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グルジア
Georgia
NIS

ヨーロッパ

グルジアは西アジアの北端にあることから古い歴史があり、ホモ・ゲオルギクスの化石が発掘されたことからユーラシアの人類拡散に役割を担ったと言われている。グルジアワインは世界最古のぶどうワインとされる。


■地理
グルジアはカフカース山脈を中心に国土の大部分が山岳地帯である。最高峰はシュハラ山(標高5201m)。200km離れたカズベギ山(標高5074m)が第2の高山で唯一の火山である。この間に2,100もの氷河がある。グルジアは山脈によって地方が分けられ、東部は歴史的にイベリアと呼ばれた一方、西部はコルキスと呼ばれていた。また山脈は、北部地域のスヴァネティを分けている。またこれらの山脈を源としてリオニ川やクラ川などの主要な河川がある。


西アジア
アジア西部を指す地理区分である。今日の欧米ではほぼ中東と同じ領域を指すことが多い。一般的には、中央アジアおよび南アジアより西、地中海より東で、ヨーロッパとはボスポラス海峡、アフリカとはスエズ運河によって隔てられている地域を指す。


■気候
山岳地帯が多いため狭い国土の割りに気候は多様性に富んでいる。標高5000mを超えるカフカス山脈がロシアからの寒気団を遮断する役割を担っているため、国土の大半は比較的温暖な気候であり、ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。黒海沿岸部は最も温暖で、その温暖な気候を生かしたグルジアワインの生産地として有名である。


コーカサス
Caucasus、は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語、文化、宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。

コーカサス山脈
黒海からカスピ海まで東西に走る山脈。ロシア語からカフカース山脈ともよばれる。ギリシャ神話では、コーカサスは世界を支える柱のうちの一つでゼウスがプロメテウスを鎖で繋いだ場所でもある。ウラル山脈、カスピ海とともにアジアとヨーロッパの境をなす。山脈の北は北コーカサス地方とよばれロシア連邦領、南は南コーカサス地方とよばれグルジアとアゼルバイジャンの領土である。

クラ川
カフカス山脈から流れる川である。トルコ東部に水源を持ち、グルジアを経由してアゼルバイジャンに入る。アゼルバイジャンで支流であるアラス川と合流し、カスピ海に注ぐ。流れが遅く浅いためトビリシまで航行可能である。水力発電所もある。トビリシやルスタヴィなどの工業都市による排水で川の汚染が問題となっている。

黒海
ヨーロッパとアジアの間にある内海。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。バルカン半島、アナトリア半島、カフカースと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。面積は436,400km2ある。最大水深は2,206m。名称は黒味を帯びた海水に由来し、この黒味の原因は硫化鉄であるとする説と、地中海よりも豊富な微小藻類であるとする説がある。

東ヨーロッパ
Eastern Europe)は、東欧ともいい、ヨーロッパ東部の地域を指す。基本的にヨーロッパを東西に分けるのはあくまで便宜的なものである。この分類法に明確な定義はなく、時代や主観によって大きく変遷する。現在の民族的な分類では東スラヴ人が大半を占める地域を示すことが多いが、これもあいまいである。中世の文化や地勢学的にはエルベ川以東をさしていたが、これもすでに用いられることはない。このように時代や主観によって「東欧」の地理的概念 と政治的概念 は大きく変わってきた。

コルキス王国
カフカース地方にあった古代グルジアの王国、地域。コルキスはグルジア民族およびそのサブグループの民族的文化的形成において、重要な役割を演じた。コルキス王国を初期グルジア国家として見た場合、東グルジアでのイベリア王国(カルトリ王国ともいう。統一以降の、中世のグルジアの国家性の発展に重大な貢献を果たした。


タマル (グルジア女王)
Tamar Bagrationi, 1160年? - 1213年、在位:1184年 - 1213年)はバグラティオニ朝グルジア王国の女王。名はタマラ、タマーラとも記される。グルジア王国の最盛期を現出した。セルジューク朝を駆逐して領土を拡大し、グルジア王国の版図を南カフカース全域にまで広げた。トレビゾンド帝国の建国(1204年)を助けた。


<歴史>
■古代〜中世〜近代
グルジアは西アジアの北端にあることから古い歴史があり、ホモ・ゲオルギクスの化石が発掘されたことからユーラシアの人類拡散に役割を担ったと言われている。グルジアワインは世界最古のぶどうワインとされる。紀元前6世紀にはオリエントを統一したアケメネス朝ペルシャの一部となった。その後、紀元前1世紀にローマの支配に入った。

■ロシア帝国からの独立とソ連への加盟、ソ連時代
ロシア革命後の1918年5月26日にロシアから独立を宣言するが、赤軍に首都を制圧され崩壊した。ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国の構成国となり、ソビエト連邦に加盟した。

■ソ連からの独立とその後
ソ連後期からは抑えられていた民族的な問題が表面化した。1990年11月、グルジア・ソビエト社会主義共和国はグルジア共和国に改名され、1991年4月9日に独立宣言を行い、5月にはズヴィアド・ガムサフルディアが大統領に選出された。これは同年末のソ連邦の解体により実効性を持つに至った。




■バラ革命以後
2007年11月に与党サアカシュヴィリ政権に対する野党デモの鎮圧を期にグルジア全土で非常事態宣言が発令されるなど政情不安は続き、これに対するサアカシュヴィリ政権の強硬政策はグルジアにおける民主主義の後退を位置付けるものとなった。

■ロシア-グルジア戦争とその後
2008年8月、南オセチア州を巡りグルジアとロシアの間において紛争が勃発。この紛争によってサアカシュヴィリの権力は強まると思われたが、逆に多くの戦死者を出して批判され後に紛争を「グルジアから仕掛けた」と発言するに及び、彼の求心力は弱まっている。2009年5月5日に軍部によるクーデター未遂事件が発生し、グルジア軍の高級将校ら数人が拘束された。グルジアはクーデター勢力がロシアの支援を受けていたと非難している。

■ロシアとの対立
ソ連崩壊以降、グルジアは一貫して隣国ロシアと距離を置き、欧米との関係強化を打ち出してきた。この路線は2004年に成立したサアカシュヴィリ政権下で一層に高まり、軍事的には2008年のNATOとEUへの加盟推進、ロシア語からグルジア語への移行推進と英語教育の義務化、ソ連時代のみならずロシア帝国時代にまで遡っての「抗露運動の歴史」を教える記念館の建設、同じ路線をとるウクライナ、ポーランド、バルト三国との連携など、露骨な反露路線・民族主義路線を歩んで来ている。


