フィニステール山地を水源とし、概ね南東方向へ約180km流れてラエの南方にてソロモン海・フォン湾に注ぐ。

セピック川
(Sepik river) はニューギニア島にある川である。フライ川と並んで同島における主要河川である。パプアニューギニアのサンダウン州、東セピック州及び一部の区間でインドネシアのパプア州を流れる。"Sea-pick"と発音されるセピック川は、世界でも大きな河川系の一つであり、集水地区及び沼地、熱帯雨林、山脈を含んだ地形を成している。

フライ川
フライ川はニューギニア島最長の川である。ただしセピック川が最長とされることもある。最初のヨーロッパ人による探検はCaptain Blackwoodによってイギリス海軍の船フライで1845年に行われた。川の名前はその船の名前に由来している。

ラミントン
Mount Lamington)はパプアニューギニアのオロ州にある成層火山である。標高は1,680m。1951年に大噴火を起こす以前は、有史に入り一度も噴火したという記録がないため、この火山は周辺住民から死火山だと思われていた。

ウィルヘルム山
Mount Wilhelm, は、パプアニューギニアで1番高い山である。標高4,509 m。ビスマーク山脈の一部であり、ピークはシンブ州、西部山岳州、マダン州の3つの州の交点にある。山の名前はパプア諸語の現地の言葉であるクマン語でEnduwa Kombugluとして知られている。


ニューギニア島
ニューギニア島(英語:New Guinea、インドネシア語:Nugini)は、太平洋南部に位置し、オーストラリアとはトレス海峡を隔てて北側にある島。パプア島 (Papua)・イリアン島 (Irian)とも。面積は約77万km2で、世界でグリーンランドに次ぎ2番目に広い島であり、大陸を含めても8番目に広い陸塊である。ニューギニアとは、この地に訪れたイギリス人が熱帯気候や肌の黒い人々を見てアフリカのギニアに似ていると思ったことから名づけた。

フォン湾
(Huon Gulf)は、ニューギニア島及びパプアニューギニアの東海岸に位置する湾。北側はフォン半島に接し、共にフランス人探検家のジャン=ミシェル・ユオン・ド・ケルマデックの名前に由来する。ソロモン海の一部でもあり、東方向に開けている。モロベ州の州都であるラエは、湾の北岸に位置している。湾の北西岸にマーカム川が流れ込んでおり、その海域はマーカム湾とも呼ばれる。

フォン半島
(Huon Peninsula)またはヒュオン半島は、ニューギニア島の東海岸でパプアニューギニアのモロベ州に位置する半島。名称はフランス人探検家のジャン=ミシェル・ユオン・ド・ケルマデックに由来する。半島内にサルウェージド山地(Saruwaged Range)があり、半島南側はフォン湾に接している。

トレス海峡
Torres Straitとはオーストラリア大陸とメラネシアの1つであるニューギニア島間の海峡。海峡幅は最も狭い地点で約150kmである。南にオーストラリア大陸最北端クイーンズランド州のヨーク岬半島、北にパプアニューギニア,西部州がある。海峡の中にはトレス海峡諸島と呼ばれる島々が点在している。

ビスマルク諸島
Bismarck Archipelagoは、太平洋、ニューギニア島沖にあるパプアニューギニア領の諸島。名前はドイツの宰相オットー・フォン・ビスマルクにちなむ。多くは火山島である。ビスマルク諸島の先住民はラピタ人(Lapita)である。ヨーロッパ人で最初にこの諸島を発見したのはオランダ人のWillem Schoutenで、1616年のことである。しかし、1884年にドイツ領になるまでヨーロッパ人は住んでいなかった。

トロブリアンド諸島
Trobriand Islands、現在の正式名はキリウィナ諸島[Kiriwina])は、ニューギニア島の東部沖にある環礁からなる島嶼群で、パプア・ニューギニアのミルン湾州に属する。先住民が12,000人ほど住み、大部分が最大の島のキリウィナ島に住む。

アドミラルティ諸島
(Admiralty Islands)は南太平洋にある諸島。ビスマルク諸島の北部を構成し、約18の島からなる。最大の島の名前からマヌス諸島(Manus Islands)とも呼ばれる。パプアニューギニアのマヌス州(Manus Province)に属する。州都はロレンガウ(Lorengau)。面積は2,100 km2で、人口は32,713人。約3,500年前にはラピタ人が居住していたが、約2,000年前にはその文化も消滅している。

ルイジアード諸島
(Louisiade Archipelago)とはニューギニア島の南東200km沖合い、北はソロモン海, 南に珊瑚海の26,000 km2 にも広がる海域内に点在する島々で、パプアニューギニアのミルン湾州に属する諸島である。タグラ島、ミシマ島、ロッセル島などの島の周辺をサンゴ礁で囲まれた火山島とサンゴ礁で形成された小さな島々からなる。

ダントルカストー諸島
D'Entrecasteaux Islandsは、ニューギニア島東部のソロモン海にある、パプアニューギニアのミルン湾州に属する島々。フランスの探検家ブルニー・ダントルカストーが、エスペランス号でフランス人探検家ラ・ペルーズの捜索の為にこの付近を通ったことから名付けられた。

