ハイチ Haiti
中央アメリカの西インド諸島の大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置する共和制国家である。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔てて北西にキューバが、ジャマイカ海峡を隔てて西にジャマイカが存在する。首都はポルトープランス。
■ポルトープランス
Port-au-Prince)は、ハイチ共和国の首都。フランス語で「王子の港」を意味する。ゴナーヴ湾に面し、湾岸が商業地区、丘陵が高級住宅地となっている。北緯18°32'西経72°20'に位置する。首都への人口集中が起きてスラム化が進んでおり、首都圏に250万-300万人の人口がある。クリストファー・コロンブスの到着以前は、永住者はいなかった。15世紀末、この地域はハラグア (Xaragua) 地方のタイノ族首長のボヘチョ (Bohechio) の支配下にあった。祖先たちと同様、周辺の島に住んでいるカリブ族の標的になることを畏れ、彼も海岸近くに居住することを避けた。海に近いこの地域は狩猟の場とされていた。
■ポルトープランス国際空港
トゥーサン・ルーヴェルチュール国際空港(Toussaint L'Ouverture International Airport)は、ハイチ共和国の首都、ポルトープランスにある国際空港。ハイチの独立運動家、トゥーサン・ルーヴェルチュールに由来する。
外務省:ハイチ共和国
在ハイチ日本国大使館
■ハイチ大学
1980年代のハイチにおいて最も重要な高等教育機関はハイチ国家大学だった。同大学の起源は1820年代に設立された医学と法学の単科大学にまで遡る。1942年に複数の学部がハイチ大学に統合された。1960年の学生によるストライキの後、フランソワ・デュヴァリエ政権は大学を固く政府の支配下に置き、ハイチ国家大学と改称した。
■ゴナイーヴ
(Gonayiv) はハイチ北部の都市、アルティボニト県の首都。2003年の人口は約 104,825 人 (調査値)。ゴナイーヴの名はタイノ人の村ゴナイボ (Gonaibo) による。2004年9月にはハリケーン・ジーンがこの町にも洪水と泥流をもたらした。ハイチ全土で 3,006 人が犠牲となり、ゴナイーヴでは最大の 2,000 人が亡くなった。全ての建物が被害を受け、25万人が家を失った。
■サン・マルク
(仏: Saint-Marc, ハイチ語: Sen Mak)はハイチ中部、アルティボニット県南部の港湾都市。ポルトープランスの北西約100km、ゴナイーヴの南約37.8km。アルティボニット川の河口から一山越えて南に位置し、ゴナイーヴ湾内のサンマルク湾に面する。
■ミラゴアーヌ
(ハイチ語: Miragwan, ミラグワーヌ)はハイチ南部の都市。ニップ県の県庁所在地。2003年の国勢調査による人口は89,202人。ポルトープランスの約100km西に位置し、ゴナーヴ湾に面しマイアミなどからの中古品の輸入港となっている。南東にミラゴアーヌ湖がある。かつてはコーヒーや果物、木材が輸出された。タバコとサイザルアサの加工品が生産される。ボーキサイトも産出される。1960年代から1970年代にレイノルズ社がアルミ箔の生産を始めたが、電力供給に問題があった。当局は住民より工場を優先し、レイノルズ社は経営を続けている。
■ジェレミー
ハイチ語: jeremi)はハイチ南西部の都市。グランダンス県の県庁所在地。南部ではレカイ、ジャクメルに次ぐ都市である。ポルトープランスから約297km西のチビュロン(チビウォン)半島の西端の北東部に位置し、ゴナイーヴ湾に面している。アレクサンドル・デュマ・ペールの父トマ=アレクサンドル・デュマの出身地で、1793年9月にはフランス革命に乗じたイギリス軍が侵攻した。著名な出身者に詩人が多く詩人の町と呼ばれることもある。
■アンシュ
Ench)はハイチの内陸北東部の都市。中央県の県庁所在地である。ドミニカ共和国とハイチとで帰属が変遷した地域で、スペイン語名はインチャ (Hincha) であり、1929年の国境条約と1936年の同条約の改定で恒久的にハイチ領とされた。
■クロワ・デ・ブーケ