■民族問題
コーカサス地方は古くから無数の民族が入り乱れる不安定な地域であり、近代に成立したに過ぎないグルジア人という民族意識は未だ不安定で、グルジア国民の間でも地方対立が絶えない状況下にある。現時点でアブハズ人(アブハジア)、オセット人(南オセチア)、イスラム教徒のグルジア人(アジャリア)、アルメニア人(ジャワヘティア)、ミングレリア人(ミングレリア)、アゼルバイジャン人、チェチェン人など多数の非グルジア民族を国内に抱えている。グルジア政府の反露政策はグルジア民族主義と密接に結びついており、これらの地方民族への弾圧が強まっている。


ソビエト連邦
ソビエト社会主義共は、1922年に世界初の社会主義国として成立し、1991年に解体消滅した連邦国家である。世界初の社会主義国で、ソビエト連邦共産党の一党独裁国家であるが、同時に軍事大国としても有名であり、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国と双璧を成す超大国であった。1991年末に解体され、構成国は独立した。

ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国
1922年から1936年まで存在したソビエト連邦を構成する共和国の一つ。「ザカフカース」はロシア語で「カフカースの彼方」を意味する。1920年以降、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアで、あいついでソビエト政権が成立した。ロシア共産党は、この地域の経済的、政治的統一を推進するため、1922年末にこれらの三国で構成される連邦として、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国を成立させた。

アジャリア自治共和国
Ac'aris Avt'onomiuri Resp'ublikh'a Sakartvelo)は、南カフカス西南部にあり、黒海に面しトルコと接した地方に位置するグルジア領内の自治共和国。アジャール自治共和国ともいい、首都は黒海岸の港湾都市バトゥミ。面積は2,900km2、人口は約40万人。グルジア最大の港であるバトゥミを抱えるため、独立以来経済的に困窮しているグルジアにとって非常に重要な地域である。

南オセチア紛争 (2008年)
別名ロシア-グルジア戦争(Russia-Georgia War)は、グルジアとロシア間の戦争。南オセチアやアブハジアの分離派と統一派の戦いでもある。2008年8月に始まり、陸戦、航空戦、海戦の全てが行われた。別名8月戦争(August War)とも。


バラ革命
vardebis revoluciaは、2003年にグルジアで起こった、エドゥアルド・シェワルナゼを大統領辞任に追い込んだ暴力を伴わない革命である。2003年11月2日、グルジアでは議会選挙が行われたが、この選挙結果に対して国内外の選挙監視団体からはシェワルナゼ寄りの著しい不正操作があったとして非難された。11月中旬、大規模な反政府デモがトビリシの中心街で始まり、グルジア国内の主要都市でもこの動きが広まった。青年団体クマラ(グルジア語:「もうたくさんだ!」。セルビアの学生組織オトポール!(同じく「抵抗!」)の在グルジアグループ)や自由協会といった非政府組織 (NGO) もこの抗議運動に参加した。


<世界遺産>
ムツヘタの都市-博物館保護区
Mtskhetaはグルジアの古都。首都トビリシから北西に20km。人口は7,600人(2004年)。クラ川とアラグヴィ川の合流地点の近くに町が広がる。ムツヘタは、5世紀の王ワフタング1世(ワフタング・ゴルガサリ)がトビリシに遷都するまで、イベリア王国(紀元前3世紀-6世紀)の首都であった。

バグラチ大聖堂
Bagratis tadzariは、11世紀に建造されたグルジアの大聖堂である。生神女就寝祭を記憶している。イメレティ地方の古都クタイシに建てられた大聖堂で現在は廃墟となっているが、グルジアの中世建築史における傑作として伝えられている。

ゲラチ修道院
The Monastery of the Virgin - Gelatiは、グルジア西部のイメレティ地方(Imereti)のクタイシ郊外にある修道院で、1106年にグルジア王ダヴィド4世(David the Builder)によって創設された。この修道院にはアカデミーがあり、グルジアを代表する科学者、神学者、哲学者たちを擁していた。

アッパー・スヴァネティ
グルジア北西部に位置する歴史的な地域名である。グルジア人に含まれる先住民族であるスヴァン人(Svans)たちが暮らしている。3000 m級から5000 m級の山々に囲まれているスヴァネティは、ヨーロッパの定住地域では最も海抜標高が高い。カフカース山脈の最高10峰のうち4つがこの地方に存在している。


ダヴィド・ガレジ複合修道院
David Gareja monastery complex) はグルジア東部カヘティ地方にある修道院群。トビリシから南東へ70?、ガレジ山麓に位置する。100近くの小室、聖堂、礼拝堂、食堂、居住部屋が岩をくりぬいて作られている。起源は6世紀にグルジアへやって来たアッシリア十三教父の一人ダヴィド・ガレジェリにさかのぼる。


ホモ・ゲオルギクス
(Homo georgicus)は、化石人類の一種である。1999年から2001年にグルジアのドゥマニシで頭蓋骨と下顎骨が発見され、2002年に公表された。ホモ・ハビリスとホモ・エレクトスの中間種であると考えられている。化石は約180万年前のものである。1991年にグルジア人科学者David Lordkipanidzeが率いる国際チームが初めて発見したが、発掘には至らなかった。側からは道具や動物の骨が発見された。


アケメネス朝
紀元前550年 - 紀元前330年)は、古代イランにおこったとされる王朝・帝国。紀元前7世紀後半、ペルシア人の長でハカーマニシュの息子テイスペス(チャイシュピ)は、アッシリアに圧倒され衰退しつつあったエラム王国の都市アンシャンを征服した。

コルキス
Colchis or Kolchis, は、カフカース地方にあった古代グルジアの王国、地域。コルキスはグルジア民族(en:Georgians)およびそのサブグループの民族的文化的形成において、重要な役割を演じた。コルキス王国は、紀元前6世紀から紀元前1世紀にかけて存在した、最初のグルジア国家のことを指す。

東ローマ帝国
る。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。ビザンティン帝国、ビザンツ帝国とも呼ばれるが、この2つはあくまでも歴史用語であり、後世の人間による呼称である。

サファヴィー朝
Safaviyan)は、16世紀から18世紀前半にかけて現在のイランを中心に支配したイスラム王朝(1501年 - 1736年)。ホラーサーンからメソポタミアに至る歴史的イラン地域を支配した王朝としては初めてシーア派の一派十二イマーム派を国教とし、現在のイランとアゼルバイジャン、イラク南部で十二イマーム派が住民の大多数を占める状況を導いた。


■言語
公用語がグルジア語(71%)である。その他ロシア語(9%)、アルメニア語(7%)、アゼルバイジャン語(6%)なども使われている。


グルジア語
kartuli ena)はグルジアの公用語。グルジア語の総話者数は約410万人で、その内、グルジア国内の母語話者数は国民の約83%にあたる約390万人である。残りの話者はトルコ、ロシア、イラン、アゼルバイジャン、アメリカ合衆国、ヨーロッパに存在する。

