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ウクライナ
Ukraine
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ヨーロッパ

■地理
ウクライナの国土のほとんどは、肥沃な平原、ステップ(草原)、高原で占められている。ドニエプル川、ドネツ川、ドニエステル川が横切っており、南のブーフ川とともに、黒海、アゾフ海に注ぎ込んでいる。山岳地帯は、ウクライナの最南端のクリミア山脈と西部のカルパティア山脈にしかない。最高峰はカルパト山脈にあるホヴェールラ山で標高2,061メートルある。


黒海
ヨーロッパとアジアの間にある内海。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。バルカン半島、アナトリア半島、カフカースと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。アナトリアとバルカンの間のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通じて地中海に繋がっており、クリミアの東にはケルチ海峡を隔ててアゾフ海がある。

アゾフ海
黒海北部にある内海で、ケルチ海峡によって黒海と結ばれている。北はウクライナに接し、東のロシア連邦領タマン半島と西のウクライナ領クリミア半島に挟まれている。さまざまな海洋生物が生息し、無脊椎動物は300種類以上、魚類は80種類以上にのぼっている。しかし乱獲による種や数の減少、海洋汚染などの問題も発生している。

ドニエプル川
ロシアから始まって、ベラルーシを経てウクライナに流れ黒海に注ぐ川である。総延長は、2285km。北ロシアの標高220mのヴァルダイの丘に源流を発し、東ヨーロッパ平原を南へ流れて、最終的には黒海に流れ込んでいる。川は、115kmの長さに渡って、ベラルーシとウクライナの国境になっている。下流の約800km部分には、巨大ダムによるダム湖が連続している。

クリミア山脈
東ヨーロッパ、ウクライナのクリミア半島の南端に位置する山脈である。クリミア山脈は、クリミア半島の南部に位置し、南西のバラクラーヴァのアイヤ岬より、北東のフェオドシヤの聖イッリャ岬まで広がっている。山脈の長さは約180kmで、広さは約60kmである。

ドニプロ・ウクライナ
ドニプロ川の中流に広がるウクライナの歴史的地名である。現在のキエフ州、ポルタヴァ州、ならびにチェルニーヒウ州の西部、キロヴォフラード州とチェルカースィ州の中部、ヴィーンヌィツャ州とジトームィル州の東部にあたる地域である。

ドネツ川
ロシア・ウクライナを流れる川で、ドン川の支流である。ロシア連邦・ベルゴロド北方の中央ロシア高地に源を発する。南東向かいウクライナ領内を流れ、再びロシア領内へ入りロストフ州でドン川に合流する。

ドニエストル川
ポーランド国境に近いウクライナ西端・リヴィウ州のドロホブィチ付近から発し、ウクライナとモルドバ共和国の国境を形成しながら南ブジャク地方を貫流し、トランスニストリアでドニエストル潟を経てオデッサ州の黒海に注ぐ河川。ドニエストルという川の名はサルマタイの言葉で「近くの川」を意味する。反対にドニエプル川は彼らの言葉で「はるか遠くの川」の意味である。

プルト川
ウクライナ領内から流れ出し、ルーマニアとモルドバの境界をなす。ザカルパッチャ、ブコビナ、ベッサラビアを流れる。フツーリシュチナの分水嶺・カルパティア山脈のコヴェールラ峰(2,061 m)のすぐ東斜面から流れ落ち、チェルニウツィー州を貫流した後、ルーマニアとモルドバの境界線に沿って流れ、ガラツィ東部でドナウ川に合流する。総延長953km。

デスナ川
ロシアからウクライナへ流れる大きな河川。ドニエプル川の左支流である。川の名は、古東スラブ語で「右手」を意味する。ウクライナ北部の湿地帯・ポリーシャを流れる主要な河川の一つである。中流域のセイム川付近はかつてシヴェーリアと称した。

カルパティア山脈
主にスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと、周辺のチェコ、ハンガリー、セルビアにまたがっており、全長約1500km。 スロバキアのブラチスラヴァ付近から北東に延び、東、南東へ向きを変えてルーマニア中部のトランシルヴァニアに達し、さらに西、北へと向きを変える。

ホヴェールラ山
ウクライナおよびウクライナのカルパティア山脈の最高峰である。高さは2,061m。ホヴェールラ山は砂岩と礫岩で形成された円錐形の山である。斜面には更新世の氷河の痕跡が残っている。山腰は椈や唐檜の森林に覆われ、森林の上に高山草原が広がっている。麓の東部にはプルト川の泉と滝がある。


ウクライナ・コサック
15世紀後半以降、リトアニア大公国内のウクライナと呼ばれるドニプロ川の中下流域の広域におけて存在したコサックの軍事的共同体、またはその共同体の系統をもつ軍事的組織である。当初はポーランド・リトアニア共和国へ従属したが、17世紀半ばに自らのコサック国家の編成を経て、18世紀以降にロシア帝国への従属を強めていった。地域ごとにザポロージャ・コサック、ドナウ・コサック、クバーニ・コサックに分かれている。「コサック」という言葉は「群(社会)を離れた者」という意味のトルコ語から来た言葉である。

コサック
ウクライナと南ロシアなどに生活していた軍事的共同体、またはその共同体の一員である。コサックの起源については不明な点が多い。15世紀後半にコサックは、ウクライナの中南部、「荒野」という草原地帯で発祥し、ドニプロ川の中流を中心とするザポロージャ地方に根拠地を築いた。


コスィーンシキーの乱
1591年にポーランド・リトアニア共和国の支配下に置かれたウクライナで起きたコサック反乱である。1593年に貴族軍に鎮圧されたが、ウクライナにおけるコサックの影響力の拡大を齎した。記録上ではコサックによる最初の大騒乱である。

ナルィヴァーイコの乱
1594年から1596年にかけて、ポーランド・リトアニア共和国が支配するウクライナにおいて、セヴェルィーン・ナルィヴァーイコが率いるコサックが起こした反政府の叛乱である。

ロシア革命
Russian Revolution)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味している。また逆に、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する。

ウクライナ・ソビエト戦争
1917年12月から1921年11月にかけてウクライナの支配を巡って、キエフを首都とするウクライナ人民共和国と、ソビエトのロシアおよびその傀儡政権ウクライナ社会主義ソビエト共和国との間に行われた戦争である。ロシア革命後に起こった紛争の一つ。ソビエト派の勝利で終わった。戦争中にウクライナの人口が著しい被害を受け、10人に1人が死亡した。

ウクライナ革命反乱軍
ウクライナに存在したマフノ運動の軍事組織。黒軍、アナキスト軍とも。ロシア革命中、アナキストのネストル・マフノに指導された農民たちで構成され、1918年から1921年にかけて南部の農村を中心に活動した。彼らはフリー・テリトリー(Free Territory)と呼ばれる解放区を打ち立て、ウクライナ人民共和国、ウクライナ国、オーストリア=ハンガリー帝国、白軍と敵対し赤軍と協力したが、用済みとなったために1921年に赤軍よって殲滅された。

フメリニツキーの乱
1648年から1657年までの間、ポーランド・リトアニア共和国の支配下にあったウクライナにおいて、ザポロージャ・コサックのヘーチマン(棟梁・頭領)ボフダン・フメリニツキーが起こしたコサックの武装蜂起である。

ウクライナ蜂起軍
Ukrainian Insurgent Army、UPA とも)は、ウクライナに存在した反体制武装組織。独ソ戦中の1942年10月に結成され、おもに西ウクライナにおいて、赤軍・ドイツ軍双方へのパルチザン活動を行い、戦後もソ連と戦った。ドイツ軍の暴虐にウクライナ人農民は各地で抵抗していたが、やがて1942年10月、ヴォルイニでウクライナ蜂起軍を結成し、ウクライナ民族主義者組織(OUN)の軍事組織と合体しロマン・シュヘーヴィチ(英語版)が司令官となった。

独立国家共同体
Commonwealth of Independent States、は、ソ連崩壊時に、ソビエト社会主義共和国連邦を構成していた15か国のうちの12か国(正式には10か国)によって結成されたゆるやかな国家連合体(コモンウェルス)。当時の欧州共同体 (EC) 型の組織をモデルにしたが、独自の憲法や議会をもってはいない。日本では英語名の略称であるCISの名で言及されることが多い。本部はベラルーシの首都ミンスクに置かれている。


■民族
はウクライナ人で、全人口の約8割を占める。他に少数民族としてロシア人、ベラルーシ人、モルドヴァ人、クリミア・タタール人、ブルガリア人、ハンガリー人、ルーマニア人、ポーランド人、ユダヤ人がいる。


ウクライナ人
ウクライナの主要民族である。東欧の東スラヴ人に属し、主にウクライナ語を母語とするものが多い。歴史上でウクライナ人は様々な民族名で知られている。9世紀から13世紀にかけてウクライナの地域がルーシと呼ばれたことから、中世前期以降この地域の住民はルーシ人(ルスィーヌィ)と呼称されるようになった。また、14世紀より正教の聖職者の書簡にではウクライナを「小ロシア」と呼ぶ風習があり、17世紀以降ウクライナが正教のロシア・ツァーリ国に併合されると、19世紀までウクライナ人は小ロシア人(マロロースィ)と呼ばれていた。

キンメリア人
Cimmerians, Kimmerians,は、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族。ギリシア語ではキンメリオイと呼ばれる。そのため、彼らの住む地域(南ウクライナ)はキンメリアと呼ばれた。キンメリア人はその居住地である南ウクライナを追われても、相当長く黒海沿岸を占拠していた。ただ彼らがどの方面から現れ、どの民族系統に属するのかについて確証がない。

