ニュージーランド New Zealand
南西太平洋のポリネシアに位置する立憲君主制国家。島国であり、2つの主要な島と、多くの小さな島々からなる。北西に2,000km離れてオーストラリア大陸と対する。南方の南極大陸とは2,600km離れている。北はトンガ、ニューカレドニア、フィジーがある。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国である。
ニュージーランドの面積は、268,680 km2である。ニュージーランドは、北島と南島の2つの主要な島と多くの小さな島々で構成される。北島と南島の間には、クック海峡がある。
■ウェリントン
Wellingtonはニュージーランドの首都。同国2番目の都市圏で、オセアニアの首都の中では最も人口が多い。オセアニア有数の世界都市でもある。ウェリントンは北島の南西端に位置し、北島と南島を分ける水路であるクック海峡に面している。晴れた日には、雪を被ったカイコウラ山脈 (Kaikoura Ranges) を海峡の向こうの南側に見ることができる。ウェリントンのエネルギー需要は増加している。有力視されている供給源の一つが風であり、需要の増加に応えるために大規模な風力発電基地の建設が進められている。このプロジェクトでは70基のタービンが設置され、発電能力は最大で210メガワットとなる予定である。
■マッセー大学
Massey Universityは、ニュージーランド北島パーマストンノースに拠点を置くニュージーランド最大の学生数を有する大学。ニュージーランド北島最大の農業学校である。パーマストンノースのほか、ウェリントン、オークランドに校舎が所在する。学生数はおよそ41000人。海外120を超える国と地域から5000人以上の留学生が在籍している。ニュージーランド最大の大学であり、ニュージーランド国内外に在籍するおよそ20000人の学生は、同大学の遠隔教育を受ける学生である。
■カンタベリー大学
University of Canterbury、略称:UCは、ニュージーランド南島クライストチャーチ市に所在する大学。オタゴ大学に続く2校目の高等教育機関として1873年に創立。1961年に連邦ニュージーランド大学が解体されるまでニュージーランド大学の1校として運営される。連邦大学制の廃止に伴ないニュージーランド大学解体後は独立した大学機関になる。
■オタゴ大学
University of Otago 、は、ニュージーランド南島ダニーデンに所在する大学。1860年代にスコットランドからの初期開拓移民で宗教指導者のトーマス・バーンズ、政治家のジェームズ・マックアンドリューらがオタゴ州議会に高等教育機関の設立を呼びかけ1869年設立された大学(1871年に開校)。ニュージーランドで最も古い大学である。
■オークランド大学
University of Auckland 、は、ニュージーランド北島オークランド市に所在するニュージーランドを代表する国立大学。ニュージーランド大学の1校として1883年5月23日に設立され、4名の教員と95人の学生にて開校した。当初は教員と法務官養成を目的とした大学であったが、その後、商学を専攻する学生が増加し、1900年代初頭には化学の領域で名声を得る。
■オークランド工科大学
Auckland University of Technologyは 、ニュージーランド北島オークランドに所在する大学。同市内にあるオークランド大学とは別大学である。1995年に創立100周年記念式典が挙行され学生数は25,000人を超える。2000年1月1日にニュージーランド教育省より大学自治権を与えられオークランド工科大学(AUT)となる。博士課程を設置。
■ヴィクトリア大学ウェリントン
ictoria University of Wellingtonは、ニュージーランド首都ウェリントンにある大学である。ニュージーランド国内では、ヴィクトリア大学、または、ヴィクトリアの名で呼ばれる。1897年にニュージーランド大学の1校として開校。正式名称は、ヴィクトリア大学・オブ・ウェリントン。イギリス女王ヴィクトリアの名前に由来する。
■リンカーン大学
Lincoln University 、は、ニュージーランド南島クライストチャーチ市郊外セルウィン地区リンカーンに所在する大学。南半球にある最も古い農業学校であり、農学、畜産学、園芸学の世界的な研究機関。1878年にカンタベリーカレッジ(現・カンタベリー大学)に関連する農業校として開校。ニュージーランドで3番目に古い大学であり1880年より学生の受け入れを開始。
■ワイカト大学