ロシア語
インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派東スラヴ語群に属する言語。露語とも言う。ロシア連邦の公用語。ロシア連邦の国語表記には、キリル文字を使用する。近縁の言語にウクライナ語とベラルーシ語がある。

アルメニア語
カフカス(コーカサス)地方の一国アルメニアの公用語。言語学的にはインドヨーロッパ語族に分類され、この言語だけで独立した一語派を形成している。表記には独自のアルメニア文字が用いられる。

アゼルバイジャン語
トルコ語やトルクメン語と同じテュルク諸語の南西語群(オグズ語群)に属し、アゼルバイジャンの公用語。イラン北西部にも多くの話者がいる。イランにおいては単にトルコ語と呼ばれることもある。


■宗教
正教会の一員であるグルジア正教徒が75パーセント、イスラム教徒が11パーセント。


キリスト教
Christianity)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。

ムスリム
Muslim)は、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教徒のことである。キリスト教圏ではムハンマド教徒とも呼ばれ、日本でもかつては一部でこの語を用いた。

グルジア正教会
Georgian Apostolic Autocephalous Orthodox Church)は現在のグルジア共和国の中心部に「全グルジアのカトリコス総主教」を長とする聖シノド(英語:Holy Synod)を置く、正教会の一員たる独立教会である。4世紀に国教化した歴史の長い教会で、伝承による起源は初めてコーカサス地方(古代のコルキス Colkis、イベリア Iberia)へ宣教した1世紀のアンデレ(聖使徒アンドレイ)まで遡る。


ボリス・アクーニン
Boris Akunin、1956年5月20日 - は、ロシアの小説家、日本文学研究者、文芸評論家。ペンネームのアクーニンは日本語の悪人と無政府主義者バクーニンの名をかけたもの。1998年からアクーニンの筆名で作家活動を始める。「エラスト・ファンドーリンの冒険」シリーズはロシアでベストセラーとなり、典雅な文体と手に汗握るストーリー展開で、それまで「低俗なジャンル」と考えられていた探偵小説に新風を吹き込んだ。

グルジアのニノ
296年 - 338年もしくは340年)は、グルジアにキリスト教を伝道・紹介した女性である。多くの広く伝えられる伝承によれば、彼女はカッパドキアのコラストラ(Kolastra)出身であり、聖ゲオルギウスの親類であり、コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)からグルジア(コーカサス・イベリア(Iberia))に来たという。他の伝承によれば、彼女はローマ、エルサレムもしくはガリア出身であるという。彼女は奇蹟的な癒しを行い、グルジアの女王ナナ、続いて、狩猟旅行中に闇の内に失明したが「ニノの神」に祈った後で道を見出した、異教徒のイベリア王ミリアン3世(Mirian III of Iberia)を改宗させ、ミリアンはキリスト教を327年に国教とし、ニノはグルジアにおける伝道活動を死ぬまで続けた。

アレクサンドル・ボロディン
1833年10月31日(ユリウス暦)/11月12日(グレゴリオ暦) - 1887年2月15日/2月27日)はロシアの作曲家、化学者、医師。ロシア音楽の作曲に打込んだロシア5人組の一人である。化学を専攻し、ペテルブルクの医学大学の薬学部に入る。 卒業後、陸軍病院に勤務、24歳の時に医学の会議の出席のためにヨーロッパに長期出張、この頃、ムソルグスキーと知り合い、シューマンの曲を紹介され、興味を持つ。26歳の時、ハイデルベルク大学(化学)入学。元素理論を確立したメンデレーエフと知り合う。卒業後はペテルブルクの医学大学の助教授、教授と進み、生涯有機化学の研究家として多大な業績を残した。 作曲は1863年にミリイ・バラキレフと出会うまで正式に学んだことがなかった。

ウラジーミル・マヤコフスキー
1893年グレゴリオ暦7月19日、ユリウス暦7月7日 - 1930年4月14日は、20世紀初頭のロシア未来派(ロシア・アヴァンギャルド)を代表するソ連の詩人。両親共にコサックの出で、グルジアで生まれる。1906年に父親が亡くなると、家族と共にモスクワに移住。そこでマルクス主義文学に傾倒するようになり、またロシア社会民主労働党に加わるようになる。その後ボリシェヴィキのメンバーとなるが、このため3回逮捕される。投獄中に詩作を始め、バイロン、シェイクスピア、トルストイ、アンドレイ・ベールイ、コンスタンチン・バリモントなどを読む。

テンギズ・アブラゼ
Tengiz Abuladze; 1924年1月31日 - 1994年3月6日)は、グルジア人映画監督。1924年、クタイシに生れる。1943年から1946年までトビリシ演劇大学で学ぶ。その後、モスクワの全ロシア国立映画大学を1952年に卒業。1953年より映画監督としてグルジア映画社に勤務。短篇ドキュメンタリー作品の制作を始める。『幸せの樹』(1977年)、『懺悔』(1984年)などの作品で世界的に知られる。

ニーナ・アナニアシヴィリ
Nina Ananiashvili, 1963年3月28日 - は、グルジア共和国のバレエダンサー。2004年よりグルジア国立バレエ団芸術監督、および付属のチャブキアニ・バレエ学校校長。ボリショイバレエ団のプリマ・バレリーナを20年以上、アメリカン・バレエ・シアター(ABT)のプリンシパルを16年務めたが、2009年6月、ニューヨークでの 『白鳥の湖』 公演を最後に、ボリショイに続いてABTからも引退した。今後はグルジア国立バレエ団で指導をしながら出演を続けるという。地質学者の父親、言語学者の母親の長女としてトビリシに生まれる。先祖はグルジアの貴族だったが1930年代に粛清され、父親は男性としての唯一の生き残りであったという。4歳でフィギュアスケートを始め、10歳のとき地区大会で優勝、その後誘われてバレエに転向した。

ストルガツキー兄弟
ソビエト時代のロシアのSF作家兄弟。兄アルカジイ(アーカディ)(1925年8月28日 - 1991年10月12日)と、弟ボリス(1933年4月14日 - )の兄弟で共作。兄アルカジイは1925年、バトゥミで生まれた。父は芸術評論家、母は教師だった。一家は後にレニングラードに引っ越している。レニングラード包囲戦のさなか、アルカジイと父は包囲された街から脱出したが、父はヴォログダに到着する前に亡くなり、アルカジイだけが生き残った。

ニコ・ピロスマニ
Niko Pirosmani, 1862年 - 1918年4月9日は19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家。彼はグルジア東部のMirzaani(ミルザーニ)の村で生まれた。後にトビリシに出て、グルジア鉄道で働いたり自分の商店を持ったりしたが、体が弱いうえに人付き合いがうまく行かなかったため長続きしなかった。その後、独学で習得した絵を描くことに専念するようになった。


