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トルクメニスタン
Turkmenistan
NIS
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<歴史>
■人類最古の農耕集落遺跡
アシガバード郊外には、人類最古の農耕集落遺跡のひとつであるアナウ遺跡、および紀元前2世紀または3世紀頃のパルティア王国(漢名「安息国」)の発祥地とされるニサ遺跡がある。またこの時代、現在のアシガバードの位置に小さな集落があったが、その後サーサーン朝ペルシアの領地となった。
■16世紀以降
ヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、サファヴィー朝などに絶えず侵略される。
■1869年
帝政ロシア軍がカスピ海東岸に上陸し、1881年に帝政ロシア軍がアシガバートを占領し基地を築く。
■1916年〜1918年
反ロシア大暴動(バスマチ運動)が起きる。1924年トルクメン・ソビエト社会主義共和国としてソ連構成国の1つとなる。農業集団化に反発した遊牧民の抵抗が1936年頃まで続いた。
■1990年8月22日
主権宣言を行い、10月27日には直接選挙による大統領選で単独候補のサパルムラト・ニヤゾフ最高会議議長が98.8%の得票率で当選した。
■1992年6月
大統領選でニヤゾフ大統領が99.5%の支持で再選。1995年12月、国連総会において「永世中立国」として承認される(ロシアの影響力を排除する目的と言われる)。ニヤゾフ大統領は個人崇拝による独裁体制をしき、2002年8月には終身大統領とされた。
■2002年11月25日
アシガバートで大統領の車列が銃撃を受け、警護員1人が重傷を負った。この事件後のニアゾフ政権は、反対派を弾圧し、米ロなどの諸外国を非難するなど国際常識で考えられない行動に出た。その後ニヤゾフ大統領は、2006年12月21日未明に66歳で死去した。その直後、その日のうちに大統領代行オヴェズゲリドゥイ・アタエフが刑事訴追を理由に解任された。約2ヶ月後の2007年2月14日に大統領選が行われ、89.23%の得票率を獲得したグルバングル・ベルディムハメドフ大統領代行が、正式に第2代大統領に就任した。
■地形
国境線の長さは3,736km。カラクム砂漠が面積の多くを占める。ウズベキスタンとの国境付近にアムダリヤ川が流れており、そこからカラクム運河が分かれていて、灌漑農業などに利用されている。
■気候
ほぼ全域が砂漠気候である。夏は40〜50度、冬は0度以下まで下がるなど、夏と冬の寒暖の差、日中と夜間の寒暖の差が激しい。昼と夜で20度を超える温度差になることもある。夏季に雨はほとんど降らない。
■中央アジア
ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。内陸アジアともいう。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。
■カスピ海
中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖。世界最大の湖である。この湖に接している国は、ロシア連邦(ダゲスタン共和国、カルムィク共和国、チェチェン共和国、アストラハン州)、アゼルバイジャン共和国、イラン(マーザンダラーン州など)、トルクメニスタン、カザフスタンである。
■アムダリヤ川
パミール高原・ヒンドゥークシュ山脈に源を発するパンジ川とヴァクシュ川が合流し、北西へ向かって流れる。元々はアラル海に注いでいたが、現在は河口部ではほぼ干上がっている。延長は2,400km。
■カラクム砂漠
(Kara kumはテュルク系の言語で黒い砂を意味する)は中央アジアのトルクメニスタンにある砂漠。 面積は350,000 km2で、トルクメニスタンの約70%を占める。 西はカスピ海、北はアラル海、北東にはアムダリヤ川とキジルクム砂漠がある。 牧畜地帯だが、アムダリヤ川からのカラクム運河によって灌漑農業も発達。
