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ジャマイカ
Jamaica
<中南米>

北中アメリカ

■地理
ジャマイカは大アンティル諸島で三番目に大きい島であり、キューバから 160km 南に位置する、面積 10,991km2 の島国である。山がちな島で中央部には山脈が連なり、国内最高峰は首都キングストンの東部近郊にあるブルーマウンテン山脈のブルーマウンテン山(2256m)である。ジョン・クロウ山脈(1143m)はブルーマウンテン山脈のすぐ付近にあり、ブルーマウンテン山脈と共に国立公園になっている。


中央アメリカ
メキシコの南東部の国境からコスタリカとパナマとの国境までの地域を指す。西インド諸島を含み、メキシコや南アメリカと併せてラテンアメリカ(中南米)と呼ばれる。地理的には、メキシコのテワンテペック地峡からパナマ地峡までである。

カリブ海
Caribbean Seaは、メキシコ湾の南、大西洋に隣接する水域である。南はベネズエラ、コロンビア、パナマに、西はコスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、グアテマラ、ベリーズ、そしてメキシコのユカタン半島に、北はキューバ、イスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国、ジャマイカ、プエルトリコといった大アンティル諸島に、東は小アンティル諸島に接している。

大アンティル諸島
Greater Antillesは、中央アメリカのカリブ海にある諸島。フロリダ半島およびバハマの南方、ユカタン半島の東方、小アンティル諸島の西方に位置する。北は大西洋に面している。古くはタイノ族が大アンティル諸島各地に住んでいたが、大航海時代以降ヨーロッパ諸国が進出して植民地とし、アフリカから奴隷を大勢連れてきて鉱山や農場を経営した。

ジャマイカ海峡
Jamaica Channelは、カリブ海に浮かぶジャマイカ島とイスパニョーラ島との間にある海峡である。海峡の中にはアメリカ合衆国領のナヴァッサ島がある。北のキューバ島とイスパニョーラ島の間はウィンドワード海峡(Windward Passage)で、キューバ島とジャマイカ島の間はケーマン海峡(Cayman Channel)がある。

ペドロ諸島
Pedre Islands、はカリブ海のジャマイカの南西70Kmに位置する、4つの小さな島と、さらに小さな島々からなる岩礁のジャマイカ属領の無人島である。

モラント諸島
Morant Islands、モラント岩礁、Morant Caysはカリブ海はジャマイカのモラント湾から南50Kmに位置する無人の3つの小さな島からなるジャマイカ属領の島である。1862年にイギリスによって占領され、1882年にジャマイカに付け加えられた。 時々、近くのペドロ諸島と共にGuano Islandsとも呼ばれている。 無人島だが、漁期にジャマイカ人の漁師が訪れる。 島の海鳥卵と鳥糞石が集められている。


<歴史>
ヨーロッパ人の到来する前のジャマイカには、南米のギアナ地方から渡ってきたとされるアラワク系のタイノ人や、カリブ人が存在していた。

■1492年
クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を「発見」すると、多くのヨーロッパ人がジャマイカを訪れた。1494年にはコロンブス自身が第二回航海において、ジャマイカ島を「発見」した。その後1509年にスペイン領となった。スペインはこの地にサトウキビのプランテーションを設置して、アラワク族を容赦なく酷使したため、その数が著しく減少した。

■1655年
イギリス護国卿オリヴァー・クロムウェルの命を受けてのイスパニョーラ島攻略に失敗したイギリス海軍提督ペン(アメリカ合衆国のペンシルベニア州を創設したウィリアム・ペンの父)とベナブルズ将軍が、残存兵力を率いてジャマイカに侵攻し、ほぼ無血でこの島を占領した。

■1865年
英国の支配に対する大規模な黒人の反乱が起き、総督エアは召喚されてジャマイカは英国の直轄領となった(ジャマイカ事件)。1938年にジャマイカ労働党(JLP)が設立され、1958年から1961年まで西インド連邦が樹立。

■1959年
イギリスから自治権を獲得し、1962年にイギリス連邦加盟国として独立した。なお、独自の元首を持たず、イギリス国王を元首とした(英連邦王国)。その後、保守のジャマイカ労働党と非同盟・民主社会主義政党の人民国家党が交互に政権に携わっている。近年は親米路線を踏襲している。


西インド連邦
West Indies Federationは、1958年から1962年までの間に存在したイギリス連邦内の自治国である。カリブ海地域のイギリス植民地で構成され、連邦制を採用していた。カリブ海のイギリス領島嶼を統合し、将来的な独立を視野に入れた、外交と防衛を除く自治権を有する半独立国としてスタートした。しかし、広大なカリブ海に点在する島々を無理矢理繋ぎ合わせたため、島によって人種、産業、政治制度、歴史の相違は著しく、国の中心的役割を担うトリニダード島とジャマイカ島は1500キロメートルもの隔たりがあるなど、当初から問題は山積していた。


ジャマイカ事件
1865年10月11日、ジャマイカ東部のセント・トーマス教区で、ポール・ボーグル(Paul Bogle)が200人から300人の男女の黒人を率いてモラント・ベイの市街へ乱入した事件。この反乱事件は後に「モラント湾の暴動」(ジャマイカ事件)として知られるようになる。この暴動とその影響はジャマイカ史における主要なターニング・ポイントとなっただけでなく、イギリス本土での大論争を引き起こした。現在でもこの暴動は議論の的となっており、黒人や植民地研究の専門家によってしばしば言及されている。


■国民
先住民のアラワク人は、南アメリカにインカ帝国を築いたのとは同じ民族ではないが(インカ帝国を築いたのはケチュア人)、多くの新大陸のインディオと同じようにヨーロッパから持ち込まれた疫病に対して免疫力が無く、植民地時代に絶滅した。


クレオール言語
クレオール言語(クレオールげんご)とは、意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その話者達の子供により母語として話されるようになった言語を指す。公用語や共通語として話されている地域・国もある。

ジャマイカ英語
Jamaican English)またはジャマイカ標準英語は英語の方言であり、独自の方法でアメリカ英語とイギリス英語方言の一部、またそれらが融合したものを含んでいる。ジャマイカ英語では通常はイギリス英語の綴りを使用するが、アメリカ式の綴りも使用される。

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■言語
イギリスの旧植民地だったこともあり、公用語はイギリス英語である。日本で出版されているガイドブックなどでは『ジャマイカではパトワ語が話されている』という記述を見ることがあるかもしれないが、そもそもパトワという名前はカリブ海諸国におけるヨーロッパ言語のクレオール語の総称であり、ジャマイカの起伏が激しい地形も手伝って地域色も色濃い為必ずしも正しいとは言えない。