タマル (グルジア女王)
Tamar Bagrationi, 1160年? - 1213年、在位:1184年 - 1213年)はバグラティオニ朝グルジア王国の女王。名はタマラ、タマーラとも記される。グルジア王国の最盛期を現出した。セルジューク朝を駆逐して領土を拡大し、グルジア王国の版図を南カフカース全域にまで広げた。トレビゾンド帝国の建国(1204年)を助けた。

コンスタンチン・ガムサフルディア
Konstantine Gamsakhurdiaは、グルジアの作家。ミヘイル・ジャカシュヴィリとともに、20世紀グルジアを代表する小説家のひとりとされる。スターリン時代には白海のソロヴェツキー島へ流刑に処されている。古典グルジア語から取り入れた表現と、深い心理分析にもとづいた人物描写が彼の作品の特徴とされる。

セルゲイ・ヴィッテ
Sergei Yul'jevich Witte, 1849年6月29日 - 1915年3月13日)は、帝政ロシア末期の政治家。1849年、ロシア帝国の領土であったグルジアのチフリス(現在のトビリシ)に生まれる。祖先はオランダからスウェーデン統治時代のバルト海沿岸に移り住んできた移民とされる。父はオランダ人技術者、母はロシア貴族出身。1870年オデッサ大学物理・数学科を卒業。

カハ・カラーゼ
Kakhaber "Kakha" Kaladze、1978年2月27日 - )は、グルジア・サムトレディア出身の元同国代表サッカー選手、政治家。サッカーでのポジションはDF。1997年にウクライナの強豪クラブであるディナモ・キエフへ移籍。アンドレイ・シェフチェンコらとともにUEFAチャンピオンズリーグでの躍進に貢献する。ディナモ・トビリシ、ディナモ・キエフ在籍中は全てリーグ優勝。

エルダリ・クルタニーゼ
Eldari Kurtanidze、男性、1972年4月16日 - )は、グルジア出身のレスリング選手、総合格闘家。レスリング・フリースタイル競技において、アトランタオリンピック、シドニーオリンピックの2大会連続で銅メダルを獲得。また、世界選手権では2度、ヨーロッパ選手権では4度の優勝を果たしている。

エレーネ・ゲデヴァニシヴィリ
Elene Gedevanishvili, 1990年1月7日 - )は、グルジア共和国トビリシ出身の女性フィギュアスケート選手。2006年トリノオリンピック、2010年バンクーバーオリンピック女子シングルグルジア代表。2010年ヨーロッパフィギュアスケート選手権3位。

レバン・コビアシビリ
1977年7月10日 - )は、グルジア・トビリシ出身の同国代表選手で、ヘルタ・ベルリン所属のサッカー選手である。ポジションはMF(左サイドハーフ)、DF。2011年10月12日、ギリシャ戦において、グルジア代表としては初めての100試合出場を達成。これは2011年12月現在、グルジアにおける最多出場記録となっている。2003-04シーズンにシャルケ04へ移籍し、一時代を築き上げた。

ショータ・チョチョシビリ
Shota Samsonovich Chochishvili 1950年7月10日 - 2009年8月27日)は、旧ソ連のグルジア共和国・シダ・カルトリ出身の柔道家、格闘家である。身長190cm。体重110kg。1989年、ソビエト社会主義共和国連邦のペレストロイカ政策の一環としてスポーツ選手のプロ化が認められた際にはプロ格闘家に転向し、その年の4月24日に新日本プロレスに登場。アントニオ猪木と対戦し、5ラウンド1分20秒に柔道の裏投げでKO勝ちした。この試合は猪木が異種格闘技戦で敗れた唯一の試合である。

アレクサンドル・トラーゼ
Alexandr Toradze, 1952年 - )は旧ソヴィエト連邦グルジア・トビリシ出身のピアニスト。ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで入賞した後、母校モスクワ音楽院で教職についた。1983年にアメリカに居を構え、1991年にはインディアナ大学サウスベンド校で教授を務める。自身の運営する講座は同校の看板ともいえ、世界的に向学心ある学生を集めている。

アラム・ハチャトゥリアン
(Aram Il'ich Khachaturian), 1903年5月24日(グレゴリオ暦6月6日) - 1978年5月1日)は、ソビエト連邦の作曲家、指揮者。トビリシに生まれたアルメニア人で、甥に作曲家カレン・ハチャトゥリアンがいる。モスクワで音楽を学んだ。レーニン賞など多数の賞を受け、高い評価を受ける一方、自作の指揮者としても活躍。

ニコライ・マル
Nikoloz Iakobis Mari、1865年1月6日(ユリウス暦で1864年12月25日)- 1934年12月20日)は、ロシア出身のグルジア人言語学者、民族学者。「ヤフェト理論」と称する言語の単一起源説を主張し、1920年代から1930年代にかけて、ソビエト学会に大きな影響を与えた。

ロイ・メドヴェージェフ
Roy Aleksandrovich Medvedev, 1925年11月14日 - )は、グルジア・トビリシ生まれの歴史学者。1972年に英語で出版した『共産主義とは何か(原題:歴史の審判(Let History Judge、邦題、以下邦題を使用)』で、スターリニズムへの反対の歴史を書いた作家としてその名を知られる。ロシアで著名となり、ミハイル・ゴルバチョフ、ボリス・エリツィンの顧問を務めた。

アレクサンドル・イアシュヴィリ
(Alexander Iashvili, 1977年10月23日 - )は、グルジア・トビリシ出身のサッカー選手。ポジションはFW。ブンデスリーガ・VfLボーフム所属。1993年に故国のFCディナモ・トビリシで選手キャリアをスタート。 1994-95シーズンに24試合に出場し24得点、1995-96シーズンに25試合で26得点を挙げたことで国外のクラブからの関心を集め、1997年1月にドイツのVfBリューベックに期限付き移籍をした。

グルジア Georgia
西アジア北端、南カフカース地方に位置する共和制国家。旧ソビエト連邦の構成国のひとつで、1991年に独立した。首都はトビリシ。東ヨーロッパに含められることもある。

カフカース山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来より数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。

トビリシ
Tbilisiはグルジアの首都。人口は約120万人。グルジア東部、クラ川の河畔に広がる。三方を山や小高い丘に囲まれている。すでに4世紀のペルシア史料に、この地域に集落があったことが言及されている。今も市内に一部が残るナリカラ砦はこの頃に造られたものである。1918年に創設されたトビリシ国立大学など、多数の高等教育機関や、劇場、博物館、国立オペラ・バレエ劇場などがあり、学術・文化面でも重要な都市である。


外務省:グルジア
在グルジア日本国大使館


アブハジア
(Abkhazia)は、カフカースの一地域で、グルジアはアブハジア自治共和国として自国に属すると主張しているが、事実上、アブハジア共和国として独立状態にある。その独立は国際的には認知されていなかったが、2008年8月26日にロシア連邦が承認を発表した。また、2008年9月にニカラグアが、2009年9月にベネズエラ、12月にはナウル、2011年5月にバヌアツ、2011年9月にツバルが独立を承認している。首都はスフミ。


