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ロシア連邦
Russian
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■ユーラシア大陸
その語源がユーロ (Euro) + アジア (Asia) にあることからもわかるように、ヨーロッパとアジアとを合わせた地形的に独立した地域を指す。アジアとヨーロッパの境界は人為的なものなので明確でないが、ウラル山脈、カスピ海、大コーカサス山脈、黒海などを境にする説が主流である。六大陸の中で一番大きい大陸である。
■北極海
Arctic Oceanは、ユーラシア大陸、グリーンランド、北アメリカ大陸などによって囲まれた海。北極点は北極海内にある。北氷洋(ほっぴょうよう)、北極洋(ほっきょくよう)とも呼ばれる。北極海の水域を始めて探検したのはヴァイキングであり、11世紀ごろにはコラ半島から白海周辺にまで到達していた。14世紀には北ドヴィナ川の下流域に位置するホルモゴルイの町が交易拠点として栄えた。大航海時代が始まり、アメリカ大陸が発見されると、航海熱が高まり、北極海を通ったアジアへの最短ルートがあると信じられるようになった。
■白海
Vienanmeriは、ロシア北西部に位置するバレンツ海の湾である。バレンツ海の最南部に位置し、西をカレリア、北をコラ半島に囲まれている。白海の南東岸には重要な港としてアルハンゲリスクがある。アルハンゲリスクはロシアの国際交易の歴史のなかで重要な存在であり、ロシアが18世紀にバルト海に進出する前はロシア唯一の海港として西欧(モスクワ会社)や北欧との貿易で栄えた。
■バレンツ海
Barents Seaは、北極海の一部で、北西はスバールバル諸島、北東はゼムリャフランツァヨシファ、東はノヴァヤゼムリャに囲まれた海。オランダの探検家ウィレム・バレンツにちなんで命名された。東はカラ海、西はノルウェー海に繋がる。最南西部の大湾は白海と呼ばれる。
■カラ海
ロシア北部に接する北極海の一部で、ノヴァヤゼムリャとセヴェルナヤ・ゼムリャ諸島の間の海。カラ海の西はバレンツ海、東はラプテフ海に繋がっている。ソ連は1960年代から80年代にノヴァヤゼムリャ島近海5ヵ所で原潜を含む原子炉を廃棄した。1993年にロシアが報告した白書(White Book)によると、廃棄された放射性物質には使用済み核燃料を含まない原子炉10基、使用済み核燃料を含む原子炉7基(内1基は使用済み核燃料をコンクリート詰めにしたもの)などが含まれており、投棄時の放射能は88.8x1015ベクレルと推定された。
■タガンログ湾
アゾフ海北東にある湾である。タガンログ湾の北東端はドン川の河口となっている。湾の全長は140 km、平均水深は5 mであるが、極めて浅い箇所が多い。12月から5月は氷結する。湾の北部と南部には砂嘴で特徴的な海岸線を形成している。
■ウラル山脈
Ural Mountainsは、ロシアを南北に縦断する山脈。ユーラシア大陸をヨーロッパとアジアに分ける境界線の北側を形成している。ウラル山脈の西部はヴォルガ川水系に属し、カマ川やベラヤ川などの大河が流れ大陸性気候の森林地帯になっている。
■アルタイ山脈
アルタイ山脈は西シベリアとモンゴルにまたがる山脈。モンゴル語で「金の山」を意味する。東はウプサ・ノール、キルギス・ノールなどの湖が点在する北西モンゴル台地に接する。
■ヴォルガ川
ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3,690kmにおよぶ。モスクワとサンクトペテルブルクの中間にあるヴァルダイ丘陵の海抜225mを源流とし、モスクワの北をトヴェーリ、ヤロスラヴリと東に流れ、ニジニ・ノヴゴロドでオカ川と合流する。
■アムール川
ユーラシア大陸の北東部を流れる川である。中国では別に黒河、黒水などとも呼ばれる。近年は中国側の経済発展及び環境保全の概念がない計画等による開発のため、河川の汚染が深刻になりつつある。ロシア側アムール川周辺住人は河川汚染を憂慮しておりオホーツク海等の環境汚染により日本も警戒している。
■イセチ川
Iset)は、ロシアのスヴェルドロフスク州、クルガン州、チュメニ州を流れる川である。トボル川の左支流で、最終的にはエルティシ川・オビ川を経て北極海へ流れる。沿岸の主要都市にはエカテリンブルク、カメンスク=ウラリスキー、カタイスク、ダルマトヴォ、シャドリンスクなどがある。エカテリンブルクからシャドリンスクにかけての上流・中流域は重工業地帯で、汚染も激しい。
■クバン川
ロシア、北カフカスを流れる川である。カフカス山脈のエルブルス山付近に源を発し、北に流れてから西に向きをかえてタマン半島北岸のテムリュークでアゾフ海に注ぐ。川の大部分は航行可能である。流域には、クバン・コサックの根拠地が置かれた。
■ドニエプル川
ロシアから始まって、ベラルーシを経てウクライナに流れ黒海に注ぐ川である。総延長は、2285km。北ロシアの標高220mのヴァルダイの丘に源流を発し、東ヨーロッパ平原を南へ流れて、最終的には黒海に流れ込んでいる。川は、115kmの長さに渡って、ベラルーシとウクライナの国境になっている。下流の約800km部分には、巨大ダムによるダム湖が連続している。
■ミアス川
ロシアのウラル山脈東方、チェリャビンスク州とクルガン州を流れる川である。イセチ川の右支流であり最大の支流で、最終的にはエルティシ川・オビ川を経て北極海へ流れる。
■カマ川
ロシアの川で、ヴォルガ川の支流。ウラル山脈の西側に発し、かつてはヨーロッパ・ロシアからシベリアへの交易のための水路として使われていた。源流はウドムルト共和国にあり、東に流れ、ペルミ地方に入り南、西と向きを変え、再度ウドムルト共和国に入り、タタールスタン共和国でヴォルガ川と合流する。
■ベラヤ川
ロシアのバシコルトスタン共和国を流れる川である。ヴォルガ川水系カマ川の支流で、全長は1,430kmにおよぶ。ウラル山脈の南部に源を発し南西へ流れ、山脈の南端で北に転じる。
■タイガ
ロシア語でシベリア地方の針葉樹林の意。ユーラシア大陸、北アメリカ大陸の北部(亜寒帯)に発達する針葉樹林の純林のことを指す。 本来は、閉鎖林ではなくツンドラへの移行帯である樹高の低い疎林を示す言葉であったが、高緯度地域の針葉樹林帯という意味も包含し、北方林(Boreal forest)と同義になりつつある。
■ウコク高原
Ukok Plateau、は、ロシアのシベリア南西部、中華人民共和国、カザフスタン、モンゴル国との近くに位置するアルタイ山脈地方の草原。人里離れ、大自然が保たれている。大規模な考古学調査で、永久凍土から古来アルタイ山脈で暮らしていたパジリク人と見られる凍ったミイラが見つかった。
■ロシア帝国
18世紀初めから第一次世界大戦中の1917年にロシア革命によって打倒されるまでに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、満州などの広いユーラシア大陸の北部を支配していた。帝政ロシアとも呼ばれる。
■ロマノフ朝
1613年 - 1917年は、ロシア帝国の王朝である。リューリク朝は1598年1月、フョードル1世の死で断絶した。以後、ロシアでは皇位をめぐる動乱期に入り、その中で16世紀末のフョードル・ニキーチチ・ロマノフの代にロマノフ家が台頭して動乱期を制し、その息子であるミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが1613年に推戴されて初代ツァーリに即位した。ロマノフ家はリューリク朝と直接の血縁関係は無いが、イヴァン4世の第1夫人がロマノフ家出身であるという縁戚である。こうして、ここに300年続くロマノフ朝が始まった。
■ソビエト連邦
1922年に世界初の社会主義国として成立し、1991年に解体消滅した連邦国家である。略称はソビエト連邦、ソ連、ソビエト、ソ連邦など。世界初の社会主義国で、ソビエト連邦共産党の一党独裁国家であるが、同時に軍事大国としても有名であり、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国と双璧を成す超大国であった。1991年末に解体され、構成国は独立した。
■ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
旧暦1917年10月25日(新暦11月7日)の十月革命で成立、1922年、白ロシア、ウクライナおよびザカフカースとともにソビエト連邦を形成。1991年に成立したロシア連邦の前身。連邦国家であるため、国(ソビエト連邦)の中の国(ロシア連邦共和国)に国(自治共和国)があるという珍しい国家形態が形成された。1991年のソビエト連邦解体時点では、ロシア本土と合わせ17の共和国から構成されていた。
■ロシア人
ロシア連邦の国民あるいはスラヴ系の民族である。ロシア人は東スラヴ人に属する民族である。ロシア語を母語として話す。ロシア連邦(80%以上)・ウクライナ(17.3%)・ベラルーシ(11.4%)などを中心に、旧ソビエト連邦構成国に広く居住する。ロシアでは最も人数の多い民族集団である。
■東スラヴ人
スラヴ人の中で東スラヴ語を話す、現代のウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人や近隣の少数民族のことを指す。中世には、東スラヴ人のルーシ人がキエフ・ルーシ(リューリク朝)を支配した。
■ヴァリャーグ
東スラヴ人による呼称でゲルマン人の一派を指す。一般的には、スウェーデン・ヴァイキング(ノルマン人、移動ルートも参照)の事であると現代では解釈されている。ロシアでは15世紀までスウェーデン人をヴァリャーグと呼んでいた。
■バシキール人
主としてロシア連邦のバシコルトスタン共和国に居住するテュルク系民族。自称はバシコルト。1989年のデータで、ソ連領内に144万9千人が居住していた。人種的には、モンゴロイドとコーカソイドの混血。7世紀〜8世紀、バシキール人の祖先は、遊牧国家ペチェニェグの下に構成遊牧民の一部として統合されており、カスピ海沿岸及び北カフカーズのステップに居住していた。
■フィン人
北ヨーロッパに居住する民族の一つ。居住域は「フィンランド」と呼ばれ、現在のこの地域にはフィンランド共和国がある。フィンランド国民(フィンランド人)を構成する主要な民族である。
■ノルマン人
スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人。ロシア平原(ガルダリケ)に侵入した一派はヴァリャーグと呼ばれる。ヴァランジャンとも言う。彼らはこの地で「ルーシ・カガン国」、「ノヴゴロド公国」、「キエフ大公国」を建国した。さらに黒海に進出し、東ローマ帝国のコンスタンティノポリス侵攻も行った。
■タタール人
おもにロシア・CIS諸国(旧ソ連)に居住するテュルク系民族。タタールという名は、もともとキプチャク・ハン国支配期のロシア人によって東方・南方の草原地帯に住むモンゴル帝国のモンゴル系・テュルク系の人々を漠然と指す民族名称であったのが、ロシア帝国の拡大とともにロシア支配下の旧キプチャク・ハン国系のテュルク系ムスリム(イスラム教徒)の人々を指す語に転じ、やがて自称としても用いられるようになったものである。
■アルタイ人
Altay or Altai peopleは、アルタイ共和国、アルタイ地方やトゥヴァ共和国及びモンゴリア周辺に居住しているテュルク系民族である。全人口は20万ほどと見積もられ、内64000ほどがアルタイ共和国に居住している。現在、アルタイ人はアルタイ共和国の人口の31%をしか成していない。
■キエフ大公国
9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。ルーシ族と呼ばれる北欧系のヴァイキングによって建国され、リューリク朝によって統治された。10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化し、キリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。国民国家史観を中心とした研究史においては、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの三国の共通の祖国とされる。
■ジョチ・ウルス
13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・ハーンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。