■宗教
宗教はプロテスタントが 61.3% 、ローマ・カトリックが4%、その他(ラスタファリ運動、イスラム教、ユダヤ教、無宗教者を含む)が34.7%である。ジャマイカのプロテスタントはヴードゥー教やサンテリアのように、ジャマイカで独自のアフリカ的発展を遂げたものもある。


バハーイー教
19世紀半ばにイランでバハーウッラーが創始した一神教である。
イランでは初期から布教を禁止され、バハーウッラーと信者はイランからイラク、トルコを経て、当時オスマン帝国の牢獄の町であったアッカ(現イスラエル領)へと追放され、投獄生活ののち放免され、そこで一生を終えたため、今日ではイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を持つ。信徒数は公称600万人、189ヶ国と46の属領に広がっており、ブリタニカ百科事典によると現在布教国数でキリスト教に続き世界で二番目に広がりを見せている宗教である。


アラワク族
(Arawak)とは、南米ボリビアの北西部やペルーのモンクーナヤ地方、スリナムとガイアナおよびアマゾン下流域などに定住するインディアンで、アラワク語を話す。スペイン人による新大陸侵入以来、アラワク族は急激にその数を減じて行った。特に、西インド諸島に定住していたアラワク族は、敵対していたカリブ族やヨーロッパ人の侵攻などにより、民族としての滅亡への道を辿る。小アンティル諸島に定住していたアラワク族は、まず、同じ南米から来たカリブ族に追いやられた。そして、西インド諸島の島々がヨーロッパ人により次々と征服されると、キューバやジャマイカやイスパニョーラ島など大アンティル諸島の島々に定住していたアラワク族は強制労働を強いられた。

タイノ族
(Taino) は、アラワク族語系に属するキューバ、イスパニョーラ島(ハイチとドミニカ共和国)、プエルトリコ、そしてジャマイカを含む大アンティル諸島とバハマ諸島の、クリストファー・コロンブス到着以前から先住するインディアン部族である。南アメリカのアラワク族が航海してきたものと見られる。最近の調査結果では、タイノ族はアンデスの部族、特にコラ族 (Collas) から派生している可能性を示している。彼らの言語は南アメリカからカリブ海までの、かなり広範囲にわたって使用されたアラワク語族である。

カリブ族
カリブ族(Caribs、カリナゴ族、Kalinagoとも言う)とは南アメリカを原住地とするカリブ語系のインディオである。西インド諸島は小アンティル諸島の島嶼カリブ、中米カリブ海沿岸のブラック・カリブ、コロンビア、南アメリカのベネズエラ、ガイアナ、スリナム、仏領ギアナ、ブラジルに散在する大陸カリブの3つに区分される。バーベキューやハリケーン、カニバルなどの単語をもたらした。


マルーン
(Maroon)は西インド諸島、中央アメリカ、南アメリカ、北アメリカの逃亡奴隷である。マルーンの居住地は南はアマゾン川流域から北はアメリカ合衆国のフロリダ州とノース・カロライナ州まで、西半球の広範囲にわたる。

ムラート
(Mulatto, Mulato)は、ラテンアメリカ及び北アメリカでヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血を指す言葉である。ムラットともいう。なお、女性だけを指していう場合はムラータ(Mulata)という。

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■経済
鉱業がジャマイカの経済を支えていると言える。ボーキサイトは世界第4位の生産量(1312万トン、2002年)である。ボーキサイト以外の鉱物資源は金、塩のみである。高級コーヒー豆として有名なブルーマウンテンの80%は日本に輸出されている。コーヒー豆の生産は3000トンに留まる。コーヒー豆の生産量は世界生産量の0.04%に過ぎない。工業は食品工業、繊維業に偏る。観光も主要産業で、モンテゴ・ベイやオーチョ・リオスなどは、有名なリゾート地である。しかし、犯罪が多いため周囲に壁やフェンスを張りめぐられたリゾート施設が増えてきている。ほか、軽工業とアメリカ企業へのデータの電算機処理は成長部門である。

ボーキサイト
bauxite、鉄礬土(てつばんど))は、酸化アルミニウム(Al2O3、アルミナ)を 52% - 57% 含む鉱石である。実際には、ギブス石 (gibbsite、Al(OH)3)、ベーム石(英語版) (boehmite、AlO(OH))、ダイアスポア (diaspore、AlOOH) などの水酸化アルミニウム鉱物の混合物であり、鉱物ではない。アルミニウムの原料である。

ブルーマウンテン
(Blue Mountain)とは、ジャマイカにあるブルーマウンテン山脈の標高800〜1200mの限られた地域で栽培されるコーヒー豆のブランド。ブルーマウンテンの特徴として、香りが非常に高く、繊細な味であることが挙げられる。香りが高いため、他の香りが弱い豆とブレンドすることが多い。


■ジャマイカ人移民
過去数十年の間に、百万人近いジャマイカ人が、主にイギリス、アメリカ合衆国、カナダに移住した。これらの移民は最近では数が少なくなっている。しかし、海外に居住する膨大な数のジャマイカ人は「ジャマイカ人のディアスポラ」として知られるようになった。また、キューバへのジャマイカ人の移民もあった。


■音楽
スカ以前においてメントはトリニダード・トバゴのカリプソと混同されながらも1950年代にアメリカ市場で成功し、ジャマイカ音楽の世界での成功の基盤を築いた。1960年代初頭にジャズなどのアメリカ合衆国のポピュラー音楽の影響を受けてスカが誕生し、その後ロックステディを経て、1960年代後半にレゲエが誕生し、ダブやダンスホール・レゲエ、ラガマフィンなどの音楽ジャンルが生まれた。1970年代のボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの世界的ヒット以降、レゲエとそのサブジャンルは世界的に認知を広げ、各地のポピュラー音楽に対して影響を与えている。


スタジオ・ワン
(Studio One)は、ジャマイカのレコーディングスタジオ、レコードレーベル。レゲエをはじめジャマイカのポピュラー音楽スタイルの基礎を築いたレーベルであることから「ジャマイカのモータウン」と呼ばれる事もある。1957年、ダウンビートというサウンドシステムを運営していたコクソン・ドッドは自身初のレーベルとなるワールディスクを設立。アルトン&エディの「ミュリエル」をプロデュースし、ヒットを記録した。しかしながらこの曲はフェデラル・スタジオで録音されたものだった。


ダブ
(dub)は、レゲエから発祥した音楽手法、および音楽ジャンル。ダブワイズ(dubwise)とも呼ぶ。ダブ制作に携わる音楽エンジニアのことを特にダブ・エンジニアという。ダブは(レゲエ)楽曲のリズムを強調してミキシングし、エコーやリバーブなどのエフェクトを過剰に施すことで、原曲とは全く別の作品に作り変えてしまうことである。リミックスの元祖とも言われる。

