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ドミニカ共和国
Dominican Republic
<中南米>

北中アメリカ

■古代
紀元前4000年から1000年までの間に先住民アラワク族(タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク族は消え去ったが、それでもドミニカの文化にはアラワク族の文化の影響が、特に食事、言語、家族構成、そしてモラルの中に見て取ることが出来る。なお、征服時にいたインディヘナの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている。


■地理
ドミニカ共和国はハイチと共に大アンティル諸島で二番目に大きいイスパニョーラ島に位置し、およそ島の2/3の面積を占め、カリブ海ではキューバの次に大きい。ドミニカには三つの山脈と、その間に位置する四つの平野があり、それぞれがハイチから続く中央山脈、セプテントリオナル山脈、オリエンタル山脈となっており、中央山脈とセプテントリオナル山脈の間の裾野には同国で最も肥沃なシバオ平野が広がる。最高峰はドゥアルテ峰 (3175m)であり、これはカリブ海諸国での最高峰でもある。また、同国最大の湖エンリキージョ湖はカリブ海での最大の湖でもある。かつてコロンがこの地に上陸した時は、世界で最も美しい風景だと称えた。


西インド諸島
West Indies、は、南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域にある群島である。アメリカ合衆国のフロリダ半島南端、および、メキシコのユカタン半島東端から、ベネズエラの北西部沿岸にかけて、少なくとも7000の島、小島、岩礁、珊瑚礁がカーブを描くようにして連なる。これらの島々が、大西洋と、メキシコ湾、カリブ海の境界線を形成している。

大アンティル諸島
Greater Antilles、は、中央アメリカのカリブ海にある諸島。フロリダ半島およびバハマの南方、ユカタン半島の東方、小アンティル諸島の西方に位置する。北は大西洋に面している。大アンティル諸島は、比較的新しいサンゴ礁や火山島の多い小アンティル諸島とは異なり、大陸から分かれた陸塊の上に位置する。中央アメリカ大陸部と同様の地質的構造をもち、片岩、片麻岩などの変成岩、古い噴出岩などからなる。

イスパニョーラ島
ハイチ語:Ispayola)は、カリブ海にある大アンティル諸島に属する島であり、西側3分の1をハイチ共和国、東側3分の2をドミニカ共和国が統治している。東はモナ海峡、西はウィンドワード海峡およびジャマイカ海峡となっている。かつては西側のハイチ共和国のほうが人口も国力も東側の現ドミニカ共和国側を上回っており、東側は何度もハイチ共和国により侵攻・占領されていた。現在は比較的安定したドミニカ共和国側に比べ、ハイチ共和国側は政情が不安定で世界の最貧国の一つであり、農業の規模も小さく、国土も森林がほとんど失われ荒廃している。

モナ海峡
Canal de la Mona)は、イスパニョーラ島とプエルトリコ島の間の海峡である。大西洋とカリブ海を結んでいる。 プエルトリコに属するモナ島がある。大西洋とパナマ運河の間の重要な航路である。イスパニョーラ島とプエルトリコ島の間に80マイルに渡って広がり、カリブ海で通過が最も困難な海峡の一つである。2つの大きな島とそれらの島の両岸に数キロに渡って広がる砂堆によって、様々な種類の潮流が引き起こされる。

ウィンドワード海峡
(Windward Passage)は、カリブ海上のキューバ島とイスパニョーラ島との間にある海峡である。キューバの東方、ハイチの北西に位置している。海峡の幅は80kmで、1700mの水深閾値(threshold depth)を有する。南のジャマイカ島とイスパニョーラ島の間はジャマイカ海峡(Jamaica Channel)である。大西洋とカリブ海がこの海峡で結ばれており、パナマ運河とアメリカ東海岸の間の、輸送における直接経路となっている。

ジャマイカ海峡
(Jamaica Channel)は、カリブ海に浮かぶジャマイカ島とイスパニョーラ島との間にある海峡である。海峡の中にはアメリカ合衆国領のナヴァッサ島がある。


ハリケーン
(Hurricane, Tropical cyclone)とは以下の地域で発生した熱帯低気圧のうち、最大風速が64ノット(約33メートル毎秒、約74マイル毎時、約119キロメートル毎時)以上のものをいう。大西洋北部(カリブ海・メキシコ湾を含む北大西洋)大西洋南部 (ただし、ほとんど発生しない)太平洋北東部(西経140度より東の北太平洋)太平洋北中部(180度〜西経140度の北太平洋)大西洋北部および太平洋北東部のハリケーンはフロリダ州マイアミにある米国海洋大気局国立ハリケーンセンターが、また太平洋北中部のハリケーンはハワイ州ホノルルにある同局中部太平洋ハリケーンセンターが、それぞれ命名している。


■河川と湖
国内最高峰のドゥアルテ峰から85km程南西には標高マイナス40mの塩湖エンリキーリョ湖が存在し、これはカリブ海でも最も低いものである。ただし、これ以外は余り大きな湖には恵まれていない。ドミニカ共和国の55ある湖の内、アラワク族の名づけたものは45個に達する。


タイノ族
(Taíno) は、アラワク族語系に属するキューバ、イスパニョーラ島(ハイチとドミニカ共和国)、プエルトリコ、そしてジャマイカを含む大アンティル諸島とバハマ諸島の、クリストファー・コロンブス到着以前から先住するインディアン部族である。南アメリカのアラワク族が航海してきたものと見られる。1492年のコロンブスの到着時には、イスパニョーラ島には5つのタイノ族の王国があり、それらは酋長に率いられていた。スペイン占領時には、タイノ族の人口は最大で3000人もいた。

アラワク族
(Arawak)とは、南米ボリビアの北西部やペルーのモンクーナヤ地方、スリナムとガイアナおよびアマゾン下流域などに定住するインディアンで、アラワク語を話す。スペイン人による新大陸侵入以来、アラワク族は急激にその数を減じて行った。特に、西インド諸島に定住していたアラワク族は、敵対していたカリブ族やヨーロッパ人の侵攻などにより、民族としての滅亡への道を辿る。

ムラート
Mulato)は、ラテンアメリカ及び北アメリカでヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血を指す言葉である。ムラットともいう。元々は、片方の親がヨーロッパ系でもう片方の親がアフリカ系の子供のことを指していたが、現在ではある程度両方の血統が混じっている人々のことを指すようになった。「黒人と白人の混血者」と説明されることも多い。


■言語
スペイン語が公用語であり、国民の間ではカリブ・スペイン語の方言であるスペイン語ドミニカ共和国方言が話されているが、移民によってハイチ・クレオール語やフランス語、ドイツ語、英語、イタリア語なども話されている。特にハイチ・クレオール語はハイチ人移民やその子孫によって、約120万人が話していると推測されている。

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■宗教
宗教は、ローマ・カトリックが64%である。ユダヤ人はヨーロッパでのナチスによる迫害から逃れたものが、1930年代後半になってからようやくドミニカ社会に現れるようになった。