■ルーシ
中世東欧にあった地名。ドニプロ川の中流域、現在のウクライナのキエフ・チェルニーヒウ・ペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイが形成する三角地帯において存在したと考えられている。キエフ大公国の分裂後、当地域を支配したポーランド王国、リトアニア大公国、モスクワ大公国、コサック国家の君主、諸教会の主教・司教の称号などにおいて雅号として用いられた。ルーシヤ、ルテニア、ロシアの語源となった。現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシアの雅号として用いられる。
■モスクワ大公国
キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。ロシア帝国の前身。アレクサンドル・ネフスキーの死後、その末子ダニール・アレクサンドロヴィチに与えられた分領(モスクワ公国)として成立し、14世紀初頭に版図を拡大し、コロムナ、ペレヤスラヴリ・ザレスキー、モジャイスクを得た。
■ロシア・ツァーリ国
1547年にイヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称である。16世紀までに、ロシアの統治者は強権を振るう専制的な存在、ツァーリへと変貌を遂げた。この称号を帯びることにより、モスクワの元首は自らをビザンツ皇帝やモンゴルのハーンと並ぶ大国の君主だとを強調しようとした。
■ロシア正教会
Russian Orthodox Churchは、正教会に属するキリスト教の教会であり、数多くある独立正教会の一つである。正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則だが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。
■マイコープ文化
(Maykop culture)は、紀元前3700-2500年頃の青銅器時代にロシア南部に栄えた考古文化である。範囲はケルチ海峡に臨むタマン半島から、現在のダゲスタン共和国国境近くに及び、クバン川流域、ほぼ現在のアディゲ共和国を中心としていた。ダゲスタンの首都マイコープで発見された王墓から命名された。このマイコープ墳墓は1897年に初めて発見され、金・銀製の遺物を甚だ豊富に副葬していた。
■パジリク古墳群
ロシア連邦、南シベリアのアルタイ地方中央付近、アルタイ共和国の標高1600mのパジリク河岸にある大型円墳5基、小型円墳9基からなる墳墓(クルガン)群。年代については、発掘担当者は、紀元前5世紀と考えたが、紀元前3、同2世紀のものと考える研究者もいて論争があり、放射性炭素年代測定では、紀元前400±140年の測定値が出ていると報告されていた。
■南オセチア紛争
、South Ossetia War)、別名ロシア-グルジア戦争(Russia-Georgia War)は、グルジアとロシア間の戦争。南オセチアやアブハジアの分離派と統一派の戦いでもある。2008年8月に始まり、陸戦、航空戦、海戦の全てが行われた。別名8月戦争(August War)とも。
■ソ連・ポーランド不可侵条約
1932年にポーランドとソ連の代表により調印された不可侵条約である。この条約はナチス・ドイツとソ連のポーランド侵攻で1939年9月17日にソ連により一方的に破棄された。ポーランド・ソビエト戦争の後、ポーランド政府は、ドイツ及びソビエトの両者から「等距離」の位置にいる政策を取っていた。ほとんどのポーランドの政治家は、左翼も右翼も含め第一次世界大戦の頃からのフランスとの同盟関係に強い信頼を置いており、ドイツやソビエトどちらの支援も信じていなかった。
■プロホロフカの戦い
第二次世界大戦の東部戦線(独ソ戦)においてドイツ国防軍第4装甲軍とソビエト赤軍第5親衛装甲軍との間に行われた戦いであり、戦車同士による激しい戦闘が行われた。1943年7月5日、ドイツ国防軍最高司令部はツィタデレ作戦を発動させた。ドイツ軍の戦略目的はクルスクに形成されたソビエト赤軍突出部を押し返すことであった。この作戦ではドイツ軍は5個軍でクルスクのソビエト赤軍突出部を両側から挟撃、撃破することになっており、これが成功すれば、ドイツ軍は戦略的主導権を奪い返すこととなるはずであった。ソビエト赤軍最高司令部は、ドイツのこのような攻撃を予想しており、戦線前面において準備を整えていた。
<世界遺産>
■サンクト・ペテルブルグ歴史地区と関連建造物群
これらの建築遺産は、バロック様式・新古典主義にロシア文化が融合したものとして特徴づけられる。
■キジ島の木造教会
ロシア連邦カレリア共和国(メドヴェージェゴルスキー地区 Medvezhyegorsky District)のオネガ湖に浮かぶ島。キジ島は、ロシア正教会の木造教会建築の美しいアンサンブルで知られる。
■モスクワのクレムリンと赤の広場
ロシア語ではクレムリは「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。しかしながら、日本語内において単にクレムリンと言った場合は、モスクワにある宮殿を指すことが多い。
■ノブゴロドの歴史的建造物群とその周辺地区
名前を訳すと『新しい街』の意になるが、その名に反してロシアで最も古い都市。なお、この都市はノヴゴロド公国以前のルーシと呼ばれる人々によって建国されたと言う「ルーシ・カガン国」の中心的都市で、旧名は『ホルムガルド』(Holmgard、古ノルド語:「川の島の城」)と呼ばれていたと言われている。この都市は、考古学調査により、860年代か870年代に火災によって焼失しておりその後再建されたと言う。
■ソロヴェツキー諸島の文化・歴史遺産群
歴史的に諸島は有名なロシア正教のソロヴェツキー修道院(Solovetsky Monastery)で知られている。キリロ=ベロゼルスキー修道院(Kirillo-Belozersky Monastery)からやってきた2人の修道士により、15世紀後半に設立された。
■セルギエフ・ポサドのトロイツェ・セルギー大修道院の建造物群
1345年、ラドネジの克肖者聖セルギイにより至聖三者(三位一体)を記憶した聖堂が建てられ、これが修道院の起源となる。建立直後からラドネジの聖セルギイの指導下で修道院は大きく発展したが、その後も長い歴史の中で修道院は発展・拡大を続けた。
■コローメンスコエの主昇天教会
コローメンスコエ村が歴史的文書に最初に登場したのは、1339年イワン1世(イワン・カリタ)が発した遺言においてである。その後、歴代モスクワ大公によって宮殿が造営された。1667年アレクセイ・ミハイロヴィッチの木造離宮が建設された。
■コミの原生林
コミの原生林は、ロシア連邦コミ共和国内のウラル山脈北部に存在するロシアの世界遺産の一つである。その面積32,800 km2 は、ヨーロッパの原生林としては最大級である。
■ウラジーミルとスズダーリの白石の建造物
ロシア・ヴラジーミル州の古都ウラジーミルおよびスーズダリを中心に点在する聖堂・修道院・城塞など八つの記念碑的建造物群で、大理石で造られ精巧な浮彫が施された白亜の外壁を特徴としている。
■カムチャッカ火山群
南は千島列島の占守島と千島海峡を隔てて向かい合うロパトカ岬、中央部では東西に約450kmあり、北端のパラポリスキー地峡で100kmほどの幅に狭まった、南北に長い紡錘形をしている。
■バイカル湖
世界で最も古い古代湖でもある。元々は海溝であったとされ、約3,000万年前に海から孤立、その後長い期間をかけて徐々に淡水化していった。一般的な湖沼は流入し堆積する土砂などによって数万年もすれば埋まってしまい姿を消す。
■アルタイのゴールデン・マウンテン
中国やモンゴルにもまたがるアルタイ山脈のうち、ロシア領内にあるアルタイ自然保護区、カトゥン自然保護区(Katun Natural Reserve)、テレツコイェ湖(Lake Teletskoye)、ベルーハ山(Belukha Mountain)、ウコク高原(Ukok Plateau)を含む地域が対象になっている。登録にあたっては、この地方では、ステップ地域から高山植物まで実に多彩な植生の変遷をたどることができ、シベリア中央部の自然環境が良好に保存されていることなどが評価された。
■西コーカサス山脈
黒海からエルブルス山に至るコーカサスの西部地方を指す名称で、ユネスコの世界遺産登録地を含んでいる。この地域は、コーカサス山脈の西端にあたるロシアのリゾート地ソチの北方50 kmに位置している。ユネスコの専門家たちからは、ヨーロッパでは見るべき人間の介在を経験しなかった唯一の巨大山岳地帯として評価された。その環境は、低地から氷河地帯まで、目まぐるしくかつ極端に変化していく。
■ウヴス・ヌール盆地
モンゴル国最大の湖。日本ではウヴス湖とも表記される。海抜753 m、面積3350 km2。その北東部は、ロシア連邦のトゥヴァ共和国に含まれる。湖岸の最大の集落は、オブス県の県庁所在地オラーンゴムである。この塩分の濃い浅い湖は、かつて数千年前にこの一帯にも海が広がっていたときの名残である。
■ウランゲル島保護区の自然体系
Wrangel Islandは北極海、東シベリア海とチュクチ海との間にあるロシア領の島。極東連邦管区のチュクチ自治管区に所属している。大陸とはロング海峡を挟む。経度180度の子午線が通るが、日付変更線は島の東側に引かれている。アザラシ、レミング、ホッキョクグマの繁殖地となっている。また、夏の間は多くの鳥がやってくる。最後の氷河期、ウランゲリ島にはマンモスが生息していた。このマンモスは島嶼化によって一般的なマンモスより小型だった。考古学的証拠から、紀元前1700年頃に最後のマンモスがこの島で原住民に狩猟されて絶滅したと考えられている。
■鉱業
ロシアは最も鉱物資源が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ(以下の統計数値は「鉱業便覧 平成14年版 経済産業調査会」による2002年時点のものである)。
■原油
原油(げんゆ)は油田から採掘したままの状態で、精製されていない石油をいう。採掘後、ガス、水分、異物などを大まかに除去したものが原油である。黒くて粘り気のある液体であり、様々な分子量の炭化水素の混合物が主成分である。他に硫黄、酸素、窒素を含む化合物を少量含む。組成は炭素が83-87%、水素が11-14%、硫黄が5%以下、その他の元素は2%以下である。炭素と水素以外の組成は産地によって大きく異なるが、理由はまだ解明されていない。
■天然ガス
natural gasは、一般に天然に産する化石燃料である炭化水素ガスのことを指す。広義には、地下に存在するガス、または地下から地表に噴出するガス一般のことであり、この中には化石燃料ガス(可燃性ガス)だけでなく、窒素や酸素、炭酸ガス、水蒸気、硫化水素ガス、亜硫酸ガス、硫黄酸化物ガスなどの不燃性ガスも含まれる。これら不燃性ガスの多くは火山性ガスである。
■軍需産業
ロシアにとって軍需産業はソ連時代から重要な地位を占めており、今後も積極的に輸出拡大を続けるとしている。輸出額は2011年は100億ドルを超え、2012年には150億ドルを超えるとされ順調に推移している。民間転用も積極的に行っており、宇宙・航空・情報通信産業等多岐にわたる。
■民族
ロシアには現在182の民族が存在しているが、80%以上は東スラブ系民族のロシア人(民族名)である。ロシア人以外にも、ウクライナ人、チェチェン人、イングーシ人、オセット人、カルムィク人、タタール人、バシキール人、チュヴァシ人、トゥヴァ人、サハ人、エヴェンキ人、タイミル人、マリ人、モルドヴィン人、カレリア人、イヌイット、ドイツ人、ユダヤ人など多くの非スラヴ系民族がいるが、公用語であるロシア語が民族共和国を含め全域でほぼ完全に通用する。
■宗教
ロシア人を含めた多くの民族が正教会の信徒であるが、カトリック、プロテスタントやイスラム教、ユダヤ教、仏教などの信徒も少なくない。
■ロシア料理
ロシア古来の農民料理は、ロシアの気候風土や素朴な農民文化を反映し、全体としては保存食を多用した煮込み料理や炙り焼き料理、スープが多いが、今日のロシア料理は多面的な側面を持っている。ロシア料理が豊穣かつ多様な性格をもつのは、ロシアそのものが帝国として広範かつ多様な文化を包含してきたからである。
■ビーフストロガノフ
