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ベラルーシ共和国
Republic of Belarus
NIS |
■歴史
6-8世紀にスラヴ民族が移住開始したと一般に言われていたが、近年では古代からすでにスラヴ民族はこの地に定住し続けていたという説が有力である。9世紀のキエフ・ルーシの一部だったポロツク公国がベラルーシの始まりとされる。バルト海と黒海を結ぶ通商路として繁栄した。
■東ヨーロッパ
Eastern Europe)は、東欧ともいい、ヨーロッパ東部の地域を指す。基本的にヨーロッパを東西に分けるのはあくまで便宜的なものである。この分類法に明確な定義はなく、時代や主観によって大きく変遷する。現在の民族的な分類では東スラヴ人が大半を占める地域を示すことが多いが、これもあいまいである。
■地理
ベラルーシは内陸国で、国土の大部分が低地であり、最高点のジェルジンスカヤ丘陵でも海抜345mである。最低点はネマン川の海抜90mである。国土の20%を占めるなど湿原が豊富で、南部に最大の湿原であるポレーシエ湿地がある。約1万1000もの湖があり、それを突き通すように、北部を通るダウガバ川、西部を通るネマン川、東部を通るドニエプル川とその支流であるプリピャチ川、ベレジナ川、ソジ川などの主要河川がある。気候はおおむね温暖で湿度が高いが、東部は冷涼で、大陸性気候の特徴が見られる。
■バルト海
ヨーロッパとアジアの間にある内海。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。バルカン半島、アナトリア半島、カフカースと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。
■シヴィスワチ川
Svislach Riverは、ベラルーシを流れる川である。ベレジナ川の支流で、ドニエプル川水系に属する。総延長は327km、流域面積は5,160km2。ベラルーシの首都であるミンスクを流れる。
■ドニエプル川
ロシアから始まって、ベラルーシを経てウクライナに流れ黒海に注ぐ川である。総延長は、2285km。北ロシアの標高220mのヴァルダイの丘に源流を発し、東ヨーロッパ平原を南へ流れて、最終的には黒海に流れ込んでいる。川は、115kmの長さに渡って、ベラルーシとウクライナの国境になっている。下流の約800km部分には、巨大ダムによるダム湖が連続している。
■プリピャチ川
ウクライナとベラルーシを通る川である。ドニエプル川の支流のひとつで、チョルノーブィリ下流でドニエプル川(キエフ貯水湖)に合流する。川の周辺は大規模な湿地帯(プリピャチ湿地、ピンスク湿地)が形成されている。チェルノブイリ原子力発電所のすぐ近くを流れているため、事故により汚染された。
■ダウガヴァ川
東ヨーロッパを流れる全長1,020kmの川である。ロシアのヴァルダイの丘に源を発し、ベラルーシ・ラトビアを流れリガ湾でバルト海に注ぐ。運河によってベレジナ川・ドニエプル川とつながっている。
■ベレジナ川
Berezina, Beresinaは、ベラルーシの中央部を流れる河川。ドニエプル川の右支流である。流域のベレジナ保護区は、ユネスコの生物圏保護区にも指定されている。ベレジナ川は、ベラルーシ北部を南西から北東へ伸びる丘陵地帯・ベラルーシ高地に発する。
■ネマン川
ネマン川は、ベラルーシに源を発して、リトアニアとロシア連邦カリーニングラード州を流れ、バルト海の一部であるクルシュ海(クルシュ潟)に注いでいる。流域は古くからリトアニア人の住む土地であった。リトアニア人はネマン川(ネムナス川)を「父なる川」とも呼ぶ。
■ソジ川
ロシア・スモレンスク州に源を発し、ベラルーシを経由し、ウクライナまで流れる川である。ドニエプル川の支流のひとつで、総延長は648km、流域面積は42,100km2におよぶ。
■キエフ大公国
9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。ルーシ族と呼ばれる北欧系のヴァイキングによって建国され、リューリク朝によって統治された。10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化し、キリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。
■言語
言語は統計上ではベラルーシ語36.7%、ロシア語62.8%であるが、多くの国民は日常的にはロシア語を用いる。ソ連時代以降ロシア語使用が推奨され、ベラルーシ語使用は弾圧を受けてきたためである。そのため、独立当初の公用語はベラルーシ語のみであったが、1995年の国民投票により、ベラルーシ語に加えてロシア語が正式に公用語に格上げされた。
■ベラルーシ語
