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グアテマラ共和国
Republic of Guatemala
<中南米>

北中アメリカ

<歴史>
■先コロンブス期
紀元前1800年頃に太平洋岸にバラ相の土器文化が興り、テコマテと呼ばれる祭祀に用いられたと考えられる無頸壺の器形で知られる。バラ相にメソアメリカ最古に属する土偶も作られた。先古典期中期初頭の紀元前900年頃に、パシオン川流域のセイバルとアルタル・デ・サクリフィシオスに集落が形成された。

■紀元前500年以降
ペテン低地にワシャクトゥンやエル・ミラドールなどのマヤの大規模な都市が出現する。南部の高地には、イサパ文化の影響を受けた石碑を伴うアバフ=タカリク、エル=バウル、カミナルフューなどの祭祀センターがきずかれた。

■スペイン植民地時代
1492年にクリストーバル・コロンがアメリカ大陸を「発見」すると、現在のグアテマラに相当する地域にもヨーロッパ人の征服者が訪れた。1523年に現れたスペイン人の征服者、ペドロ・デ・アルバラードは、1524年にはこの地域を征服した。

■過去の大地震
1717年に起きたマグニチュード7.4の地震はアンティグア・グアテマラに甚大な被害をもたらし、さらに1773年でも地震で大きな被害が出たため、1776年にスペイン国王の命により首都はグアテマラシティへと移ることになった。

■独立から20世紀半ばまで
グアテマラ建国以後の歴史は、革命、クーデター、非民主主義政権、特にアメリカ合衆国からのさまざまな内政干渉に彩られている。

■1871年
自由党が内戦に勝利して政権に就き、1873年にはフスト・ルフィーノ・バリオスが大統領になった。

■1898年
マヌエル・エストラーダ・カブレーラが大統領に就任し、22年間の独裁政治を行うが1920年にカブレーラは失脚した。

■1931年
ホルヘ・ウビコ将軍が隙を突いて権力を握ると、ウビコ以外は全て不自由であるといわれるほど苛烈な統治の下でグアテマラ社会の荒廃は一層進んだ。

■グアテマラの春
1944年から1954年まではグアテマラの春と呼ばれ、自由な空気の下に、各種の民主的な社会改革が進められた。ハコボ・アルベンスはポプリスモ的政治家として土地改革などの政策を行ったが、これは次第に合衆国がグアテマラの共産主義化とのネガティブキャンペーンを張らせることになり、土地改革がユナイテッド・フルーツの社有地に適用されることになると、合衆国の怒りは頂点に達した。アメリカ政府の雇用した反アルベンス派傭兵軍がエル・サルバドルから侵攻すると、軍の上層部はアルベンスを見捨てアルベンスは亡命。グアテマラの春は終わりを告げた(PBSUCCESS作戦)

■グアテマラ内戦
CIAはグアテマラ軍上層部の支援を得て、1954年、PBSUCCESS作戦と呼ばれる政府転覆を実行し親米独裁政権が生まれたが、これはグアテマラに長い動乱の時代を招いた。1960年からグアテマラ内戦が始まり、36年間にわたり武装反乱軍(FAR)などのゲリラとグアテマラ政府軍の戦闘が続いた。

■内戦終結以降
1996年に署名された和平合意のほとんどは、1年以上経過しても履行されなかった。直近の国政選挙は2011年に行われた。


■地理
グアテマラは太平洋とカリブ海に面し、海岸部を除くと、グアテマラは大部分が山地からなる。気候は熱帯性で気温が高いが、高地は熱帯性ながら温順な気候である。カリブ海に近接して大型の湖イサバル湖が位置する。火山国であり、日本の富士山に似たトリマン火山の麓には世界一美しい湖といわれるアティトラン湖がある。


イサバル湖
Lago de Izabalは、グアテマラの東部のイサバル県にある湖。表面積は同国最大の589.6平方キロで、水深は平均18mである。ポロチク川などの河川が流入する。水面は海抜1mで、湖水はエル・ゴルフェテ湖からドゥルセ川を通じカリブ海のホンジュラス湾に出る。ドゥルセ湖 (Golfo Dulce) とも呼ばれる。いまもよく保存されている湖畔のサンフェリペ城は、海賊からこの地域をまもる役割を果たした。辺りには沈没船が何隻かある。マナティ、ジャガー、クモザル、ホエザルなどがみられ、鳥類相も豊かである。

アティトラン湖
Lago de AtitlAnは、中米グアテマラのソロラ県にある湖である。中米で一番深い湖であり、世界一美しい湖の1つとされる。アティトラン湖は8万4千年前の火山の噴火によってできたカルデラ湖であり、周囲は断崖と3つの火山に囲まれている。また、周囲にはマヤ族の町や村もある。

ウスマシンタ川
Rio Usumacinta)は、グアテマラおよびメキシコを流れる中央アメリカ最大の川である。グアテマラのペテン地方を主な水源とし北に流れ、下流でグリハルバ川に合流する。流路の一部はグアテマラとメキシコの自然国境となっている。流域には南北アメリカ大陸最北の熱帯雨林が広がり、湿原やラグーンにも恵まれる生物多様性の豊かな地域である。