カトリック教会
Ecclesia Catholica)はローマ教皇を中心とし、全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。カトリック教会の信仰生活の中心にあるのは聖体祭儀のミサである。ミサの中で信者は聖体の秘跡を受ける(聖体拝領)。主日(日曜日)と守るべき祝日にミサにあずかることは、信徒としてのつとめであるとされている。

ユダヤ人
Jews)とは、ユダヤ教を信仰する者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(民族集団)。中世以前は前者の捉え方がなされていたが、19世紀の国民国家出現以降は後者の捉え方が広まった。2010年現在の調査では全世界に1340万を超えるユダヤ人が存在する。民族独自の国家としてイスラエルがあるほか、各国に移民が生活している。


■移民
1820年代のハイチ占領時のドミニカ共和国東部には、ハイチ政府の招きに応じてやってきたアメリカ合衆国の黒人奴隷が定住した。1800年代後半から1900年代初頭にかけてはベネスエラ人、プエルトリコ人の大規模な移民もあった。20世紀の初頭にはレバノン人が移住し、中国人やインド人の移民もあった。トルヒージョ大統領はドミニカを白人国家にしようとヨーロッパ系の移民を誘致したが、これは限定的な成果しか挙げなかった。1930年代後半から第二次世界大戦後はユダヤ人の移民が多かった。主な移民としてはハイチ人、ドイツ人、イタリア人、フランス人、ユダヤ人、スペイン人、中国人、アメリカ合衆国人など。ごく少数だが日本人やアラブ人(特にレバノン人)の移民もあった。


日系ドミニカ人
第二次世界大戦後に、外地からの引揚などによって発生した約600万人の失業者問題を解決することと、大戦によって悪化した日本の国際的な評判を回復させるべく、日本人を海外の開発事業に携わらせる、という日本政府の方針によって、大戦で直接戦火を交えなかった中南米諸国への移住を推進したことが発端となっている。ドミニカ共和国への移民は、1956年(昭和31年)にドミニカ政府が農業開発の為に日本人移民を受け入れるという条約を日本政府との間に締結したことにより、当時の日本海外協会連合会(現・国際協力機構)によって、同年から1959年(昭和34年)に亘って行われた。


プランテーション
(plantation) とは、大規模工場生産の方式を取り入れて、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、先住民や黒人奴隷などの安価な労働力を使って単一作物を大量に栽培する大規模農園のことである。経営主体は、国営、企業、民間など様々である。この「安価な労働力」は、かつては植民地の原住民あるいは奴隷であり、現在は発展途上国の農民であったり、土地自体が先住民から奪われて経営者に売られていたりなどするため、労働者の人権が問題とされることがある。また水質汚染・森林破壊・農薬問題などの環境破壊が問題とされることも多い。


■教育
6歳から13歳までの7年間の初等教育が無償の義務教育である。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は87%である。全体的に、教育レベルは低い。子供がいる家庭に、日本のように勉強机や本棚がある家庭は珍しい。主な高等教育機関としてはサント・ドミンゴ自治大学(1538年)、マドレ・イ・マエストラ・カトリカ大学(1962年)、サンティアゴ工科大学(1974年)などが挙げられ、サント・ドミンゴ自治大学はアメリカ大陸で最も古く建設された大学である。


■文化
ドミニカ共和国の文化はアラワク族の文化、西アフリカから移入された黒人の文化、スペイン人の文化の影響を受けている。近年は政情が安定しない隣国ハイチから逃れてくる人も多く、そうしたハイチ人の文化がドミニカ共和国の文化に更なる多様性をもたらしている。

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■食文化
ドミニカ共和国の料理はタイノ人、スペイン、アフリカの影響によって成立している。代表的なものとしてモフォンゴなどが挙げられる。主食の米に、油と塩を多用する。塩水と油で炊いた米に、更に炊き上がったらサラダ油をたっぷりとかけてツヤツヤにする。昼食がメインで、朝晩はパンにミルク等の軽食だが、昼食はガッチリと取る。おかずも油や塩がよくきいていて、高カロリーなものが多い。食生活が、ドミニカ人の体型によく現れていると言える。路上の屋台で売られている物も、ピカロンガ(色々な肉を揚げたもの)やエンパナーダにサラミ等、揚げ物がほとんど。そのかわり、路上では様々なフルーツやナチュラルジュースを買うことができる。

モフォンゴ
Mofongo)は、調理用バナナで作るカリブ海諸国の料理である。パンノキやキャッサバで作ることもできる[1][2] 。ドミニカ共和国、プエルトリコ等のカリブ海諸国で食べられている[3]。モフォンゴは、通常、揚げた未熟の調理用バナナをつぶし、ブイヨン、ニンニク、オリーブ・オイル及び砕いたチチャロネス(Chicharrones - 脂肪の層がついた豚の皮の揚げ物)又はベーコンで味付けする。


サントドミンゴの植民都市
ドミニカ共和国の首都サントドミンゴの植民都市は、クリストファー・コロンブスらによって建造された新世界における最初の植民都市で、イスパニョーラ島南部に所在する。16世紀前半には新世界で最初の大聖堂や病院、大学などが建てられた。その歴史的価値から、ユネスコの世界遺産に登録されている。



■コロニアルゾーン
1502年にサント・ドミンゴはハリケーンによって破壊されたため、新統治者ニコラス・デ・オバンドは、付近の別の土地に街を再建した。 都市の元のレイアウトとその防護壁の大部分は、今日でも、コロニアル・ゾーン (Colonial Zone) の至る所で確認することができる。1990年に歴史的なコロニアル・ゾーンは、「サントドミンゴの植民都市」として、ユネスコの世界遺産に登録された。このエリアはオザマ川 (Rio Ozama) に隣接し、エリア内には、中世後期の時代の建築様式を反映した宮殿風の住宅や荘厳な教会を含む、16世紀の印象的な建物物が多く存在する。


■野球
キューバやプエルトリコ、ベネスエラ、ニカラグア等の中南米諸国と同じく、19世紀後半にアメリカ合衆国から野球が伝えられた。ドミニカ共和国は世界でも屈指の野球大国であり、野球は事実上の国技となっている。特に、通算609本塁打のサミー・ソーサはドミニカ共和国内では英雄的存在である。また、90年代後半から00年代にかけても、「地上最高の投手」と称されたペドロ・マルティネスや、現在メジャーリーグ最高峰のスラッガーであるアルバート・プホルス(セントルイス・カージナルス)を筆頭に、マニー・ラミレス(ロサンゼルス・ドジャース)、デビッド・オルティーズ(ボストン・レッドソックス)、ブラディミール・ゲレーロ(テキサス・レンジャーズ)、ホセ・レイエス(ニューヨーク・メッツ)、ハンリー・ラミレス(フロリダ・マーリンズ)などの超一流選手を続々と輩出しており、ドミニカ共和国はメジャーリーグにとってなくてはならない存在になっている。