The University of Waikato、マオリ語: Te Whare Wananga o Waikatoは、ニュージーランド北島ハミルトン、タウランガ、オークランドに校舎をもつ大学。1964年に設立。マオリ族と太平洋諸島出身者の学生比率が高い大学であり、6割の学生は女性。マオリ族の文化と、太平洋諸島、オセアニアの地域文化、歴史を研究する太平洋学の研究機関。
■インターナショナル・パシフィック大学
International Pacific Collegeは、日本に本部を置くニュージーランドの私立大学である。1990年に設置された。
■オークランド国際空港
Auckland International Airportは、ニュージーランド・オークランド市中心部から南へ約20kmの郊外マンゲレ地区に位置する国際空港。1928年に設立された航空学校「オークランド・エアロクラブ」の敷地を譲り受け、1966年1月29日に開港(オークランド・エアロクラブはアドモア空港へ移転)。
■パーマストンノース空港
Palmerston North Airportとは、ニュージーランド、パーマストンノースにある空港である。
■インバーカーギル空港
Invercargill Airportは、ニュージーランドの南島、インバーカーギルにある空港である。
■ウェリントン国際空港
Wellingoton International Airportは、ニュージーランドの首都、ウェリントンにある国際空港。
■クライストチャーチ国際空港
Christchurch International Airport)は、ニュージーランド南島を担当する国際空港。年間利用者数は約600万人。オークランド国際空港に続き2番目の乗客数を持つ国際空港である。
■ウッドボーン空港
Woodbourne Aerodrome) (IATA: BHE, ICAO: NZWB)はニュージーランドマールボロ地方ブレナム郊外にある空港。ブレナム空港とも称され、ブレナムの市街地からは約8km離れている。
■ニュージーランド・ステートハイウェイ
New Zealand State Highway networkは、ニュージーランドの自動車専用高速道路ネットワークのことである。およそ100の路線を所有しており、大部分の路線は一部を除き100km/hの制限速度となっている。
外務省:ニュージーランド
在ニュージーランド日本国大使館
■ニュージーランドの鉄道
ニュージーランドの北島と南島の両方で、軌間1,067mm(3フィート6インチ)、全長3,898kmの鉄道網を形成している。鉄道の営業はもっぱら貨物に集中しており、特にばら積み貨物を中心としている。旅客の営業は一部の路線で限られたものとなっている。オークランドとウェリントンの2都市のみ通勤鉄道が存在しており、どちらも近年改善と拡張が進められている。
■ロトルア
ロトルア(英語: Rotorua、マオリ語: Rotorua-nui-a-Kahu)は、ニュージーランド北島のベイ・オブ・プレンティ地区にある、ロトルア湖の南岸に位置する都市である。ロトルア・ディストリクト地方政府の一部に含まれる。地熱活動はロトルアにおける観光の目玉である。間欠泉や泡を吹き出している熱泥池、温泉、そして1886年のタラウェラ山(Mt. Tarawera)の噴火で埋まったテ・ワイロア村(Te Wairoa)が市内から近い。ロトルアは植物園や興味深い歴史的建造物でも知られる。19世紀から温泉の町、観光の町として知られてきたため、ロトルアの多くの建物がその歴史をしのばせるものになっている。市街東外れの湖岸近くにあるガバメント・ガーデンズは特筆すべきものである。
■クイーンズタウン
(Queenstown) は、ニュージーランド南島のオタゴ地方の内陸、ワカティプ湖畔に面した町である。周囲の山々に囲まれたその美しさが「ヴィクトリア女王にふさわしい」と名づけられたことに由来する。世界的に有名な観光・保養地である。
■ファンガレイ
Whangarei、は、ニュージーランド北島の北部にある都市である。人口51,900人(2010年)で、ノースランド地方の中心都市である。 商業港であるが、温暖な気候と美しい自然からリゾート地・保養地としても知られ、ゴルフやフィールドホッケーの拠点として有名である。
■カイタイア
(Kaitaia)は、ニュージーランド北島ノースランド地方に位置する町であり、国内最北端に位置する町である。1100年代にマオリ族の部族が現在のノースランド地方に入植し海産物、鳥類などを狩猟し生活を始める。部族は石などを材料に工芸品を制作し、部族の工芸品はニュージーランド全土へ行き渡る。1700年代後半にヨーロッパからの調査船が来航し、1800年代初頭に亜麻を収穫するためヨーロッパ人が入植する。
■ケリケリ
(Kerikeri)は、ニュージーランド北島の北部にある町。温暖な気候と美しい自然からリゾート地・保養地としても知られ、セーリングやフィッシングの拠点として有名である。