モタグァ川
(Rio Motagua)は、主にグアテマラ共和国内を流れる総延長486キロメートル、流域面積12,670平方キロメートルのグアテマラ最大の河川である。グアテマラの中央部に源を発し東へと流れ、カリブ海のホンジュラス湾に注ぐ。河口付近の数キロメートルは、グアテマラとホンジュラスの国境線となっている。モタグァ谷はメソアメリカ地域で唯一のヒスイの産地として知られ、先コロンブス期を通じて重要な商業ルートであった。


マヤ文明
メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。大規模な都市遺跡が築かれ始めたのは、形成期後期 (先古典期後期)からで、いわゆる「中部地域」で、現ベリーズのラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、ティカル、ワシャクトゥン、エル・ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)などの大都市遺跡が建設され、人口の集中が起こり繁栄した。エル・ミラドール、ナクベ、カラクムなど大都市では、古典期を凌ぐ大建造物が、紀元前400年以降に建てられたことが分かってきた。

エズナ
(Edzna、エツナ、エッナーとも)は、メキシコ、カンペチェ州北部に所在する マヤ遺跡である。ユカタン半島に自生するとげのある低木林の茂るエズナ河谷にあり、州都のカンペチェから南東50kmに位置する。エズナの遺跡名は、ユカテコ・マヤ語のおそらくイツァーを暗示する古い単語に由来していると思われる。イツァーとは、カンペチェの南西地方を出自とするチョンタル族やプトゥン族といった雑多な集団を含むマヤ人の先祖という説もある。

ユカテコ語
Yucatec Maya 、はマヤ語族に属する言語である。話者はユカタン半島、ベリーズ北部とグアテマラの一部に居住する。

プトゥン人
主に後古典期のメソアメリカにおいて、カンペチェ湾岸地方に住むチョンタル語を話す遠距離交易商人として知られていた人々のことをいう。ジェフ・コワルスキー(J.K.Kowalski)は、もっと具体的にメキシコ、タバスコ州のチョンタルパ地方およびカンペチェ州北西部のカンデラリア川流域に住むチョンタル語を話す組織化された遠距離交易商人としている。

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プウク式
Puuc Style)は、ユカタン半島北部で、古典期後期から後古典期にかけて盛行したマヤ文明の建築様式の一種。「プウク」とは、メキシコ、ユカタン州からカンペチェ州北部に南東方向に連なる「丘陵」について、マヤ語のひとつ、ユカテコ語でそのように呼んだことに由来している。

テオティワカン
Teotihuacanとは、メキシコシティ北東約50キロの地点にあり紀元前2世紀から6世紀まで存在した巨大な宗教都市遺跡。当時のアメリカ大陸では最大規模を誇っていた。テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。この都市で祀られた神々は、農業・文化と関係深いケツァルコアトルや水神トラロック、チャルチウトリケ、植物の再生と関係あるシペ・トテックなどである。

サン・バルトロ
(San Bartolo)は、グアテマラ北部のペテン低地北部に立地する先古典期後期に属するマヤ文明の祭祀センターである。ティカルの北東およそ80kmほどの場所に位置する。「ラス・ピントゥラス」(絵画の神殿)下層1号神殿の先古典期後期の素晴らしい壁画によって、その名を知られるようになった。ピーボディ考古学・民族学博物館 のウィリアム・サターノの指揮する調査隊によって2001年にピラミッドの基礎部分の建物が調査されて紹介された。

セイバル
Seibal,は、グアテマラ、ペテン県のパシオン川西岸の急峻な断崖の丘陵上に位置するマヤ遺跡である。先古典期中期初頭から古典期終末まで、盛衰を繰り返した。1892年にグアテマラ政府によって、フェデリコ・アルテス(Fedrico Artes)が、シカゴ万博博覧会のグアテマラ・ブースに出品する目的で、マヤの石碑の型どりを行うためにペテンのマヤ遺跡の踏査を行ったのが本格的な学術調査のはじまりであった。

アルタル・デ・サクリフィシオス
Altar de Sacrificiosは、グアテマラ中部、パシオン川流域にあるマヤ遺跡である。雨期に増水によって水面下になってしまうパシオン川の両岸を見下ろすパシオン南岸の小高い丘に立地する。アルタル・デ・サクリフィシオスの居住は、マヤ低地最古に属する先古典期中期のシェー相(紀元前900年頃)から始まり、古典期終末まで続く。

エル・ミラドール
エル・ミラドール(スペイン語で見晴し台)は現在のグアテマラ、ペテン県北端の国境付近のジャングルの中にあるマヤ文明の遺跡。本来の名称は、不明である。主として先古典期後期に繁栄した。この遺跡が最初に発見されたのは、1926年であり、1930年に航空写真で撮影された。しかし、イアン・グラハムが1962年に10日間かけて地図を作成するまでは、うっそうとしたジャングルの奥深くにあったために、ほとんど注目されてこなかった。詳細な調査は、1978年にBruce DahlinとRay Mathenyの指揮するプロジェクトから始まった。考古学者たちは、エル・ミラドールがティカルやワシャクトゥンのような古典期の大都市とは、同時に建てられたものではなく、さらに数世紀も早い先古典期の時代に建てられた都市であったことに驚かされた。

ナワトル語
かつてアステカ人や周辺のインディオが使っていたユト・アステカ語族に属する言語で、今はメキシコなどで話されている。ナワトル語は北米やメキシコのいわゆるインディアンによって最も広く話されていた言語である。メキシコ固有の言語ではよく見られることだが、ナワトル語の話者の多くは同時に他の言語も操ることができ、実用的なスペイン語の知識を持っていた。