ホアン・グズマン
Joan Guzman、男性、1976年5月1日 - は、ドミニカ共和国のプロボクサー。サントドミンゴ出身。元WBO世界スーパーフェザー級およびスーパーバンタム級チャンピオン。バンタム級時代のファイトスタイルは、試合序盤から積極的に猛攻撃をしかけ威力あるパンチを振り回すファイタータイプであり、また、顔つきがマイク・タイソンを彷彿とさせることから「The little Tyson(小さなタイソン) 」の異名を持っていた。ただし近年のファイトスタイルは、タイソンよりも、むしろモハメド・アリのようなスタイルに変貌している。ジョー小泉氏がWOWOWの解説中に、パンチをかわす技術は、フロイド・メイウェザー並。と評価していた。

ポルフィリオ・ルビロサ
Porfirio Rubirosa Ariza 、1909年1月22日 - 1965年7月5日は、ドミニカ共和国の外交官、レーシングドライバー。プレイボーイ、セレブリティとして世界的に著名であった。ドミニカ共和国サン・フランシスコ・デ・マコイスで軍人の家に生まれ、父が駐在武官としてフランスのパリに赴任したことから、少年期までの間を同地ですごし、17歳の時にドミニカ共和国へ戻る。1937年に同国の独裁者のラファエル・トルヒーヨ大統領の娘であるフロール・ド・オロと結婚し、同国の駐フランス特命全権大使としてパリに赴任するものの、すぐに離婚し、第二次世界大戦中の1942年に再婚する。しかしその後もヨーロッパや南米の社交界でプレイボーイとして鳴らし、欧米の女優や貴族の令嬢との交際の噂が絶えず取りざたされた。交際の噂が出ただけでも、マリリン・モンローやエヴァ・ガードナー、ジュディ・ガーランド、ザ・ザ・ガボール、キム・ノヴァク、リタ・ヘイワースなどのそうそうたる顔触れであった。さらに、アルゼンチンのファーストレディーとなるエヴァ・ペロンとの関係の噂までが取りざたされている。

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ニコラス・デ・オバンド
(Fray Nicolas de Ovando y Caceres、1460年 - 1518年5月29日) は、貴族出身のスペイン軍人でアルカンタラ騎士団の騎士。 1502年から1509年まで、西インド諸島のイスパニョーラ島の第3代統治者であった。1502年、オバンドがイスパニョーラ島に到着した時、原住民の反乱があった。彼は兵を用いて、反乱を容赦なく鎮圧した。イスパニョーラ島におけるオバンドの統治時代は、インディアンを最も残酷に扱った時代の1つである。1492年、スペイン人が到着した際、原住民の人口は約500,000人と見積もられている。しかし1507年の調査によると、原住民の人口は60,000人にまで減少していた。

バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア
(Vasco Nunez de Balboa 1475年-1519年1月21日)は、スペインの探検家・植民地政治家。ヨーロッパ人として初めて太平洋に到達した功績で知られる。現地では食糧不足や先住民(インディオ・インディヘナ)の襲撃に悩むスペイン人たちのリーダーとして才覚を発揮。新しい植民都市ダリエンの建設を指揮し、完成後はその総督に任命される。懇意にしていたインディオの酋長から南方にある黄金の産出地の情報を得たバルボアは、1513年9月に180人の隊を組織して探索を開始する。この時の部下の一人が、後にインカ帝国の征服者として知られるフランシスコ・ピサロである。


フランシス・ドレーク
(Francis Drake, 1543年? - 1596年1月28日) は、南イングランド生まれのイギリスの海賊、私掠船船長、海軍提督。ラテン語名がフランキスクス・ドラコ (Franciscus Draco) 、スペイン語名がフランシスコ・ドラケ (Francisco Draque) であり、ドラコやドラケは悪魔の化身であるドラゴンを指すことから、海賊行為で苦しめられていたスペイン人は彼を「ドラコ」や「エル・ドラケ」と呼ぶようになる。イギリス人としては初めて世界一周を達成した。ただし、当時は海賊行為というのは他の国でも行われていた。

■ドレークのスペインに対する復讐心
10歳を過ぎたころには近所に住む老船長のもとで航海に従事していた。老船長にその働きぶりが認められ船を譲り受けたがドレークはその船を売りさらなる旅に出た。親戚であるジョン・ホーキンスの下で奴隷貿易に従事していたが、1568年、自ら船を調達して船長となった。その後もジョン・ホーキンスの船団に参加していたが、ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルアにてスペイン海軍の奇襲を受け、船団はほぼ壊滅状態となった。ドレークは命からがら逃げ延びてイギリスに帰還した。この経験は、ドレークに生涯にわたるスペインに対する復讐心を抱かせることになった。
■ドレークの海賊活動
1570年以降、西インド諸島のスペイン船や町を襲う海賊活動を開始。 1573年にはパナマからノンブレ・デ・ディオスに金銀を運ぶラバ隊を襲撃して大量の財宝を手に入れた。
1577年11月、排水量約300tのガレオン船ゴールデン・ハインド号を旗艦とする5隻の艦隊で、プリマス港を出航。
大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出し、チリやペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲って、多大な財宝を奪う。 その中にはスペイン王の財宝を満載したカカフエゴ号などが含まれる。 カカフエゴ号には銀26t、金80ポンド、貨幣と装飾品13箱など合計20万ポンド相当が積載されていたとされる。


ラファエル・トルヒーヨ
1891年10月24日 - 1961年5月30日)はドミニカ共和国の政治家、軍人。31年間の長期独裁体制下で個人崇拝を徹底させ、国家経済の大部分を私物化した。1891年、郵便局員の息子としてサン・クリストバル郊外の村に生まれる。初等教育を受けたのち、電報局に勤めたが1918年に国家警察隊に入隊。1930年に大統領選に立候補すると、軍を使って選挙管理委員会や反対派に脅迫を行う等あらゆる不正を行い「95%の得票を勝ち取り」選挙に勝利する。全耕地の1/3を横領、砂糖・コーヒー・ビール・タバコなど国家のめぼしい産業は全て一族に支配させ、個人資産は10億ドルにものぼった。さらに多くの政敵や批判者を亡命や国外追放に追い込み、恐怖政治によって体制を固めていった。

レオネル・フェルナンデス
Leonel Fernandez、1953年12月26日 - )はドミニカ共和国大統領である。サントドミンゴ生まれで、サントドミンゴ自治大学を卒業後、アメリカ合衆国、フランス、メキシコ、ベネズエラに就学、マスコミ関係、弁護士を経て、ドミニカ解放党中央委員会メンバーとして政界に入る。大統領選では1996年に初当選、2000年には落選したものの、2004年には二期目当選、2008年には三期目の当選となり現在に至っている。