スフミ
国際的にはグルジア共和国のアブハジア自治共和国の首都。ロシアなど独立を承認している少数の国からはアブハジア共和国の首都。黒海に臨む。人口は43,700人(2003年)。黒海の東の大きな湾に面し、港を有し、鉄道の分岐点でもある。亜熱帯気候で、鉱泉を産し、旧ソビエト連邦時代は屈指の保養地として知られ、多くのホテルの立地する典型的リゾート地であった。旧石器時代の遺跡が発掘されている。

クタイシ
Kutaisiはグルジア西部の中心都市。リオニ川の河畔に広がる。人口は約186,000人(2002年)。旧ソビエト連邦時代には、グルジア第2の工業都市として自動車工場などが有名であった。首都トビリシから221km。古代ギリシアの『アルゴナウタイ』物語で知られるコルキス王国(あるいはコルヒダ王国、紀元前6世紀-紀元前2世紀)の首都であった。975年から1122年までグルジア王国の首都。

バトゥミ
Batumiは黒海に臨むグルジアの港湾都市。アジャリア自治共和国の首都。人口は約13万7000人(1991年)。バトゥミにはグルジア最大の港があり、重要な商工業都市である。保養地としても有名。グルジア正教やカトリック、イスラム、ユダヤ教、アルメニア教会など多くの宗教が混在する町であり、それぞれの宗教の寺院・教会が見られる。旧ソビエト連邦で唯一の水族館があった。

ボルジョミ
Borjomiはグルジア中部、カルトリ(Kartli)県西部の町。水のきれいな保養地として知られる。この町の鉱泉から湧出するミネラルウォーターが有名で、この町の名のミネラルウォーターもある。近くのボルジョミ渓谷は景勝地である。また帝政ロシア時代の貴族の別荘(現在はサナトリウム)もあり、今や観光資源となっている。スキーリゾートのバクリアニ(Bakuriani)も近い。

ガグラ
(Gagra) はグルジア西部にあるアブハジア自治共和国の都市である。黒海の北東の海岸から5キロメートル入ったところにあり、コーカサス山脈のふもとに位置する。亜熱帯気候のため、ロシア帝国やソビエト連邦の支配下にあったときには有名な保養地であった。ガグラはトリグリト (Triglite) と呼ばれるギリシア人の植民地として建設され、ギリシア人と土着のアブハジア人が居住した。

クタイシ
Kutaisi)はグルジア西部の中心都市。リオニ川の河畔に広がる。人口は約186,000人(2002年)。古代ギリシアの『アルゴナウタイ』物語で知られるコルキス王国(あるいはコルヒダ王国、紀元前6世紀-紀元前2世紀)の首都であった。975年から1122年までグルジア王国の首都。

テラヴィ
Telavi)は、グルジア共和国東部のカヘティ州の中心都市。人口は2万1800人(2002年)。ワインの名産地である。青銅器時代の考古学的遺跡も残るが、歴史に登場してくるのは8世紀からで、この地方の中心都市となっていった。10世紀から12世紀にかけてはカヘティア王国の都となった。


ポチ
Poti)は、グルジア共和国西部サメグレロ州の都市。黒海の東岸に位置し、黒海に面したグルジアの三つの港のうちの一つとなっている。この港からは、主にマンガン・トウモロコシ・材木・ワインなどが輸出される。アルゴナウタイの物語の中では、この都市の周辺がイアソンの黄金の毛皮を求める旅の終着点であるとされる。

アルゴナウタイ
Argonautai)は、ギリシア神話の長編叙事詩に登場する英雄たちの総称。イアーソーンに率いられて巨大なアルゴー船で数々の航海をする。時代設定はトロイア戦争の前。テッサリアーのイオールコスの王子イアーソーンは、父から王位を奪ったペリアースに王位の返還を求めるが、コルキス(黒海東端の王国。現在のグルジア西部)にあるという黄金の羊の毛皮(金羊毛)を要求される。


カヘティ州
Kakheti)は、グルジアの東部に位置する州。グルジア語の一種を話すカヘティア人が暮らす。北でコーカサス山脈の尾根と、北東でロシアと、南東でアゼルバイジャンと、南西でクヴェモ・カルトゥリ州と、北西でムツヘタ・ムティアネティ州とそれぞれ接する。


南コーカサス
ザカフカジエ, Zakavkaz′e)は、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの3国の総称。ロシア語としては不正確だがザカフカスとも言う。ザカフカジエとの呼称は、トランスコーカシア(トランスコーカサス)は、それぞれロシア語・ラテン語で「コーカサス山脈の向こう側」であり、北のロシア側から見た呼称であるため、「向こう側」とは「南側」を意味する。


GUAM
グルジア・ウクライナ・アゼルバイジャン・モルドバの4カ国による国家連合である。GUAMという名称は、加盟4カ国の頭文字を集めたもの。事務局をウクライナのキエフに置く。


■国名
1995年以来、英語名はジョージアGeorgia日本語ではグルジアと表記されるが、2012年現在、同国政府は「ジョージア」への表記変更を日本政府に求めている。独立直前の1990年から1995年までは「グルジア共和国」を正式な国名としていた。グルジア語ではサカルトヴェロ、ラテン文字転写 : Sakartvelo)という。サカルトヴェロとは「カルトヴェリ人(グルジア人)の国」という意味で、カルトヴェリは古代ギリシャ人の記録にもあらわれる古代からの民族名カルトリに由来する言葉である。


1.面積:6万9,700平方キロメートル(日本の約5分の1)
2.人口:420万人(2010年:国連人口基金)
3.首都:トビリシ
4.民族:グルジア系(83.8%)、アゼルバイジャン系(6.5%)、アルメニア系(5.7%)、ロシア系(1.5%)、オセチア系(0.9%)(グルジア国勢調査)
5.言語:公用語はグルジア語
6.宗教:主としてキリスト教(グルジア正教)