Kwadebouke,は、ハイチ共和国西県のコミーン。中心市街は首都ポルトープランスの北東およそ12.9kmに位置する。クロワ・デ・ブーケは、ポルトープランス首都圏の北東のクルドサックと呼ばれる低地にあり、マメ、トウモロコシ、サツマイモなどが栽培される。
■カパイシャン
(Kap Ayisyen, Okap, オカプとも)はハイチの都市。2003年の人口は11万人。北県の県庁所在地である。フランス植民地時代のサン=ドマングにレイスウェイク条約を受けて王命で1711年にカプ=フランソワとして建設された。
■フォールリベルテ
Folibete)はハイチ北東部の港湾都市。北東県の県庁所在地。フォールリベルテ湾に突出した岬の付け根にある。ヴァンサン=マリ・ヴィエノは著名な入植者である。フランス植民地時代は砂糖の積出し港の一つ、後もコーヒーなどの輸出港の一つである。
■ポールドペ
Podpe)はハイチ北西部の都市。大西洋に面しトルチュ島の対岸にあり、北西県の県庁所在地である。2003年の国勢調査による人口は120,267人。1492年にクリストファー・コロンブスが上陸した際にこの辺りがバルパライソと名付けられ、イギリス勢によりトルチュ島を逐われたフランス系フィリバスターが1665年に現在よりもモールサンニコラ寄りに町を建設したとされる。
■レカイ
Okay)はハイチ南西部の都市。南県の県庁所在地。名前は沖合に浮かぶグランド・カイやプチ・カイなどからカイの街という意味である。ラヴィヌディシド川(Ravine du Sud, 南部渓谷)の河口の北に位置しハリケーン時には洪水が多い。
■ジャクメル
(Jakmel) は1698年に建設されたハイチ南部の都市。南東県の首都。タイノ語のヤキメル (Yaquimel) から。推定人口は4万人で町の様子は19世紀からあまり変わっていない。港町であり、ニューオーリンズ風の大邸宅に住む富裕なコーヒー商人の拠点となった。ジャクメルはその相対的な静けさと首都の最近の政治的混乱からの距離のためハイチでも人気の観光地となっている。
■アルティボニット県
Latibonit, はハイチ中北部の県 (depatman)。県庁所在地はゴナイーヴ。面積は 4,984 km2 で最大である。人口は 1,168,800 人 (2002年) 。南部はアルティボニット川の平野部で稲作地帯である。主要都市はゴナイーヴとサン・マルク。
■中央県
Sant, はハイチ東部の県 (depatman)。県庁所在地はアンシュ。面積は 3,675 km2 、人口は 564,200 人 (2002年)。唯一の内陸県でアルティボニット川上流に1950年代に建設された最大の淡水湖であるペリグル湖及びペリグル水力発電所がある
■グランダンス県
Grandans)はハイチ南西部の県 (depatman)。県庁所在地はジェレミー。面積は 1,871 km2、人口は 465,800 人 (2002年)。2003年に東部がニップ県に分割された。
■ニップ県
Nip)はハイチ南西部の県 (depatman)。県庁所在地はミラゴアーヌ。面積は 1,219 km2、人口は 266,379 人 (2003年)。2003年にグランダンス県から分割された。
■北県
No, ノー)はハイチ北部の県 (Depatman)。県庁所在地はカパイシャン。1789年当時砂糖のプランテーションにより北県の辺りはサン=ドマングでも最も栄えた地域だった。山塊に遮られ奴隷たちが他の地域から孤立していたため、入植者は特に経済的な自治を強く望み、奴隷たちが反乱に参加しないだろうと予想したが、1791年8月22日多くの奴隷が蜂起し内戦が始まった。
■北西県
Nodwes, ノードウェス)はハイチ北西部の県 (depatman)。県庁所在地はポールドペ。面積は 2,176 km2 人口 488,500 人 (2002年)。ポールドペ沖合にラトーチュ島がある。南東に北県及びアルティボニット県と接する。北西県は乾燥して不毛となり、コロンビア産の麻薬の中継地点となっている。
■国際連合ハイチ安定化ミッション
United Nations Stabilization Mission in Haiti, MINUSTAH)はハイチに展開している国際連合平和維持活動(PKO)。2004年4月30日の国際連合安全保障理事会決議1542号を受けて設立された。ハイチの治安を回復し、選挙を含む民主的政治プロセスの回復支援、難民帰還をはじめとした人権擁護活動を任務とする。