ホアキン・バラゲール
1906年9月1日 − 2002年7月14日)は、ドミニカ共和国の政治家、大統領。在任1960年〜62年、1966年〜1978年、1986年〜1996年。強権政治を行いアメリカからの援助で工業化を進め、「ドミニカの奇蹟」と呼ばれる経済成長を実現したが、国内の貧富の差を広げ汚職を蔓延させた。父親はカタルーニャ人を先祖に持つプエルトリコ人であった。サントドミンゴで教育をうけパリ大学を卒業。当時ドミニカの独裁者だったラファエル・トルヒーヨに忠実で1940〜1950年代に外交官、内閣のポストを歴任し、1960年、副大統領から大統領に昇格した。しかし1961年にトルヒーヨは暗殺され、パラゲールは翌年のクーデタで失脚した。

ロビンソン・カノ
(Robinson Jose Cano, 1982年10月22日 - )は、ドミニカ共和国出身のアメリカMLBニューヨーク・ヤンキース所属の内野手(二塁手)。名前のロビンソンはジャッキー・ロビンソンにちなんでいる。2005年、AAA級チームで打率.333の好成績を残し、5月3日にメジャー初昇格を果たす。2009年、自己最多かつリーグ最多タイの161試合に出場し、打率は2年ぶりの3割を記録した。また、自身初となる200安打と25本塁打を記録した。シーズン終了後のMVP投票では7位に入った。現在のヤンキース生え抜き野手の中ではデレク・ジーターに次ぐキャリアを持ち、今後のヤンキースの中核を担う選手だと目されている。広角に打ち分けるシュアな打撃が魅力。守備は凡ミスが多かったが、年々改善しており、送球技術に関してはメジャー屈指の実力の持ち主である。

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ジョニー・クエト
(Johnny Cueto, 1986年2月15日 - )は、ドミニカ共和国サンペドロ・デ・マコリス出身のプロ野球選手。投手、右投右打。MLBシンシナティ・レッズに所属している。2004年3月16日にシンシナティ・レッズと契約。A級のデイトン所属時の2006年5月13日、試合は雨のため5回でコールドゲームとなったが、クエトは球団史上初のノーヒットノーランを達成。2006年から2年連続で球団傘下の最優秀マイナー投手に選出された。

アルフォンソ・ソリアーノ
(Alfonso Guilleard Soriano, 1976年1月7日 - )は、ドミニカ共和国サンペドロ・デ・マコリス出身のアメリカメジャーリーグ、シカゴ・カブス所属の外野手(左翼手・中堅手)兼内野手(二塁手)。右投げ右打ち。1999年、2Aで89試合に出場。打率.305、15本塁打、24盗塁を記録し、マイナーリーグ版オールスターフューチャーズゲームではMVPに選出された。初球から積極的に打ちにいき、四球は少なく三振も多い。大きなスイングであるにも関わらず打席から一塁まで4.0秒で走るスピードを誇り、シーズン40盗塁以上を3度達成した。

アントニオ・アルフォンセカ
(Antonio Alfonseca , 1972年4月16日 - )は、ドミニカ共和国ラ・ロマーナ県ラ・ロマーナ出身の野球選手。投手、右投右打。1989年にモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)に入団し、1993年12月に球団拡張ドラフトで新球団フロリダ・マーリンズへ移籍。1997年6月17日のタイガース戦でメジャーデビューを果たし、初勝利を記録。この年、レギュラーシーズン17試合すべてリリーフで登板した。球速が最高で100mph(約161km/h)近くまで達する速球に、スライダーやチェンジアップを交えた投球をする。

マニー・ラミレス
(Manuel Aristides "Manny" Ramirez , 1972年5月30日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身のプロ野球選手(外野手、指名打者)。現代メジャーリーグ屈指の好打者であり、スラッガーである。驚異的に打点を稼いだことからアメリカではRBI Machineとも呼ばれた。好人物と言われているが気まぐれな発言(「ボストンにいるとプライベートが無いよ!」等)や、あからさまにやる気のないプレー(レフトの定位置で観客と一緒になってウェーブに興じる等)を見せるなど気持ちの波が大きい。ラミレスの愛称の1つにManny being Mannyというものがあるが、和訳すると「マニーはマニー」という意味で、ラミレスの自由奔放なプレースタイルや振る舞いから来ている。

シモン・ボリバル
Simon Jose Antonio de la Santísima Trinidad Bolívar y Palacios、1783年7月24日 - 1830年12月17日)は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。ベネズエラのカラカスにアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなってボリバルはその後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。このため、ラテンアメリカでは「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれる。多くの武将を配下にして使いこなし、特にアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍との親交は有名である。

ホアキン・バラゲール
(Joaquin Antonio Balaguer Ricardo, 1906年9月1日 − 2002年7月14日)は、ドミニカ共和国の政治家、大統領。在任1960年〜62年、1966年〜1978年、1986年〜1996年。強権政治を行いアメリカからの援助で工業化を進め、「ドミニカの奇蹟」と呼ばれる経済成長を実現したが、国内の貧富の差を広げ汚職を蔓延させた。

フェリックス・サンチェス
(Felix Sanchez、1977年8月30日-)は、ドミニカ共和国の陸上競技選手である。2004年アテネオリンピック男子400mハードルの金メダリストである。なお、サンチェスが獲得した金メダルは、ドミニカ共和国にとって初のオリンピックでの金メダルであった。2001年から2004年にかけて、400mハードルで43連勝を記録し、一時代を築いた。特に世界陸上パリ大会の決勝では、2位に1秒近い差をつけて優勝するなど、圧倒的な強さを見せていた。

メアリー・ジョー・フェルナンデス
Mary Joe Fernandez, 1971年8月19日 - は、アメリカの女子プロテニス選手。出身地はドミニカ共和国で、父親はスペイン出身、母親はキューバ人である。4大大会で3度のシングルス準優勝を記録し、全豪オープンで1990年と1992年の2度、全仏オープンで1993年に準優勝した。ダブルスの名手としても活躍し、4大大会では1991年全豪オープンと1996年全仏オープンで優勝している。1992年バルセロナ五輪と1996年アトランタ五輪の2大会連続で、アメリカ代表として女子ダブルスの金メダルを獲得した。

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ブラディミール・ゲレーロ
(Vladimir Alvino Guerrero , 1975年2月9日 - )は、ドミニカ共和国出身のプロ野球選手(外野手)。2000年、自己最多の44本塁打を記録し、2001年には34本塁打37盗塁を記録し、球団史上初めて30本塁打、30盗塁を達成[8]。2007年、MLBホームランダービーに7年ぶりに出場し、アルバート・プホルス、ライアン・ハワードといった強打者を抑え、見事初優勝を飾った。


ホセ・ギジェルモ・コルティネス
(Jose Guillermo Cortines、1973年12月5日 - )はドミニカ共和国の俳優、ミュージシャン。テレビドラマ『El Rostro de Analía』のマウリシオ・モンティエル (Mauricio Montiel)役で知られている。