ニニゴ諸島
Ninigo Islands)はパプアニューギニア・マヌス州にある諸島。ビスマルク諸島西部に位置し、ニューギニア島の北北東約250kmに位置する。複数の環礁で構成されており、主な島としてアナルティン島、マル島、サマスマ島など31個の島がある。

マヌス島
(Manus Island)は、パプアニューギニア、マヌス州の島で、アドミラルティ諸島最大の島である。パプアニューギニア全体では5番目の大きさで、100kms x 30kms の大きさを持つ。島のほとんどが荒れたジャングルに覆われ、低地熱帯雨林気候に属する。

ブーゲンビル島
Bougainville Island)は、パプアニューギニアの島。島全体がブーゲンビル自治州に属している。島名はフランスの探検家ブーガンヴィルにちなむ。ニューギニア島の東に位置し、国では無い地理区分としてのソロモン諸島の中で、最大の面積を誇る(10,049Km2)。火山性の島で、最高地点は3100mのバルビ山。

ブカ島
(Buka Island)は、パプアニューギニア、ブーゲンビル州で二番目に大きな島である。 南隣のブーゲンビル島とはごく狭い水道で隔てられている。 1768年、世界一周の航海中にこの島の沿岸を航海したフランスの探検家ブーガンヴィルによってブカ島と命名された。


<歴史>
この地域において、約6万年前の東南アジア方面から来たと思われる人類の痕跡が見つかっている。約5000年前、ニューブリテン島中央部のタラセアにおいて、貝の貨幣「シェルマネー」が作られた。これが最古の貝貨とされている。

■1526年
ポルトガル人のメネセスが来航、パプアと命名した。

■1828年
ニューギニア島を東西に分割し、1848年に西半分をオランダが併合、1884年には東半分をオーエン・スタンレー山脈、ビスマルク山脈で南北に分け、ニューブリテン島などを含んだ北半分をドイツ、南半分をイギリスが獲得した。

■1914年
第一次世界大戦にドイツが敗北すると、ドイツ領ニューギニアであった島の東北部は、国際連盟によりオーストラリアの委任統治領となった。

■1941年
太平洋戦争では、日本軍が1942年1月22日、ニューブリテン島ラバウルに上陸、ニューブリテン、ニューアイルランド、ブーゲンビルなどの島嶼部やニューギニア本島の北岸を占領し、ポートモレスビー攻略を狙った。

■1949年
オーストラリアは南東部と北東部を一行政単位に統合して「パプアニューギニア」とした。

■1975年9月16日
独立の丘でオーストラリアの国旗が降ろされ、パプアニューギニア国旗が翻るという儀式を経て、「パプアニューギニア独立国」として独立した。

■1988年
ブーゲンビル島でフランシス・オナを中心とするグループが、パングナ銅山の閉鎖、ブーゲンビルの分離・独立を求めてブーゲンビル革命軍(BRA)を構成し、鎮圧を試みた政府軍との間に内戦が始まった。

■2001年8月30日
武器の放棄、紛争中の戦争犯罪に対する恩赦、ブーゲンビル自治政府の容認、将来のパプアニューギニアからの独立に関しては住民投票で決定する、などの条項を盛り込んだ「ブーゲンビル平和協定」がアラワで調印され、平和への歩みが再開された。2005年にはブーゲンビル自治領で初の大統領選挙が行われ、元ブーゲンビル革命軍のジョセフ・カブイが初代大統領に就任した。


ラエ・サラモアの戦い
Battle of Lae-Salamaua, 1943年1月7日[3] - 9月16日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)中のニューギニア戦線における戦闘の1つ。ニューギニア島東部の要地ラエとサラモアを占領していた日本軍を、オーストラリア軍を主体とする連合軍が攻撃し、ラエとサラモアを奪還した。日本軍は標高4,100メートルのサラワケット山系を越えて撤退した。


ラピタ人
Lapita)は、人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族。1952年、ニューカレドニアで発見された土器が「ラピタ土器」と命名されたことから、この文化がラピタ文化と呼ばれるようになった。ポリネシア文化の源流とする考えが有力である。「ラピタ」という名前自体は、ニューカレドニアの現地語 (Haveke language) で「穴を掘ること」または「穴を掘った場所」を意味する「ハペタア (xapeta'a)」を発掘した遺物のことと誤解して付けられた。この文化が元々はなんと呼ばれていたのかは、現在まで明らかにされていない。ラピタ土器の破片。ソロモン諸島のネヌンボ遺跡 (Nenumbo site) でオークランド大学のロジャー・グリーン (Roger C. Green) らによって1970年代に発掘されたもの。破片幅は約8cmで、紀元前1000年ごろのものと見られている。 ラピタ文化は今からおよそ3600年前にメラネシアで発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器を残した。
バヌアツ、エファテ島のテオウマ遺跡 で2003年に見つかった古墳では、36体の遺体が25の墳墓または甕棺に埋葬されていた。遺体はすべて頭部を欠いており、これは一度埋葬した後に、頭部だけを取り去り巻き貝で作った指輪と置き換えていたためであった。その頭部は別に埋葬されており、埋葬されている老人の胸の上に3つの頭部が並べられていた墓が見つかっている。また見つかった甕棺の一つには、4羽の鳥が中をのぞき込む造形が見られた。炭素年代測定により、墳墓の中の貝殻はおよそ紀元前1000年ごろのものとされている。


