パナマ Panama
北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境に位置する共和制国家である。北西にコスタリカと、南東にコロンビアに接し、北はカリブ海に、南は太平洋に面する。首都はパナマ市。ヨーロッパ人の来航以前の現在のパナマの地には、主にチブチャ族をはじめとする人々が居住していた。紀元前2900年から同1300年に刻線文が特徴のモナグリーヨ(Monagrillo)土器を用いた人々が、主としてパナマ中央部、アスエロ半島北方のパリタ湾岸に貝塚、内陸では岩陰や洞窟で生活を営んでいたことが知られている。
■パナマ市
Panamaはパナマ共和国の首都。パナマ市は、1519年8月15日にペドロ・アリアス・デ・アビラ(スペイン語:Pedro Arias de Avila)により建設されたことから始まる。昔も今もこの都市は、地峡を利用した国際貿易と金融業で繁栄している。かつては、南米ペルーへの探検と、黄金や銀をスペインへ運ぶための拠点であった。
■コロン
中米のパナマ中部にある都市。人口14万人。パナマ運河のカリブ海側に位置し、首都パナマシティとは鉄道、道路で結ばれている。地勢を生かして開設されたフリーゾーン(ソナ・リブレ スペイン語 zona libre)が産業の中心となっている。同時に周辺地域からの貧困層の流入をも招き、治安が極度に悪化。中米一危険な都市と言われている。
■トキュメン国際空港
Aeropuerto Internacional de Tocumenは、パナマのパナマシティ東側郊外にある国際空港。コパ航空の本拠地である。
外務省:パナマ共和国
在パナマ日本国大使館
■ボカス・デル・トーロ県
(Provincia de Bocas del Toro)は、パナマ北西部の県。県都はコロン島(Isla Colon)にあるボカス・デル・トーロ。2000年の人口は約9万人。ボカス・デル・トーロ列島も同県に属している。西側はコスタリカと国境を接している。
■チリキ県
(Provincia de Chiriqui)は、パナマ西部の県。県都はダビッド。2007年の人口は約41万人。パナマで最も農業を発展している県である。西側の県境は、コスタリカとの国境となっており、南側は太平洋のチリキー湾に面している。産業は農業と畜産業が中心であるが、近年は観光業も盛んである。
■コクレ県
(Provincia de Cocle)は、パナマ中南部の県。県都はペノノメ(Penonomé)。1855年9月12日に創設され、1985年10月20日に県となった。サトウキビやトマトを主要作物とする農業地帯である。サンタ・クラーラ、ファラジョン(Farallon)、リオ・アト(Rio Hato)などの有名なビーチを有し、近年は観光地化が進んでいる。
■コロン県
Provincia de Colonは、パナマ北部の県。県都はコロン。パナマにおいてコロン県は、商業的に重要な場所であるが、サンゴ礁や熱帯雨林などの観光用の天然資源にも恵まれている。
■ダリエン県
Provincia de Darienは、パナマ東部の県。同国では面積が最大の県である。高温多湿で熱帯雨林に覆われ、人口はまばらである。現在、ダリエン県の県庁はラ・パルマであり、トゥイラ川(Tuira River)がサン・ミゲル湾(Bay of San Miguel)に注ぐ場所に位置している。
■ベラグアス県
(Provincia de Veraguas)は、パナマ中部にある県。県都はサンティアーゴ・デ・ベラグアス(Santiago de Veraguas)。人口は約22万人。パナマの県でカリブ海と太平洋の両方に面している唯一の県である。
1.面積:75,517平方キロメートル(北海道よりやや小さい)
2.人口:332万人(2010年 会計検査院)
3.首都:パナマシティー
4.民族:混血70%、アフリカ系14%、ヨーロッパ系9%、先住民7%
5.言語:スペイン語
6.宗教:カトリック
1501年 スペイン人バスティーダ、パナマ地峡発見
1821年 大コロンビアの一州としてスペインより独立
1903年 コロンビアより分離独立
1914年 米国、パナマ運河完成
1968年 トリホス将軍、クーデターにより実権掌握
1978年 ロヨ大統領就任、民政移管
