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タジキスタン共和国
Republic of Tajikistan
NIS
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■地理
国土のほとんどは山岳地帯で、中国との国境に至る東部はパミール高原の一部。北部のフェルガナ盆地では、ウズベキスタン、キルギスと入り組んで国境を接している。最高峰はイスモイル・ソモニ峰。
7000mを超える高山、深い谷と急流、比較的雨量の多い地中海性気候という条件下、年間発電量144億kW/h(2001年)のうち、97.7%を水力発電でまかなっている。安価で大量の電力生産は精錬に膨大な電力を必要とするアルミニウム工業を発達させるためであり、生産量は世界シェアの1.2%に当たる31万トンに達するが、原料となるボーキサイトはウクライナなどの外国からの輸入に頼っている。
■中央アジア
ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。内陸アジアともいう。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。
■パミール高原
Pamir Mountainsは中央アジアにある高原である。中国では "葱嶺"(そうれい)とも呼ばれていた。タジキスタン、アフガニスタン、中国にまたがり、世界の屋根と呼ばれる。平均標高5000m。中央部は高原状。最高峰は、中国とタジキスタンにまたがるイスモイル・ソモニ峰 (7495m)。
■ヒンドゥークシュ山脈
主にアフガニスタン国内を北東から南西に1200kmにわたって延びる山脈。一部はパキスタン西部にも広がる。クシュは山や山地を指すのでさらに山脈をつけるのは日本語の翻訳地名によくある慣例である。また、ヒンドゥークシュはペルシャ語で「インド人殺し」を意味する。
■パンジ川
アムダリヤ川の支流で、アフガニスタンとタジキスタン共和国の国境の多くを成す川である。延長は1,125km。バダフシャーン地方にあるパミール高原内のZorkul湖に源を発し、両国の国境を成しながら西に流れる。タジキスタンのゴルノ・バダフシャン自治州の州都・ホログを抜けてバルタン川が合流する。そこで南西に向きを変え、ヴァクシュ川が合流しアムダリヤ川を形成する。
■アムダリヤ川
パミール高原・ヒンドゥークシュ山脈に源を発するパンジ川とヴァクシュ川が合流し、北西へ向かって流れる。元々はアラル海に注いでいたが、現在は河口部ではほぼ干上がっている。延長は2,400km。
■ヴァクシュ川
Vakhsh River)は、タジキスタン共和国の最も重要な河川の1つでアムダリヤ川の支流の1つである。 タジキスタンではSurkhob、キルギスではKyzyl-Suuとも呼ばれるが、どちらもペルシア語・キルギス語で「赤い川」の意味である。ヴァクシュ川の水力発電はソ連、そしてソ連崩壊後はタジキスタンに利用されている。タジキスタン国内だけでヴァクシュ水系に5つのダムが完成している。中でもヌレークダムは現在世界最高の高さのダムである。これら5つのダムでタジキスタンの総発電量の90%をまかなっている。
■ザラフシャン川
Zeravshan River 、は、中央アジアを流れる川。ザラフシャンは、ペルシア語で「黄金の水しぶき」の意味で、上流で砂金が取れることに由来する。古代ギリシアではPolytimetusの名で知られていた。以前はソグド川とも呼ばれた。タジキスタンのパミール高原周縁部に発し、西へおよそ300km流れた後で、パンジケントを通りウズベキスタンに入る。
■イスモイル・ソモニ峰
Ismoil Somoni Peak、は、タジキスタンにある山で、標高は7495m。タジキスタンの最高峰。ソビエト連邦が形成されていた時代は連邦の最高峰でもあった。このため、1933年にスターリン峰と名づけられ、スターリンが死去し影響力が薄れると。1962年にはコミュニズム峰と改められた。現在の名称になったのは1998年である。現在の名前は、サーマーン朝のイスマーイール・サーマーニーにちなむ。この山には氷河がある。
■ヌレークダム
Nurek Damは、タジキスタンを流れるヴァクシュ川に築かれたダム。300mの堤防は高さにおいて世界最大を誇る。北緯38度37分15秒、東経69度34分92秒に位置し、ソ連時代の1961年に着工、1980年に完工したアースダムである。水力発電を行っている。また、同国で建設中のログンダムはヌレークダムを越える高さで建設されており、完成時にはヌレークダムは世界2位の高さとなる予定。
<歴史>
■紀元前から近世