キチェ語
(k'iche') とは、グアテマラ中部の山地に住むマヤ族の一部であるキチェ人が使用する言語で、マヤ諸語に属する。話者はグアテマラの人口の7%にあたる約100万人である。神話のポポル・ウフはキチェ語で書かれている。

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ケツァルコアトル
(Quetzalcóatl)は、アステカ神話の文化神・農耕神である。また、風の神とも考えられた。ケツアルカトル、ケツァールコアトルとも呼ばれる。マヤ文明ではククルカンという名で崇拝されていた。古くは水や農耕に関わる蛇神であったが、後に文明一般を人類に授けた文化神と考えられるようになり、ギリシア神話におけるプロメテウスのように、人類に火をもたらした神ともされた。

ウィツィロポチトリ
(Huitzilopochtli)は、アステカ神話の太陽神・軍神・狩猟神である。
その名は「蜂鳥の左足」または「左(南)の蜂鳥」を意味する。女神コアトリクエの息子であり、月神コヨルシャウキの弟である。コアトリクエは、コアテペック山で羽毛の珠を拾ったことにより受胎。それを知ったコアトリクエの子たちは、母の懐妊に面目を潰されたと感じ、コアトリクエを殺害しようとした。しかしコアテペック山で、完全武装したウィツィロポチトリが誕生し、「トルコ石の蛇」という火の玉を使ってコヨルシャウキを八つ裂きにし、兄弟の大半を滅ぼした。

テスカトリポカ
(Tezcatlipoca)は、アステカ神話の主要な神の1柱である。神々の中で最も大きな力を持つとされ、キリスト教の宣教師たちによって悪魔とされた。Tezcatlipoca は、ナワトル語で tezcatl (鏡)、poca (煙る)という言葉から成り、従ってその名は「煙を吐く鏡」を意味する。鏡とは、メソアメリカ一帯で儀式に使用された黒曜石の鏡のことを示す。


■民族
先住民は主にマヤ系住民が多数を占め、人種的に先住民でも非先住民的な生活様式(スペイン語の使用)を行う先住民はラディーノ(非先住民)と呼ばれ、メスティーソと同様に扱われる。白人系住民は植民地時代以来からのスペイン人の子孫が最も多いが、19世紀にプランテーション農業のためにヨーロッパから移民が導入され、ドイツ人、イタリア人、スイス人、ギリシャ人などが、アジアからもアラブ人(シリア人、レバノン人、パレスチナ人)、トルコ人、ユダヤ人、中国人、日本人などが導入された。近年は韓国人移民が多い。


カリブ海
Caribbean Sea、は、メキシコ湾の南、大西洋に隣接する水域である。カリブ海には世界の29%に相当する5万平方kmのサンゴ礁が広がるが、現在異常な水温上昇がサンゴ礁を脅かしている。水温が29度Cを超えるとサンゴ礁の餌となる植物が死滅し、サンゴ礁の白化が始まる。植民地時代から、カリブ海地域では活発な経済活動が行われている。カリブ海では年に1億7000万トンの原油が生産されており、世界最大の原油生産地域のひとつとなっている。また、カリブ海域では年に50万トンの漁獲高があり、周辺諸国では漁業が盛んに行われている。

ホンジュラス湾
(Gulf of Honduras)は、中央アメリカのベリーズ、グアテマラ、ホンジュラスと接する湾であり、カリブ海の一部である。ベリーズ沖には世界第2位の規模をもつ珊瑚礁群グローバーリーフ(Glover Reef)やライトハウスリーフ(Lighthouse Reef)などがある。

パシオン川
Rio la Pasionは、グアテマラ共和国の北部低地地域を流れる河川である。アルタ・ベラパス県の丘陵地帯を源とする何本もの源流から成る。これら源流は北へと流れパシオン川を形成し西へと流れ、サリナス川[2]と合流する。この二つの川の合流によってウスマシンタ川という大河となり、北へと流れ、最終的にメキシコ湾へ注ぎ込む。パシオン川とその支流からなる水系は、ペテン県西部の広い地域を流域とし5,000平方キロメートルを越える。パシオン川流域は古典期に繁栄したマヤ文明の遺跡地帯として認知されており、この地域にある代表的なマヤの祭祀センター、または都市の遺跡は、ドス・ピラス、タマリンディート、アルタル・デ・サクリフィシオス、アグアテカ、セイバル、マチャキラーなどが挙げられる。

サリナス川
Rio Salinasは、主にグアテマラ共和国を流れる河川である。ウェウェテナンゴ県とエル・キチェ県にある水源からチクソイ水力発電所までをネグロ川(Rio Negro)と呼び、このダム湖でサラマ川(Rio Salama)とカルチェラ川(Rio Carchela)がネグロ川に合流する。


メソアメリカ
(Mesoamerica)は、メキシコ及び中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域を指し、パウル・キルヒホフの文化要素の分布研究により定義された。

中米連邦
Republica Federal de Centroamerica/ Centro America)は、中央アメリカに1823年7月から1840年前後の間存在した国家。独立当初の首都はグアテマラ市。1834年にサン・サルバドルに遷都。中米連邦は、スペイン植民地時代に中央アメリカにおけるヌエバ・エスパーニャ副王領の下位行政組織だったグアテマラ総監領を構成していたグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカから構成され、独立に際してチアパスのみはメキシコに帰属することを選択した。