ダンスホールレゲエ
(Dancehall Reggae, または略してダンスホールDancehall)は、1970年代後半に、ジャマイカのサウンドシステム文化の中で生まれたポピュラーミュージックのひとつ。ダンスホールのリディムは通常ルーツ・ロック・レゲエよりもはるかに速く、演奏はドラムマシンやサンプラーなどの打ち込みによって制作される。

ラガマフィン
ラガマフィン音楽(Raggamuffin music)は、レゲエの1ジャンル、またはダンスホール・レゲエの1ジャンルである。ラガ(Ragga)とも呼ばれる。音楽的には電子音楽的な要素で構成されており、サンプリングの手法も頻繁に用いられる。


クール・ランニング
Cool Runnings)は、ジョン・タートルトーブ監督のコメディ映画。ジャマイカのボブスレーチームが、カナダのアルバータ州カルガリーで1988年に行われた冬季オリンピックで立てた功績を元にした映画である。


アルトン・エリス
Alton Nehemiah Ellis、1938年9月1日 − 2008年10月10日はジャマイカ出身の歌手、ソングライター、音楽プロデューサー、レーベル経営者。ジャマイカで発祥したポピュラー音楽ジャンル、ロックステディを確立した音楽家の一人であることからゴッドファーザー・オブ・ロックステディと、またジャマイカにおけるリズムアンドブルース (R&B) 及びソウルミュージックの第一人者であることとその歌唱法からミスター・ソウル・オブ・ジャマイカという異名を持つ。

マイケル・マンリー
(Michael Norman Manley, 1924年12月10日 - 1997年3月6日)は、ジャマイカの第5代首相(任期1972年 - 1980年、1989年 - 1992年)である。 ジャマイカ首相ノーマン・マンリーの次男として生まれ、1969年、父親の死の数カ月前にジャマイカ人民国家党の党首となる。1972年、不人気だった現職首相、ヒュー・シアラー (彼の従兄弟)を選挙で徹底的に打ち破った。 社会経済の再建を政策に掲げ、成功。彼はエリート家族出身の二人種間混血のジャマイカ人だったが、その成功は労働組合が後押しし、国の貧しい黒人の多数派との近い関係を築き、精力的で人気がある指導者となった。

ボブ・マーリー
Bob Marley、1945年2月6日 - 1981年5月11日、出生名ロバート・ネスタ・マーリー Robert Nesta Marleyは、ジャマイカのレゲエミュージシャン。その音楽はラスタファリ運動の思想を背景としており、彼の音楽と思想は数多くの人々に多大な影響を与えた。1950年代にキングストンに移り、バニー・ウェイラーと共に音楽活動を開始する。1959年 14歳のときには音楽に専念するため学校を中退する。トレンチタウンに在住しジョー・ヒッグスに音楽的薫陶とラスタファリ運動の教えを受ける。

マーカス・ガーベイ
Marcus Mosiah Garvey, 1887年8月17日 - 1940年6月10日は、黒人民族主義の指導者、ジャーナリスト、企業家。世界黒人開発協会アフリカ会連合(UNIA-ACL)の創設者。ジャマイカの国民的英雄であり、20ジャマイカドル硬貨の肖像になっている。1887年ジャマイカのセント・アンに生まれる。キングストンで印刷工として働いた後、1912年にロンドン(イギリス)に向けて発つ。 そこでデュセ・モハメド・アリの発行する新聞社に勤務しながら、ブッカー・T・ワシントンの著作を読みふけり、時にはハイド・パークのスピーカーズコーナーに立ち、演説をした。

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ガーネット・シルク
Garnett SilkまたはGarnet Silk、1966年4月2日 - 1994年12月10日はレゲエ・ミュージシャン、ラスタファリアン。「ガーネット・シルク」の名付け親はスティーリー・ジョンソン。12歳の時、リトル・ビムボの名でディージェイとしての活動を開始、様々なサウンド・システムで修行を積む。初のレコーディングは1987年の「Problem Every Where」。その後活動拠点をキングストンへと移し、シンガーへと転向する。1990年頃から頭角を現し、影響を受けた多くのアーティストがラスタ的な歌を書くようになる。

ジョー・ヒッグス
Joe Higgs、1940年6月3日 - 1999年12月18日は、ジャマイカのミュージシャン。トレンチタウンでジミー・クリフ、ボブ・マーリーらに音楽を教えたことから「レゲエの父」と呼ばれた。スカが流行した1960年代、彼はロイ・ウィルソンと共にデュオ「ヒッグス&ウィルソン」として活躍した。またボブ・マーリーら、ウェイラーズに音楽を教えた人物でもある。代表曲に『There's a reward』、ピーター・トッシュがカバーして有名になった『Stepping Razor』などがある。

パトリック・ユーイング
パトリック・アロイシャス・ユーイング(Patrick Aloysius Ewing, 1962年8月5日 - )はジャマイカのキングストン出身の元バスケットボール選手。NBAのニューヨーク・ニックスなどで活躍した。ポジションはセンター。リーグを代表するセンタープレイヤーの一人として現役時代を過ごした。1984年と1992年のオリンピック金メダリスト。

ドン・クォーリー
Donald "Don" O'Riley Quarrie、1951年2月25日 - は、ジャマイカの陸上競技選手である。1970年代を代表するスプリンターである。キングストン出身。1976年のモントリオールオリンピックでは初めて怪我なく万全な形で競技することができた。まず100mでは、金メダルを獲得したトリニダード・トバゴのヘイズリー・クロフォードに最後に追い抜かれたものの、オリンピックで初めてのメダルである銀メダルを獲得した。200メートルで、クォーリーは直線に出るまで一団をリードし、直線でも2位以下を近寄らせず、20秒22のタイムで初めての金メダルを獲得した。

プリンス・バスター
Prince Buster、1938年5月28日 - 本名セシル・バスタメンテ・キャンベル (Cecil Bustamente Campbell) は、ジャマイカ・キングストン出身のムスリムの歌手、プロデューサー、サウンドシステムオーナー。スカとロックステディの歴史の中で最も重要な一人とされる。1950年代には、ボクサーとして活躍した腕っぷしで、コクソン・ドッドのサウンド・システム、ダウンビートで用心棒として働く。1958年にソロ・デビュー。彼が1960年代に「ブルービート」レーベルで録音した『アル・カポン』などのスカ・ナンバーは、特に後のイギリスの2トーンムーブメントに大きな影響を与えた。1964年、モハメド・アリとの出会いを経てネーション・オブ・イスラムに参加。

ポーシャ・シンプソン=ミラー
(Portia Lucretia Simpson-Miller, 1945年12月12日 - )は、ジャマイカの政治家。現在、同国首相(2期目)。同国初の女性首相である。所属政党は人民国家党。2006年5月29日にオーダー・ザ・ネーション(ジャマイカにおける名誉顕彰)に推され、夫とともに最高栄誉表彰を授与された。