紀元前2000年から紀元前1000年にかけて、アーリア系諸部族がユーラシア草原から中央アジアに移住し、オアシス地方で独自の文化を創り上げていた。現在のタジキスタンの領土にあたる地域は、古来より最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境としてギリシア世界に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃し、パミール高原を境とする中国、インド・アフガニスタン、イラン・中東の結節点としての文明の十字路たる地位を確立してきた。
■16世紀
タジクたちの中心地域であるトランスオクシアナ(ウズベキスタン中央部からタジキスタン北西部)に、ボルガ河流域で強大になったウズベク人(シャイバニ・ウズベク族)が侵入し、ウズベク族の建てたブハラ・ハン国の支配下に入る。
■20世紀
ロシア革命の影響を受けたブハラ青年らは保守的なブハラ・ハン国を倒壊し、ブハラ人民ソビエト共和国を打ち立てた。
■1924年
ソビエト政府は中央アジアの各自治共和国を民族別の共和国に分割統治再編する「民族境界区分」の画定に踏み切り、それまでテュルクの定住民とまとめて「サルト」と呼ばれてきたイラン系のタジクたちが、タジク民族として公認されるとともに、ブハラの東部とトルキスタン自治共和国の南部が切り分けられて現在のタジキスタンの領域にタジク自治ソビエト社会主義共和国が設置された。
■1929年
タジクはウズベク・ソビエト社会主義共和国から分離し、ソビエト連邦構成国のひとつタジク・ソビエト社会主義共和国に昇格する。
■1991年
国名をタジキスタン共和国に改めるとともに、ソ連解体にともなって独立を果たした。1991年11月大統領選挙でナビエフが当選し、共産党政権が復活する。1991年12月21日、独立国家共同体 (CIS) に参加する。ロシアとは同盟関係にあり、国内にロシア軍が駐留している。
■1992年
タジキスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦がおこった。11月に最高会議(共産党系)はエモマリ・ラフモノフ(1952-)を議長に選び新政権を樹立し、1993年春までにほぼ全土を制圧した。
■1998年
監視団に派遣されていた秋野豊筑波大助教授が、ドゥシャンベ東方の山岳地帯で武装強盗団に銃撃され殉職する事件が起こった。1997年に内戦は終結、UNMOTは2000年和平プロセスを完了させ、以後は国際連合タジキスタン和平構築事務所 (UNTOP) が復興を支援した。2001年の対テロ戦争以来、フランス空軍も小規模ながら駐留している(2008年現在)。
■2011年1月12日
タジキスタン下院は、中国との国境画定条約を批准し、パミール高原の約1000平方キロメートルが中国に割譲されることになった。
■トランスオクシアナ
(Transoxiana)は、ラテン語で「オクサス川(アムダリヤ川)の向こうの土地」を意味する。具体的にはアムダリヤ川とシルダリヤ川に挟まれた地域をさす。今日のウズベキスタンとタジキスタン、それにカザフスタンの南西部の一部に該当する。 現在では、トランスオクシアナという用語は、主として8世紀以前の中央アジアに言及する時の歴史学的用語である。
■バクトリア
(Bactria)は、ヒンドゥークシュ山脈とアム(オクサス)川の間に位置する中央アジアの歴史的な領域の古名。現在はイランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、および、トルクメニスタンの一部にあたる。かつてその領域にはグレコ・バクトリア王国などが栄えた。
■タジキスタン内戦
1991年に独立を果たしたタジキスタン共和国で、1992年から1997年にかけて発生した内戦である。1992年の5月、ゴルノ・バダフシャン自治州やガルム地方のイスラム勢力や民主勢力が、エモマリ・ラフモンらタジキスタン共産党の権力機構やクリャーブ地方やホジェンド(かつてのレニナバード)地方など共和国で優遇されてきた地域に対し、武装蜂起して始まった内戦である。
■スピタメネス
(Spitamenes、古ペルシア語ではスピタメン、紀元前370年頃 - 紀元前328年)は、アケメネス朝ペルシア時代のソグディアナ、バクトリアの豪族。ダレイオス3世の死後ベッソスとともにアレクサンドロス大王に敵対したが、その後ベッソスを裏切って彼をアレクサンドロスに引渡し降伏した。その後更にアレクサンドロスに反旗を翻したが最後は暗殺された。
■タジク人
タジキスタンを中心に、アフガニスタン北部、ウズベキスタン東部、中国領新疆ウイグル自治区の西部などに居住するイラン系民族を指す近現代的民族区分。もともとは中世から近世にかけての中央アジアやイラン高原といった中央ユーラシアの乾燥地帯において、住民を2つのグループに大別しタージーク(タジク)とテュルクと呼んでいたことに由来する。現在タジク民族とされている人々は、バクトリア人、ソグド人、サカ人等、中央アジアの歴史に名を留める多くの民族の系譜を引いている。タジキスタンにおいては、1929年12月5日のタジク・ソビエト社会主義共和国設立時、約200万人のタジク人がウズベク領内に、約100万人のウズベク人がタジク領内に残された。