スキタイ
Skythai, は紀元前8世紀〜紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。当時、無人の境であった彼らの国土に最初に生まれたのは、タルギタオスという名の男であった。彼の両親はゼウスとボリュステネス河(現:ドニエプル川)の娘とであったという。

サルマタイ
Sarmatiaは紀元前4世紀〜紀元後4世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧民族。ローマ時代の歴史家たちは断片的とはいえ、時には精密なサルマタイ人の描写を残している。タキトゥス、ヴァレリウス・フラックス、アーリアヌス、パウサニアス、ストラボン、ヨセフスなどがそうした歴史家である。サルマタイ人は、スキタイ人の文化を継承しているとはいえ、興味を引くのはその類似点より相違点なのである。

クマン人
東欧・中央亜の草原地帯で活動したテュルク系遊牧民族である。元来はキプチャク草原と呼ばれる現在のカザフスタンから東ヨーロッパまでの平原地帯に広がって遊牧生活を行ったキプチャクのうちの西部、黒海北岸からベッサラビア(現モルドバ)の方面に遊牧していたテュルク系遊牧民たちのことであった。

ドレヴリャーネ族
6世紀から10世紀にかけて現代の北ウクライナ・南ベラルーシの辺りに居住していた東スラブ人の部族。デレヴリャー族については多くの痕跡を残されており、木で出来た地下壕がある農業集落、盛り土がない墓地とクルガン、ヴルチイ(今日のオーヴルチ)やゴロドスクといった要塞化した町、マリン近くにある集落の遺跡(ドレヴリャーネのマール公の居住地の一つと思われる)などがある。

キエフ大公国
9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。ルーシ族と呼ばれる北欧系のヴァイキングによって建国され、リューリク朝によって統治された。10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化し、キリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。


ヘーチマン国家
1649年から1782年の間にドニプロ・ウクライナに存在したコサックの国家である。ポーランド・リトアニア共和国における最大のコサック反乱であるフメリヌィーツィクィイの乱によって誕生した。1709年に大北方戦争の際、ロシアから離れてスウェーデンの保護を受けようとしたが失敗、18世紀中にロシア政府の政策により政治的・経済的の独立を失った。1764年にロシアのエカチェリーナ2世はヘーチマン制を廃止、翌1765年に国土はロシアの小ロシア県に編成され、1786年にコサック連隊制が廃止となった。


ルーシ
中世東欧にあった地名。ドニプロ川の中流域、現在のウクライナのキエフ・チェルニーヒウ・ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイが形成する三角地帯において存在したと考えられている。最初は「国」という政治的概念として用いられたが、次第に「州」という地理的概念に変更していった。キエフ大公国の分裂後、当地域を支配したポーランド王国、リトアニア大公国、モスクワ大公国、コサック国家の君主、諸教会の主教・司教の称号などにおいて雅号として用いられた。

ヴォルィーニ
西ウクライナ(ウクライナ語版)にある歴史的地名である。現在ウクライナのヴォルィーニ州とリウネ州と全地域、ジトームィル州の西部、テルノーピリ州とフメリヌィーツィクィイ州の北部を占めている。

ヴォルィーニ
西ウクライナにある歴史的地名である。東のプリピャチ川と西のブーフ川の間に位置し、北のポリーシャと南のガリツィア・ポジーリャに接している。現在ウクライナのヴォルィーニ州とリウネ州と全地域、ジトームィル州の西部、テルノーピリ州とフメリヌィーツィクィイ州の北部を占めている。

ポリーシャ
北ウクライナと南ベラルーシの間に位置する歴史的地名である。スラヴ人の発祥地であり、古代より東スラヴの文化と伝統が保存されてきた地域とされる。19世紀以降、東欧の人類学者のメッカとなった。20世紀末、チョルノーブィリ原子力発電所事故により著しい被害を受けた。


■言語
当地の国家語は言語法により定められたウクライナ語のみである。ただし、統計によれば、ウクライナ語を母語とする国民は5割強である。また、多くの国民はウクライナ語とロシア語の2言語を理解する。

■宗教
現在ウクライナの国民は多くキリスト教徒のアイデンティティを持っているが、大半は特定の宗教団体に属していない。伝統的な宗教は、正教会の一員であるウクライナ正教会である。


<世界遺産>
キエフ/聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物
ウクライナ最初の中央政権国家キエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立された。現代において、11世紀から18世紀までのウクライナ建築史上最も名立たる教会であるとされる。

キエフ/ペチェールスカヤ大修道院
中世から近世にかけてウクライナの宗教・教育・学問に大きな影響を与えつつ、様々な政権と争ってきた修道院である。

リヴィフ歴史地区
ウクライナ文化の中心と言われ、一年を通して様々な文化イベントが行われている。美術館やギャラリーも多く、有名無名の作家の展覧会を年中見ることができる。

シュトルーヴェの測地弧
ドイツ出身のロシアの天文学者、フリードリヒ・ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・シュトルーヴェが中心となって、1816年から1855年に掛けて子午線弧長の測量のために設置された三角点群。

カルパティア山脈のブナ原生林
ヨーロッパに残るブナ林の中でも樹齢、種類の多様さ、木々の大きさ、範囲の広さなどの点で突出した価値を持つ。


ウクライナの歴史
現在のウクライナで人類が現れたのは旧石器時代初期、約30万年前である。原人段階の人類は中東からカフカス山脈とバルカン半島を経て、黒海北岸へ移動したと考えられる。12万年前から旧人(ネアンデルタール人)が登場し、4万年前に新人(クロマニョン人)が出現した。ウクライナで発見された旧石器時代後期の新人遺跡は約800があり、新人の人口は約2万であったと推測される。


オデュッセイア
Odyssea)は、『イーリアス』とともに「詩人ホメーロスの作」として伝承された古代ギリシアの長編叙事詩。『イーリアス』の続編作品にあたり、そのため叙事詩環の一つに数えられることもある。長編叙事詩では、古代ギリシア文学最古期にあたる。イタケーの王である英雄オデュッセウスがトロイア戦争の勝利の後に凱旋する途中に起きた、10年間にもおよぶ漂泊が語られ、オデュッセウスの息子テーレマコスが父を探す探索の旅も展開される。不在中に妃のペーネロペー(ペネロペ)に求婚した男たちに対する報復なども語られる。

エネイーダ
ウェルギリウスの『アエネーイス』をモチーフに現代ウクライナ語の口語で書かれたパロディー叙事詩。6巻から構成する。イヴァン・コトリャレーウシキーの著作。初めて1798年に出版された。全巻の出版は1842年である。原本の『アエネーイス』は、トロイ戦争に惨敗したアエネーイス武将が諸国を遍歴し、ローマの地で自国をローマ帝国として再建するという話であるが、ウクライナの『エネイーダ』はトロイをロシア帝国に亡ぼされたコサック国家に例え、アエネイス武将(ウクライナ語風にエネーイ)とそのコサック軍が異国を放浪し、ついに新たな地でコサック国家を再建して繁栄するという話になっている。



ソ連支配下のウクライナにおいて大部分のウクライナ農民は、1970年代まで国家の社会保障を受けることも出来ないでいた。収穫の大部分は相変わらず国家によって搾取され、スターリンの粛清の恐怖がなくなった今、共産党の幹部たちは自らの特権階級(ノーメンクラトゥーラ)としての地位を不動のものとする。非効率な計画経済、冷戦下における膨大な軍事費・科学技術費は、ウクライナの近代化を進めたとはいえ、人々の生活は一向に改善する気配が無かった。政治の腐敗、経済的矛盾は深刻化していったにもかかわらず、隠蔽されつづけた。だが、1986年4月26日、チェルノブイリ原発事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。


チェルノブイリ原子力発電所事故
1986年4月26日1時23分にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。2010年現在もなお、原発から半径30km以内の地域での居住が禁止されるとともに、原発から北東へ向かって約350kmの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度汚染地域が約100箇所にわたって点在し、ホットスポット内においては農業や畜産業などが全面的に禁止されており、また、その周辺でも制限されている地域がある。

事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、外部電源喪失を想定した非常用発電系統の実験を行っていた。この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。

事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、事故発生から1ヶ月後までに原発から30km以内に居住する約11万6000人全てが移住したとソ連によって発表されている。しかし、生まれた地を離れるのを望まなかった老人などの一部の住民は、移住せずに生活を続けた。

ウクライナ国立科学アカデミー(National Academy of Sciences of Ukraine)のIvan Godlevskyらの調査によると、チェルノブイリ事故前のウクライナにおけるLugyny地区の平均寿命は75歳であったが、事故後、65歳にまで減少しており[29]、特に高齢者の死亡率が高まっていることが分かった[要出典]。これは放射線およびストレスのかかる状況が長期化したことが大きな要因と見られる。1991年に独立した当時のウクライナの人口は約5200万人だったが、2010年には約4500万人にまで減少している。

2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によれば、ロシアの事故処理従事者86万人中5万5000人が既に死亡しており、ウクライナ国内(人口約5000万人)の国内被曝者総数342.7万人の内、作業員は86.9%が病気に罹っている。


■放射性物質の長期的動向
事故の直後においては健康への影響は主に半減期8日の放射性ヨウ素によるものだった。今日では、半減期が約30年のストロンチウム90とセシウム137による土壌汚染が問題になっている。最も高いレベルのセシウム137は土壌の表層にあり、それが植物、昆虫、キノコなどに吸収され、現地の食糧生産に入り込む。最近の試験(1997年頃)によると、この区域内の木の中のセシウム137のレベルは上がり続けている。汚染が地下の帯水層や、湖や池のような閉じた水系に移行しているといういくつかの証拠がある(2001年、Germenchuk)。雨や地下水による流去は無視できるほど小さいことが実証されているため、消滅の主な原因は、セシウム137がバリウム137へ自然崩壊したことによるものと予想されている。