マリアンヌ・クルス
(Marianne Cruz Gonzalez、1985年4月23日 - )は、2008年度のミス・ドミニカ共和国。ミス・ユニバース2008にも出場し、第三位となった。ドミニカ共和国のエルマナ・ミラバル出身。三姉妹の末っ子として生まれたものの、両親はまだ幼いうちに離婚した。16歳のころより登山を始め、西インド諸島の最高峰であるピコ・ドゥアルテにも登頂したこともある。現在はサント・ドミンゴでファッションデザインを勉強しており、チャリティキャンペーンも呼びかけている。

ドミニカ共和国 Dominican Republic
西インド諸島の大アンティル諸島のイスパニョーラ島東部に位置する共和制国家。大アンティル諸島で二番目に大きな島であり、同島西部にあるハイチと国境を接する。モナ海峡を隔てて東にプエルトリコが、ウィンドワード海峡を隔てて西にキューバと、ジャマイカ海峡を隔ててジャマイカが存在する。首都はサントドミンゴ。

サントドミンゴ
Santo Domingoはドミニカ共和国の首都である。カリブ海有数の世界都市。人口2,061,200人(2003年)。サント・ドミンゴの植民都市はアンティル諸島で一番古い市である。1492年にクリストファー・コロンブスが到着する前、タイノ族は彼らがキスケヤ (Quisqueya) またはアイチ (Ayiti) と呼んでいた島に住んでいた。コロンブスはこの島をイスパニョーラ島と名付けた。ドミニカ共和国だけでなく、現在のハイチ共和国もこの島の一部である。サント・ドミンゴは、1844年2月27日に、ドミニカ人が国民的英雄ファン・パブロ・ドゥアルテ (Juan Pablo Duarte) に率いられ、ハイチの支配から独立を勝ち取り、再び自由国家の首都となった。


ラス・アメリカス国際空港
Aeropuerto Internacional de Las Américas、英: Las Americas International Airport)は、ドミニカ共和国の首都、サントドミンゴにある国際空港。1959年に開港した。


外務省ドミニカ共和国
在ドミニカ共和国日本国大使館


サント・ドミンゴ自治大学
Autonomous University of Santo Domingo)、略号:UASD)はドミニカ共和国サントドミンゴ市に拠点を置く公立大学。公式には1914年設立だが、1538年に創設され1832年まで存続した聖トマス・アキナス大学。聖トマス・アキナス大学はスペインの当時アルカラ・デ・エナレスにあったアルカラ・デ・エナレス大学(現マドリード・コンプルテンセ大学)を規範とし、医学、法律、神学と芸術の4学部で構成されていた。今日のサント・ドミンゴ自治大学は、人文学部、農業経済・獣医学部、法律・政治学部、経済・社会科学部、工学・建築学部、理学部、医学部、芸術学部の8学部からなる。

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サンティアゴ・デ・ロス・カバリェロス
(Santiago de los Caballeros)は、ドミニカ共和国の都市である。サンティアゴ州の州都である。 都市圏人口はドミニカ共和国内でサントドミンゴ都市圏に次ぐ規模である。ドミニカ共和国の北中部、シバオ谷に位置する。新世界でヨーロッパの植民が始まった1495年に建設された。最初の植民は、市内のジャカグア(Jacagua)で始まったが、地震により破壊され、1506年に現在の場所に移った。

サンペドロ・デ・マコリス
(San Pedro de Macoris)はドミニカ共和国の都市。同名の県の県庁所在地である。人口約21.7万人(2002年)。19世紀の後半に、母国での独立戦争を逃れて来たキューバ人によって創設された。彼らがサトウキビの栽培方法を伝えたことが、砂糖産業がこの地域の経済活動において、最も重要になることに寄与した。その後の4半世紀の間、第一次世界大戦の影響で、国際的な市場で砂糖製品の価格が上昇し、この街は最盛期を迎えた。多数のヨーロッパ人が移住し、国際的な街となった。

プエルト・プラタ
(Puerto Plata)はドミニカ共和国の県及び同名の県庁所在地の都市である。歴史家はプエルト・プラタの設立した年月を特定できていない。1502年頃島の北海岸に港が存在していたというニコラス・デ・オバンドーの記録により、1502年という説がある。ドミニカ共和国の中でもリゾート地としての観光開発が盛んで、プエルト・プラタの東郊、プラジャ・ドラダ(Playa Dorada)やコスタ・ドラダ(Costa Dorada)と呼ばれる地域では特にリゾートホテルが林立している。

ラ・ロマーナ
(La Romana)はドミニカ共和国で3番目に大きい都市。人口は約240,000人(2005年)、カリブ海沿岸の都市の中でも最も大きい都市のうちのひとつである。
ラ・ロマーナはバヤイーベやプンタ・カナ、カサ・デ・カンポといった近くのリゾート地のハブ都市であり観光都市として急成長中である。

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カサ・デ・カンポ
Casa de Campo)とは、ドミニカ共和国の南東の海岸に位置するラ・ロマーナにあるポンデローサ-スタイルの熱帯海岸リゾート地である。1975年に石油会社のガルフ&ウエスタンが中央ロマーナ製糖工場の敷地7,000エーカー(28平方キロメートル)をカサ・デ・カンポ・リゾートに発展させた。カサ・デ・カンポはモダンな新しい400隻分の停泊地をヨットハーバーに持っており、イタリアの建築家ジャンフランコ・フィーニが設計しポルトフィーノに似せた、120トンのTraveLiftを持つ造船所を備えている。この港の周囲には、レストランや売店、バー、宿泊所が並んでいる。


■教育
6歳から13歳までの7年間の初等教育が無償の義務教育である。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は87%であ。全体的に、教育レベルは低い。子供がいる家庭に、日本のように勉強机や本棚がある家庭は珍しい。主な高等教育機関としてはサント・ドミンゴ自治大学(1538年)、マドレ・イ・マエストラ・カトリカ大学(1962年)、サンティアゴ工科大学(1974年)などが挙げられ、サント・ドミンゴ自治大学はアメリカ大陸で最も古く建設された大学である。


■国名
公式な英語表記は Dominican Republic。植民地時代はサント・ドミンゴと呼ばれており、スペイン人ハイチ共和国など様々な名前の変遷を経て、1844年のハイチからの独立後、1865年のスペインからの最終的な独立時に現在の名称に定まった。

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1.面積:48,442平方キロメートル(九州に高知県を併せた広さ)
2.人口:約1,001万人(2009年:世銀)
3.首都:サント・ドミンゴ
4.民族:混血73%、ヨーロッパ系16%、アフリカ系11%
5.言語:スペイン語
6.宗教:カトリック