■民族
パプアニューギニアの人々は伝統的に「ワントーク」と呼ばれる少人数の部族に分かれて生活していた。たいていの部族は数十、数百人程度であり、それぞれの部族ごとに言語、習慣、伝統が異なっている。かつては各部族同士で戦いを行うことがよくあり、その習慣は今も一部残っている。住民は多様な民族から成っており、主にメラネシア人、パプア人、ネグリト人、ミクロネシア人、ポリネシア人などで構成される。その他にもクカクカ族、ラカライ族、ラオ・ブレリ族、エレマ族など多数の少数民族が存在する。


ミクロネシア人
(Micronesian)は、西太平洋のミクロネシアに住む人々の総称。人種上はモンゴロイドに分類されるが、メラネシア人やポリネシア人との混血化が進んでおり、変異も大きい。短身痩躯で褐色の肌に黒髪を有する。

ポリネシア人
(Polynesian)は、太平洋のポリネシアに住む人々の総称。オーストロネシア語族に属しており、メラネシア人やミクロネシア人と密接な親縁関係を持つ。身体的特徴、言語的特徴に関してメラネシア人のような多様な地域差は無く、同質的である。

パプア人
主としてニューギニア島の西部と南部と内陸部に住む先住民族である。ニューギニア島からニューカレドニアにいたる島々の内陸部にも住む。固有の言語にはダニ語(インドネシア、32万人)、エンガ語(PNG、22万人)などがあるが、顕著に有力なものはない。トランスニューギニア語族など約10の語族に分類される。それらは便宜的にパプア諸語あるいはパプア・ハルマヘラ諸語などと総称され、約816の言語が属し、約460万人が話している。中等位の身長、暗褐色の皮膚、長頭、かぎ鼻、厚い唇でアボリジニに近い身体的特徴を持つ。

メラネシア人
(Melanesian)は、西南太平洋のメラネシアに住む人々の総称。広義にはパプア人を含める場合もある。人種的にはオーストラロイドと混血したモンゴロイド系の民族であるが、島嶼間の交流の結果、様々な移住者が入ったことから体格・風貌も様々であり、人種的特徴を一概に挙げることは困難である。彼らは約5000年前にメラネシア水域の島々にやってきたと考えられており、ソロモン諸島、ニューヘブリディーズ諸島、フィジー諸島、ニューカレドニア島などに居住する。

クカクカ族
Kukukukuは、パプアニューギニアに住む焼畑農耕民である。クククク族と表記されることもある。以前は半定住の生活をおくり、戦闘的で繰り返し丘陵を下って平野部の住民を襲っていたため、近隣の部族に「Kukukuku」として恐れられていた。クカクカ族の居住地は、首都ポートモレスビーから直線距離にして約300km離れた、海抜2000m近い高地にある。

ラオ・ブレリ族
Rao-Breriは、パプアニューギニアに住む少数民族である。研究はほとんど進んでいない。ラオ・ブレリ族の居住地は、ニューギニアのマダン西方130km、ラム川中流沿いに隣り合って住んでいる。

エレマ族
Elemaは、パプアニューギニアに住む少数民族。ニューギニア南岸、オロコロ湾沿いの全長1600kmに及ぶ沼沢地帯に住んでいる。「ビッグマン(非世襲制の首長)」のもとに村々に分かれて暮らしている。エレマ族社会は、1919年に起こった一種の船荷信仰「バイララ狂乱」により大きな打撃を受けた。当時各地の村人は船荷が天から降ってくると信じ、その船荷を引き付けようとしてあちこちに大きな台を造り、その上に捧げ物を置いていた。白人の神を信じれば、自分たちも白人のような品物を持てると信じたためである。

アベラム族
Abelam)は、パプアニューギニアに住む少数民族。彫り物細工と絵が有名である。ヤムイモを主とする根菜類を栽培し、ブタを飼育している。ヤムイモはアベラム族の主食である。彼らは少なくとも100種類のヤムイモの違いを見分け、その中から土地の性質に合わせて適切な種類をたくみに選び、改良・栽培する。

チャンブリ族
Chambli)は、パプアニューギニアに住む少数民族である。ニューギニアを流れるセピック川の河口から290km、セピック川に向かう2本の川が流れるチャンブリ山の麓にある湖畔に小村落に分かれて暮らす
Arapesh)は、パプアニューギニアに住む少数民族である。武力で抗争することはない。ニューギニア北部のセピック川河口から内陸部の山岳平野にかけて住んでいる。河岸部ではサゴヤシ澱粉を主食とし、魚類も摂取している。山間部ではタロイモを主食としており、生活は河岸部の同族より貧しい。