beef stroganoff、16世紀初頭にウラル地方で成功した貴族ストロガノフ家の家伝の一品であったとされるが、考案者と生まれた時代については諸説存在する。
■ロシア建築
ルーシ、またロシアは10世紀まで木造建築のみであった。キエフ・ルーシ(現ウクライナ中心)が興り、今日「黄金の環」と呼ばれるウラジーミル、ロストーフ、モスクワなどの都市が形成。城壁や教会建築が活発化した。
■黄金の環
ロシア、モスクワ北東近郊にある都市群の名称。古くは、ザリエーシェ Zalesyeとも呼ばれた。これらの古い都市は、ロシア史、ロシア正教会における精神文化、芸術、建築などにおける源流が形成された地域として重要視される。これらの都市は、11世紀から15世紀末にイワン雷帝が各地を征服し中央集権体制を構築するまで、ロシア諸公国の首都として栄華を誇った。
■ロシア文学
いわゆるロシア文学が生まれたのは比較的遅く17世紀になってからであり、詩と戯曲から始まったが、間もなく非常に豊かな小説の伝統が生まれた。続く「ロシア文学の黄金時代」にはフョードル・ドストエフスキー、ニコライ・ゴーゴリ、レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフといった偉大な小説家たちが現れ、世紀の終わりには劇作家アントン・チェーホフも登場した。
■ロシアの音楽
ロシア音楽はその特徴として、ロシア帝国からソビエト連邦、現代のロシアの時代にかけて存在し続ける民族的マイノリティ(ユダヤ人、ウクライナ人、ジプシーなど)から多大な影響を受けている。
■サンボ (格闘技)
ソビエト連邦で開発された格闘技。ソビエト連邦においては、軍隊格闘術としても発展した。サンボの創始者の1人として、帝政時代のロシアにおいて、サハリンから神学生として日本に渡り、講道館にて嘉納治五郎師範のもとで柔道を学んだワシリー・オシェプコフが挙げられている。サンボという名称は、もう1人のサンボの創始者である、帝政ロシア軍人であったビクトル・スピリドノフがボクシングと柔術をもとに独学で編み出した格闘技(「武器を持たない自己防衛)」に由来する。
■ウラディーミル・アシュケナージ
1937年7月6日 - は、ソヴィエト連邦出身のピアニスト、指揮者である。ヘブライ語の姓(「ドイツ人」の意)が示す通り父方はユダヤ系だが、母は非ユダヤ系のロシア人である。現在は妻の故国であるアイスランドの国籍を持ち、スイスに在住している。6歳でピアノを始め、2年後にはモスクワでデビュー演奏会を開いた。9歳の時にモスクワ音楽院附属中央音楽学校に入学し、アナイダ・スンバティアンに師事した。
■アイザック・アシモフ
Isaac Asimov, 1920年1月2日−1992年4月6日はアメリカの作家、生化学者。非常に成功した多作の作家であり、その著作は500冊以上を数える。彼の扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたり、デューイ十進分類法の10ある主要カテゴリのうち9つにわたるが、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。アシモフは1920年1月2日、ロシアのペトロヴィッチにおいて、父ユダ (Judah Azimov, Judah Ozimov) と母アンナ・レイチェル (Anna Rachel Azimov, Anna Rachel Ozimov) の間にユダヤ系ロシア人イサアーク・ユードヴィチ・オジモフとして生まれた。
■アントン・アレンスキー
1861年7月12日 ロシア・ノヴゴロド - 1906年2月25日 フィンランド領テルヴァヨキ近郊ペルキャルヴィ(現ロシア領ゼレノゴルスク)は、ロシア帝国の作曲家・音楽教育者。1880年代半ばに、(とりわけ結婚生活の不運が祟って)深刻な精神病を患う。1895年に教職をなげうってサンクトペテルブルク宮廷礼拝堂の楽長に就任し、1901年までピアニスト、指揮者としても幅広く活躍した。その後は豊かな年金を与えられ、公職に就かずに過ごした。最期は結核に命を奪われたが、晩年は飲酒や放蕩(博奕)が暗い影を落としていた。
■ユーリ・エゴロフ
1954年5月28日 - 1988年4月16日は、旧ソ連のピアニスト。オランダに亡命し、西側でゲイであることをカミングアウトした。カザンに生まれる。6歳から17歳までカザン音楽院に学ぶ。1971年に17歳でロン=ティボー国際コンクールで4位入賞。その後モスクワ音楽院で6年間ヤコフ・ザークに師事。1974年にチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で第3位に入賞、ブロンズ・メダルを獲得。
■ヴェニアミン・カヴェーリン
Venimian Aleksandrovich Kaverin、1902年4月19日〈旧暦4月6日〉 - 1989年5月2日はソ連(ロシア)の小説家。本名はヴェニアミン・アレクサンドロヴィチ・ジーリベル。プスコフ生まれ。両親は音楽家であった(父は軍楽隊に勤め、母は貸しピアノ屋を経営)。母および兄のレフは文学を好み、その影響で自身も若くして文学の道を志す。十代の半ば以降、ユーリイ・トゥイニャーノフ(兄の級友であった。後に姉レーナの夫にもなる)に指導を受けた。非ユークリッド幾何学の考え方にヒントを得た幻想的短編「第十一の定理」を新人向けのコンクールに応募し、三位に入賞。
■エフゲニー・キーシン
1971年10月10日 - はロシアのピアニスト。モスクワ生まれ。わずか2歳でピアノを学び始める。のちグネーシン音楽大学に進んで、アンナ・パヴロフナ=カントルに今日まで師事する。10歳でモーツァルトのピアノ協奏曲(K.466)を弾いてデビュー、11歳で初リサイタルを開くなど、幼い頃から神童ぶりを発揮する。12歳の時、ドミトリー・キタエンコの指揮するモスクワフィルハーモニー管弦楽団で弾いたショパンのピアノ協奏曲が発売され、世界中の注目を浴びることとなる。
■ミハイル・グリンカ
Mikhail Ivanovich Glinka、1804年6月1日スモレンスク近郊ノヴォスパスコイェ Novospasskoye - 1857年2月15日ベルリンは国外で広い名声を勝ち得た最初のロシア人作曲家。近代ロシア音楽の父と呼ばれる。ウクライナ系。経済的に恵まれていた彼は若いうちからピアノ、ヴァイオリン、声楽、指揮、そして作曲を熱心に学習することができたが、音楽教育はごくわずかしか受けておらず、同胞の作曲家よりは、むしろプーシキンら当時の詩人や画家などと交遊を結んだ。やがてはイタリアなどの多くの諸外国で勉強する機会を得、芸術的に進んだ西欧の文化を吸収することができた。
■フョードル・シャリアピン
1873年2月13日(当時ロシアで使用されていたユリウス暦では2月1日)- 1938年4月12日)は、20世紀前半に活躍したロシア出身のオペラ歌手である(声域はバス)。力に満ち溢れ、柔らかな美声とともに、舞台人としての精神、心理的描写に卓越した表現法は観客を魅了し「歌う俳優」とも呼ばれた。シャリアピンは、オペラの歴史において偉大な名手のひとりと目され、オペラにおける自然な演技の伝統的様式を洗練させたと見做される。
■ドミートリー・メドヴェージェフ
Dmitrii Anatolievich Medvedev1965年9月14日 - はロシア連邦の政治家。同国の第3代大統領(在任2008年 - )。ヴィクトル・ズブコフ内閣では第一副首相を務めた。知識人層の家庭だったものの、メドヴェージェフは40m2 の広さのアパートメントで育つ。少年時代のメドヴェージェフは成績優秀な学生で、将来は法律家になる夢を持っていた。また、カヤックなどのスポーツや写真撮影、読書(ブーニンやチューホフ、ドストエフスキーの作品など)、ロック音楽に熱中した。
■ウラジーミル・プーチン
Vladimir Vladimirovich Putin、1952年10月7日 - は、ロシア連邦の政治家。プーチンは、元KGB諜報員(スパイ)であり、現在のロシア連邦の政治家であり、その中でも特に大きな影響力を持っている政治家である。最終学歴はレニングラード大学法学部卒業。学位は法学士(サンクトペテルブルク大学)、経済学博士候補※[3](1997年)。階級は予備役大佐。プーチンは自伝で少年時代を振り返り、家庭環境はあまり裕福でなく、少年時代はレニングラードの共同アパートで過ごしたと語っている。1960年9月1日に共同アパートと同じ通りにある第193小学校に通い始める。小学生だったプーチンにドイツ語を教えていた教師によると、プーチンは母親似であるが、頑固で勤勉な性格は父親から受け継いでいたという。
■ウラジーミル・レーニン
1870年4月22日 − 1924年1月21日は、ロシアの革命家、政治家。優れた演説家として帝政ロシア内の革命勢力をまとめ上げ、世界で最初に成功した社会主義革命であるロシア革命において主導的な役割を果たした。ソビエト連邦およびソ連共産党(ボリシェヴィキ)の初代指導者を務めた。父イリヤは物理学者としてだけでなく、著名な教育者(ドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教師でニコライ・ロバチェフスキーとは大学時代からの親友だった)でもあり、その学者としての活躍を皇帝に評価されて1882年に貴族に列せられた地元きっての名士だった。高名な学者の子に相応しく兄弟は成績優秀だったが、とりわけレーニンは神童の誉れが高かった。9歳の時にシムビルスク古典中高等学校に進学すると、全学科全学年を通じて首席で通して卒業時に金メダルを授与されている。
■エフゲニー・ムラヴィンスキー
エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
1903年6月4日 - 1988年1月19日は、ロシアの指揮者。20世紀におけるソ連・ロシア・東側諸国指揮界の第一人者、世界でも有数の指揮者の一人に挙げられる。1903年 - 帝政期サンクトペテルブルクにて、非常に高い地位を有する貴族で法律家の父と、歌手であり音楽に対し造詣の深い母との間に誕生。また、父方の伯母も有名な歌手であった。1909年 - 6歳の時からピアノを学びはじめる。1917年 - ロシア革命により一家は財産を没収され、アパート一室の雑居生活を強いられる。
1920年 - ペトログラード大学に入学し、生物学を専攻する。同年に父親が亡くなる(父親はこのアパート一室の生活に耐えられず、心労のあまり倒れた)。生活費捻出のためにマリインスキー劇場のパントマイムの端役を務める。
■ボリス・エリツィン
Boris Nikolayevich Yeltsin、1931年2月1日 - 2007年4月23日は、ロシア連邦の政治家で、同国の初代大統領(在任: 1991年 - 1999年)である。大統領在任中にソ連8月クーデターに対する抵抗を呼びかけロシア連邦の民主化を主導した評価と共に、急速な市場経済移行に伴う市民生活の困窮、チェチェン紛争の泥沼化、強権・縁故政治への批判もあった。
■ミハイル・ショーロホフ
1905年5月24日 (当時ロシアで用いられていたユリウス暦では5月11日)- 1984年2月21日)はロシアの小説家である。トルストイにつながるロシア文学の伝統を受け継ぎ、ソビエト文学を代表する作家としての地位を占めている。第二次世界大戦中は従軍作家として前線に行き、プラウダ紙などに多数のルポルタージュを発表していた。さらにナチスの残虐さを描いた短編『憎しみの科学』を発表する。1937年に最高会議代議員に選ばれ、1939年からソ連科学アカデミー会員。1941年には第1回スターリン賞(文学部門)を受け、1965年にはノーベル文学賞を受けた。
■アントン・チェーホフ
Anton Pavlovich Chekhov、1860年1月29日・タガンログ - 1904年7月15日・バーデンワイラー)は、ロシアを代表する劇作家であり、短編小説家。1879年に中学を卒業してモスクワに移り、モスクワ大学医学部に入学した。アントーシャ・チェホンテーなど複数のペンネームを用いて雑誌にユーモア短編を寄稿するようになった。当然ながら学業と作家活動を兼ねる多忙な日々を送り、アントンの友人が家を訪れると、父であるパーヴェルが「いまアントンは忙しいから」と来訪を断ることも多々あったという。
■ミハイル・レールモントフ