アバフ=タカリク
Abaj Takalikは、メキシコ、チャパス州に隣接するグアテマラ、Retalhuleu(レタルウレウ)州のEl Asintal(エル=アシンタル)市管内、イシュチャ (Ixchiya 渓谷の西岸に位置する先古典期中期から後期(紀元前1000年頃〜紀元後250年)にかけて繁栄した祭祀センターであって、多くの貴重な石碑や石彫の存在で知られる遺跡である。

エル=バウル
エル=バウル(El Baul)はグアテマラ南部高地、太平洋岸斜面、エスクイントラ地方の南部にある先古典期後期から古典期にかけての遺跡。長期暦で、7.19.15.7.12?.12(紀元37年)の日付のある1号石碑と古典期中〜後期(A.D.400頃〜900頃)のコツマルワパ(cotzumalhuapa)様式の7号、27号、30号、50号石碑などで知られる。

ティカル
グアテマラのペテン低地にあった古典期マヤの大都市である。マヤ文明の政治、経済中心都市として2,500年前に繁栄を極めた。ティカルの遺跡は1979年に世界遺産の複合遺産に登録された。17世紀末、ひとりのスペイン人神父が道を見失い、鬱蒼とした密林の中に迷い込んだ。何日も歩き続け、水も食料も尽きようとしたその時、神父はジャングルにそびえる巨大ピラミッドを発見した。これが熱帯雨林地帯で栄えたマヤ最大の神殿都市ティカルである。

チチカステナンゴ
Chichicastenango、は、グアテマラのキチェ県にある町。マヤのキチェ族の文化が色濃く残る町として知られる。首都グアテマラシティから北西に140kmの山の尾根に位置する。標高は1965m。市場の隣には築400年になる聖トマス教会がある。先コロンブス期の神殿跡に建てられたため、石段はマヤ文明時代のものである(石段が18段あるのもマヤ暦の18ヶ月(=1年)を表す)。

コツマルワパ様式
cotzumalhuapaは、古典期後期から終末期にグアテマラ南部高地、太平洋岸斜面、エスクイントラ地方の南部に盛行したと考えられるナワ族風、メキシコ風の図像に特徴づけられる石彫群の様式をいう。これらの遺跡の存在は、19世紀より知られていたが、1920年代にメキシコ中央高原の影響が指摘されて、本格的な調査が行われたのは、エリック=トンプソン(Thompson,J.Eric S.)による1942年のエル=バウルの調査であった。

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<世界遺産>
アンティグァ・グアテマラ
ラ・アンティグア・グアテマラとは、「古いグアテマラ」を意味し、グアテマラで3番目の首都であった。最初の首都は、1524年7月25日にカクチケルの都の跡地(現在のイシムチェ)に建設された。7月25日が聖ヤコブの記念日であったことから、この都市はシウダ・デ・サンティアーゴ・デ・ロス・カバジェーロス・デ・グアテマラ(グアテマラの騎士たちの聖ヤコブの都市)と名づけられ、聖ヤコブは都市の守護聖人となった。
キリグアの遺跡公園と遺跡
キリグア (Quirigua) は、グアテマラ東端部、イサバル県のモタグァ川中流域にある古典期に繁栄したマヤ遺跡のひとつである。6世紀から7世紀のはじめごろになるとキリグアは、ハリケーンか火山の噴火のような大規模な自然災害に伴って興ったと思われる洪水で、古典期前期の遺構は分厚いシルト層に覆われた。
ティカル国立公園
17世紀末、ひとりのスペイン人神父が道を見失い、鬱蒼とした密林の中に迷い込んだ。何日も歩き続け、水も食料も尽きようとしたその時、神父はジャングルにそびえる巨大ピラミッドを発見した。これが熱帯雨林地帯で栄えたマヤ最大の神殿都市ティカルである。ティカルの中心的な遺跡が「大ジャガーの神殿」である。高さが51メートルあるピラミッド状の建築物で、最上部の神殿入口でジャガーの彫刻が発見された。


ペドロ・デ・アルバラード
(Pedro de Alvarado, 1485年 - 1541年7月4日)は、スペインの探検家、コンキスタドール。エルナン・コルテスの右腕として活躍し1524年にグアテマラを征服した。彼は、生前から先住民に対してとった残酷な行為、富に対する執念が語られることが多かった。スペインのエストレマドゥーラ地方バダホスの下級貴族の家に生まれる。大西洋を渡りキューバ島征服、ユカタン半島探索隊へ参加し1518年にコルテスの遠征隊に合流。道中のトラスカラの地で首長の娘を与えられその事によりその地の人々も遠征隊に加わった。

ウィリアム・ウォーカー
(William Walker、1824年5月8日 - 1860年9月12日)は、アメリカの法律家、ジャーナリスト、冒険家、傭兵。ニカラグア大統領(在任期間1856年 - 1857年)。テネシー州ナッシュビル出身。14歳でナッシュビル大学を卒業すると19歳でペンシルベニア大学で医学を修め、医師資格を修得している。その後、ヨーロッパで医学を学び続けたが、他の学問にも関心を持っていた。1853年、ウォーカーは自らの国を持つという野心から、45人の部下を従えてメキシコ領内に攻め込み、バハ・カリフォルニア半島にロウワー・カリフォルニア共和国、次いで1854年にソノラにソノラ共和国の成立を勝手に宣言した。これはアメリカとメキシコの軍隊によって鎮圧され、ウォーカーも捕らえられたが、すぐに釈放されている。

