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メキシコ合衆国
United Mexican States
<中南米>

北中アメリカ

■略史
この地域は、紀元前2万年頃の人間が居住した形跡があるといわれ、先古典期中期の紀元前1300年頃、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られる。

先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれたその後も後期マヤおよびアステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めた。

1492年のクリストーバル・コロンによるアメリカ大陸到達後、16世紀初頭の1519年にスペイン人エルナン・コルテス (Hernan Cortes) がメキシコに上陸した。コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して戦闘を行った末に、テノチティトランを征服し、1521年に皇帝クアウテモックを処刑してアステカ帝国を滅ぼした。


■地理
北米大陸の南部に位置し、約197万平方kmの面積(日本の約5倍)を持つ。海岸線の総延長距離は1万3868kmに達する。海外領土は持たないが、領土に含まれる島の面積は5073平方kmに及ぶ。メキシコは高原の国であり、北部は平均1000m前後、中央部では2000m前後である。標高5000mを超える火山も珍しくなく、メキシコ最高峰のピコ・デ・オリサバ山(シトラルテペトル山)の5689m(もしくは5610m)をはじめ、ポポカテペトル山 (5465m、もしくは5452m)、イスタシュワトル山 (5230m) などが連なる。最も頻繁に噴火を起こすのはコリマ山 (4100m) である。


太平洋
世界最大の海洋であり、大西洋やインド洋とともに、三大洋の一つに含まれる。アジア(あるいはユーラシア)、オーストラリア、南極、南北アメリカの各大陸に囲まれ、日本列島も太平洋の周縁部に位置する。面積は約1億5,555万7千平方キロメートルで、全地表の約3分の1にあたる。

カリブ海
Caribbean Sea、は、メキシコ湾の南、大西洋に隣接する水域である。南はベネズエラ、コロンビア、パナマに、西はコスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、グアテマラ、ベリーズ、そしてメキシコのユカタン半島に、北はキューバ、イスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国、ジャマイカ、プエルトリコといった大アンティル諸島に、東は小アンティル諸島に接している。

ユカタン半島
Peninsula de Yucatanは、メキシコ、グアテマラ、ベリーズにまたがり、メキシコ湾とカリブ海との間に突き出ている半島。石灰岩からなる非常に広大な台地であり、カルスト地形が発達している。雨は、土に染み込んで地下水脈を流れ、その一部はセノーテとして湧き出している。地上に川はない。北西端チクシュルーブの地底深くに、恐竜の絶滅ないし中生代の終焉(K-T境界)をもたらしたとされる隕石によるクレーター(チクシュルーブ・クレーター)が沈んでいる。マヤ文明の遺跡が多い。

メキシコ湾
Gulf of Mexico、は北アメリカ大陸南東部とメキシコ北東部に挟まれた湾である。アメリカとキューバの間にあるフロリダ海峡を経て大西洋に通じており、メキシコとキューバの間にあるユカタン海峡を経てカリブ海へと通じている。支湾として北東部にアパラチー湾、南西部にカンペチェ湾などがある。

カンペチェ湾
Bahia de Campecheはメキシコ湾の支湾。メキシコ湾の南西部にあり、同湾の最南部ともなっており、またユカタン半島の西方に位置する。湾の名称は、ユカタン半島の報告者でもあるスペイン人・フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバによって1517年に付けられた。湾内には、1976年に発見されたカンタレル油田があり、これはメキシコにおける石油産出量の6割を占めている大きなものである。

バハ・カリフォルニア半島
Peninsula de Baja California)とはメキシコの西部にある半島。北のティファナから南のサンルカス岬まで長さはおよそ1250 km である。この半島は太平洋とカリフォルニア湾(コルテス海)を隔てている。

テワンテペク地峡
Istmo de Tehuantepec)は、メキシコに位置する地峡であり、メキシコ湾から太平洋までの距離が最も短い場所である。テワンテペク地峡はメキシコの西経94度から96度の部分に位置する。地峡の西側にはベラクルス州とオアハカ州、東側にはタバスコ州とチアパス州がある。

リオ・グランデ川
Rio Grande riverは、アメリカ合衆国のコロラド州から流れ出しメキシコ湾へ注ぐ川である。リオ・グランデ川は高い山地を源流とし、かなりの部分標高の高い場所を流れる。エルパソの地点での標高は1,147mある。ニューメキシコ州ではリオ・グランデ地溝を流れ、エル・パソからは東に砂漠の中を流れる。

ウスマシンタ川
Rio Usumacintaは、グアテマラおよびメキシコを流れる中央アメリカ最大の川である。グアテマラのペテン地方を主な水源とし北に流れ、下流でグリハルバ川に合流する。流路の一部はグアテマラとメキシコの自然国境となっている。河岸にはヤシュチラン、ピエドラス・ネグラスなどのマヤ文明の遺跡が見られる。

スミデロ峡谷
Canon del Sumideroは、メキシコ合衆国チアパス州にある峡谷である。チアパス州の州都であるトゥストラ・グティエレスの北に位置する。峡谷にはグリハルバ川が流れ、水面からの崖の高さは最も高いところで900mに達する。クロコダイルなどの様々な野生動物の住処となっている。

グリハルバ川
Rio Grijalvaは、メキシコの南東部を流れる川である。全長は600km、流域面積は134,400km2である。チアパス高原に源を発し、トゥストラ・グティエレス付近のスミデロ峡谷を流れ、水力発電のために造られたマルパソダムによる人造湖のネサワルコヨトル湖に注ぐ。

ポポカテペトル山
Popocatepetl)はメキシコ・プエブラ州にある火山。標高5,426m。活火山で、2008年現在も活動中。メキシコシティの南東70km、プエブラの西40kmほどにある。ポポカテペトル山腹の16世紀初頭の修道院群は世界遺産に登録されている。

メキシコ高原
メキシコ中央北部の大部分を占めている起伏の激しい台地である。標高は平均で1800メートル(6000フィート)で、総じて北から南に向かって高くなっている。メキシコ高原の東には東シエラマドレ山脈が、西には西シエラマドレ山脈がある。

テスココ湖
スペイン語:Lago de Texcocoは、かってメキシコ中央高原にあった「ひょうたん」型ないしタツノオトシゴのような形状をした南北約65kmにわたる大きな湖であった。現在は、南北20km、東西10数kmが残っている(ただし衛星写真によれば、埋め立ては更に進行し、2007年5月現在、5km×2km程度の長方形の区画を残すのみである)。13世紀頃、テスココ湖の北端には、シャルトカンというトゥラン(都市)をはじめとして数個の小島をもつシャルトカン湖があり、「ひょうたん」のくびれの部分をへて、「本体」の東岸にテスココ、西岸にアスカポツァルコ(後にトラコパン)、東から突き出た半島の先端近くのクルワカン、半島に区切られた南東端のチャルコ湖上の小島に築かれたヒコなどのトゥラン(都市)が繁栄していた。

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テノチティトラン
Tenochtitlanは、アステカの首都。最盛期には人口30万人であったと伝えられる。テスココ湖の島上に建設された。現在のメキシコシティに相当する。テノチティトランはナワトル語で「石のように硬いサボテン」を意味する。16世紀初頭、スペイン人のコンキスタドール、エルナン・コルテスによってアステカが征服されたのち、1520年代に破壊された。コルテスは、植民地「ヌエバ・エスパニョーラ」の首都、現在のメキシコシティを、テノチティトランの廃墟の上に立て、その別名メシコをもって新しい都市の名とした。現在テスココ湖はほとんど埋め立てによって消失している。

ラテンアメリカ
Latin America,は、アングロアメリカに対する概念で、アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて存在する独立国及び非独立地域を指す総称である。多くの地域がスペイン語、ポルトガル語、フランス語などのラテン系言語を公用語として用いており、社会文化もそれに沿ったものであったことから名付けられた。しかし、アメリカ合衆国、カナダにもフランス語やスペイン語を使用する住民が多数存在しており、逆にラテンアメリカにも英語やオランダ語を使用する地域があることから、厳密な区別とはなっていない。


ルチャリブレ
ルチャリブレ(Lucha Libre)は、スペイン語でプロレスリングのことである。特に、メキシカンスタイルのプロレスリングのことをルチャリブレと呼ぶ。日本ではルチャとも俗称される。このページでは、メキシカンスタイルのプロレスリングについて記述する。ルチャリブレはメキシコ合衆国において非常に高い人気を得ている大衆芸能・格闘技で、兼業も含めれば数千人の競技人口を誇り、メキシコを中心に中南米で盛んに興行がおこなわれている。なお、ルチャリブレは自由な戦いという意味である。一部のトップスターは、エストレージャ、スペルエストレージャ(スター、スーパースター)と呼ばれる。マスクマンが多いのも特徴で、アステカなどの文化的な影響から神聖視されており、マスクマンは人前では決してマスクを脱がない。その究極とも言えるのがエル・サントで、死後もマスクを脱がずにそのまま葬儀が行われた。


メスティーソ
Mestizo、は、白人とラテンアメリカの先住民(インディオ)の混血である人々。南米では、エクアドル・ペルー・ボリビアのアンデスの国々では比較的インディオの特徴が強い。これは、スペイン侵略までインカ帝国という強大な国家があり、もともと人口が多かったこと、スペイン人が植民化以前の支配機構をそのまま利用し、その上に乗っかる形で支配したため、長くインディオ社会がそのままの自立性を保っていたことによる。


<歴史>
■先コロンブス期
この地域は、紀元前2万年頃の人間が居住した形跡があるといわれ、先古典期中期の紀元前1300年頃、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られる。先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれたその後も後期マヤおよびアステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めた。

■アステカ帝国
14世紀後半、テスココ湖の西岸にあるアスカポツァルコを首都とするテパネカ王国にテソソモクという英傑があらわれ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモク没後、15世紀前半、テスココ、トラコパンとともに三都市同盟を築き、テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握って周辺諸国を征服し、テノチティトランを中心にアステカ帝国を形成した。

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■スペイン植民地時代
1492年のクリストーバル・コロンによるアメリカ大陸到達後、16世紀初頭の1519年にスペイン人エルナン・コルテス (Herná℃ Corté遠) がメキシコに上陸した。コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して戦闘を行った末に、テノチティトランを征服し、1521年に皇帝クアウテモックを処刑してアステカ帝国を滅ぼした。
■独立と相次ぐ対外戦争
スペインによる支配は300年続いたが、18世紀を迎えるとアメリカ独立戦争やフランス革命、ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。1809年から1810年にかけて、キト、ラパス、サンティアゴ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスとインディアス各地でクリオーリョ達の蜂起が始まる中、メキシコでも 1810年9月15日にミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。

■1821年9月15日
保守派クリオーリョを代表した独立の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデがメキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。1823年には帝政が崩壊して連邦共和国となり、この時に中米連邦が独立した。1835年にはアングロサクソン系入植者が反乱を起こし、1836年にメキシコ領テハスはテキサス共和国として独立した。