■タウランガ
(Tauranga)は、ニュージーランド北島の北東部にある都市。商業港であるが、温暖な気候と美しい自然からリゾート地・保養地としても知られ、マリンスポーツやフライ・フィッシングの拠点として有名である。
■ギズボーン
Gisborne、は、ニュージーランド北島の北東部にある都市。人口34,000人(2010年)。商業港であるが、温暖な気候と美しい自然からリゾート地・保養地としても知られ、サッカーやクリケットの拠点として有名である。
■ネーピア
Napier、は、ニュージーランドの主な都市である。マオリ名はAhuriri。北島の東岸にあるホークスベイ地方に位置し、港町である。首都ウェリントンから北へ車で4時間くらい。人口は約57,000人。
■ヘイスティングズ
Hastings、は、ニュージーランドの主な都市である。北島の東岸にあるホークスベイ地方に位置し。首都ウェリントンから北へ車で4時間くらい。人口は約65,700人。ヘイスティングズはニュージーランド有数のリンゴ、西洋梨、ワイン用ブドウの産地でもある。
■ニュープリマス
New Plymouth、首都ウェリントンから約145キロ北に位置する学生の街でもある。タラナキ地方の中心の都市である。ニュージーランドでニュージーランドで12番目の人口をもつ市である。 市街にニュープリマス空港がある。
■ネルソン
Nelson、は、ニュージーランド南島北東部にある都市。人口は、59,800人(2010年度ニュージーランド統計局人口統計より)。1100年代にマオリ族の部族が現在のネルソン地方に入植し海産物、鳥類などを狩猟し生活を始める。部族は石などを材料に工芸品を制作し、部族の工芸品はニュージーランド全土へ行き渡る。
■グレイマウス
Greymouth、はニュージーランド、南島のウェストコースト地方にある町である。南島の北海岸、グレイ川の河口に位置する。リーフトン(Reefton)が近くにある。2010年の統計では人口10,000人。
■ハンマースプリングス
(Hanmer Springs)は、ニュージーランド南島にある、カンタベリー地区の都市である。ハンマースプリングという都市名は、19世紀にイギリスからの移民が土地を開発する際に温泉(hot spring)を発見し、まるで「ハンマーで(土地を)叩けば温泉(hot spring)が湧き出る」ように、この土地が多量の温泉を持っていることから由来する。
■カイコウラ
Kaikoura)は、ニュージーランド南島・カンタベリー地区北東部、東海岸に面したカイコウラ半島に位置する港町、漁村。ニュージーランド国内ではホエールウオッチングを体感できる観光地として有名な町である。
■アカロア
Akaroaは、ニュージーランド南島バンクス半島に位置する町。マオリ語で“長い港”と意味する。1840年代にフランスから捕鯨を目的とする移民が移住し、ニュージーランドで2番目に大きな捕鯨拠点となる。現在でもフランス色を色濃く残す町として存在する。
■ダニーデン
Dunedin,は、ニュージーランド南島オタゴ地方に所在する街。人口は118,683人(2006年)。人口ではニュージーランドで5番目、南島で2番目の大きさ。オタゴ大学のある街として学園都市の機能を持つ。
■ワナカ
(Wanaka)は、ニュージーランドの南島、オタゴ地方にある町。ワナカ湖の南端、クルーサ川の流れ出し近くに位置する。マウント・アスパイアリング国立公園へ向かう拠点ともなる町である。
■トケラウ
(Tokelau; トケラウ語で「北風」の意) は南太平洋にあるニュージーランド領の島嶼群。旧称はユニオン諸島(英: Union Islands)。アタフ島、ヌクノノ島、ファカオフォ島の三つの環礁からなる。トケラウには空港がなく三つの環礁への交通手段はカタマラン(双胴船)連絡便で行くしかない。そのほかには月に1度の貨物船がトケラウに寄るぐらいである。
■国名
正式名称は英語で New Zealand(ニュージーランド)、及びマオリ語で Aotearoa(アオテアロア)。略称は、NZ。ew Zealand という国名の由来は、歴史の項を参照。マオリ語のアオテアロアは、「白く長い雲(のたなびく地)」という意味(“ao”=「雲」、“tea”=「白」、“roa”=「長い」)。
1.面積:27万534平方キロメートル(日本の約4分の3)
2.人口:約437万人(2010年7月末、NZ統計局推計)
3.首都:ウェリントン(20万人、2009年6月末、NZ統計局推計)
4.民族:欧州系(67.6%)、マオリ系(14.6%)、太平洋島嶼国系(6.9%)、アジア系(9.2%)、その他(12%)(2006年国勢調査)
5.言語:英語、マオリ語、手話(2006年より)
6.宗教:55.6%がキリスト教で、宗派別では英国国教会が約14%を占め、以下カトリック、長老会、メソディストの順となっている(2006年 国勢調査)