 

グアテマラ Guatemala
中央アメリカ北部に位置する共和制国家である。北にメキシコ、北東にベリーズ、東にホンジュラス、南東にエルサルバドルと国境を接しており、北東はカリブ海に、南は太平洋に面する。首都はグアテマラ市。先コロンブス期にはマヤ文明が栄え、現在も国民の過半数はマヤ系のインディオであり、メキシコを除いた中央アメリカで最も人口の多い国である。

グアテマラシティ
Guatemala Cityは、グアテマラの首都であり最大の都市である。中米屈指の世界都市であり、人口は100万人から250万人を上回るほどと推定される。グアテマラシティはグアテマラの中央部の南部にある谷に位置している。このことはときに空気が濃縮され、大気汚染がおこることにつながる。現在のグアテマラシティは古代マヤ文明の大都市カミナルフュー (Kaminaljuyu) のあった場所の近郊に建設された。カミナルフュの歴史は先古典期中期の2000年前までさかのぼり、メキシコ中央高原のテオティワカンと交易をもっていたことが知られる。


ラ・アウロラ国際空港
La Aurora International Airportは、グアテマラの首都のグアテマラシティにある国際空港。首都グアテマラシティ中心部から南に6kmという、とても便利な位置にある。現在乗り入れ航空会社の増加に対応するため、滑走路とターミナルビルの拡張工事が行われている。

ムンド・マヤ国際空港
(Aeropuerto Internacional Mundo Maya) は、グアテマラ共和国フローレス市サンタ・エレナ郊外に位置する国際空港である。フローレス国際空港 (Aeropuerto Internacional de Flores) としても知られる。ティカルやヤシュハーといったマヤ文明の遺跡を抱えるフローレス周辺地域の国内線・国際線の航空交通を担っており、グアテマラシティ、ベリーズシティ、カンクンといった遠距離地域と結ばれている。

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外務省:グアテマラ共和国
在グアテマラ日本国大使館


アンティグア・グアテマラ
Antigua Guatemalaは、グアテマラ・サカテペケス県にある都市。市名は単にアンティグアまたはラ・アンティグアとも呼ばれる。同名の基礎自治体の中心地であるとともに、サカテペケス県の県都になっている。グアテマラ高地に位置し、スペインのムデハル様式の影響を受けたバロック建築と、植民地時代に建てられた多数の教会の遺構で知られている。ユネスコ世界遺産に登録されている。 1717年9月29日、推定マグニチュード7.4の地震がアンティグアを襲い、3,000以上の建物が崩壊し、町のほとんどの建造物は廃墟となった。この地震被害により政府は首都の移転を考慮するようになった。 さらに1773年のサンタ・マルタ地震によって町の大部分が破壊されたことで、3度目の遷都へと至る。1776年スペイン王は首都を安全な場所に移す命令を下し、現在のシウダ・デ・グアテマラのある場所に首都が移された。

ケツァルテナンゴ
(Quetzaltenango)はグアテマラ南部の内陸の都市。グアテマラシティについでグアテマラ第二の人口をもち、ケツァルテナンゴ県の県都である。スペインにより植民地化される以前には Xelaju (シェラフ)という名のマヤ人の都市であった。現在は有名なアンティグア(Antigua)に次いで語学学校の多い町として知られており、またアンティグアよりも物価が安いこともあって外国人が多い。また長期滞在している欧米人バックパッカーなどの姿もよく見かける。


アルタ・ベラパス県
Departamento de Alta Verapazは、グアテマラ北中部の県。県都は最大都市でもあるコバンである。先コロンブス期、この地方はマヤ文明の範疇だった。1520年代にコンキスタドールが到来し、いまのグアテマラ中部・南部を征服したが、先住民の頑強な抵抗に遭いいったん撤退した。

バハ・ベラパス県
Departamento de Baja Verapazは、グアテマラ中部の県。県都はサラマである。国鳥のケツァールをはじめ、絶滅が危惧される動植物を保護すべくマリオ・ダリー・ビオトペ保護区が設けられている。

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チマルテナンゴ県
Departamento de Chimaltenangoは、グアテマラの県。県都はチマルテナンゴである。主要都市にはチマルテナンゴに加え、陶磁器で知られるサンタ・アポロニア、サン・フアン・コマラパ、6月に大掛かりな聖体の祝日のイベントが行われるパツンなどがある。イシムチェやミスコ・ビエホをはじめとするマヤ文明の遺跡も数多い。

ペテン県
グアテマラの最北部に位置し、国土のおよそ3分の一、33,566平方キロメートルの広大な面積を占める。紀元前1千年紀前半には、ペテン盆地とミラドール盆地には数々のマヤ文明の祭祀センターが既に築かれていた。ミラドール盆地には、ナクベ、エル・ミラドール、ナーチトゥン、サン・バルトロ、シヴァルといった先古典期の重要なセンターが存在している。