マンガ族
Manga)は、パプアニューギニアに住む少数民族。ニューギニア西部高地の北東部、セピック川沿いの渓谷に住んでいる。生業は養豚と耕作。主要作物は、サツマイモ、ヤムイモ類、タロイモ、キャッサバ。

ネグリト
(Negrito) とは東南アジアからニューギニア島にかけて住む少数民族を指し、これらの地域にマレー系民族が広がる前の先住民族であると考えられている。身長は低く、諸民族の中でも最も小さな人々であり「大洋州ピグミー」とも呼ばれる。暗い褐色の皮膚を持ち、巻毛と突顎を持つ。山地にすみ単純な採集や狩猟を行い、移動焼畑を行う場合もある採集狩猟民である。

ムンドグモール族
Mundugumor)は、パプアニューギニアに住む少数民族である。昔から首狩りの風習があり、常に沼沢地の住民を襲撃してきた凶暴さで知られている。ニューギニアの西部高地、セピック川の支流であるユアット川上流の肥沃な高地に住んでいる。沼沢地の住民とは交易関係もあり、タバコ、ビンロウジュの実、ヤシの実と交換して、鍋類や籠を手に入れている。


パプアニューギニア政府観光局
ようこそパプアニューギニアへ
パプアニューギニアは、赤道のすぐ南に位置しており、日本から直行便で約6時間30分の距離にあります。世界で2番目に大きな島、ニューギニア島の東半分をはじめとする600の島々からなり、南太平洋最後の楽園と言われ、そこには美しい海と、山々の深い緑、長い歴史の中で受け継がれた伝統の文化が息づいています。


クックの初期農業遺跡
クックは、ニューギニア島の南部山岳州にある湿地で、100年以上前には伝統的なバナナ栽培が行われていた。遺跡は大きく3期に分けることができる。最も古い遺跡は7000年から10000年ほど前まで遡るものである。発見されているのは、植物を植えていた穴や掘った穴の跡である。

ルイス・バーエス・デ・トーレス
1565年頃 - ?はスペイン王室に仕えた海洋探検家である。オーストラリア大陸とニューギニア島の間を(記録に残る限り、西洋人としては)初めて航行し、海峡にトレス海峡の名を残した。長年の間、トーレスはニューギニア寄りの航路でトレス海峡(150kmの幅がある)を通過したのだと考えられてきた。しかし1980年にオーストラリアの歴史家ブレット・ヒルダーが論証したところでは、トレスの航路はもっとオーストラリア寄りであり、彼が通ったのは現在エンデヴァー海峡(プリンス・オブ・ウェールズ島とオーストラリア本土の間)と呼ばれている海域だという。この探検航海によってニューギニアが大陸の一部ではないことが証明された。

ウィリアム・ダンピア
(William Dampier, 1651年 - 1715年3月)は、イギリスの海賊(バッカニア)、船長、作家、博物学観察者。ニューホラント(オーストラリア)、ニューギニアを探検した最初のイギリス人。世界周航を2回成し遂げた最初の人物であり、3回目も達成した。1699年12月3日にはニューギニアを発見したが、北に通過した。東進し、ニュー・ハノーヴァー島、ニュー・アイルランド島、ニュー・ブリテン島とたどり、それらビスマルク諸島とニューギニアの間に横たわるダンピア海峡を発見した。1701年に勃発したスペイン継承戦争に際して、イギリスの私掠船長たちはフランスとスペインの利権を叩く用意を進めていた。ダンピアは、政府船セント・ジョージ号(大砲26門、乗組員120名)の指揮官に任命された。ガレオン船シンク・ポーツ号(大砲16門、乗組員63名、Cinque Ports)と組み、1703年4月30日までともに行動した。
彼らはフランス船の襲撃に失敗したが、スペインの小船を3隻と、550トン船を1隻拿捕した。この遠征で最も注目されたのは、アレキサンダー・セルカークを取り巻く一連の出来事である。シンク・ポーツ号の船長トーマス・ストラドリングと、航海長を務めていたセルカークとの間には、いさかいが絶えなかった。1704年10月、シンク・ポーツ号はチリ沖ファン・フェルナンデス諸島の無人島に補給のため停泊した。セルカークはシンク・ポーツ号の耐久性を強く懸念しており、ダンピアとの口論の後、島に置き去りにされた。セルカークは4年と4ヶ月もの間、島から出ることができず、彼の体験はダニエル・デフォーの小説ロビンソン・クルーソーの基となった。

ジョン・モーズビー
(John Moresby, 1830年3月15日 w:Allerford, サマセット州, イングランド - 1922年7月12日 フェアハム, ハンプシャー, イングランド)は、イギリス海軍将校。ニューギニア沿岸を探検し、今のポートモレスビーの地域を発見。元々先住民族の村 Hanuabada があった所に町を建設、今の首都ポートモレスビーとなる。