■カラクーム運河
Karakumsky Kanalは、トルクメニスタンにある世界最大の灌漑および水道用の運河である。1954年に建設が開始され、1988年に完成した。この運河は 1,375 km 以上に渡り航行可能であり、年間 13 km3 の水をアムダリヤ川から取水してトルクメニスタンのカラクム砂漠を横断している。アシガバードの主要な給水源となっている。
■シルクロード
Silk Road)は、日本と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。絹の道とも呼ばれる。現在の日本でこの言葉が使われるときは、特にローマ帝国と秦漢帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易が念頭に置かれることが多いが、広くは近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域にわたって行われた国際交易を指し、南北の交易路や海上の交易路をも含める。
■パルティア
Parthia, 紀元前247年頃 - 228年)とは、カスピ海南東部、イラン高原東北部に興った王国である。パルニ氏族を中心とした遊牧民の長、アルシャク(古典ギリシア語形:アルサケス)が建国した。
■ロシア帝国
、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。
■バスマチ蜂起
1920年代初頭を中心に中央アジアで起きた反ソビエト武力運動の総称である。反乱には在地有力者を中心に、中央アジアのムスリム住民の広範な層が参加し、ソビエト政権およびロシア人による中央アジア支配に抵抗した。ロシア内戦期の1918年から1924年にかけて最盛期を迎えたが、1920年代半ばまでにソビエト政権によりほぼ鎮圧された。
<世界遺産>
■国立歴史文化公園/古代メルフ
「マルギアナ」の遺構は、円形のプランをもち日干レンガの城壁で囲まれた「エルク・カラ」として知られる。「エルク・カラ」は、12haに達する都市であった。
■クフナ・ウルゲンチ
現在のクフナ・ウルゲンチの遺構は、多くが全壊あるいは半壊に近い状況である。今日では、クフナ・ウルゲンチの遺構の中心は、12世紀に建設された3つの小さな廟建築と14世紀に建設されたTurabek-Khanum廟である。後者は、1990年代に大部分が修復された。
■ニサのパルティア王国時代の城塞群
旧ニサは城壁に囲まれた 14 ha ほどの遺丘だが、その中で遺構が集中している地域は北部と中央部に分かれる。北部には王の宝物庫などがあったと推測されており、さまざまな工芸品や陶片などが出土している。陶片に刻まれた文字情報は、初期パルティア自身による稀少な資料である。旧ニサの中央部には巨大建築物群の遺構が残っている
■カスピ海横断鉄道
中央アジア西部をシルクロードに沿うような形で伸びる鉄道。トランス・カスピ海鉄道、中央アジア鉄道、ザカスピ鉄道とも呼ばれる。19世紀に中央アジアに領土を拡大したロシア帝国によって建設された。ミハイル・スコベレフによってロシア軍がザカスピを征服すると、カスピ海に近い内陸都市 Kyzyl-Arvat (現在のトルクメニスタンのSerdar)とロシア帝国・ザカスピ州を結ぶ鉄道が1879年に狭軌として建設された。すぐにロシア式の広軌に改められ、1886年にはアシガバートやメルブ(現在のマル)まで伸びた。
カスピ海に面したトルクメニスタンのトルクメンバシを起点に、南東に鉄道は延びる。カラクム砂漠の外縁部に沿って進んだ後で、カラクーム運河に平行してトルクメニスタンの首都・アシガバートに達する。そこから南東に向かい山岳地帯の麓を進み、テジェンに至る。テジェンからは、イランのマシュハドに繋がる鉄道が1990年代に完成した。カスピ海横断鉄道は、テジェンからは北東に向かい、マル(Mary)に至る。ここからアフガニスタン国境のクシカ(Kushka)への支線は早くも1890年代に完成した。