■労働者と解体作業者
事故後に復旧と清掃作業に従事した労働者は高い放射線線量の被曝を受けた。ほとんどの場合、これらの労働者は受けた放射線量を計測するための個人線量計を装着していなかった。それゆえ専門家は彼らの被曝線量を推定するしかなかった。線量計が使われていた場合でも、測定手順はまちまちだった。一部の労働者たちは他の者よりも大量の放射線量を受けたと推定された。ソ連の推定によると、30万から60万人が炉から30kmの退避区域のクリーンアップに従事したのだが、その多くは事故から2年後にその区域に入った。事故から最初の1年で、この区域のクリーンアップ労働者は約21万1,000人と推定される。これら労働者は推定平均線量165ミリシーベルトを受けた。


■避難
ソ連政府は事故から36時間後にチェルノブイリ周辺の区域から住民の避難を開始した。およそ1週間後の1986年5月までに、当該プラントから30km以内に居住する全ての人間(約11万6000人)が移転させられた。その他、当該プラントから半径350km以内でも、放射性物質により高濃度に汚染されたホットスポットと呼ばれる地域においては、農業の無期限での停止措置および住民の移転を推進する措置が取られ、結果として更に数十万人がホットスポット外に移転した。


■癌の症例
国際連合人道問題調整事務所の立ち上げた「The United Nations and Chernobyl」によると、ウクライナでは350万人以上が事故の影響を受けており、その内の150万人が子供であった。癌の症例数は19.5倍に増加し、甲状腺癌で54倍、甲状腺腫は44倍、甲状腺機能低下症は5.7倍、結節は55倍となった
ベラルーシでは放射性降下物の70%が国土の四分の一に降り、50万人の子供を含む220万人が放射性降下物の影響を受けた。ベラルーシ政府は15歳未満の子供の甲状腺癌の発生率が2001年には1990年の2000例から8,000-10,000例に急激に上昇したと推定している。
ロシアでは270万人が事故の影響を受け、1985年から2000年に汚染地域のカルーガで行われた検診では癌の症例が著しく増加しており、それぞれ、乳癌が121%、肺癌が58%、食道癌が112%、子宮癌が88%、リンパ腺と造血組織で59%の増加を示した。ベラルーシとウクライナの汚染地域でも乳癌の増加は報告されている。


エミール・ギレリス
1916年10月19日(ユリウス暦では10月6日) - 1985年10月14日)は、ソビエト連邦・ロシアのピアニスト。20世紀を代表する世界的奏者の一人である。西側で自由に活動することをソ連政府から許された最初の芸術家だった。ロシアの自宅では、アップライトピアノで練習していたといわれている。ウクライナ・オデッサのユダヤ人の家庭に生まれる。両親は共に音楽家。6歳でピアノを始める。1929年に13歳でデビュー。1930年にオデッサ音楽院へ入学、ベルタ・レイングバルドから薫陶を受ける。

ワシリー・カンディンスキー
1866年12月4日(ユリウス暦)/12月16日(グレゴリオ暦) - 1944年12月13日)は、ロシア出身の画家であり、美術理論家であった。一般に、抽象絵画の創始者とされる。彼はモスクワに生まれ子供時代をオデッサで過ごした。1886年から1892年まで、モスクワ大学で法律と政治経済を学ぶ。1922年からはバウハウスで教官を務め、1933年にナチス・ドイツによってバウハウス自体が閉鎖されるまで勤務した。1941年にフランスがナチスによって占領されたのにも関わらず、彼はアメリカへの移住を拒否し続け、パリ郊外に位置するヌイイ=シュル=セーヌでその生涯を閉じた。

ヴラディーミル・ド・パハマン
1848年7月27日 - 1933年1月6日は、ウクライナのオデッサに生まれ、アメリカやヨーロッパで活躍したピアニストである。オデッサのユダヤ人の家庭に生まれた。地元の音楽教育の水準に飽き足らずウィーンに移住。カール・タウジヒの弟子ヨーゼフ・ダックスにピアノを師事し、アントン・ブルックナーに音楽理論を学んだ。1869年にオデッサでピアニストとしてデビューしたものの、タウジヒの演奏を聴いて魂を震撼され、自らの芸術を磨くために一時引退。イタリアで隠遁生活を送った。1882年にピアニストとして復帰。ブダペストで演奏会を開いたときは、聴衆の一人フランツ・リストが休憩時間に脱帽し、一同に向かって「ショパンの弾き方はこんなふうでした」と語りかけたという伝説がある。

ナタン・ミルシテイン
1903年12月31日、オデッサ - 1992年12月21日、ロンドンはウクライナ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。英語読みではネイサン・ミルスタイン(Nathan Milstein)。1942年にアメリカ合衆国の市民権を取得。89歳の誕生日を目前にイギリスで没した。母親の奨めでヴァイオリンを学び始め、11歳のときレオポルト・アウアーの招きでペテルブルク音楽院に入学、アウアーのロシア時代の最後の弟子の一人となる。ロシア革命により1917年にアウアーがノルウェーに脱出してしまうと、キエフに戻り、ウラジミール・ホロヴィッツと知り合い、意気投合し、しばしば共演するようになり、1925年には西ヨーロッパでの演奏旅行も一緒に行なった。

ミッシャ・エルマン
1891年1月20日:タリノエ - 1967年4月5日:ニューヨークはウクライナ出身のヴァイオリニスト。情熱的な演奏スタイルと美音で有名であった。キエフ地方の寒村タリノエ(あるいはタルノイエ)に生まれる。祖父はクレツマーすなわちユダヤ教徒の音楽のフィドル奏者だった。幼少期に絶対音感が認められたが、当時の音楽家の社会的地位の低さから、父親は職業音楽家としての行く末を案じていた。ついに父親が折れて小型ヴァイオリンが与えられると、習い覚えた旋律を弾くようになった。その後オデッサの官立音楽学校に入学。アレクザンダー・フリードマンに学んだ後、サラサーテの推薦状を得て、ペテルブルク音楽院の入学審査を受けた際、パガニーニの≪奇想曲 第24番≫とヴィニャフスキの協奏曲を演奏し、レオポルト・アウアーに強い印象を残して入学資格を得た。

スヴャトスラフ・リヒテル
1915年3月20日 - 1997年8月1日はソビエト連邦のピアニストである。ドイツ人を父にウクライナで生まれ、主にロシアで活躍した(ただし在留ドイツ人として扱われた)。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された。1915年3月20日、ウクライナのジトームィルでピアニストの両親のもとに生まれた。幼い頃に一家はオデッサに移住した。父親は同地の音楽学校で教師を務め、息子にも音楽の手ほどきをしたが音楽家にしようという気はなかった。しかしリヒテルは独学でピアノを始め、1931年に15歳にしてオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用された。1934年、19歳の時にショパンのみのプログラムによる初リサイタルを開き、成功を収めた。リヒテルは少年時代には文学や演劇に熱中するなど、音楽以外の芸術にも秀でていた。特に絵画の腕前は素人離れしており、その作品は自身のレコードのジャケットにしばしば使用された。1944年の末には指を痛めて一時ピアノを弾けなくなった時期があり、その際には画家への転身を本気で考えたという。

ユーラ・ゾイファー
Jura Soyfer, 1912年12月8日ウクライナ・ハルキウ(ハリコフ) - 1939年2月15日 ブーヘンヴァルト強制収容所)はウクライナ出身のユダヤ系オーストリア人の政治ジャーナリストで、政治的作家でもあり、詩人・カバレッティストである。

アナトリー・フォメンコ
Anatoly Timofeevich Fomenko、1945年3月13日 - はロシアの数学者、モスクワ大学教授、ロシア科学アカデミーの正会員。トポロジーの研究で知られる。また歴史書の編纂にも協力している。ウクライナ・ドネツィク生まれ。フォメンコは、十二宮の統計的相関関係に基づいた独自の「新歴史学(New Chronology)」を創始した。彼は、これまで信じられてきた年代とは数学的に合わない多くの歴史的事件を発見したと主張している。彼は、古代ギリシア、古代ローマ、古代エジプトを含む古代史全てが、中世に起こった事件の反映に過ぎず、また中国やアラブの歴史全てが、17世紀から18世紀にかけてのイエズス会によるでっち上げだったと主張している。

ドミトリー・ボルトニャンスキー
1751年10月28日 - 1825年10月10日はロシア帝国で活躍したウクライナ人の作曲家。ウクライナ・ロシアのクラシック音楽の開祖。ボルトニャンスキーの歴史的重要性は、40曲以上にのぼる合唱聖歌コンチェルトの作曲家としてである。ボルトニャンスキーの奉神礼音楽は1882年になってチャイコフスキーにより校訂され、10巻の曲集として出版された。

イヴァン・マゼーパ
1639年3月20日 - 1709年9月21日は、ウクライナの政治家・軍人。コサック国家のヘーチマン(1687年 - 1709年)、神聖ローマ帝国の公爵(1707年 - 1709年)。キエフ地方のウクライナ系貴族出身。ウクライナ・コサックの棟梁になって以後、コサック国家の復興を目指して領土拡大に成功し、ウクライナの文化、とりわけ正教会の発展に大きく貢献した。

ボフダン・フメリニツキー
1595年 - 1657年8月6日は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族で、ウクライナ・コサックの指導者である。キエフ・ルーシ崩壊後のウクライナ史上最大の英雄とされるが[2]、一方で19世紀ウクライナの詩人タラス・シェフチェンコは「ウクライナをロシアに売った」として非難した。