■コーカンド・ハン国
Qo'qon xonligiは、18世紀後半から19世紀前半にかけて、フェルガナ盆地を中心に中央アジアに栄えたテュルク系イスラム王朝。現ウズベキスタン領フェルガナ州西部のコーカンド(ホーカンド)を都としてカザフスタン、キルギス、タジキスタンの一部に及ぶ西トルキスタンの東南部に君臨する強国に成長、一時は清朝の支配する東トルキスタンにまで勢力を伸ばしたが、内紛と周辺諸国の圧力から急速に衰え、ロシア帝国に併合されて滅んだ。
■ブハラ・ハン国
Buxoro Xonligiは、16世紀初頭から20世紀初頭まで、ゼラフシャン川流域、ヌル・アタ山地、アム川流域に栄えた諸テュルク系イスラム王朝。現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンの一部に存在した。基本的に「ブハラに首都を置き、ハーンを推戴する国家」の総称なので、歴史的にはシャイバーニー朝、ジャーン朝、マンギト朝の3王朝を指す。
■国民
おもな民族はタジク人、ウズベク人、ロシア人など。タジク人の話すタジク語はペルシア語に近く、民族的にはイランに近いと考えられるが、タジク人を含めたタジキスタンのムスリム(イスラム教徒)の間ではスンナ派が多数を占め、イランと同じシーア派の十二イマーム派は殆どいない。むしろ、東部のパミール高原ではイスマーイール派の信徒が大部分を占め、パキスタン北部と同様に寛容と自由に溢れるイスラム文化を築いている。
■ウズベク
Uzbekは、西トルキスタン南部、ホラズム地方からフェルガナ地方にかけてに広がって居住し、中央アジアで最大の人口を抱えるテュルク系民族。民族国家として、中央アジアでもっとも人口の集中したトランスオクシアナ地方の大半を領土とするウズベキスタン共和国を持つほか、中国の新疆ウイグル自治区とアフガニスタンの北部マザーリシャリーフ周辺にもそれぞれ数十万人が住む。
■テュルク系民族
Turkic peoples、は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。トルコ語の「テュルク」にあたる言葉として、日本語では「トルコ」という形が江戸時代以来使われているが、この語はしばしばオスマン帝国においてトルコ語を母語とした人々を意味し、現在ではトルコ共和国のトルコ人を限定して指す場合が多い。
■パミール人
Pamiri、はタジキスタンのゴルノ・バダフシャン自治州とアフガニスタンのバダフシャーン州に住む、インド・ヨーロッパ語族に属する民族である。パミール人は元々は何世紀にも渡り、民族意識の大規模な変化を経て生き残ってきた歴史のある民族である。パミール人は広大な中央アジアの山々において発生したコーカソイドと同一であるとみなされているが、彼らは付近の民族であったペルシア民族の影響も大きく受けている。
■サーマーン朝
873年 - 999年)は、中央アジア西南部のトランスオクシアナ(マーワラーアンナフル)とイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系のイスラーム王朝。独立後のタジキスタンの通貨単位であるソモニも、「サーマーン家の人」を意味するソモニーに由来している。
■言語
公用語であるタジク語とロシア語が多く使用されている。ただし、2009年10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務付けられた。違反者には罰金が科される。ラフモン大統領も以前まではロシア語風の「ラフモノフ」と名乗っていたが、現在はタジク語風の「ラフモン」である。
■ムスリム
Muslim)は、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教徒のことである。キリスト教圏ではムハンマド教徒とも呼ばれ、日本でもかつては一部でこの語を用いた。女性形はムスリマだが、アラビア語社会以外では基本的には区別しない。また、中世キリスト教世界では、イシュマエル人、カルデア人、モーロ人、サラセン人などあたかも民族集団であるかのような名称でも呼ばれた。
■十二イマーム派
Twelver、は、イスラム教シーア派の一派。イラン、イラク、アゼルバイジャン、レバノンなどに分布し、イランの国教でもある。シーア派諸派の中では最も信者の数が多い最大派であり、そのために外部の観察者からはシーア派の主流派と見られることも多く、日本では報道などで単に「シーア派」といった場合は十二イマーム派を指すことがほとんどである。
■エネルギー