■1861年
アメリカの南北戦争勃発とともにフランス第二帝国のナポレオン3世がメキシコ出兵を開始。1863年にはメキシコシティが失陥、フランスの傀儡政権である第二次メキシコ帝国が建国される状況となった。

■ディアスの独裁とメキシコ革命
フアレスは自由主義者としてレフォルマ(改革)を推進するも、1872年に心臓発作で死去した。フアレスの後を継いだテハダ大統領は自由主義政策を進めたが、この時代になると指導力が揺らぐことになった。この隙を突いて1876年に、フランス干渉戦争の英雄ポルフィリオ・ディアスがクーデターを起こし、大統領に就任した。ディアスは30年以上に渡る強権的な独裁体制を敷き、外資が導入されて経済は拡大したものの、非民主的な政体は国内各地に不満を引き起こした。

■フランシスコ・マデーロ
の行動がきっかけになって1910年以降のメキシコ革命が始まった。フランシスコ・マデーロの行動がきっかけになって1910年以降のメキシコ革命が始まった。パンチョ・ビリャ、エミリアーノ・サパタ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンらの率いた革命軍は、路線の違いもありながらも最終的に政府軍を敗北させ、1917年に革命憲法が発布されたことで革命は終息した。

■革命後のメキシコ
1934年に成立したラサロ・カルデナス政権は油田国有化事業や土地改革を行い、国内の経済構造は安定した。その後与党の制度的革命党 (PRI)が第二次世界大戦を挟み、一党独裁の下に国家の開発を進めた。1994年に発効したNAFTAはアメリカ合衆国、カナダとの貿易を拡大する一方で貧富の格差を一時的に拡大し、伝統的な共同体に住むインディオの共有地を解体し、さらにはアメリカ産のトウモロコシに競争で敗北する農民の権利を侵害するものであったため、同年1月1日にマルコス副司令官らの率いるサパティスタ国民解放軍(EZLN)が最貧州のチアパス州から蜂起した。


■現在
その後2000年にPRIは蔓延する汚職や停滞する経済失策の責任、サパティスタ民族解放軍の蜂起などの責任を問われて総選挙で敗退し、国民行動党の勝利によって71年の独裁に終止符が打たれた。しかし現在も強力な政党として大きな影響力を維持し現在にいたる。2010年7月4日、全国32州のうち14州で地方選挙が実施された。2000年まで政権党だった野党の制度的革命党 (PRI) が前進(知事選が実施された12州のうち10州でほぼ当選)した。

■現政権
カルデロン政権は、麻薬カルテルと癒着した警察幹部や州知事すらも逮捕するという強硬姿勢で臨み、軍を導入して麻薬犯罪組織を取り締まっている。これに伴い、カルテルの暴力による死者が激増、2010年には毎年1万5千人以上の死者を出す事態になっている(メキシコ麻薬戦争)。

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メキシコ独立革命
Independencia de Mexico、は、スペイン領植民地であったメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)の独立に向けた長い戦争を指す。1810年9月16日に始まった当初は植民支配者に対する農民反乱として始まったが、最終的には政教分離や自由主義を掲げ独立を望むリベラル派(liberales)と、カトリックおよび君主制の権威の尊重や身分制・集権制の保持を主張し独立を望まなかった保守派(conservadores)が手を組む意外な展開となり、メキシコ独立へと至った。


インディヘニスモ
Indigenismo)は、ペルー先住民(「インディオ」あるいは「インディヘナ」)の擁護と文化的、社会的復権を求める社会運動。19世紀から20世紀にかけてのペルーにおいて、思想や文学に大きな影響を与えたほか、ラテンアメリカの各地域に共通する思想として、メキシコやボリビアへも波及した。


ヌエバ・エスパーニャ
1535年から1821年までの、北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領地を指す名称。ヌエバ・エスパーニャの領域は、当初はパナマ地峡以北の新大陸のスペイン領土すべてを含み、1565年に新たに占領されたフィリピンも管轄下に置かれた。北の境界はブリティッシュコロンビア州とアラスカ州までを主張したが、1819年のアダムズ=オニス条約で再定義された。


テキサス革命
Texas Revolution)とは、1835年10月2日から1836年4月21日にかけて、メキシコの一州だったコアウイラ・イ・テハス州のうち「テハス」(現テキサス州)と呼ばれた部分がメキシコ合衆国 (1824年−1864年)(現メキシコ)からの分離独立を目指した戦争である。 テキサス独立戦争とも言う。


クリオーリョ
"criollo" ”crioulo" という単語は "criar"(育てる)という動詞から派生しており、もともとは「現地で育った」あるいは「元来の土地とは異なる場所で生まれ育った」ことを意味する。したがって、動植物や、言語・料理に関しても、「その土地で生まれた」「その土地固有の」という意味合いで"criollo"という形容詞が付加されることもある(例えば馬のクリオーリョ種)。

 


<世界遺産>

古代都市パレンケと国立公園
1952年6月15日、メキシコの考古学者アルベルト・ルスが『碑文の神殿』の地下室に辿り着き、室内の壁面にはめ込まれていた巨大な石板を取り外したところ、鍾乳洞の垂れ下がる広い洞窟のような部屋がその向こう側に確認された。

メキシコシティ歴史地区とソチミルコ
アステカ王国時代は「テノチティトラン」と呼ばれ、テスココ湖の湖上に築かれた壮麗な都市だった。1519年にスペイン人のエルナン・コルテス (HernaC Cortes) のメキシコ征服により破壊され、湖は埋められてその上に現在のヨーロッパ(スペイン)風の都市が築かれた。

古代都市テオティワカン
メキシコシティ北東約50キロの地点にあり紀元前2世紀から6世紀まで存在した巨大な宗教都市遺跡。テオティワカンとは、「神々の都市」という意味で、これは後にこの地にやってきたアステカ人が命名した。

オアハカ歴史地区とモンテ=アルバンの古代遺跡
盆地の「底面」からの比高差400mにある山の頂上を平らにして築かれたサポテカ文化の中心をなす祭祀センターである。紀元前500年頃から紀元800年頃まで繁栄した。

プエブラ歴史地区
プエブラ (Puebla) はメキシコのプエブラ州の州都である。人口148万5千人(2005年)。「プエブラ歴史地区」は、世界遺産(文化遺産)に登録されている。陶器(タラベラ)の町としても有名である。

古都グアナフアトとその銀鉱群
人口約78,000人(2003年現在)。メキシコでも豊かな銀山に恵まれ、スペイン植民地時代の美しいコロニアル建築で有名である。歴史的な市街地と近辺の銀山はユネスコ世界遺産に登録されている。グアナフアトという地名は先住民族のタラスカ族の言葉、「カエルのいるところ」 (Quanax-juato) が語源である。

古代都市チチェン・イッツァ
ユカタン半島のユカタン州州都メリダの東、約120Kmにある「後古典期マヤ」の遺跡で総面積は約1,5平方マイル。半島のつけ根の密林にあるティカルは「古典期マヤ」の遺跡。マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神。ケツァルコアトルのマヤ語名)を祀るピラミッド。基底55.3m四方、高さ24m(頂上の神殿部分は6m)。通称の「カスティーヨ」はスペイン語で城塞の意。「ククルカンのピラミッド」、「ククルカンの神殿」とも呼ばれる。

モレリア歴史地区
メキシコ独立運動に参加したホセ・マリア・モレーロスの名から採られた。市内には、モレーロスの生家や博物館があり、メキシコ国内から多くの観光客が訪れる。

古代都市エル・タヒン
El Tajinは、古典期後期 (A.D.600-900) から後古典期前期 (A.D.900-1200) まで繁栄した祭祀センターであり、ベラクルス州、パパンテカ山塊 (Sierra Papanteca) の脇、パパントラの町の南西8kmにある、二つの渓谷の間の北緯20°38′35″、西経97°22′39″の地点に位置する。エル・タヒンという名称は、タヒンと呼ばれる12人の老人がこの遺跡に住んでおり、彼らは雷雨の神であるという地元のトトナカ族の神話伝承に由来している。エル・タヒンの存在は、1785年にスペイン人技術者のディエゴ・ルイスによって初めて報告された。

サカテカス歴史地区
標高約 2,250 m の高地に位置する。16世紀にコンキスタドレス(スペインの征服者)によって銀山の開発が行われ、メキシコ有数の鉱山都市として発展していった。19世紀前半、独立戦争中に鉱山が荒廃したため一時生産量が低下したが、まもなく生産力を回復させた。

サンフランシスコ山地の岩絵
バハ・カリフォルニア半島での先住民コチミ人(Cochimi)やグアチミ人(Guachimis)のかつての生活の様子を伝えるものである。これらの先住民については、より北から移住してきたということぐらいしか知られていない。

ポポカテペトル山腹の16世紀初頭の修道院群
メキシコ中央部のポポカテペトル山近くにある修道院群は、16世紀にフランシスコ会士、ドミニコ会士、アウグスティノ会士たちによって建立されたもので、広大な範囲の土地で暮らしていた非常に多くの人々を、短期間にキリスト教化する上で中心的な役割を果たした。

古代都市ウシュマル
マヤの年代記によれば、ウシュマルは、フン=ウィツィル=トゥトゥル=シウによって紀元500年に建てられた町であるという。ウシュマルは何代にもわたってシウ家によって支配され、ユカタン西部でもっとも強力な都市であった。そしてチチェン・イッツアと同盟を結んで北部ユカタン全域を支配していた。紀元1200年以降は主要な建築物を新たに建築することは行われなくなる。ウシュマルにある建造物は、優雅さと美しさにおいてパレンケの建造物に匹敵するものである。ウシュマルにおいては、その前半の時期においては、その大部分がプウク式の建物である。保存状態が良好であるため、一般の観光客にも当時のウシュマルの祭祀センターの様子をほぼ完全な形で想像させることのできる数少ないマヤ遺跡のひとつとなっている。

ケレタロの歴史史跡地区
町は1531年に建設された。17世紀から18世紀には町が発展し、美しい街並みとなった。その当時の歴史の残る地域が、世界遺産として登録されている。

グアダラハラのオスピシオ・カバーニャス
1791年、グアダラハラ司教により、感化院、病院、孤児院、救貧院の機能を統合する複合施設として設立された。名前の由来は、1796年にグアダラハラ管区に任命されたホアン・ルイズ・デ・カバーニャスにある。メキシコ・シティ出身の高名な建築家である、マヌエル・トルサーが設計に携わった。

カサス・グランデスのパキメ遺跡地帯
(Paquime) は、メキシコ北東部、チワワ州に残る先コロンブス期の考古遺跡である。州都チワワの北西約240 km、ハノス (Janos) の南約56 km の、カサス・グランデス川沿いの開けた肥沃な渓谷に位置し、州北西部の考古遺跡地帯の中では特に重要なものの一つと見なされている。スペイン語で「大きな家々」を意味するカサス・グランデスという名でも呼ばれるが、そちらは現在では所在地の地方自治体、カサス・グランデス市 (Casas Grandes) の名前にも使われている。