タラス・シェフチェンコ
1814年3月9日 - 1861年3月10日 はウクライナの詩人、画家である。ウクライナ語名はタラス・シェウチェンコ。近代ウクライナ語文学の始祖と評価されている。ウクライナの農奴の解放に力を尽くした。1847年4月5日に同結社に手入れが入った際に、シェフチェンコが書いた皇帝ニコライ1世とその妻アレクサンドラを批判する詩が見つかり逮捕された。画家としての才能も優れていて有名である。ウクライナ国内では人気が高く、首都キエフには彼の名を冠したタラス・シェフチェンコ記念キエフ国立大学がある。

レオ・シロタ
(Leo Sirota, 1885年5月4日 キエフ - 1965年2月25日)は、ウクライナ出身のユダヤ系ピアニスト。5歳でピアノを始め、9歳までに演奏活動を行なってイグナツィ・ヤン・パデレフスキの注目を浴び、自分の門人になるようにと招かれた。しかしながら両親が、息子は幼すぎるためにそれに相応しくないと判断したため、当初はキエフ音楽院に、その後はペテルブルク音楽院に学んだ。

ナタン・ラフリン
Natan Grigoryevich Rakhlin, *1905年12月28日 チェルニーヒウ近郊スノフスク - 1979年6月28日 カザン)は、ウクライナ出身のソビエト連邦の指揮者。19世紀のロマン主義音楽を得意とし、ベルリオーズの《幻想交響曲》とリストの交響詩やチャイコフスキーの管弦楽曲など、なかんずく標題音楽の解釈に長けていた。

ボリス・リャトシンスキー
Boris Lyatoshynsky, 1895年1月3日 ジトームィル - 1968年4月15日 はウクライナの作曲家・指揮者・音楽教師。20世紀のウクライナ音楽界の基礎を築いた。初期にはスクリャービンの影響を受け、拡張された調性によるピアノ曲や室内楽曲を書いていたが、成熟期にスターリンの治世を迎えると、国民楽派の伝統に結びついた愛国的な交響楽を作曲するようになった。

アンドレイ・コルモゴロフ
1903年4月25日 - 1987年10月20日はロシアの数学者であり、確率論および位相幾何学の大きな発展に寄与した。彼以前の確率論はラプラスによる「確率の解析的理論」に基づく古典的確率論が中心であったが、彼が「測度論に基づく確率論」「確率論の基礎概念(1933年)」で公理主義的確率論を立脚させ、現代確率論の始まりとなった。1903年、ロシア帝国のタンボフで生まれた。母親は出産とともに死亡しており、ヤロスラブリの近くにある裕福な貴族である祖父の故郷でおばに育てられた。彼の父親の本業は農学者であるが、革命運動への参加のためにサンクトペテルブルクから強制送還され、失望の後、ロシアの内戦で自殺している。

ヴラジーミル・マラーホフ
1968年1月7日 - は、ウクライナ出身の男性バレエダンサー。2004年よりベルリン国立バレエ団の芸術監督。1999年から振付家としても活動している。ソ連時代のウクライナはドニプロペトロウシク州クルィヴィーイ・リーフに生まれる。4歳でバレエを始め、10歳のときモスクワのボリショイ・バレエ学校に入学。卒業後の1986年にモスクワ・クラシック・バレエ団に入団し、最も若いプリンシパルとなる。同年にはヴァルナ国際バレエコンクール金賞、1989年モスクワ国際バレエコンクール金メダル受賞。

コサック・ママーイ
ウクライナの伝統美術におけるコサックの理想像である。ウクライナの守り神、ウクライナ人のシンボルとされる。コサック・ママーイの絵画は、18世紀から20世紀にかけてウクライナの民家においてイコンと同様に扱われ、神聖視された。コサック・ママーイという人物の由来は不明である。彼は架空の人物であり、17世紀以後に作成されたウクライナ・コサックの総合像であるとする説と、14世紀にウクライナの一部を支配していたモンゴル帝国の万戸、ママイという実在人物であると主張する説がある。

アンドレイ・クルコフ
1961年4月23日 - は、ウクライナの小説家。ロシア語で執筆活動を行っている。ソビエト連邦のレニングラード(現:サンクトペテルブルク)生まれ。3歳のときにウクライナのキエフに移住。キエフ外国語大学卒業。『ペンギンの憂鬱』(新潮社〈新潮クレスト・ブックス〉, 2004年)

レーシャ・ウクライーンカ
1871年2月25日‐1913年8月1日は、ウクライナの女性作家、詩人、翻訳者、文学評論家。1871年2月25日にロシア帝国ヴォルィーニ県ノヴォフラード=ヴォルィーンシキー町で生まれた。青年時代は西ウクライナのヴォルィーニ地方で過ごした。幼い頃から病弱で、ポット病を患っていた。学校や大学などへ行けなかったが、人文科学を中心とした家庭教育を受けた。治療のためにしばしば南方のクリミア、グルジア、イタリア、エジプトなどを訪れた。ギリシア語、ラテン語、英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語、ベラルーシ語、ポーランド語、ロシア語など幾つかの外国語を完璧に使いこなし、ハインリヒ・ハイネ、ヴィクトル・ユーゴー、ジョージ・ゴードン・バイロン、アダム・ミツキェヴィチ、ホメーロスなどの作品のウクライナ語訳を完成させた。

ヤン・ウカシェヴィチ
(Jan Lukasiewicz, 1878年12月21日 - 1956年2月13日)はポーランドの論理学者、哲学者。ルヴフ(現ウクライナのリヴィウ)に生まれ、ルヴフ大学にてカジミェシュ・トヴァルドフスキの薫陶を受ける。1911年にルヴフ大学員外教授に就任。1915年にはワルシャワ大学に移り、1920年から1939年にかけて教授職を務めた。また、1919年には文部大臣に就任している。ワルシャワではスタニスワフ・レシニェフスキらとともに、いわゆる「ルヴフ=ワルシャワ学派」の中心的存在として活躍した。

ボグスワフ・シェッフェル
(Boguslaw Schaffer/Schaeffer, 1929年6月6日 - )は、ポーランドの作曲家、演奏家、劇作家、画家、音楽学者。彼より年長のポーランドの作曲家シュテファン・キジエレフスキから「ポーランドの現代音楽の父」と称えられた。1929年に、ポーランド領であったルヴフ(現ウクライナ・リヴィウ)で生まれる。アルトゥール・マラフスキに作曲を師事、ズチツワフ・ヤヒメッキに音楽学を師事。後年にはルイージ・ノーノにも短期間師事している。17歳から作曲を始め、ヴィトルト・ルトスワフスキ、クシシュトフ・ペンデレツキ、グループ49と並ぶポーランド楽派の中心人物とされる。

アレクサンドラ・マリーニナ
1957年7月16日 - は、ロシアの推理作家。ウクライナ・リヴォフ(リヴィウ)で生まれ、サンクトペテルブルクで育つ。モスクワ大学法学部卒業後、ソ連内務省アカデミーで犯罪心理学などの研究に従事。1993年、デビュー。モスクワ市警の女性捜査官アナスタシナ・カメンスカヤを主人公とするシリーズはベストセラーとなり、1998年のモスクワ国際ブックフェアでライター・オブ・ザ・イヤーに輝いた。2004年現在、25冊が刊行。フランスをはじめヨーロッパ各国語にも翻訳されている。

リヒャルト・フォン・ミーゼス
(Richard von Mises, 1883年4月19日 - 1953年7月14日)は、オーストリア・ハンガリー帝国出身の科学者であり、流体力学、空気力学、航空工学、静力学および確率論についての業績を残した。元オーストリア・ハンガリー帝国領であった現在のウクライナのリヴィウに生まれた。兄は著名な経済学者のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスである。現ウィーン工科大学で学び、1907年に博士号を得た。第一次世界大戦中はオーストリア軍の操縦士および航空機設計者であった。

モーリツ・ローゼンタール
(Moriz Rosenthal, 1862年12月18日 - 1946年9月3日)はポーランド出身のアメリカ合衆国のピアニスト。ユダヤ人。洗練された演奏技巧によって尊敬を集めた。レンベルク(現リヴィウ)出身。父親は地元の大学の教授だった。8歳のときにガロートについてピアノを始めるが、ガロートは技術的な能力に気配りせず、生徒がいたって気ままに初見演奏や移調を行なって楽しむのに任せていた。1872年に、ショパンの校訂者カール・ミクリに入門し、より学究的な方向で訓練を受けた。

パウロー・スコロパードシクィイ
1873年5月16日‐1945年4月28日)は、ウクライナの政治家、ロシア帝国の軍人である。ウクライナ・コサックの氏族、スコロパードシクィイ家の当主。日露戦争、第一次世界大戦に従軍した。ウクライナ国家のヘーチマン(1918年)を務めた。パウロー・スコロパードシクィイは、1873年5月16日にドイツ帝国のヴィースバーデンに生まれた。彼の先祖は、ロシア帝国に対し反旗を翻したヘーチマーン、イヴァーン・マゼーパの次に左岸ウクライナのヘーチマーンに任ぜられたイヴァーン・スコロパードシクィイの弟だった。

アンドレイ・カンチェルスキス
(Andrei Antanasovich Kanchelskis, 1969年2月23日 - )は旧ソビエト連邦(現ウクライナ)・キロヴォフラード出身の元サッカー選手。元ロシア代表。ポジションはMF、ウインガー。1991年5月にイングランド、プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドと契約。1990-1991シーズン終盤のクリスタル・パレス戦において、プレミアデビューを果たす。 マンチェスター・ユナイテッドでは主に右ウィングとして活躍。独自の低い姿勢から繰り出す高速ドリブルに鋭いフェイントを駆使し、精度の高いセンタリングで数々のチャンスを生み出した。