タジキスタンのエネルギー供給は世界一高いヌレークダムや近年完成間近であるサングトゥーダ・ダムなどで行っている、水力発電に完全に依存し、水が足りなくなる冬季においては首都では都市セントラルヒーティング用のボイラーを使った小さな火力発電所しかない。そのほかは、ザラフシャン川などに大規模ダムなどを作らず、夏季に安定した水供給を約束する見返りとして、ウズベキスタンやトルクメニスタンから冬季には電気を輸入している。
■タジキスタンの文化
タジキスタンの文化は何千年もの時を経て発展してきた。歴史的に、タジク人とペルシア人は相互の言語の語彙において多くを共有しており、アーリア人という大きな民族集団の一部を形成している。ゾロアスター教の教祖ザラスシュトラはバルフ地区の出身であり(北部アフガニスタンやトランスオクシアナ)、バクトリア人 (タジク人の祖先となった人々の一つ)であると考えられている。
■料理
タジク料理はウズベク料理、アフガン料理、ロシア料理、イラン料理、北部パキスタン料理と共通点が多く、ペルシア料理から発展して形成されたものである。有名なタジク料理としてはプロフ、サマヌー等がある。タジキスタンの国民食はプロフと緑茶である。
■ピラフ
pilav、は炒めた米を様々な具とともに出汁で炊いた料理。トルコ料理が有名であるが、インドから中近東を経て、南欧ギリシャにまで幅広く見られる米料理である。ピラフの語源となったピラヴはトルコでは一般的な料理であり、主に付合せとして食べられる。米のみのものや、様々な具材を炊込んだものがあり、入れた具材の名前を冠して「○○ピラヴ」と称される。
■ハルヴァ
穀物、胡麻、野菜、または果物に油脂と砂糖を加えて作られる菓子。東はバングラデシュから西はモロッコまで、アラブ人の文化が影響を及ぼした地域に広く見られ、冠婚葬祭にまつわる様々な行事で重要な役割を果たすことが多い。ほとんどのレシピにはバターまたはギーが含まれるが、逆に一部では植物油を使う。
■スポーツ
タジキスタンの山々ではヒルクライミングやマウンテンバイキング、ロッククライミング、スキー、スノーボード、ハイキング、登山といったアウトドアスポーツが盛んである。サッカーはタジキスタンで最も人気のあるスポーツである。タジキスタンサッカー連盟は国際サッカー連盟(FIFA)とアジアサッカー連盟(AFC)に加盟しており、FIFAワールドカップアジア予選やAFCカップなどFIFAやAFCの国際大会に参加している。
■アーリム・ハーン
(Emir Mohammed Alim Khan, 1880年 - 1944年)は中央アジアのブハラ・アミール国マンギト朝(英語版)最後のアミール(在位:1911年1月3日〜1920年8月30日)。最も重要なタジク人作家の一人、サドリーディン・アイニ(英語版)は、アミールの下での生活を活き活きと記述している。彼はタジク語を話すとして鞭を打たれ、後に著書『ブハラの死刑執行人』(Jallodon-i Bukhara, The Bukhara Executioners)においてアミールの支配下での生活を描いている。
■ラフモン・ナビエフ
(Rakhmon Nabiyev,1930年10月5日 - 1993年4月10日)は、ソ連、タジキスタンの政治家、タジキスタン共和国の初代大統領。第9期から第11期までソ連最高会議代議員、1976年から1986年までソ連共産党中央委員会委員。
■サイイド・アブドゥッラー・ヌーリー
Sayid Abdulloh Nuri 1947年3月15日 - 2006年8月9日は、タジキスタン共和国の政治家。タジキスタン・イスラム復興党の党首であり、タジキスタン内戦中は、タジク野党連合(UTO)を率いた。
■エモマリ・ラフモン
Emomali Sharipovich Rakhmonov)、1952年10月5日 - )は、タジキスタン共和国の政治家。同国大統領(1994年11月16日 - )。タジキスタン人民民主党党首。1952年10月5日クリャーブ州ダンガル地区ダンガル市出身。(今日のハトロン州クリャーブ市)。1971年、クルガン・テッパ市のバター工場の電気技師として働く。
■ユスプ・アブドサロモフ
(Yusup Abdusalomov、1977年11月8日 - )は、タジキスタンのレスリング選手。2008年北京オリンピックレスリングフリースタイル84kg級の銀メダリストである。2000年までアゼルバイジャン代表として国際大会に出場していた。2004年アテネオリンピックでは、フリースタイル74kg級に出場。予選リーグで敗退している。
■タハミネー・ノルマトワ
(Tahmineh Normatova - 1988年)は、タジキスタン出身の女優である。道端で物乞いをしているところをスカウトされ、モフセン・マフマルバフ監督作品「サイレンス」(1998年)に出演。演じた役のコルシッド[ホルシード]は盲目の少年という難しい役どころであったが、撮影が終了するまで、監督以下スタッフは誰も、本人が少女であることに気づかなかった。 |