トラコタルパンの歴史遺跡地帯
トラコタルパンの町並みはスペインコロニアル様式の都市構造と建造物を良く保っており、スペインとカリブ海地域の伝統文化の融合による、まれに見る重要性と性質を示している。幅の広い道、鮮やかな色で彩られた様々な様式の建造物、そして公共の場所や個人の庭にある多くの樹木による特徴的な景観を有している。

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■ショチカルコの古代遺跡地帯

カンペチェ歴史的要塞都市
カンペチェはスペインのコンキスタドールたちによって1540年に「サン・フランシスコ・デ・カンペチェ」の名で建設された都市で、以前に存在していたマヤ人の都市カンペチュ(Canpech)もしくはキンペチュ(Kimpech)の上に築かれた。2006年に発見されたカンペチェの墓地は、エルナン・コルテスがマヤ人やアステカ人を服属させて間もなく、アフリカ人奴隷たちが連れてこられたことを示唆している。墓地は1550年頃から1600年代後半まで使われていたものだった。

カンペチェ州、カラクムルの古代マヤ都市
Calakmulは、メキシコ・カンペチェ州にある先古典期後期から古典期にかけて繁栄したマヤ「中部地域」の大都市。1931年に発見され、その規模は30 km2に及び、マヤ遺跡では最多の117基もの記念碑(恐らく石碑 (Stela) のほかに祭壇やその他文字記録が刻まれた彫刻等の石造物を指す)が確認されており、ティカル (Tikal) と並ぶ古典期最大級の「都市」である。

ケレタロ州シエラ・ゴルダのフランシスコ会伝道所群
シエラ・ゴルダ地方の伝道所群は、メキシコのキリスト教化の過程で、フランシスコ会士によって18世紀半ばに設立されたものである。この伝道所群は、伝道が余り行われてこなかったアリゾナ、テキサスなどへの伝道の拠点としても機能した。

ルイス・バラガン邸と仕事場
Luis Barraganは、20世紀メキシコを代表する建築家の一人である。ルイス・バラガンが、後半生を過ごした自宅兼仕事場である。ルイス・バラガンは、1939年頃にメキシコシティ郊外に土地を購入し、その一部に1948年に自宅兼仕事場を建てた。フランシスコ・ラミレス将軍通りの12番地と14番地に位置し、12番地は仕事場、14番地は自宅に当たる。それぞれの建物は結ばれているが、通りに面した入り口もそれぞれについている。

テキーラの古い産業施設群とリュウゼツランの景観
メキシコの特産品であるリュウゼツランから造られる蒸留酒は、ハリスコ州テキーラ市周辺の限られた原料・製法で作られたもののみをテキーラ、それ以外のものをメスカルと呼んで区別する。

■メキシコ国立自治大学の大学都市の中央キャンパス

シアン・カアン
「シアン・カアン」はマヤ人の言葉で「天空の生まれた場所」を意味する。シアン・カアン生物圏保護区はユカタン半島にあり、地表は主に石灰石で覆われている。また、海岸線には、カリブ海大環礁に属しているサンゴ礁が広がっている。この大環礁はベリーズ珊瑚礁保護区などにまで繋がっている大きなものである。シアン・カアンの海岸には白い砂浜が広がり、小さな湾やマングローブ林等が見られる。

エル・ビスカイノのクジラ保護区
(El Vizcaino Biosphere Reserve)は、太平洋とカリフォルニア湾に挟まれたバハ・カリフォルニア半島中央部に設定されているメキシコの生物圏保護区である。1988年に設定された総面積2,546,790 haの生物圏保護区で、独特の砂漠の気候によって育まれた陸棲生物の固有種の豊富さや、コククジラの重要な繁殖地であることなどが特色である。

カリフォルニア湾の島嶼および保護地区群
Golfo de Californiaは、メキシコ北西部、北米大陸とバハ・カリフォルニア半島との間の南北方向に伸びる細長い湾である。コルテス海(米:Sea of Cortez)とも呼ばれる。


メキシコ料理
アステカ族の料理やマヤ族など先住民族の料理を母体とし、コンキスタドールのもたらしたスペイン料理の影響を受けて成立した料理で、土着の作物トウモロコシ、インゲンマメ、多様なトウガラシ(チレ)を用いた、辛味の効いた料理でよく知られている。

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タコス
taco)は、メキシコ料理やテクス・メクス料理(アメリカ南部料理)におけるサンドイッチに似た軽食向けの料理である。メキシコを代表する料理のひとつで、特にこの料理に使用されるトウモロコシの平焼きパン「トルティーヤ」はメキシコ料理には欠かせない、まさに国民食と言えるものである。

トルティーヤ
tortilla)は、すり潰したトウモロコシから作る、メキシコ、アメリカ合衆国南西部および中央アメリカの伝統的な薄焼きパンである。現代では、小麦粉から作られた同様のものもトルティーヤと呼ばれている。

コロナビール
Corona Extra)はモデーロ社(Grupo Modelo)が製造するメキシコのビールの銘柄。そのまま飲む他、8分の1程度に櫛形切りしたライムを壜の中に押し込み、風味を付けて飲む方法もあるが、瓶のリサイクルができなくなるため推奨されていない。広告に「ライムがなければコローナを飲むな」というコピーが使われたこともある。


テキーラ・サンライズ
(Tequila Sunrise)とは、テキーラベースのカクテルである。オレンジを朝焼けの空、グラスの底に沈んだグレナデン・シロップを太陽に見立ててこの名前がついたとされる。元々はメキシコのマイナーなカクテルだったが、ローリング・ストーンズのボーカリスト、ミック・ジャガーが1972年のメキシコ公演で絶賛、メキシコ滞在中にかなりの量を飲んだ事が知られることによって知られるようになった。



ホセ・グアダルーペ・ポサダ
1852年2月2日 - 1913年1月20日は、メキシコの画家でイラストレーター。メキシコのアグアスカリエンテス(Aguascalientes)に生まれる。10代の若いときにトリニダッド・ポドロッソ(Trnidad Podroso)のアトリエで働き、リトグラフや彫刻の技術を学ぶ。1871年に、エル・ヒシテ(El Jicite)というアグアカリエンテスの新聞に政治漫画を書き始める。ポサダの政治漫画がその地域の有力政治家を怒らせたという理由で、エル・ヒシテが11紙で廃刊となる。

フリーダ・カーロ
マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderon、1907年7月6日 - 1954年7月13日)は、メキシコの画家。コヨアカンの出身。6歳の時にポリオに罹患して右足が不自由になる。また二分脊椎症を患っていた。更に1925年9月17日、乗っていたバスが路面電車と衝突し、肩の脱臼、肋骨・鎖骨・背骨・骨盤の骨折、右足の粉砕骨折など瀕死の重傷を負った。入院中に絵を独学で学び、ディエゴ・リベラにその才能を認められ、1929年8月21日にリベラと結婚。

フアン・ルルフォ
1917年5月16日 - 1986年1月7日は、メキシコの小説家、写真家。ラテンアメリカの作家のなかでも重要な作家のひとりであるルルフォは、2冊の薄い本、『ペドロ・パラモ(Pedro PaLamo)』(1955年)と短編集『燃える平原(El llano en llamas)』(1953年。『殺さねえでくれ(¡堕iles que no me maten!)』を含む)によって評価されている。

カルロス・フエンテス
1928年11月11日 - は、メキシコの作家、批評家。外交官であった父のラファエル・フエンテスが赴任していたパナマ市に生まれる。翌年からキト、モンテビデオ、リオ・デ・ジャネイロに住む。1934年に父がメキシコ大使館の参事官として赴任した街であるワシントンD.C.の小学校に通う。夏季はメキシコシティーで過ごし、母語であるスペイン語とメキシコの歴史の勉強に励む。サンティアゴ・デ・チリ(1940-1944)とブエノス・アイレスに住み、この時にアメリカ大陸の文化的特徴の影響を受ける。

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オクタビオ・パス
Octavio Paz、1914年3月31日 - 1998年4月19日は、メキシコの詩人・批評家・外交官。メキシコ・シティ出身。進歩的文化人だった祖父の影響で文学的関心を深め、19歳で処女詩集『野生の月』を発表している。1937年、内戦下のスペインで開かれた反ファシスト作家会議に参加。翌年に帰国してからは、新世代を代表する作家として精力的な執筆活動を開始する。

フェルナンド・バレンズエラ
1960年11月1日 - は、元メジャーリーグの投手。左投げ左打ち。メキシコ・ソノラ州出身。1980年代(1980年 - 1989年)の10年間で128勝をあげた。メジャー全体で、ジャック・モリス(当時タイガース)の162勝、デーブ・スティーブ(当時ブルージェイズ)の140勝に次ぎ3位だが、左腕投手としては第1位であった。

フリオ・セサール・チャベス
1962年7月12日 - は、メキシコのプロボクサー。ソノラ州シウダ・オブレゴン出身。1984年から1989年にかけて世界タイトル3階級を制覇。最多世界戦出場数37、1試合に於ける観客動員数13万人[1]、歴代3位となる88連勝[2]、デビュー戦以来90戦無敗(1引き分けを含む)などボクシング史における数々の記録を打ちたて、更に全盛期には、類い希なるタフネスとスタミナを武器に完璧な強さを誇り絶大なる人気を得た。43戦全勝の戦績を引っ提げ、1984年9月13日、世界初挑戦。空位のWBC世界ジュニアライト級(現・スーパーフェザー級)王座を同国人のマリオ・マルチネスと争い、8回TKO勝ち。王座奪取に成功した。

イスラエル・バスケス
1977年12月25日 - は、メキシコのプロボクサー。メキシコシティ出身。元WBC・IBF統一世界スーパーバンタム級王者。現在はWBC世界スーパーバンタム級名誉王者(本人の病気による)。パワーと破壊力溢れるハードパンチャーであり、攻守にわたって多彩なテクニックを見せるため「Magnifico(マグニフィコ、魔術師)」の異名を持つ。インファイトを得意とする。常に打ちつ打たれつの激闘を繰り広げ、人気も高い。特にラファエル・マルケスとの3連戦は激闘であった。

ルーベン・オリバレス
1947年1月14日 - は、メキシコの元プロボクサー。メキシコシティ出身。元WBA・WBC世界バンタム級、WBA世界フェザー級、WBC世界フェザー級の2階級制覇王者である。その高いKO率から「ミスター・ノックアウト」の異名を持つ。身長170cm。88勝77KO

エリック・モラレス
(Erik Morales、1976年9月1日 - )は、メキシコティフアナ出身のプロボクサー。ニックネームはエル テリブレ(恐怖の男)。スピード、パワー、テクニックを兼ね備えたボクサーファイター。キャリア前期は細身の体から飛び出す距離のある鋭利なストレートとアッパーの強打でKOを重ね、後期には距離を保ったボクシングでも優勢に立てる打ち合いのテクニックと、しなやかながら強打にも怯まない打たれ強さという側面も見せた。2004年2月28日にはフリオ・セサール・チャベスに続き、メキシコ人としては2人目となる3階級制覇(スーパーバンタム級、フェザー級、スーパーフェザー級)を達成。