1642年 タスマン(オランダ人探険家)により発見される。
1769年 クック(英国人探険家)南北両島を探検。
1840年 英国代表と先住民マオリの伝統的首長との間でワイタンギ条約署名(これにより英国はNZを自国の植民地とした)。
1907年 英国自治領となる。
1947年 英国のウェストミンスター法受諾(英国議会から独立した立法機能取得)
■主要産業:1次産品輸出に依存する経済であり、貿易依存度が高い。生産性と国際競争力を有する1次産品は輸出の6〜7割程度を占めており、酪農製品、肉類、林産品、水産物が主力となっている。最近ではバイオテクノロジーや映画製作等にも力を入れている。
■主要貿易品目(1)NZからの輸出 酪農製品(23.9%)、食肉(11.7%)、木材(6.8%)(2)NZへの輸入 石油・鉱物燃料(15.3%)、機械類(12.3%)、車両(10.1%)
■ニュージーランド・ドル
(New Zealand dollar)は、ニュージーランドの他、クック諸島、トケラウ、ニウエ、ピトケアン諸島で用いられる通貨である。1967年7月に旧ニュージーランド・ポンドに代わり登場した。NZD、NZ$などとも略される。愛称はキーウィドル。紙幣・硬貨はニュージーランド準備銀行が発行する。
■ニュージーランド国王
ニュージーランドの君主の称号(君主号)である。ニュージーランドの儀礼的な国家元首であり、2009年現在、イギリス女王でもあるエリザベス2世がその地位にある。通常はニュージーランド総督がその業務を代行し、エリザベス2世はニュージーランド訪問時にのみニュージーランド女王として振舞う。
■ニュージーランドの総督
The Governor-General of New Zealand、は、ニュージーランドの総督。ニュージーランドにて国家元首であるニュージーランド国王(イギリス国王)の代理を務める人物。1841年にウィリアム・ホブソンが副王として任命されたことが始まりであり、1917年以降は現在の職名を採用している。
■イギリス連邦
Commonwealth of Nations、は、かつてのイギリス帝国(大英帝国)がその前身となって発足し、イギリスとその植民地であった独立の主権国家から成る、緩やかな国家連合(集合体)である。英連邦(えいれんぽう)、コモンウェルス(the Commonwealth)ともいう。
■ワイタンギ条約
Treaty of Waitangi, マオリ語: Te Tiriti o Waitangiとは1840年2月6日、ニュージーランド北島ワイタンギにおいて、当時武力衝突が絶えなかった先住民族マオリ族とイギリス王権との間で締結された条約のこと。
■オークランド
Auckland、マオリ語:Tamaki-makau-rauは、ニュージーランド北島北部に位置するニュージーランド最大の都市。オセアニア有数の世界都市でありポリネシア地域最大の都市でもある(第二位はホノルル)。都会でありながら周辺に変化に富む自然環境を持っているのが特徴的な街である。市内の人口は41万7000人、都市的地域人口は124万7000人(以上2005年)。かつてニュージーランドの首都であった歴史を持つ。
■ワイタケレ
(Waitakere)は、ニュージーランド北島にある都市。人口は、208,100人(2010年6月)。ニュージーランドで5番目の人口を有する都市である。ニュージーランド最大の都市オークランドの西に位置する。サッカークラブ「ワイタケレ・ユナイテッド」の本拠地。
■クライストチャーチ
Christchurch、は、ニュージーランド南島中部、カンタベリー平野東海岸側に位置する都市である。人口は、376,700人(2010年)。ニュージーランド内で2番目、南島では最大の人口を有する。カンタベリー平野の東端に位置し、北には北カンタベリー最大の川であるワイマカリリ川が流れる。東側は太平洋に接するペガサス湾が位置する。
■インバーカーギル
Invercargill、は、ニュージーランド南島サウスランド平野に位置する町であり、国内最南端に位置する町である。1100年代にマオリ族の部族が現在のサウスランド地方に入植し海産物、鳥類などを狩猟し生活を始める。部族は石などを材料に工芸品を制作し、部族の工芸品はニュージーランド全土へ行き渡る。
■ハミルトン
Hamilton、は、ニュージーランド北島北中央部ワイカト地方の中心となる市。2005年現在の都市圏人口は約18万5千人である。ニュージーランドの都市の中で第4位である。現在のハミルトンがあった場所は、元はマオリ(ニュージーランドの先住民)の村々があった場所であった。イギリス人がその地に到着してから、1864年のニュージーランド土地戦争で死亡したチャールズ・フェイン・ハミルトン大尉の名前を取ってハミルトンと名づけた。