■国名
公式の英語表記はRepublic of Haiti(リパブリク オヴ ヘイティ)。通称、Haiti(ヘイティ)。「ハイチ(アイティ)」は、先住民族インディアン/インディオのアラワク系タイノ人の言葉で「山ばかりの土地」を意味し、独立に際してそれまでのフランス語由来のサン=ドマングから改名された。
1.面積:27,750平方キロメートル(四国と九州の中間程度の面積)
2.人口:1008.9万人(2010年 ECLAC)
3.首都:ポルトープランス
4.民族:アフリカ系(約9割)、その他混血
5.言語:フランス語、クレオール語(共に公用語)
6.宗教:キリスト教(カトリック、プロテスタント等)、ブードゥー教等
492年 コロンブスのエスパニョーラ島発見
1697年 フランス領となる
1804年 独立
1915年〜1934年 米国による軍事占領
1957年9月 F.デュバリエ政権誕生(1964年以降終身大統領)
1971年4月 J.C.デュバリエ(F.デュバリエの子息)大統領就任
1986年2月 J.C.デュバリエ大統領ハイチ出国
1987年4月 民主憲法発布
1991年2月 アリスティッド政権成立
1991年9月 軍事クーデター、アリスティッド大統領国外脱出
1993年7月 アリスティッド大統領の帰国に向け合意成立
1993年10月 国連安保理制裁再開
(6月に実施、8月末に停止されていたもの)
1994年5月 国連安保理制裁強化(全面禁輸等)
1994年7月 国連安保理、加盟国に多国籍軍創設を認める決議を採択
1994年9月 カーター合意により軍指導部は退陣に合意。多国籍軍、展開
1994年10月 アリスティッド大統領帰国
1995年3月 多国籍軍が国連ハイチ・ミッション(UNMIH)に移行
1996年2月 プレヴァル大統領就任
1997年11月 国連ハイチ・ミッション(UNMIH)がハイチから撤退
2000年5月〜7月 議会、地方選挙
2001年2月 アリスティッド大統領就任(2期目)
2004年2月 武装勢力の活動先鋭化、アリスティッド大統領国外脱出、アレクサンドル暫定大統領就任、多国籍軍展開(安保理決議1529)
2004年3月 ラトルチュ首相就任、暫定政府発足
2004年4月 多国籍軍が国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)に6月から移行(安保理決議1542)
2004年7月 対ハイチ支援会合開催(於:ワシントンDC)
2004年11月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期6ヵ月延長を認める決議を採択(安保理決議1576)
2005年6月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期を2006年2月15日まで認める決議を採択(安保理決議1608)
2006年2月〜4月 大統領・国会議員選挙
2006年2月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期6ヵ月延長を認める決議を採択(安保理決議1658)
2006年5月 プレヴァル大統領就任(2期目)、国会設置・開会
2006年6月 アレクシー内閣発足
2006年7月 対ハイチ支援会合開催(於:ポルトープランス)
2006年8月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期6ヵ月延長を認める決議を採択(安保理決議1702)
2006年12月 統一地方選挙(一部国会議員選挙含む)
2007年2月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期8ヵ月延長を認める決議を採択(安保理決議1743)
2007年10月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期1年延長を認める決議を採択(安保理決議1780)
2008年10月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期1年延長を認める決議を採択(安保理決議1840)