前6世紀 西グルジアにコルキス王国成立
前4〜3世紀 東グルジアにイベリア(カルトリ)王国成立
4世紀 イベリア(カルトリ)王国がキリスト教を国教化。グルジア文字の考案
562年 西グルジア、ビザンツ帝国により併合
6世紀 東グルジア、サーサーン朝ペルシアにより征服
7世紀後半 東グルジア、アラブにより征服
975年 バグラト朝成立。タマラ女王(在位1184年〜1213年)のもとバグラト朝最盛期、南コーカサス全域を領有
13世紀以降 数次にわたる外敵の侵入、国土の疲弊
16世紀以降 オスマン朝とサファヴィー朝により東西に分割
1783年 ロシア帝国、東グルジアのカルトリ・カヘティア王国を保護国化
1801年 東グルジア、ロシアに併合
19世紀前半 西グルジアの諸地方、漸次ロシアに併合
1844年 ロシア帝国、チフリスにカフカース総督府設置
1878年 アジャリア併合によりグルジア制圧完了
1918年5月 グルジア・メンシェヴィキによりグルジア共和国独立宣言
1921年2月 赤軍チフリス入城、グルジア・ソヴィエト社会主義共和国成立
1922年 アルメニア、アゼルバイジャンと共にザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国を形成、ソ連邦結成に参加。
1956年 トビリシ事件(民衆集会・運動が軍により流血の弾圧)
1989年4月 トビリシ事件(独立回復要求集会へのソ連軍の弾圧)
1991年4月9日 独立宣言
1991年5月 ガムサフルディア、初代大統領に当選
1992年1月6日 反ガムサフルディア派、大統領官邸占拠。ガムサフルディア大統領、グルジアから脱出
1992年2月 国家評議会創設。シェヴァルナッゼ元ソ連外相が帰国し、国家評議会議長に就任
1995年11月 シェヴァルナッゼ大統領就任(2000年再選)
2003年11月 野党勢力が議会を占拠、シェヴァルナッゼ大統領辞任(バラ革命)
2004年1月 サーカシヴィリ大統領就任
2007年11月 反政府デモ隊と治安当局の衝突により多数の負傷者が出たことを受け、非常事態令が発出。2008年1月に大統領選挙を繰り上げることで事態は収拾
2008年1月 大統領選挙が行なわれ、サーカシヴィリ大統領が再選
2008年8月 グルジア軍と南オセチア軍の軍事衝突を契機に、ロシアが介入。ロシアは南オセチア及びアブハジアの独立を一方的に承認。

■主要産業:農業、食品加工業、鉱業

■主要貿易品目(1)輸出 くず鉄、金属、輸送用機器、食料品(ナッツ、ワイン、ミネラルウォーターなど)(2)輸入 燃料、石油製品、輸送用機器、医療品


ラリ
(laari)は、グルジアの通貨単位である。国際通貨コード(ISO 4217)はGEL。ソ連時代のルーブルに代わり、エドゥアルド・シェワルナゼ政権の下で1995年9月に導入された。旧ソ連諸国の通貨の中で、導入以来インフレーションを経験せず、比較的安定している通貨でもある。補助通貨はテトリ(tetri)で、1ラリは100テトリである。1ラリ=66.36円(2006年8月4日現在)。


■経済
グルジア経済は伝統的に、黒海観光、柑橘類、茶やブドウの生産を中心としてきた。ソビエト連邦時代には黒海沿岸は有数の保養地になり、観光業が盛んだった。また、ブドウなどを利用してワインやコニャック製造などの食品加工業。マンガンや銅の採鉱と、これに付随して金属、機械類、化学薬品や織物を生産する工業部門も発達していた。自国内で供給できるエネルギーは殆どが水力発電のみで、天然ガスや石油を含むエネルギーの大部分はアゼルバイジャンから輸入する。


柑橘類
園芸学問上はミカン科ミカン亜科のミカン連(カンキツ連)、あるいは、統計上はミカン属(カンキツ属)の総称である。「柑橘類」という言葉は日常生活および産業上において頻用される日用語であり、英訳する際には通常 citrus と訳される。柑橘類の果実は食用とされる。果実の「爽やかな香り」と「甘酸っぱい味」が特徴。

ブドウ
(葡萄、学名 Vitis spp.)は、ブドウ科 (Vitaceae) のつる性落葉低木である。また、その果実のこと。ブドウの栽培化の歴史は古く、紀元前3000年ごろには原産地であるコーカサス地方やカスピ海沿岸ですでにヨーロッパブドウの栽培が開始されていた。当初よりワインとの関連が深く、メソポタミア文明や古代エジプトにおいてもワインは珍重されていた。

ワイン
主としてブドウの果汁を発酵させたアルコール飲料である。葡萄酒。通常、単に「ワイン」と呼ばれる場合には他の果汁を主原料とするものは含まない。ワインは最も歴史の古い酒の一つとされ、現在のグルジア周辺では遅くとも紀元前8000年頃からワインが飲まれていたらしい。また、アルメニアでは約6000年前のものとされる世界最古のワイン醸造所跡が発見されており、その頃には既に高度な醸造技術が確立されていた。

発泡ワイン
(Sparkling wine)とは、ワインの一種で、二酸化炭素を多く含み、開栓すると圧力が下がって二酸化炭素が気泡として立ち上ってくるもの。通常のワインにも炭酸ガスは含まれるが、溶け込んでいる量が少ないため開栓しても発泡しない。発泡ワインには、瓶内発酵のために二酸化炭素が溶け込んでいるために開栓時に発泡するようにしたものと、人工的に二酸化炭素を吹き込んで開栓時に発泡するようにしたものが存在する。


マンガン
manganese は原子番号25の元素。元素記号は Mn。銀白色の金属で、比重は7.2(体心立方類似構造)、融点は1244 °C。マンガン族元素に属する遷移元素。温度によりいくつかの同素体が存在し、常温常圧で安定な構造は立方晶系である。これは硬く非常に脆い。一番有名な用途は、二酸化マンガンがマンガン乾電池やアルカリ乾電池の正極に使われることであろう。


水力発電
hydroelectric generation)は、水が落下するときのエネルギーで発電を行う方式のことである。現在最も一般的なのは発電用水車を水の力によって回転させることで発電を行う。 発電用水車と発電機を組み合わせたものを水車発電機(すいしゃはつでんき)という。水力発電と同様に再生可能エネルギーを利用する太陽光発電や風力発電に比べて単位出力あたりのコストが非常に安く、また発電機出力の安定性や負荷変動に対する追従性では、数ある再生可能エネルギーの中で王者とも言われ、実用化されている唯一の再生可能エネルギーとも言える。


バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン
(BTCパイプライン)は、カスピ海のアゼリ・チラグ・グネシュリ油田(ACG油田)から地中海までを結ぶ全長1,768キロメートルの原油パイプライン。アゼルバイジャンの首都バクーから発し、グルジアの首都トビリシを通り、トルコの地中海沿岸南東部に位置する港ジェイハンへ抜ける。これはドルジバパイプラインに次いで世界第2位の規模の石油パイプラインである。


国際通貨基金
International Monetary Fund、IMF)は、通貨と為替相場の安定化を目的とした国際連合の専門機関。本部はアメリカ合衆国のワシントンD.C.。2011年9月現在の加盟国は187ヶ国。

