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キューバ共和国
Republic of Cuba
<中南米>
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■地理
キューバの国土は、キューバ島(本島)、「青年の島」(旧ピノス島)、及びに1600余りの小島と多島海から成る広大な群島によって構成されている。キューバは、フロリダ半島の南145km、ユカタン半島の東に位置し、カリブ海及び大西洋とメキシコ湾を結ぶユカタン海峡及びフロリダ海峡を、国土の西部及び北部が押さえる要衝にある。
■キューバ島
キューバの本島であるキューバ島(Isla de Cuba)は、西インド諸島に属するカリブ海で最大の島である。キューバ島の長さは、西端のサン・アントニオ岬から東端のマイシ岬まで約1225km、南北の距離は最大250kmから最小35kmで平均値は80kmと、東西に細長い形状をしている。島の4分の1は山岳地帯となっているが、山地が島の全域に散在していることから、島に山塊は無い。島は長くて狭く、複雑で入り組んだ海岸線は、全長3735kmにもなる。海岸には約7万km2の大陸棚があり、海岸線には入江、湾、砂州やマングローブ林、サンゴ礁、湿地、大小の岬、半島が多様な景観を造成し、多くの湾が天然の良港となっている。
■大アンティル諸島
Greater Antilles、は、中央アメリカのカリブ海にある諸島。フロリダ半島およびバハマの南方、ユカタン半島の東方、小アンティル諸島の西方に位置する。北は大西洋に面している。大アンティル諸島は、比較的新しいサンゴ礁や火山島の多い小アンティル諸島とは異なり、大陸から分かれた陸塊の上に位置する。中央アメリカ大陸部と同様の地質的構造をもち、片岩、片麻岩などの変成岩、古い噴出岩などからなる。キューバは一部の山脈を除いて全体的に丘陵が広がる。
■イスパニョーラ島
Ispayola)は、カリブ海にある大アンティル諸島に属する島であり、西側3分の1をハイチ共和国、東側3分の2をドミニカ共和国が統治している。東はモナ海峡、西はウィンドワード海峡およびジャマイカ海峡となっている。島の面積は76,480km2と、世界の島の中で23番目の大きさである。カリブ海の中ではキューバ島に次いで2番目に大きい。
■カリブ海
Caribbean Sea、は、メキシコ湾の南、大西洋に隣接する水域である。南はベネズエラ、コロンビア、パナマに、西はコスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、グアテマラ、ベリーズ、そしてメキシコのユカタン半島に、北はキューバ、イスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国、ジャマイカ、プエルトリコといった大アンティル諸島に、東は小アンティル諸島に接している。
■メキシコ湾
Gulf of Mexico、は、北アメリカ大陸南東部とメキシコ北東部に挟まれた湾である。広くは大西洋、カリブ海(アメリカ地中海)の一部として分類される。アメリカとキューバの間にあるフロリダ海峡を経て大西洋に通じており、メキシコとキューバの間にあるユカタン海峡を経てカリブ海へと通じている。
■ケイマン海峡
(Cayman Channel)は、カリブ海に浮かぶイギリス領ケイマン諸島、キューバ島と南にあるジャマイカ島間の海峡である。東へはイスパニョーラ島とぶつかり、北へウィンドワード海峡南へジャマイカ海峡へと続く。
■フロリダ海峡
(Straits of Florida)とは、アメリカフロリダ州のフロリダキーズとキューバとの間の海峡。メキシコ湾と大西洋をつないでいる。 また、メキシコ湾流の源のフロリダ海流が流れている。
■フロリダ半島
北アメリカ大陸南東部の半島。西側にメキシコ湾、東側に大西洋があり、それを分けるものとなっている。北北西から南南東に伸びる半島であり、長さは約500km。
全域がアメリカ合衆国のフロリダ州に属する。半島の南にはフロリダキーズがあり、その先はフロリダ海峡を隔ててキューバである。
■マエストラ山脈
Sierra Maestraは、カリブ海地域最大の島国であるキューバにおける最大の山脈。西インド諸島に属するキューバ島の南東方をクルス岬からマイシ岬まで250kmにかけて東西に連なっている。山脈には、キューバ最高峰のトゥルキーノ山(Pico Turquino:2,005m)がそびえている。
■ウィンドワード海峡
Windward Passageは、カリブ海上のキューバ島とイスパニョーラ島との間にある海峡である。キューバの東方、ハイチの北西に位置している。大西洋とカリブ海がこの海峡で結ばれており、パナマ運河とアメリカ東海岸の間の、輸送における直接経路となっている。
■バタバノ湾
Golfo de Batabano)は、キューバ島西部とその南にあるカナレオス諸島(英語版)との間にある湾である。西にはインディオス海峡(Canal de los Indios)がある。
■ユカタン半島
Peninsula de Yucatanは、メキシコ、グアテマラ、ベリーズにまたがり、メキシコ湾とカリブ海との間に突き出ている半島。石灰岩からなる非常に広大な台地であり、カルスト地形が発達している。雨は、土に染み込んで地下水脈を流れ、その一部はセノーテとして湧き出している。地上に川はない。
■ユカタン海峡
Canal de Yucatán)はメキシコ・ユカタン半島とキューバの間にある海峡のこと。メキシコ湾南部とカリブ海北部はこの海峡を通じて結ばれている。海峡の幅はおよそ200km。大まかな位置は北緯22度、西経86度と亜熱帯であり、沿岸の主な都市としてメキシコ・カンクンなどがある。
■カウト川
Cauto River は、キューバ南東部に位置し、キューバ国内で最長の川である。マエストラ山脈に源を発し北西から西に流れマンサニヨ(英語版)の北のカリブ海に注ぎ、全長は343 kmである。しかしながら110 kmは航行可能である。川の水は飲用できない。
■ラテンアメリカ
Latin America,は、アングロアメリカに対する概念で、アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて存在する独立国及び非独立地域を指す総称である。多くの地域がスペイン語、ポルトガル語、フランス語などのラテン系言語を公用語として用いており、社会文化もそれに沿ったものであったことから名付けられた。
■タイノ族
タイノ族 (Taino) は、アラワク族語系に属するキューバ、イスパニョーラ島(ハイチとドミニカ共和国)、プエルトリコ、そしてジャマイカを含む大アンティル諸島とバハマ諸島の、クリストファー・コロンブス到着以前から先住するインディアン部族である。南アメリカのアラワク族が航海してきたものと見られる。
■カリブ族
小アンティル諸島に居住していた。コロンブスの到来の約100年前には南アメリカから小アンティル諸島を北上し、先住民のアラワク族を征服した。大アンティル諸島のタイノ族も襲っていたが、プエルトリコの東部を除き、定住していたかは不明である。
■シボネイ
Ciboney、は、西インド諸島に定住していたインディオである。南米からカヌーで西インド諸島の島々からフロリダ半島に渡って来たシボネイ族はアラワク諸族に属し、フロリダ半島、キューバ、ハイチや他の一部のカリブの島々に定住し、主に洞窟で暮らし魚を獲りながら自給自足して暮らしていた。
■ムラート
(Mulatto, Mulato)は、ラテンアメリカ及び北アメリカでヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血を指す言葉である。ムラットともいう。なお、女性だけを指していう場合はムラータ(Mulata)という。
■クリオーリョ
criollo) とは、スペイン領植民地において、スペイン人を親として現地で生まれた人々を指す。"criollo" ”crioulo" という単語は "criar"(育てる)という動詞から派生しており、もともとは「現地で育った」あるいは「元来の土地とは異なる場所で生まれ育った」ことを意味する。したがって、動植物や、言語・料理に関しても、「その土地で生まれた」「その土地固有の」という意味合いで"criollo"という形容詞が付加されることもある(例えば馬のクリオーリョ種)。人間に対してcrioulo, criolloという語が用いられたのは、黒人奴隷が最初であると考えられる。
■奴隷貿易
大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった。
■青年の島