1814年10月15日(グレゴリオ暦)/10月3日(ユリウス暦)−1841年7月27日(グレゴリオ暦)/7月15日(ユリウス暦))は、ロシアの詩人、作家。3歳で母を失い、母方の祖母に育てられた。モスクワ大学に2年間在学して中退し、ペテルブルクの近衛士官学校を1834年に卒業後、近衛軽騎兵少尉に任じられ、ペテルブルクの上流社会に入った。レールモントフは早くから作品を書いていたが、有名になったのはプーシキンを決闘に追いこんだ宮廷貴族への憎悪に貫かれた詩「詩人の死」 以後である。"復讐を、陛下よ復讐を!"との叫びが入ったこの詩は筆写されて流布し、転任の形式でカフカスへ流される原因になったが、カフカスにおいて彼の才能はむしろ開花した。
■ニコライ・ロバチェフスキー
Nikolai Ivanovich Lobachevsky, 1792年12月1日 - 1856年2月24日(グレゴリオ暦)/1792年11月20日 - 1856年2月12日(ユリウス暦))はロシアの数学者である。カザン大学に学び、21歳で同大学教授となり、1827年から1846年には学長も兼ねていた。1826年に幾何学の基礎に関する論文をカザン大学の物理・数学科に提出したが、刊行されずに失われた。1829年に大学学報にその学説を発表しさらに『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』 の中で詳しく展開した。
■ナタリア・ヴォディアノヴァ
Natalia Vodianovaは、ロシア・ニジニ・ノヴゴロド出身のスーパーモデル。現在はイギリス在住。15歳のときニジニ・ノヴゴロドの市場で果物売りをしていたところを見出され、モデル活動を始める。その時出会ったパリからきたエージェントに、「英語を早く覚えたら成功するよ」と言われ、英語を三ヶ月でマスターした。17歳でVIVAと契約し、パリへ移った。グッチの香水のモデルとして注目を集めた。ランウェイには2001年春夏コレクションでデビュー。40以上のブランドのランウェイを歩き、ルイ・ヴィトン、ロレアル、マーク・ジェイコブスら多くのブランドの広告を飾る。
■ミハイル・カラシニコフ
1919年11月10日 - は、ロシア人の銃器設計者。史上もっとも成功した小銃と言われる「AK-47」(別名「カラシニコフ突撃銃」)の設計者であり、第二次大戦後の旧ソ連を代表する銃器デザイナーである。第二次世界大戦中は戦車の車長であったが、1941年10月、ドイツ軍との戦闘で重傷を負い、後送される。この際、ドイツ軍が部隊の機械化と小火器の自動化で圧倒的な戦闘力を発揮したことに衝撃を受け、銃器設計の途を志した。本人は後年「もし戦争がなかったら、農業労働を楽にする機械を作っていただろう。ドイツ人が私を銃器設計者の道に進ませた」と語っている。
■ザハール・ブロン
Zakhar Nukhimovich Bron, 1947年12月17日 - は、カザフスタン、ウラリスク出身のヴァイオリン奏者。オデッサの音楽学校に学んだ後、1960年 - 1966年、グネーシン音楽大学でボリス・ゴールドシュタインに、1966年 - 1971年、モスクワ音楽院でイーゴリ・オイストラフに師事し、1971年 - 1974年、同音楽院でオイストラフの助手を務めた後、ノヴォシビルスク音楽院、1989年、リューベック音楽院の教授、以後、ロンドン王立音楽アカデミー、ロッテルダム音楽院、ソフィア王妃音楽大学(マドリード)などでもヴァイオリンを教えた。
■ヴァレリヤン・クイビシェフ
1888年6月6日 - 1935年1月25日は、ロシアの革命家。ロシア内戦中は赤軍の上級政治委員。ソ連の著名な政治家。クイビシェフは1888年、オムスクの軍人の家庭に生まれ、オムスク幼年団(陸軍幼年学校)で学んだ。1904年にロシア社会民主労働党へ参加。1905年、軍事医学アカデミーへ入学したが、1906年に退学させられた。1906年から1914年の間、彼はロシア帝国内各地においてボリシェヴィキのために活動し、シベリアのナリュムに追放された。
■アレクサンドル・コジェーヴ
(Alexandre Kojeve, 1902年4月28日 - 1968年6月4日)は、ロシア・モスクワ生まれの哲学者。パリ高等研究院で1933年から1939年までおこなわれた、ヘーゲル『精神現象学』についての講義は、後のヨーロッパにおけるヘーゲル復興に大きな影響力を与えた。コジェーヴは、1902年、モスクワ旧市街の一角で生まれる。父は富裕な商人で、父方の伯父は、画家のワシリー・カンディンスキー。
■ミハイル・ヴルーベリ
Michail Alexandrowitsch Wrubel、1856年3月17日(ロシア暦5日) - 1910年4月14日(ロシア暦1日))は19世紀から20世紀にかけて、装飾や舞台美術も含め様々なジャンルで活躍したロシアの画家。アールヌーヴォーあるいは象徴主義の傾向を有する。オムスクの法律家の家庭に生まれ、サンクトペテルブルク大学法科を1880年に出た。翌年帝室美術アカデミーに入り、パーヴェル・チスチャコフの下で学んだ。キエフ時代にはミハイル・レールモントフのロマン的な長編詩「デーモン(悪魔)」を主題とするスケッチと水彩画の制作を開始し、彼のライフワークにつながっていく。
■ルドルフ・ヌレエフ
1938年3月17日-1993年1月6日は、ソ連生まれのバレエダンサー。正確な誕生日は不明だが、3月17日前後に、父親の赴任地に向かう途中のシベリア鉄道の車内で生まれた。ヌレエフという名はアラビア語の姓「ヌリー(光の)」をロシア風に改姓したもので、ルドルフの父、ハメットの誕生の際から戸籍に登録されている。17歳でロシアバレエの名門校、ワガノワ・キーロフバレエ学院に編入し、本格的なバレエを学ぶ。入試にあたっては試験官から「あなたは歴史に残るバレエダンサーになるか、失敗するかどちらかでしょう。恐らく後者の可能性の方が大きいでしょうけれど…」と言われたという逸話がある。
■サラヴァト・ユラーエフ
1754年6月16日 - 1800年9月26日は、バシキール人の民族的英雄。プガチョフの乱でエメリヤン・プガチョフ側に参加するが敗北し、現在のエストニア、パルディスキの監獄につながれ死去した。詩人としても知られる。現在ではバシコルトスタン共和国の英雄として、地名やホッケーチーム、国家賞にその名が冠されている。
■ミハイル・ネステロフ
1862年5月19日(グレゴリオ暦5月31日) ウファ - 1942年10月18日 モスクワ)は、19世紀末のロシア画壇における宗教的象徴主義の代表的指導者。帝国美術アカデミーにてパヴェル・チスチャコフに師事した後、芸術家集団「移動派」に参加する。ラドネジのセルギイの回心を描いた絵画「若きヴァルフォロメイの聖なる光景」(1890年〜1891年)は、しばしばロシア象徴主義運動の幕開けを告げる作品と見なされている。
■ミハイル・ロモノーソフ
(1711年11月19日(ユリウス暦 11月8日) − 1765年4月15日(ユリウス暦 4月4日))はロシアの博学者、科学者、作家。文学、教育、科学に関する業績を残している。とりわけ金星の大気の発見が重要。ロモノーソフは詩人でもあり、ロシア文章語の改革にも努めている。ロモノーソフはモザイク画も手がけており、1754年にオイラーに送った手紙では自身の化学に関する発見をモザイク画を付けて説明している。
■ボリス・クストーディエフ
Boris Mikhaylovich Kustodiev, 1878年3月7日(ユリウス暦2月23日) − 1927年5月28日)はロシアの画家・舞台美術家。ロシアの画家に珍しく、明るく華やかな色調を多用した風俗画や風景画で名高い。アストラハンのインテリゲンチャの家庭に生まれる。地元の神学校で哲学・文学史・論理学を教えていた父親が夭折したため、経済的・物質的な負担が母親の両肩にのしかかった。一家は豊かな商人の住居の一室を賃貸し、そこでクストーディエフ少年は、地方の商人階級の生活様式に対する第一印象を育んだ。
■ニコライ・チェルヌイシェフスキー
Nikolai Gavrilovich Chernyshevskii、1828年7月24日 - 1889年10月29日は、ロシアの「革命的民主主義者」、哲学者、経済学者。ナロードニキ運動の創設者の一人。マルクスとレーニンによって高く評価された。空想的社会主義の影響を強く受けている。同時代のロシアの小説家ドストエフスキーも参加していたペトラシェフスキー・サークルに参加していた。
■スベトラーナ・ホルキナ
(Svetlana Vasilyevna Khorkina、1979年1月19日 - )はロシアの元女子体操競技選手で政治家。1995年6月、欧州選手権で個人総合優勝。同年10月、初出場の世界選手権(福井県鯖江市)で段違い平行棒で優勝。以後、複数の新技を発表し、圧倒的な強さで五連覇する。2007年に、与党・統一ロシアからロシア連邦議会下院(ロシア国家院)議員に当選。なおこの選挙では、元新体操選手のアリーナ・カバエワらも当選している。
■スベトラーナ・クリベリョワ
Svetlana Vladimirovna Krivelyova、1969年6月13日 - は、ロシアの陸上競技選手。砲丸投の選手であり、1990年代から2000年代まで息の長い活躍をした選手である。クリベリョワは、1992年バルセロナオリンピック女子砲丸投で世界チャンピオンの中国の黄志紅を破り、金メダルを獲得した。また、2003年世界陸上でも金メダルを獲得している。
■エフゲニー・プルシェンコ
Evgeni Viktorovich Plushenko、1982年11月3日 - は、ロシアの男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。2006年トリノオリンピック金メダリスト。2002年ソルトレイクシティオリンピック及び2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト。世界選手権優勝3回、欧州選手権優勝7回、グランプリファイナル優勝4回。1982年11月3日、ソビエト連邦ハバロフスク地方のウルガルで、大工の父ヴィクトルと母タチアナの長男として生まれる。6歳年上の姉がいる。両親は出稼ぎの鉄道建設労働者で一家はソルネチヌイにあった木造の貨物列車を改造したトレーラーハウスで生活していた。
■ガヴリーラ・デルジャーヴィン
1743年7月14日 - 1816年7月20日とは、啓蒙時代のロシアの詩人。古典主義の代表的存在であり、それを大きく推し進めた人物でもある。プーシキン以前では最大の詩人とされる。1762年からサンクトペテルブルクで、プレオブラジェンスキー連隊の兵卒となった。1772年には士官へ。1776年から1777年にはプガチョフの乱の鎮圧にも参加した。
■アルフレット・シュニトケ
Alfred Garyevich Schnittke、1934年11月24日 - 1998年8月3日 ハンブルクは、旧ソ連のドイツ・ユダヤ系作曲家。1946年に父親の赴任地ウィーンで最初の音楽教育を受ける。1948年にモスクワに転居。1961年にモスクワ音楽院を卒業し、翌1962年から1972年まで講師を務めた。その後は主に映画音楽の作曲により糊口をしのぐ。12音クラスターを使用した「レクイエム」は、当日発表の幕間飛び入りで、強引に初演した。なぜなら、12音を使用していることが楽譜から解ると、即座に共産党ブラックリストに掲載されたからである。
■イヴァン・ブーニン
1870年10月22日(ユリウス暦10月10日) - 1953年11月8日)は、ロシア帝国出身の作家である。ロシア革命後、フランスへ亡命。ロシア人小説家としては初のノーベル文学賞を受賞している。ヴォロネジの地主の家に生まれる。父親の放蕩のため家は没落。17歳で詩人としてデビューののち、新聞記者、図書館司書などの職に就きながら短編小説を発表、アントン・チェーホフ、レフ・トルストイ、マクシム・ゴーリキーなどの知遇を得る。
■サムイル・マルシャーク
Samuil Yakovlevich Marshak、1887年11月3日/ユリウス暦10月22日 - 1964年6月4日は、ロシアの作家、翻訳家、児童文学作家、詩人である。1902年、マルシャークの家族はサンクトペテルブルクに移った。そのことには事情があった。ユダヤ人であるマルシャークはユダヤ教徒居住区の外に合法的に居住することが不可能であった。ゆえに彼は都市に住んでいる限り学校に通うことが出来なかった。マルシャークの両親は著名な批評家ウラディーミル・スターソフとの会見を手配した。スターソフはこの少年の文学的才能に感銘を受け、マルシャークの家族を隔離法(Pale law)の例外として認められるよう取り計らった。またスターソフはマルシャークをマクシム・ゴーリキーやフョードル・シャリアピンに紹介した。
■オシップ・マンデリシュターム