■トルクメニスタンの文化
トルクメン人は伝統的に遊牧民として生活してきており、トルクメン人の近代化を図ったものの成功を収めたとはいえないソビエト連邦が崩壊した今日においても同様である。実際、彼らは1930年代にヨシフ・スターリンによって強制的にまとめあげられるまで一度もまとまった国家や民族集団を形成したことがなかった。
■音楽
ペルシア、インドの音楽の影響下にある独自の民族音楽がある。 また、ソ連時代からジャズや軽音楽のバンドの活動もあり、打楽器奏者 Rishad Shafi をリーダーとするバンド Gunesh Ensemble のレコードがソ連国営レコード会社から発売されていた。同バンドは高度な演奏技術を持ち、トルクメニスタンを代表するバンドとして西側諸国でも高い評価を得ている。
■トルクメニスタンの音楽
トルクメニスタンの遊牧民的で農村部のような素朴な音楽はキルギスやカザフスタンの民族音楽と密接な関係がある。バフシーと呼ばれる旅行音楽家やスピリチュアルヒーリングや魔術師などのシャーマンにより演奏されるトルクメニスタンの伝統音楽は、アカペラもしくはドゥタールと呼ばれる2弦のリュートに似た楽器を使用して歌う形式をとる。
■トルクメニスタン料理
中央アジアに位置するウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、カザフスタンといった国々の食文化と類似点が見られる。プロフ (Plov) は主食として毎日の食卓に上る料理であり、結婚式などの慶事の際にも振舞われる事が多い。プロフは羊肉、人参、米などをダッチオーブンに似た鉄製の大釜で炒めた後、炊きあげて作る。マンティはひき肉や玉ねぎ、かぼちゃなどの具材を包んだ餃子に近い料理である。
■マンティ
Manti、 は小麦粉を練って作った生地に具材を詰めて調理した、中央アジアやトルコ、コーカサス地域、中国北西部で一般的な料理である。マンティという語は東アジアの饅頭や包子、マンドゥ、そしてネパールのモモと密接な関係があると考えられている。マンティは通常香辛料で味をつけた羊肉もしくはひき肉を生地の中に詰め、茹でるもしくは蒸して作る。マンティという語は単複の区別なく使用される。
■ダルヴァザ
Darvaza、トルクメン語名[現地語名]:Derweze [意訳:関門])は、トルクメニスタンのアハル州にある一村。カラクム砂漠の中央にあり、首都アシガバードの北約260キロメートルに位置する。トルクメニスタン国内のダルヴァザ付近の地下には豊富な天然ガスがある。1971年に地質学者がボーリング調査をした際、偶然、天然ガスに満ちた洞窟を発見したが、調査の過程で落盤事故が起き、採掘作業用の装置が置かれていた場所もろとも直径50〜100メートルにもなる大きな穴が開いてしまった。有毒ガスの放出を食い止めるため、火を着けることになったが、可燃性ガスが地下より絶え間なく吹き出るため、延々と燃え続ける事態となった。のちにこの穴を住民は「地獄の門(英語訳:The Door to Hell)」と名づけた(日本語では「地獄の門」のほかに「地獄の扉」との直訳もされる)。現時点ではこの天然ガスの燃焼を食い止めることは技術的にとても困難と判断され、また、天然ガスの埋蔵量自体が不明なため、今後いつまで燃え続けるのかもよく判っていない。現在でも消火するための解決手段は無く、依然として燃え続けている。
■経済
主な産業は、天然ガス、石油、綿花栽培、繊維工業。特に天然ガスは狭い国土にもかかわらず世界第4位の埋蔵量の資源国である。これらの資源の輸出により潤沢な資金流入があるため、独裁国家には珍しく国民は非常に裕福といわれることがある。しかし、一人当たりのGDPが5000ドルなので裕福とはいえない。かなりの額が大統領周辺に消えているのではという指摘がある。
■石油