タジキスタン Tajikistan
中央アジアに位置する共和国。首都はドゥシャンベ。旧ソビエト連邦から独立した。南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接する。
紀元前2000年から紀元前1000年にかけて、アーリア系諸部族がユーラシア草原から中央アジアに移住し、オアシス地方で独自の文化を創り上げていた。現在のタジキスタンの領土にあたる地域は、古来より最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境としてギリシア世界に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃し、パミール高原を境とする中国、インド・アフガニスタン、イラン・中東の結節点としての文明の十字路たる地位を確立してきた。
2011年1月12日、タジキスタン下院は、中国との国境画定条約を批准し、パミール高原の約1000平方キロメートルが中国に割譲されることになった。
■首都ドゥシャンベ
2008年の人口は679,400人。都市名はタジク語で「月曜日」という意味である(元々はペルシア語に由来し「土曜日の二日後」の意味)。月曜に市場が開かれた村から急成長したためである。1961年までは、「スターリンの町」を意味するスターリナバード(Stalinabad)という市名であった。ドゥシャンベの地は紀元前5世紀の遺跡も残る古くからの定住地であるが、19世紀まで町というより村という程度の規模でしかなかった。ロシア革命後、ボリシェヴィキの影響が中央アジアに及んでくると、タジク人・ウズベク人反革命軍の拠点となる。ブハラ・アミール国(マンギト朝)の最後のアミール、アーリム・ハーンはこの地に逃げ込んだ。(その後、カーブルに亡命)。1922年、ドゥシャンベは赤軍の手に落ちた。1925年には村から町へ行政上、昇格し、タジク自治ソビエト社会主義共和国の行政府が置かれた。
■ドゥシャンベ空港
Dushanbe Airportは、タジキスタン共和国の首都ドゥシャンベにある国際空港。
タジキスタン共和国大使館
外務省:タジキスタン共和国
在タジキスタン日本国大使館
■クルガン・テッパ
Qurghonteppa又はKurganteppa。は、タジキスタン共和国の南西部の都市。ハトロン州の州都。人口は85000人(2006年)で、同国で3位である。人口はロシアへの出稼ぎをするタジク人が多いため季節によって大きく変わる。ソ連時代、開拓のための運河の造成・灌漑事業で、多くの労働者が流れ込んでできた町。そのため民族構成も、タジク人、ウズベク人、ロシア人、タタール人、ウクライナ人、カザフ人、ギリシア人など多岐にわたる。
■ホジェンド
タジキスタン共和国ソグド州の州都。トルキスタン支脈とモゴルタウ山脈の間のフェルガナ峡谷への入り口に位置しシルダリヤ川が流れる。紀元前6世紀、古代ペルシア人の城砦が築かれ、古代ギリシア人は、これをキロポリ、又はキレスハタと呼んだ(古代ギリシア語で「果て」「最後の」の意味)。 紀元前329年、アレクサンドロス3世がギリシア人の入植地を建設、これをアレクサンドリア・エスハテ(最果てのアレクサンドリア)と呼び、シルダリア川北方のスキタイへの砦とした。
■ホログ
タジキスタン共和国のゴルノ・バダフシャン自治州の州都。人口は28,000人。パミール高原の標高2000mに位置する。Gunt川とパンジ川の合流点に拓けた町で、北と南には川の作り出した扇状地となっている。パンジ川はアムダリヤ川の支流のひとつで、タジキスタンとアフガニスタンとの国境となって流れている。
■イスファラ
タジキスタンの北部、ソグド州の一都市である。人口はおよそ37,300人である。イスファラは中央アジアで最も古い町の一つであり、最初の名前はアスバラ(Asbara)であった。イスファラのことは、10世紀の歴史書『タバリーの歴史』(タバリーの『諸使徒と諸王の歴史』のペルシア語訳)でも記述されているという。
■パンジケント
Panjikent/Panjekent/Panjakentは、タジキスタンの西部にあるソグド州のザラフシャン川沿いにある一都市であり、東方約50kmにはウズベキスタンの都市サマルカンドがある。 人口は33,000人(2000年の調査)。この地は、かつて存在した古代国家ソグディアナ(栗特)の町でもあった。
■ソグディアナ
(Sogdiana)は、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名。バクトリアの北、ホラズムの東、康居の南東に位置する地方。現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州に相当する。
■ヴォルフ