ヘンリー・ファン・リースハウト
Henry van Lieshout、1932年5月19日 - 2009年12月24日)は、パプアニューギニアのカトリックラエ司教区の司教。オランダのリンブルフ州フェンロー出身。1966年11月15日から新しく設置されたカトリックラエ司教区の司教にパウロ6世より任ぜられ、2007年1月15日まで務めた。2009年1月1日、モロベ州ラエにて死亡。77歳。

ジャン=ミシェル・ユオン・ド・ケルマデック
(Jean-Michel Huon de Kermadec, 1748年9月12日 - 1793年5月6日)は18世紀のフランス海軍軍人。ブレスト出身。1791年9月28日にブレストを出港し、南太平洋の島々を巡り、ニューギニア近海からオーストラリア沿岸にかけて探検調査を兼ねた捜索の航海が行われたが、ラ・ペルーズの行方について確かな手掛かりは得られなかった。ケルマデックは航海中に罹った熱病のため、寄港中のニューカレドニアで1793年に没した。

パプアニューギニア Papua New Guinea
南太平洋にあるニューギニア島の東半分及び周辺の島々からなる立憲君主制国家。オーストラリアの北、ソロモン諸島の西、インドネシアの東、ミクロネシア連邦の南に位置する。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国。

この地域において、約6万年前の東南アジア方面から来たと思われる人類の痕跡が見つかっている。約5000年前、ニューブリテン島中央部のタラセアにおいて、貝の貨幣「シェルマネー」が作られた。これが最古の貝貨とされている。

ポートモレスビー
(Port Moresby)は、パプアニューギニアの首都で、国内最大都市。人口約29万3,000人(1999年)。パプア湾に位置する港湾都市で、ゴム、金、コプラが主要な輸出品である。海岸部には堡礁が発達している。ポートモレスビーに住んでいた原住民 (Motuan) は、壺を作って、サゴヤシその他の食料、カヌー用の丸太などと交換し、湾内の水上に高床式住宅を建設し、Hanuabada などの集落を作って暮らしていた。


ポートモレスビー・ジャクソン国際空港
(Port Moresby Jacksons International Airport) は、パプアニューギニアの首都、ポートモレスビーにある国際空港である。

ウェワク国際空港
Wewak Airport)とは、パプアニューギニア、東セピック州の州都ウェワクにある元国際空港。現在では国際便は就航しておらず、パプアニューギニア国内の地方主要空港との便のみが就航している。ウェワク中心部からは車で15分ほどの距離にあり、ニューギニア航空の国内線主力旅客機であるフォッカー100が離発着可能なウェワク近隣で唯一の空港である。


ゴロカ
Gorokaはパプアニューギニア、東部山岳州の州都。パプアニューギニアのハイランド(高地地方)では比較的、早い時期から、西欧文明と接する。ゴロカ大学(The University of Goroka)をはじめ、国立医療研究所 (Institute of Medical Research) 、国立スポーツ研究所 (National Sports Institute) 、メラネシア研究所といった研究所、NGO等が多く集まる。

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外務省:パプアニューギニア
在パプアニューギニア日本国大使館


カビエン
(Kavieng)はパプアニューギニア、ニューアイルランド州の州都。カビエン地方、カビエン都市地方レベル政府(Kavieng Urban LLG)に属する。ニューアイルランド島北端のバルガイ湾(Balgai Bay)に位置する同島最大の都市である。カビエンには地方自治体の庁舎や商店街など地方の中心都市としてのサービスは全てある。ホテルは金曜夜のシーフード料理で有名なカビエンホテル(Kavieng Hotel)の他、マラガン・ビーチ・リゾート・ホテル(Malagan Beach Resort hotel)、植民地時代はクラブだったカビエン・クラブ(Kavieng Club)がある。病院には一般診療と小児科、外科がある。

ラバウル
Rabaulは、パプアニューギニア領の都市である。パプアニューギニア・ニューブリテン島のガゼル半島東側に位置する、良港シンプソン湾を臨む都市で、東ニューブリテン州の州都でもある。ラボールとも呼称される。ラバウルはコプラやコーヒー、ココアの産地として有名。なお、周囲は火山地帯として知られ、シンプソン湾自体もカルデラである。第二次世界大戦中の1942年には日本軍が占領し、今村均陸軍大将などの指揮によって東南方面への一大拠点が築かれる。ラバウル航空隊の基地があり連合軍側からはラバウル要塞と呼ばれた。陸海軍合わせて9万余の日本軍が配置された。

メンディ
Mendiは、パプアニューギニア中部に位置する、南部山岳州の都市である。人口は、17119人(2000年)。使用言語は、angal語。メンディは、石灰岩の山の上に位置する。また、区域内には、パプアニューギニアで二番目に高い山である、Giluwe山がある。

ココポ
Kokopoはパプアニューギニアの東ニューブリテン州の州都である。1994年のタブルブル火山とブルカン火山の噴火により州都がラバウルから移転された。結果として、町の人口は1990年の3,150人から2000年の20,262人まで六倍以上に増えた。