ノーマン・マンリー
(Norman Washington Manley、1893年7月4日 - 1969年9月2日)は、ジャマイカの政治家。1920年代のジャマイカで弁護士になる。 いとこであるアレクサンダー・バスタマンテと共に、1944年、英領ジャマイカに与えられた国民参政権を支持した。1938年、後に英国労働組合と国民労働者組合と手を結び、左翼的な人民国家党(People's National Party, PNP)を創設する。バスタマンテと共に、1944年から1967年までの選挙の際にPNPを導いた。彼らの努力は、1944年に新憲法を制定し、国民に普通選挙権を付与した。

イエローマン
(Yellowman, 本名:ウィンストン・フォスター (Winston Foster), 1956年1月15日 - )はジャマイカ・ネグリル出身のレゲエディージェイ。ダンスホールレゲエ最初の国際的スターであり、キング・イエローマン (King Yellowman) の異名を持つ。芸名の由来はアルビノの黒人である彼の肌が黄色く見えるため。イエローマンはジャマイカでは差別を受けることが多いアルビノであったため、幼少期に両親に捨てられてしまう。島内の孤児院を転々とした後、多くの音楽家を輩出していることで知られるキングストン市のアルファ・ボーイズ・スクールというカトリック系私立学校で教育を受けた。

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アール・チナ・スミス
アール・チナ・スミス(Earl "Chinna" Smith)はジャマイカのギタリスト。単にアール・スミス(Earl Smith)と表記されることも。レゲエバンド、ソウル・シンジケート(Soul Syndicate)のギタリストであり、1970年代から数多くのジャマイカのアーティストとセッションをし、レゲエのリズム・ギターの領域では第一人者となった。スミスはソロ活動だけではなくシンガーのバッキングにおいても才能を発揮しており、グラミー賞を受賞しているレゲエの曲の半分で、彼がギターを演奏している、と言われている。

リントン・クウェシ・ジョンソン
(Linton Kwesi Johnson、1952年8月24日生 - )はジャマイカ・クラレンドン教区チャペルトン出身で、イギリスロンドンを拠点に活動する詩人。愛称はLKJ。ジャマイカ・クレオール語(ジャマイカン・パトワ)を多用した詩をレゲエのリディムに乗せて朗詠する「ダブ・ポエット」として活動している。2004年よりミドルセックス大学客員教授。1952年、ジャマイカクラレンドン教区チャペルトンに生まれる。1963年、11歳のときイギリス・ロンドンのブリクストン地区に移住する。ジョンソンはロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ社会学部在学中にブラックパンサー党に入党し、ラスタ・ラブ (Rasta Love) という詩人とドラマーのグループと共に詩のワークショップを行っていた。

ウィリアム・ペン
ウィリアム・ペン(Sir William Penn、1621年 - 1670年9月16日)は、イングランドの提督。フィラデルフィア市を建設したウィリアム・ペンの父親である。第一次英蘭戦争でイングランド海軍に従軍し、ケンティッシュノックの戦い(1652年)、ポートランドの戦い、ガバードの戦い、シェヴェニンゲンの戦い(1653年)で戦隊を指揮した。1655年艦隊を指揮してジャマイカを占領、イングランド領とした。

アサファ・パウエル
(Asafa Powell, 1982年11月23日 - )は、ジャマイカの陸上選手である。種目は主に100m中心。身長190cm、体重88kg。ジャマイカ・セント・キャサリン教区出身。5人の兄すべてが陸上短距離選手。父のウィリアムス・パウエルは100mで10秒2、母のシスリン・パウエルは11秒4、5人の兄も全員10秒5以内の記録を持つというスプリンター一家である。

クロード・デイヴィス
Claude Davis, 1979年6月3日 - は、ジャマイカ、キングストン出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー。高さがあり一対一にも強いセンターバックでジャマイカ代表プレーヤー。空中戦の強さはもちろんだが、足元の技術も高くセンターハーフとして起用される事もある。

リカルド・ガードナー
(Ricardo Gardner, 1978年9月25日 - )はジャマイカ出身の同国代表選手で、プレミアリーグ・ボルトン・ワンダラーズFC所属のサッカー選手である。ポジションはDF(左サイドバック)。ミッドフィールダーとしても左サイドまたは中央よりの位置でプレイする。

セオドア・ウィットモア
Theodore Whitmore, 1972年8月5日 - は、ジャマイカ・キングストン出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF。現在、サッカージャマイカ代表の監督。2005年10月に引退するまで、国際試合には105試合出場し、24ゴールを挙げた。1993年にデビューし、1998年のFIFAワールドカップで活躍し、日本戦では2ゴールを挙げ、ジャマイカの唯一の勝利に貢献した。同年、「カリブ海年間最優秀サッカー選手」に選ばれた。

リカルド・フラー
Ricardo Dwayne Fuller, 1979年10月31日 - は、ジャマイカ・キングストン出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。2012年現在はイングランドプレミアリーグのストーク・シティFC所属。2000年よりサッカージャマイカ代表メンバー。2000年にはサッカージャマイカ代表に初招集され、2012年現在まで10番を与えられている。2001年2月には100万ポンド(約1億7700万円)の移籍金でイングランド3部リーグのクリスタル・パレスFCに移籍した。

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スライ&ロビー
(Sly and Robbie) は、最も幅広く、そして長く活動しているレゲエのリズムセクションである。 ドラマーのローウェル・ダンバー(スライ・ダンバー Sly Dunbar。彼の好きなミュージシャン、スライ・ストーンにちなんで愛称で呼ばれる。二人のリズムセクションは、1970年代の半ばに、この名義で活動を始める。彼らが製作に携わった楽曲は20万曲にものぼると言われている。

オーガスタス・パブロ
(Augustus Pablo、1954年6月21日 - 1999年5月18日)は、1970年代に活発に活動したジャマイカのルーツロックレゲエとダブの音楽プロデューサーであり、キーボード奏者。それまでは学習用の楽器であると考えられていたメロディカを本格的に音楽に取り入れた、おそらくは最初の人物である。キングストン・カレッジ・スクールでオルガンの演奏を学ぶ。音楽に興味のある友人たちと一緒に学校の礼拝堂に忍び込み、オルガンの練習をしていた。

ムタバルーカ
Mutabaruka, 1952年12月26日 - はジャマイカ・キングストン市レータウン地区出身のダブ・ポエット。ムタバルーカとはルワンダ語で「常に勝利を得る者」という意味である。電話局に勤務していた青年期にカトリックからラスタへ改宗し、頭髪のドレッドロックスを育てた。1980年には処女詩集『The First Poems』を出版。1983年にアール・チナ・スミスらが参加したデビューアルバム『Check It!』を、ブルースのレーベル「アリゲーター・レコード」からリリースした。1999年には、ハウスのリズムに合わせて詩を朗読した『Dis Poem '99』をリリースするなど、レゲエの枠に捉われず楽曲を制作している。