マヌエル・ポンセ
(Manuel Maria Ponce, 1882年12月8日 - 1948年4月24日)はメキシコの作曲家・音楽教師。後期ロマン派音楽の作曲様式から新古典主義に転じた。地方の聖堂で教育を受けた後、18歳からメキシコシティ国立音楽院で学んだ。1905年に渡欧。ボローニャとベルリンに留学した。1907年に帰国して、母校で教鞭を執り始める。ポンセはこんにち、ヤッシャ・ハイフェッツの編曲で有名になった歌曲《小さな星(エストレリータ) Estrellita》の作者として有名である。

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アルトゥーロ・リプスタイン
(Arturo Ripstein,1943年12月13日 - )はメキシコ・メキシコシティ出身の映画監督。父親は映画プロデューサー。ルイス・ブニュエル作品の助監督としてキャリアをスタートさせた。1965年に映画監督としてデビュー。これまで50本ほどの作品を手がけており、そのうちの3本がカンヌ国際映画祭パルム・ドールにノミネートされた。

カルロス・レイガダス
(Carlos Reygadas, 1971年10月10日 - )は、メキシコの映画監督、脚本家、映画プロデューサー、編集技師である。ヌエーヴォ・シネ・メヒカーノの映画作家のひとりである。1971年(昭和46年)10月10日、メキシコの連邦区メキシコシティに生まれる。1987年(昭和62年)、アンドレイ・タルコフスキー作品に影響を受ける。当時、メキシコで法学を学んでいたが、やがてイギリスのロンドンで武力紛争を専攻し、国連の機関で働いた。

ディエゴ・リベラ
(Diego Rivera、1886年12月8日 - 1957年11月24日)はメキシコの画家。キュビズムの影響を受けた作風で、多くの壁画作品で知られる。1886年、メキシコのグアナフアトに生まれる。1896年、10歳の時にサン・カルロス美術学校に入学。その後奨学金を得て1907年よりスペイン・パリなどで絵画を学び、パリのモンパルナスに住みアメデオ・モディリアーニやモイズ・キスリングなどエコール・ド・パリの若手作家たちと交友を深めた。

ビクトリアーノ・ウエルタ
Jose Victoriano Huerta Marquez、1850年12月22日 - 1916年1月13日)は、メキシコの軍人および大統領。ウエルタはハリスコ州コロトランの町で白人とアメリカインディアンの混血として生まれた。彼は17歳のときにメキシコ陸軍に入隊し名を揚げ、チャプルテペクの陸軍士官学校への入学許可を獲得した。

ベヌスティアーノ・カランサ
(Venustiano Carranza Garza、1859年12月29日 - 1920年5月21日)は、メキシコ革命の指導者のうちの一人、メキシコ大統領。彼の大統領職中に現在のメキシコ憲法が起草された。カランサはコアウィラ州クアトロ・シエンガスの農場で畜産業を営む中流家庭の15人兄弟の11番目として生まれた。彼の父親ヘスス・カランサはベニート・フアレス政権下の陸軍大佐で、フアレスの自由党の支持者だった。

アルバロ・オブレゴン
(Alvaro Obregon Salido、1880年2月19日 − 1928年7月17日)は、1920年から1924年までのメキシコ大統領および軍人。軍階級は将軍。彼はソノラ州で生まれ、小学校を卒業した後様々な職業を経験した。1906年にひよこ豆の新種を発見し栽培、輸出を行い富を得た。1911年に周囲の勧めで政界に進出、選挙の結果フアタバンポ市長に就任した。1912年になるとフランシスコ・マデロ大統領政権に不満を持つパスクワル・オロスコが反乱、8月にソノラ州で蜂起したオロスコ派に対し、オブレゴンはかねてより支持を得ていたマヤ・インディオからなる自警団を指揮しこれを鎮圧した。

エル・サント
El Santo、「聖人」の意味、1917年9月23日 - 1984年2月5日)は、メキシコのプロレスラー、俳優。メキシコの国民的英雄である。白銀のマスクマン(El Enmascarado de Plata)というニックネームでも知られる。エル・サントはおそらくラテンアメリカで最も著名なルチャドール(プロレスラー)であり、メキシコでは伝説的存在として語り継がれている。彼のプロレス界におけるキャリアは40年近くにもわたり、その存在はルチャ・リブレ(メキシコのプロレス)の枠を飛び越え、人々のヒーロー・正義のシンボルにまでなった。コミックや映画の主人公でヒーローを演じ、特に後者は彼の人気と神話の形成においてルチャリブレ以上の貢献を果たした。

ミゲル・イダルゴ
(Miguel Hidalgo、1753年5月8日-1811年7月30日)は、メキシコ独立運動における初期の指導者。独立闘争の途上で捕らえられ処刑された。1765年からこの地域の中心都市であるバリャドリッド(現モレリア:ミチョアカン州)に移り、最初イエズス会経営の聖フランシスコ・ザビエル校、イエズス会追放後(1767年)は聖ニコラス校で神学を中心に学んだ。イエズス会が経営する諸学校は、当時のメキシコとしては先進的な教育内容を提供しており、そこにはラテン語だけではなくフランス語などのヨーロッパ俗語や先住民言語の教育、さらには客観的な教会史、メキシコの古代の歴史なども含まれていた。こうした教育は、イダルゴにヨーロッパの先進的な文化や思想に関心を抱かせるだけでなく、幼い頃に農場で生活を共にした先住民やその混血民への愛情を育んだ。

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シモン・ボリバル
Simon Jose Antonio de la Santisima Trinidad Bolivar y Palacios、1783年7月24日 - 1830年12月17日)は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。ベネズエラのカラカスにアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなってボリバルはその後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。このため、ラテンアメリカでは「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれる。

ホセ・デ・サン=マルティン
Jose de San Martin, 1778年2月25日 - 1850年8月17日は、アルゼンチンの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アルティーガスと並ぶ解放者として称えられている。1778年、アルゼンチン北東部の小さな村である、コリエンテス州のヤペユーにスペイン系貴族であり、スペイン軍の軍人だった父の子として生まれる。7歳で家族とともにスペインに渡る。サン・マルティンは職業軍人としての道を進み、22年間スペイン軍で働いた。

パンチョ・ビリャ
(Jose Doroteo Arango Arambula, 1878年6月5日 - 1923年7月20日) は、フランシスコ・"パンチョ"・ビリャあるいは単にパンチョ・ビリャ (Pancho Villa) としてよく知られていたメキシコの革命家。彼はデュランゴ州サンファン・デル・リオのラ・コヨータダで、大農園で働くインディオ系の小作農の息子として生まれた。父親は彼が幼少時に死に、母と二人の妹、二人の弟と暮らしていたが、16歳の時に農園主と衝突しチワワ州で山賊に加わった。警官隊との銃撃戦で山賊の首領が死ぬと、彼はその名「フランシスコ・ビリャ」を名乗るようになり、山賊を率いることとなった。

ルイス・ミラモンテス
Luis Ernesto Miramontes Cardenas, 1925年3月16日 − 2004年9月13日はメキシコの化学者。経口避妊薬の開発者の1人として知られる。ナヤリット州テピックに生まれ、メキシコシティで死去した。メキシコ国立自治大学 (Universidad Nacional Autó剋oma de Mexico, UNAM) で化学工学の学位を取得した。同大学の化学研究所を創立した研究者の1人であり、主に有機化学分野の研究を行った。

ビニー・カスティーヤ
(Vinicio Castilla Soria、1967年7月4日 - )はメキシコ・オアハカ州オアハカ出身の元メジャーリーグ選手。ポジションは三塁手。最終所属はコロラド・ロッキーズ。移籍が多い選手で、アトランタ・ブレーブスに3度とコロラド・ロッキーズに3度在籍している。1995年にはレギュラーに定着し、35本塁打を記録してチームの球団創設3年目にして初のワイルドカードでのディビジョンシリーズ進出に貢献。翌1996年には40本塁打・113打点を記録。チームメイトのアンドレス・ガララーガ、エリス・バークスも40本塁打を記録し、メジャー史上2チーム目の「同一シーズンに40本塁打3人」を記録。

グアダルーペ・ビクトリア
(Guadalupe Victoria、1786年9月29日−1843年3月21日)は、メキシコ独立革命を戦った戦士であり、後の初代メキシコ大統領である。ビクトリアは1786年、ドゥランゴ州タマスラで生まれた。1811年、ミゲル・イダルゴに率いられた独立革命に参加し、ホセ・マリア・モレーロスの下で戦った。モレーロスの処刑後は、ビセンテ・ゲレーロとともにプエブラ州やベラクルス州においてゲリラ戦を展開した。

カルロス・サラテ
(Carlos Zarate Serna、男性、1951年5月23日 - )は、メキシコのプロボクサー。元WBC世界バンタム級チャンピオン。名門ルピータジムでクーヨ・エルナンデスからボクシングの手ほどきを受け、軽量級では考えられない脅威のKO率を誇り怪物とまで言われた。70戦66勝(63KO)4敗

エンリケ・ペーニャ・ニエト
Enrique Pena Nieto、1966年7月20日-)は、メキシコの政治家。2005年9月16日より2011年9月15日までの6年間メキシコ州の知事を務めた後、2012年12月1日にメキシコ合衆国大統領に就任した。これにより、ペーニャ・ニエトの所属する制度的革命党(PRI)は12年ぶりに政権を取り戻した。

カルロス・ベラ
(Carlos Alberto Vela Garrido, 1989年3月1日 - )は、メキシコ・カンクン出身のサッカー選手。メキシカンサッカーリーグ1部のCDグアダラハラでキャリアをスタート。トップチームでの出場を果たす前にメキシコ代表として出場した2005年のU-17W杯が大きな転機となった。決勝でブラジル代表を3-0と破ったメキシコは優勝。個人でも5得点を記録。大会得点王に輝いた。

ハレド・ボルヘッティ
(Jared Francisco Borgetti Echeverria, 1973年8月14日 - )は、メキシコ出身のサッカー選手。ポジションはセンターフォワード。メキシコ代表の最多得点記録保持者。1997年のエクアドル戦で代表デビューを果たし、この試合で初ゴールも記録する。しかし、当時の豪華な攻撃陣に割って入ることはできず2000年まで代表から遠ざかる。

ウーゴ・サンチェス
(Hugo Sanchez Marquez, 1958年7月11日 - )は、メキシコ・メキシコシティ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。メキシコ史上最高のストライカー。キンタ・デル・ブイトレと呼ばれた1980年代後半のレアル・マドリードの中心選手で、リーガ・エスパニョーラで5度の得点王に輝いた。リーガでの総得点は234得点を数え、252得点を挙げたテルモ・サラに次ぐ歴代2位である。

カルロス・サンタナ
(Carlos Santana, 1947年7月20日 - )は、メキシコ出身のアメリカ合衆国のギタリスト。自身の名を冠したラテン・ロック・バンド「サンタナ」を1960年代から率い、現在も活動中。1980年 - アルバム『スイング・オブ・デライト』で、マイルス・デイヴィスの第二期クインテットに参加していたウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスと共演。