石油は、英語でPetroleumという。これはラテン語のPetra(岩石)とOleum(油)を語源とする。狭義には原油 (crude oil) のことを指すが、より広い意味では天然ガスや固体のアスファルトなどを含める。さらに、原油を原料として製造された石油製品や石油化学製品をも含めることがある。また、日常生活では灯油を「石油」と呼ぶことも多い。
■天然ガス
natural gas)は、一般に天然に産する化石燃料である炭化水素ガスのことを指す。広義には、地下に存在するガス、または地下から地表に噴出するガス一般のことであり、この中には化石燃料ガス(可燃性ガス)だけでなく、窒素や酸素、炭酸ガス、水蒸気、硫化水素ガス、亜硫酸ガス、硫黄酸化物ガスなどの不燃性ガスも含まれる。これら不燃性ガスの多くは火山性ガスである。
■鉱業
トルクメニスタンは他の中央アジア諸国と比較した場合、鉱物資源に乏しいと言える。例えば、金属鉱物資源は採掘されていない。ただし、有機鉱物資源、特に天然ガスに恵まれている。2002年時点の天然ガス産出量は1944千兆ジュールであり、これは世界シェアの2%に達する。輸出額に占める天然ガスの割合は2000年時点で49.7%。原油(802万トン)にも恵まれている。輸出額に占める石油製品と原油の割合は合計30.2%である。
■観光
メルヴやニサといったシルクロードの遺跡が有名だが、全体として観光業はあまり発展していない。観光ビザの取得手続きは煩雑である。政策により物価はとても安く滞在しやすい。
■アハルテケ
国章にあしらわれているトルクメニスタン原産の馬の品種 。スピードと長距離の持久力で知られる「黄金の馬」は、過酷な気候に適応し、現存する最古の馬種のひとつと考えられている。現在世界で約 3,500 のアハルテケが、トルクメニスタン、ロシアの他ヨーロッパ、オーストラリア、北アメリカでも育成されている。
■宗教
■イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。ユダヤ教やキリスト教と同様にアブラハムの宗教の系譜に連なる唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。
■スンナ派
Ahl as-Sunnah (wa’l-Jama‘ah))は、イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。しかし、スンナ派を正統とするのは、あくまでスンナ派の内側から見た場合の理解である。
■グルバングル・ベルディムハメドフ
1957年2月 - は、トルクメニスタンの政治家、歯科医師。サパルムラト・ニヤゾフ政権時代に副首相を務め、ニヤゾフ死去(2006年12月21日)後は大統領代行を経て第2代大統領兼トルクメニスタン民主党議長。ベルディムハメドフは大統領就任後は、高齢者向けの年金の復活や閉鎖されていたアシガバート以外の病院再開、そしてオペラやサーカス、映画の解禁、公共料金の無料化、インターネットの利用の解禁など脱ニヤゾフ化政策を進めている。
■ウラジミール・バイラモフ
(Wladimir Bayramow、1980年8月2日 - )は、トルクメニスタン・アシガバート出身のサッカー選手。カザフスタン・プレミアリーグのカイラト・アルマトイに所属する[1]。ポジションはフォワード。欧州1部リーグでプレーした数少ないトルクメニスタン人選手であり、ロシアプレミアリーグでは通算15得点を記録している。2009シーズンでは18得点を挙げカザフスタン・プレミアリーグの得点王に輝いた。
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トルクメニスタン Turkmenistan
中央アジア南西部に位置する共和国。カラクム砂漠が国土の85%を占めており、国民のほとんどは南部の山沿いの都市に住んでいる。豊富な石油や天然ガスを埋蔵する。西側でカスピ海に面し、アフガニスタン、イラン、ウズベキスタン、カザフスタンと国境を接する。首都はアシガバート。永世中立国。20世紀の末から21世紀にかけて、ソ連からの独立を果たしたニヤゾフ大統領による独裁が長く続いたが、その後は開放路線を歩んでいる。