Isla de la Juventudは、キューバに属する島。島の面積は3,056km2で、キューバ本島を除いては最も大きい島である。西インド諸島の中でも6番目に大きい。1978年に改称されるまでは、ピノス島と呼ばれていた。プンタ・デル・エステの海岸の近くの幾つかの洞窟には、原住民の手になると見られる235点あまりの洞窟絵画が残されているものの、クリストーバル・コロンがやってくる以前のこの島の歴史については殆ど知られていない。この海域やその周辺で活躍した海賊たちは、英語の文献の中にその記録が残っている。ロバート・ルイス・スティーブンソンの『宝島』、ジェームス・マシュー・バリーの『ピーターパン』は、その題材をこの島やその住民、また海賊たちについて語られてきたことの一部から採っている。
■トゥルキーノ山
Pico Real del Turquinoは、キューバの南部マエストラ山脈にあるキューバ最高峰の山である。標高1,974mである。この地域はトゥルキーノ国立公園に指定されている。
■グアンタナモ湾
Bahia de Guantanamoは、キューバ南東部に位置し、カリブ海のウィンドワード海峡に向かって開けている湾。湾の入口の幅は約6km。湾の奥深くまで大型船舶を停泊させることができる。湾の南部周辺一帯には、1903年の条約によって軍事基地をアメリカが永久租借することになり、以来グァンタナモ米軍基地となっている。キューバ革命後に誕生したカストロ政権は再三返還要求をしているが、相変らずアメリカが使っている。
■ギアナ地方
Guayana) 、あるいは単にギアナは、南アメリカ大陸北東部の大西洋に面した一画である。北東で大西洋に面し、北西はオリノコ川で画され、南は赤道[1]またはアマゾン川とその支流ネグロ川で画される。面積178万7000km2。
<歴史>
■先コロンブス期
ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカのギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。
■スペイン植民地時代
1492年10月27日、キューバ島はクリストバル・コロンの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンによって「インディオ」(インド人)と呼ばれ、インディオ達は、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにし、インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げ、メキシコ市やリマに続くスペイン領アメリカ植民地第三の都市として発展したハバナには大学や要塞が建設された。
■19世紀初め
シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、ミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地は既に独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピン、プエルトリコなどと共に僅かに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、駐キューバスペイン軍を強化した。
■独立戦争(1868年 - 1902年)
1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から■第二次キューバ独立戦争が再発した。
1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまで来た。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫ったある日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして1898年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。
■旧共和政時代(1902年 - 1959年)
1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。
■1902年5月20日
キューバ共和国は独立を達成し、400年に及ぶスペイン支配から解放され独立を勝ち取ったかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法に盛り込まれたプラット修正条項(Platt Amendment)には、アメリカの内政干渉権をキューバは認める、グァンタナモ、バイア・オンダの二箇所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となってしまった。
■1953年7月26日
このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ(Fidel Castro Ruz)率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師のエルネスト・“チェ”・ゲバラ (Ernesto "Che" Guevara)と出会い、ゲリラ戦訓練を受けた後、1956年12月にヨット「グランマ号」にのってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年余りのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。
■キューバ革命(1959年 - 現在)
バティスタ傀儡政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、59年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。おりからの冷戦による米ソ対立の影響を受け、アメリカに敵視された革命政権はソビエト連邦に接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。
■1962年2月3日
アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連のミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となったが米ソの妥協で危機を回避する事態が起きた(キューバ危機)。
■1967年
ゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス=レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年のチリに於けるサルバドール・アジェンデ政権成立のように平和革命路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えてこのような平和的変革を支持した。
■2006年7月31日
フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。
■2008年2月19日
フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)・閣僚評議会議長(首相)・軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。
■2009年10月28日
国連総会はアメリカ合衆国に対し、1961年から継続されている経済制裁の解除と、キューバ民主化・トリチェリ・ヘルムズ=バートンの三法廃止を求める決議を、1992年から18年連続で採択した(賛成187か国、アメリカ合衆国、イスラエル、パラオは反対、マーシャル諸島、ミクロネシアが棄権)。
■2010年10月26日
経済制裁解除とキューバ介入三法廃止をアメリカ合衆国に求める国連総会の決議が、圧倒的多数の賛成により1992年から19年連続で採択される(反対はアメリカとイスラエルのみ)。
<世界遺産>
■オールド・ハバナとその要塞化都市
オールド・ハバナは、ハバナ湾に面した地区であり、1519年、スペイン人が建設を開始した。オールド・ハバナは、新世界で産出された財宝を積んだガレオン船の旧世界へ運び出されていく港の役割を果たし、17世紀には、造船の中心地となった。
■トリニダード
トリニダ(Trinidad, トリニダード)は、キューバ中央部サンクティ・スピリトゥス州の町。
■ロス・インヘニオス渓谷
ロス・インヘニオス渓谷(Valle de los Ingenios)は、トリニダの外側およそ12 km に位置するサン・ルイス(San Luis)、サンタ・ロサ(Santa Rosa)、メイエル(Meyer)という3つの渓谷の総称である。
■サンティアゴ・デ・キューバ
カリブ海に面したマエストラ湾岸にある港湾都市かつ工業都市である。
■ サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城塞
サンティアーゴ・デ・クーバの沿岸部にある城塞である。市の中心部からは約 10 km に位置し、湾を見渡している。
■グランマ号上陸記念国立公園
■ビニャーレス渓谷