■パーマストンノース
Palmerston North、は、ニュージーランド北島にある都市。日本ではパーマストン・ノースとも表記される。首都ウェリントンから約200キロ北に位置する学生の街でもある。マナワツ・ワンガヌイ地方の中心の都市である。ニュージーランドで11番目に大きい面積で、7番目の人口をもつ市である。人口の多くは、マッセー大学、UCOLもしくは、インターナショナル・パシフィック大学の学生が大きな割合を占めている。
■タウポ
Taupo-nui-a-Tiaは、ニュージーランド北島中部にある都市。オークランドから約278キロ南に位置し、ワイカト地方の都市である。タウポは、ニュージーランド最大の湖であるタウポ湖北東岸に位置する。タウポ湖からは、ニュージーランド最大の川であるワイカト川が北へ向かって流れ出し、タウポ北郊には、ニュージーランドで最も観光客が集まるといわれるフカ・フォールがある。
■ブレナム
(英: Blenheim、マオリ語: Waiharakeke)は、ニュージーランド南島北東部にある都市。人口は、30,200人(2010年度ニュージーランド統計局人口統計より)。首都ウェリントンから約120キロ北に位置し、マールボロ地方の中心の都市である。
■ティマルー
(英: Timaru、マオリ語: Te Maru)は、ニュージーランド南島カンタベリー平野に位置する町である。人口は、27,200人(2006年度ニュージーランド統計局人口統計より)。「ティマルー」とはマオリ語で「避難所の場所」(Place of Shelter)を意味し、1100年代にマオリ族の部族が現在のカンタベリー地方に入植し海産物、鳥類などを狩猟し生活を始める。部族は石などを材料に工芸品を制作し、部族の工芸品はニュージーランド全土へ行き渡る。
■ノースランド地方
Northland Region、マオリ語: Te Tai-tokerau、Te Hiku-o-te-Ika、「魚の物語」の意)は、ニュージーランドの北島最北端の地方で、その地方内の地区の名称でもある。地方の中心都市はファンガレイである。
■オークランド地方
Auckland Regionニュージーランドの北島の北西部にある。2010年11月1日に成立され、オークランドを中心し、周辺のマヌカウ、ノースショア、ワイタケレ、パパクラ地区、ロドニー地区、フランクリン地区を統合したスーパーシティーである。
人口は約140万で、ニュージーランドの3割以上人口を占める、オセアニア最大の都市となった。
■ギズボーン地方
1769年10月8日に、ジェームズ・クックとエンデバーがニュージーランド初上陸した地として伝えられ、渚(なぎさ)にはクック上陸の記念碑が建てられている。国際日付変更線に最も近い町であることから、ニュージーランドで最も早く目覚める町でもある。
■タラナキ地方
(英: Taranaki Region、マオリ語: Taranaki)は、ニュージーランドの北島西海岸に位置する地方。中心都市はニュープリマス。タラナキ山は活火山であり、過去に8度の噴火を経験しているが、1755年の噴火を最後に現在は休火山である。現在もタラナキ山はマオリ族の聖地として崇められる。
■マナワツ・ワンガヌイ地方
Manawatu-Wanganui Region)は、ニュージーランドの北島にある地方。マナワトゥ・ワンガヌイとも表記される。周辺面積は22,206km2で、周辺人口は229,200人(2008年)。中心都市はパーマストンノース、ワンガヌイ。古くからマオリ族の歴史において重要地として存在し、現在も多くのマオリ族出身者が暮らす土地である。
■オーストラリア・ニュージーランド軍団
(Australian and New Zealand Army Corps) は第一次世界大戦において、オーストラリアおよびニュージーランド出身の志願兵により組織された軍団。一般的にはアンザック (ANZAC) とのアクロニムで言及される。ANZACは、後にオーストラリアおよびニュージーランド合同の軍事組織を意味する語にも発展した。ガリポリの戦い、中東戦線、西部戦線において英軍の指揮下に入り戦った。
■ロジャーノミクス
Rogernomicsは、1980年代にニュージーランドで推し進められた経済政策およびその名称。1984年に発足したデビッド・ロンギ政権で財務大臣を務めたロジャー・ダグラスを中心に指揮した経済政策。ダグラスの名をとり“ロジャーノミクス”と命名された。アメリカ合衆国のレーガノミクス、イギリスのサッチャリズムと並ぶ20世紀の代表的な経済政策である。
■福祉国家論