■アシガバート
英語: Ashgabat, Ashkhabad など)はトルクメニスタンの首都。 1919年から1927年の間はポルトラツク(Poltoratsk)という名であった。コペトダグ山脈とカラクム砂漠の間にあり、主要産業はガラス製造、ぶどう酒醸造、綿織物業など。現在の人口は695,300人(2001年)。 イラン第二の大都市・マシュハドへは250kmである。かつてはワインで知られたコンジカラ(Konjikala)という町があったが、紀元前2世紀の大地震で廃墟となっていた。コンジカラは再建されシルクロードの交易で栄えたが、13世紀にモンゴルの襲来で破壊された。その後、小さな村のままであったが、1818年、ロシア人がアシハバードという町を作った。1869年に要塞が造られると、商人や職人が集い発展が始まる。1948年10月6日に大地震に見舞われる。この震災で市の人口の3分の2を失う。
■アシガバート空港
Ashgabat Airportは、トルクメニスタンの首都アシガバートにある空港。トルクメニスタン航空の本拠地である。
■ダショグズ
トルクメニスタン共和国の北部の都市。ダショグズ州の州都。人口は166,500人。市名はトルクメン語で「石の泉」の意味。かつてはタシャウズ(Tashauz)と呼ばれた。 ウズベキスタンのヌクスから76.5km。ホラズム地方のオアシスで泉が湧いていたことから、シルクロードのキャラバンサライであった。これが市名の由来である。 19世紀初頭にロシアによって要塞が築かれ、ソ連式の町が作られていった。
■ホラズム
Xorazmは、中央アジア西部に位置する歴史的地域。アムダリヤ川の下流域、アラル海の南岸にあたり、現在はウズベキスタンとトルクメニスタンに分割されている。ホラズム人民ソビエト共和国はロシア革命によって刺激された民族主義のために激化したウズベク人とトルクメン人の対立を抱え、成立直後から安定を欠いた。
■テュルクメナバート
トルクメニスタン第2の都市である。レバプ州の州都。ソ連時代にはチャルジョウ(ChardzhouやChardjui)(ロシア語:Чарджоу)の名で知られた。チャルジョウとはペルシア語で「4つの小川」の意味であった。人口は約20万。アムダリヤ川の土手に位置する都市。標高は187m。約225キロ南西にマル、200キロ南東にケルキ、ウズベキスタン共和国の国境に近く、100キロ北東にブハラが位置している。西にはカラクム砂漠が広がる。鉄道がウズベキスタンのヌクスやウルゲンチに通じている。綿織物・絹織物産業が盛ん。
■バルカナバート
Balkanabat、は、トルクメニスタン西部の都市。旧称ネビト・ダグ(Nebit Dag)。バルカン州の州都である。首都アシガバートから約400km、北緯39度31分0秒 東経54度22分0秒 に位置し、標高は17m。2006年の推計で8万7822人が暮らす。バルカン・ダグラリー山脈の裾野に位置する。
外務省:トルクメニスタン
在トルクメニスタン日本国大使館
■トルクメニスタン国家宇宙局
トルクメニスタンの科学的、商業的な宇宙研究計画を調整する政府の部局。2011年5月31日に設立された[1]。2011年、トルクメニスタンのグルバングル・ベルディムハメドフの賛同の下、宇宙工業の開発のための国家計画下で新しい機関が立ち上げられた。国内の宇宙関連組織や業務を管理することになっている。本部は国防省を補佐する市民防衛局の中におかれており、将来的には別個に宇宙業務用の建物を建築する予定である。
■カスピ海横断鉄道
Trans-Caspian railway、は、中央アジア西部をシルクロードに沿うような形で伸びる鉄道。トランス・カスピ海鉄道、中央アジア鉄道、ザカスピ鉄道とも呼ばれる。19世紀に中央アジアに領土を拡大したロシア帝国によって建設された。建設工事は1879年に開始され、コーカンドでロシア軍が敗北を喫すると、ロシア軍がこの地帯での反乱鎮圧のための軍を展開するために建設の主眼が置かれた。