キューバにあるカルスト地形の窪地である。この渓谷には植物も動物も多くの固有種が見られる。
■キューバ南東部におけるコーヒー農園発祥地の景観
キューバのサンティアーゴ・デ・クーバ州とグアンタナモ州にまたがる、81475 ha の土地に、171のコーヒー・プランテーションの遺跡が存在する。
■音楽
代表的なキューバ音楽は、スペインのギターとアフリカの太鼓を組み合わせたヨルバ系文化の影響が強いルンバやソンがある。その他、大衆音楽の中には、トローバやダンソンのようにヨーロッパ音楽の要素が比較的強く残っているものもある。ソ連との繋がりによるクラシック的な技術体系が反映されたジャズ演奏者のレベルは非常に高く、70年代の後半にグラミー賞を受けたイラケレ、1990年代に一世を風靡したゴンサロ・ルバルカバ、チューチョ・バルデース(イラケレのリーダー)など、数々のハイレベルなミュージシャンを生んでいる。
■ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
(Buena Vista Social Club)は、ギタリストであるライ・クーダーと、キューバの老ミュージシャンで結成されたバンド。同バンドのメンバーがソロアルバムを出すときなどの、ブランド名としても使われている。1997年にライ・クーダーが制作したキューバ音楽のアルバムで、作品に参加したミュージシャン達の大半が、実在した音楽クラブの会員だったため、タイトルも『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』となった。このアルバムは、欧米のラテン音楽ファンを中心に、世界中でヒットした。また、ワールドツアーが組まれた。
■美術
代表的な画家としては、20世紀半ばに活躍し、アフロ・キューバ美術を再発見したウィフレド・ラムが挙げられる。革命後はラウル・マルティネスらによってキューバの人民革命を鼓舞するプロパガンダ・ポスターが製作された。現在はホセ・ベディア・バルデスの『アメリカ大陸年代記』など、西欧近代文明の限界に挑戦する美術運動が進んでいる。
■キューバ料理
今日のキューバの主な食材は、過去にスペイン人やアフリカ人、アジア人によって持ち込まれたものが多い。スペインからの独立が遅れたため、ラテンアメリカの中ではスペインの食文化の影響を最も色濃く残している。また、一年を通して温暖な気候を利用して数々のトロピカルフルーツが栽培されている。
■キューバの映画
キューバ映画史は、1897年に製作されたニュース映画『火炎の鎮火』によって幕を開いた[1]。1913年にはパブロ・サントス、フェズス・アルティガス製作、エンリーケ・ディアス・ケサーダ演出の長編映画『マヌエル・ガルシア』が撮影された。1920年代には約30本の映画が演出のエステバン・ラミレスとラモン・ペオンを中心に撮影され、特にこの時期には優れたサイレント映画として記憶される『慈悲深き聖母』(1930)が作成された。
■革命博物館
Museo de la Revolucionは、オールド・ハバナ(キューバ)に位置する博物館。マリオ・ガルシア・メノカル(第3代大統領)からフルヘンシオ・バティスタ(第14代、第17代大統領)まで大統領官邸(Presidential Palace)として使用され、キューバ革命後に革命博物館になる。設計:Carlos Maruri(キューバ人)、Paul Belau(ベルギー人)。1920年、マリオ・ガルシア・メノカル大統領により任命。
ネオ・クラシカルの要素を持ち、ニューヨークのティファニーにより装飾
■ホセ・マルティ・メモリアル
Memorial Jose Martíは、キューバの国民的英雄ホセ・マルティを称える記念碑。キューバの首都ハバナのヴェダード地区にある、革命広場 (Plaza de la Revolucion) の北側に位置している。メモリアルは星型の形をした塔と6本の柱に囲まれたホセ・マルティの像、そして庭園で構成されている。エンリケ・ルイス・バレーラ率いる建築家集団によりデザインされた塔は、109メートル(358フィート)の高さを誇る他、5角形の星型で青年の島から採掘した灰色のキューバ大理石に包まれている。
■ハバナ国立美術館
National Museum of Fine Arts of Havanaは、キューバのハバナにあるファインアートを扱う美術館である。植民地時代から現代までのキューバの美術コレクションや、世界各国の美術コレクションの展示を行っている。ハバナ国立美術館は、高名な建築家であり、後に初代館長となったエミリオ・エレディア(Emilio Heredia)の尽力により、1913年2月23日に設立された。設立後、幾度か移転を繰り返した後に、最終的にコロン市場の跡地であった現在の場所に施設された。
■ホセ・マルティ
ホセ・フリアン・マルティ・ペレス(Jose Julian Martí Perez, 1853年1月28日 - 1895年5月19日)はキューバの文学者、革命家。19世紀後半のキューバ独立革命に参加し、現在でもキューバ史に於ける英雄として広く知られている。また、ラテンアメリカに於けるモデルニスモ(近代文学)の先駆者、アメリカ主義者としても名高い。キューバに戻ったマルティは、詩人で独立思想家のラファエル・マリア・メンディベが校長を務める公立学校に入学した。メンディベの教育は、幼き日のマルティに多大なる影響を与えたと言われている。また、マルティはメンディベの家で催される文学者や政治思想家の集いにも頻繁に参加し、その経験が彼の文学者、独立思想家としての土壌となった。
■チェ・ゲバラ
エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna、1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、アルゼンチン生まれの政治家、革命家で、キューバのゲリラ指導者。1928年にアルゼンチン第二の都市ロサリオでバスク系アルゼンチン人とアイルランド系アルゼンチン人の両親のもとに誕生する。ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。在学中の1951年に年上の友人のアルベルト・グラナードとともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験した。1953年、大学卒業の25日後、友人のカルロス・ペレルとともに再び南米放浪の旅に出る。J.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、ボリビア革命の進むボリビアを旅した際に、それまで虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな衝撃を受けた。
■ホセ・ラウル・カパブランカ
Jose Raul Capablanca、1888年11月19日 - 1942年3月8日はキューバの外交官・チェスプレーヤーで、元チェスの世界チャンピオンである。ハバナ出身。4歳のときに父親が友人とチェスをしているのを見てチェスの指し方を覚えた。ルールを覚えてから3日後に父親とチェスをして勝った。13歳の若さでキューバチャンピオンとなった。恵まれた家庭に育ち、18歳のときに米コロンビア大学に留学。化学を専攻したが、チェスに没頭し過ぎて中退した。1909年当時アメリカ最強のチェスプレーヤーのフランク・マーシャルに勝ち一躍有名となった。キューバ政府から外交官に任命されたが、任地でもチェスばかりしていた。
■アンディ・ガルシア
Andy Garcia, 1956年4月12日 - は、キューバ・ハバナ出身のアメリカの俳優である。アメリカで活躍する最も著名なキューバ系アメリカ人俳優の一人である。尊敬する俳優としてピーター・ユスティノフをあげている。ユスティノフのアドバイスにしたがい、出演作を慎重に選ぶスタイルをとっている。父親は弁護士、母親は教師だったが、カストロ政権を逃れるため、アンディが5歳のときにアメリカに移住、後に帰化した。高校時代はバスケットボールの選手であったが、肝炎を患い、スポーツ選手の道は断念することになる。
■カミロ・シエンフェゴス
Camilo Cienfuegos Gorriaran, 1932年2月6日 - 1959年10月28日は、キューバの革命家。ハバナで生まれる。 両親はスペイン内戦において共和国派に属しキューバへ亡命する。カミロ・シエンフェゴスは独裁者フルヘンシオ・バティスタに対する地下活動を行い、キューバ革命に重要な役割を果たした。カミーロはフィデル・カストロ、ラウル・カストロおよびチェ・ゲバラと共にキューバ革命を主導した一人で、富裕層であったカストロ、ゲバラに比してカミーロは庶民階層出身の人物として知られる。はじめは画家を志していたが、1953年のモンカダ兵営襲撃に参加し、革命の間チェ・ゲバラと一緒に反乱軍を率いた。革命の勝利後にシエンフェゴスは軍隊の最高指揮官に就任し、反革命的な暴動と戦い農地改革の実施に大規模に関与した。