タジキスタン北西部ソグド州イスファラ郡のヤモアト(基礎自治体)である。人口2万3121人。キルギス西部のバトケン州バトケン郡に囲まれた飛び地になっており、北の本土とは幅4キロメートルのキルギス領で隔てられている。キルギスにとっても、ヴォルフが東西をつなぐ交通の要所となっている。
■ギッサール
Hissar、Gissarは、タジキスタン西部の都市。共和国直轄地内のギッサール地区の中心地でもある。首都ドゥシャンベから西へ15kmほど、海抜は約800mで、北にはギッサール山地が、南にはババタグ山地とアクタウ山地が聳え[1]、コファルニホン川の支流のカナカ川が流れる。
■クリャーブ
(Kulob)は、タジキスタン共和国のハトロン州の都市。人口は82,000人(2003年)で同国でも有数の都市である。首都のドゥシャンベの南東203kmに位置する。タジキスタンの現職大統領エモマリ・ラフモンの生誕地である。
■トゥルスンゾダ
Tursunzoda、は、タジキスタン西部の都市。ツルスンゾダなどとも表記される。タジク・アルミニウム社(TALCO)のアルミ精錬所があることで知られる。タジク・アルミニウム社の精錬工場、TadAZは中央アジア最大のアルミ精錬工場で、タジキスタンでも一、二の産業遺産である。
■ヌレーク
Nurek、Norakは、タジキスタンのハトロン州にある都市。ヴァクシュ川に面し、海抜は885m。首都ドゥシャンベの南東70kmに位置する。ヌレークは1960年に当時建設中だったヌレークダムのそばに街が造られ、そのダムは1980年に竣工した。近郊の 北緯38.281度 東経69.225度 地点にはロシア宇宙軍の敷地があり、宇宙軍の宇宙空間管制システムの高軌道宇宙物体発見光学・電子複合体「アクノー」が配備されている。
■ラフアフリ
タジキスタンのゴルノ・バダフシャン自治州にある一集落。日本で言う村であり、人口は219人(1997年)、面積は境界未定部分があるため正確ではないが、3km2程である。主に石で造られている家々は村の中心に密集しており、北は密林、南はランデルシ川、東と西は農地に囲まれている。北側の密林や周囲の集落には冷戦時代に大量の地雷が埋設してあるため住民の大部分は村の外へ出ることは無く、閉鎖的な環境となっている。
■ガルム
Gharm)は、タジキスタン共和国の共和国直轄地内のラシュト地区にある都市。タジク・ソビエト社会主義共和国時代のうち1955年まではガルム州があり、その州都でもあった。その後、ガルム州はゴルノ・バダフシャン自治州や共和国直轄地の管轄に移されて消滅した。
■ソグド州
ソグド州はタジキスタンを成す4つの州の一つで、同国の北西部に位置する。 面積は26,100平方キロメートル。人口は1,870,000人(2000年の調査) この地域は、ウズベキスタンのジザク州、ナマンガン州、サマルカンド州、フェルガナ州、キルギスタンのオシュ州と国境が入り組んでいる。シルダリヤ川が流れ込む。
■共和国直轄地
Region of Republican Subordination)は、タジキスタンの一地域。首府は首都のドゥシャンベで、人口は2008年の時点で160万6900人。13の地区に分かれている。アムダリヤ川の支流のヴァクシュ川が流れ、北にはギッサール山地とゼラブシャン山脈が、南には7600mを越えるダルヴァズ山地が聳えている。
■ゴルノ・バダフシャン自治州
(Gorno-Badakhshan Autonomous Province、とは、タジキスタン共和国内にある自治州。州都はホログである。タジキスタン東部に位置しており、中華人民共和国の新疆ウイグル自治区、アフガニスタン、キルギスタンと国境を接している。
■国名
公式の英語表記は、Republic of Tajikistan。通称、Tajikistan。国名は、タジク人の自称民族名(タージーク、トージーク)と、タジク語で「〜の国」を意味する合成語である。
1.面積:約14万3,100平方キロメートル(日本の約40%)(出典:CIS統計委員会)
2.人口:710万人(2010年:国連人口基金)
3.首都:ドゥシャンベ(Dushanbe)
4.民族:タジク系(79.9%)、ウズベク系(17.0%)、キルギス系(1.3%)、ロシア系(1.0%)、その他(0.8%)(タジキスタン共和国統計年鑑)
5.言語:公用語はタジク語(イランのペルシア語やアフガニスタンのダリー語などとともにイラン語派の西方方言群に属する。現在タジク共和国で使用されているタジク語北西方言は、ウズベク語などテュルク諸語との接触により文法や語彙の面で大きな影響を受けている)。ロシア語も広く使われている。
6.宗教:タジク人の中ではイスラム教スンニ派が最も優勢。パミール地方にはシーア派の一派であるイスマーイール派の信者も多い。
紀元前4世紀 アレクサンドロス大王により制圧
紀元前250頃 グレコ・バクトリア王国成立
1〜3世紀 クシャーン朝による支配
6世紀中頃〜 テュルク系遊牧民(突厥)の侵入、次第に住民のテュルク化が始まる