1983年 ノリエガ将軍が国軍最高司令官に就任
1989年 米国の軍事侵攻、ノリエガ将軍逮捕、エンダラ政権発足
1999年 モスコソ大統領就任、パナマ運河返還、米軍完全撤退
2004年 トリホス大統領就任(故トリホス将軍の実息)
2009年 マルティネリ大統領就任
■主要産業:第3次産業(GDPの70%、労働人口の65%を占める)
■主要貿易品目(1)輸出 バナナ、メロン、魚肉、スイカ、キハダマグロ、パイナップル(2)輸入 電気製品・部品、原油、食料品、輸送機器、化学製品
■政治
大統領を元首とする共和制国家である。首相は設置されていない。大統領は行政府の長であり、任期は5年。連続再選は認められていない。現行憲法は1972年憲法であり、1983年に大きな改正を経て現在に至っている。立法権は一院制の議会に属しており、定数は78名、任期は5年。司法権は最高裁判所に属している。
■民主革命党
Partido Revolucionario Democrático 略称PRDは、パナマで1979年に結成された民族的な左派政党である。当時パナマを支配していたオマル・トリホス将軍の与党として結成された。社会主義インターナショナルに加盟している。
■国民
住民はヨーロッパ人とインディオ(インディヘナ)との混血であるメスティーソが60%、アフリカ系パナマ人が14%、ヨーロッパ系パナマ人が10%、先住民(アジア系モンゴロイド)が10%、その他が1%である。パナマにはインカ文明、アステカ文明、マヤ文明のような高度に発達した先コロンブス期の文明は存在しなかったが、それでもインディオが国民の内約10%を占めるのはメキシコの国民に占めるインディオ比と同水準であり、ラテンアメリカ域内では先住民系の人口の占める比率が大きい国となっている。
■言語
スペイン語が公用語であり、大多数の国民が母語としている。その他にもアフロ・アンティーリャスなどにはジャマイカ英語をはじめとする英語を母語とする人々が存在する他、クナ語など先住民の言語を母語とする人々も存在する。英語はまた、都市部の高学歴層や観光地で使用される。
■宗教
詳細は「パナマの宗教」および「:en:Religion in Panama」を参照
宗教はローマ・カトリックが85%、プロテスタントが13%、その他(仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、バハーイー教など)が2%である。
■教育
代表的な高等教育機関としては、パナマ大学(1935年)、パナマ工科大学(1981年)などが挙げられる。歴史的にパナマのエリートは子弟をアメリカ合衆国や西ヨーロッパ諸国の学校で学ばせたため、パナマ国内の高等教育機関は中間層の子弟のための機関となり、それゆえにエリート層と対立するパナマの学生は1964年1月の国旗事件など、高揚するパナマ・ナショナリズムの担い手となった。大学進学率は中米諸国の中では最も高い。
■パナマ地峡鉄道
パナマ共和国のパナマ市とコロン市を結ぶ全長48マイル(77km)の鉄道。同国唯一の鉄道かつ、世界最短の大陸横断鉄道である。パナマ運河の開業前、大西洋から太平洋に出るには南アメリカのマゼラン海峡を航路で経由する遠回りを強いられたが、この鉄道が1855年に開業したことで、航路の間に鉄道を挟む形でショートカットが可能になった。
■パナマ運河
Panama Canalは、パナマ共和国のパナマ地峡を開削して太平洋とカリブ海を結んでいる閘門式運河で、全長約80km、最小幅91m、最大幅200m、深さは一番浅い場所で12.5m。マゼラン海峡やドレーク海峡を回り込まずにアメリカ大陸東海岸と西海岸を海運で行き来できる。海抜26mのガトゥン湖が存在するなど運河中央部の海抜が高いため、閘門(こうもん)を採用して船の水位を上下させて通過させている。三つの人造湖と三つの水門を内に含む。
■ヌエバ・グラナダ共和国
Republica de la Nueva Granadaは、主に現在のコロンビアとパナマ、そして現在のエクアドル、ペルー、ブラジル、コスタ・リカ、ベネズエラ、及びニカラグアの各一部地域から成っていた、中央集権主義の共和国である。同国は、1830年の大コロンビア解体後に建国された。1858年、グラナダ連合の形成により廃止された。
■パナマ侵攻