キチェ県
Departamento de Quicheは、グアテマラの県。キチェ族の人々が多い。グアテマラでもっとも人口の多い県のひとつで、2002年の総人口は65万5100人である[2]。大方はマヤの後裔でしめられる。チチカステナンゴ市街とクマルカイの遺跡が主要な観光地。県内にはクマルカイのほかにも、チチカステナンゴ市のパスカル・アバイ、サン・アンドレス・サイカバハ市のサン・アンドレス城、カニージャ市のロス・セリトスとラ・ラグーナをはじめとする先史時代の史跡がいくつかあるが、ほとんどが祭祀場であった。

イサバル県
Departamento de Izabal)は、グアテマラの県。先住民のガリフナ族が沿岸部に居住する。国内最大の湖(全長48km、幅24km、総面積590平方キロ)であるイサバル湖を取り囲むように位置する。マヤ文明の遺跡、キリグアも県内にある。

ソロラ県
グアテマラ西部高原の県。周囲を北から時計回りにトトニカパン県、キチェ県、チマルテナンゴ県、スチテペケス県、ケツァルテナンゴ県に囲まれる内陸の県である。県都は同名の町ソロラ。風光明媚な高原の風景が国外でもよく知られる地方である。中でも県の東部を占めるアティトラン湖は『1984年』で知られるオーウェルが「世界一の美しさ」と評したほどの美観を誇り、周辺の村々で生産される様々な民芸品とあいまってソロラ県を国内有数の観光地たらしめている。

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エスクィントラ県
Departamento de Escuintlaは、グアテマラ南部の県。県都はエスクィントラである。首都グアテマラシティの南、太平洋に臨む沿岸低地に位置する。総面積は4384平方キロ。国内総生産の約43%をまかなう産業地帯で、失業率と貧困率はメソアメリカ最低を誇る。ラ・デモクラシア考古地域博物館がある。

フティアパ県
Departamento de Jutiapa)は、グアテマラの県。エルサルバドルと国境を接し、太平洋に臨む。県都はフティアパ市。人口およそ40万人のマジョリティは、ヨーロッパ系とインディオの混血であるラディーノやメスティーソである。インディオの言語が公用語とされていない、グアテマラで唯一の県。

サン・マルコス県
Departamento de San Marcosは、グアテマラの県。県都はサン・マルコス市。シエラ・マドレ山脈が横切る北部に、中央アメリカで最も標高の高い2つの火山がある。タフムルコ山 (4220m) とタカナ山 (4092m) である。前者は中央アメリカの最高峰。

トトニカパン県
Departamento de Totonicapan)は、グアテマラに22ある県のひとつ。県都はトトニカパンである。県内にはケツァルテナンゴ、グアテマラシティ、ウェウェテナンゴ、トトニカパンの四大都市をむすぶ主要幹線道のクアトロス・カミーノスが通る。

カンペチェ州
(Estado de Campeche) は、メキシコ南東部の州。長い間ユカタン州の一部であったが、1857年8月7日に離脱し独立した州となった。州の北東部はユカタン州に接し、東はキンタナ・ロー州、南西部はタバスコ州に接する。南部はグアテマラのペテン県と接する。また西部はメキシコ湾に面する。カンペチェ州の領域は56,798km2(約21,924平方マイル)。


サン・ホセ・ピヌーラ
(San Jose Pinula) は、グアテマラ共和国グアテマラ県にある基礎自治(municipio) である。首都グアテマラシティの南東22キロメートルに位置する。自治体は1886年10月1日に設置され、その名は"Tierra del pinol"(トウモロコシ粉の地)を意味する。

ビジャ・カナレス
(Villa Canales) は、グアテマラ共和国グアテマラ県にある基礎自治体 (municipio)である。首都グアテマラシティの南22キロメートルに位置する。北はグアテマラシティとサンタ・カタリナ・ピヌーラ、東はペタパとアマティトラン、西はフライハネスと境を接している。

ウェウェテナンゴ
(Huehuetenango)はグアテマラ西部にある都市であり、首都のグアテマラシティの西269kmに位置する。人口は約88,600人(2003年)である。ウェウェテナンゴ県の県都である。ウェウェテナンゴは1524年にマヤ系の民族の一部族であるマム族の首都であったサクレウを征服した後にスペイン人によって建設された。

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グアテマラ内戦
Guerra civil de Guatemalaは、グアテマラにおいて軍内の親米派と反米派及び左派勢力などの間で1960年から1996年まで続いた内戦である。軍出身のハコボ・アルベンス・グスマンが1951年に左翼国民党(革命行動党)から大統領に当選すると、農地改革などの「社会主義的」な改革を推し進めた。その一環としてグアテマラで大規模プランテーションを運営していたアメリカのユナイテッド・フルーツ社の農園の国有化を行った。1959年1月にキューバ革命によりキューバが社会主義化されると、アルベンス派へのソビエト連邦からの資金的、物質的支援が活発化した。1960年11月、フエンテス大統領に対しアルベンス派を中心とした若手将校を中心とする一党が反乱を起こしほぼ鎮圧されるが、その指導者達は逃走、山中に潜伏し、1962年には武装反乱軍を結成し、キューバを経由したソビエト連邦からの支援を受けつつゲリラ戦による徹底抗戦を宣言した。これに対しアメリカからの支援を受けた軍事政権側はクーデターを繰返しながら、死の部隊による左派政党やゲリラに協力的と看做したグアテマラ先住民の虐殺などで対応し、中には先住民に自衛軍 (PAC) を作らせて虐殺を行わせた。