1891年1月15日 - 1938年12月27日)は、 ポーランド出身のロシアのユダヤ系詩人、エッセイスト。1933年に雑誌『星』に掲載された『アルメニア紀行』を最後として、彼は読者の前から姿を消す。不服従の精神が1933年の秋に書かせた有名な『スターリン・エピグラム』の一節で、マンデリシュタムは「私たちは足下に大地を感じずに生きている…といい、「クレムリンの登山家たち」を非難し、スターリンがクラークを根絶するために執行した集団化とその結果としての大飢饉を「16の死刑宣告」と呼んだ。
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ロシア Russian
モスクワを首都としロシア人が国民の多数を占める大統領制の共和制国家。「ロシア連邦」「ロシア」は双方とも正式名称である。東ヨーロッパに分類される国家である。世界最大の面積をもつ国土はヨーロッパとアジアにまたがる。
世界最大の面積を持つロシアは、ユーラシア大陸の北部にバルト海沿岸から太平洋まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その面積は日本の約45倍、アメリカの約1.7倍にも達し、南米大陸全体の大きさに匹敵する。
現在のロシア人は様々な民族の混血によって成立しているのでその起源をひとつに絞ることはできないが、国家や文化、言語の変遷において「ロシア民族」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していた。
■モスクワ
ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっている。欧州有数の世界都市であり、アメリカの外交専門誌フォーリンポリシーにより、世界第25位に選ばれている。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は1,367万人であり、世界第17位、欧州では第1位である。世界有数のメガシティである。
■カザン
ロシア連邦に属するタタールスタン共和国の首都である。ロシア語名に沿ってカザニともいう。ヴォルガ川(クイビシェフ湖)とカザンカ川の合流点に臨む商工業都市で、水上・陸上交通の要衝。タタール文化の中心であり、カザン・クレムリンをはじめとする多くの文化遺産やカザン大学などの教育機関が集積している。人口は1,105,289人。
■モスクワ大学
ロシア・モスクワにある公立大学。正式名称は、M・V・ロモノーソフ記念モスクワ国立総合大学。ロシアでは通常МГУ(エム・ゲー・ウー、MGU)と呼ばれる。創設者ミハイル・ロモノーソフの名前が冠されており、ロシアの大学としては最大規模である。
■モスクワ音楽院
Moscow Tchaikovsky Conservatoryはロシア国内の音楽教育機関としては最高の権威を持つ。1866年ニコライ・ルビンシテイン(1862年にサンクトペテルブルク音楽院を創設したアントン・ルビンシテインの弟)によって創設される。1878年チャイコフスキーは同音楽院の作曲科教授を務めており、1940年チャイコフスキー生誕100周年を記念して現在の正式名称となった。
■全ロシア映画大学
The Russian Federation State Institute of Cinematography named after S. A. Gerasimov略称「VGIK」で知られる、世界でもっとも長い歴史をもつ映画教育のための大学である。1919年、映画監督で俳優のウラジミール・ガルディン(Vladimir Gardin)によって創立された。同大学は、ロシアのモスクワにある。セルゲイ・エイゼンシュテイン、フセヴォロド・プドフキン、アレクセイ・バターロフは、その最も優秀な教授であった。
■トムスク大学
Tomsk State Universityは、ロシア、トムスクにある大学。略称ТГУまたは、TSU。1888年トムスク帝国大学として設立された。シベリア最古の歴史を誇る大学である。設立当初は医学部のみの単科大学であったが、現在では、22学部、2万3000人の学生を擁する。
■ウラル工科大学
Ural State Technical University は、ロシア、エカテリンブルクにある大学。ロシアにおける工科、技術系の高等教育機関中、最大の規模を誇る。ウラル地方における経済・産業と緊密な関係を持つ。
■グネーシン音楽大学
Gnessin State Musical Collegeはロシアのモスクワにある音楽大学。1895年2月15日に、モスクワ音楽院を卒業してピアニストとして成功していたエヴゲーニヤ、エレーナ、マリーヤのグネーシン姉妹によって創設された。
■カザン大学
ロシア・タタールスタン共和国の首都カザンにある大学。1804年創設。ロシアの大数学者ニコライ・ロバチェフスキーは、1827年から1846年までカザン帝国大学学長を務めた。
■ノヴォシビルスク大学
ソ連時代の1959年にソ連科学アカデミー会員のミハイル・ラヴレンチェフ、セルゲイ・ソボレフ、セルゲイ・フリスチャノヴィチらによって創設された。ノヴォシビルスク大学は、上記3人によって科学アカデミーシベリア支部設立計画の一環として創設された。
外務省:ロシア
在ロシア日本国大使館
■ヴォルゴグラード国際空港
Volgograd International Airportは、ロシア連邦ヴォルゴグラード州の州都ヴォルゴグラード市西郊グムラクにある国際空港。
■イルクーツク国際空港
Irkutsk International Airportは、ロシアのイルクーツクにある空港である。滑走路が短く、周囲を丘に囲まれ、市街地に隣接しているため、ロシアで最も離着陸が困難な空港と言われる。
■カザン国際空港
Kazan International Airportは、ロシア連邦を構成する21共和国の1つ、タタールスタン共和国の首都カザンにある国際空港。
■ウラジオストク空港
Vladivostok Airportは、ロシア連邦ウラジオストク市郊外アルチョム市にある国際空港。ウラジオストク航空の本拠地。ウラジオストク中心部から北に40km余りの位置にある。
■エリゾヴォ空港
Yelizovo Airportは、ロシア連邦カムチャツカ州ペトロパブロフスク・カムチャツキーにある空港である。
■シェレメーチエヴォ国際空港
ロシアの首都・モスクワ市内にある国際空港。乗客数と取り扱い貨物数において、ロシアでドモジェドヴォ空港に次いで2番目に大きい空港である。
■ドモジェドヴォ空港
Domodedovo International Airportはロシア連邦の首都モスクワ市中心部から35km南方のドモジェドヴォ市にある国際空港。
■ソチ空港
Sochi Airportは、ロシア連邦クラスノダル地方の黒海沿岸の都市ソチにある国際空港。
■コルツォヴォ国際空港
Koltsovo Airportはロシアのスヴェルドロフスク州エカテリンブルクにある国際空港。
■サンクトペテルブルク
ロシアの都市、レニングラード州の州都である。かつてロシア帝国の首都であった。ロシア西部、バルト海のフィンランド湾最東端、ネヴァ川河口デルタに位置する。ロシア有数の世界都市、港湾都市であるとともに、鉄道・国際航路の要衝でもあり、モスクワに次ぐロシア第二の都市である。
■サンクトペテルブルク大学
ロシア・サンクトペテルブルクにある公立の大学。モスクワ大学, 極東連邦大学と並ぶ、ロシアの名門大学であり、帝政ロシア、ソ連時代を通じて、ロシアの教育、文化面で多大な役割を果たし、有為の人材を多く輩出した。正式名称はサンクトペテルブルク国立総合大学。
■サンクトペテルブルク美術大学
ロシアのサンクトペテルブルクにある美術大学で、正式名はイリヤ・レーピン名称サンクトペテルブルク国立絵画・彫刻・建築学院で、文字通り絵画・彫刻・建築学科がある。1757年に設立されたロシア帝国美術アカデミーが母体になっていて、いまでも「美術アカデミー」とも、レーピン学院(Repin Institute of Arts)とも呼ばれている。
■マリインスキー劇場
サンクトペテルブルクにあるオペラとバレエ専用の劇場。ソビエト連邦時代(1924 - 1991年)はキーロフ劇場と呼ばれていた。ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに建てられた皇室の劇場で、帝国を代表するオペラ、バレエの中心施設であった。クラシック・バレエの名作「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」は、ここで初演された。
■シベリア鉄道
ロシア国内を東西に横断する鉄道。全長は9,297kmで、世界一長い鉄道である。これとは別に、第二シベリア鉄道(バイカル・アムール鉄道、バム鉄道)もある。正確にはロシア連邦中南部に位置するチェリャビンスク州のチェリャビンスクからシベリア南東部の沿海州にある日本海岸のウラジオストクまでの7,416kmの区間を指すが、一般的にはその他の路線も含めたモスクワ〜ウラジオストク間9,297kmを指す事が多い。「ロシア号」はモスクワのヤロスラヴリ駅を出発し、ウラジオストク駅まで約7日間をかけて走破する。
■エルミタージュ美術館
サンクトペテルブルクにあるロシアの国立美術館。「エルミタージュ」とはHermitage、(隠遁者/世捨て人)の部屋という意味である。1764年にエカチェリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりである。エルミタージュ美術館の起源はエカチェリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室であり、一般に公開はされていなかったが、1863年に初代館長となったゲデオーノフによって市民も観覧が可能となった。
■サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団
Saint Petersburg Philharmonic Orchestraは、ロシアのサンクトペテルブルクの、サンクトペテルブルク・フィルハーモニア協会を本拠として活動するオーケストラである。このオーケストラの起源は1772年に発足したペテルブルク音楽協会に遡る。1802年、ペテルブルク・フィルハーモニー協会に改組され、1824年にはベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」を世界初演した。1938年、35歳の若きマエストロ、エフゲニー・ムラヴィンスキーが常任指揮者・音楽監督のポストにつき、生涯にわたってポストを全うする。
■ロストフ・ナ・ドヌ
Rostov-na-Donu)は、ロシアのロストフ州の州都。ドン川の下流河畔の丘上に開かれた町で、アゾフ海の付け根・タガンログ湾郊外に位置する要衝である。1735年にアゾフ一帯を併合したロシア帝国によって1749年に建設された。
■ソチ
Sochiは、ロシア連邦クラスノダール地方の都市。ロシア随一の保養地である。黒海に面し、アブハジアとの国境に近い。人口は395,012人。市域の長さは145kmに達し、ヨーロッパで最も長い都市でもある。
■タガンログ
Taganrogは、ロシア連邦ロストフ州の都市である。黒海の北部、アゾフ海のタガンログ湾に面する。アントン・チェーホフの生地としても知られ、今でもチェーホフの生家が残されている。ロシア南部の重要な産業の中心である。イロヴァイスクとロストフ・ナ・ドヌを結ぶ鉄道が通る。タガンログの港では金属、石炭、穀物、石油製品などが扱われている。
■ピャチゴルスク
Pyatigorskは北コーカサスに位置する、ロシア連邦スタヴロポリ地方の都市。人口は146,400人(2004年)。北カフカース連邦管区の本部が置かれている。ミハイル・レールモントフは何度もピャチゴルスクを訪れ、1841年7月27日(旧暦で7月15日)にここで行われた決闘で命を落とした。
■ハバロフスク
ロシア極東部の都市で、ハバロフスク地方の中心都市である。2002年より極東連邦管区の本部も置かれている。首都のモスクワからは遙かに遠く、シベリア鉄道経由で8,523kmの距離、7時間の時差がある。
■ニジニ・ノヴゴロド
Nizhnij Novgorod、は、ロシアのニジニ・ノヴゴロド州の州都。ロシアを代表する大河、ヴォルガ川とオカ川とが合流するところにある商工業都市で、モスクワ、サンクトペテルブルク、ノヴォシビルスクに次ぐロシア第4の都市であり、沿ヴォルガ連邦管区の本部所在地になっている。