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ブイン
ブインはパプアニューギニア・ブーゲンビル自治州、南太平洋のソロモン諸島北部に位置するブーゲンビル島南端部の町である。第一次世界大戦からほどなくして、ドイツ人入植者が金の採掘のためにブインの一帯に到着した。現地に住むブーゲンビル人の大半が、移住者から煉瓦造りのような技能を学んだ。

アラワ
Arawaとは南太平洋パプアニューギニアのブーゲンビル自治州の中心地。人口は約14,900人で、ブーゲンビル島の南東の海岸、アラワ湾の近くに位置する郊外の町で、すぐ近くのパングナにはブーゲンビル銅鉱会のパングナ鉱山があり、アラワ湾のすぐ近くにキエタがある。

ウェワク
Wewakは、パプアニューギニア独立国、東セピック州の州都。ニューギニア島の北岸に位置している。ウェワクは、マダンとジャヤプラの間では最大の町である。町の中心の東には小さな半島があり、そこにボラム (Boram) 病院とウェワク国際空港がある。

マダン
Madangは、パプアニューギニア独立国、マダン州の州都。ニューギニア島の北岸に位置し、2005年時点で人口は27,420人。19世紀にドイツ人によって最初に開かれた町で、ドイツ名はフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ハーフェン(Friedrich-Wilhelm-Hafen)。マダンにはディバインワード大学(英語版)があり、留学生を受入れている。

ラエ
(Lae)はパプアニューギニア第2の都市。モロベ州の州都。人口は約12万人。パプアニューギニア北岸のフォン湾に面し、マーカム川河口が近くにある。山岳地方と海岸部を結ぶ主要交通路、ハイランドハイウェイの起点である。また、国内最大の貨物港がある。

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ケレマ
(Kerema) は、パプアニューギニアの湾岸州の州都。パプア湾岸に位置している。 湾岸地域は、大きな河川デルタ地帯を伴った窪んだ海岸線にちなんで名づけられた。 湾岸地域は、高地から南斜面から 多くの川が流れ込む水辺の地域である。

アロタウ
Alotauは、パプアニューギニアミルン湾州の州都である。ミルン湾北岸に位置する。1969年に州都がサマライ(Samarai)からアロタウへと移った。1942年にこの地で戦死したオーストラリア空軍のチャールズ・レイモンド・ガーニーから名付けられたガーニー空港(Gurney Airport)がある。空港は街から12kmほど離れている。
珊瑚礁とスキューバダイビングで知られている。

マウントハーゲン
パプアニューギニア西ハイランド州にある都市。州都。市の名前の由来である同名の山、マウントハーゲン(標高3,791m)の南東側山麓に位置する。1933年、リーヒー兄弟らが飛行機による偵察中、当時から人口密度が高かったマウントハーゲン一帯を確認。着陸して、地域一帯の原住民と初めて接触した白人となった。


パプアニューギニアの国旗
パプアニューギニアの国旗は、 1971年7月1日に制定された主に赤と黒で斜めに塗り分けられた旗である。赤地部分には国鳥であるアカカザリフウチョウのシルエットが描かれ、黒地部分には南十字星が描かれている。赤と黒は長年パプアニューギニアの民族の伝統色であると同時に、赤・黒・黄の組み合わせはパプアニューギニアを1918年まで支配したドイツ帝国の旗の色である。このフウチョウはパプアニューギニアの国章にも描かれている。

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■国名
正式名称はIndependen Stet bilong Papua Niugini。通称 Papua Niugini。略称は PNG。パプアニューギニアは、元々あったパプアとニューギニアが合併してできた国である。パプアは、メラネシア人の縮れ毛を指すマレー語の言葉から来ている。ニューギニアは、メラネシア人がアフリカのギニア人に似ているところからスペイン人の探検家が名付けたものである。


1.面積:46.2万平方キロメートル(日本の約1.25倍)
2.人口:688万8千人(2010年、世界銀行)
3.首都:ポートモレスビー
4.民族:メラネシア系
5.言語:英語(公用語)の他、ピジン英語、モツ語等を使用
6.宗教:主にキリスト教徒多数、祖先崇拝等伝統的信仰も根強い。

16世紀前半〜19世紀後半 ヨーロッパ人の来訪
1884年 独、ニューギニア北東部を保護領とする(独領ニューギニア)
1884年 英国、ニューギニア南東部を保護領とする(英領ニューギニア)
1906年 英領ニューギニア、豪領となる
1914年 第1次世界大戦勃発に伴い、豪が独領ニューギニアを占領
1920年 国際連盟、独領ニューギニアの統治を豪に委任
1942年 日本軍進駐
1945年 日本軍降伏、豪州が統治
1946年 豪州を施政権者とする国連の信託統治地域となる
1963年 住民議会設置
1973年 内政自治に移行
1975年9月16日 独立

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■主要産業:鉱業(金、原油、銅)、農業(パーム油、コーヒー)、林業(木材)