2009年4月 対ハイチ支援国会合開催(於:ワシントンDC)
2010年1月 ハイチ地震発生を受け、国連安保理は国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)の増員(3,500名)を決定(安保理決議1908)
2010年1月 ハイチに関する閣僚級会合(於:モントリオール(カナダ))
2010年3月 ハイチ支援国会合(於:ニューヨーク国連本部)
2010年10月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期延長を認める決議を採択(安保理決議1944)
2010年11月〜2011年4月 大統領・国会議員選挙
2011年5月 マルテリー大統領就任
■主要産業:農業(米、コーヒー豆、砂糖、バナナ、カカオ、マンゴー、トウモロコシ)、軽工業(繊維製品、軽電気、機械組立)
■主要貿易品目(1)輸出 衣類、加工品、カカオ、マンゴー、コーヒー(2)輸入 食料品、加工品、機械・輸送機器、燃料、鉱物原料
■グールド (通貨)
フランス語: Gourde ハイチ語: goud)はハイチの通貨単位。ISO 4217によるコードはHTG。100サンチーム(centimes)に分割できる。1912年からしばらくの間は、5グールド=1ドルの固定レートであった。そのため、5グールドで「ハイチ・ドル」という名称があった。
■トントン・マクート
Tonton Macoute)は、ハイチのフランソワ・デュヴァリエ政権下の1958年に作られた秘密警察を母体とした準軍組織。トントン・マクートを指揮したデュヴァリエ政権の第二位であったリュクネル・カンブローヌは2006年9月29日にマイアミで77歳で死亡した。
■経済
ハイチは西半球で最も貧しい国と言われており、国民の80%は劣悪な貧困状態に置かれている。また国民の70%近くが、自給のための小規模な農場に依存しており、経済活動人口の3分の2が農業に従事しているが、規模が零細である上に灌漑設備等の農業インフラが不十分で天水に依存した伝統的農法に頼っており、過耕作、土地の荒廃なども影響して、農業生産性は極めて低く、食料自給率は45%、米の自給率は30%未満である。
■マキラドーラ
(maquiladora de Exportacion)は1965年に制定された、製品を輸出する場合、当該製品を製造する際に用いた原材料・部品、機械などを無関税で輸入できる保税加工制度。一般にメキシコの制度を指す場合が多いが、他の中南米諸国でもパラグアイ、ドミニカ共和国、エルサルバドルなどで同様の制度をとっている国がある。
■ロイヤル・カリビアン・インターナショナル
(Royal Caribbean International) は、1969年設立の世界最大規模の米国船会社。カリブ海を拠点にカジュアル・ファミリー向けのクルーズが中心となり、2009年4月現在、20隻の客船を保有する。
■民族
ハイチ人の約95%がアフリカ系であり、残りのほとんどはムラート(白人とアフリカ人の混血)である。エリートであるムラートとその他の黒人との間の経済的、文化的、社会的格差が著しい。その他に、数は少ないが独立後に中東から移民したアラブ系ハイチ人が存在する。
■言語
公用語はハイチ語(クレオール言語)とフランス語。フランス語系のクレオール言語であるハイチ語は1987年に公用語として認められた。ほとんどのハイチ人はハイチ語を日常的に使うが、公的機関やビジネス、教育では標準フランス語が使用される。
■宗教
国民の約95%がキリスト教徒であり、宗教の主流は国教ともなっているカトリックで、国民の約80%が信仰している。カトリックの他にはペンテコステ派、バプティストなどのプロテスタントや、少数ながら正教も信仰されている。多くのハイチ人はカトリックの信仰と並行して、アフリカ系のベナンにルーツを持つ宗教であるブードゥー教の慣習も行っている。
■文化