フリオ・セサール・チャベス・ジュニア
Julio Cesar Chavez Jr.、男性、1986年2月16日 - は、メキシコのプロボクサー。シナロア州クリアカン出身。父は伝説の世界王者フリオ・セサール・チャベス。弟はウェルター級プロボクサーのオマール・チャベス。偉大な伝説的ボクサーを父に持つことから、「伝説の続き」(La Leyenda Continua)のニックネームで呼ばれる。2010年9月現在、父親のキャリア同様にデビュー以来の無敗を誇っている。通算戦績 48戦 46勝 32KO 1分1無効試合

 

メキシコ United Mexican States
北アメリカ南部に位置するラテンアメリカの連邦共和制国家である。北にアメリカ合衆国と、南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東は大西洋とカリブ海のメキシコ湾に面する。首都はメキシコシティ。

国名のメキシコは、独立戦争の最中の1821年に決定したものであり、アステカの言語ナワトル語(nahuatl)で、「メシトリの地」という意味。メシトリ(メヒクトリとも表記される)は、アステカ族の守護神であり、太陽と戦いと狩猟の神であるウィツィロポチトリの別名で、「神に選ばれし者」という意味がある。アステカで最も信仰されたこの神の名に、場所を表す接尾語「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めた。

メキシコシティ
メキシコ最大の都市であり、2010年の近郊を含む都市的地域の人口は1,869万人であり、世界第9位である。アステカ王国時代は「テノチティトラン」と呼ばれ、テスココ湖の湖上に築かれた壮麗な都市だった。1519年にスペイン人のエルナン・コルテス (Hernan Cortes) のメキシコ征服により破壊され、湖は埋められてその上に現在のヨーロッパ(スペイン)風の都市が築かれた。スペインの植民地時代とその後の独立を経て、メキシコのみならず中南米を代表する大都市として発展を続けた。1985年9月19日にマグニチュードM8.1のメキシコ地震が発生した。震央からメキシコシティは約400?程離れていたが、大地震特有の長周期地震動が襲い、250以上の高層ビル・高層住宅・ホテル・病院などを倒壊させ、地下鉄の一部も崩壊し7000人以上が死亡した。市の中心は中央広場であるソカロ広場から、その西にある繁華街ソナ・ロッサにかけての地区である。ソカロ広場とその周辺はアステカの都テノチティトランと同じ位置であり、テノチティトランを破壊してその上に建設された、建設当時の「メキシコシティ」に当たる地区である。

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メキシコ・シティ国際空港
(Aeropuerto Internacional de la Ciudad de Mexico, Mexico City International Airport) は、メキシコの首都のメキシコシティにある国際空港。ベニート・フアレス国際空港 (Aeropuerto Internacional Licenciado Benito Juarez) とも呼ばれる。

アンヘル・アルビノ・コルソ国際空港
Aeropuerto Internacional Angel Albino Corzo)はメキシコ合衆国チアパス州チアパ・デ・コルソ市にある国際空港。

プエブラ国際空港
eropuerto Internacional de Puebla "Hermanos Serdan"はメキシコ合衆国プエブラ州プエブラ市の郊外、北西23kmに位置する国際空港。


メキシコ国立自治大学
スペイン語: Universidad Nacional Autonoma de Mexico、UNAMは、メキシコの首都メキシコシティにある公立大学。1551年9月21日に王立メキシコ大学(Real y Pontificia Universidad de Mexico)として創立し、同年5月12日に創立したペルーの国立サンマルコス大学に次いでアメリカ大陸で2番目に古い大学となった。


メキシコシティ地下鉄
メキシコの首都メキシコシティの大部分をカバーする公共交通機関である。同地下鉄は世界で初めて各駅にシンボルを設けたことで知られる。また、料金が全区間均一であることでも知られる。なお、建設はフランスが技術提供したため、A号線を除くと、ゴムタイヤと鋼鉄車輪の軌道や台車になっている。

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チワワ太平洋鉄道
Ferrocarril Chihuahua al Pacifico, ChP, Chepeは、メキシコ北西部の主要な鉄道である。チワワ太平洋鉄道はメキシコ内陸部のチワワ州チワワと太平洋沿岸のシナロア州ロスモチスを結ぶ鉄道である。線路の長さは約 650 km で、途中で37の橋と86のトンネルを通過し、バランカ・デル・コブレ(銅峡谷)などの峡谷地帯を横断している。

メキシコの鉄道
メキシコにおける鉄道は1873年にメキシコシティ - ベラクルス間 419 km が列強資本によって建設されたのを始まりとし、1908年にはいくつかの私鉄を買収する形でメキシコ国鉄(FNMまたはNdeMと通称される)が発足、1937年には鉄道を国有化し、 20,000 km を越す鉄道網が整備された。


オルメカ文明
オルメカ(Olmeca)とは、紀元前1200年頃から紀元前後にかけ、先古典期のメソアメリカで栄えた文化、文明である。アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明であり、その後のメソアメリカ文明の母体となったことから、「母なる文明」と呼ばれる。オルメカとは、ナワトル語で「ゴムの国の人」を意味し、スペイン植民地時代にメキシコ湾岸の住民を指した言葉である。巨石や宝石を加工する技術を持ち、ジャガー信仰などの宗教性も有していた。その美術様式や宗教体系は、マヤ文明などの古典期メソアメリカ文明と共通するものがある。

アステカ
Aztecaとは1428年頃から1521年まで北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の王国。自らをメシーカ(ナワトル語:mexihcah)と称した。言語はナワトル語。伝説によればアステカ人はアストランの地を出発し、狩猟などを行いながらメキシコ中央高原をさまよっていた。やがてテツココ、アスカポツァルコ、クルワカン、シャルトカン、オトンパンなどの都市国家が存在するメキシコ盆地に辿りつき、テスココ湖湖畔に定住した。1325(または1345)年、石の上に生えたサボテンに鷲がとまっていることを見たメシーカ人は、これを町を建設するべき場所を示すものとしてテスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。


マヤ文明
メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。大規模な都市遺跡が築かれ始めたのは、形成期後期 (先古典期後期)からで、いわゆる「中部地域」で、現ベリーズのラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、ティカル、ワシャクトゥン、エル・ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)などの大都市遺跡が建設され、人口の集中が起こり繁栄した。

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チチメカ族
Chichimecaはメキシコ・サカテカス州の乾燥地帯に居住する、ナワ語系の言語を介する狩猟民族。「チチメカ」とは「獣の血を吸う人」「鷲」「犬の血統」など諸説があり、従来の語義はわかっていない。狩猟採集および農耕を行い、半遊牧民的生活を営む。16世紀のスペインによる植民地化の際に大きく抵抗した先住民の一種で、動物の毛皮を羽織り、弓矢でもって激しい抵抗をした。

トルテカ帝国
メソアメリカ(メキシコ)に、テオティワカン崩壊後、チチメカ侵入前までに存在したと考えられてきた伝承上の帝国。トルテカ帝国の存立したとされる時期は、年代で言えば7世紀頃〜12世紀頃に当たるが、12世紀とされるチチメカ侵入を11世紀に置く研究者もいる。テスカトリポカとトピルツィン・ケツァルコアトルの伝説などで知られるこの帝国は、メキシコ中央高原を支配したとされた。

サポテカ文明
メキシコ南部、オアハカ州のモンテ=アルバンを中心として栄えていたとされる文明。その開始時期については、先古典期前期末のサン=ホセ=モゴテのティエラ=ラルガス相(Tierra Largas;1400B.C.〜1150B.C.)の時期と考えられる。石碑3号に刻まれた犠牲にささげられた捕虜の名前の「一の地震」は、現在のところ確認可能なメソアメリカ最古の文字の使用例であるとともに、最古の260日暦の使用例であることで知られる。

ミシュテカ
(Mixteca)はメソアメリカの先住民で、メキシコのオアハカ州、ゲレーロ州、プエブラ州を合わせてラ・ミステカとして知られる地方に住む。ミシュテカ諸語はオト・マンゲ語族の中の大きな分派である。ミシュテカという単語はナワトル語のミシュテカパン(Mixtecapan)、すなわち「雲の人々の地」に由来する。ミシュテカの重要な古代の中心地にはティラントンゴの古都に加え、アチウトラ、クイラパン、ワフアパン、ミトラ、トラシアコ、トゥトゥテペック、フストラワカおよびユクニュダウィの遺跡が含まれる。ミシュテカは古代都市モンテ=アルバン (ミシュテカが支配下に置く前のサポテカの都市を起源とする)を大幅に再建した。

タラスコ族
Tarascans)は、メキシコに住む部族。紀元14世紀、タラスコ族は自分たちのタラスコ帝国をパツクアロ湖畔にうちたて、200年後にエルナン・コルテスが来るまでアステカ人と対立、競合していた。タラスコ文明ははじめスペイン軍に征服され、次にその後について金をあさるスペイン人の掠奪を受け、数週間で崩壊したといわれる。その後、タラスコ族はメキシコ南西部のミチョアカンの山々に難を避けた。


ウィツィロポチトリ
(Huitzilopochtli)は、アステカ神話の太陽神・軍神・狩猟神である。その名は「蜂鳥の左足」または「左(南)の蜂鳥」を意味する。女神コアトリクエの息子であり、月神コヨルシャウキの弟である。蜂鳥をかたどった頭飾りをつけ、左足に蜂鳥の羽飾りをつけ、五つの房の着いた盾と槍を持った戦士の姿で表される。


外務省:メキシコ合衆国
在メキシコ日本国大使館

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シウダー・フアレス
チワワ州最大の都市。旧名のエル・パソ・デル・ノルテ(El Paso del Norte)でも知られる。 人口114万人。近年工業化が著しいが、同時に急速に治安が悪化しており、「戦争地帯を除くと世界で最も危険な都市」と言われる。1659年にロッキー山脈へのルートを開拓していたスペイン人探検家によってエル・パソ・デル・ノルテは造られた。 マキラドーラの発達とともに治安が悪化、特に女性に対する暴行事件が1990年代以降に急増し、女性殺害(femicide)事件や女性誘拐事件が頻発している。

ティフアナ
(Tijuana) はメキシコ合衆国、バハ・カリフォルニア州の北部、アメリカ合衆国との国境にある都市。カリフォルニア州のサンディエゴ市中心部から車で約15分、ロサンゼルスから車で3.5時間程度の距離にあるため、両都市をはじめとするアメリカからの日帰り観光客が多い。近隣の市としてプラヤーズ・デ・ロサリトなどがある。

グアダラハラ
(Guadalajara) はメキシコ第2の都市でありハリスコ州の州都である。中米屈指の世界都市。メキシコ人からはその美しさから「西部の真珠」と呼ばれる。大都市ながらスペインの植民地だった面影を残す古都である。メキシコの代表的な音楽であるマリアッチはグアダラハラが発祥と言われている。