■ウファ
ロシア連邦中央部に位置するバシコルトスタン共和国(バシキリア)の首都。人口は1,042,437人(2002年全ロシア国勢調査)とロシアでも有数の大きな都市である。ウファには文化宮殿やバシコルトスタン国立劇場などの文化施設があるほか、バシコルトスタン国立の諸大学、航空機工業や石油産業に関する大学など、数多くの大学が集中する。
■ウドムルト共和国
ロシア連邦に属する共和国。首都はイジェフスク。沿ヴォルガ連邦管区に含まれる。北にキーロフ州、東にペルミ州、南にバシコルトスタン共和国、タタールスタン共和国と隣り合う。
■イジェフスク
ロシア連邦に属するウドムルト共和国の首都。人口は632,000人(2002年)。ウラル山脈の西側(ヨーロッパ側)を流れるイジ川の河畔に位置し、イジ川がカマ川に注ぐ地点から約40km。18世紀後半にウラルの工場都市として建設され、冶金業を中心に様々な機械工業、兵器工業が発達した。イジェフスクの兵器工場・「イジェフスク機械製作工場」(現:イズマッシュ社)で、ミハイル・カラシニコフは有名なAK-47を設計した。
■ノヴゴロド
ロシアの北西連邦管区、ノヴゴロド州の州都。人口は216,856人(2002年国勢調査、1989年国勢調査では229,126人)。イリメニ湖とそこから流れ出るヴォルホフ川に沿って位置する。1998年以降、ロシア最古の都市であり、中世までノヴゴロド公国として存在していた。
■クレムリ
Kreml'とはロシア語で「要塞」「城塞」「城」を意味する語。年代記の1317年の条に、トヴェリの城塞建築の際に「クレムニク」の名で初出するが、その語源には諸説あり、「縁」や「柵」を意味する古いスラヴ語に由来するとの説のほか様々な説が唱えられている。現在クレムリと呼ばれている建物の中には、本来の意味のクレムリである都市の防護用の城塞でなく、国境地帯などに設けられた軍の前哨を前身とするものもある。
■サマーラ
Samara, は、ヴォルガ川東岸にあるロシア連邦の都市。ロシア連邦で6番目に大きな都市。ヴォルガ川が大きく東へ屈曲し、サマーラ川が合流する場所に建つ。サマーラ市の西はヴォルガ川が流れ、北はソコルイ丘陵、東と南はステップ(草原)が広がっている。
■エカテリンブルク
Yekaterinburgはロシア連邦中央部に位置する大都市で、スヴェルドロフスク州の州都。エカチェリンブルクと表記されることもある。ウラル地域の工業・文化・教育の中心地で、交通の要衝でもある。ウラル連邦管区の本部が置かれ、高等教育機関、博物館、劇場なども多数ある。ロシア国内で5番目に人口の多い都市である。
■クルガン
Kurganはロシア連邦の都市。クルガン州の州都で、トボリ川に臨む。モスクワからは1973km離れており、カザフスタン共和国との国境に近い。人口は339,300人(2003年)。 ウラル山脈以東では有数の古い町である。 名称は、郊外にクルガン(高塚状の墳墓)があることによる。
■ノヴォシビルスク
Novosibirskは、ロシア連邦・シベリアの中心的都市。別名「シベリアの首都」。ノヴォシビルスク州の州都でオビ川に沿う。人口は約147万。人口規模は国内第3位で、シベリアでは最大である。ノヴォシビルスクの中心部はオビ川右岸(東側)にあり、市の周囲は西シベリア低地である。ノヴォシビルスクの南方には世界遺産・アルタイの黄金山地の一部をなすウコク高原がある。
■オムスク
Omskはロシア連邦中南部の都市。シベリア連邦管区の西端に位置する。人口は1,140,200人(2003年)。シベリアではノヴォシビルスクに次ぐ2番目に大きな都市である。街のいたるところに彫刻が置かれ、旅行者の目を楽しませてくれる。ソ連崩壊までは外国人立ち入り禁止の「閉鎖都市」だったため、日本ではあまり知られていないが、治安も良く交通も便利。
■チェリャビンスク
Chelyabinskはロシア連邦の都市で、ウラル山脈東麓にあり、ミアス川に沿う。チェリャビンスク州の中心都市で、重工業が盛んである。1957年にチェリャビンスクから150キロメートル北西にあるオジョルスク市(秘密閉鎖都市のため、当時はチェリャビンスク-65と呼ばれた)のマヤーク核兵器工場で事故が発生し、3万人を越える住民が被曝した。同市には現在もその後遺症が残っている。
■ブラゴヴェシチェンスク
Blagoveshshenskはロシア連邦の都市。シベリア南部のアムール州の州都。中国との国境近くに位置し、中国語では海蘭泡 (Hailanpao) と呼ばれる。1856年にロシアの要塞都市として建設された。
■アルハンゲリスク
Arkhangel'skは、ロシア北西部の都市。白海に注ぐ北ドヴィナ川の河口近くに位置する。アルハンゲリスク州の州都。人口は343,000人(2004年)。17世紀末にピョートル大帝(ピョートル1世)によって海軍軍事基地として開発された。
■アストラハン
Astrakhanは、ロシア南部の都市である。アストラハン州の州都。人口は502,800人(2004年)。カスピ海低地、ヴォルガ川下流域デルタに位置する。カスピ海岸から約90km。市街は11の島からなる。地域の商業の中心。カスピ海で獲れるチョウザメで有名でキャビアの加工地でもある。
■チェリャビンスク
helyabinskはロシア連邦の都市で、ウラル山脈東麓にあり、ミアス川に沿う。チェリャビンスク州の中心都市で、重工業が盛んである。チェリャビンスクには1934年にチェリャビンスク師範大学が開学して以来、10以上の大学が開かれた。主な大学には南ウラル国立大学、チェリャビンスク大学、チェリャビンスク医科大学がある。その他20以上の研究所もある。
■ヴォルゴグラード
Volgogradは、ロシア連邦のヴォルガ川西岸に南北80kmにわたって広がる都市。 ヴォルゴグラード州の州都。人口は101万人。今日のヴォルゴグラードはロシアでも重要な、近代的な産業都市となっている。造船、石油精製、製鉄、アルミ精錬、機械・車両製造、化学工業などが主な産業である。
■イルクーツク
Irkutskは、ロシアのシベリア地方(北緯52°17′、東経104°16′)に位置する都市で、イルクーツク州の州都。人口は約59万人。街はバイカル湖西岸内陸にあたり、バイカル湖から流れ出るアンガラ川(エニセイ川の支流)の右岸に位置する。
■ペルミ
Perm’はロシアの都市である。ウラル山脈西側のふもと、カマ川の両岸に広がる。沿ヴォルガ連邦管区に属するペルミ地方の州都。人口は981,200人(2004年)。1723年に建設される。1781年からペルミ市。1940年から1957年までは、モロトフ(Молотов)と呼ばれていた。1870年に創立されたペルミ国立オペラ・バレエ劇場が有名。ペルミ国立大学やペルミ国立工科大学などの高等教育機関がある。
■クラスノダール
ロシア連邦南部の都市。北コーカサス西部に位置するクラスノダール地方の行政の中心。クバン川に臨み、伝統的にクバーニ地方の中心でもあった。人口は653,300人(2004年)。クラスノダールには、ロシア・アヴァンギャルドの建築家・技術者であるウラジーミル・シューホフが設計した双曲面構造の鉄塔(シューホフ・タワー)が残っている。
■クラスノヤルスク
Krasnoyarsk は、ロシア連邦シベリア中部の都市。エニセイ川の河畔に広がる。人口は948,507人(2009年。2002年全ロシア国勢調査では909,341人、1989年ソ連国勢調査では912,629人)で、シベリアではノヴォシビルスク、オムスクに次ぎ3番目に大きな都市。
■ヴォロネジ
ロシア南西部に位置するヴォロネジ州の州都でヴォロネジ川(ドン川支流)の河港市である。街は中央ロシア高地の東、ヴォロネジ川の両岸に広がり、ヴォロネジ川は12キロメートル下流でドン川に合流している。ヴォロネジは多くの学者や芸術家が生まれたり学んだりした場所である。ノーベル賞学者ニコライ・バソフやパーヴェル・チェレンコフはヴォロネジで学んだ。
■サラトフ
Saratovは、ロシア連邦の都市。沿ヴォルガ連邦管区に含まれるサラトフ州の州都である。ヴォルガ川有数の河港を持つほか、鉄道が通る交通の要衝で、ソ連時代以来の工業、文化、教育の中心である。
■イヴァノヴォ
Ivanovoはロシア連邦の都市。イヴァノヴォ州の州都。人口は、2002年国勢調査で431,721人(1989年国勢調査では481,042人)。モスクワの北東300kmに位置し、伝統的に「ロシアの織物の首都」と呼ばれてきた。織物を作る労働者の多くは女性であったことから「花嫁の都市」という異名もある。
■アディゲ共和国
ロシア連邦を構成する共和国のひとつ。別名アドゥイゲ共和国。北コーカサスに位置し、周囲をクラスノダール地方に囲まれている。アディゲ共和国は1922年にソ連の自治州として設立された。当時はクラスノダルが共和国の中心都市であった。
■アルタイ共和国
アジアの中央に位置するロシア内の自治共和国。紀元前から遊牧文化が栄え、パジリク古墳群やカタンガ、アク・アラハなど多くのクルガンが残されている。パジリク文化(前6-前2世紀)と総称される。
■チェチェン共和国
北カフカース地方の北東部に位置するロシア連邦北カフカース連邦管区に属する共和国。設立は1991年で首都はグロズヌイ。北カフカースの先住民族のひとつのチェチェン人が住民の多数を占める。
■マイコープ
Maykopはロシア連邦に属するアディゲ共和国の首都。2001年の人口は166,800人。町の名は、アディゲ語で「野生のリンゴの土地」を意味する。マイコープ文化の名で知られるように、一帯に考古学的遺跡が集中している。1897年、ペテルブルク大学教授N.ヴェセロフスキーはマイコープ東部で「オシャド」と呼ばれるクルガンを発見した。そこでは、スキタイあるいはサルマタイのものと思われる金製や銀製の製品が多く発見され、ここに高い文化が存在していたことを示唆するものである。
■国名
正式名称は(ラテン文字転写: Rossijskaja Federacija、ラスィーイスカヤ・フィヂラーツィヤ、、または(Rossí真蛛、ラスィーヤ、。これはそれぞれ日本語表記のロシア連邦、ロシアに相当するが、憲法で双方とも正式名称であるとされている。略称はРФ (RF)。ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語の発音によって生まれた名前である。
1.面積:約1,707万平方キロメートル(日本の45倍、米国の2倍近く)
2.人口:1億4,291万人(2011年4月)
3.首都:モスクワ
4.公用語:ロシア語
5.宗教:ロシア正教、イスラム教、仏教、ユダヤ教等。
1917年 ロシア革命
1922年 ソヴィエト連邦成立
1991年 ソヴィエト連邦解体
ロシア連邦誕生
2000年 プーチン大統領就任
2008年5月 メドヴェージェフ大統領就任
■主要産業:鉱業(石油、天然ガス、石炭、鉄鉱石、金、ダイヤモンド等)、鉄鋼業、機械工業、化学工業、繊維工業
■ロシア・ルーブル
rouble/ruble)は、ロシアの通貨単位である。ロシア語での発音に沿ってルーブリと表記する場合もある。国際通貨コード(ISO 4217)はRUB(以前はRURを使用)。
2000年に大統領となったプーチンは、国内の安定と政府権力の強化を目指し、ロシア経済を半ば私物化していた新興財閥「オリガルヒ」の解体に乗り出し、石油・ガス会社ガスプロムの国有化をはじめ、親欧米・反政府的なオリガルヒはプーチン時代を通してほぼ一掃された。
■ロシア連邦共産党
Communist Party of the Russian Federationは、ロシア連邦の共産主義政党。エリツィン、プーチン、メドヴェージェフ各政権を通じて、野党の中心的存在として政権を批判してきた。党員は約50万人。党首は中央執行委員長のゲンナジー・ジュガーノフ。ロシア連邦共産党は、ソ連共産党の崩壊の後を受けて、1993年にロシア共産党再建のため組織委員会が発足し、旧ソ連共産党の党員が結集したところから始まる。
■統一ロシア
ロシアの政党で、現在の政権与党。党首は2012年よりドミートリー・メドヴェージェフが務める。1999年の下院選前に、強い与党の創設を目論んだ政権側の肝いりで有力州知事らがショイグ非常事態相を党首に結成した中道政党「統一」と、同1999年にルシコフ・モスクワ市長らが結成した中道左派連合「祖国・全ロシア」が、2001年12月1日に統合して成立した。
■ロシア自由民主党