世界銀行
World Bank、WB)は、各国の中央政府または同政府から債務保証を受けた機関に対し融資を行う国際機関。当初は国際復興開発銀行を指したが、1960年に設立された国際開発協会とあわせて世界銀行と呼ぶ。国際通貨基金と共に、第二次世界大戦後の金融秩序制度の中心を担う。本部はアメリカ合衆国ワシントンD.C.。加盟国は184ヶ国。


■国民
住民の多くはカルトヴェリ人(グルジア人、正教徒)(83.8%)である。その他アルメニア人、ロシア人、アゼルバイジャン人、オセチア人、アブハジア人、ギリシャ人などがいる。


オセット人
Osetinは、カフカース地方の山岳地帯に住む民族。主な居住地域はカフカース山脈をまたいで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国と、グルジアの南オセチア自治州に分かれている。総人口はおよそ60万人。オセット人は、スキタイ、サルマタイ、アラン人などの古代の黒海北岸一帯で活動したイラン系民族の後裔と考えられている。

グルジア人
Georgians、グルジアの国民であり、またコーカサス地方出身の民族である。自称は「カルトベリ」。コーカサスで最も古い民族であり、グルジアを中心にトルコ、ロシア、アメリカ合衆国、イランその他の国に住む。南コーカサス語族に属する言語を話す。人種系統は地中海人種に属する。グルジア人の大多数はキリスト教徒で、4世紀以来独立したグルジア正教会に忠実である。

アルメニア人
アルメニアの主要民族。インドヨーロッパ語族に属するアルメニア語を使用している。アルメニア人の7割はアルメニア共和国外在住である。古代から国家を建設し、世界で初めてキリスト教を国家宗教とした。また中世の東ローマ帝国ではアルメニア系の王朝が建てられたことがある。なお、アルメニア人は非カルケドン派であるアルメニア使徒教会の信者がほとんどである。

アブハズ人
Abkhaz、Abkhaziansは主にアブハジアに住むカフカースの民族。19世紀後半、ロシア帝国がカフカーズ戦争によって北カフカースを併合すると、ロシアの植民地的支配を嫌った多くのアブハズ人がオスマン帝国に移住し、現在でも数万〜数十万人のアブハズ人がトルコに住んでいる。また、旧ソビエト連邦国家、特にロシア、ウクライナ、カザフスタンなどにも多くのアブハズ人が住む。

ポントス人
アナトリア半島(現トルコ)北東部の黒海沿岸地域、ポントス地方に歴史的に居住し、ギリシャ語のポントス方言を母語とする正教会信徒(ギリシャ人)のことである。ポントスはギリシャ語で「海」を意味し、ポントス地方はハリュス川(現在のクズルウルマク川)以東の黒海沿岸地方を指す。歴史的な中心都市はトレビゾンド(現在のトラブゾン)である。

ミングレル人
(Mingrelians)はグルジアの少数民族であり、主にグルジアのサメグレロ(ミングレリア)に居住している。また多くがアブハジアとトビリシに居住している。およそ18万人から20万人のミングレル人が1990年代初期に発生したアブハジア紛争とそれに続いたアブハジアからグルジア人を駆逐する民族浄化の結果、アブハジアから追い出された。


ヨシフ・スターリン
1878年12月18日 − 1953年3月5日)はソビエト連邦の政治家、軍人。同国の第2代最高指導者。グルジア系ロシア人としてロシア帝国領ゴリ市に生まれ、キリスト教の神学者として教育を受ける。しかし後に棄教、無神論に転向してマルクス主義に基いた革命運動に参加する。ウラジーミル・レーニンによるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴィエト連邦政府及びソヴィエト連邦共産党の成立に深く関与する。

ミヘイル・サアカシュヴィリ
Mikheil Saakashvili, 1967年12月21日 - は、グルジアの政治家。2003年11月の無血革命では指導的役割を果たし、2004年1月4日に行われた選挙で大統領に選出された。1967年、ソビエト連邦グルジア共和国のトビリシに生まれる。父は温泉療法を手がけた医師、母は歴史学者というインテリゲンツィヤの家庭に育つ。1992年、ウクライナのキエフ国立大学国際法学部を卒業後、アメリカ合衆国に渡り、1994年、コロンビア大学で法学修士号を取得。

ニコロス・ギラウリ
Nikoloz "Nika" Gilauri 、1975年2月14日 - は、グルジアの政治家。副首相、財務相などを経て、2009年2月6日から第19代グルジア首相。1975年2月14日ソビエト連邦の一部であったグルジア共和国の首都トビリシに生まれる。トビリシ大学を卒業し、次いでアイルランドのリムリック大学で経済学と財政学を修め、さらにアメリカのテンプル大学で国際経済学を修めた。

ズヴィアド・ガムサフルディア
(Zviad Gamsakhurdia、1939年3月31日 - 1993年12月31日)は、ソ連のグルジアの政治家、作家、文学者。ミングレル系である。民主的に選出された最初のグルジア大統領だが、独裁者とも評される。1974年からモスクワの人権擁護家と関係を維持し、人権擁護会報「現行の事件記録」にグルジア国内の事件を定期的に掲載した。同年、「グルジア人権擁護イニシアチブ・グループ」を創設。

エドゥアルド・シェワルナゼ
Eduard Amvrosievich Shevardnadze, 1928年1月25日 - は、ソビエト連邦及びグルジアの政治家。1985年から1990年までソビエト連邦の外務大臣を務めた。1995年から2003年までグルジア大統領を務めた。1928年1月25日にソビエト連邦グルジア共和国ランチフティ地区ママティ村に生まれる。1946年に首都トビリシのコムソモール指導員を皮切りに、グルジアのコムソモール及びグルジア共産党で活動する。

ニノ・ブルジャナゼ
Nino Burjanadze 1964年7月16日 - は、グルジアの法律家で、政治家、国会議員。グルジアの女性として歴史上初めてとなるグルジア国会議長(2001年11月9日 - 2008年6月7日)。また2度に渡り同国の暫定大統領を務めた。ブルジャナゼは親欧派とみられている。彼女自身、グルジアは一刻も早くEUおよびNATOに加入すべきだと述べたことがある。1995年に国会議員に初めて当選する。これ以前から彼女はエドゥアルド・シェワルナゼ大統領の政党であるCUG(Citizen’s Union of Georgia、グルジア市民連合)に所属していた。彼女は1999年までグルジア法務省長官も務めており、その後は外務大臣に就任。

ケイティ・メルア
(Katie Melua、1984年9月16日 - )は、グルジア出身のイギリスのシンガーソングライター。1984年グルジア(旧ソ連)生まれ。子供時代をグルジアとロシアのモスクワで過ごす。 内戦による混乱に怯えた幼少期を経て、9歳の時に家族と共に北アイルランドの北部の都市ベルファストに住み、13歳でロンドンに引っ越す。2004年デビューアルバム「コール・オフ・ザ・サーチ」を発表。その洗練美と透明感を標榜する歌声で人気が爆発し、全英アルバム・チャートで6週No.1に輝く。