レナード・ハウエル
(Leonard Percival Howell, 1898年6月16日 - 1981年)は、ジャマイカ出身のラスタファリ運動の創設者。1930年11月2日、ハイレ・セラシエ1世はエチオピア帝国皇帝に戴冠された。これをハウエルはマーカス・ガーヴェイが1920年代に発言した「預言」(「アフリカを見よ。黒人の王が戴冠する時、解放の日は近い」)の現実化であると解釈した。

ジャマイカ Jamaica
中央アメリカ、カリブ海の大アンティル諸島に位置する立憲君主制国家であり、英連邦王国の一国である。島国であり、ケイマン海峡を隔てて北にキューバとケイマン諸島が、ジャマイカ海峡を隔てて東にイスパニョーラ島に位置するハイチとドミニカ共和国が存在する。首都はキングストン。

キングストン
Kingstonは、カリブ海の島国ジャマイカの首都。ジャマイカ島の南東部の湾に位置しており、キングストンの背後にはブルーマウンテン・コーヒーで有名なブルーマウンテン山脈が聳え立っている。人口約80万人のジャマイカ一の大都会で、ビジネス関連のホテルやビルが立ち並ぶ。

トレンチタウン
Trenchtownは、ジャマイカのキングストン市にあるゲットー・エリア。 地名は下水道のために作られた大きな堀 (トレンチ) に由来している。 居住者の大部分は貧しく、幼児死亡率は非常に高い。グラッドストーン・アンダーソン、アルトン・エリス、デルロイ・ウィルソン、リロイ・シブルス、バウンティ・キラーなど多くのレゲエ音楽家の出身地であるほか、ボブ・マーリー、ジョー・ヒッグス、ピーター・トッシュ、バニー・ウェイラー、ジョン・ホルト、ボブ・アンディ、マーシャ・グリフィス、ブルース・バスターズ、トニー・グレゴリーなどの音楽家もトレンチタウンを活動の拠点とした。


ノーマン・マンレー国際空港
Norman Manley International Airportとは、ジャマイカの首都、キングストンにある国際空港。ジャマイカのフラッグ・キャリアであるエア・ジャマイカの本拠地である。政治家・ノーマン・マンレーにちなむ。

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外務省:ジャマイカ
在ジャマイカ日本国大使館


■教育
6歳から11歳までが義務教育期間となっている。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.9%である。主な高等教育機関としては西インド諸島大学(1948年)、ジャマイカ工科大学(1958年)、北カリブ大学(1919年)などが挙げられる。


西インド諸島大学
(University of the West Indies, UWI) は西インド諸島の英語を公用語とする17の国と地域が自治・運営する大学である。本学はジャマイカのモナ、トリニダード・トバゴのセント・オーガスティン、バルバドスのケイブヒルの三つのキャンパスがある。


オーチョ・リオス
(Ocho Rios) は、ジャマイカの北の海岸、セント・アン教区に位置する街。スキューバ・ダイビングや他の水上スポーツでよく知られた観光地である。町の名は スペイン語で「8つの川」を意味する。オーチョ・リオスは観光地になる前は、さびれた漁村だったが、現在ではジャマイカの観光産業において、モンテゴ・ベイに次いで重要な街となった。

モンテゴ・ベイ
(Montego Bay)とは西インド諸島はジャマイカ島の西部の北側に位置するジャマイカ第2の都市。通称モベイ(MoBay)。クルーズ船の埠頭、工業フリーゾーンもあるセント・ジェームズ教区の中心地とするシー・ドナルド・サングスタ国際空港という、ジャマイカで最も巨大な空港などがあり、モンテゴ・ベイは、ジャマイカの観光の為の空の玄関口である。

スパニッシュ・タウン
スパニッシュ・タウン(Spanish Town)は、16世紀から19世紀の間の、スペイン領および英国領時代のジャマイカのかつての首都で、世界遺産に登録されている。英国国外の最古の聖公会の教会がある。スパニッシュ・タウンの人口は148,845人で、急激に増えており、そのため都市の暴力と犯罪が目に見えて増加している。政府による暴力を止めるための施策はどれもうまくいっていない。

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ネグリル
(Negril)は、ジャマイカのウェストモアランド教区とハノーバー教区にまたがって位置する大きなビーチ・リゾートの町。 ウェストモアランド教区はジャマイカの西端の教区で、島の南側に位置する。ダウンタウン・ネグリル、ダウンタウンの南のウエスト・エンド・クリフ・リゾート、7マイルの海岸の南側がウェストモアランド教区になる。

アコンポン
(Accompong)は、ジャマイカのセント・エリザベス教区の丘陵に位置する、歴史的なマルーンの村落である。英国の支配から逃げた奴隷が移り住んだ地域のひとつで、今日も現存している。住民は、200から300年前に由来するアフリカ文化と同様の習慣と文化を持つ。アコンポンの名前は、英国からの支配からの解放を求めて戦ったマルーンの指導者、クジョー(Cudjoe)の弟の名前にちなんで名付けられた。


クラレンドン教区
(Clarendon)は、ミドルセックス郡にあり、ジャマイカの南に位置する教区。州都はメイ・ペン。島の東端と西端のちょうど真ん中に位置する。クラレンドン教区は、大法官のクラレンドン伯爵エドワード・ハイドを称えて命名された。この教区は、セント・ドロシーズ、ヴェレ、そして昔の教区、カレンドンの3つの教区の組み合わせで形成された。

マンチェスター教区
(Manchester)は、ミドルセックス郡にあり、ジャマイカの中西部に位置する教区。州都マンデビルは、主要なビジネスセンターであり、ジャマイカの州都では唯一、海にも川にも面していない。ジャマイカの7人の国民的英雄の一人である、ノーマン・ワシントン・マンリー(1969年没)はこの教区で生まれた。

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セント・アン教区
(Saint Ann Parish)は、ミドルセックス郡にあり、ジャマイカの北の海岸に位置する。ジャマイカ最大の教区。州都はセント・アンズ・ベイ。その自然の美しさから、「ジャマイカの庭」とも呼ばれている。セント・アン教区は、西暦600年から650年頃にすでに人が住んでいたとされる、ジャマイカの島で最古の居住地のひとつである。タイノ族、アラワク族の拠点があったと信じられている。

ポートランド教区
(Portland Parish)は、州都ポートアントニオがある、ジャマイカの北東の海岸に位置するサリー郡の教区。 セント・トーマス教区の北、セント・メアリー教区の東に位置する。ジャマイカの農村地域の1つであり、すばらしいビーチで知られている。

セント・アンドリュー教区
(Saint Andrew Parish)は、ジャマイカのサリー郡の南東に位置する教区。州都ハーフ・ウェイ・トゥリー。首都キングストンの北に横たわり、ブルーマウンテン山までのびている。ジャマイカの7人の国民的英雄であるジョージ・ウィリアム・ゴードン(1865年没)は、この教区で生まれた。