ベラルーシ共和国の公用語。白ロシア語(はくろしあご)と呼ばれていたこともある。話者は700万人から800万人で、ベラルーシやポーランド東部に分布している。系統的には、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属し、ロシア語、ウクライナ語とともに東スラヴグループを形成する。
■リトアニア語
主にリトアニアおよびその周辺国の一部の地域で用いられている言語。インド・ヨーロッパ語族のバルト語派に属す。リトアニアの公用語で、話者人口はおよそ370万人。リトアニア語は主にリトアニアで話されている。その他にもベラルーシ、ラトヴィア、ポーランド、カリーニングラード州(ロシア)に住むリトアニア人の間でも話されている。
■ロシア語
インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派東スラヴ語群に属する言語。露語とも言う。ロシア連邦の公用語。ロシア連邦の国語表記には、キリル文字を使用する。近縁の言語にウクライナ語とベラルーシ語がある。
■宗教
宗教は東方正教会が80%である。その他ローマ・カトリック、プロテスタントなどが信仰されている(1997年推計)。ロシア正教の古儀式派のポモールツィ、ベロクリニツキー派、ベグロポポーフツィなどの信徒も存在する。
■キリスト教徒
Christian)とは、キリスト教の信徒のことである。キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。
■ユダヤ教
古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェを神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。ただしメシア思想は、今日ではハバド・ルバヴィッチ派などを除いて中心的なものとなっていない。 ユダヤ教はキリスト教やイスラム教と違い、信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視する。
■プロテスタント
Protestantism、Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではローマ・カトリック(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。
■正教会
Orthodox Churchは、キリスト教の教派のひとつ。ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる。少なくない例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。ロシア正教会・ルーマニア正教会・ギリシャ正教会・ブルガリア正教会・セルビア正教会・グルジア正教会・日本正教会などは組織名であって教派名ではない。
■ロシア正教会
Russian Orthodox Church)は、正教会に属するキリスト教の教会であり、数多くある独立正教会の一つである。「ロシア正教会」は一教会組織名であり、ロシア正教会独自の教義・教理がある訳ではない。ロシア正教会における機密(サクラメント)は全正教会で有効と認められる。
■古正教沿海派教会
Pomorian Old-Orthodox Church)は、正教会の伝統を汲むキリスト教の教会である。 1694年、彼らはポモーリエ(白海沿岸地方)のヴィグ川付近にヴィグ修道院を建設した。17世紀末から19世紀半ばまでここが彼らの精神的中心となった。ポモーリエ派の名称はここからきている。
■シュラフタ
ポーランド王国で参政権を持つ社会階級、ないしそこに所属する人々。一般に「貴族」と認識され、またそう呼ばれるが、その実態は古代共和政ローマの「市民」に近い。各シュラフタは貧富の差や職業上の上下関係はあるものの、平等な政治的権利を持っていた。シュラフタ制度については例えば16世紀の著作物[1]に現れるように古来より古代共和政ローマのローマ市民権の制度に例えられ、またローマの共和政体を参考にした改革も行われた。
■リトアニア大公国
12世紀? - 1795年のあいだにリトアニアを中心とした地域を支配した国家である。その全盛期には、広大な領土を擁するヨーロッパの強国であった。この国家の支配層の民族構成は人口においてはリトアニア人はむしろ少数派で、特にルーシ人と呼ばれる東スラヴ人が多かった。
■ポーランド・リトアニア共和国
(1569年 - 1795年)は、ポーランド王国とリトアニア大公国の制度的国家合同(ルブリン合同)によって1569年に成立した複合君主制(ポーランドの元首とリトアニアの元首を一人の人物が兼ねる)国家。
■カトリック教会