ユナイテッド・フルーツ
United Fruit Company, UFCO は、かつて存在したアメリカ合衆国の企業。第三世界諸国のプランテーションで栽培させたトロピカルフルーツ(主にバナナ)をアメリカ合衆国やヨーロッパで販売した。会社は20世紀初めから半ばにかけて中央アメリカ、コロンビア、エクアドル、西インド諸島などの広大な地域、流通を支配した。本国の従業員に対する厚遇は有名で、社屋はもちろん専門の病院や学校を無料で開放し、給料も高かったと言うが、アルベンス政権以前のグアテマラでは全人口の3%が国土の70%を所有しており、著しい貧富の格差があった。1984年に社名をチキータに改称。ライバル会社へのM&Aを繰り返し、典型的な多国籍企業となったが、財政面で行き詰まり、シンシナティの投資会社に吸収された。前CEOのカール・リンドナー (Carl Lindner, Jr.) を通じて大統領一家であるブッシュ一族との関係が深い。


1.面積:108,889平方キロメートル
2.人口:1,436万人(2010年、国立統計院(推計))
3.首都:グアテマラシティー
4.民族:先住民38.4%、非先住民(混血、欧州系)61.6%(2006年国立統計院全国生活実態調査)
5.言語:スペイン語(公用語)、その他に22のマヤ系言語他あり。
6.宗教:カトリック、プロテスタント等(信教の自由を憲法上保障)

1523年 スペインによる征服
1821年 スペインからの独立
1823年 中米諸州連合結成
1838年 グアテマラ共和国成立
1960年 内戦発生
1986年 民政移管
1987年 中米和平合意
1996年 内戦終結
2000年 ポルティージョ大統領就任
2004年 ベルシェ大統領就任
2008年 コロン大統領就任
2011年 大統領選挙(予定)

■主要産業:農業(コーヒー、バナナ、砂糖、カルダモン)、繊維産業

■主要貿易品目(2010年 中銀)(1)輸出 衣類・繊維製品、コーヒー、砂糖、バナナ、石油(2)輸入 食品、電化製品、石油関連製品、自動車

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ケツァル
(Quetzal)は、グアテマラの通貨単位。国際通貨コード(ISO 4217)はGTQ。補助通貨単位はセンターボ(centavo)、複数形センタボス(centavos)で、1ケツァル=100センタボス。1979年までUSドルとペッグ制であり、1ドル=1ケツァルであった。名前はグアテマラの国鳥、キヌバネドリ科のケツァールから取られている。


■経済
グアテマラはエル・サルバドルと並んで中米では経済的に中位の国である。国民総生産の4分の1を農業が占める。農業は輸出の3分の2を占め、また労働人口の半分が従事する。主要産品は、コーヒー、砂糖、バナナである。工業・建設は国民総生産の5分の1を占めている。

■国民
貧困問題が恒常化しており、国民の生活水準は全体に低い。平均寿命は64歳。識字率は67.3%は中央アメリカでもっとも低い部類に属す。貧富の差は激しく、人口の10%が国民全体の所得の47%を占める一方、国民の57%が貧困層に属する。都市部と農村部の貧困差も大きく、地方農村では、貧困層が76%に達する。国民の大多数を占めるマヤ族など先住民は、概して零細な小規模農業に従事し、また多くはスペイン語の読み書き能力をもたないため、他の職業に就く機会も少ない。

■教育
主な高等教育機関としては、サン・カルロス・デ・グアテマラ大学(1676)や、フランシスコ・マロキン大学(1971)などの名が挙げられる。

■文化
グアテマラの文化はマヤ文明とスペインの文化に根を持ち、グアテマラには現在もなおマヤ文明とスペイン植民地時代の遺風が残っている。衣食には伝統的なマヤ文化の色彩が今でも残り、また国のいたるところにマヤの遺跡が残っている。

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■文学
グアテマラ文学はマヤ時代からの先住民の口承文学に伝統を持っている。先コロンブス期の文学で現存するものとしては、キチェ語で書かれた『ポポル・ヴフ』が残っている。グアテマラの小説は、独立後の19世紀半ばに、アントニオ・ホセ・デ・イリサリによってはじまり、サロメ・ヒルによって大成された。

モデルニスモ文学
Modernismoとは、一般にスペイン語圏ラテンアメリカ文学(イスパノアメリカ文学)における近代主義(モダニズム)運動のこと。ルベン・ダリオをはじめとする作家たちにより、19世紀後半から20世紀初頭にわたって展開された。


■大統領選挙で元将軍のモリーナ氏が当選
2011/11/08  ヴァテマラで6日大統領選の決選投票があり元将軍で右派のオットー・ペレス・モリーナ氏が当選。抗争が激化するメキシコの麻薬組織の勢力拡大で凶悪犯罪が増える中、治安対策で軍の投入を掲げ支持を集めた。

PBSUCCESS作戦
(ピービーサクセスさくせん)とは、アメリカ合衆国の中央情報局(CIA)が1954年に行った、グアテマラのハコボ・アルベンス・グスマン(英語版)(西: Jacobo Ábenz Guzmá℃)政権に対する転覆作戦である。これは、後のグアテマラ内戦に繋がった。