セルヒー・ジャダン
1974年8月23日 - )は、ウクライナの現代作家、詩人、翻訳家。ウクライナ作家協会副会長。ルハンスク州スラロビリスク生まれ。現在、ハリコフ在住。ハリコフ教育大学で、ウクライナ文学及び世界文学を教えている。翻訳家として、ドイツ語、ベラルーシ語、ロシア語の文学作品をウクライナ語へ翻訳している。

イレーナ・カルパ
1980年12月8日 - )は、現代ウクライナ作家、歌手、ジャーナリスト。1980年12月8日にチェルカースィ市に生まれ、小さい時に、西ウクライナのヤレームチャ市に移住。

ナターシャ・グジー
(Nataliya Gudziy;1980年2月4日 - )は、ウクライナ出身で日本で活動している歌手、バンドゥーラ演奏家(バンドゥリースト)である。ウクライナのドニエプロペトロフスク州(現ドニプロペトロウシク州)の村に生まれ、チェルノブイリ原子力発電所から3.5kmのプリピャチに転居した。1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所爆発事故によって被曝、その後、避難生活で各地を転々とし、キエフ市に移住する。

ウクライナ Ukraine
東ヨーロッパの国。東にロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦を赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連崩壊に伴い独立した。

紀元前10世紀頃より現在のウクライナの地にはさまざまな遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族のスキタイ人は、紀元前6世紀頃キンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸にはギリシャの植民都市が建設され、地中海やメソポタミア方面との交易を通じてペルシャ、ギリシャ、ローマの文化的影響を受けた。

キエフ
ウクライナの首都。ドニプロ川の中流に位置する。同国最大の都市で、政治・経済・社会・学術・交通の中心地である。特別自治都市。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展した。中世にはキエフ・ルーシの都であったが、近世にはコサックのキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国、とウクライナ社会主義共和国の首都であり続けた。キエフ市内の人口は凡そ279万人であるが、キエフ首都圏の人口は凡そ400万人となっている。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つである。


キエフ・ジュリャーヌィ国際空港
Zhulyany International Airportは、ウクライナの首都キエフ市内のジュリャーヌィ地区にある国際空港である。キエフ国際空港とも呼ばれる。敷地面積は265 km2。

オデッサ国際空港
Odessa International Airportは、南部ウクライナの都市オデッサにある国際空港である。

イヴァーノ=フランキーウシク国際空港
西ウクライナの都市イヴァーノ=フランキーウシクにある国際空港である。

ドニプロペトロウシク国際空港
中部ウクライナの都市ドニプロペトロウシク南東15 kmの地点にある国際空港である。

ボルィースピリ国際空港
Boryspil International Airportは、ウクライナの首都キエフ市の東28 km、キエフ州ボリースピリに位置する国際空港である。ウクライナ国内での最大の国際空港である。

リヴィウ国際空港
Lviv International Airportは、西ウクライナの都市リヴィウにある国際空港である。


外務省:ウクライナ
在ウクライナ日本国大使館
在日ウクライナ大使館


キエフ大学
ウクライナの国立大学である。1834年に創設された14学部の大学で、キャンパスはウクライナの首都キエフに所在する。1939年には、キエフ大学はウクライナで最も偉大とされる芸術家・詩人 タラス・シェフチェンコの名を冠した。1991年のウクライナの独立後は、同国を代表する高等教育機関としての役割を担っている。

キエフ・モヒーラ・アカデミー国立大学
National University of Kyiv-Mohyla Academy (NaUKMA))は、ウクライナの国立大学の一つ。キエフのポディル区に位置する。大学の前身は、1632年にペトロー・モヒーラ府主教によって創立された東欧最古の大学校「キエフ・モヒーラ・アカデミー」である。

リヴィウ大学
Ivan Franko National University of L'vivは、ウクライナの都市リヴィウにある大学である。リヴィウ大学は1661年、ポーランド王のヤン2世がそれまであったイエズス会系のギムナジウムを大学としたのが始まり。

東ウクライナ国立大学
ウクライナのルハンシク州の州都ルハンシク(Lugansk)にある国立大学である。英語名はEast Ukrainian National University。1920年に創立されたウクライナの国立大学である。現在、およそ3万人の学生が在籍する。20の学部で113の専門教育を提供している。現在71カ国で活躍している12万人の専門家を育ててきた。

キエフ音楽院
1913年に、ロシア音楽協会の音楽学校として設立。設立にあたってはセルゲイ・ラフマニノフやアレクサンドル・グラズノフ、ピョートル・チャイコフスキーなどが指揮をとった。設立の年には V. Pukhalsky が学長を務めた。

グリエール音楽大学
(Rheingold M. Gliere Music College)は、19世紀後半に創設されたキエフ最古のウクライナの音楽大学。キエフ出身の作曲家レインゴリト・グリエールの名を冠している。20世紀初頭に、グリエール音楽大学とキエフ音楽院(現在のキエフ音楽アカデミー)に分割された。1世紀以上にわたる歴史において、ヴラジーミル・ホロヴィッツのような有名な音楽家を輩出している。

ウクライナ国立学士院
National Academy of Sciences of Ukraineは、ウクライナの官公庁の一つ。ウクライナにおける最高の学術研究機関である。本部はキエフ。1918年11月27日にウクライナ国においてウラジミール・ベルナドスキーによって「ウクライナ学士院」として創建された。


ベルジャーンシク
ウクライナ南東部のザポリージャ州の港湾都市。アゾフ海の北海岸に位置している。リゾート地でもあり、泥を使った健康療法で知られる。町の名は、市の近くを流れアゾフ海に注ぎベルジャーンシク岬を形成するベールダ川に由来する。この地区には古くから人が居住し、現在の町の建設までこの地方はアーグリヤ、ディーケ・ポーレ、ベールドィなどと呼ばれていた。

プリピャチ
ウクライナの北部にある市である。1986年に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故によって住民が避難したため現在は無人となっている。市名は近くを流れるプリピャチ川に由来する。ベラルーシとの国境近くにあり、近隣にはチェルノブイリがあるが、プリピャチの方が原子力発電所に近い位置にある。ソビエト連邦時代の1970年にチェルノブイリ原子力発電所の従業員用の居住地として創建され、同発電所が市中心部の4キロ南に位置する。当時は地図上にない閉鎖都市として存在していた。事故直前の人口は約49,400人であった。エレベーター完備の高層マンションなどの近代的な建物・病院・カルチャーセンター・公園など様々な施設が建てられ、緑豊かな街だった。プリピャチは非常に近づきやすく、また道路上は比較的安全である。しかしプリピャチとその周辺は生活するには危険であり、放射性物質が安全なレベルまで十分に減少するまで約900年かかると概算している。


ドネツィク
ドネツィク州の州庁所在地である。ウクライナ最大級の工業都市。ドネツ炭田(ドンバス)の炭鉱街の一つ。炭鉱で潤い、ウクライナの中でもっとも所得の高い地域にあげられている。

ハルキウ
ウクライナ北東部の都市である。ハルキウ州の州都。日本ではハリコフの名でも知られる。人口は約145万人。人口ではキエフに次いでウクライナで2番目に大きな都市である。ウクライナの工業の中心で、ソビエト連邦においても、モスクワ、レニングラードに次ぐ第3の工業都市であった。

オデッサ
ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市である。オデッサ州の州庁所在地であり、横浜市と姉妹都市提携を結んでいる。人口は約99.3万人(2006年)。重要な貿易港を持ち、またこれまでの歴史上様々な国の支配を受けてきたため、非常に国際色豊かな都市となっている。

ルーツィク
ウクライナのヴォルィーニ州ルーツィク地区にある都市。ヴォルィーニ州の州庁所在地である。スティール川の河岸に位置する。弓の町」か「ルーカの町」を意味していると言われる。「弓」(ウクライナ語:ルーク)は、市内の北西の境を決めるスティール川の湾曲線のことである。「ルーカ」は、古代における現地の東スラヴ族の一つ、ドゥリーブィ族の頭領の名である。

リウネ
リウネは、ヴォルィーニ地方の最大の都市の一つとされる。当市はリウネ州の南部に位置し、ウスチャ川の河岸に置かれている。北西ウクライナに位置する都市で、リウネ州の州庁所在地である。

チェルニーヒウ
ウクライナの北部、チェルニーヒウ州の西に位置する都市で、同州の州庁所在地である。キエフ・ルーシ時代とヘーチマン国家の多数の文化財を保有している。デスナ川が流れている。

ジトームィル
ウクライナ西部・ヴォルィーニ地方に位置する都市である。英語表記はZhytomyr。ジトームィル州の州庁所在地。

イヴァーノ=フランキーウシク
イヴァーノ=フランキーウシクは、西ウクライナに位置する都市で、歴史上では、スタニラーヴィウまたはスタニスラーウとも呼ばれた。1662年から1939年までイヴァーノ=フランキーウシクは、スタニラーヴィウと呼ばれていたが、1939年にソ連によってスタニスラーウに改名された。さらに、1962年11月9日にウクライナ作家イヴァン・フランコーにちなんでイヴァーノ=フランキーウシクと名づけられた。愛称は「小リヴィウ」。

ザポリージャ
南ウクライナに位置する都市で、ザポリージャ州の州庁所在地である。ザポリージャは、ザポリージャ州の西北、ドニプロ川の下流に位置している。ザポリージャは、ドニプロ川によって右岸(西)と左岸(東)に区分される。前者はにドニプロ高地、後者はドニプロ低地を占めている。