ロシアの極右政党。党首はウラジーミル・ジリノフスキー。類似名の日本、ドイツ、イギリスの政党とはもちろん無関係であるが、設立当初はこれらの党との連携を一方的に謳ったこともある。前身は1990年4月に設立されたソ連自由民主党である。この党は、ジリノフスキーを党首として、ロシア大統領選挙に向けて、国家保安委員会(KGB)の工作で出来たとされる。
■公正ロシア
2006年10月統一地方選挙におけるロシア生活党の予想外の躍進を受けて、同年10月28日ロシア生活党と祖国、ロシア年金党が合同し結成された。公正ロシアは政策として、貧困の撲滅、汚職の追放、環境及び天然資源の保護を訴えている。
■ロシアの選択
1993年モスクワ騒乱事件の後、ロシア連邦議会選挙が行われることとなり、エゴール・ガイダルらを中心としてエリツィン政権内の急進改革派を糾合して結成された。
■ロシア人共同体会議
ロシア人共同体会議は、ソ連崩壊後の旧ソ連諸国に残留したロシア人の利益を守る趣旨でできたさまざまな組織の合同を目指した民族組織として発足した。議長には、エリツィン政権で安全保障会議書記などを務めたユーリ・スココフが選出された。
■緑のオルタナティヴ
ロシアの環境政党。1991年にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の地域政党、「地域間緑の党」として創設された。2005年に「環境政策運動・緑のオルタナティヴ」となった。
■アレクサンドル・プーシキン
モスクワに生まれる。おじのワシーリイ・リヴォーヴィチは詩人であり、カラムジンやドミートリエフなど当時の詩人がプーシキン家に出入りしていた。プーシキンは早くから文学に親しみ、また乳母はロシアの民話や民謡に詳しく、彼に影響を与えた。
■ニコライ・ゴーゴリ
ウクライナのソロチンツィの小地主の家に生まれる。ソ連時代のゴーゴリ研究によると、先祖はヤノーウシクィイ(ロシア語:ヤノフスキー)姓で、ウクライナの聖職者であったが、祖父の代(18世紀後半)に至り、婚姻によって領地を得、地主となった。1818年、弟イワンと共に親元を離れ、ポルタヴァの小学校に入学。翌年弟が死去し、深い衝撃を受ける。1821年、ネージンの高等中学校に寄宿生として入学。在学中は学業よりも絵画と文学に熱中し、また父譲りの演劇の才を発揮して、学校劇では老け役や吝嗇漢を演ずるのを得意とした。
■フョードル・ドストエフスキー
モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれる。15歳までモスクワの生家で暮らす。工兵学校生・作家時代を送ったサンクトペテルブルクは、物語の舞台として数々の作品に登場する。1846年、処女作『貧しき人々』を批評家のヴィッサリオン・ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され、華々しく作家デビューを果たす。
■マクシム・ゴーリキー
ニジニ・ノヴゴロドに家具職人の子として生まれる。母ワルワラを肺結核で亡くして10歳で孤児となった後、話が上手であった祖母に育てられる。祖母の死は彼を深く動揺させた。1887年の自殺未遂事件の後、ロシアの各地を職を転々としながら放浪する。第一次世界大戦の際には、ペトログラードのゴーリキーのアパートはボリシェヴィキの事務室になった。しかし、その後、共産主義に対するゴーリキーの考えは一変し、十月革命の2週間後の手紙にはこう書いている。「レーニンもトロツキーも自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」。
■エヴゲーニイ・ザミャーチン
タンボーフ県レベジャーニに生れ、孤独のうちに書物のみを友として育つ。1902年にペテルブルク理工科大学に学ぶが夏になると造船所で働いたり中近東諸国へ旅行した。在学中から革命運動に参加(1905年、21歳のとき、オデッサでゼネストと戦艦ポチョムキンの反乱を目撃し、ペトログラードでボリシェヴィキの一員となった)し、十二月に逮捕・流刑の生活を送るがこっそりと大学に戻り1908年に大学を卒業して造船技師となった。1912年「ある地方の物語り」、つづいて「地方の果てで」(1914)を発表して、ネオ・リアリズム派の作家として注目を集める。1915年には造船技師として砕氷船アレクサンドル・ネフスキー号(革命後、レーニン号と改称)建造の監督のためイギリスに派遣され設計から完成までかかわった。
■アレクサンドル・ソルジェニーツィン
ソビエト連邦の作家、劇作家、歴史家。1990年代ロシア再生の国外からの提言者である。ソビエト連邦時代の強制収容所・グラグを世界に知らせた『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』を書いて世界に知らせ、1970年にノーベル文学賞を受賞。1974年にソ連を追放されるも、1994年に戻った。
■ピョートル・チャイコフスキー
Peter Ilyich Tchaikovsky、1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日))はロシアの作曲家である。1840年、ロシアのウラル地方ヴォトキンスクで鉱山技師の次男として生まれる。幼少のころから音楽的才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、10歳でサンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学させた。1854年、コレラに罹患した母親が40歳の若さで亡くなり、チャイコフスキーは大きな打撃を受けた。1859年、法務省に勤務する。1861年、アントン・ルビンシテインが設立した音楽学校に入学。1863年、法務省の職を辞して音楽に専念。
■セルゲイ・ラフマニノフ
Sergei Vasil'evich Rachmaninovは、1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者である。4歳の時、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳の時ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。
■ワシリー・カンディンスキー
1866年12月4日(ユリウス暦)/12月16日(グレゴリオ暦) - 1944年12月13日)は、ロシア出身の画家であり、美術理論家であった。一般に、抽象絵画の創始者とされる。1896年にミュンヘンで絵の勉強を始め、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックに師事する。1902年、ベルリンの分離派展に出品。1904年からはパリのサロン・ドートンヌにも出品している。
■マリヤ・グリンベルク
1908年 - 1978年7月14日は、ソビエト連邦のピアニスト・音楽教師。おそらく20世紀屈指のピアニストの一人であった[1]が、ソ連時代の(ソ連当局による)ユダヤ人敵視の風潮から、継続的で安定した演奏活動を阻まれ、西側諸国ではほとんど無名のままだった。18歳まで地元の名高い音楽教師ダヴィド・アイスベルクに師事するが、その後はフェリックス・ブルーメンフェルトに入門(したがってウラジミール・ホロヴィッツの妹弟子ということになる)。
■アンドレイ・サハロフ
Andrei Dmitrievich Sakharov、1921年5月21日 - 1989年12月14日は、ソビエト連邦の理論物理学者。物理学博士。宇宙論や素粒子論において国際的な業績をあげた物理学者だが、ソ連において水素爆弾開発に携わり、「ソ連水爆の父」と呼ばれた一方で、後に自らの良心に基づいて反体制運動家、人権活動家として、人権、市民的自由、そしてソ連の改革を主張するなど、後半生は政治的な言動が常に注目され続けた。「ペレストロイカの父」とも呼ばれる。
■ドミトリ・メンデレーエフ
ラテン文字転写の例:Dmitrij Ivanovich Mendelejev、1834年1月27日(グレゴリオ暦2月8日) -1907年1月20日(グレゴリオ暦2月2日))はロシアの化学者であり、元素の周期律表を作成し、それまでに発見されていた元素を並べ周期的に性質を同じくした元素が現れることを確認し、発見されていなかった数々の元素の存在を予言したことで知られている。また、「石油の無機起源説」の提唱者としても近年再評価されている。メンデレーエフは西シベリアのトボリスクに母マリア・ドミトリーヴナ・コルニレフと父イワン・パブロヴィッチ・メンデレーエフの14人の子供の末っ子として生まれた。14歳、当時中学校の校長をしていた父を亡くした。1849年に貧しい家族とともにサンクトペテルブルクに移り住み、1850年には大学へと進学した。
■イリヤ・レーピン
Ilya Yefimovich Repin 1844年8月5日(ユリウス暦7月24日) ハリコフ近郊 − 1930年9月29日 フィンランド領クォッカラ)は、移動派を代表するロシア帝国の画家・彫刻家。心理的洞察を持ち合わせた写実画によって名高く、いくつかの作品は、既存の社会秩序の矛盾や階層間の緊張を露わにしている。社会的名士の肖像画を制作するかたわらで、しばしば貧困や差別にあえぐ社会の最下層を題材に数多くの作品を残した。イタリアとパリに遊学。後者においてはフランス印象主義絵画に接触して、色と光の使い方に永続的な感化をこうむる。それでも依然としてレーピンの画風は、西欧の古い巨匠たち、ことにレンブラントのそれに近く、レーピン自身が印象派に属することはなかった。
■Jenya
3月22日 - は、日本でタレント、歌手および声優として活動しているロシア人女性である。本名はイヴギェーニヤ・ダヴィデュークYevgeniya Davidyuk)。歌手、声優として活動するほか、TV番組にも出演するなど活動の幅を広げている。以前は秋葉いつきという名前で活動していた事もある。ソビエト連邦(出生当時)ノヴォシビルスク市出身。日本アニメの大ファンであり、歌手、声優になるために2005年から日本に在住、オリジナルCDを発表する傍ら、TV出演など各メディアで活躍する。
■ヴァディム・レーピン
Vadim Viktorovitch Repin,,1971年8月31日 - はロシアのヴァイオリニスト。シベリア西部のノヴォシビルスク出身。少年時代にザハール・ブロンに師事。17歳でブリュッセル・エリザベート王妃国際音楽コンクールに優勝し、職業音楽家として活動に着手する。その後、ブロンのもとを離れ、ピエール・ブーレーズ、リッカルド・シャイー、シャルル・デュトワ、ヴァレリー・ゲルギエフ、ジェイムズ・レヴァイン、クルト・マズア、サイモン・ラトル、エサ=ペッカ・サロネン、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチといった名指揮者と共演を重ねる。
■マキシム・ヴェンゲーロフ
Maxim Aleksandrovich Vengerov、1974年8月20日 - はシベリアのノヴォシビルスク出身のロシアのヴァイオリニスト、指揮者。ユダヤ系で、イスラエル在住。5歳からガリーナ・トゥルチャニノーヴァに師事した。その後伝説的なヴァイオリン教師ザハール・ブロンに師事し、わずか10歳でポーランドのリピンスキ・ヴィエニヤフスキ国際コンクールジュニア部門で優勝。
■アレクサンドル・コイレ
(Alexandre Koyre、1892年8月29日 - 1964年4月28日)はロシアのタガンログで生まれ、フランスなどで活動した哲学者・科学史家。コイレは、ロシア南部の黒海沿いのタガンログで生まれた。家族はユダヤ系であった。1908年にドイツのゲッティンゲンにわたり、ゲッチンゲン大学でエトムント・フッサールやダフィット・ヒルベルトの下で勉強していたが、フッサールが彼の論文に賛成しなかったため、パリ大学に行きアンリ・ベルクソンとレオン・ブランシュヴィックに指導を受けた。
■アダム・ラクスマン
Adam Laxman、1766年 - 1806年以降は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンで、漂流民大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力した人物。アダム・ラクスマンはペテルブルク大学から派遣されてシベリアのイルクーツクに滞在中、伊勢国出身の大黒屋光太夫ら漂流者6名と出会う。
■ピョートル・ストルイピン