ラファエル・カレーラ
Jose Rafael Carrera Turcios,1814年10月24日 - 1865年4月14日は、グアテマラの政治家、軍人。中米連邦の自由主義派に反発したグアテマラの教会、保守派、農民のリーダーとなりフランシスコ・モラサンの率いるエル・サルバドル派と戦い1838年に勝利した。その間に独裁体制を築き1839年に独立国となったグアテマラの初代大統領に就任し強力な保守統治を行った。1854年には終身大統領になったが、インディヘナに対しては共有地の保護などの優れた政策を行った。また、1856年のウィリアム・ウォーカーとの戦争の際には他国と同調して中米連合軍の一員に加えた。1865年に病死し以後、グアテマラでの保守派の支配が終焉にむかった。

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フランシスコ・モラサン
Francisco Morazan、1792年10月3日 - 1842年9月15日は、中米連邦の政治家、軍人、カウディージョである。ホンジュラス出身。1830年から1834年、1835年から1839年まで中米連邦の大統領であり、中央アメリカを列強の従属国にしたくない一心で五州(後にロス・アルトスが加わる)の分離主義を前に、自由派として中米連邦の維持に心を砕き、ラファエル・カレーラを代表するグアテマラの保守派と戦い続けた。

エストラーダ・カブレラ
Manuel Jose Estrada Cabrera、1857年11月21日 - 1923年9月24日は、グアテマラの政治家、法律家。グアテマラ大統領(在職1898年 - 1920年)として22年間にわたり独裁権力をにぎり、文民政治家でありながら、配下の軍人を巧みに操作して軍に絶大な権力を行使した。自分の母親の誕生日を国祭日とするなど奇行も多い。

ホルヘ・ウビコ
Jorge Ubico y Castaneda、1878年11月10日 - 1946年6月14日は、グアテマラの政治家、軍人。グアテマラ大統領(在職1931年 - 1944年)として13年にわたる独裁政治をした。対外債務を大幅に減らすなど功績はあるが、頑迷な保守主義者でベニート・ムッソリーニを尊敬するファシストだった。「グアテマラで自由なのはウビコただ一人」と呼ばれていたが、しかし、1944年に学生の研究会に幅広い層が合流してウビコ打倒の動きが始まり、政府は有効な反撃が出来ず,運動は急速に拡大する。反ウビコのデモとゼネストは全土を覆い、6月29日、抗議のデモが最高潮に達する。

ミゲル・アンヘル・アストゥリアス
Miguel Angel Asturias, 1899年10月19日 - 1974年6月9日。ミゲル・アンヘル・アストリアスとも)は、グアテマラの小説家。キューバのアレホ・カルペンティエルと共に魔術的リアリズムの担い手となり、その後のラテンアメリカ文学ブームの先導者となった。判事でインディオの血をひく父と、教師をしていたインディオの母との間のメスティソとして生まれる。両親は独裁者エストラーダ・カブレラに反抗したために職を追われ、ミゲルが5歳の時に祖父の住む田舎に移り、現地のインディオ達や母から伝説や様々な話を聞いて育つ。ソルボンヌでは人類学者のジョルジュ・レイノー教授について、中央アメリカの古代文明の研究を進め、この頃から詩や小説を書き始めた。

アウグスト・モンテローソ
Augusto Monterroso Bonilla、1921年12月21日 - 2003年2月7日はグアテマラ人作家である。ホンジュラスの首都テグシガルパに生まれる。母はホンジュラス国籍、父はグアテマラ国籍で、幼少期はホンジュラスとグアマテラを行き来する生活を送ったが、モンテローソ自身は終生グアマテラ国籍を通した。両親はともに両家の出であり、家庭は知り合いの芸術家が行き来する自由な環境であったようだ。11歳のとき、突然それまで通っていた小学校を自主的に退学、以後は市場の肉屋で仕事をしつつ、空いた時間は古典をはじめとする膨大な量の読書に費やした。

リゴベルタ・メンチュウ
Rigoberta Menchu Tum, 1959年1月9日キチェ県チメール - はグアテマラのマヤ系先住民族の1つキチェの人権活動家・実業家である。1992年にノーベル平和賞、1998年にアストゥリアス皇太子賞国際協力部門を受賞した。メンチュウはユネスコ親善大使の1人である。人類学者のエリザベス・ブルゴスによる聞き取り『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』(1983年)、Crossing Borders などの著書がある。幼少期から不正、差別、人種差別、グアテマラの極貧状態で生きる何十万もしくは何百万人もの先住民に対する搾取の事実を痛切に感じていた。

フランク・ロイド・ライト
(Frank Lloyd Wright、1867年6月8日 - 1959年4月9日)は、アメリカの建築家。アメリカ大陸で多くの建築作品があり、日本にもいくつか作品を残している。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなす事もある)。そのスタイルには変遷もあり、一時はマヤの装飾を取り入れたことがあるが、基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴である。

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アグスティン・デ・イトゥルビデ
(Agustín Cosme Damián de Iturbide y Arámburu, 1783年9月27日 - 1824年7月19日)はメキシコ独立戦争の指導者。メキシコ帝国の皇帝アグスティン1世(在位:1822年 - 1823年)として君臨した。イトゥルビデは1798年から1810年までスペイン軍に在籍し、中尉まで昇進した。1810年にメキシコ独立戦争が勃発した際、独立軍を鎮圧する側であるスペイン軍の一員として闘った。

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