リヴィウ
ウクライナ西部の都市である。リヴィウ州の州庁所在地。リヴィウは、西ウクライナ・ハルィチナーの中心都市である。人口は約83万人。ポーランドとの国境から70km。すでに5世紀にはこの地に人が住んでいたようである。大モラヴィア国(9世紀-10世紀)が滅んだ後は、ポーランド公国とキエフ・ルーシの角逐の場となった。

ハールィチ
ウクライナのイヴァーノ=フランキーウシク州ハールィチ地区にある都市。ドニステル川の河岸に位置する。面積は24.67 km2。人口は6,307人 (2011年8月1日)、人口密度は255.7 人 / km2。

キロヴォフラード
ウクライナのキロヴォフラード州の州庁所在地である。2004年の人口は239,400人。1991年にウクライナが独立すると、ロシア語を公用語から排除した同国の方針に従い正式な表記はウクライナ語に改められ、キロヴォフラードとなった。

ウージュホロド
Ujgorod)は、ウクライナ西部の都市。ザカルパッチャ州の州庁所在地。スロバキア国境とハンガリー国境に近い。903年、族長アールパードに率いられたマジャル人がフングヴァルの要塞へなだれ込んだ。勢力は均衡ではなく、ラボレツ公は敗退し、川岸で斬首された。この川は今も彼の名にちなんで呼ばれる。

チェルカースィ
ウクライナの首都キエフから南に約180 kmの距離に位置する、ドニプロー川(ドニエプル川)沿いの都市である。人口は2005年の統計で29万3300 人であった。

ムィコラーイウ
南ブーフ川とインフール川の合流地点、黒海から約80 kmの地点に位置している。2007年の人口は約50万7000人で、南ウクライナ有数の大都市となっている。ムィコラーイウは多民族都市であった。19世紀最初の10年間にすでに住民の31 %をドイツ人、ユダヤ人とギリシャ人が8 %ずつ、ブルガリア人が7 %を占めていた。


ウクライナ中央ラーダ
ウクライナ人民共和国の政治中枢機関である。1980年代よりウクライナの独立運動の再評価が行われるようになり、中央ラーダの人物も復権の兆しを見るようになった。現在のウクライナは、国旗、国歌、国章ともに1918年に中央ラーダで定められたものを採用している。また、フルィーヴニャ紙幣にはボフダン・フメリニツキーのようなウクライナ史上の大人物の肖像画に並び、フルシェフスキイら中央ラーダの人物の肖像も採用されている。


オレンジ革命
Orange Revolutionは、2004年ウクライナ大統領選挙の結果に対しての抗議運動と、それに関する政治運動などの一連の事件である。選挙結果に対して抗議運動を行った野党支持者がオレンジをシンボルカラーとして、リボン、「ユシチェンコにイエス!(Так! Ющенко!)」と書かれた旗、マフラーなどオレンジ色の物を使用したことからオレンジ革命と呼ばれる。


■政治
ウクライナの政体は、司法・立法・行政の三権が分立する議会制民主主義(共和制)であり、大統領制と議院内閣制をミックスした半大統領制を採用している。ウクライナの国会は、最高議会であり、一院制で450議席。全議席は全国区の比例代表制によって選出されるが、政党もしくは選挙ブロックは全投票の3%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。

■経済
ソビエト連邦時代は、連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどをロシアに依存しており、経済の構造改革の遅れと相まって、他国の影響を受けやすいものになっている。


ロシア・ウクライナガス紛争
ソ連崩壊後、ロシアとウクライナ両国間で継続して生じている一連の天然ガスの供給・料金設定をめぐる争いのことである。両国とも当事者は政府ではなく、ガス供給事業者であるガスプロム社とナフトハス・ウクライナ社であるが、両社とも国営企業であり、二国間での争いと見ることもできる。


■国名
ライナ」の語源については、「国」といった意味であるという説と、「辺境」といった意味であるという説がある。者は「内地」を意味する中世ルーシ語の「ウクライナ」「ヴクライナ」という単語に基づいており、後者は「僻地」を意味する近世のポーランド語の「オクライナ」やロシア語の「オクライナ」いう単語に基づいている。


1.面積:60万3,700平方キロメートル(日本の約1.6倍)
2.人口:4,600万人(2009年 世銀)
3.首都:キエフ
4.民族:ウクライナ人(77.8%)、ロシア人(17.3%)、ベラルーシ人(0.6%)、モルドバ人、クリミア・タタール等(2001年国勢調査)
5.言語:ウクライナ語(国語)、その他ロシア語等
6.宗教:ウクライナ正教及びウクライナ・カトリック教。その他、イスラム教、ユダヤ教等。

8世紀 キエフ・ルーシの成立
1240年 モンゴル軍キエフ攻略
1340年 ポーランドの東ガリツィア地方占領
1362年 リトアニアのキエフ占領
1648年 フメリニツキーの蜂起(ポーランドからの独立戦争)
1654年 ペレヤスラフ協定
1764年 ポルタヴァの戦い(ロシアからの独立戦争)
1853年 クリミア戦争
1914年 第一次世界大戦
1917年 ロシア革命、ウクライナ中央ラーダ政権成立
1922年 ソビエト社会主義共和国連邦成立
1932年 大飢饉
1939年 第二次世界大戦
1941年 独ソ戦開始、独によるウクライナ占領
1954年 クリミアをウクライナに編入
1986年 チェルノブイリ原発事故
1991年 ソ連邦崩壊、CIS創設、ウクライナ独立
1996年 憲法制定、通貨フリヴニャ導入
2004年 オレンジ革命

■主要産業(産業別構造比)鉱工業(30.0%)、農林水産業(7.4%)、建設業(4.0%)、サービス業(58.6%)(2008年:CIS統計委員会)
■主要貿易品目(1)輸出 非金属・製品、植物製品、機械・設備(2)輸入 鉱物製品、機械・設備、化学品


フリヴニャ
ウクライナの通貨単位。国際通貨コード(ISO 4217)は「UAH」。。補助単位はコピーイカであり、1フリヴニャ=100コピーイカである。フリヴニャは11世紀にキエフ大公国で通貨として使われていた。これは、ルーシ全体の通貨であったとされる。フリヴニャはスラヴ語のgrivaから派生している。現在ではフリヴニャは馬のたてがみという意味であるが、もとはサンスクリットに由来する言葉で「首」という意味であった。


ホロドモール
Holodomor, Famine Genocide)は1932年から1933年にかけてソビエト連邦のウクライナ社会主義ソビエト共和国をはじめ、カザフスタン共和国および現ロシア連邦のクバーニ、ヴォルガ川沿岸地域、南ウラル、北シベリアなど、ウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉である。ウクライナ人たちは強制移住により、家畜や農地を奪われたために400万人から1,450万人が死亡した。また、600万人以上の出生が抑制された。この大飢饉が当時のソ連の共産党による計画的な飢餓ではないかとする議論が長年続いていた。2006年にウクライナ議会は、「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定した。

 


<独立時代>
■ソ連崩壊
1991年、ソ連崩壊に伴って新たな独立国家・ウクライナとなり、独立国家共同体(ウクライナ語 СНД ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ民族共和国の中枢機関であったウクライナ中央ラーダの正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「トルィズーブ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。

■2004年
大統領選挙の混乱からオレンジ革命が起き、第三回投票で勝利したユシチェンコが2005年1月、大統領に就任した。

■2006年
ウクライナ最高議会選においてユシチェンコ大統領派の与党「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けてティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」およびウクライナ社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。

■2010年
大統領選挙にてヤヌコーヴィチとティモシェンコが激突。決選投票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナは再び親露派に率いられることとなった。


ウクライナ共産党
ウクライナの共産主義の政党。1918年にロシア共産党の一派として創立。その後、ソビエト連邦共産党の一部となる。ソ連時代中、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の政権を独占していた。1991年にウクライナが独立を勝ち取ると、禁じられた。1993年、ドネツクで行われたウクライナ共産党大会において再び創立。

全ウクライナ連合「祖国」
ウクライナの自由主義の政党。1999年に創立。総裁はユーリヤ・ティモシェンコ。親欧米派の路線をとっている。ユーリヤ・ティモシェンコ・ブロックの中枢。2002年から2007年までの最高会議選挙には、政党連合ユーリヤ・ティモシェンコ選挙ブロックの一員として参加した。

UDAR
ウクライナの政党。正式名称は改革を目指すウクライナ民主連合。別名は、ビタリ・クリチコ のUDAR党。党首は、ウクライナを代表するプロボクサーであるビタリ・クリチコ。汚職撲滅を訴えているが、明確な政治的思想を有していない。

全ウクライナ連合「自由」
ウクライナの民族主義の政党である。1995年に創立。旧名はウクライナ社会民族党で、2004年に現在の党名に改名した。総裁はオレーフ・チャフニボーク。
ウクライナの西部・北部・中部およびキエフを中心に支持率を得ている。また、ウクライナ人のディアスポラからの支持率が高い。

ウクライナ独立通信社
Ukrainian Independent Information Agencyは、ウクライナの最大の民営通信社。略称はウニアン(УНІАН, UNIAN)。1993年3月に設立された。本社所在地はキエフにある。ウクライナの政治・経済・社会・文化などについてのニュースおよび写真を提供する。すべての情報はウクライナ語、英語、ロシア語で公開される。