Pyotr Arkad'evich Stolypin, 1862年4月14日〈ユリウス暦4月2日〉 - 1911年9月18日〈ユリウス暦9月5日〉)は、帝政ロシアの政治家。ロシア皇帝ニコライ2世の下で、大臣会議議長(首相、在任:1906年7月21日 - 1911年9月18日)を務めた。 ストルイピンは、ニコライ2世の治世においてセルゲイ・ヴィッテと並んで有能な政治家であり、革命派に対する容赦ない弾圧と、農業分野を中心に、地方自治の近代化、司法・中央行政機構に渡る広範な改革を実行した。
■ミハイル・ゴルバチョフ
Mikhail Sergeevich Gorbachev, 1931年3月2日 - は、ソビエト連邦の政治家で、8代目にして、同国最後の最高指導者。1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任し、ソ連国内では東欧の社会主義諸国民主化の契機となったペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)などの大改革を断行し、政治・経済・文化など多岐にわたる分野で合理化・民主化を推し進めた。外交面ではそれまで40年以上続いていた冷戦を、マルタ会談にて、就任して僅か5年目で終結させて軍縮を進めるなど、世界平和に多大に貢献した。
■アレクサンドル・コルチャーク
1873年11月4日(グレゴリオ暦11月16日) - 1920年2月7日は、ロシア帝国の軍人・政治家、白軍(白衛軍)の総司令官である。1873年、サンクトペテルブルクの海軍軍人の家に生まれる。海軍幼年学校を次席で卒業。1894年、海軍尉官補となり、一等装甲巡洋艦「リューリク」に配属された。1900年には、エドゥアールト・トール(英語版)の北極海探索に参加し、調査船「ザリャー(英語版)」の指揮を取った。
■セルゲイ・ドヴラートフ
1941年 - 1990年は、ロシアの小説家。除隊後、ドヴラートフはジャーナリズム学部に入り、工場新聞のジャーナリストとして働き、物語を書き始めた。マラムジン、エフィーモフ、ヴァフチンらとともに、レニングラードの文学サークル「都会派」に加わった。ある時は、パノワの元で、秘書として働いていた。ドヴラートフは散文作品を書いていたが、ソ連の雑誌に作品を掲載しようとする試みは徒労に終わった。彼の最初の本の組版はKGBの命令で廃棄される。60年代終わり頃から、ドヴラートフは地下出版物に自分の作品を発表するようになり、1976年には、いくつかの作品が西側の雑誌、「大陸」や「時間と我ら」に発表された。
■ウラディーミル・スピヴァコフ
1944年9月12日 ウファ - はロシアの指導的なヴァイオリニストおよび指揮者。室内オーケストラの「モスクワ・ヴィルトゥオージ」との活動によって名高い。早くから音楽的神童として知られ、13歳のときにモスクワの指揮者コンクールにおいて優勝する。モスクワ音楽院に進みユーリ・ヤンケレヴィチに師事。1979年にシカゴ交響楽団と協演して西側デビューを果たす。
■ミールサイト・スルタンガリエフ
(Mir Seyyit Sultan Galiyev, 1882年7月13日 - 1940年1月28日)は、ロシア革命期のタタール人民族主義者、革命運動家。現在のバシコルトスタン共和国のウファ県ステルリタマク郡にて生まれた。スルタンガリエフは、ソ連のタタール人社会を、資本主義の前段階にあるものとして位置づけ、すでに資本主義化したロシア人社会とは異なるアプローチで社会主義システムを建設する必要があると主張した。また、西洋の帝国主義から植民地を解放する上で、民族主義や宗教の役割を高く評価した。
■エレーナ・イシンバエワ
Yelena Gadzhievna Isinbaeva、1982年6月3日 - は、ロシアボルゴグラード出身の陸上競技選手。2004年アテネオリンピック、2008年北京オリンピックの女子棒高跳の金メダリスト。女子棒高跳世界記録保持者。身長は174cmで体重は65kgである。2005年に棒高跳で女性では不可能と言われていた5mの壁を初めて突破した選手である。
■ミハイル・ブルガーコフ
Mikhail Bulgakov、1891年5月15日(ロシア暦5月3日) - 1940年3月10日は、ウクライナ出身の劇作家、小説家。『巨匠とマルガリータ』が最もよく知られている。彼の作品はソビエト社会に対する体制批判とみなされ、長いあいだ当局から弾圧されていた。作風に関し、同じくウクライナ出身の人物で近代ロシア文学の基礎となった作家ニコライ・ゴーゴリと比較される。ロシア人の両親のもと、ロシア帝国支配下のウクライナの首都キエフに生まれた。キエフ大学で医学を学び、白軍の軍医としてロシア内戦に従軍した。
■ニコライ・ヴァヴィロフ
Nikolai Ivanovich Vavilov1887年11月25日 - 1943年1月26日はロシア・ソビエト連邦の植物学者、遺伝学者。農作物の起原の研究で有名であるが、ルイセンコ一派の陰謀で投獄され悲劇的な最期を遂げた。彼は食糧の安定確保のためにも多様な遺伝資源を確保することが肝要であると考え、世界各地への大規模な農学・植物学調査旅行を行った。この成果に基づき、遺伝的多様性が高い地域(遺伝子中心)がその作物の発祥地であると考え、栽培植物の起原についての理論を発展させた。さらに当時では世界最大の植物種子コレクションを創設した。
■アンドレイ・プラトーノフ
Andrey Platonov, 1899年9月1日-1951年1月5日はロシアの小説家。社会主義国家建設の様子を描いた『土台穴』が最も広く知られた彼の代表作である。1930年代になってスターリンが五カ年計画を発表して農業の集団化を押し進めるとプラトーノフは次第に疑問を感じるようになり、それをきっかけに代表作『土台穴』を執筆しはじめたといわれている。また、1934年に中央アジアのトルクメン共和国に派遣されたときの体験をきっかけに、『粘土砂漠(タクイル)』、『ジャン』を執筆した。
■イワン・クラムスコイ
1837年5月27日(グレゴリオ暦6月8日) - 1887年3月24日(グレゴリオ暦4月5日))は、ロシアの画家・美術評論家。1860年から約20年にわたって「移動派」の知的・精神的な指導者であり続けた。ロシア南部オストログスクの貧しい小市民階級の出身。1857年から1863年までサンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミー(現サンクトペテルブルク美術大学)に学んだ。しかし、そこでイタリアを至高の芸術対象とする官製美術に反撥し、「14人の反乱」の首謀者としてアカデミーから放校処分に付された。「ロシア人が美術の世界で独立独歩する時代がようやく来ているのです。外国のむつきを脱ぎすてるべき時代なのです」−クラムスコイはこのように述べて、夏は純ロシア的な風俗画を描き、冬には歴史画の大作に取り組んだ。
■パーヴェル・チェレンコフ
Pavel Alekseyevich Cherenkov, 1904年7月15日(ユリウス暦)/7月28日(グレゴリオ暦) - 1990年1月6日)は、ソ連の物理学者。「チェレンコフ効果の発見とその解釈」により、1958年のノーベル物理学賞を受賞した。彼はヴォロネジ州ニジニャ・チグラで生まれた。両親のアレクセイとマリヤは農夫であった。セルゲイ・ヴァヴィロフの下で働いていた1934年に、チェレンコフは放射線が照射された一本の水の入ったビンから青い光の放射を観察した。
■フセヴォロド・プドフキン
Vsevolod Illarianovich Pudovkin、1893年2月16日 - 1953年6月20日は、ロシアの映画監督、俳優である。セルゲイ・エイゼンシュテイン、アレクサンドル・ドヴジェンコと並び、創生期のソ連映画界で活躍した巨匠である。主に無声映画時代において代表作を発表している。ロシア・ボルガ地方ペンザ生まれ。4歳の頃にモスクワに移り、モスクワ大学では物理の勉強をする。卒業後は化学者として工場に就職するが、D・W・グリフィスの『イントレランス』を見て感激し[要出典]、1919年に国立映画専門学校に第1期生として就学し、映画監督のレフ・クレショフの下につく。
■ゲンナジー・パダルカ
(Gennady Ivanovich Padalka、1958年6月21日 - )は、クラスノダール出身のロシア空軍の軍人、ロシア連邦宇宙局の宇宙飛行士である。ミールと国際宇宙ステーションの両方で長期滞在を行い、2010年6月時点で、宇宙滞在時間は歴代6位である。パダルカは1979年にEisk Military Aviation Collegeを卒業し、卒業後はロシア空軍でパイロットを務め、最終的に大佐の階級になった。ロシア空軍の第1クラスのパイロットとして、6種類の飛行機で1500時間の飛行経験を持つ。さらにパラシュート訓練の教官として、300回のパラシュートでの降下経験も持つ。また1994年まで国際連合教育科学文化機関の学習システム国際センターで技術者、生態学者としても働いた。
■アンドレ・ガイム
ロシア生まれのオランダ人物理学者で、グラフェンの研究で知られる。ゲッコテープの発明者であり、磁気浮上の研究者でもある。2010年のノーベル物理学賞をコンスタンチン・ノボセロフとともに、"二次元物質グラフェンに関する革新的な実験"で受賞した。
■セルゲイ・エイゼンシュテイン
Sergei Mikhailovich Eisenstein、1898年1月10日(グレゴリオ暦1月23日) - 1948年2月11日)は、ソビエト連邦の映画監督。ドイツ系ユダヤ人とスウェーデン系ユダヤ人の血を引く。モンタージュ理論を確立し自ら実行した人物で、映画史において極めて重要な人物の1人とされている。最も有名な映画作品は1925年の『戦艦ポチョムキン』である。未完に終わった3部作『イワン雷帝』(1944年)は彼の集大成とされている。ハリウッドとも関係が深く『戦艦ポチョムキン』に感銘を受けソ連を訪れたメアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスに会い、その後ハリウッドからの招聘などを通じて人脈を広げた。
■アンナ・ネトレプコ
Anna Yur’yevna Netrebko, 1971年9月18日 - は、ロシア出身のソプラノ歌手である。卓抜した実力のみならずその美貌によっても名高い、現代を代表するオペラ歌手の一人である。1971年、9月18日、ロシア南部のクラスノダールに生まれる。ロシアの名門サンクトペテルブルク音楽院で声楽を学ぶ。1993年、モスクワのグリンカ声楽コンクールで第1位。1994年、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場の「フィガロの結婚」スザンナ役でデビュー
■イサーク・レヴィタン
Isaac Ilyich Levitan, 1860年8月18日(グレゴリオ暦8月30日) - 1900年7月22日(グレゴリオ暦8月4日))は、ロシアの風景画家。イサーク・レヴィタンは、現在のリトアニア・カウナス地方のキバルタイにあったシュテットル(ユダヤ人コミュニティー)に生まれた。教育を受けたユダヤ人家庭であったが、貧困に喘いでいた。レヴィタンの作品は、ロシアの風景の詩的な魅力を反響する深遠なものとされた。『シモノフ修道院の眺め 』(現在所在不明)を除いてレヴィタンは都市の風景を描かなかった。レヴィタンは人生最後の年を、クリミア半島にあるチェーホフの家で過ごした。絶え間ない病気の影響にもかかわらず、彼の最期の作品は増大する光で満たされている。
■ウラジーミル・マヤコフスキー
1893年グレゴリオ暦7月19日、ユリウス暦7月7日 - 1930年4月14日)は、20世紀初頭のロシア未来派(ロシア・アヴァンギャルド)を代表するソ連の詩人。両親共にコサックの出で、グルジアで生まれる。1906年に父親が亡くなると、家族と共にモスクワに移住。そこでマルクス主義文学に傾倒するようになり、またロシア社会民主労働党に加わるようになる。
■エメリヤーエンコ・ヒョードル
Fedor Emelianenko、男性、1976年9月28日 - )は、ロシアの総合格闘家、サンボ選手、元柔道家。レッドデビル・スポーツクラブ所属。初代リングスヘビー級王者、第2代PRIDEヘビー級王者、初代WAMMA世界ヘビー級王者。2010年に敗れるまで10年間無敗という記録を作った。またプロ格闘家として活動する傍らコンバットサンボの大会にも出場し、世界選手権で4度の優勝を果たしている。
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