セント・トーマス教区
(Saint Thomas Parish)は、サリー郡にあり、ジャマイカの南東端に位置する教区。ジャマイカの7人の国民的英雄の一人、ポール・ボーグルの出生場所である。州都モラント・ベイは、ポール・ボーグルとジョージ・ウイリアム・ゴードンが指揮したモラント・ベイの暴動(ジャマイカ事件)の発生地である。

ウェストモアランド教区
(Westmoreland)は、ジャマイカの島の南側の最西端に位置する教区。コーンウォール郡で、ハノーバー教区の南、セント・ジェームズ教区の南西、セント・エリザベス教区の北西に位置する。州都サバナラマル。有名な観光地、ネグリルもこの教区にある。1938年、フローム製糖会社で起こった暴動は、ジャマイカの歴史の道筋を変えた。これらの暴動の結果、1944年の普通選挙権の成立へとつながり、結局これがジャマイカを自治と独立に導くことになる。2人の国民的英雄、アレクサンダー・バスタマンテ卿とノーマン・ワシントン・マンリーが、この間に政治的指導者として現れた。

ハノーバー教区
(Hanover)は、ジャマイカの北西の端に位置する教区。州都はルシア。コーンウォール郡の一部であり、東にセント・ジェームズ教区、南にウェストモアランド教区が接する。

セント・エリザベス教区
(Saint Elizabeth)は、ジャマイカで2番目に大きい教区。コーンウォール郡で、島の南西に位置する。州都ブラック・リバーは、島で最も長い同名の川の河口に位置する。

セント・ジェームズ教区
(Saint James)は、ジャマイカの島の北西端に位置する教区。もともとスペイン人にマンテカと呼ばれていた州都モンテゴ・ベイは、キングストンに続いて、1981年にジャマイカで二番目に名付けられた都市。

マンチェスター教区
(Manchester)は、ミドルセックス郡にあり、ジャマイカの中西部に位置する教区。州都マンデビルは、主要なビジネスセンターであり、ジャマイカの州都では唯一、海にも川にも面していない。

ポートランド教区
(Portland Parish)は、州都ポートアントニオがある、ジャマイカの北東の海岸に位置するサリー郡の教区。ジャマイカの農村地域の1つであり、すばらしいビーチで知られている。

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ロックステディ
(rocksteady)は1966年から1968年の間にジャマイカで流行したポピュラー音楽の一種。ロックステディの短い時代は、ジャマイカの音楽産業にとっても飛躍的な発展を遂げた時代だった。スカ時代のコクソン・ドッド、デューク・リードの二大サウンド・システム/レーベルが、より明確に音楽ビジネスを行うようになった。この音楽ジャンルの名前は、アルトン・エリスの曲「ロックステディ」で歌われたダンスのスタイルに由来する。


スカ
スカ (Ska) は、1950年代にジャマイカで発祥したポピュラー音楽のジャンル。2、4拍目を強調したリズムが特徴。スカの発祥については諸説ある。感度の悪いラジオで、ニューオーリンズなどアメリカ南部の都市のラジオ放送局からのジャズの2・4拍めが強調されて聞こえたため、誤ってコピーされたという説もある。直接的には1950年代からのアメリカのリズム・アンド・ブルースと、ジャマイカの音楽文化には欠かせないサウンド・システムの影響が大きいが、それ以前にジャマイカにはジャズの下地があり、スカ以前のメント、ラスタファリアニズムの影響があった。


ラスタファリ運動
Rastafari movementまたはラスタファリアニズム (Rastafarianism) は、1930年代にジャマイカの労働者階級と農民を中心にして発生した宗教的思想運動である。ラスタファリ運動は聖書を聖典としてはいるが、特定の教祖や開祖は居らず、教義も成文化されていない。それゆえ宗教ではなく、思想運動であるとされる。基本的にはアフリカ回帰運動の要素を持ち、エチオピア帝国最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世をジャーの化身、もしくはそれ自身だと解釈する。


民主社会主義
democratic socialismは、革命を否定し、議会制民主主義の中で社会主義の理想を実現しようとする中道左派の穏健な社会主義思想であり、社会民主主義の捉え方の一つである。資本主義社会の改良を訴え、階級闘争を否定するのが特徴。

人民国家党
人民国家党(People's National Party, PNP)は、ジャマイカの民主社会主義政党で、1938年にノーマン・マンリーによって結成された。英領カリブ圏諸国では最古の政党である。1972年から1980年までジャマイカの議会で多数派を占め、1989年から2007年まで再び与党になった。社会主義インターナショナル加盟。

ジャマイカ労働党
ジャマイカ労働党 (Jamaica Labour Party、JLP) はジャマイカの政党である。同党は選挙のシンボルとして、自由の鐘と緑の色を用いる。同党は、バスタマンテ産業労働組合の政治一派として、アレクサンダー・バスタマンテによって1943年に創設され、1962年のジャマイカ独立から1972年までと、1980年から1989年まで政権を握った。


レゲエ
レゲエ (reggae) は狭義においては1960年代後半ジャマイカで成立し、1980年代前半まで流行した4分の4拍子の第2・第4拍目をカッティング奏法で刻むギター、各小節の3拍目にアクセントが置かれるドラム、うねるようなベースラインを奏でるベースなどの音楽的特徴を持つポピュラー音楽である。広義においてはジャマイカで成立したポピュラー音楽全般のことをいう。

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■国名
正式名称は、Jamaica(英語: ジャメイカ)。国名は、先住民だったアラワク人の言葉Xaymaca(ザイマカ)に因む。この言葉は、木と水の地あるいは泉の地を意味する。当初スペイン植民地となった際にスペイン語でJamaica(ハマイカ)と綴られ、後にイギリス植民地になると綴りは変えられずに読みだけが英語読みになり、Jamaica(ジャマイカ)と呼ばれるようになった。


1.面積:11,424平方キロメートル(秋田県とほぼ同じ大きさ)
2.人口:271.9万人(2009年 ECLAC)
3.首都:キングストン
4.民族:アフリカ系91%、混血6.2%、その他2.6%
5.言語:英語、英語系パトゥア語
6.宗教:プロテスタント等

1494年 コロンブスによるジャマイカ島「発見」
1670年 英領植民地
1944年 選挙による議会設置
1957年 英国自治領となる
1962年8月 独立(カリブ海英領植民地の中で最初)

■主要産業:サービス業、観光業、鉱業(ボーキサイト及びアルミナ)、農業(コーヒー、砂糖、バナナ)