モンテレイ
(Monterrey) はメキシコ第三の都市でありヌエボ・レオン州の州都である。モンテレイ市の人口は約114万人(2005年)。モンテレー・マリアーノ・エスコベード国際空港 (Aeropuerto internacional General Mariano Escobedo)メキシコで最も近代的な空港と言われ、410万人の年間乗降客数を誇る。

ハラパ
(Xalapa) は、メキシコ合衆国ベラクルス州の州都である。ハラパの名前は、ナワトル語で「砂の中の泉」を意味するXallapanに由来する。また、ハラパはトウガラシの品種の一つハラペーニョの語源となっている。14世紀には、現在のハラパの土地に4つ種族が住んでいた。 彼らはそれぞれ小さな村を建設した。 トトナカ人はXalitic(「砂の中」の意味)を、チチメカ人はTechacapan (「廃棄物の川」の意味)を、トルテカ人は北西地域にTecuanapan(「獣の川」の意味)を、テオチチメカス人(Teochichimecas)はTlalnecapanをそれぞれ設立した。

ケレタロ
(Queretaro)は、メキシコのケレタロ州の都市であり、基礎自治体である。正式名称は、サンティアーゴ・デ・ケレタロ(Santiago de Queretaro)である。ケレタロ州の州都であり、同州最大の都市である。町は1531年に建設された。17世紀から18世紀には町が発展し、美しい街並みとなった。その当時の歴史の残る地域が、世界遺産として登録されている。

メリダ
(Merida) は、メキシコにある都市で、ユカタン州の州都である。人口は830,732人(2010年)。近年、メリダの人口は周辺の村からの人口流入により上昇を続けており、市の一番外側を走る外周道路(anillo perferico)を越えて宅地造成がなされている。1542年、スペイン人入植者フランシスコ・デ・モンテーホによって都市が開かれた。中央広場(ソカロ)の南側には、今でもモンテーホの宮殿が残されており、現在は銀行として使われている。市の中心部はコロニアル様式の町並みが広がっている。

ドゥランゴ
Victoria de Durangoは、メキシコ北部にあるドゥランゴ州の州都であり、州最大の人口を有する都市でもある。人口は約600,000人。ドゥランゴは、メキシコ高原中西部に位置する(標高1,890m)。

グアナフアト
Guanajuatoは、メキシコ・グアナフアト州の州都である。メキシコでも豊かな銀山に恵まれ、スペイン植民地時代の美しいコロニアル建築で有名である。歴史的な市街地と近辺の銀山はユネスコ世界遺産に登録されている。グアナフアトという地名は先住民族のタラスカ族の言葉、「カエルのいるところ」 (Quanax-juato) が語源である。

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オアハカ
(Oaxaca De Juares)はメキシコの都市。オアハカ州の州都であり、州名と同じ名前の都市としては、国内で最大の人口を持つ。南シエラマドレ山脈の中の標高1,550メートルの高地に位置している。人口は約519,660人(2005年)。

コヨアカン
ナワトル語で「コヨーテの地」という意味)は、メキシコシティー(メキシコの連邦直轄地区、Ciudad de Mexico)を16に分割した一つの地域(delegacion)の名称。反骨の壁家画ディエゴ・リベラ、その妻となった画家のフリーダ・カーロ、フランスの詩人アンドレ・ブルトン、ロシアの革命家レフ・トロツキー、あるいはヴァイオリニストの黒沼ユリ子などの芸術家や革命家が住居を構えた地として著名である。

アグアスカリエンテス
(Aguascalientes) はメキシコ中西部のサン・ペドロ(アグアスカリエンテス)川沿いにある標高1888メートルの高地に位置する都市である。

カンペチェ
(Campeche)は、メキシコ湾岸にあるメキシコの都市で、カンペチェ州の州都である。カンペチェはスペインのコンキスタドールたちによって1540年に「サン・フランシスコ・デ・カンペチェ」の名で建設された都市で、以前に存在していたマヤ人の都市カンペチュ(Canpech)もしくはキンペチュ(Kimpech)の上に築かれた。

チワワ
(Chihuahua) は、メキシコにある都市で、チワワ州の州都である。人口約71万人(2006年)。都市の名称のチワワは、スペインによるメキシコ征服より古くからある言葉で、ナワトル語で乾燥した砂の場所 (Xicuahua) に由来すると言われ、州名にもなっている。

プエブラ
(Puebla) はメキシコのプエブラ州の州都である。人口148万5千人(2005年)。「プエブラ歴史地区」は、世界遺産(文化遺産)に登録されている。自動車産業など。フォルクスワーゲン(VW)の工場があることも有名で、北米や日本向けVW車の大半はここで生産されている。

アカプルコ
(Acapulco) は、メキシコ合衆国の太平洋岸のゲレーロ州にあるリゾート都市。人口は60万人強と中規模の街だが、海岸沿いに大規模なリゾートホテルや豪華な別荘が立ち並び、世界中から人口の10倍以上の年間数百万の観光客が訪れる、古くからのリゾートである。

シウダー・フアレス
(Ciudad Juarez)はメキシコの都市。チワワ州最大の都市。世界中で最も発展が早い国の1つとして知られているが、同時に急速に治安が悪化しており「戦争地帯を除くと世界で最も危険な都市」とも恐れられていた。しかし2012年にホンジュラスの都市サンペドロスーラに抜かれ、現在「世界で2番目に危険な場所」になっている。

トレオン
(Torreon)はメキシコの都市。コアウイラ州の南西部、メキシコ高原の中北部に位置している。19世紀末より開発が進められた新しい都市。周辺の湖水地帯(ラグナ地区)で灌漑事業が進められたため、農作物の集散地として重要な役割を果たすようになった。近隣には鉱山も存在し、工業も盛んである。

コアツァコアルコス
(Coatzacoalcos) は、メキシコ合衆国ベラクルス州の都市である。コアツァコアルコスはメキシコ湾に面するベラクルス州の主要な港湾都市である。コアツァコアルコスの名前は「蛇の場所」または「蛇の隠れ家」を意味するナワトル語の言葉に由来する。

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ベラクルス
(Veracruz) は、メキシコ湾に面するメキシコ合衆国ベラクルス州の基礎自治体である。ベラクルスはメキシコシティのメキシコ湾側の外港としての役割を持つ、メキシコの主要な港湾都市の一つである。


ベラクルス州
(Veracruz de Ignacio de la Llave) は、メキシコ合衆国の31の州の一つで、メキシコ湾の西岸、タマウリーパス州の南隣、タバスコ州の北西、北緯17°10' から22°38'、西経93°55' から98°38'に位置する南北方向に細長い州である。


■国名
正式名称は Estados Unidos Mexicanos(スペイン語 エスタドス・ウニドス・メヒカーノス(メキシコとも)に近い)、略称は、Mexico (メヒコまたはメキシコ)。公式の英語表記は、The United Mexican States、略称は、Mexico(メキシコ)。スペイン語の国名を英語読みしたものである。名のメキシコは、独立戦争の最中の1821年に決定したものであり、アステカの言語ナワトル語(nahuatl)で、「メシトリの地」という意味。メシトリ(メヒクトリとも表記される)は、アステカ族の守護神であり、太陽と戦いと狩猟の神であるウィツィロポチトリの別名で、「神に選ばれし者」という意味がある。

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1.人口:1億863万人(2010年IMF)
2.面積:196万平方キロメートル(日本の約5倍)
3.首都:メキシコ・シティ
4.民族:欧州系と先住民の混血(60%)、先住民(30%)、欧州系(スペイン系等)(9%)、その他(1%)
5.言語:スペイン語
6.宗教:カトリック(国民の約9割)

1519年 エルナン・コルテスの率いるスペイン人が侵入
1810年 メキシコ独立運動の開始
1821年 スペインより独立
1846年 米墨戦争(〜1848年。国土の半分近くを米国に割譲)
1910年 メキシコ革命勃発
1917年 現行憲法公布
1938年 石油産業の国有化
1982年 債務危機発生
1986年 GATT加盟
1993年 APEC参加
1994年 北米自由貿易協定(NAFTA)発効、OECD加盟、通貨危機発生
2000年 フォックス大統領就任(70年以上続いた制度的革命党政権の終焉)
2006年 カルデロン大統領就任(第65代大統領)

■在留邦人数:6,937名(2010年10月現在)
■日系人数:17,753名(2008年10月現在)
■在日メキシコ人数:1,995名(2009年末現在)

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メキシコ・ペソ
(Mexican peso)はメキシコ合衆国で利用される通貨単位。ISO_4217コードはMXN。通貨記号としては$が用いられるが、隣国の米ドルと混同されやすいため、Mex$と表記されることもある。日本での略称は墨ペソ(ぼくペソ、メキシコの漢字表記「墨西哥」に由来)。補助通貨としてセンターボがあり、1ペソは100センターボである。センターボも通貨記号として?を用いるので混同しやすい。


■経済
メルコスールと南米共同体のオブザーバーであり、経済協力開発機構、アジア太平洋経済協力、北米自由貿易協定の加盟国でもある。2010年のメキシコのGDPは1兆40億ドルであり、世界第14位である。中南米諸国においてはブラジルに次ぐ経済規模を持つ。

北米自由貿易協定
North American Free Trade Agreement、頭字語:NAFTA)はカナダ、メキシコとアメリカ合衆国によって署名され、北アメリカにおいて3か国による貿易圏を生み出した自由貿易協定である。NAFTAは1992年12月17日に署名され、1994年1月1日に発効した。


■言語
公用語は定められていないが、事実上の公用語はスペイン語(メキシコ・スペイン語)であり、先住民族の65言語(ナワトル語、サポテカ語、マヤ語など)も政府が認めている。メキシコは世界最大のスペイン語人口を擁する国家である。

マヤ語族
マヤ人によって、過去(マヤ文明など)および現在使われている、一群の言語である。ユカタン半島を中心に、メキシコ南東部から、ベリーズ、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドルなどに広がる。今もマヤ諸語の話者約300万人がいる。1996年にはグアテマラは21のマヤ系言語を、メキシコは別の5言語を認めている。

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サポテク語
(Zapotec)はオト・マンゲ語族に属する言語グループ(マクロランゲージ)である。話者はメキシコのオアハカ州に主に居住するサポテコ族の人々である。

ナワトル語
ユト・アステカ語族に属する言語で、今はメキシコなどで推定150万人のナワ族に話されている。ナワトル語は北米やメキシコのいわゆるインディアンによって最も広く話されていた言語である。メキシコ固有の言語ではよく見られることだが、ナワトル語の話者の多くは同時に他の言語も操ることができ、実用的なスペイン語の知識を持っていた。


■宗教
宗教はローマ・カトリックが82.7%、プロテスタントが9%、その他(ユダヤ教、仏教、イスラーム教など)が5%である。

カトリック教会
Ecclesia Catholica)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座におくことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。

プロテスタント
Protestantism、Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではローマ・カトリック(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。