Welfare State)は、国家の機能を安全保障や治安維持などに限定(夜警国家)するのではなく、社会保障制度の整備を通じて国民の生活の安定を図ること。広義には財政政策や雇用政策を含める場合もある。福祉国家思想そのものは18世紀のイギリスや、ドイツ絶対主義国家のなかで形成されたものであり、自由主義に立脚する論としてはジョン・スチュアート・ミルやトーマス・ヒル・グリーンらによって、絶対主義に立脚する論としてはクリスティアン・ヴォルフにより論じられた。
■ニュージーランド労働党
New Zealand Labour Partyは、ニュージーランドの中道左派、社会民主主義政党。社会主義インターナショナル加盟。ニュージーランド国民党とともにニュージーランドの2大政党の一翼を担っている。2008年11月以来の党首はフィル・ゴフ。
■ニュージーランド国民党
New Zealand National Partyは、ニュージーランドの中道右派の保守主義政党。ニュージーランド労働党と並んでニュージーランドの二大政党の一つ。国際民主同盟に加盟している。
■ニュージーランド・ファースト党
New Zealand First、は、保守主義、ポピュリズム、ナショナリズムを政治理念とするニュージーランドの政党。元ニュージーランド国民党所属のウインストン・ピータースが離党し1993年に結成。現在も党首はウインストン・ピータースが務める。ニュージーランド第一党とも。
■緑の党
緑の党 (Green Party of Aotearoa New Zealand)はニュージーランドの政治政党である。同党は、環境問題や国民生活に関する諸問題のほか、反米、反共産主義、国連指導主義を主張し、ニュージーランド労働党とコネクションを持つ左翼的政治政党である。
■ニュージーランド映画
ニュージーランドで初めて映画が上映されたのは、1896年10月13日、オークランドのオペラハウスでのことである。初めてカラー作品は1911年のクリスマス・イブで上映された。『ロード・オブ・ザ・リング』の成功により、多くのハリウッド映画がニュージーランドで製作されるようになった。
■ラッセル・クロウ
Russell Ira Crowe, 1964年4月7日 - は、ニュージーランド出身の俳優。ニュージーランド・ウェリントン出身。ノルウェー、アイルランド、スコットランド、ウェールズの血を引く。両親が映画の撮影現場のケータリング業を営んでおり、4歳の時にオーストラリアに移住。6歳の時にドラマに出演するチャンスを掴み、何本かのオーストラリアのテレビに出演。
■ジェーン・カンピオン
Jane Campion、1954年4月30日 - は、ニュージーランド出身の映画監督、脚本家。世界的に数少ない映画界で成功した女性映画監督。ニュージーランドの首都ウェリントンに生まれオーストラリアシドニー育ち。父は舞台監督、母は舞台俳優という演劇一家に育つ。
■ピーター・ジャクソン
Sir Peter Jackson, KNZM、1961年10月31日 - は、ニュージーランド出身の映画監督、映画プロデューサー、脚本家。ウェリントン郊外、プケルア・ベイ生まれ。両親はイングランドからの移民[1][2]。レイ・ハリーハウゼンの作品とテレビシリーズ『サンダーバード』の大ファン。9歳のときにテレビで見た『キング・コング』に感動し、友人から貰った8mmカメラを使い短編映画を撮り始める。映画制作の専門教育は1度も受けておらず、新聞社に勤務しながら友人たちと短編映画の制作を始める。
■キリ・テ・カナワ
Dame Kiri Janette Te Kanawa, ONZ, AC, DBE, 1944年3月6日 - は、ニュージーランド出身のオペラ歌手、声楽家。ギズボーン生まれ。誕生名はクレア・メアリー・テリサ・ローストロン(Claire Mary Teresa Rawstron)で、ヨーロッパ人とマオリ族の血を引いているが、生みの親は不明である。1968年の『魔笛』(サドラーズウェルズ劇場)でデビュー。1969年のカムデン音楽祭でロッシーニの『湖上の美人』を歌い劇場デビューする。1971年の『フィガロの結婚』の伯爵夫人役にて成功をおさめ、以後、サンフランシスコ歌劇場、メトロポリタン歌劇場、スカラ座に出演。
■ローズマリー・バンクス
Rosemary Banks, 1951年 - は、ニュージーランドの外交官。クライストチャーチ出身。カンタベリー大学で文学修士号(ロシア語専攻)を取得後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで理学修士号を取得。同校卒業後、外務省に入省。駐オーストラリア大使、駐ソロモン諸島大使などを歴任。2005年6月8日より国際連合ニュージーランド代表部特命全権大使(国連大使)。2009年に退任。
■アーネスト・ラザフォード
Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson (初代ネルソンのラザフォード男爵)、1871年8月30日 − 1937年10月19日)はニュージーランド出身のイギリスで活躍した物理学者、化学者。マイケル・ファラデーと並び称される実験物理学の大家である。α線とβ線の発見、ラザフォード散乱による原子核の発見、原子核の人工変換などの業績により「原子物理学(核物理学)の父」と呼ばれる。
■ベアトリス・ティンズリー
Beatrice Muriel Hill Tinsley, 1941年1月27日 - 1981年3月23日)は、アメリカ合衆国で活躍した女性天文学者、宇宙物理学者。40歳で夭折し、父親によってその生涯は『ある女性天文学者の生涯―私の娘ベアトリス・ティンズリーの手紙』(原題"My Daughter Beatrice : A Personal Memoir of Dr.Beatrice Tinsley, Astronomer")にまとめられた。
■マーガレット・マーヒー
Margaret Mahy,ONZ,1936年3月21日 - は、ニュージーランドのファンタジー作家、児童文学作家。ニュージーランド北島のワカタネ生まれ。メイヒー、マヘイの表記もあり。
■ナイオ・マーシュ
Dame Edith Ngaio Marsh、DBE、1895年4月23日 - 1982年2月18日は、ニュージーランドクライストチャーチ出身の女性劇作家、推理作家、演出家。ナイオという名はマオリ語で“水の反射”を意味する。父・エドワードはパン職人。母方の祖父はヨーロッパからニュージーランドへの初期開拓民の一人であった。父と母は演劇を通して結婚した演劇一家である。作家業以上に演劇に力を注ぎ、ラジオ・テレビ向け脚本の執筆、ミュージカルの脚本・演出を手がけ、戯曲を7本執筆した。1942年には『ハムレット』の現代劇をカンタベリー大学ドラマ協会で演出。マーシュが演出を手がけた1942年から1969年の間はカンタベリー大学ドラマ協会の黄金期と称され28作品で演出を手がけた。
■ダグラス・リルバーン
Douglas Gordon Lilburn, ONZ, 1915年11月2日 - 2001年6月6日は、ニュージーランド出身の作曲家。ニュージーランド北島ドライスデールの農場に生まれる。クライストチャーチのカンタベリー・カレッジ(現在のカンタベリー大学)にて音楽の勉強をし、1936年にはパーシー・グレインジャーが創設した作曲賞を受賞した。その後ロンドンの王立音楽大学に留学し、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズに師事した。1940年に帰国し、ヴィクトリア大学ウェリントンの教授として、ニュージーランド音楽の発展に貢献した。
■クリフ・カーティス
(Cliff Curtis, 1968年7月27日 - )は、ニュージーランドの俳優。ロトルア出身。マオリ族出身である。ニュージーランドのドラマスクールで学んだ後、スイスでも学ぶ。ニュージーランドに戻り、1993年から映画・テレビに出始め、ジェーン・カンピオンやリー・タマホリ監督作品にも出演。1998年からはハリウッド映画にも多く出演している。また、2004年にはプロダクション・カンパニーを興し、プロデュースにも乗り出している。
■アベル・タスマン
(Abel Janszoon Tasman、1603年 - 1659年10月10日)はオランダの探検家。特にオランダ東インド会社の元で行った1642年と1644年の航海が有名。 1643年には現在のタスマニア島とニュージーランド、フィジー等を発見した。11月24日にタスマニアを発見する。 最初それをオランダ東インド会社総督の名前Antonie van Diemenにちなんで「Van Diemen's Land(ファンディーメンズランド)」と命名したが、後にイギリスの移住民によってタスマニア島と改名された。その後、さらに東に航行してニュージーランドを発見。彼は最初それが南米大陸の陸続きの先端だと考え、それを「Staten Landt」と命名した。
■ヘレン・クラーク
(Helen Elizabeth Clark、ONZ、1950年2月26日 - は、ニュージーランドの政治家。第37代ニュージーランド首相。国際連合開発計画(UNDP)総裁。1950年オークランド郊外のワイカト郡ハミルトン生まれ。父は農夫、母は学校教師。オークランド大学で政治学を学び修士号を取得。1973年から1981年までオークランド大学助手、講師を務めた。この間、1971年にニュージーランド労働党に入党している。
■ヘイリー・ウェステンラ