■主要貿易品目(1)輸出 アルミナ、ボーキサイト、砂糖、ラム酒、コーヒー
(2)輸入 燃料、機械類・輸送機材、食料その他の消費財、建設資材


ジャマイカ・ドル
ジャマイカ・ドル($; コード: JMD)は、1969年にジャマイカの通貨になった。$(ドル)、もしくは他国の通貨の$(ドル)と区別するためにJ$かJA$のどちらかに省略される。1$(ドル)は100セント。

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■政治
政治体制はジャマイカ国王を国家元首とする立憲君主制。英連邦王国のため、ジャマイカ国王の地位は名目的にイギリス国王と同一人物となっており、首相の推薦に基づき国王が任命する総督がその権限を代行する。現首相ポーシャ・シンプソン=ミラーは就任翌日の2012年1月6日、独立50周年である2012年中に独自の大統領を置き、共和制に移行する計画を発表した。


■文学
イギリスの作家イアン・フレミングはジャマイカに住んでいたことがあり、『007ジェームズ・ボンド』にはジャマイカから着想を得た話がある。セント・ルシア出身のノーベル賞作家デレック・ウォルコットは西インド諸島大学で学んだ。
ジャマイカ出身の作家としてはクロード・マッケイやルイス・シンプソンが挙げられる。


ピーター・トッシュ
(Peter Tosh、1944年10月19日 - 1987年9月11日)、本名ウィンストン・ヒュバート・マキントシュ(Winston Hubert McIntosh)は、ジャマイカのレゲエミュージシャン。同国のバンド、ウェイラーズの一員として活躍した後、ソロ・ミュージシャンとしても成功を収めた。また、ラスタファリ運動の先駆者としても知られる。キングストン市のスラム街、トレンチタウンで育つ。短気な性格であったため、歩くカミソリ (Stepping Razor) と呼ばれていた。トッシュは、アメリカのラジオ局から流れる曲に影響を受けて、ギターと歌を始める。

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デボン・ホワイト
Devon Markes White , 1962年12月29日 - はアメリカ・メジャーリーグで活躍した元野球選手。外野手。右投両打。ジャマイカ・キングストン出身。1981年ドラフト6巡目指名でカリフォルニア・エンゼルス入団。1985年にメジャーデビュー。1987年からレギュラーに定着し、俊足、好守の外野手(主にセンター)として活躍。1988年以降7度のゴールドグラブ賞受賞。守備の印象が強いが、打撃に関しても、トロントでの通算打率.270に対し1991年から3年連続で出場したポストシーズンでは.336と大舞台での勝負強さが際立った。また先頭打者本塁打が34本。これは2006年シーズン終了時点で歴代5位の記録である。

リコ・ロドリゲス
Rico Rodriguez、本名エマニュエル・ロドリゲス Emmanuel Rodriguez、1934年10月17日 - は、ジャマイカ、キングストン生まれのトロンボーン奏者。初期ジャマイカ音楽における最高のトロンボーニストの一人とされる。アルファ・スクール在学中、トロンボーンの演奏を学ぶ。同校で講師をしていたドン・ドラモンドにもトロンボーンの演奏を教わった。ドラモンドは後にスカにおけるトロンボーンの第一人者となる。1976年にアイランド・レコーズと契約、代表作である『マン・フロム・ワレイカ』をレコーディングする。

ドン・ドラモンド
Don Drummond、1932年 - 1969年は、ジャマイカ・キングストン生まれのトロンボーン奏者、作曲家。スカタライツのオリジナルメンバーの一人で数多くの作品を手掛ける。 アルファ・ボーイズ・スクールを卒業後、1950年代中頃からジャズのエリック・ディーンズ・オールスターズで音楽活動を開始し、スカの誕生に伴いスカタライツに参加。 ジャマイカでもっともよく知られる名前になる。 ジャズ・ピアニストのジョージ・シェアリングは、彼を世界の5本の指に入るトロンボーン奏者と評している。

アレクサンダー・バスタマンテ
ウィリアム・アレクサンダー・クラーク・バスタマンテ(Sir William Alexander Clarke Bustamante, 1884年2月24日 - 1977年8月6日)は、ジャマイカの政治家であり、労働者の指導者。同国の初代首相。キューバでは警察官として、ニューヨーク市の病院では栄養士として働きながら、世界を旅した後に、1932年にジャマイカに戻り、植民地支配に対する戦いのリーダーになった。

ジミー・クリフ
(Jimmy Cliff、1948年4月1日 - )はジャマイカ人レゲエ・シンガー。本名ジェイムズ・チェンバース(James Chambers)。レゲエというジャンルが確立する前から音楽活動を開始していた。1965年に活動の場をロンドンに移し、1967年にファースト・アルバム『ハード・ロード・トゥ・トラベル』を発表。 1972年には、ジャマイカの状況を世界に知らしめた映画『ハーダー・ゼイ・カム』に主演し、映画のサウンドトラック盤にも参加、一躍有名になる。 本作収録の「ブラウン・アイズ」にはベーシストのジャコ・パストリアスが参加。

バーニング・スピア
(Burning Spear、1948年5月1日 - )本名ウィンストン・ロドニー (Winston Rodney) は、ルーツロックレゲエの歌手、音楽家。バーニング・スピアの歌詞はラスタファリ運動のメッセージを中心としており、グラミー賞を通算12度受賞している。彼は、彼の人生に多くの影響を与えた二人の人物、ボブ・マーリーとマーカス・ガーベイと同じ出身地であるジャマイカ、セント・アン教区のセント・アンズ・ベイで生まれた。1969年、ボブ・マーリーの紹介で出会ったコクソン・ドッドの下で活動を開始し、1973年、スタジオ・ワンよりファースト・アルバム『Studio One Presents Burning Spear』を発表した。

ベロニカ・キャンベル=ブラウン
(Veronica Campbell-Brown, 1982年5月15日 - )は、ジャマイカの陸上競技選手である。オリンピックで5つのメダルを獲得しており、特に200mでは、2004年、2008年と連覇している。これは、ベーベル・エッカート(東ドイツ)が1976年、1980年に達成して以来で、女子では史上2人目となった。

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ウサイン・ボルト
ウサイン・セント・レオ・ボルト(Usain St. Leo Bolt, 1986年8月21日 - )は、ジャマイカの陸上競技短距離選手。身長195cm、体重94kg。短距離選手は身長が180cm台の選手が多く、190cm以上の長身の選手はスタート時の静止状態からの加速が鈍くなるため一般に不利とされるが、ボルトは2m78cmの非常に大きなストライドを活かしレース中盤から加速し最高速に達し、一気に飛び出す、若しくは他を引き離す後半追い込み型。加えて序盤も速く、北京オリンピック陸上男子100m決勝での前半50m地点のタイムは非公式ではあるが室内世界最高記録を上回っている。最高速に達した時点でのボルトの歩幅は2メートル75センチ、ゴールラインを超える最後の一歩は2メートル99センチ5ミリに達し、これは100メートル競走における史上最大級の歩幅であるという。