■教育
6歳から15歳までの9年間の初等教育と前期中等教育が義務教育の期間となっている。2004年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は91%である。主な高等教育機関としては、メキシコ国立自治大学(1551年)、グアダラハラ大学(1792年)、モンテレイ工科大学(1943年)などが挙げられる。


国民行動党
Partido Accion Nacional、略称:PANは、2011年現在、メキシコの与党となっている政党である。2000年以前はメキシコで最古の野党であり、右派・保守的立場をとっている。主な支持基盤はカトリックの中流市民層や実業家で、ヨーロッパにおけるキリスト民主党勢力とよく似ている。

民主革命党
Partido de la Revolucion Democratica 略称 PRDは、1987年に結党されたメキシコの中道左派、ないしは左翼政党である。当初はFDN(国民民主戦線)の名称を名乗っていた。社会主義インターナショナル加盟。

制度的革命党
Partido Revolucionario Institucional、略称PRIはメキシコの政党。メキシコにおける最大政党として2000年の大統領選で政権を失うまで71年に渡って与党の座についていた。2000年大統領選挙後、党勢が低迷していた時期もあったが、2012年の大統領選挙で与党に返り咲きを果たした。

緑の党
Partido Verde Ecologista de Mexico、略称 PVEM)は、メキシコの政党。1991年2月9日に政党資格を獲得して以来、この党は、ひとつの家族によって率いられてきた。初代党首ホルヘ・ゴンサレス・トレス(官僚出身で元PRI党員)は、党首の座を息子ホルヘ・エミリオ・ゴンサレス・マルティネス(上院議員で「緑の子」と称されていた)に継承させた。PVEMが死刑復活の政策を掲げたことに対し、欧州緑の党(EGP)は2009年2月10日に、PVEMを緑の党の一員とした従来の承認を取り消すと決定し、グローバルグリーンズ(緑の地球連盟)に対してPVEMの追放を検討するよう求めた。

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メキシコ麻薬戦争
麻薬組織(カルテル)同士の縄張り争い、および、麻薬密売の取締を強化しているメキシコ政府と麻薬カルテルとの間で起こっている武力紛争である。メキシコの検察当局の発表によれば、2011年9月までのおよそ5年間に麻薬組織による犯罪や抗争に巻き込まれるなどして4万7515人が殺害されている。


反グローバリゼーション
Anti-globalization)は、地球規模での貿易促進およびWTOなどの国際機関の活動などへの反対を訴える人々の政治的スタンスをさす。または、反グローバリズム(anti-globalism)という。社会運動の一派であると見なす者がいる一方で、数種類の相異なる運動をまとめる用語にすぎないと考える学者も存在する。また一概に「自由」「保護」と区分できるわけではなく、ある国が置かれた環境も考慮すべきとする主張もある。どちらのケースにしろ、この運動への参加者は現在の地球規模に拡大した経済・貿易システムは労働権、国家主権、第三世界に多様な悪影響を及ぼすので反対する、という考え方で運動をしている。


■文化
メキシコの文化は先スペイン期のアステカ族やマヤ族の文化に根を持ち、16世紀のスペイン人による征服後はスペイン文化と融合して築き上げられている。独立後暫くはヨーロッパの文化の模倣に終始したが、革命後の1920年代から1930年代にかけてインディヘナに国民文化の根源を求めて先住民文化の再評価が始まり、インディヘニスモという一大文化運動を確立した。


■絵画
メキシコ革命以前では、19世紀後期から20世紀初頭にて活躍した、政治漫画家のホセ・グアダルーペ・ポサダの版画が有名である。革命後、インディヘニスモ運動の文脈の中で1930年代からはじまったディエゴ・リベラ、ダビッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコなどの壁画家たちによるメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサンス)は世界の美術史の中でも特出している。ディエゴ・リベラの妻のフリーダ・カーロもメキシコの女流画家として世界中で紹介されている。


■文学
メキシコの作家としては、フアン・ルルフォ、アマード・ネルボ、カルロス・フエンテス、ホセ・エミリオ・パチェコ、オクタビオ・パス、アルフォンソ・レイエスなどが挙げられる。オクタビオ・パスは1990年にノーベル文学賞を受賞した。アルフォンソ・レイエスはアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスに大きな影響を与えた作家としても知られる。革命以降のインディヘニスモ小説としては、ロサリオ・カスティリャーノスの『バルン・カナン』などが挙げられる。


■音楽
メキシコで生まれた伝統的な音楽様式としては、マリアッチやランチェーロ、ノリード、ノルテーニョ、バンダなどが挙げられ、メキシコのフォルクローレではパラグアイやベネズエラのようにアルパが多用される。南部のグアテマラ国境付近ではマヤ系住人によってアフリカ伝来のマリンバが用いられる音楽が盛んである。クラシック音楽の分野ではカルロス・チャベスの名が特筆され、メキシコ国立交響楽団はチャベスによって設立された。

マリアッチ
(Mariachi)は、メキシコを代表する楽団の様式である。しばしば「マリアッチス (mariachis)」と複数形で表現される事もある(王立スペイン語アカデミーなど)が、演奏者のグループをひとまとまりのものとして考えているため、単数形の「マリアッチ」と呼ぶのが正確な用法である。

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メキシコの映画
メキシコにおけるサイレント映画の産業は、確かに映画を製作していた。しかしながら、そのほとんどは1920年代までにすでに散逸し、記録もほとんど残っていない。映画史家のジム・モーラによれば、同国での最初の「活動写真」は、1895年(明治28年)、トーマス・エジソンのキネトスコープを使用して上映されたという。

ヌエーヴォ・シネ・メヒカーノ
El Nuevo Cine Mexicano, 「新しいメキシコ映画」の意)は、1990年代以降にメキシコで起きた映画運動とその映画群を指す語である。1990年代以降、2000年代に至る時代が「ヌエーヴォ・シネ・メヒカーノ」の時代である。アルトゥーロ・リプスタイン、アルフォンソ・アラウ、アルフォンソ・キュアロン、マリア・ノヴァロらが監督したハイ・クォリティな作品群が、その嚆矢である。


フランシスコ・マデロ
1873年10月30日 - 1913年2月22日は、メキシコの革命家。1911年から1913年までメキシコの大統領を務めた。独裁者ポルフィリオ・ディアスの支配下での貧困層の苦境によって影響され、1904年にマデロはベニート・フアレス民主クラブに加わり政治と関係するようになった。 思想的には保守派で裕福な大農場と繊維工場主のマデロはディアス派の幹部だったが、ディアスの長年の独裁に対し反対し、1909年になると「再選反対センター」を設立し週刊紙を発行、最大の反勢力となった。

エミリアーノ・サパタ
1879年8月8日 - 1919年4月10日は、ポルフィリオ・ディアスの独裁政治に対する1910年のメキシコ革命の指導者の一人。彼はメキシコの国民的な英雄のうちの一人と見なされている。20世紀の終わり頃にチアパス州で始まった革命運動サパティスタは彼の名にちなむ。サパタはインディオの血が濃かったものの、厳密に言えば白人との混血であるメスティーソであり純粋なインディオではなかったが、モレロス州のインディオの権利運動に没頭した。


サパティスタ民族解放軍
メキシコで最も貧しい州とされるチアパス州を中心として活動するゲリラ組織である。単にサパティスタと呼ばれることも多い。サパティスタはチアパスの貧しい先住民族の農民達を主体に組織されているが、その支援者はメキシコ国内の都市部などにも幅広く存在し、またウェブサイトを介して世界的な支援を受けている。サパティスタ運動の方法論や主張は、従来の左翼ゲリラと一線を画しているため世界的な注目を得ている。サパティスタ運動は、最初のポストモダン的革命運動であると言われている[要出典]が、それはサパティスタ民族解放軍がインターネットを介して大々的に自らの主張を展開し、またそれによって世界的な支援を獲得したために、もはや武力などの実力を行使せずとも隠然たる影響力をメキシコ政府に対して持つに至ったというまさにIT時代の革命運動だったからである。


マリオ・モリーナ
マリオ・ホセ・モリーナ・エンリケス(Mario Jose Molina Henriquez, 1943年3月19日 − )は、メキシコの化学者。フロンガスによるオゾン層破壊の危険性を指摘して、パウル・クルッツェン、シャーウッド・ローランドとともに1995年度のノーベル化学賞を受賞した科学者である。彼は、自然科学分野のノーベル賞を受賞した最初の、そして現在のところ唯一のメキシコ人である。

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アンドレス・マヌエル・デル・リオ
1764年11月10日 ― 1849年3月23日 は、スペイン出身で生涯の大半をメキシコで送った化学者(鉱物学者)。バナジウムの発見者とされる。1764年にマドリードで生まれ、ドイツのフライベルクなどで学んだ後、1794年にメキシコに派遣されてメキシコ鉱山学校で約50年間にわたって鉱物学、フランス語、スペイン語を教えた。
1801年にメキシコ産の鉱石からバナジウムを発見し、エリスロニウムと命名したが、発表の前にクロム化合物ではないかと指摘をうけ、発表を撤回した。

ダビッド・アルファロ・シケイロス
David Alfaro Siqueiros, 1896年12月29日 メキシコ・チワワ州カマルゴ - 1974年1月6日 メキシコ・モレロス州クエルナバカは、メキシコの社会主義リアリズムの画家(壁画家)、スターリン主義者。ディエゴ・リベラ、ホセ・クレメンテ・オロスコらとともにメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサンス)を立ち上げた、巨大なフレスコ壁画作品で知られている。シケイロスは1896年、メキシコのチワワ州に生まれた。父親はCipriano Alfaro Siqueiros。母親のテレサは音楽家、俳優、詩人の家の出身だった。18歳で(1913年)、シケイロスは美術学校出身の仲間の何人かとベヌスティアーノ・カランサの「護憲軍」に参加し、ビクトリアーノ・ウエルタ政府と戦った。

ホセ・クレメンテ・オロスコ
1883年11月22日〜1949年9月7日は、メキシコの象徴主義の画家、メキシコ壁画運動の著名な芸術家。学校の通学路の近くに、著名な風刺版画家のホセ・グアダルーペ・ポサダのアトリエがあった。そこで見学して、色彩感覚などを学んだとしている。国立農業学校で農業技師の資格を得るが、卒業後、サン・カルロス美術アカデミーに通う。20歳ごろ、火薬を爆発させてしまい左手を失う。1911年の国立美術学校のストライキに参加する。メキシコ革命さなかの1922年の技能労働者・画家・彫刻家連合にも参加する。壁画運動にも加わり、ディエゴ・リベラともに、メキシコ壁画運動を担う。

アルフォンソ・キュアロン
1961年11月28日 - はメキシコ・メキシコシティ出身の映画監督である。メキシコ国立自治大学で映画製作を学んだ。

カフェ・タクーバ
メキシコのロック・バンド。1989年にメキシコで結成。パンクにサンバ、ボサノバ、マリアッチなどのラテン音楽が絶妙に絡み合い生み出されるパーティー要素の高いミクスチャー・ロックを奏でる。ラテン・アメリカ音楽界のトップ・バンドであり、ラテン・グラミー賞を何度も受賞するなど評価面でも高い実績を持つ。