■チャノ・ポソ
Luciano "Chano" Pozo, 1915年1月7日 - 1948年12月2日はキューバハバナ出身のパーカッショニスト。コンガ奏者(コンゲーロ)として良く知られ、ラテン・ジャズの発展に貢献する。1947年にニューヨークに移り、ディジー・ガレスピーと出会う。ガレスピーのビッグバンドと演奏し、"Cubana Be"、"Cubana Bop"、"Tin Tin Deo"、"Manteca"(マンテカ)といった作品を残す。"Tin Tin Deo"と"Manteca"の2つはガレスピーとの共作である。しかし、粗暴な性格がたたり、1948年12月2日、金銭トラブルにより33歳の若さでニューヨークハーレムのバーにてけんかで殺害された。
■ギリェルモ・カブレラ・インファンテ
Guillermo Cabrera Infante, 1929年4月22日 - 2005年2月21日はキューバ出身の小説家、評論家。スペイン語と英語で作品を著した。キューバのヒバーラに生まれる。両親が、当時は非合法だった共産党活動をしたために逮捕されて生活が困窮し、12歳のときに一家はハバナへ引っ越す。このため思春期から青年時代をハバナですごし、ペトロニウスの『サテュリコン』や、ホメロスの『オデュッセイア』を愛読する。
■ホセ・カンセコ
Jose Canseco Capas, Jr. , 1964年7月2日 - は、キューバ出身のプロ野球選手(外野手)、格闘家。1988年のシーズン前には「40-40(40本塁打40盗塁)を狙う」と公言。当時この記録は達成者はなく、メディアの対応も冷ややかであったが、このシーズンにカンセコは見事メジャー史上初の1シーズン40本塁打・40盗塁の達成者となり、アメリカンリーグMVPに選出された。1991年にも44本塁打を放つ。MVP投票でもカル・リプケン、セシル・フィルダー、フランク・トーマスに次ぐ4位の得票。
■アレクセイ・ラミレス
Alexei Fernando Ramirez, 1981年9月22日 - は、キューバ共和国ピナール・デル・リオ州ピナール・デル・リオ出身の野球選手。内野手、右投右打。MLBシカゴ・ホワイトソックスに所属している。キューバ国内リーグ "セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル" ではベゲーロス・デ・ピナール・デル・リオに在籍。2000-01シーズンから2006-07シーズンまでの7シーズンで521試合に出場、打率.332・73本塁打・328打点という通算成績を残し、最後のシーズンにはリーグ本塁打王にもなった。
■ペレス・プラード
Damaso Perez Prado, 1916年12月11日 - 1989年9月14日はキューバのバンドリーダー、指揮者、ピアニスト。マンボ王(マンボキング)とも呼ばれる。父親は新聞記者で母親は教師。幼少時からクラシックピアノを学び、後にポピュラーに転向して地元のクラブ等でピアノやオルガンを演奏していた。1940年代キューバの首都ハバナで働いていた頃、当時流行していたルンバにジャズの要素を取り入れた新しいリズム「マンボ」を積極的に演奏し始める(「マンボの王様」という異名から、ペレス・プラードにより作られたと語弊する者も多いが、彼がマンボの発明者ではない)。しかしこの新しいリズムはキューバ国内では受け入れられず、1948年にメキシコシティへ移住。そこでペレス・プラード楽団を結成、一躍人気アーティストとなった。
■コンパイ・セグンド
Compay Segundo、1907年11月18日 - 2003年7月13日は、キューバ出身の歌手、ギタリスト、作曲家である。本名はフランシスコ・レピラード。1907年、キューバ東部の山間部に位置するシボネイに産まれる。15歳の頃からシボネイに近いサンティアーゴ・デ・クーバで演奏を始め、さらに1934年にハバナに移った。ライ・クーダーがプロデュースしたブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加し、その中心的な存在となった。
■グロリア・エステファン
Gloria Estefan、出生名:Gloria Maria Fajardo、1957年9月1日 - )は、キューバ生まれでアメリカの歌手。1960年に家族と共にマイアミに移住。キューバ移民であるために生活が苦しかったこともあって、奨学金を得てマイアミ大学に入学。1975年に、後の夫となるエミリオ・エステファンが率いるバンド「マイアミ・ラテン・ボーイズ」に参加し、1978年9月2日にエミリオと結婚。バンドはマイアミ・サウンド・マシーンと改名して1980年代に「Dr.beat」「Conga」など数々のヒットを飛ばし、1988年にはグロリア・エステファン&ザ・マイアミ・サウンド・シーンと表記するようになった。
■アロルディス・チャップマン
(Albertin Aroldis Chapman, 1988年2月28日 - )は、MLBシンシナティ・レッズに所属するプロ野球選手(投手)。最速106mph(約171km/h)の速球とランディ・ジョンソンと比較される80mph台後半のスライダーを武器とし、2010年はこの2球種しか投げなかった。他にもカーブやツーシーム、チェンジアップ、スプリッターを持ち球とする[12]。メジャーリーグでもイニング数を上回る奪三振数を挙げているが、イニング数に迫る四死球数が課題。
■ロベルト・バルボン
Roberto Barbon , 1933年3月13日 - は、キューバ出身の元プロ野球選手(内野手)。11人兄弟の末っ子として生まれたバルボンは1954年にブルックリン・ドジャース傘下のマイナーリーグで1年間プレー。翌1955年に阪急ブレーブスに入団し、来日。来日1年目からシュアな打撃と49盗塁するなど俊足を武器に活躍。1958年 - 1960年と3年連続の盗塁王に輝く。
■ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル
(Diego Velazquez de Cuellar, 1465年 - 1524年6月12日)は、スペインのコンキスタドール。1511年から1524年までキューバ総督を務めた。ディエゴ・ベラスケスはスペインのクエリャルで生まれた。ベラスケスは1493年にクリストファー・コロンブスの船団の一員として初めて新世界を訪れた。1511年、イスパニョーラ島に移り、キューバ征服を指揮した。その後初代キューバ総督に就任し、キューバ島の各地にサンティアーゴ・デ・クーバやハバナなどの多くの植民地や都市を築いた。
■レオナルド・パドゥーラ・フエンテス
(Leonardo Padura Fuentes、1955年 - )は、キューバの小説家、推理作家。男性。キューバの首都ハバナ生まれ。ハバナ在住。ハバナ大学でラテンアメリカ文学を学び、卒業後は脚本家、ジャーナリストとして活動。のちに小説家としての活動も開始し、1991年に第1作を発表したマリオ・コンデ警部補シリーズで人気を博す。
■ルイス・ティアント
(Luis Tiant , 1940年[1]11月23日 - )はアメリカ・メジャーリーグで活躍した投手。右投右打。キューバ・マリアーノ(現在は首都ハバナの一部)出身。マイナーでの活躍の後、1964年7月19日にインディアンズでメジャー初登板。デビュー戦で、この年リーグ優勝したニューヨーク・ヤンキース相手に、11三振を奪い、4安打完封勝利を記録。ヤンキースの先発はアメリカ野球殿堂入りした左腕ホワイティ・フォードであった。1968年にはリーグ1位の防御率1.60、9完封を記録し21勝9敗の大活躍。防御率1.60は、現在でもライブ・ボール(飛ぶボール)が導入された1920年以後のア・リーグ記録であり、同じ1968年にボブ・ギブソン(セントルイス・カージナルス)が記録した1.12に次ぐメジャー2位である。
■ケンドリス・モラレス
(Kendrys Morales Rodriguez , 1983年6月20日 - )は、キューバ共和国サンクティ・スピリトゥス州フォメント出身のプロ野球選手。内野手、右投げ両打ち。現在は、MLBのシアトル・マリナーズに所属している。2012年からは、セントルイス・カージナルスからアルバート・プホルスが加入したため、主にDHでの出場になっている。同年7月30日、対テキサス・レンジャーズ戦の6回に史上3人目となる1イニング左右打席本塁打を記録した。
■スリア・カラタユド
(Zulia Calatayud、1979年11月9日-)は、キューバの陸上競技選手である。800m走を得意とし、2005年の世界陸上では金メダルを獲得している。
■ユリエスキ・グリエル
(Yulieski Gourriel Castillo, 1984年6月9日 - )は、キューバの野球選手。内野手(三塁手・二塁手)、右投右打。5ツールプレーヤーであり選球眼も持ち味の万能型選手。現在のキューバ野球界で最高の選手とみなされており、国民的英雄オマール・リナレスの背番号10を継承。メジャーリーグベースボールのスカウトからは「もしドラフトで指名されるならば1巡目だ」と評価されている。