Invasion of Panamaは、1989年から1990年にかけて、アメリカ合衆国が中央アメリカのパナマに軍事侵攻した事件である。冷戦下において、アメリカの事実上の庇護のもとマヌエル・ノリエガ最高司令官(将軍)の軍事独裁下にあったパナマは、非民主的な政治体制が原因で中南米の中でも孤立していただけでなく、中南米における麻薬ルートの温床となっているとされていた。
■フェルディナンド・マゼラン
Ferdinand Magellan、1480年 - 1521年4月27日は大航海時代のポルトガルの航海者、探検家であり、マゼランが率いた艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げた。・・・そして1520年10月21日、ついに西の海へと抜ける海峡を発見した。これは後にマゼランの名前をとってマゼラン海峡と呼ばれることになる。・・・マゼランの時代の航海は現在の船旅のように快適ではなかった。大航海時代の船旅は、まず食べ物は前述のように航海用ビスケット(堅パン)と塩漬の肉や魚が主であり、他には各種の豆類、干しぶどう、干しイチジク、米、蜂蜜、ナッツ、小麦粉、チーズなどを食していた。
■リカルド・マルティネリ
Ricardo Alberto Martinelli Berrocal、1952年3月11日 - は、パナマの実業家、政治家。現在、同国の第49代大統領を務めている。イタリア人の祖父とスペイン人の祖母を持つ。パナマシティで生まれた。アメリカ、バージニア州スタントンのスタントン軍事学院を修了し、1973年にアーカンソー大学から経営学の学士号を取得。後にINCAEビジネススクールからも経営学の学士号をとっている。
■バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア
(Vasco Núñez de Balboa 1475年-1519年1月21日)は、スペインの探検家・植民地政治家。ヨーロッパ人として初めて太平洋に到達した功績で知られる。先住民の案内でパナマ地峡を横断し、9月25日に隊は海に到達した。バルボアはこの海を「南の海」と命名した。これが後の太平洋である。また、彼の探検によってアメリカ大陸が2つの大海に接する大陸であることが明らかとなった。
■ヘンリー・モーガン
Henry Morgan, 1635年 - 1688年8月25日は、17世紀にカリブ海で活躍したイギリス出身の海賊である。彼は、海賊を引退した後、ジャマイカ島代理総督などの、国家の役職につき、海賊を取り締まる立場になった。・・・1671年、モーガンらはチャグレス川に到着する。出発するとき、食料は途中の村から奪ってくることを想定していたため、ほとんど持っていかなかった。しかし、どの村も住民は食料をもって逃げており、海賊たちは皮袋を食べなければならなかった。しかも、6日目にスペイン兵が現れたうえにインディアンの妨害にもあって、海賊にも死傷者が出た。しかし、幸運にも得られた食料で命をつなぎ、パナマに進撃し、2時間ほどの戦闘で海賊が勝利した。
■フランシス・ドレーク
(Francis Drake, 1543年? - 1596年1月28日) は、南イングランド生まれのイギリスの海賊、私掠船船長、海軍提督。ラテン語名がフランキスクス・ドラコ (Franciscus Draco) 、スペイン語名がフランシスコ・ドラケ (Francisco Draque) であり、ドラコやドラケは悪魔の化身であるドラゴンを指すことから、海賊行為で苦しめられていたスペイン人は彼を「ドラコ」や「エル・ドラケ」と呼ぶようになる。
■シモン・ボリバル
Simon Jose Antonio de la Santisima Trinidad Bolivar y Palacios、1783年7月24日 - 1830年12月17日)は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。ベネズエラのカラカスにアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなってボリバルはその後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。このため、ラテンアメリカでは「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれる。