1492年 コロンブスによるエスパニョーラ島発見
1697年 同島の西側が仏領となる(リスウィク平和条約)
1795年 仏西戦争の結果全島が仏領となる
1804年 ハイチとして仏より独立
1814年 パリ条約で東側はスペイン領となる
1822年 ハイチ軍による占領(〜1844年)
1844年 ハイチから独立
1861〜1865年 スペインに合併
1916〜1924年 米国による軍事占領
1930〜1961年 トルヒーリョ将軍による独裁
1961年 バラゲールを首班とする国家評議会成立
その後クーデターにより軍事評議会成立
1963年 総選挙を経てボッシュ大統領就任
1965年 政府軍と反政府軍の武力衝突が発生(米国等派兵)
1966年 バラゲール大統領就任(1970年、1974年再任)
1978年 グスマン大統領就任
1982年 ブランコ大統領就任
1986年 バラゲール大統領就任(1990年、1994年再任)
1996年 フェルナンデス大統領就任
2000年 メヒーア大統領就任
2004年 フェルナンデス大統領就任
2008年 フェルナンデス大統領就任

■主要産業:観光、農業(砂糖、コーヒー、カカオ)、鉱業(フェロニッケル等)、軽工業(フリーゾーンにおける繊維、縫製業)

■主要貿易品目(中銀)(1)輸出 繊維製品、電気製品、宝飾関連製品、医薬品、フェロニッケル、タバコ(2)輸入 石油・石油関連品、自動車、電気製品、鉄製品


ドミニカ・ペソ
(Dominican peso)は、ドミニカ共和国の通貨。通貨の補助単位はセンターボ。ドミニカ・ペソが初めて発行されたのは、ドミニカがハイチから独立した1844年である。1877年には、ペソの下にセンターボという単位を置いた。


■経済
農業が主要産業であり、農産品の輸出と、観光が外貨の獲得源となっている。農村人口は全人口の70%を占めており、約12%の大地主が77%の耕地を所有する。主な農産品である砂糖の輸出額は、全体の半分を占めている。

サトウキビ
学名:Saccharum officinarum)は、イネ科サトウキビ属の植物。別名、カンショ(甘蔗)。ちなみにこれは慣用読みで、本来はカンシャ。2002年時点の世界生産量は12億9000万トンという膨大な量に及ぶ(小麦は同年5億7000万トン)。テンサイと並んで砂糖(蔗糖)の原料となる農作物。栽培種の起源はニューギニア島とその近くの島々と言われ、世界各地の熱帯、亜熱帯地域で広く栽培される。

フルフラール
(furfural)は芳香族アルデヒドの一種で、右図のような構造を持つ有機化合物。トウモロコシの穂軸、燕麦などの籾殻、サトウキビの絞りかす、ふすまなどの農産物の副産物やおがくずなどを原料にして製造される。英語名はラテン語でふすまを意味する furfur を語源としている。石油化学においてジエン類を抽出する溶剤となり、炭化水素から合成ゴムを作る原料などに使われる。

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カカオ
(学名:Theobroma cacao)は、アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではアオギリ科)の常緑樹である。カカオノキ、ココアノキとも呼ばれる。樹高は4.5 - 10メートル程度。本種の生育には、規則的な降雨と排水のよい土壌、湿潤な気候が必要である。標高約300メートル程度の丘陵地に自生する。中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産とする。


■鉱業
ドミニカ共和国は比較的に鉱物資源に恵まれており、主要鉱物は金、銀、銅、ニッケルである。特にニッケルの産出量は多く同国の重要な財源となっている。また近年新たな金鉱山の開発が期待されている。


英: gold, 羅: aurum)は原子番号79の元素。元素記号は Au。第11族元素に属する金属元素。貴金属の一種であり、単体の金属として古くから知られてきた。元素記号は Au であり、これはラテン語で金を意味する aurum に由来する。展性・延性に優れ、最も薄くのばすことができる金属であり、1 gあれば数平方メートルまでのばすことができ、長さでは3000 mまで伸ばすことができる。


エンコミエンダ制
Encomiendaとは、スペインによるアメリカ大陸の植民地支配時代、及び、スペインによるフィリピンの植民地支配時代に採用されていた、植民地住民支配のための制度である。エンコミエンダは、スペイン王室がスペイン人入植者に、その功績に対する王室からの下賜として、一定地域の先住民を「委託する(エンコメンダール)」という制度であり、エンコミエンダの信託を受けた個人をエンコメンデロ(encomendero)と呼んだ。


■先コロンブス期
紀元前4000年から1000年までの間に先住民アラワク族(タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。


ギアナ地方
(Guiana, Guyana, Guayana) 、あるいは単にギアナは、南アメリカ大陸北東部の大西洋に面した一画である。ギアナ地方は17世紀からの長い植民地争いの末、1814年のパリ条約でフランス、イギリス、オランダの三国によって分割統治される事となった。その後、イギリス領ギアナは1966年にガイアナ協同共和国(英語圏)として独立しイギリス連邦の一員となり、1970年2月共和制に移行した。


■スペイン植民地時代
この島に1492年、クリストーバル・コロンがヨーロッパ人として始めて上陸し、「小さなスペイン」(Hispañola)島と新たに名づけた。その後二度の植民失敗の後、1496年にコロンブスの弟バルトロメ・コロンによってサント・ドミンゴが建設され、「新大陸」初のスペイン植民地となった。先住民は金鉱山で酷使され、疫病の流行もあってラス・カサス神父の告発も虚しくそのほとんどと言っていいほど死んでしまった。サトウキビのプランテーションがカナリア諸島から導入されると、多数の黒人奴隷をアフリカから連れてきて足りない労働力を補った。

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バリャドリッド論争
1550年から翌1551年にかけて、スペイン国王カルロス1世の命により行われた、インディオ(インディアス先住民)問題をめぐる討論もしくは論争のことである。1547年、アリストテレス学者として高名であったセプルベダが、アリストテレスの「先天的奴隷人説」をインディオに適用しその正当性を主張した『第2のデモクラテス』の刊行を計画した。これに対し、かねてから中米植民地における征服者の暴虐を告発し、1542年カルロス1世に自らの報告書(のち1556年に刊行される『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の原型)を提出していた神父ラス・カサスは、出版差し止めを提訴した。


■独立国家として
1882年から黒人のウリセス・ウーロー大統領が独裁を開始した。ウーローは黒人という立場でありながらも、白人寡頭支配層の反目を突いて大統領に就任した。しかし、拙劣な政策を積み重ね、政権末期の外債はとても一国では支払えない程の膨大なものとなっていた。ウーローは1899年に暗殺され、以降しばらく混乱状態が続いた。


■アメリカ軍政期
アメリカ軍は1915年にはハイチに、1916年にはドミニカ共和国に出兵して両国を占領した。両国は米軍支配下で債務を返済し、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入し、有力者(カウディージョ)の私兵や軍閥に代えて強力で統一された警察や国軍を作るが、これが後に両国の軍部独裁の種となる。