■ペドロ・ルイス・ラソ
(Pedro Luis Lazo Iglesias , 1973年4月15日 - )は、キューバの野球選手。150km/hを超える速球と高速スライダーを武器に、キューバ野球界トップクラスの投手として長年にわたり活躍していた。国内リーグでは先発投手として投げており、通算257勝で国内リーグ最多勝利記録の保持者。
■マチート
Machito1912年2月16日 − 1984年4月15日はキューバ、ハバナ出身のコンガ奏者(コンゲーロ)で、ラテン・ジャズ・ミュージシャン。アフロ・キューバン・ジャズの源流を作り上げた人物として知られる。マチートとは「小さい子供」の意味で末っ子を示す。実際は妹のグラシェーラがいて、彼女は彼の楽団の歌手を務めていた。1941年に、マチートがマンボのバンドを始めた時、義理の兄弟であり、ビ・バップのトランペット奏者で編曲家のマリオ・バウサがマンボをジャズに取り入れ、自らのバンドをアフロ・キューバンズと名付けた。これがジャズのインプロヴィゼーションをアフロ・キューバンのリズムに取り入れた最初の試みであった。
■マリオ・キンデラン
Mario Cesar Kindelan Mesa、1971年8月10日 - は、キューバのボクサー。オルギン州オルギン出身。身長165cm・体重60kg。1999年のパンアメリカン大会にライト級で出場し金メダルを獲得、その年のキューバ最優秀ボクサーに選ばれる。その後、2000年シドニーオリンピックライト級で金メダルを獲得。その後も2001年、2003年のパンアメリカン大会、2004年のアテネオリンピックライト級でも決勝でアミール・カーンを破り2大会連続の金メダルを獲得した。 |
キューバ Cuba
カリブ海の大アンティル諸島に位置するラテンアメリカの共和制国家である。島国であり、ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国が、ケイマン海峡を隔てて南にはケイマン諸島とジャマイカが、フロリダ海峡を隔てて北に145km先にはアメリカ合衆国のフロリダ州が存在する。首都はハバナ。
■ハバナ
キューバの首都。キューバ島北西沿岸のフロリダ海峡に接する地点に位置し、カリブ海域における最大の都市である。人口は約200万人。ハバナの始まりはコンキスタドールであるディエゴ・ベラスケスが、1514年にキューバ島の南岸(バタバノ湾側)にある現在のスルヒエドロ・デ・バタバノの近くに居住地を築いた時点まで遡る。
■ホセ・マルティ国際空港
Jose Marti International Airportは、キューバの首都ハバナにある国際空港。キューバの国営航空会社クバーナ航空の本拠地である。
■サンティアーゴ・デ・クーバ
Santiago de Cuba は、キューバ南東部の都市である。サンティアーゴ・デ・クーバ州の州都。人口は40万4100人。カリブ海に面したマエストラ湾岸にある港湾都市かつ工業都市である。1514年6月28日にスペイン人コンキスタドールのディエゴ・ベラスケスによって創設された。1516年居住区は火災で焼失したが、すぐに再建された。16〜17世紀には海賊による密貿易の拠点であった。1518年、この町からフアン・デ・グリハルバやエルナン・コルテスがメキシコ海岸の探検に出ている。また、1953年にはフィデル・カストロ率いる160名の青年兵士が、キューバ革命の端緒となるキューバ陸軍モンカダ兵営の襲撃を行なった。
外務省:キューバ共和国
在キューバ日本国大使館
■カマグエイ
Camagueyは、キューバ中部にある都市。カマグエイ州の州都。旧称はサンタ・マリア・デル・プエルト・プリンシペ。人口は29万4,000人。ハバナの南東方約550kmの地点にあり、キューバ島内陸の交通要所である。カマグエイの街は1530年代に建設され、19世紀までスペイン領西インド諸島の経済的な中心地であった。そのため、17世紀の教会を含め、スペイン植民地時代の建築物が今なお残っている。そうした歴史的街並みは、2008年に世界遺産に登録された。
■オルギン
Holguinは、キューバ東部にある都市。オルギン州の州都。人口は24万2,100人。肥沃な農業地帯を背景としたタバコ、サトウキビ、コーヒー、トウモロコシなどの集散地であり、農産物加工、製材、家具製造などの伝統的工業も発達している。市の北部にはニッケルの鉱山(年間生産量は約13万t)があり、ニペ港から輸出されている。なお、市内にはキューバ最大の病院であるレーニン病院がある。
■グアンタナモ
Guantanamoは、キューバの南東部にある都市。1819年にスペイン人が建設したが、18世紀末のハイチ独立にともない、ハイチからフランス人亡命者が多数移住してきたため、その影響が市内建築物の様式等に残っている。
■ヌエバ・ヘローナ
Nueva Gerona)はキューバの都市のひとつ。青年の島にあり、青年の島特別自治体の州都とされている。この都市はカバージョス(Caballos)とカサス(Casas)という2つの丘に挟まれた場所に位置する。
■サンタ・クララ
Santa Claraは、キューバの中央部にある都市。ビジャ・クラーラ州の州都。人口は20万5,900人。ハバナの東方約290kmの地点にある。クリストファー・コロンブスによって開かれ、キューバで最初に欧州人に建設された都市である。市内にラス・ビジャス大学がある。キューバ革命の際にエルネスト・ゲバラ少佐によって解放された都市としても有名で、現在はゲバラ司令官の霊廟(チェ・ゲバラ霊廟)がある。
■シエンフエーゴス
(Cienfuegos)は、キューバの中央部南岸にある都市で、シエンフエーゴス州の州都である。ハバナからは約250 km で、人口は約15万人である。この都市は、「南の真珠」(La Perla del Sur)の異名をとっている。「シエンフエーゴス」は言葉どおりに訳すと「百の火」である。
■ピナール・デル・リオ
Pinar del Rioは、キューバの都市。人口190,532人(2004年)。キューバ最西部に位置し、ピナール・デル・リオ州の州都である。この町の住民はPinareñosとよばれる。ピナール・デル・リオはスペイン人によって設立されたキューバの最後の主要都市の一つであった。この町及び州は、マニラ・ガレオンによって大量に流入してきたフィリピン人の入植地として作られたため、ヌエバ・フィリピン(新フィリピン)の名で建設された。
■トリニダ
(Trinidad, トリニダード)は、キューバ中央部サンクティ・スピリトゥス州の町。建設当初の正式名はサンティシマ・トリニダ(Villa De la Santísima Trinidad)である。ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルによってトリニダが建設されたのは1514年12月23日のことであった。トリニダは、砂糖取引がこの地方の基幹産業であった時代の町並みを特に良く保存している街の一つである。
■ハバナ州
Provincia de la Habana)はキューバの州(地方行政区分)のうちのひとつである。州の農業は食料生産、主に牛、ジャガイモ、果物の生産が中心であり、キューバの他地域とは異なって砂糖やタバコの生産は州経済の僅かな部分しか占めていない。また、大規模な発電所や製糖工場が存在するなど、州内は産業化が進んでいる。
■マタンサス州
Provincia de Matanzas)は、キューバを構成する州のひとつ。州都は州と同名のマタンサスで、その他カルデナス、コロン、ホベジャーノスなどの都市がある。リゾート地として知られるバラデーロもこの州に属す。石油採掘施設、製油所、スーパータンカーの造船所に加え、21箇所もの砂糖工場を有す国内で最も工業化された州である。
■シエンフエーゴス州
Provincia de Cienfuegos)はキューバの州(地方行政区分)のひとつである。州都はシエンフエーゴス。1819年にフランス人居住者によって創設された。同州はキューバで面積が最小の州である。経済的にはほとんどサトウキビの生産と精糖産業に依存している。
■シエゴ・デ・アビラ州
(Provincia de Ciego de Avila)は、キューバの州。州都はシエゴ・デ・アビラ。キューバ中部に位置し、カマグエイ州から1975年に分割されて成立した。州の北部には第2の都市であるモロンがある。モロンから北の海岸の間には、キューバ最大の自然湖であるラグーナ・デ・レーチェがある。州の北岸にあるカマグエイ群島にはいくつかのリゾートがあり、カジョ・ココやカジョ・ギジェルモなどが有名である。
■カマグエイ州
Camaguey Province)はキューバの州(地方 行政区分)のうちのひとつである。州都はカマグエイ。カマグエイ州の大部分は低地であり、州を横断する主要な山脈や丘などは無い。州の南岸に は珊瑚礁の小島であるキーが数多く存在し、キューバ革命指導者のフィデル・カストロもここで釣りをすることが好きであった。