■アジアハイウェイ
(Asian Highway Network)は、アジアの32カ国を横断する全長14万kmにわたる高速道路。主に既存の道路網を活用し、現代のシルクロードを目指して計画されているものである。トルコからは欧州自動車道路に接続する。英語での略称は、AH。
■テジェン
TejenまたはTedzhenはトルクメニスタン共和国のアハル州の都市。カラクム砂漠のオアシス都市で、標高は161m。ハリ川(テジェン川)が近くを流れる。 カスピ海横断鉄道が通じ、1990年代にはイランのマシュハドへの鉄道も完成した。
■トルクメンバシ
Turkmenbashiはトルクメニスタンのバルカン州の都市である。1993年まではクラスノボツク(Krasnovodsk) (ロシア語: Красноводск)と呼ばれていた。カスピ海に面する港町で人口は、51,000人(1999年)、住民はロシア人やアゼリー人である。標高は27m。トルクメニスタンの唯一の港町であり、アゼルバイジャンの首都・バクーへのフェリーが発着する。また、ウズベキスタンの首都・タシュケントへのカスピ海横断鉄道の起点で、交通の要衝である。付近は石油や天然ガスが豊富で、市内に大規模な石油精製工場がある。
■アナウ
Anau, はトルクメニスタンの都市であり、アハル州の州都である。アナウは首都アシガバートの約8km南東にあり、街にはアシガバートへと続く高速道路M37(英語版)が通っている。アナウ付近にあるアナウ遺跡は紀元前3000年にまでその歴史を遡り、人類最古の農耕集落の一つとされている他、青銅器時代から初期鉄器時代にかけた時期の彩文土器が見つかっている。
■バルカナバート
トルクメニスタン西部の都市。旧称ネビト・ダグ(Nebit Dag)。バルカン州の州都である。旧称のネビト・ダグはトルクメン語で「石油の山岳」を意味し、バルカン山脈にちなみ名付けられたとされる。1933年にカスピ海横断鉄道の停車場として設立された。
■マル
マル(Mary)は、トルクメニスタン共和国のマル州の州都。かつてはメルブ(Merv)、Meru、Margianaなどと呼ばれた。人口ではトルクメニスタンで4番目の都市である。 カラクム砂漠の中のシルクロードのオアシス都市で、ムルガブ川が流れる。1884年、帝政ロシアがこの地に侵攻し、アフガニスタンとの間にパンジェ紛争(Panjdeh Incident) を引き起こす。その後、ロシアの軍事拠点として入植が進んだ。英印軍は1918年、機関銃で武装したパンジャーブ人が主体の中隊を派遣、マル周辺でボルシェビキ軍と対峙した。 ソビエト連邦時代には灌漑施設が整備され、綿花産業の中心として発展した。1968年には、市の西部で天然ガスが発見された。メルブ遺跡は市の郊外にある。
■トルクメニスタンの国旗
白の三日月と5つの星を配する緑色旗である。旗竿側に絨毯文様のある赤色の帯があることが特徴的であり、世界で最も複雑な国旗と形容されることがある。三日月と星の組み合わせは、オスマン帝国の国旗にも使われたシンボルで、トルコ、アゼルバイジャン、ウズベキスタンなどのテュルク人の国家や、マレーシアやパキスタンなどイスラム国家の国旗によく使われるオスマン/イスラム系のシンボルである。5つの星は、トルクメニスタンの5つの州を象徴する。
■国名
正式名称はトルクメン語で、Tü粐粐粐粐鳬辣鉗齡an。公式の英語表記は、Turkmenistan。日本語の表記は、トルクメニスタン。漢字による当て字は土耳古斯坦。トルクメニスタンは「トルクメン人の土地」を意味する。
1.面積:48万8,000平方キロメートル(日本の1.3倍)
2.人口:520万人(2010年:国連人口基金)
3.首都:アシガバット(Ashgabat)
4.民族:トルクメン系(81%)、ウズベク系(9%)、ロシア系(3.5%)、カザフ系(1.9%)、その他アゼルバイジャン系、タタール系など