■主要貿易品目(1)輸出 金、原油、銅、パーム油、コーヒー、木材(2)輸入 コメ、食肉、タイヤ・チューブ、紙製品


キナ
(Kina)は、パプアニューギニアの通貨単位。略称はPGK。2003年初頭、1ユーロ=4キナであった。補助通貨単位はトエア(Toea)で、1キナ=100トエア。1キナ=39.06円である。(2006年8月4日現在)


■政治
国家元首は、イギリスの国王(または女王)(現在はエリザベス2世女王)。象徴的地位であり、任命などの権限は、議会や内閣の決定に従い行使される。その職務は、総督が代行する。政治は男性中心で、女性議員はこれまで数えるほどしか当選していない。2007年総選挙でも多くの女性候補が男性中心の政治に挑戦したが、現職のキャロル・キドゥのみが再選され、現在女性国会議員は1名のみである。2008年には、選挙とは別に女性の代表を国会に参加させる法案が審議されている。


国民同盟党
国民同盟党(こくみんどうめいとう)は、パプアニューギニアの政党。1995年、マイケル・ソマレ党首のもとに結成された。2002年の総選挙では、パプアニューギニア議会で109議席のうちの19議席を占め、最大政党となった。2007年の総選挙では、27議席を獲得し、最大政党を維持した。

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■経済
都市部の貨幣経済と村落部の自給自足経済の二重構成で鉱業が輸出の中心をなしている。その他コーヒーやカカオを生産している。最大援助国はオーストラリアで影響力が非常に大きい。対外債務は2007年12月31日時点で18億1400万米ドルである。GDP(国内総生産)成長率は2007年は4%を記録している。


ココナッツ
coconut)はヤシ科の単子葉植物、ココヤシの果実である。ココナツあるいは、単に椰子の実ともいう。果実は繊維質の厚い殻に包まれ、その中に固い殻に包まれた大きな種子がある。種子の内部は大きな胚乳に占められ、周縁部の固形胚乳と中心部の液状胚乳に分かれる。


アジア開発銀行
ADB、Asian Development Bank)は、アジア・太平洋における経済成長及び経済協力を助長し、開発途上加盟国の経済発展に貢献することを目的に設立された国際開発金融機関。本部はマニラ。ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)の発案により、1966年に発足した。現在67か国/地域で構成される。


■鉱業
2002年時点の輸出額15億ドルのうち7割以上を鉱物資源取引が占めており、パプアニューギニア経済にとって鉱業は重要な部門である。上位3品目は金 (35.9%)、石油 (21.0%)、銅 (14.7%) である。化学工業、金属精錬はいずれも未発達であるため、全量が未精製の状態で輸出されている。

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ブーゲンビル革命軍
Bougainville Revolutionary Army, BRAは、パプアニューギニアからの独立を求めるブーゲンビル島の先住民たちによって、1988年に結成された軍事組織。BRAの指導者たちは、ブーゲンビルは民族的にはソロモン諸島の一部であると論じ、島内で展開されていた大規模な鉱業は地元に利益をもたらしていないと主張した。1989年、BRAの指導者たちはパプアニューギニアからのブーゲンビルの独立を宣言し、ブーゲンビル暫定政府(英語: Bougainville Interim Government, BIG)を樹立した。この結果、BRAと、オーストラリアの支援を受けたパプアニューギニア政府軍との間で、戦闘が激化していった。


フィンシュハーフェンの戦い
Battle of Finschhafenは、太平洋戦争(大東亜戦争)中のニューギニア戦線における日本軍とアメリカ・オーストラリア軍との間の戦闘である。パプアニューギニアのモロベ州北東部のフィンシュハーフェンにおいて、1943年9月22日から同年12月下旬まで行われた。結果は、戦術的・戦略的にも日本軍の惨敗であった。


■情報・通信
パプアニューギニアの主要放送局はEMTVであり、インターネットにおいてはPapua New Guinea University of Technologyというプロバイダが主流である。 新聞は売店などでの販売が主流。


■言語
言語は英語が公用語であり、教育、テレビ、ラジオ、新聞などは基本的に全て英語が使用されている。また、共通語として、旧ニューギニア地域(ニューギニア本島北岸、ニューギニア高地や島嶼部)で主に使われているトク・ピシンと、旧パプア地域(セントラル、オロ、ガルフ州など)で主に使われているヒリモツ語(ともにピジン言語)がある。

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トク・ピシン
英語を土台としたクレオール言語の一つであり、パプアニューギニアの公用語の一つである。約120万人がトク・ピシンを第一言語として使用し、300万人から400万人程度が第二言語として使用していると見られている。トク・ピシンの成立は、クイーンズランドやその他の島々にプランテーションのため送り込まれた、様々な言語を母語としていた太平洋諸島の労働者が接触したことに始まる。


■宗教
国民の95%以上がキリスト教であり、主な宗派はローマ・カトリックが27.1%、ルーテル教会が19.5%、合同教会が11.5%、アドベンチスト教会が10.1%、ペンテコステ派が8.6%などとなっている。(2000年国勢調査による)