■オルギン州
Holguin Province)はキューバの北東に位置する州(地方 行政区分)のうちのひとつである。州都はオルギン。キューバではハバナ州、サンティアーゴ・デ・クーバ州に次いで3番目に人口の多い州である。約4分の1の面積が熱帯雨林地帯である。
■サンティアーゴ・デ・クーバ州
Santiago de Cuba Province)はキューバの州(地方行政区分)のうちのひとつである。州都はサンティアーゴ・デ・クーバ。キューバでは2番目に人口の多い州である。鉄やニッケルなどの鉱物資源が豊富である。サンティアーゴ・デ・クーバ州は、キューバの独立や、1959年のキューバ革命などで、歴史的に多くの戦闘の舞台となった。山がちの地形であるためゲリラ戦が多用された。
■グァンタナモ州
Provincia de Guantanamo)はキューバ東部に位置する州(地方 行政区分)のうちのひとつである。州都はグアンタナモ。グアンタナモ湾の周囲にはグァンタナモ米軍基地が存在する。1805年、ハイチ革命の影響によりフランス人がサン=ドマングからの退去を余儀なくされ、35,000人のフランス人居住者は、キューバに土地を与えられたグアンタナモ地域に居住し、コーヒーやカカオの生産者となった。この影響により、フランス領アメリカのルイジアナ州のニューオリンズと肩を並べるような多くの建築物が建てられた。
■米西戦争
Spanish−American Warは、1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争である。結果としてスペインは敗北し、カリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得した。20世紀のキューバの歴史家は1868年から独立運動を続けてきたキューバ独立軍との関係からこの戦争をスペイン・アメリカ・キューバ戦争(米西キューバ戦争)と呼び、1946年にキューバ議会はこの名称をキューバにおけるこの戦争の正式名称とすることを決議した 。
■キューバ革命
Revolucion cubanaとは、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラらが中心となって、アメリカ合衆国の影響が強かったフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒するに至った武装解放闘争のことを指す。
■ピッグス湾事件
Bay of Pigs Invasionは、1961年に在米亡命キューバ人部隊「反革命傭兵軍」がアメリカの支援の下で、フィデル・カストロによる革命政権の再転覆を試みた事件。ジョン・F・ケネディ大統領の承認を経て1961年4月15日に侵攻が開始されたが、東側諸国の援助を受けたキューバ軍は3日間の戦いで撃退に成功した。この事件の直後、キューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言。ソ連への接近を強めた結果、翌1962年にはキューバ危機が起きることになる。
■グァンタナモ米軍基地
Guantanamo Bay Naval Base)は、キューバ東南部のグァンタナモ湾に位置するアメリカ海軍の基地である。管理者はアメリカ南方軍。面積は116平方キロ。1903年以来、アメリカ合衆国が租借しており、2002年からはアフガニスタンやイラクで拘束された人の収容所としても使用されている。そのため、グァンタナモ収容所とも呼ばれる。
■グランマ号
グランマ号(Granma)とは、1956年のキューバ革命時にメキシコへ亡命していたフィデル・カストロがチェ・ゲバラら82名の仲間と共にキューバへ再上陸するのに使った船である。グランマ号は本来1943年頃に製造された定員12名のディーゼルエンジン駆動のクルーザーであった。カストロはアメリカ海軍のPBY飛行艇か航空機救難艇を購入しようと試みたものの、資金不足のため中古のヨットとして売られていた本船を50,000メキシコ・ペソ(約15,000USドル)で買うのがやっとだった。
■キューバ危機
The Cuban Missile Crisis、は、アメリカのすぐ南に位置する小国に過ぎないキューバを舞台に、1962年10月14日から28日までの14日間に亘って米ソ間の冷戦の緊張が、最悪の場合全世界を巻き込むことになる第三次世界大戦の勃発を意味する核戦争寸前まで達した危機的な状況のことである。
■国名
公式の英語表記は、Republic of Cuba。通称、Cuba(キューバ)。国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島に依っており、「中心地」という意味のインディオ(タイノ族)の言葉であるクバナカン(Cubanacan、現在のオルギン)が由来であるとされている。
1.面積:110,922平方キロメートル(本州の約半分)
2.人口:1,124万人(2009年国家統計局)
3.首都:ハバナ
4.民族:ヨーロッパ系25%、混血50%、アフリカ系25%(推定)
5.言語:スペイン語
6.宗教:宗教は原則として自由
1898年 米西戦争
1902年 独立
1959年 カストロ政権成立(キューバ革命)
1961年 米国と外交関係断絶、ピッグズ湾事件
1962年 キューバ危機
米州機構(OAS)が対キューバ制裁決議(除名)
1965年 キューバ共産党結成
1975年 第1回共産党大会、アンゴラ派兵本格化
1976年 新憲法制定、人民権力全国議会発足、カストロ国家評議会議長就任
1979年 非同盟運動諸国首脳会議開催(ハバナ)
1980年 マリエル事件(12万5千人のキューバ難民発生)
1991年 アンゴラ撤兵完了
1992年 憲法改正、米トリチェリ法成立
1994年 米・キューバ移民協議
1996年 米民間機(反カストロ亡命キューバ人団体)撃墜事件、
米ヘルムズ・バートン法成立
1998年 ローマ法王のキューバ訪問
1999年 米国による対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表
第9回イベロアメリカ・サミットの開催(ハバナ)
エリアン少年事件
2000年 米国による対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表
第1回南サミット(G77諸国)開催(ハバナ)
2001年 米国からの食糧購入開始
2002年 カーター米元大統領キューバ訪問
2006年 カストロ議長がラウル・カストロ国家評議会第一副議長に権限を暫定委譲。
非同盟運動諸国首脳会議開催(ハバナ)
2008年 カストロ議長が国家評議会議長職を辞す意向を表明
ラウル・カストロ国家評議会議長就任
2009年 オバマ米政権による対キューバ制裁緩和
■主要産業:観光業、医療サービス、農業(砂糖、煙草、柑橘類)、鉱業(ニッケル)、水産業
■主要貿易品目(1)輸出 鉱物、砂糖、葉巻、魚介類、農畜産物(2)輸入 燃料・潤滑油、機械・輸送機械、食料・動物、工業製品、雑貨
■キューバ・ペソ
キューバ・ペソはキューバの通貨単位。補助通貨はセンターボ(1ペソ=100センターボ)。硬貨には1、2、5、20、40センターボおよび1、3ペソが、紙幣には1、3、5、10、20、50、100ペソがある。通貨コードはCUP。1兌換ペソ=24ペソ。1兌換ペソ=1.08ドル(公定レート)。
■キューバ共産党
Partido Comunista de Cuba, PCC)は、キューバ共和国の支配政党。党の指導原理としてマルクス・レーニン主義とホセ・マルティ思想を掲げ、一党独裁体制を敷いている。
■社会主義
socialism)は、個人主義的な自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想、運動、体制。歴史的にも社会主義を掲げる主張は多数あり、共産主義、社会民主主義、無政府主義、国家社会主義なども含む。
■プランテーション
(plantation) とは、大規模工場生産の方式を取り入れて、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、先住民や黒人奴隷などの安価な労働力を使って単一作物を大量に栽培する大規模農園のことである。経営主体は、国営、企業、民間など様々である。この「安価な労働力」は、かつては植民地の原住民あるいは奴隷であり、現在は発展途上国の農民であったり、土地自体が先住民から奪われて経営者に売られていたりなどするため、労働者の人権が問題とされることがある。また水質汚染・森林破壊・農薬問題などの環境破壊が問題とされることも多い。
■モンカダ兵営
Moncada Barracks)はサンティアーゴ・デ・クーバに位置する兵舎。 名前は、キューバ独立戦争の英雄 ギジェルモ・モンカダ(Guillermo Moncada)に因む。1953年7月26日、フィデル・カストロ率いる小隊により襲撃、キューバ革命の契機となる。カストロは1959年にバティスタ政権を転覆させた運動組織を 7月26日運動(Movimiento 26 de Julio (M-26-J))と名付ける。