5.言語:公用語はトルクメン語(テュルク諸語に属し、トルコ(共和国)語やアゼルバイジャン語に近い)。ロシア語も広く流用。
6.宗教:主としてイスラム教スンニ派
8〜10世紀頃 トルクメン民族の起源とされるオグズ族が、アラル海付近のステップ地帯を中心に中央アジア地域に展開
10世紀 イスラム教に改宗したオグズ族の他称としてトルクマーンが使用されるようになった
11世紀〜12世紀頃 テュルク系セルジューク朝の下、各地で軍事的な主力として活躍
14世紀〜16世紀 現在のトルクメン諸部族の形成が進む
16世紀〜19世紀 ヒヴァ・ハン国やブハラ・アミール国の下、現在のトルクメニスタン領オアシス地域に徐々に定着。半農半牧の生活に移行
1869年 帝政ロシアがカスピ海東岸に侵攻し、クラスノヴォツク(現トルクメンバシ)の礎を築く
1881年 ギョクデペの戦い(帝政ロシア軍の侵攻に対する熾烈な抗戦)
1885年 帝政ロシアがトルクメン諸部族のほとんどを支配下に
1924年 ソ連の民族共和国境界画定によりトルクメン・ソヴィエト社会主義共和国が成立
1990年8月22日 共和国主権宣言
1990年10月27日 ニヤゾフ大統領就任
1991年10月27日 共和国独立宣言
1992年5月16日 共和国憲法採択
1995年12月 国連総会において「永世中立国」として承認される
1999年12月28日 議会の全会一致によりニヤゾフ大統領が終身大統領に
2006年12月21日 ニヤゾフ大統領死去
2007年2月14日 ベルディムハメドフ現大統領就任
■主要産業:鉱業(天然ガス・石油など)、農業(綿花)、牧畜
■主要貿易品目:(1)輸出 天然ガス、石油、石油製品、織物、綿繊維(2)輸入 生産技術プラント、電気機器、機械装置、原料・資材、消費財(非食料品)、輸送機器
■トルクメニスタン・マナト
マナト(トルクメン語: manat)は、トルクメニスタンの通貨。補助単位はテネシ(トルクメン語: tennesi、1マナト=100テネシ)。1993年11月1日にソビエト連邦ルーブルと500ルーブル=1マナトのレートで交換され、発行が開始された。2009年1月1日には新マナトが導入された。
■行政
国家元首である大統領は憲法規定によれば任期は5年で、国民の直接選挙により選出される。だが1990年以来2006年末までニヤゾフが終身制の下で大統領職に就き、首相も兼任していた。ニヤゾフは、2008年から2010年頃に大統領選挙が行われると表明していたが、彼が死亡した為、死去後に大統領選挙が行われた。選挙の結果、得票率89.23%(2007年2月14日朝日新聞)で他の候補を圧倒したグルバングル・ベルディムハメドフ大統領代行が、第2代大統領に就任した。2008年に憲法を改正した。
■永世中立国
permanently neutralized state/country)とは、将来もし他国間で戦争が起こってもその戦争の圏外に立つことを意味するものであり、自国は中立の立場である事を宣言し、他国がその中立を保障・承認している国家。また、外国軍隊の国内の通過、領空の飛行、船舶の寄港、外国の軍事基地の施設も認めない。軍事的な同盟国がないため、他国からの軍事的脅威に遭えば自国のみで解決することを意味する。このため、スイスのように強力な防衛政策をとる国もある(武装中立)。いわゆる平和主義や非暴力非武装とはまったく概念が異なる。
■議会
マジュリスと呼ばれる定数125議席の議会があるが、議員全員は大統領の承認を得る必要がある。議員は比例代表制に基づき国民の直接選挙で選出され、任期は5年である。
■政党
旧トルクメン共産党の後身トルクメニスタン民主党による事実上の一党独裁制で、ニヤゾフ初代大統領が同党の議長を務めていた。憲法では複数政党制が認められているものの、TDP以外の合法政党は農民正義党の1つしかない。
■トルクメニスタン民主党