(Hayley Westenra 、1987年4月10日 - は、ニュージーランドクライストチャーチ出身の歌手である。アイルランド系ニュージーランド人。日本ではヘイリーの名義で活動している。なお、ヘイリーは米語読みであり、ニュージーランドでは、ハイリーに近い発音である[1]。祖母は歌手、母方の祖父はピアニストという音楽好きの一家に育った。6歳の時に学校のクリスマス会で歌を歌ったことから始まった[2]。彼女が絶対音感の持ち主であることに気づいた教師に薦められヴァイオリンやピアノ、リコーダーを習い始めた。
■ウイリアム・ヘイワード・ピカリング
(Dr William Hayward Pickering,ONZ,KBE,1910年12月24日 - 2004年3月15日)は、ニュージーランド出身のロケット科学者。宇宙開発研究の第一人者。ニュージーランドのウェリントン生まれ。6歳で母親の死去に伴ない祖父とマールボロのハブロックで暮らす。ウェリントン・カレッジの寄宿寮で暮らし、クライストチャーチのカンタベリー・カレッジ(現在のカンタベリー大学)へ進学する。カリフォルニア工科大学で電気工学を教え、第二次世界大戦中にジェット推進研究所(JPL)に加わり、1954年からJPLディレクターを務める。エクスプローラー1号の衛星本体製作に参加し、組み立てグループの総指揮をとる。
■マイケル・ジョーンズ
Michael Niko Jones, 1965年4月8日 - は、ニュージーランド・オークランド出身の元ラグビー選手。ラグビー指導者。ポジションは、フランカー、ナンバー8。愛称は「アイスマン」。卓越したラグビー技術と恵まれた身体能力からオープンサイドフランカーとして活躍した選手。スーパー12(現在のスーパー14)オークランド・ブルース(現在のブルース)、オークランド州代表で選手生活を過ごす。冷静な戦況判断、集中力、卓越した技術、攻守に渡るチームへの貢献、メディアに対する紳士的な姿は、元オールブラックス・ヘッドコーチジョン・ハートに“ラグビー選手として完璧”と言わしめた。
■サム・ニール
(Sam Neill、1947年9月14日 - )は、北アイルランド生まれのニュージーランドの映画俳優。北アイルランドのオマー生まれ。幼少期にニュージーランドへ移住する。クライストチャーチの名門校クライスト・カレッジを卒業後、カンタベリー大学にて英文学を専攻する。同時期に演劇と出会い、カンタベリー大学を中途退学、ウェリントンへ移りヴィクトリア大学ウェリントンを卒業する。代表作は『ピアノ・レッスン』、『ジュラシック・パーク』など。
■マーク・イングリス
Mark Joseph Inglis、ONZM、1959年9月27日 - は、ニュージーランド出身の登山家、研究者、ワイン醸造家、演説家。ハンマースプリングス生まれ。リンカーン大学にて生化学を専攻。同大学にて学士号を取得後、白血病の研究を行う。1982年11月、アオラキ/マウント・クック国立公園のクック山で、猛吹雪の為に Philip Doole と共に氷窟に14日間立ち往生、両者の両足は凍傷、救助後にイングリスの両足は膝から下を切断。2000年、シドニーパラリンピック銀メダリスト2002年1月7日、クック山に両足義足で再挑戦、登頂 ; No Mean Feat: The Mark Inglis Story (映像ドキュメンタリー)
■ショーン・マークス
(Sean Andrew Marks, 1975年8月23日 - )は、ニュージーランドオークランド出身のプロバスケットボール選手。NBAのニューオーリンズ・ホーネッツに所属している。ポジションはパワーフォワード、センター。身長208cm、体重114kg。ニュージーランド人史上初のNBAプレイヤー。高校時代までオークランドで暮らした後、1995年にアメリカ合衆国のカリフォルニア大学バークレー校に入学し、政治学を専攻した。大学には4年間在籍し、1998年のNBAドラフトではニューヨーク・ニックスより全体44位指名を受けた。その後、トロント・ラプターズへトレードされてプロキャリアがスタートした。
■ピーター・ジャクソン
(Sir Peter Jackson, KNZM、1961年10月31日 - )は、ニュージーランド出身の映画監督、映画プロデューサー、脚本家。『ロード・オブ・ザ・リング』三部作で数々の記録を打ち立て歴史的大成功を収め世界的な映画作家となった。レイ・ハリーハウゼン作品とテレビシリーズ『サンダーバード』、エルジェのバンデシネ作品「タンタンの冒険」の大ファンとして少年時代を過ごす。学生映画やアマチュア映像展にいくつかの短編を出品するも、一度も評価を得られなかった。
映画制作の専門教育は1度も受けておらず、新聞社に勤務しながら、同じように郵便局や役所で働く友人たちとスプラッター映画の自主制作を始める。ジャクソン自身が監督・脚本・主演・特撮まで手掛け、4年の歳月をかけて完成した『バッド・テイスト』が1987年にカンヌ国際映画祭で評価され、一躍カルト映画の監督として世界的に名が知れるようになる。