オケアン・エリズィ
ウクライナを代表するロックバンドである。ウクライナや周辺国では有名であるが、日本ではほとんど知られていない。バンドは1994年にリヴィウで結成され、当時のメンバーはスヴャトスラウ・ヴァカルチュク(ヴォーカル)、パウロ・フディモウ(ギター)、ユーリー・クストーチカ(ベース)、デヌィス・フリニン(ドラム)の4人であった。ちなみに、ヴォーカリストのヴァカルチュクはリヴィウ大学の物理学部出身である。


ホパーク
ウクライナ・コサックの踊りに由来するウクライナの伝統舞踊の一つである。身軽な動きと複雑な跳躍を含み、早いテンポで演技される。コサックダンスとも。ロシアの舞踊と誤認されることも多いが、ウクライナの代表的な伝統文化である。ホパークは16世紀初頭にウクライナ・コサックの興隆とともに出現したウクライナの舞踊である。その原型は13世紀半ばに古ウクライナ国家たるキエフ大公国を滅ぼしたモンゴル人によって持ち込まれた東洋武術だった。


バンドゥーラ
ウクライナ民族楽器。弦鳴楽器 の一つ。ハープ属に分類される。西洋のリュートと東洋の琴を合わせたもの。50から60までの弦が半音階で5オクターブに渡って調律されている。15世紀に成立した。演奏は、コサックの時代以降に盛んになった。


ウクライナ料理
ウクライナ料理はウクライナ人の伝統的な食文化を代表する東欧料理の一つである。ボルシチやヴァレーヌィクなど世界的にも有名な料理があり、ポーランド・リトアニア・ルーマニア・ロシア・ユダヤなどの食文化にも大きな影響を与えた。


怪物屋敷
1901年から1902年の間に高級マンションとして「キエフのガウディ」と呼ばれたポーランド人の建築家レシェク・ホロデツキによって建てられた。邸宅の名称は、動物と怪物をモチフにイタリア人の彫刻家エリオ・サリャがつくった装飾にちなんでいる。ホロデツキ邸宅ともよばれる。



タラス・シェフチェンコ
タラス・フルィホローヴィチ・シェフチェンコはウクライナの詩人、画家である。近代ウクライナ語文学の始祖と評価されている。農奴制に反対し、秘密結社「聖キリルと聖メソジウス団に関わって(ただし正式なメンバーではなかったと見られている)、ウクライナの農奴の解放に力を尽くした。


イヴァン・フランコー
ウクライナ人の鍛冶屋の家で生まれた。1875年にリヴィウ大学哲学学部に入学したが、学生が行った社会主義の普及活動に携わったことにより、何度も警察に逮捕され、1880年に退学させられた。1891年にチェルニウツィー大学に入学し、中世ウクライナの思想家イヴァン・ヴィーシェンシクィイについて博士論文を書き、ウィーン大学で文学博士号を獲得した。

ウラジミール・ベルナドスキー
1863年3月12日 - 1945年1月6日は、ソ連の鉱物学者にして地球化学者。ウクライナ人。ウクライナ科学アカデミーの創立者。彼のノウアスフィアの考え方はロシア宇宙論に重要な役割を果たした。ベルナツキーは1885年、サンクトペテルブルク大学を卒業。ロシアの最後の鉱物学者が1887年に死に、土壌学者 Dokuchaev や地質学者 A.P. Pavlov が鉱物学を教えていたということもあり、ベルナツキーは鉱物学の道を歩むことを決心した。1888年6月20日、彼はスイスから妻ナターシャ宛てに次のような手紙を出している:
「…応えるべき疑問も持たず、計画もなく、単に事実を収集するだけでは面白くない。しかし、地球上では様々な場所、様々な時点で化学反応が起きている。個々の化学反応が何故起きたのかは判っているとしても、全体として地球が何らかの天の摂理によって変化しつつあると考えることもできる。私はそれを追求することで、化学元素の複雑性やそれらの発生の規則性を発見できるのではないかと考えている…」

エメリヤーエンコ・ヒョードル
1976年9月28日サンボ選手、元柔道家。レッドデビル・スポーツクラブ所属。第2代PRIDEヘビー級王者、初代WAMMA世界ヘビー級王者。2歳の時に家族とともにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ベルゴロド州スタールイ・オスコルに移住し、11歳になってサンボ・柔道を始めた。1991年に高校を卒業、1994年には専門学校を卒業する1995年から1997年まではロシア陸軍の消防隊と戦車軍に入隊し、曹長で兵役を終える。その後は柔道・サンボ両方の大会で活躍した当時は後に世界柔道選手権を制するアレクサンドル・ミハイリンとはライバル関係にあるなどヨーロッパではトップクラスの実力を有していたものの、国からの補助金が出なくなったため柔道を続けるには経済的な問題が生じていた。ヒョードルは「国の支援が続いていれば柔道を辞めずにオリンピックを目指していたかもしれない」と語っている。

ニコライ・ゴーゴリ
ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家。ウクライナ人。1818年、弟イワンと共に親元を離れ、ポルタヴァの小学校に入学。翌年弟が死去し、深い衝撃を受ける。1821年、ネージンの高等中学校に寄宿生として入学。在学中は学業よりも絵画と文学に熱中し、また父譲りの演劇の才を発揮して、学校劇では老け役や吝嗇漢を演ずるのを得意とした。ペテルブルクを舞台にした『肖像画』、『ネフスキー大通り』、『狂人日記』、『鼻』などの中編小説(ポーヴェスチ、повесть)で文名はいよいよ高まる。1836年の戯曲『検察官』によってその名は広く一般に知られるところとなるが、その皮肉な調子は非難の対象となり、それを避けてゴーゴリはローマへ発った。途中パリでプーシキンの訃報を知り、衝撃を受ける(1837年)。これ以降彼は、教化と予言とによってロシア民衆を覚醒させ、キリスト教的な理想社会へと教え導くことこそが自己の使命であると痛感するようになる。

フルィホーリイ・スコヴォロダ
1722年12月3日 - 1794年11月9日は、近世ウクライナの哲学者、文人、詩人。「ウクライナのソクラテス」と呼ばれる。ロシア帝国初の哲学者。スコヴォロダによれば、すべてのものは可視天性と不可視天性という2つ天性を有しているという。前者は人の目で見ることができるものの実存であるが、後者は人の目から隠されたものの本質である。その本質を把握できる人間は、知欲のある者、人情の厚い者、現世と実在にとらわれない者のみである。そのような人間は、ものの本質を把握した上で、初めてものを正確に理解できるという。

マルーシャ・チュラーイ
フメリヌィーツィクィイの乱時代のウクライナ歌手・詩人である。多数のウクライナ民謡の作者とされる。「ウクライナのサッフォー」とも呼ばれる。父のホルディーイ・チュラーイはコサックの百人隊隊長であったが、1638年にポーランド・リトアニア連合に対するコサックの叛乱に参加して捕虜となり、敵によってワルシャワで火刑された。マルーシャ・チュラーイはウクライナ民謡の発展に大きく貢献した人物とされる。彼女の歌と生涯を描いた文学作品はウクライナの中学校・高等学校などで勉強の対象となっている。


ウラディミール・ホロヴィッツ
ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツVladimir Samoilovich Horowitz、1903年10月1日 - 1989年11月5日)は、ウクライナ生まれのアメリカのピアニストである。義父(妻の父)は名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニ。幼少の頃よりアマチュアピアニストであった母から手ほどきを受け、1912年にキエフ音楽院に入学し、1919年に卒業。卒業時にはラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏している。指を伸ばして演奏するホロヴィッツのスタイルは彼独特といわれる程多彩な音色を生み出すのに不可欠であり、これに加えて腕全体の使い方や体重のかけ方などを研究すると、他人には決して真似することができない奏法であるとはいえピアノを鳴らしきる目的に叶った奏法であることがうかがい知れる。

ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ
1950年7月9日 - は、ウクライナの政治家。ヤヌコヴィッチ、ヤヌコビッチとも表記される。第4代大統領、元首相。経済科学博士、教授。ウクライナ功労運輸労働者。1950年7月9日、ソビエト連邦の一部だったウクライナ共和国ドネツィク州イエナーキエヴェ市に生まれた。父はポーランド人かタタール人。母はロシア人。2歳の時に母を亡くし、経済的にも非常に貧しい環境で暮らした。義母との関係はうまくいかなかったため、家を出た。ビリニュス出身の祖母によって育てられた。

ミコラ・アザロフ
1947年12月17日 - は、ウクライナの政治家。現在、同国首相(第15代)。2002年から2005年まで、また2006年から2007年まで第一副首相と財務相を、また2004年末と2005年初頭の2回にわたって首相代理を務めている。2010年の大統領選挙にてヴィクトル・ヤヌコーヴィチが勝利したことに伴い、彼の後任として地域党党首となり、2010年3月に首相に任命された[1][2]。ソビエト連邦ロシア共和国(現ロシア連邦)カルーガにて誕生。モスクワ大学を卒業し、地質鉱物学で博士号を取得する。

アレクサンダー・アーキペンコ
1887年5月30日 - 1964年2月25日はウクライナのキエフ出身(後にアメリカに移住)の彫刻家、グラフィック・アーティスト。キュビスムを志向したピュトー・グループのメンバー。

セルヒーイ・ヴァスィリキーウシクィイ
1854年10月7日 - 1917年10月8日は、近代ウクライナの画家である。ウクライナの自然や農村の風景、そしてコサックの歴史と伝統をそのテーマとしている。セルヒーイ・ヴァスィリキーウシクィイは1854年10月7日にスロボダ・ウクライナのイジュームに生まれた。1861年、彼は家族とともにハルキウに移住し、そこで美術を習い始めた。1876年から1885年までロシア帝国のペテルブルク美術アカデミーの風景科で勉強し、移動派に強い影響を受けられた。