Democratic Party of Turkmenistan, 略称:DTPは、トルクメニスタンの政党。トルクメン共産党の後継政党で、事実上の独裁与党。党首に相当する議長はグルバングル・ベルディムハメドフ。2006年まで終身大統領を務めたサパルムラト・ニヤゾフがかつて議長を兼任していた。
■民族構成
トルクメン人が人口の大半を占めるが、ロシア人やウズベク人も多い。現在はロシア人は減少傾向にある。トルクメン人 (85%)、ウズベク人 (5%)、ロシア人 (4%)、その他 (6%) (2003年)
■トルクメン人
中央アジアのカスピ海東南岸に居住するテュルク系民族。トルクメニスタンを中心にイランの北東部(ホラーサーン地方)やアフガニスタンの北部に分布する。テュルク諸語のトルクメン語を話し、伝統的には遊牧とオアシス地帯での農耕に従事してきた。歴史的にはトゥルクマーンと呼ばれていた人々の後裔とも考えられているが、直接の関係は明らかではなく、トルクメン人はモンゴル帝国解体後の15世紀頃からカスピ海東南岸で民族形成を行ったと考えられている。
■ロシア人
東スラヴ人に属する民族である。ロシア語を母語として話す。ロシア連邦(80%以上)・ウクライナ(17.3%)・ベラルーシ(11.4%)などを中心に、旧ソビエト連邦構成国に広く居住する。ロシアでは最も人数の多い民族集団である。
■ウズベク
西トルキスタン南部、ホラズム地方からフェルガナ地方にかけてに広がって居住し、中央アジアで最大の人口を抱えるテュルク系民族。民族国家として、中央アジアでもっとも人口の集中したトランスオクシアナ地方の大半を領土とするウズベキスタン共和国を持つほか、中国の新疆ウイグル自治区とアフガニスタンの北部マザーリシャリーフ周辺にもそれぞれ数十万人が住む。
■言語
トルクメン語 72%、 ロシア語 12%、ウズベク語9%、その他7%。トルクメン語が公用語だが、ロシア語が広く通用する。トルクメン人でも長く都市部に住んでいる者やエリートなどの中にはロシア語を母語とし、トルクメン語が満足に話せない者もいる(ニヤゾフ元大統領自身もそのうちの一人であった)。
■トルクメン語
トルコ語、アゼルバイジャン語と同じテュルク諸語の南西語群(オグズ語群)に属し、トルクメニスタンのほか、イランやアフガニスタンに住むトルクメン人も使用する。トルクメニスタンの公用語。
■サパルムラト・ニヤゾフ
1940年2月19日 - 2006年12月21日は、トルクメニスタンの政治家、トルクメニスタン初代大統領、トルクメニスタン民主党(DPT)議長。1993年からは「トルクメン人の長」を意味する「テュルクメンバシュ(Turkmenbasu)」と名乗り、国内ではサパルムラト・テュルクメンバシュ(Saparmyrat Turkmenbasu)と称される。前大統領。トルクメニスタンの独立・近代化を行ったが、極端な個人崇拝に基づいた独裁的な政治によって、世界で最も権威主義的で抑圧する独裁者として国外で非難された。
■オヴェズゲリドゥイ・アタエフ
(Owezgeldi Atayew, 1951年 -)は、トルクメニスタンの政治家。元議会議長、元国民評議会副議長。ルハバーツキー地区グルトルイ村出身。1971年、アシュハバード教育学校、1978年、法学専攻でトルクメン国立大学を卒業。2006年12月21日、サパルムラト・ニヤゾフ大統領の死去直後、大統領代行から罷免。12月22日、議会は、アタエフを議会議長から罷免した。
■ルスラン・ミンガゾフ
(Ruslan Mingazov、1991年11月23日 - )は、トルクメニスタン・アシガバード出身のサッカー選手。ラトビア・ヴィルスリーガのスコントFCに所属している。ポジションはMF。父親のカミル・ミンガゾフもサッカー選手であった。2009年4月14日に行われたAFCチャレンジカップ2010予選のモルディブ代表との試合でトルクメニスタン代表デビューを果たした。
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