■フェルディナン・ド・レセップス
Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps、1805年11月19日 - 1894年12月7日は、フランスの外交官、実業家。スエズ運河を建設したことで知られている。1805年、ヴェルサイユで外交官マティユ・ド・レセップスとスペイン人カトリーヌの間に生まれた。叔父のジャン・レセップスは、ラ・ペルーズ伯の探険航海に参加し、その報告書レセップスの旅行日記の著者。晩年はパナマ運河開発に取り組み、81年パナマ運河会社社長に就任。工事困難と経営の乱脈のため世評が悪化し、資金募集に行き詰まった。
■オマル・トリホス
(Omar Efrain Torrijos Herrera, 1929年2月13日 - 1981年7月31日)は、パナマの軍人、政治家。軍事政権を確立し反対派を暴力で徹底的にねじ伏せたが、反米ナショナリストとして民衆から慕われた異色の軍人政治家である。1929年、サンティアゴ (Santiago de Veraguas) の教師の家庭に生まれる。幼少期に母親が米兵にぞんざいに扱われるのを目撃する。エルサルバドル、アメリカ合衆国、ベネズエラの軍人学校で英才教育を受けたのち1952年に国家防衛隊に入隊し、反体制派の弾圧に辣腕を振るうようになった。
■マヌエル・ノリエガ
Manuel Antonio Noriega Moreno, 1934年2月11日 - は、パナマ共和国の軍人、政治家。国家元首、最高司令官(将軍)。1983年、パナマ軍最高司令官に就任。隣国コロンビアの麻薬組織(メデジン・カルテル)と結びつき、パナマからアメリカ合衆国へコカインなどを密輸するルートとして私物化。さらに、反米国家のリビア人(カダフィ政権)やキューバ人に対してアメリカ合衆国の査証やパスポートを闇ルートで転売していた。
■ロベルト・デュラン
(Roberto Duran、男性、1951年6月16日 - )は、パナマのプロボクサー。ニックネームは「石の拳(コブシ) Manos De Pedria, Hands of Stone 」。キャリア初期の野性味溢れるボクシングと後期の技巧派スタイルで50歳になるまで戦い続けた一方、二階級飛び越えればパンチの威力が完全に違い、三階級では挑戦自体が無謀であった世界観を平然と破った怪物ボクサー。その対戦相手は中量級の歴史における最強の王者揃いであり、観戦を渇望した観客たちにより興行やテレビの世界も変革されていった。全時代、全階級(ALL TIME PFP)最強に推す者も多く、デュランは間違いなくモハメド・アリ(カシアス・クレイ)と並ぶ世界を動かした中南米を代表するボクサーである。2006年12月7日、アメリカニューヨーク州カナストータにある「国際ボクシング名誉の殿堂博物館(IBHOF)」に殿堂入りした。2007年6月、「国際ボクシング名誉の殿堂博物館(IBHOF)」のセレモニーに、同じく殿堂入りが決まったリカルド・ロペス、パーネル・ウィテカー、ホセ・スライマンWBC会長らと共に出席した。
■マリアノ・リベラ
(Mariano Rivera, 1969年11月29日 - )は、パナマ出身のプロ野球選手(投手)。MLBニューヨーク・ヤンキース所属。メジャーを代表するクローザーの一人。敬虔なキリスト教徒として知られる。背番号は42。この番号はジャッキー・ロビンソンの栄誉を称えメジャーリーグ全球団共通の永久欠番となっているが、この規則が制定された1997年以前から42番をつけている選手に関しては例外としてつけ続けることが認められている。現役選手の中で、この特例が適用されている選手はリベラのみであり、リベラはメジャーリーグ全球団で最後の背番号42である。パナマ県パナマ市生まれ。父親は漁船の船長をしていたが、暮らしは決して裕福ではなかった。リベラが初めてのグローブを父に買ってもらったのは12歳の時である[2]。少年時代のリベラは友人とサッカーで遊ぶことも多く、野球は遊びとしてとらえており、プロになるという考えはなかった。高校卒業後は、父の船でイワシ漁やエビ漁の手伝いをしながら、アマチュアの野球チームでプレイしていた。