キリスト教
Christianity)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。

カトリック教会
Ecclesia Catholica)はローマ教皇を中心とし、全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。「カトリック」の語源はギリシア語の「カトリケー普遍的)」やラテン語では「カトリクス(Catholicus)」等である。日本ではかつて「天主公教会」とも称された。

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ルーテル教会
マルティン・ルターによりドイツに始まる、キリスト教の教派または教団で、ルター派とも言われる。 なお「ルーテル」という日本語名は、舞台ドイツ語読みに由来する。プロテスタントの流れの一つであり、全世界に推定8260万人の信徒が存在する。発祥の地ドイツを始め、北欧諸国では国民の大半がルター派であり、そこから移民が渡った先のアメリカ合衆国、カナダ、ブラジル等の南アメリカ各国でも信徒数が多い。

合同教会
United and uniting churches)とは、キリスト教の二つ以上のプロテスタント教派の合同によって設立される教会。世界中に多様な成立経緯をもつ様々な形態のものが存在する。日本においては、第二次世界大戦時に制定された宗教団体法と当局の圧力により成立した日本基督教団がある。

セブンスデー・アドベンチスト教会
Seventh-day Adventist Church, SDA)は、1800年代後半にアメリカの再臨待望運動から起こったプロテスタントの一派。名称の「セブンスデー」は週の第7日の安息日を、「アドベンチスト」はキリストの再臨を待ち望む者を意味することから、日本では安息日再臨派(あんそくび さいりん は)と呼ばれることもある。

ペンテコステ派
キリスト教のプロテスタント教会のうち、メソジスト、ホーリネス教会のなかから1900年頃にアメリカで始まった聖霊運動、つまりペンテコステ運(Pentecostalism)からうまれた教団、教派の総称ないし俗称。この教派、教団に属する教会をペンテコステ教会という。

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自然崇拝
自然物・自然現象を対象とする崇拝、もしくはそれらを神格化する信仰の総称。「自然への崇拝」ではなく、「自然」という概念ができる以前の崇拝形態である。自然崇拝は世界各地に見られ、また各地の神話にも自然物・現象を神格化した神が登場することから、古くは普遍的であったと思われる。


魔女狩り
Witch-hunt)は、中世末期から近代にかけてのヨーロッパや北アメリカにおいてみられた魔女(sorciè臆解纉、Witch)や魔術行為(Witchcraft)に対する追及と、裁判から刑罰にいたる一連の行為のこと。現代では、このような行為は心理学的な観点から集団ヒステリーの産物とみなされているが、現代においても前近代的な文化や古来からの伝統を重視する社会において魔女狩りに類した行為が行われることがある。


 

マイケル・ソマレ
Sir Michael Somare、1936年4月9日 - は、パプアニューギニアの政治家。同国の首相を5期(1975年 - 1980年、1982年 - 1985年、2002年 - 2011年)務めた。国民同盟党党首。ラバウル出身。行政監理大学を卒業後、教員や放送記者を経て1965年にパング党を結成。1975年9月の同国独立で初代首相となり、「祖国の英雄」とされる。1997年に国民同盟党を旗揚げし、2002年6月の総選挙で同党が第1党になったことを受け、9月に就任した。

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ニコラス・ミクルーホ=マクライ
Nicholay Miklouho-Maclay、はウクライナ、ドイツ及びポーランド系ロシア人民族学者、人類学者、生物学者。1871年以降、ニューギニア北東部アストロラーブ湾岸へ単身乗り込み調査を開始。3年程度現地で過ごしながら、人類学的に貴重なフィールドワークを数多く残すと共に、資料収集に当たった。ドイツがニューギニアに侵攻した際にも、当時の宰相オットー・フォン・ビスマルクに向け抗議の電報を打ったことでも知られる。

ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル
(Louis Antoine de Bougainville、1729年11月11日 - 1811年8月31日)は、フランスの航海者・探検家・数学者・軍人。1766年12月15日、博物学者、デッサン画家、天文学者を伴って、ブルターニュのブレストから世界一周の航海に出発した。ブーガンヴィルは、後に彼の名を冠されることになる島(ブーゲンヴィル島)を探検した。彼は、サモア諸島、彼はそこを「航海者諸島(イル=デ=ナヴィガトゥール)」と呼んでいたが、その殆どの島を探検した。それから、ポルトガル人航海者ペドロ=フェルナンデス=デ=キロスの発見したサン=テスプリ諸島(1980年の独立達成以来ヴァヌアツと呼ばれているがニューヘブリディーズ諸島)を再発見し、ルイジアード諸島沿いに航海し、スペイン人メンダーニャが1567年に発見したのち200年間ヨーロッパ人が訪れなかったソロモン諸島に達した。

マーガレット・ミード
(Margaret Mead, 1901年12月16日 - 1978年11月15日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれの文化人類学者。コロンビア大学で彼女を指導したルース・ベネディクトとともに20世紀米国を代表する文化人類学者と評価されている。"gender"という用語はもともと身体的性を示す言葉として存在していたが、ミードは「社会的・文化的性」という意味でのジェンダー研究を行った先駆者でもある。

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