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■トルヒーヨ時代
1930年2月にクーデターを起こしたラファエル・トルヒーヨ将軍は、同時期のラテンアメリカでも最も完成された独裁統治を敷いた。ドミニカ共和国を白人化する構想を持っていたトルヒーヨは、1937年、領内のハイチ人農園労働者ストに際してハイチ人の皆殺しを指示し、1日で17,000人から35,000人が殺された。ドミニカ共和国はハイチに75万ドルの賠償を払ったが、カトリック教会とエリート層に支持され反共的な姿勢がアメリカの支持を受けていたトルヒーヨの支配は揺るがず、当時のラテンアメリカで最も強固な独裁制はその後も続き、1959年には革命直後のキューバから上陸したドミニカ人革命ゲリラ部隊を殲滅することにも成功した。しかし、1960年にOAS総会でトルヒーヨ非難決議が採択されると1961年には反トルヒーヨ勢力の高まりにより、トルヒーヨ本人は暗殺され、トルヒーヨ一族もバミューダに亡命し、首都名もシウダー・トルヒーヨからサント・ドミンゴに戻された。


ミラバル姉妹
ミラバル姉妹はドミニカ共和国に生まれ、1950年代にラファエル・トルヒーヨの独裁政権に反対した活動家。ミラバル姉妹はドミニカの上流層に生まれ、文化的に恵まれた環境で育った。長じては全員が結婚して子供を持った。ミラバル姉妹の父親は成功した事業者であったが、トルヒーヨ政権下で財産のほとんどを失うこととなり、姉妹はトルヒーヨがドミニカ共和国を経済混乱に陥らせていると考えるようになる。その後他の姉妹が彼女の後を追い、「六月十四日運動」として知られる反トルヒーヨ政権グループを形成するに至る。グループ内で彼女達はLas Mariposas(スペイン語で「蝶」の意)と呼ばれた。姉妹のうち2人は幾度も投獄され、拷問を受けた。また、3人の夫全員がラ・ビクトリアに収監された。1999年12月17日に、国際連合は国連総会にてミラバル姉妹の暗殺された日である11月25日を「女性に対する暴力廃絶のための国際デー」として採択した。


■ドミニカ内戦以降
翌1966年の形式的な選挙により、キリスト教社会改革党から「トルヒーヨの未亡人」とまで呼ばれたほどのトルヒーヨ派だったホアキン・バラゲールが大統領になると、バラゲールは軍部と財界の支持を背景に強権政治を行い、死の部隊を駆使してボッシュ派の暗殺を続け、ドミニカの政治はトルヒーヨ時代に逆行してしまった。1994年の大統領選挙も「不正」をめぐって紛糾したが、1996年の選挙ではドミニカ解放党のレオネル・フェルナンデスが大統領に就任した。2000年5月の大統領選挙では社会民主主義を掲げたドミニカ革命党のラファエル・イポリト・メヒーア・ドミンゲスが大統領に就任したが、汚職によって支持を落とした。2004年の大統領選挙ではドミニカ解放党のレオネル・フェルナンデスが再び勝利した。


■政治
ドミニカ共和国の政体は、行政、立法、司法が独立した一般的な民主主義体系をとっている。大統領は組閣を行い、立法府により制定された法を執行する。また、国防軍の最高指揮官でもある。大統領及び副大統領の任期は4年であり、直接選挙によって選出される。選出の際は、立候補した大統領候補と副大統領候補の組に対して投票を行う。


■音楽
1840年代にメレンゲが生まれた。生まれた当初は田舎の野蛮な音楽という位置づけだったが、地道に伝承、発展が続けられ、1930年代以降にはメレンゲをこよなく愛した独裁者トルヒーヨによって国民文化として保護され、現在の地位に至っている。1920年代の占領統治時代にアメリカ軍の兵士向けにメレンゲが発達し、パムビーチェが生まれ、1950年代にはバチャータが生まれた。現在ではニューヨーク生まれのサルサも人気であり、在米ドミニカ人の活躍により、ドミニカ音楽の合衆国市場への進出も盛んである。

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バルトロメ・デ・ラス・カサス
(Bartolome de Las Casas, 1484年8月24日 - 1566年7月17日)は15世紀スペイン出身のカトリック司祭、後にドミニコ会員、メキシコ・チアパス司教区の司教。当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えつづけた。

■第一の改心
1512年、ディエゴ・コロンはキューバ島征服軍を出動させ、ディエゴの友人であったラス・カサスも従軍司祭としてこれに加わった。軍勢の中には後にコンキスタドールとして悪名を馳せるエルナン・コルテスもいた。この軍事行動の中でおこなわれたインディアンに対する拷問と虐殺を目の当たりにしたラス・カサスは激しい良心の呵責を感じるようになった。1514年には従軍司祭の地位を捨て、農業に専念しながら聖書について観想する生活に入る。聖書のメッセージと現実に起こっているインディオの不当な扱いは明らかに相容れないものであった。司祭としてラス・カサスの苦悩は頂点に達していた。1514年8月15日、ラス・カサスの人生における「第一の改心」と呼ばれる出来事が起こる。ラス・カサスは熟考の末、所有していたインディオ奴隷を解放し、自らのエンコミエンダを放棄。サンクティ・スピリトゥスで行った聖母被昇天祭のミサの中でエンコミエンダ制の矛盾を厳しく糾弾したのである。

■第二の改心
・・・やがて王の側近ジャン・ル・ソヴァージュの知己を得ると、王から暴力的行動を禁止し、平和的植民のみを許可する勅令を得ることができた。これを実践しようとしたラス・カサスは自ら植民団をひきいてクマナー地方で平和的植民活動を行ったが、うまくいかず植民者たちはラス・カサスのもとを去った。インディアスのスペイン人たちの間でラス・カサスへの反感が強まり、命の危険を感じたラス・カサスは、ドミニコ会員たちのすすめに従ってドミニコ会に入会、修道院にかくまわれる形で研究に専念した。これが「第二の改心」である。研究活動の中で、当時の著名な神学者カジェタヌス枢機卿が「征服戦争の正当性を立証する神学的根拠は何もない」という意見を持っていることを知り、大いに励まされた。

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バルトロメ・デ・ラス・カサス
(Bartolome de Las Casas, 1484年8月24日 - 1566年7月17日)は15世紀スペイン出身のカトリック司祭、後にドミニコ会員、メキシコ・チアパス司教区の司教。当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えつづけた。

サミー・ソーサ
(Sammy Sosa , 本名:Samuel Sosa Peralta , 1968年11月12日 - )は、ドミニカ共和国出身の元野球選手。ポジションは外野手(右翼手)、2005年以降は主に指名打者。右投げ右打ち。ニックネームは"Slammin' Sammy"(スラミン・サミー)。1998年にはマーク・マグワイアと熾烈なホームラン・ダービーを繰り広げ、世界的スーパースターになるとともに母国ドミニカ共和国の国民的英雄になった。60本塁打以上を、MLB史上最多の3度記録している。故郷のドミニカ共和国に総額120万ドルを投じて、オフィスビル「30-30プラザ」を設立。市民に対して、職を供給している。また、国を問わず、難病に苦しむ子供たちの病院を訪れたり、障害者のための基金を運営するなど、様々な慈善活動に熱心に取り組んでいる。