カルロス・チャベス
1899年6月13日 - 1978年8月2日は、メキシコ合衆国のメキシコシティーに程近いポプトラに生まれる。作曲家として、指揮者として、また教育者として名高い。彼の音楽は、メキシコの民族音楽とネイティブアメリカンの音楽、さらにはスペイン風メキシコ音楽の特徴を持つ。それは、ブラジルの音楽家ヴィラ=ロボスと並んで中南米の現代クラシック音楽としては衝撃的でもあった。

ミル・マスカラス
1942年7月15日 - は、メキシコのプロレスラー。本名はアーロン・ロドリゲス(Aaron Rodriguez)。「千の顔を持つ男」「仮面貴族」などのニックネームを持つ。入場テーマ曲はジグソーの『スカイ・ハイ』。メキシコのルチャリブレを代表するルチャドールの一人、そして世界で最も著名な覆面レスラーの一人として、華麗な空中殺法で人気を博した。学生時代からアマチュアレスリングとボディビルに熱中。アマレスではメキシコ代表として東京オリンピックの候補にもなった。ボディビルでは1962年にミスター・メキシコに輝く。

ホルヘ・カンポス
ホルヘ・カンポス(Jorge Campos Navarrete, 1966年10月15日 - )は、メキシコ、アカプルコ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー。小柄だが高い身体能力でメキシコ代表でも活躍し、ワールドカップにも1994年アメリカ大会と1998年フランス大会に出場している。また、フォワードでも試合出場経験があり、UNAM時代には、キーパーと兼任しながらクラブの最多得点を記録したこともある。自らデザインしたカラフルなユニフォームがトレードマークであった。

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サルバドル・サンチェス
1959年1月26日 - 1982年8月12日は、メキシコのプロボクサー。サンティアゴ・ティアンゲステンコ出身。1970年代中盤から1980年代初頭にかけて活躍した選手。元WBC世界フェザー級王者。世界王者のまま交通事故死した。1975年5月4日にプロデビュー。以来19連勝して1977年9月9日、メキシコバンタム級王者アントニオ・ベセラに挑戦するも判定負けを喫した。以後はフェザー級に階級を上げて、プエルトリコフェザー級王者フェリックス・トリニダード・シニア他を撃破しつつ、1980年2月1日、当時テレビにも頻繁に出演していた人気ボクサー、ダニー・ロペスのWBC世界フェザー級王座にアリゾナ州フェニックスで挑戦。タイトル8度防衛の名王者ロペスを完全にアウトボックス、13回TKOに下して見事王座を獲得。同年6月21日の再戦でも14回TKOと、ロペスを返り討ちにした。1981年8月21日の6度目の防衛戦では、ジュニアフェザー級王座を13度防衛した後に階級を上げてきた後の二階級世界王者、プエルトリコのKOキング、ウイルフレド・ゴメスを迎え撃ち、8ラウンドKOで快勝。これによりサンチェスの名声は世界のボクシング界に轟くことになる。以後、後の二階級王者アズマー・ネルソンを下した1982年7月21日の防衛戦まで、9連続防衛を果たした。

フェリペ・カルデロン
フェリーペ・デ・ヘスス・カルデロン・イノホーサ(1962年8月18日- は、メキシコの政治家。現在、同国大統領(第64代)。国民行動党党首。2006年に就任以来、アメリカ合衆国の捜査当局と協調しながら、麻薬の密造・密輸組織(カルテル)の撲滅に全力を挙げている。密輸組織側は、強硬姿勢に対し実力行使で反撃しており、2007年以降数千人の死者を出す状態となっている。

アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール
Andres Manuel Lopez Obrador, AMLO, 1953年11月13日 - は、メキシコの中道左派または左翼政党民主革命党(PRD)に所属する政治家である。1953年タバスコ州生まれ、首都メキシコシティのメキシコ国立自治大学(UNAM)卒業、1970年代に当時の支配政党制度的革命党(PRI)に入党し、1976年に詩人で上院議員のカルロス・ペリセールの選挙運動に参加したことから政界入りする。

エルナン・コルテス
Hernan Cortes, 1485年-1547年12月2日は、スペインのコンキスタドール。初代バジェ・デ・オアハカ侯爵。メキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した。コルテスはアステカ文明を完膚なくまでに粉砕し、その偉大さに全く理解を及ぼさなかった。もっとも、コルテス以外のメキシコのコンキスタドーレスたちも同様であり、自らの傲慢さや残忍さに気付く者はほぼ皆無であった(中南米での虐殺・虐待を告発したコンキスタドーレスも存在したが、激しい批判を受けたため、少数に止まっている)。

アグスティン・デ・イトゥルビデ
(Agustin Cosme Damian de Iturbide y Aramburu, 1783年9月27日 - 1824年7月19日)はメキシコ独立戦争の指導者。メキシコ帝国の皇帝アグスティン1世(在位:1822年 - 1823年)として君臨した。有能な司令官であったイトゥルビデは、1816年に北部メキシコのスペイン軍を指揮すべく配置された。しかし、次第にメキシコ独立軍に同情を寄せるようになり、反乱軍の指導者ビセンテ・ゲレロと秘密交渉をもつに至った。1820年にイトゥルビデは、指揮下のスペイン軍を率いて反乱軍に合流した。この軍は「3つの保証軍」(Ejercito Trigarante)として知られる。

ビセンテ・ゲレロ
Vicente Guerrero, 1782年8月10日 - 1831年2月14日は、1829年4月1日に就任しその年の12月17日に退任した第2代メキシコ大統領。死後は、1833年のサンタアナ大統領就任などで盛り返した共和派によって、名誉回復されている。現在のメキシコでも、「歴史上の人物」として有名であり英雄視されている。メキシコの州名のゲレーロ州(Estado de Guerrero)は、彼にちなんでつけられたものである。

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ベニート・フアレス
(Benito Pablo Juarez Garcia, 1806年3月21日 - 1872年7月18日)は、先住民族から選出された初のメキシコ大統領で、2度(1861年 - 1863年および1867年 - 1872年)大統領を務めた。フアレスは最も偉大で敬愛されるメキシコの指導者であり、「建国の父」とたたえられている。ベニート・フアレスは、オアハカ州サン・パブロ・ゲラタオで生まれた。サポテク・インディオである彼の両親は農夫で彼が4歳の誕生日の前に亡くなり、彼は12歳までトウモロコシ畑の見張り番として働いた。向学心をもったフアレスは1818年12月17日、よりよい生活を見つけるためオアハカへ向かった。オアハカで彼は家僕の職に就き、熱心に勉強した。フランシスコ会士のアントニオ・サラヌエバはフアレスの熱心さと知性に感動し、彼が神学校で学べるように支援した。

ポルフィリオ・ディアス
(Jose de la Cruz Porfirio Diaz Mori、1830年9月15日 - 1915年7月2日)は、メキシコの政治家、大統領。メキシコ革命当時独裁者と称された。無原則な外資導入により、鉄道、石油石炭、鉱山など主要産業は全て外国資本の配下に置かれ、経済発展の恩恵に浴したのは一部の特権階級だけで、労働者、農民は逆に貧しくなっていった。そのためメキシコ革命が勃発し、失脚した。

アルフォンソ・レイエス
(Alfonso Reyes, 1889年5月17日 - 1959年12月27日)は、メキシコの詩人、小説家、評論家、批評家、外交官。外交官としての仕事のかたわら文学研究を行う学者と知られ、さらに詩や小説も手がけ、国内だけではなく、ラテンアメリカ圏、次世代の作家たちに大きな影響を与えた。西洋文学の紹介者としても大きな足跡を残し、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ギルバート・ケイス・チェスタートン、アントン・チェーホフなどを翻訳し、ラテンアメリカ圏に紹介した。

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アルマンド・マンサネーロ
Armando Manzanero, 1935年12月7日 - )は、メキシコ出身のポピュラー音楽の作曲家・歌手。「アドロ」の作曲家として有名である。1935年12月7日に、メキシコのユカタン州メリダに生まれる。先住民のマヤ人の子孫としているサイトもある。1950年に、自作の曲の "Nunca en el mundo" (意味:この世に何もない)を発表するが、この曲は様々な言語による21種類の歌詞がつけられるほど、後に注目を集めることとなる。

ラモン・ノヴァロ
Ramon Novarro, 1899年2月6日 - 1968年10月30日は、メキシコ出身のアメリカ合衆国の俳優である。サイレント映画の時代に「ラテンの恋人」(Latin Lover)として知られた剣戟俳優である。「狂騒の20年代」を代表する人物である。1929年(昭和4年)、シドニー・A・フランクリン監督の『黎明の剣士』が最初のトーキー出演作となった。歌うフランス軍兵士の役であった。1932年(昭和7年)、ジョージ・フィッツモーリス監督の『マタ・ハリ』でグレタ・ガルボと共演し、マーナ・ロイと共演した翌1933年(昭和8年)のサム・ウッド監督の『カイロの一夜』とは対照的な成功を得た。

エリック・モラレス
(Erik Morales、男性、1976年9月1日 - )は、メキシコティフアナ出身のプロボクサー。ニックネームはエル テリブレ(恐怖の男)。スピード、パワー、テクニックを兼ね備えたボクサーファイター。2011年07月17日にはホルヘ・アルセに続き、メキシコ人としては2人目となる4階級制覇 (スーパーバンタム級、フェザー級、スーパーフェザー級、スーパーライト級)を達成。

リカルド・ロペス
Ricardo Lopez Nava、男性、1967年7月25日 - は、メキシコの元プロボクサー。元WBA・WBC・WBO世界ミニマム級王者。元IBF世界ライトフライ級王者。「小さな巨人」「エル・フィニート(素晴らしい)」などの異名を持った。アマチュア戦績40戦全勝を経て、1985年1月18日、プロデビュー。2000年12月2日、1年2か月ぶりの初防衛戦。元IBF世界ミニマム級王者でもあるラタナポン・ダッチボーイジム(タイ)とマンダレイベイで対戦し、3回TKO勝ち。翌2001年9月29日、2度目の防衛戦ではラタナポンと同じ元IBF世界ミニマム級王者ゾラニ・ペテロ(南アフリカ)と対戦し、8回TKO勝ち。この試合を最後に2002年、王座在位のまま現役を引退。1つの引き分けこそあったものの、アマ・プロ通じ、1度の敗戦も経験することなくリングを去った。アマチュアボクシング: 40戦 40勝 28KOプロボクシング: 52戦 51勝 37KO 1分

リカルド・フロレス・マゴン
(Ricardo Flores Magon, 1874年9月16日 - 1922年11月21日)は、メキシコの社会運動家、無政府主義者。フロレス・マゴンはメキシコ独立記念日にオアハカ州で生まれる。彼は多くの無政府主義者の著作を学んだ。ミハイル・バクーニンやピエール・ジョゼフ・プルードンの作品を読んだが、同時代の無政府主義者達の影響を受け、特にピョートル・クロポトキンからの影響を大きく受けた。

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