独立後のハイチでは、フランスの文化に一体化しようとする都市のムラート層と、アフリカやインディオのクレオール的な文化を持った農村の黒人層の文化が相対立しており、エリートのムラート層は農村のアフリカ的文化に価値を見出さなかった。しかし、1920年代のアメリカ軍政期に、占領に対する抵抗のためにナショナリズムが称揚される動きの中で、特に詩人ジャン・プリス=マルスによってアフリカ的な民衆文化の再評価がなされ、やがてこの運動はアフリカ的文化を見直すノワリズム(黒人主義)に繋がり、1930年代から1940年代のマルチニークのエメ・セゼールとセネガルのレオポルド・セダール・サンゴールらによるネグリチュード運動の源流の一つともなった。
■トマ=アレクサンドル・デュマ
Thomas-Alexandre Davy de la Pailleterie dit Dumas, 1762年3月25日 - 1806年2月26日)はフランスの軍人。『モンテ・クリスト伯』などの作品で有名な作家のアレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)の父親。大デュマの作品には父をモデルにした人物が数多く登場する。仏領サン=ドマング(現ハイチ)で、アレクサンドル=アントワーヌ・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー侯爵と黒人奴隷女性マリー・セゼットの間に生まれ、トマ=アレクサンドルと名づけられる。
■ルネ・ガルシア・プレヴァル
(Rene Garcia Preval, 1943年1月17日 - )はハイチの政治家。元大統領(第38、40代)。ポルトープランス出身。ベルギーのジョンブルー大学の農学部卒。プレヴァルは1963年にフランソワ・デュヴァリエ独裁政権下で命を狙われ家族とともに亡命を強いられた。ルネの父も農学者であり、デュヴァリエの前任者のポール・マグロワール将軍の政権で農業相を務めた。その経歴上デュヴァリエ政権の反対者となり、彼はベルギー領コンゴの国連機関で働くようになり、そこに家族を集めた。ニューヨークのブルックリンでウエイターをして5年間過ごした後、プレヴァルは国立鉱物資源研究所に職を得てハイチに戻った。そして数年後彼はポルトープランスに共同で出資してパン屋を開いた。開業と同時に彼は政治的サークルや慈善活動にも携わった。その中でサレジオ会司祭のジャン=ベルトラン・アリスティドの孤児院にもパンを提供し、彼とも親しくなった。
■ミシェル・マテリ
(Michel Martelly, 1961年2月12日 - )は、ハイチの大統領、ミュージシャン。1961年2月12日生まれ。中産階級の石油工場現場監督の家庭で育つ。アメリカ合衆国のレッドロックス・コミュニティー短期大学(Red Rocks Community College)に留学する。アメリカでは、建設労働者としても働く。ハイチに帰国の後、1988年、ミシェル・マテリの実名で、コンパ(Kompa)というジャンルで、プロの歌手としての音楽活動を始める。
■アンリ・クリストフ
Anri Kristof, 1767年10月6日 - 1820年10月8日ミロはハイチの軍人。1807年2月17日ハイチ国(北ハイチ)の大統領となり、1811年3月26日ハイチ王国国王即位を宣言した。1820年10月8日に自殺した。英領西インドのグレナダのフランス人が所有する農園の黒人奴隷の両親の元に生まれた(セントキッツなどの生まれとする説もある)クリストフは奴隷としてサン=ドマングに連れて来られた。彼はホテルのレストランで働き、後に自由を得たと言われている。
■アレクサンドル・ペション
(Alexandre Sabes Petion, 1770年4月2日 - 1818年3月29日) はハイチの軍人。南部の「ハイチ共和国」の大統領 (1806年 - 1818年)。フランス植民地サン=ドマングのポルトープランスでフランス人のパスカル・サベを父、黒人女性のウルスラを母として生まれた。1788年にパリの士官学校で学ぶためにフランスに渡った。ペチョンは商業的なプランテーションを積極的に収容し、支持者と農民に土地を分配した。そして、Papa Bon-Kè「親切なパパ」という渾名を得た。土地分配は国の経済に重大な打撃となり、大部分の人々は自給農業以上のことを行わなかった。
■ジャン・ピエール・ボワイエ