■気候
年間の平均気温は摂氏25.5度、夏の平均気温は27度、冬の平均気温は21度であり、夏には東風・南東の貿易風、冬には北東の貿易風が吹く。夏には気温のみならず、湿度も80%前後にまで上昇する。しかし、北東の貿易風が吹くため、気温は和らぎ比較的しのぎやすい環境となる。
■天然資源
キューバの国土は、鉱物資源に恵まれている。特に重要視されている鉱物はニッケル、クロム、銅、鉄、マンガンである。その他にも、硫黄、コバルト、黄鉄鉱、石膏、石綿、石油、石灰岩などが採掘されている。なお、地下資源は全て政府の所有物とされている。キューバにおけるラテライト鉄鉱石の埋藏量は20億トン、その中に包含されるニッケルは1.7億トンであり、世界最大の規模である。
■経済
現在でもキューバ経済の中心は砂糖で、基本的には砂糖のモノカルチャー経済から脱却することができていない。ただし、有機農業の増大によって、最近では日本の生協などとの農産物取り引きも行なわれるようになっている。2011年4月において危機的状態が続く経済を再建する為、市場経済が部分的に導入される事が決まった。食料配給の段階的廃止、不動産の所有権と売買を認める等、大きな改革が5年以内に実施される。労働者用の無料食堂は全て閉鎖された。同年9月にはタバコの配給が停止、禁止されていた自動車売買も同10月に自由化され、住宅の売買も11月に解禁された。
■国民
キューバは16世紀中にスペイン人の苛政によってインディオが絶滅したために、現在は白人系市民と黒人系市民、及び少数のアジア系移民で成り立っている。住民の人種構成は、ムラートが37%、欧州系白人が51%(主にスペイン系)、黒人が11%、中国系が1%であると推定され、他にもメスティーソ、レバノン人がおり、中国人やレバノン人、東インド諸島の植民者のコミュニティがある。
■言語
公用語はスペイン語(キューバ・スペイン語)である。だが、観光業に力を入れていること、アメリカ本土に近いこと、そして公教育の普及率が高いことなどから、ホテル、レストラン、及びに都市部などでは英語が通じることもある。
■カリブ・スペイン語
espanol caribeno )は大アンティル諸島とカリブ海沿岸で有力なスペイン語の方言である。キューバ、ドミニカ共和国、プエルト・リコと言った島の領域と、ベネズエラ、コロンビア、パナマと言った大陸の領域で話される。アンダルシア方言(港間での歴史的な接触による)、カナリア諸島方言、アフリカやタイノ語の影響を強く受けているとされている。また、アメリカのマイアミやニューヨークでもよく聞かれ、サルサ、メレンゲ、レゲトンと言ったスペイン語話者のカリブ音楽の歌い手の大半にも用いられている。
■宗教
宗教の信仰は原則として自由であるが、今では無信教者が人口の55%にまで達している。キューバで最も重要な宗教はカトリックであり、キューバ革命以前は人口の70%以上が教徒であった(1957年)。しかし、フィデル・カストロ政権下で信者数は約40%まで減少し、政府から反革命活動をしていないと見なされる必要があるなど、現在でも教会の布教活動には政府による制約がなされている。
■教育
キューバ革命後、政府は教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、関連予算額が国家予算の16%を占めるようになった。そのため、政府は農村における非識字率の大幅な低下や、教育と医療の無料化といった成果を挙げることに成功している。キューバでは、フィデル・カストロの「アメリカに半植民地にされたのはアメリカのプロパガンダを国民が見抜けなかったから」という考えから、教育に国を挙げて力をいれている。初等教育は義務教育となっており、小学校では20人学級やサブティーチャー制を導入している。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は、全体で99.8%であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、チリと並んでラテンアメリカ内では最高水準である。また、国民の大半は高等学校を卒業している。
■医療
決して医療水準が高いとは言えないものの、プライマリ・ケアを重視した医療制度を採用し、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。医師の数が国民165人当たり1人と世界一多い。乳児死亡率は1,000人当たり6.5人。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。医学部は無料で留学生(アメリカ人も含む)も無料である。被災地への医師の海外派遣も積極的に行っている。
■文化
キューバ国民の大半がスペインかアフリカからの移民であるため、キューバの文化はスペインと、アフリカの特にヨルバ(現在のナイジェリア)の伝統文化から影響を受け、それらが混交しているという特徴がある。なお、キューバは、国民の映画鑑賞が盛んな国でもある。
■文学
19世紀においては前期にホセ・マリア・エレディアが活躍し、ロマン主義の文学運動においてヘルトゥルディス・ゴメス・デ・アベジャネーダとシリロ・ビリャベルデが活躍した。19世紀後半に汎イスパノアメリカ的な規模での文学運動となるモデルニスモ文学が隆盛を迎えると、キューバからは独立運動家であり、詩人でもあったホセ・マルティによって『イスマエーリョ』などのモデルニスモ的な詩や、『我らのアメリカ』(1891年)などの重要な評論も発表された。革命後は、1971年のパディーリャ事件のような革命政権による文学者への弾圧のため、カルペンティエルを例外として多くの作家がキューバを去り、亡命先で執筆を続けた。著名なキューバ人作家としては革命後に亡命し、反フィデル・カストロ運動と『三頭の悲しき虎たち』で知られるギリェルモ・カブレラ=インファンテや、ホセ・レサマ・リマ、レイナルド・アレナス、ビリヒリオ・ピニェーラ、セネル・パスなどが挙げられる。特にアレナスは亡命先のニューヨークで魔術的リアリズムの傑作として知られる『めくるめく世界』などを残している。
■キューバ文学
先コロンブス期のキューバ島にはタイノ人やカリブ人の口承文学が存在していたが、1492年10月27日にキューバ島がクリストーバル・コロンに発見された後、疫病やスペイン人との戦いで先住民族は絶滅したため、キューバの文学はこれ以降、スペイン語によるものとなった。18世紀末の1790年に『ラ・アバナ新聞』が創刊された後、19世紀に入るとホセ・マリア・デ・エレディアがロマン主義の潮流の中で活躍した。
■モデルニスモ文学
Modernismo)とは、一般にスペイン語圏ラテンアメリカ文学(イスパノアメリカ文学)における近代主義(モダニズム)運動のこと。ルベン・ダリオをはじめとする作家たちにより、19世紀後半から20世紀初頭にわたって展開された。モデルニスモ運動はフィリピンを含む世界のスペイン語圏世界に多大な影響を与えた。
■映画
キューバ映画史は、1897年に製作されたニュース映画『火炎の鎮火』によって幕を開いた[1]。1913年にはパブロ・サントス、フェズス・アルティガス製作、エンリーケ・ディアス・ケサーダ演出の長編映画『マヌエル・ガルシア』が撮影された。1920年代には約30本の映画が演出のエステバン・ラミレスとラモン・ペオンを中心に撮影され、特にこの時期には優れたサイレント映画として記憶される『慈悲深き聖母』(1930)が作成された。
■スポーツ
キューバがスポーツの中で特に力を入れるのは国技ともされる野球と、各オリンピックで金メダルを量産しているボクシング、それに女子のバレーボールである。また、柔道や陸上競技の跳躍系種目でも好成績を収めている。
■フィデル・カストロ
フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Alejandro Castro Ruz, 1926年8月13日 - )は、キューバの政治家、革命家、軍人、弁護士。社会主義者で、1959年のキューバ革命でアメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を武力で倒し、キューバを社会主義国家に変えた。革命によって同国の最高指導者となり、首相に就任。1926年、マヤリ近郊のビランにて、スペインのガリシア人移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルギスの息子として生まれる。当初はマルカネにある公立のグラマースクールに入ったが、ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。
■ラウル・カストロ