ペドロ・マルティネス
(Pedro Jaime Martinez, 1971年10月25日 - )は、元MLBの投手。ドミニカ共和国出身。かつてはメジャーリーグ最高の投手といわれ、「地上最高の投手」と称された。これまでにサイ・ヤング賞を1997年、1999年、2000年の3度受賞している。身長公称180cm、しかも実際にはもっと小さいと言われており、MLBの投手としてはとても小柄で体型も比較的細身である。にもかかわらず、全盛期には常時95マイル前後最速99マイルの伸びのあるファストボール(4シーム、2シーム)と、切れ味の鋭い変化球(カーブ、サークルチェンジ、カットボール)と抜群のコントロールで投手に必要な技術を網羅しているとされる。

アルバート・プホルス
(Albert Pujols, 1980年1月16日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身の野球選手。本名はホセ・アルベルト・プホルス(José Alberto Pujols)。ロサンゼルス・エンゼルス所属。ポジションは一塁手、右投右打。MLBにおける最高の打者の1人で、2001年のデビュー以降、2010年まで打率.300・30本塁打・100打点を10年連続で達成した。

トゥーサン・ルーヴェルチュール
(Francois-Dominique Toussaint Louverture, 生年不詳・1739年から1743年 - 1803年4月7日)は(フランス革命期の)ハイチ独立運動指導者であり、ジャン=ジャック・デサリーヌ等とともにハイチ建国の父の一人と看做されている。一般にL'Ouvertureと綴られることも多いが、彼の兄弟や息子はLouvertureと綴り、歴史家にもその傾向がある。農園の管理者ベヨン・ド・リベルタは“比較的に人間的で親切な”管理人でトゥーサンに読み書きを奨めた。そのためトゥーサンはフランス語の基礎とラテン語を自由黒人の司祭ピエール・バチストに学んだ。

ホセ・デ・サン=マルティン
(Jose de San Martin, 1778年2月25日 - 1850年8月17日)は、アルゼンチンの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アルティーガスと並ぶ解放者として称えられている。南アメリカをスペインから独立させるために果たした業績はシモン・ボリーバルと比較すると、同等とまで言うことは難しいが、現在でも南米南部の独立の英雄として広く尊敬を集めており、特にアルゼンチンでは彼の命日を国民の祝日として定め、紙幣の肖像画(現行の5アルゼンチン・ペソ紙幣)にも採用している。

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マティ・アルー
Mateo Rojas "Matty" Alou, 1938年12月22日 - 2011年11月3日)は、ドミニカ共和国出身のプロ野球選手(外野手)。1966年にピッツバーグ・パイレーツにトレードされると、名コーチのハリー・ウォーカーから指導を受けた事が彼の野球人生において大きな転機となる。同年は打率.342で自身初タイトルとなる首位打者を獲得。

バートロ・コローン
(Bartolo Colon, 1973年5月24日 - )は、ドミニカ共和国プエルト・プラタ州アルタミラ出身のプロ野球選手(投手)。MLBのオークランド・アスレチックスに所属している。黄金期のインディアンスにおいてエースとして活躍。1998年は6月にピッチャー・オブ・ザ・マンスを受賞するなど、前半戦は9勝4敗・防御率2.46を記録し、オールスターに選出され、勝ち投手となっている[3]。後半戦は5勝5敗、防御率5.65に終わった。

クリストファー・コロンブス
Christopher Columbus、1451年頃 - 1506年5月20日)は探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人。定説ではイタリアのジェノヴァ出身。大航海時代においてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したひとりである。

ニコラス・デ・オバンド
(Fray Nicolas de Ovando y Caceres、1460年 - 1518年5月29日) は、貴族出身のスペイン軍人でアルカンタラ騎士団の騎士。 1502年から1509年まで、西インド諸島のイスパニョーラ島の第3代統治者であった。1502年、オバンドがイスパニョーラ島に到着した時、原住民の反乱があった。彼は兵を用いて、反乱を容赦なく鎮圧した。イスパニョーラ島におけるオバンドの統治時代は、インディアンを最も残酷に扱った時代の1つである。

ウリセス・ウーロー
(Ulises Heureaux Lebert、1845年10月21日 - 1899年7月26日)はドミニカ共和国の政治家、軍人。3度大統領を務めたが、ドミニカ共和国の経済を崩壊させ、暗殺された独裁者である。ウーローは砂糖の価格が集落した後も工場の建設を進め、インフラ整備も続けさせた。この政策のための資金は欧州やアメリカの銀行からの借金でまかなわれていた。また、支持者や軍人に多くの賄賂を送っていたため、このための資金にも借金はかさんだ。

デビッド・オルティーズ
(David Americo Ortiz Arias、スペイン語読みではダビッド・アメリコ・オルティス・アリアスとなる、1975年11月18日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身のプロ野球選手(指名打者)。ボストン・レッドソックス所属。愛称はビッグ・パピ(Big Papi)。1975年11月18日、サントドミンゴに生まれた。貧しい生活だったが、オルティーズは「よい家族に恵まれ、よい教育も受けさせてもらった」と述べている。地元の高校を卒業後、1992年に17歳でシアトル・マリナーズと契約を結んだ。

ホセ・レイエス
(Jose Bernabe Reyes, 1983年6月11日 - )は、ドミニカ共和国サンティアゴ州ビラ・ゴンザレス出身の野球選手。遊撃手、右投両打。MLBトロント・ブルージェイズに所属している。10歳のころ野球を始めたが、家が貧しかったためグラブには牛乳パック、ボールには柑橘類を使っていた。このときからポジションは遊撃手だった。2008年は4年連続での盗塁王こそ逃したものの、シーズントータルで56盗塁を記録し、9月10日にはムーキー・ウィルソンの通算盗塁球団記録281を更新。

ミリー・ケサダ
Milly Quezada、1952年5月21日 - )は、ドミニカ共和国出身の歌手。本名はミラグロス・ケサダ・ボルボン(Milagros Quezada Borbon)。「メレンゲの女王」と呼ばれている。女性メレンゲ歌手の先駆けで、ラテンアメリカでは1980年ごろから知られる。これまでにラテングラミー賞、ビルボーズ賞、プレミオス・ロ・ヌエストロ賞、カサンドラ賞、エル・ソベラノ賞などを受賞した。

シーザー・ジェロニモ
(Cesar Francisco Geronimo Zorrilla、1948年5月11日 -)は、ドミニカ共和国出身の元MLBプレイヤー(外野手)。1970年代に最強を誇ったシンシナティ・レッズの強力打線、ビッグレッドマシーンの一員として知られている。愛称はライフル(The Rifle)

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