7世紀 ソグド人の活動が最盛期に
8世紀以降 アラブ勢力の侵入、土着のイラン系住民がイスラーム教を受容。テュルク系諸民族がこれらイラン系住民をタジクと呼ぶようになる
9世紀後半〜10世紀 イラン系のサーマーン朝成立(文芸・学問の発展)
13世紀 モンゴル帝国の支配
14世紀後半〜15世紀 ティムール帝国の支配
16世紀 シャイバーン朝の支配
18〜19世紀 ブハラ・ハン国、コーカンド・ハン国の支配
1860年代 現在のタジキスタン北部がロシア帝国に併合
1890年代 パミール地方の大部分がロシア帝国に併合
1924年 中央アジアの民族・共和国境界画定により、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内にタジク自治ソヴィエト社会主義共和国が成立
1929年 ウズベク共和国から分離し、タジク・ソヴィエト社会主義共和国に昇格
1990年2月 ドゥシャンベ事件(アルメニア難民移住への抗議行動を契機とする騒乱事件)
1990年8月23日 共和国主権宣言
1991年8月31日 国名を「タジキスタン共和国」に変更
1991年9月9日 共和国独立宣言
1992年5月 タジキスタン内戦状態に
1992年11月19日 ラフモノフ最高会議議長就任
1994年11月6日 ラフモノフ大統領選出
1997年6月27日 タジキスタン内戦の最終和平合意成立
1999年11月6日 ラフモノフ大統領再選
2006年11月6日 ラフモノフ大統領再選
■主要産業:農業(綿花)、アルミニウム生産、水力発電
■主要貿易品目(1)輸出 非貴金属(主にアルミニウム)、繊維・繊維製品(主に綿花・綿花製品)、輸送機関・車両・設備、鉱物、植物製品(2)輸入 鉱物(主にボーキサイト)、輸送機関・車両・設備、化学製品、植物製品、非貴金属、食料加工品
■ソモニ
タジキスタンの通貨。ISO 4217の通貨コードはTJS。補助単位は100分の1のディラム(タジク語: дирам)。ソモニの名称はタジキスタンの国父とされるイスマーイール・サーマーニーに因む。2000年10月30日、タジク・ルーブルに代わり1ソモニ=1000ルーブルのレートで導入された。
■タジキスタン共産党
Communist Party of Tajikistanは、タジキスタンの政党。党員は、2005年現在で2万5千人。機関紙「ニドイ・ランチバル」、「タジキスタンの声」、「トジキストン・オヴォジ」。
■タジキスタン・イスラム復興党
タジキスタンの政党。中央アジア5ヶ国で唯一、合法的に活動しているイスラム主義政党である。党員は、2005年現在で2万5千人。機関紙「ナチョト」。
■タジキスタン人民民主党
People's Democratic Party of Tajikistan。1994年12月10日に人民党として創設。1997年6月25日、現在のタジキスタン人民民主党の名称で再登録。党首はエモマリ・ラフモン(2007年4月14日、ラフモノフから改名)。機関紙「ミンバリ・ハルク」。
■汎テュルク主義
Pan-Turkism)は、ユーラシア大陸に広範に分布するテュルク系諸民族に対して、言語的、文化的、歴史的な共通性を根拠に、政治的、経済的な統合を目指すイデオロギーを指す。汎テュルク主義の起源は、19世紀後半のロシア帝国に求められる。 19世紀後半から、ロシア帝国内のムスリム知識人は、教育の近代化を目指す改革運動(ジャディード運動)を展開した。
■ブハラ人民ソビエト共和国
1920年10月8日 - 1924年9月19日)は、ブハラ・アミール国を滅ぼして樹立された人民共和国である。1924年9月19日に、ブハラ社会主義ソビエト共和国に改称。同年中には解体され、その領域はソビエト連邦のウズベク・ソビエト社会主義共和国、トルクメン・ソビエト社会主義共和国に引き継がれた。
■タジク・ソビエト社会主義共和国
ソビエト社会主義共和国連邦の構成共和国の1つ。1991年9月9日、タジキスタン共和国として独立した。1917年11月から1918年2月にかけて、タジキスタン北部にソビエト権力が樹立された。1918年末までに、ソビエト権力はタジキスタン全土に拡がった。
■独立国家共同体
Commonwealth of Independent States、は、ソ連崩壊時に、ソビエト社会主義共和国連邦を構成していた15か国のうちの12か国(正式には10か国)によって結成されたゆるやかな国家連合体(コモンウェルス)。当時の欧州共同体 (EC) 型の組織をモデルにしたが、独自の憲法や議会をもってはいない。
■ソ連崩壊
1991年12月25日にソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体された出来事である。1917年11月7日のロシア革命(十月革命)により成立したソビエト連邦は、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国に伍する超大国として君臨したが、74年後の1991年12月25日に崩壊した。同日、ソビエト連邦に比して規模が小さいロシア連邦が成立した。