オルガ・キュリレンコ
1979年11月14日 - )は、ウクライナ出身のファッションモデル・女優。ロシア語名に沿ってオリガ・クリレンコ、ウクライナ語名に沿ってオリハ・クルィレンコと呼ばれることもある。ソ連時代に、ウクライナのベルジャーンシクにて、ウクライナ人の父コスチャンティーン・クルィレンコとロシア人の母マリーナ・アリャブィーシェヴァのもとに生まれた。3歳の時に両親は離婚、母親のもとで育つ。

ビタリ・クリチコ
1971年7月19日 - は、プロボクサー。現WBC世界ヘビー級王者。キルギス共和国ベロヴォーツク出身で現在はウクライナ国籍(ドイツに在住)。ニックネームは「ドクター・アイアンフィスト」。 体育学で博士号を持つ(キエフ大学)。
弟のウラジミール・クリチコもまたプロボクサーで、現WBA・IBF・WBO・IBO統一世界ヘビー級スーパー王者。

イヴァン・コトリャレーウシキー
1769年9月9日‐1838年11月10日は、ウクライナの作家。近代ウクライナ文学の基盤となった『エネイーダ』の著者。1769年9月9日にコサック国家ポルターヴァ連隊ポルターヴァ市で、市役所の書記の家で生まれた。エカテリノスラフ中学校を出て、1780年から1789年にかけてポルターヴァ神学校で学んだ。卒業後、各地の地主の書記と家庭教師として勤めた。1794年に文学活動を開始し、ウェルギリウスの『アエネーイス』をもとにウクライナ語の口語で書かれたパロディー叙事詩『エネイーダ』を書き始めた。

ウラジミール・シドレンコ
1976年9月23日 - は、ウクライナのプロボクサー。元WBA世界バンタム級王者。2000年のシドニーオリンピックではウクライナ代表としてフライ級で出場し、銅メダルを獲得している。アマチュアボクシングで培われた防御、攻撃の基本技術がしっかりとしており、手堅い試合をするボクサーである。オリンピックでは後に世界チャンピオンになるメキシコのダニエル・ポンセ・デ・レオンとアルゼンチンのオマール・ナルバエス等の強豪を破って銅メダルを獲得した。

ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ
1866年9月29日‐1934年11月25日は、ウクライナの歴史学者、政治家、記者である。1917年から1918年にかけてウクライナ中央議会の議長を務め、事実上ウクライナ人民共和国の元首であった。ウクライナ研究に大きな影響を与えた大作『ウクライナ=ルーシの歴史』の著者である。フルシェーウシクィイは2千余りの研究書や論文などの著者である。彼の最も主だっ著作は10巻からなる未完成の『ウクライナ=ルーシの歴史』(1898年‐1937年)、『ウクライナ民族概要史』(1904年)、『絵巻ウクライナ史』(1911年)、『市民社会の始まり』(1912年)、5巻からなる『ウクライナ文学史』(1923年‐1927年)などである。

パナース・リューブチェンコ
1897年1月14日(ユリウス暦1月2日) - 1937年8月29日は、ウクライナ・ソ連の政治家。ウクライナ人。1934年、リューブチェンコはウクライナ政府の首相である主席人民委員に就任した。だが、彼の時代には粛清の嵐は一層激しさを増し、それはソ連全土に広がりのちに「大粛清」と呼ばれるようになった。リューブチェンコの政府は17人の閣僚全員が逮捕され、処刑された。リューブチェンコは自殺した。

ヴィクトル・ユシチェンコ
1954年2月23日 - はウクライナの政治家。2010年2月25日まで大統領を務めた。1954年2月23日、ソビエト連邦の一部だった、ウクライナ共和国東部のスームィ州・ホルージウカ村の教師の家庭に生まれた。父親のアンドレイは、第二次世界大戦に出征、独ソ戦で捕虜となり、アウシュヴィッツ強制収容所に収容されていた[要出典]。ユシチェンコは、ウクライナ西部のテルノーピリ財政・経済大学を卒業し、経済科学準博士号を取得する。卒業後、徴兵され1年間、当時ソ連国家保安委員会(KGB)所属だった国境警備軍で勤務した。KGBに勤務したことにより、暫くの間ウクライナの極右・民族主義勢力には認められなかった。

ユーリヤ・ティモシェンコ
1960年11月27日 - はウクライナの政治家、実業家。旧名ユーリヤ・ヴォロドミリヴナ・グリギャン。出身民族はラトビア系ロシア人(非ウクライナ人)。アルメニア系ユダヤ人との説もある。既婚者で夫はウクライナ人のオレクサンドル・ティモシェンコ。ウクライナ共和国第11代首相、第14代首相。所属政党は全ウクライナ連合「祖国」、政治同盟ユーリヤ・ティモシェンコ・ブロック。オレンジ革命でヴィクトル・ユシチェンコを支持する女性政治家として注目を集め、好意的な報道が主に欧米諸国で行われた。しかし政治家転身以前は海賊版商品の密造・密売を手がけるなど違法な方法で非合法資金を集めており、過去に詐欺等による逮捕歴もある。

ウラジーミル・ドリンフェルト
1954年2月14日 - はウクライナ・ハリコフ出身の数学者。1974年にモスクワ大学卒業、1978年にモスクワ大学でPh.D.を取得。指導教授はユーリ・マニン。1988年にステクロフ数学研究所においてDr.Sci.を取得した。1990年にフィールズ賞を受賞した。現在はシカゴ大学教授。

イズライル・ゲルファント
1913年9月2日 - 2009年10月5日はウクライナ出身(ユダヤ系)のロシアの数学者。最高峰の業績を誇る20世紀最大の数学者の一人。 1913年9月2日、ロシア帝国のオデッサ(現在はウクライナの都市)に生まれる。高校で放校処分を受けたが、その理由は当人によると、父親が工場の所有者だったためだという。その後、高校と大学を飛び越して19歳でモスクワ大学大学院に入り、アンドレイ・コルモゴロフに師事。専門は関数解析学と表現論だが、そのような分野をはるかに超えて強力な影響力を持つ業績を多々上げている(無限次元リー環、微分方程式、数値解析、調和解析、確率論、等質空間論、代数幾何学、積分幾何学などなど)ばかりか、物理学にも影響を与えている。

スタニスワフ・レム
1921年9月12日 - 2006年3月27日は、ポーランドの小説家、SF作家、思想家。ポーランドSFの第一人者であるとともに、20世紀SF最高の作家の一人とされる。また、著書は41の異なる言語に翻訳され2700万部が販売されており、世界で最も広く読まれているSF作家である。代表作に、2度映画化もされた『ソラリスの陽のもとに』など。1921年、ポーランドのリヴィウ(現ウクライナ)に生まれる。父サムエルはユダヤ系、母サビーナはカトリック系であるが、レムはカトリック教徒として育てられる(のちに長じて無神論者になる)。

ヴォイチェフ・キラール
(Wojciech Kilar, 1932年7月17日 - ) は、ポーランドの現代音楽・映画音楽の作曲家。キラルと表記される場合もある。ルヴフ(現ウクライナ・リヴィウ)生まれ。カトヴィツェで学んだ後、パリでナディア・ブーランジェの薫陶を受ける。幾つかの賞を受賞。(クシシュトフ・ペンデレツキ、ヘンリク・グレツキとともに)1960年代ポーランドのアバンギャルド運動に身を置く。1974年の交響詩『クシェサニ』が有名だが、1970年代中盤以降は、映画音楽の作曲家としても知られるようになり、ロマン・ポランスキー監督のハリウッド映画も手がけている。

グリゴリー・ジノヴィエフ
Grigorii Yevseevich Zinoviev、1883年9月11日 - 1936年8月25日)は、ロシアの革命家、ソビエト連邦の政治家。ウラジーミル・レーニンの側近としてロシア革命に参加。ソビエト政権発足後は、ペトログラード・ソビエト議長、コミンテルン議長、共産党政治局員を歴任したが、スターリンとの権力闘争に敗れ、後に処刑された。

ゲンリフ・ネイガウス
(Heinrich Gustavovich Neuhaus(z), 1888年4月12日 - 1964年10月10日)はソ連のピアニスト・音楽教師。ウクライナのドイツ系(またはスウェーデン系)の家庭に生まれる。ウクライナのエリザヴェトグラード(現キロヴォフラード)出身。両親ともにピアノ教師であったが、ほとんど独学であった。早期の芸術的な発展において、又従兄カロル・シマノフスキや、叔父のフェリックス・ブルーメンフェルトから最も影響を受けた。

リューブコ・デーレシ
1984年7月3日 - )は、ウクライナの現代作家。1984年7月3日、リヴィウ市に生まれる。若い年齢にも関わらず、ウクライナ現代文学の「黄金の子」と言われるほど、人気を集めている。作品はドイツ語、ポーランド語にも翻訳されている。

ユーリー・アンドルホーヴィチ
1960年3月13日 - )は、現代ウクライナの小説家、詩人、翻訳家、ウクライナ作家協会副会長。イヴァーノ=フランキーウシク市生まれ。1987年に『ブ・バ・ブ』という詩人グループを結成。

パブリュック・イゴール
1967年1月1日 - )は、ウクライナの作家、研究家。社会的コミュニケーションの博士。ニコライ・ゴーゴリの国際文学賞「トリウムフ」を受賞。ボリーニ州ロジーシチェンスキー郡ウジョーヴァ村生まれ。サンクトペテルブルクの軍事工学建築高等専門学校に入学したが、2年生の時、詩を書き始めたため、スキャンダルが起こり、停学になった。刑罰として、囚人と一緒に道路の建設作業をするために強制的にザバイカルのタイガに派遣された。

 

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