ノダル・クマリタシビリ
(Nodar Kumaritashvili、1988年11月25日 - 2010年2月12日)はグルジアのリュージュ選手。2010年のバンクーバーオリンピック代表に選ばれたがオリンピック開幕目前の2月12日の練習中、最終16コーナー出口付近で、超高速でコース外に放り出され、鉄柱に激突し亡くなった。グルジア(当時ソビエト連邦のグルジア・ソビエト社会主義共和国)中部のボルジョミで生まれ、幼少の頃から、スキーを始めとする様々な競技に親しみ、腕を磨いたクマリタシビリのリュージュとの出会いは13歳の時だった 。一方で彼は学業でも才能を発揮、首都トビリシにあるグルジア工科大学で経済学の学位を所得していた。

ヤノ・アナニーゼ
(Jano Ananidze、1992年10月10日 - )は、グルジアのサッカー選手。ポジションは攻撃的MF。繊細なボールタッチとパスセンスを持ち味とするグルジア期待の選手で、サイドでもプレーできる。ディナモ・トビリシ、ディナモ・キエフのユースを経て、2007年にスパルタク・モスクワへ引き抜かれる。2009年、ユースでの活躍が認められてトップチームへ昇格した。

ソポ・ハルヴァシ
Sopho Khalvashi 1986年5月31日 バトゥミ - は、グルジアの歌手である。ラズ人の家に生まれた。ソポ・ハルヴァシは2006年にラトビアのユールマラで行われた音楽コンクール「New Wave」において3位を獲得し、ロシアのプロデューサー、イーゴリ・クルトーイ率いる音楽事務所ARSと契約、グルジアへの凱旋帰国を果たした。2006年12月12日、ソポの曲「Visionary Dream」が、グルジアが初めて参加する2007年のユーロビジョン・ソング・コンテストのグルジア代表に選ばれた。

ドミトリー・バシキーロフ
Dmitri Aleksandrovich Bashkirov、1931年11月1日 チフリス(トビリシ) - は旧ソ連・グルジア出身のピアニスト・教授。娘エレーナは、ギドン・クレーメルと離婚した後、ダニエル・バレンボイムとの不倫を実らせ結婚した。長らくモスクワ音楽院で教鞭を執った後、イタリアやスペインなど、南欧の音楽学校に招かれて教育活動を続けている。目下廃盤中であるが、シューマンの謝肉祭と幻想曲や、ブラームスのピアノ・ソナタのCDがあった。

ヴァノ・ムラデリ
1908年4月6日 ゴリ - 1970年8月14日 トムスクは、ソ連のグルジア人作曲家。当時はロシア帝国領だったゴリに生まれる。1931年にトビリシ音楽院を修了し、1942年から1944年まで、ソ連海軍中央アンサンブルの指揮者兼楽長に就任。1948年に歌劇《大いなる友情》がソ連共産党中央委員会の検閲に引っかかり、いわゆる「ジダーノフ批判」によって糾弾の対象とされた。

ショタ・ルスタヴェリ
Shota Rustaveli、1172年-1216年)は、12世紀・13世紀のグルジアの詩人。長編叙事詩『豹皮の騎士』を残した。その生涯について詳しいことは知られていない。タマル女王(在位1184年-1213年)に仕えた官吏で、『豹皮の騎士』はタマル女王に捧げられたものである。グルジアの首都トビリシの中心の大通りはルスタヴェリ通りと呼ばれる。そのほかにも、文学研究所や地下鉄の駅などに彼の名が冠されている。

ゲオールギイ・ベリーエフ
1903年2月13日 - 1979年7月14日)は、ソ連の航空機設計者。1931年に工学博士となり、また技術部門の陸軍少将でもあった。また、1929年から共産党の党員となった。1930年にカリーニン記念レニングラート工学大学を卒業後、彼は1934年から1968年までソ連の試験設計局を率いた。そこにおいて彼は、水上機(MBR-2、MP-1、MDR-5、MBR-7、Be-6)、ジェット飛行艇(R-1、R-2、B-10、A-40)、水陸両用機(Be-8、B-12)、艦載射出用航空機(Be-2、Be-4)、陸上旅客機(Be-30)を設計した。

イラクリ・ラバーゼ
(Irakli Labadze,1981年6月9日 - )は、グルジア・トビリシ出身の男子プロテニス選手。グルジア国籍の選手として初めてATPランキングトップ100位に到達した選手である。ツアー優勝の経験はないが、ダブルスで3度の準優勝がある。自己最高位はシングルス42位、ダブルス100位。

エリザーベト・レオンスカヤ
Elisabeth Ilinichna Leonskaja , 1945年11月23日 - )は、グルジアのトビリシ生まれの女流ピアニストである。11歳の時オーケストラと共演、13歳の時にはソロ・リサイタルを行うなど、幼いころから才能を発揮した。1964年から1971年までモスクワ音楽院にてヤコブ・ミルスタインに師事する。在学中、ブカレスト、ブリュッセル、パリで行われたコンクールにて受賞。

ブラート・オクジャワ
1924年5月9日モスクワ - 1997年6月12日パリ)はソ連・ロシアの詩人、歌手(シンガーソングライター)、小説家。200曲ほどの歌を遺し、ロシア語で(作者の唄)と呼ばれるジャンルの確立者の一人として有名。これはギターを弾きながら歌う、フランスのシャンソニエとロシア民謡の影響を受けた独特の様式で、彼らはバルド(元来ケルトの吟遊詩人のこと)とも呼ばれる。

ジョージ・バランシン
(George Balanchine, 1904年1月22日[1] - 1983年4月30日)は、米国における主要なバレエ団の創設者で、20世紀の最も進歩的なバレエ振付師。クラシック・バレエとモダン・バレエの橋渡しをした人物としてバレエの歴史に名を残している。サンクトペテルブルクのグルジア人の家庭に生まれる。父親はグルジア国民楽派のオペラ作曲家、メリトン・バランチヴァーゼ(1862年 - 1937年)、弟アンドリア(1906年 - 1992年)も作曲家で、バランシン自身もいくつか小品を作曲している。


アレクサンドル・ボロディン
(Alexander Porfir'evich Borodin,1833年10月31日(ユリウス暦)/11月12日(グレゴリオ暦) - 1887年2月15日/2月27日)はロシアの作曲家、化学者、医師。ロシア音楽の作曲に打込んだロシア5人組の一人である。サンクトペテルブルクにて、グルジア皇室の皇太子ルカ・ゲデヴァニシヴィリの非嫡出子として生まれる。ゲデヴァニシヴィリはボロディンを実子として戸籍登録せず、農奴の一人の名を使った。しかしながらボロディンは、ピアノの稽古を含めてすぐれた教育を受け、化学を専攻した。

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