バニー・ウェイラー
Bunny Wailer、1947年4月10日 - 本名ネビル・オライリー・リビングストン(Neville O'Reilly Livingston)は、レゲエ音楽家、ラスタマン。ボブ・マーリー、ピーター・トッシュらと活躍したザ・ウェイラーズのオリジナルメンバーである。

カウント・オジー
Count Ossie , 1926年 - 1976年10月18日は、ジャマイカのセント・トーマス教区出身のラスタファリアン、ドラム奏者、バンドリーダー。幼少の頃からラスタのコミュニティに育ち、そこでラスタの歌と太鼓を学ぶ。 1950年代後半に、彼は他の打楽器奏者達とカウント・オジー・グループを結成。プリンス・バスター によって多くの演奏が録音された。そのなかの一つ、フォークス・ブラザース「オー・キャロライナ (Oh Carolina)」は、1959年にリリースされた歴史上最初のレゲエの録音物とも言われている(当時レゲエという呼称はまだなかった)。この曲は、1993年にシャギーがリメイクして世界的なヒットとなった。

ローランド・アルフォンソ
(Roland AlphonsoあるいはRolando Alphonso、1931年1月12日 - 1998年11月20日)は、主にジャマイカで活躍したテナーサクソフォーン奏者。ローランド・アルフォンソはキューバのハバナで生まれた。アルフォンソが2歳の時、ジャマイカ人の母と共にジャマイカに移住、その後ストーニー・ヒル・インダストリアル・スクールに入学し、サクソフォーンを学ぶ。

アーネスト・ラングリン
(Ernest Ranglin、1932年6月19日 - )は、ジャマイカのマンチェスター教区で生まれたギタリスト。カリブ音楽の発展に多大な貢献をした開発者である彼のスタジオ・ワンでのセッションワークは、1950年代後半にジャマイカで大流行するスカの誕生を助けた。

オニール・ベル
O'Neil Bell、1974年12月29日 - は、ジャマイカの男性プロボクサー。元WBA・WBC・IBF世界クルーザー級スーパー王者。破壊力のあるハードパンチが持ち味のボクサー。「Supernova(スーパーノヴァ、超新星)」のニックネームを持つ。出身はジャマイカだが、現在ジョージア州、アトランタに住みアメリカ合衆国を中心に活動している。

チリ・デービス
Charles Theodore Davis:チャールズ・セオドア・デービス 1960年1月17日 - )は、メジャーリーグベースボールの右投両打の外野手。ジャマイカのキングストン出身。1997年にはカンザスシティ・ロイヤルズで自己ベストとなる30本塁打を記録。ニューヨーク・ヤンキースに移籍し、2年間プレイした後、引退した。ジャマイカ出身の選手としては出場試合数(2436)・打数(8673)・安打(2380)・二塁打(424)・本塁打(350)・打点・(1372)・四球(1194)・三振(1698)の部門で1位の数字を残している。

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ブルース・ゴールディング
(Orette Bruce Golding 1947年12月5日-)は、ジャマイカの政治家。2007年から2011年まで同国首相を務めた。ジャマイカ労働党のメンバーである。1970年代からジャマイカの国会議員を務めている。

ドナルド・サングスター
(Sir Donald Burns Sangster、1911年8月26日 - 1967年4月11日)はジャマイカの政治家でジャマイカの首相。 1933年、地方教区議会の選挙で政治の世界に入った。1944年には、ジャマイカ労働党員として下院に選出され、社会福祉大臣、労働大臣、財務大臣を歴任。1964年2月、時の首相、アレクサンダー・バスタマンテが病気になった時に、首相となる。彼は1967年2月23日、バスタメンテの後任として首相になり、同年の4月11日に死去する。彼の顔は100ジャマイカドル紙幣になっている。

クリストファー・コーク
(Michael Christopher Coke、1969年5月12日 - )、通称ドドス(Dudus)は、ジャマイカのギャング「シャワーパシ」の首領、麻薬王。父親のレスター・ロイド・コーク(通称ジム・ブラウン)から首領の座を受け継いだ。アメリカ合衆国司法省の「世界で最も危険な麻薬組織のリーダー」にリストアップされている一方で、キングストンのスラムであるチボリガーデン地区で家賃援助、食料配給や教育、医療の普及事業を行っているため住民から義賊的に支持されており、ロビン・フッドやキリストにも例えられるほど英雄視されていた。

オレイン・シンプソン
Oraine Simpson、1983年9月4日 - 2009年10月13日)は、ジャマイカのサッカー選手。2005年にジャマイカ・ナショナル・プレミアリーグのチボリ・ガーデンズに入団。2009年にはアーネット・ガーデンズとの優勝を決める試合に出場し、決勝点となるゴールを記録、クラブの国内チャンピオンに貢献した。2009年10月13日、キングストンにて男性と口論になり刺殺された。

アルトン・エリス
(Alton Nehemiah Ellis、1938年9月1日 − 2008年10月10日)[2][3]はジャマイカ出身の歌手、ソングライター、音楽プロデューサー、レーベル経営者。ジャマイカにおけるリズムアンドブルース (R&B) 及びソウルミュージックの第一人者であることとその歌唱法からミスター・ソウル・オブ・ジャマイカという異名を持つ。

デリック・モーガン
(Derrick Morgan、1940年3月27日 - )はジャマイカ・クラレンドン教区出身の歌手。1957年、モーガンはキングストンのパレス・シアターで行われたヴェレ・ジョンズ・オポチュニティ・アワー (the Vere Johns Opportunity Hour)というタレントショーに出場し、リトル・リチャードに影響を受けたパフォーマンスを見せ優勝した。

アストン・バレット
(Aston Barrett, 1946年11月22日 -、本名アストン・フランシス・バレット,Aston Francis Barrett)は、ジャマイカ、キングストン市生まれのレゲエベース奏者。彼は、レゲエにおけるベースの旋律の役割を確立させた第一人者である。1969年からボブ・マーリーが死ぬ1981年の間、カールトン・バレットともにレコーディングとライブ演奏で現在のレゲエに欠かせない基本的なリズムパターンを発明した。

デボン・ホワイト
(Devon Markes White , 1962年12月29日 - はアメリカ・メジャーリーグで活躍した元野球選手。外野手。右投両打。ジャマイカ・キングストン出身。1981年ドラフト6巡目指名でカリフォルニア・エンゼルス入団。1985年にメジャーデビュー。1987年からレギュラーに定着し、俊足、好守の外野手(主にセンター)として活躍。1988年以降7度のゴールドグラブ賞受賞。守備の印象が強いが、打撃に関しても、トロントでの通算打率.270に対し1991年から3年連続で出場したポストシーズンでは.336と大舞台での勝負強さが際立った。また先頭打者本塁打が34本。これは2006年シーズン終了時点で歴代5位の記録である。

 

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