(Jean Pierre Boyer, おそらく1776年2月15日 - 1850年7月9日)はハイチの軍人/ハイチ共和国大統領 (1822年 - 1843年)。ボワイエはプロヴァンス人の父とギニア出身の母の子で自由なムラートとしてポルトープランスで生まれ、父の影響でフランスの士官学校で教育を受けた。その後フランス共和国軍に加わり、短期間で大隊指揮官に昇格した。次いで彼はフランスの代表部に加わり、白人と王党派に対する戦いに加わるためにサン=ドマングに戻った。
■フランソワ・デュヴァリエ
(1907年4月14日-1971年4月21日)はハイチの大統領。疫病への取り組みを通じて高い評価をえたことで、「パパ・ドク」という愛称で呼ばれた。さらに1950年の軍事クーデターを鎮め、ポピュリズムとブラックナショナリズムを背景にして大統領に就任した。軍を弱体化させ、トントン・マクートと呼ばれた地方を基盤とする民兵組織や個人崇拝、ブードゥー教を利用したデュヴァリエによる独裁により、およそ3万人のハイチ人が命を亡くしたといわれ、それを逃れて亡命した知識人たちがハイチには戻ることはなかった。
■フランケチエンヌ
(FrankEtienne,1936年4月12日- )とはハイチの作家、詩人、劇作家、音学家、画家である。彼はフランス語、ハイチ語双方で創作する。画家としては、彼は色彩豊かなアブストラクトの作品で知られ、しばしば青と赤が強調される。彼は2009年のノーベル文学賞候補者となった。
■フェリクス・モリソ=ルロワ
Feliks Moriso-Lewa, 1912年3月13日 - 1998年9月5日はハイチの教育者・作家、ハイチ語で最初に作品を公表した。ハイチ語を教育に取入れ、ハイチ語とフランス語で作品を公表した。1961年にハイチ語は公用語とされた。モリソはガーナとセネガルにも渡り国民文学の開発を援助しようとした。1981年モリソはマイアミに渡り、ハイチ人コミュニティの統合とハイチ語の学術化を試みた。
■エドウィージ・ダンティカ
(Edwidge Danticat, 1969年1月19日 - )とはハイチ系アメリカ人の作家である。ダンティカはハイチの首都ポルトープランスで生まれた。彼女が2歳の時、彼女の父アンドレはニューヨークに移住し、2年後に母のローズも後を追った。12歳の時、彼女はニューヨークのブルックリンに移住し、ハイチ系アメリカ人の隣人の囲まれていた両親と合流した。彼女は10代の時移民したため、エドウィージのアクセントとしつけは彼女を当惑させる要因となったため、彼女は慰みのために文学に向かった。
■アンドレ・リゴー
(Andre Rigaud, 1761年 - 1811年) はハイチ革命時のムラート軍の指導者。彼の庇護下からアレクサンドル・ペションやジャン・ピエール・ボワイエらが出た。リゴーはオカイでフランス人執行吏と黒人の母アラダの子として生まれ、ボルドーに渡り貴金属加工を身に付けた。1779年にはデスタン将軍が率いたアメリカ独立戦争へのサン=ドマングの自由有色人種の義勇軍に参加した。
■エメ・セゼール
(Aime Fernand David Cesaire, 1913年6月26日 - 2008年4月17日) はフランス/マルチニークの詩人、評論家、劇作家、そして政治家である。代表作は『帰郷ノート』、『植民地主義論』である。ネグリチュード(黒人性)運動を牽引し、植民地主義を批判した。
■フージーズ
(The Fugees)は、アメリカ合衆国の3人組ヒップホップ グループ。1990年代半ばに絶大なる支持を集めた。彼らの楽曲は、ヒップホップを中心として、そこにソウルやカリブ系音楽(特にレゲエ)の要素を取り入れている。メンバーは、ラッパー/歌手のワイクリフ・ジョンがリーダーを務め、同じくラッパー/歌手のローリン・ヒル、そしてラッパーのプラーズ。ワイクリフ・ジョンとプラーズのルーツはハイチにあるが、ローリン・ヒルはニュージャージー州 サウスオレンジの出身である。グループの名は、「難民(refugee)」に由来する。
■ヨアキム・アルシン
(Joachim Alcine、男性、1976年3月26日 - )は、ハイチのプロボクサー。元WBA世界スーパーウェルター級王者。ハイチ出身で、ハイチ人として史上初の世界王者となった。カナダ国籍を持つハイチ系カナダ人でもあり、ケベック州に在住し主戦場はカナダである。名前の一部をとって「Ti-Joa」の愛称を持つ。恵まれた体格を活かし、コンビネーションが巧い連打型のボクサー。総試合数32、勝ち31、KO勝ち19、敗け1