Raul Castro Ruz, 1931年6月3日 - は、キューバの政治家、軍人、革命家。兄のフィデル・カストロとともにキューバ革命を指導し、革命後は、同国の最高指導者となったフィデルの後継者として、革命軍事相(国防相)、キューバ共和国国家評議会第一副議長、閣僚評議会第一副議長、キューバ共産党中央委員会第二書記などを歴任したのち、2008年2月24日、フィデルの退任に伴い、国家評議会議長(国家元首)兼閣僚評議会議長(首相)に就任した。
■フルヘンシオ・バティスタ
Fulgencio Batista y Zaldivar, 1901年1月16日 - 1973年8月6日は、キューバの大統領(1940年 - 1944年、1952年 - 1959年)。1901年にキューバのバネスで生まれる。ムラート、中国、先住民族の出自とみられる。バネスの高校を卒業後、1921年にキューバ軍に加わる。1940年2月の第一回議会では、第一党の真正革命党はグラウを議長に推すが、バティスタの裏工作でマルケス・スターリングが議長に就任した。7月には新憲法が公布、総選挙が行われる。バティスタがグラウを抑え大統領に当選した。
■トマス・グティエレス・アレア
Tomas Gutierrez Alea, 1928年12月11日 - 1996年4月17日は、キューバの映画監督である。ハバナ出身。愛称は「ティトン」(Titon)。1951年にハバナ大学を卒業、ローマの映画実験センターに留学し、1953年に卒業する。1959年のキューバ革命後に数々の秀作を発表、国内のみならずラテンアメリカ映画界を代表する監督となる。代表作に、キューバ危機の最中にあって何事にも無関心な男の精神的危機を描く『低開発の記憶』、自由主義者で芸術家のゲイ青年と、強硬な共産主義者の大学生の交流を描いた『苺とチョコレート』などがある。
■アレホ・カルペンティエル
Alejo Carpentiery Valmont, 1904年12月26日 - 1980年4月24日はキューバのジャーナリスト、小説家、音楽評論家。20世紀のラテンアメリカ文学に大きな影響を与えた。1904年、スイスのローザンヌに生まれる(長い間、彼の出生直後に転居したハバナ生まれと思われていたが、彼の死後に出生証明書がスイスで発見された)。母はロシア語の教授、父はフランスの建築家だった。12歳時にパリへ転居し、音楽理論に傾倒した。キューバ帰国後はハバナ大学で建築学を学んだ。やがて左翼ジャーナリストになり、独裁者ヘラルド・マチャードを非難し若干の刑期を過ごす。
■アルベルト・コルダ
Alberto Korda、1928年9月14日 - 2001年5月25日は、キューバ出身の写真家。アルゼンチンのマルクス主義革命家 チェ・ゲバラの肖像写真『英雄的ゲリラ』を撮影したことで知られる。1928年、キューバ・ハバナ市に生まれる。父は鉄道作業員であった。10代後半頃より父が所有していたコダック35を使用して恋人をモデルに写真撮影を始める。その後は趣味で写真撮影をする傍らで様々な職を転々としていたが、マリオ・ナランホに才能を見出され写真家となり、ハンガリーの映画監督ゾルタン・コルダに因んで職名をアルベルト・コルダとした。1956年にルイス・ピアス・ビエルと共に、ハバナで「スタジオ・コルダ」を設立。主にモデルを使用した流行写真の撮影を行い、キューバで人気の写真家となった。
■ダイナ・チャヴィアノ
Daina Chaviano、1960 - は、キューバのハバナ生まれの作家。ハバナ大学にて英文学修士号を取得。大学在学中に、最初の文学賞を受賞する。キューバに住んでいた時代にはSF・幻想文学の分野で数々の著作を著し、そのジャンルでは同国で史上最高の販売部数を記録する人気作家となった。作品のテーマは、神話、古代史、社会学、超心理学から政治や魔術の領域に及び、詩的イメージと官能的魅力に富んだ世界が繰り広げられる。
■オラシオ・グティエレス
Horacio Gutierrez, 1948年 ハバナ − は、ヴィルトゥオーゾの誉れ高いキューバ出身のピアニスト。家族に連れられ13歳で渡米し、ロサンジェルスでセルゲイ・タルノフスキーに、後にジュリアード音楽学校に進学してアデール・マーカスに師事。タルノフスキーはウラジミール・ホロヴィッツの旧師であり、マーカスは伝説のピアニスト、ヨゼフ・レヴィーンの門人だった。グティエレスは、ロマン派的な奔放さと古典的な均斉感とを珍しく融合させた演奏で知られており、多くのピアノ愛好家から、20世紀後半で最大のピアニストの一人と看做されている。
■レイナルド・アレナス
Reynaldo Arenas、1943年7月16日 - 1990年12月7日は、キューバ出身の小説家・詩人である。20歳で初めての小説を発表したが、当時のフィデル・カストロ政権の元で、同性愛者であること、また反政府的な言動があるとされ、以後の作品はすべて発禁となってしまう。1973年には投獄されている。1980年にアメリカに亡命。ニューヨークにて執筆活動を続けていたが、1987年にエイズであることが判り、1990年に睡眠薬を多量に摂取して自殺した。
■ホセ・コントレラス
Jose Ariel Contreras, 1971年12月6日 - はMLBの投手。右投右打。キューバのピナール・デル・リオ州ラス・マルティナス出身。キューバ代表としてプレーするとともに、国内リーグではピナール・デル・リオ・ベゲーロスで活躍。通算成績は117勝50敗であり、国内での最終シーズンとなった2001年 - 2002年には13勝4敗防御率1.76に149奪三振を記録。
■ラファエル・パルメイロ
Rafael Palmeiro Corrales、1964年9月24日 - はキューバ生まれの元メジャーリーガー。2003年5月11日に史上19人目の通算500本塁打(ヒスパニックとしてはサミー・ソーサに次いで2番目)を達成し、1995年から9年連続で35本塁打・100打点を達成しジミー・フォックスのメジャー記録に並んだ[3]。翌2005年7月15日には史上26人目の3000本安打を達成した。「3000安打&500本塁打」を達成したのは、ハンク・アーロン、ウィリー・メイズ、エディ・マレーに続き史上4人目である。
■アリシア・アロンソ
Alicia Alonso1920年12月21日 - はキューバのバレエダンサー・振付家。キューバの首都、ハバナの裕福な軍人の家庭に生まれる。幼少時にスペインでダンスを習ったのち、9歳でバレエを始めた。1937年にニューヨークへ移り、アメリカ・バレエ学校で学んだのち、渡英してロンドンでV・ヴォルコワに師事。19歳の頃から網膜剥離を患い、手術を繰り返しながら失明に近い状態で踊り続けてきたことは知られている。
■ホエール・カサマヨール
ホエール・カサマヨール・ヨハンソン(Joel Casamayor Johnson、男性、1971年7月12日 - )は、キューバ出身のプロボクサー。現在はアメリカ合衆国に移住している。元WBA世界スーパーフェザー級王者。元WBC・WBO世界ライト級暫定王者。アマチュアボクシングでも活躍しており、キューバ代表としてバルセロナオリンピックに出場し、バンタム級で金メダルを獲得した。42戦37勝22KO4敗1分
■ルディ・サーゾ
Rudy Sarzo、1950年 - は、キューバ出身のベーシスト、アニメーター。1950年にキューバで生まれ、1961年にアメリカへ移住する。最初はアコースティック・ギターを弾き始め、1967年頃からベースに転向。弟は元ハリケーンのギタリストであるロバート・サーゾ。1982年9月にバンドを脱退してクワイエット・ライオットに戻る。この時に発表したアルバム『メタル・ヘルス』は600万枚を売り、ビルボード・ポップ・チャートで初登場1位を獲得した初めてのヘヴィ・メタル・バンドとなった。
■ゴンサロ・ルバルカバ
Gonzalo Rubalcaba, 1963年5月27日 - は、キューバ、ハバナ出身のジャズ・ピアニストで作曲家。グラミー賞受賞者。
■ロス・ヴァン・ヴァン
(Los Van Van) はベーシストのファン・フォルメルにより1969年に結成されたキューバのティンバ/サルサバンド。キューバ本国では国民的な人気を誇り、コンテンポラリー・キューバ・ミュージックの形成に深く関わる。ロック・ラップ・ブラジル音楽等の要素を交え、ソンゴというリズムを築く。
■オマーラ・ポルトゥオンド
(Omara Portuondo、1930年10月29日 - )は、キューバ人歌手。70歳を過ぎてなお絶頂を保っている。マヒア・ネグラ Magia Negra (1957,Velvet) 運命の共演/オマーラ・ポルトゥオンド・イ・チューチョ・バルデース
■オスマニー・ウルティア
(Osmani Urrutia Ramirez 、1976年6月29日 - )は、キューバの元野球選手。2005年、オランダで開催されたIBAFワールドカップでは31打数12安打、打率.387、5打点の活躍。翌年のワールド・ベースボール・クラシックでは8試合すべてに出場。準決勝のドミニカ戦ではオダリス・ペレスから逆転適時打を放つなどキューバの準優勝に大きく貢献した。
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