■国際連合タジキスタン監視団
United Nations Mission of Observers in Tajikistan,UNMOT)はタジキスタンに展開した国際連合平和維持活動。1992年に発生したタジキスタン内戦を収拾するために、1994年12月16日に国際連合安全保障理事会決議968号によって創設された。
■経済
内戦後の経済発展は著しく、2000年から2004年のGDP成長率は9.6%に達した。主要歳入源はアルミニウム生産、綿花栽培、国外労働者からの仕送りである。国営Talco社が世界的規模のアルミ精錬を行っている。主にロシアなど国外での安い労働力提供で得られる仕送りはGDPの36%を超え、貧困層を多く抱えるタジキスタンにとって重要な収入である。
■鉱業
タジキスタンの鉱物資源で特筆すべきなのはアンチモン鉱である。2002年時点で3000トンを採鉱した。これは世界第4位であり、世界シェア2.1%に相当する。このほか、金、銀、水銀(20トン、世界シェア1.1%)、鉛を産する。有機鉱物資源は亜炭、原油、天然ガスとも産出するが量は多くない。ウラン鉱も存在する。
■映画
タジキスタンの映画産業は1929年に生まれた。「タジクキノ」と呼ばれる初の公式映画スタジオ (後にタジクフィルムと改名) は1930年に創業した。ソビエト連邦崩壊後の内戦 (1992−1997)を経たことで、タジキスタン映画界は一時衰退した。スタジオは外国の小さな案件を受諾することで生き残り、数えるほどしか自社製作の映画を制作できなかった。
■音楽
タジキスタンの伝統音楽は他の中央アジアの国の音楽形式と密接に結びついている。Shashmaqamはタジキスタンの民謡で多く見られるスタイルである一方、ファラク(英語版)は南タジキスタンで一般的である。
■文学
タジキスタン文学において古来より中心的な役割を果たしてきたのは現在はウズベキスタン領のサマルカンドやブハラである。近年においては、タジキスタン文学ではソーシャル・リアリズム(英語版)を意識した作品が多く見られる。タジク人はタジク文学とより一般のペルシア文学を区別するようなことはしないが、著名な作家や詩人のなかには少数だが区別を行う者もいる。
■ブルグゥ・ベルナチオ
(1866年 - 1924年)は、タジキスタンの政治家[要出典]。旧制の独裁制時代に国民を巻き込んだ大々的なデモを起こし、タジキスタンの独立に貢献した。オディンシュ出身であり、現地では英雄視されているため巨大な銅像が存在する。
■キュロス2世
Kyros、紀元前600年頃 - 紀元前529年は、アケメネス朝ペルシアの初代国王(諸王の王:紀元前550年 - 紀元前529年、皇帝と呼ぶことも)。キュロスは古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設した。古代ペルシア語名をクリシュなどといい、ギリシア語名をキュロス(クロス)、ラテン語名をキルス、古典ヘブライ語名をコレシュという。
■エンヴェル・パシャ
İ陳陳提轣蛹 Enver Pasa、1881年11月22日-1922年8月4日)はオスマン帝国末期の軍人・政治家。青年トルコ人革命の指導者。1913年以降オスマン帝国の兵権を掌握し、1918年まで三頭政治を行う。長じてイスタンブルの陸軍士官学校に入学し、ついで陸軍大学でドイツ語とドイツの軍事理論を学ぶ。1902年に高級参謀過程を次席で卒業し、翌1903年にマケドニア駐留の第三軍団に配属された。
■ヌモンジョン・ハキモフ
Numondzhon Hakimov1978年9月5日 - )は、タジキスタン出身のサッカー選手。2009年タジキスタン最優秀選手に輝き、2010 FIFAワールドカップ・アジア予選にてタジキスタン代表最多得点をあげたタジキスタンを代表するストライカーの一人である。2008年に古巣ヴァフシュ・クルガン・テッパに復帰し、30得点を記録して自身初のタジク・リーグ得点王を獲得。翌2009年には15得点をあげクラブのリーグ優勝に大きく貢献。
■サドリディン・アイニー
Sadriddin Ayni1878年 - 1954年)は、ソ連、タジク共和国(現:タジキスタン)のペルシア語詩人、小説家であり、タジク近代文学(タジキスタン文学)の創始者でもある。ペルシア古典詩人たちの優れた研究論文を発表した。1878年、ブハラ・ハン国にて生まれる。後にブハラで高等教育を受け、教育者になり、教育改革運動に従事する。1918年にアイニーによって作られた『挽歌』はタジク文学最高の詩とされている。
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