カトリック教会(カトリックきょうかい、ローマ・カトリック教会、ラテン語:Ecclesia Catholica)はローマ教皇を中心とし、全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。カトリック教会の教説(教え)は「聖書と聖伝」という言葉であらわされるように、旧約聖書、新約聖書およびイエス・キリストと使徒の教えに由来し、教父たちによって研鑽され、多くの議論を経て公会議などによって確立されてきたものである。特に宗教改革以降、トリエント公会議においてカトリック教会の教義が整理され、再確認された。
<世界遺産>
■ベラヴェシュスカヤ・プーシャ/ビャウォヴィエジャ原生林
ポーランドとベラルーシの国境にまたがる原生林。ヨーロッパに残された最後の原生林と言われる。貴重なヨーロッパバイソンの棲息地としても知られる。
■ミール地方の宮殿
ベラルーシのフロドナ州カレリーチにある城とそれに関連する建造物群である。
■ネスヴィジ城
ベラルーシのネスヴィジ(Nesvizh)にあるラジヴィウ家の居城として建てられた城郭建築である。
■民族
住民はベラルーシ人が81.2%、ロシア人が11.4%、その他ポーランド人、ウクライナ人が7.4%、ユダヤ人が0.3%である(1999年)。
■スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性を何よりのアイデンティティとしている。
■ベラルーシ人
Belarusiansは、東スラヴ人に属する、ベラルーシの人口の大半を占める民族である。ベラルーシ近隣のポーランド、ロシア、リトアニア、ウクライナにも居住している。20世紀初頭には、アメリカ、ブラジル、カナダに多く移住した。
■ロシア人
東スラヴ人に属する民族である。ロシア語を母語として話す。ロシア連邦(80%以上)・ウクライナ(17.3%)・ベラルーシ(11.4%)などを中心に、旧ソビエト連邦構成国に広く居住する。ロシアでは最も人数の多い民族集団である。ロシア人の人口は約1億4千万人と推定され、ヨーロッパ最大の民族でありまた世界でも人口の多い民族のひとつである。
■ポーランド人
ポーランドの主要民族。中東欧に広がるスラヴ語派の話者の集団のひとつで、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派の西スラヴ語群に属するポーランド語を母語とする。英語名はPoles。総人口はおよそ3800万人で、ポーランドのほかドイツ、リトアニア、ウクライナ、ベラルーシなどに少数民族として居住している。また、ルーマニア、エストニアなどにもごく少数が居住している。
■タタール
北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族名称である。
■ウクライナ人
ウクライナの主要民族である。東欧の東スラヴ人に属し、主にウクライナ語を母語とするものが多い。歴史上でウクライナ人は様々な民族名で知られている。9世紀から13世紀にかけてウクライナの地域がルーシと呼ばれたことから、中世前期以降この地域の住民はルーシ人(ルスィーヌィ)と呼称されるようになった。
■グルジア人
グルジアの国民であり、またコーカサス地方出身の民族である。自称は「カルトベリ」。コーカサスで最も古い民族であり、グルジアを中心にトルコ、ロシア、アメリカ合衆国、イランその他の国に住む。
■アルメニア人
アルメニアの主要民族。インドヨーロッパ語族に属するアルメニア語を使用している。アルメニア人の7割はアルメニア共和国外在住である。12世紀にアルメニア王国や東ローマ帝国が衰退・崩壊した後は世界中に拡散し、商工業の担い手として各地にネットワークを広げて活躍した。
■アゼルバイジャン人
Az?rbaycanlılar)もしくはアゼリー人とは、アゼルバイジャン共和国とイラン北西部を中心として、その周辺地域であるグルジアやアルメニア、イラク北部、トルコ、ロシア連邦内のダゲスタン共和国などに居住しているテュルク系民族。トルクメン人やトルコ人の兄弟民族であり、アゼルバイジャン・トルコ人と呼ばれることもある。
■ベラルーシ料理
ベラルーシ料理の特色としては、上流階級を長くポーランド人やリトアニア人が占めていた(リトアニア大公国およびポーランド・リトアニア共和国)ため農民料理が土台となっていること、ジャガイモの多用、食材を粥状にして食べることを好むことが挙げられる。
■エンバク
(燕麦、学名:Avena sativa)はイネ科カラスムギ属の穀物。一年草。別名、オートムギ、オーツ麦、オート、マカラスムギ。また、同属の野生種 A. fatua と同名でカラスムギとも呼ばれる。2005年の全世界生産は2460万トンで、小麦、稲、トウモロコシ、大麦、ソルガムについで6番目に生産高の多い穀物である。
■イディッシュ文化
ドイツ以外のドイツ語圏の方言であるイディッシュ語を母語とする人をはじめとする、アシュケナージ系ユダヤ人の文化。文学・音楽・演劇などを含む。現在、イディッシュ文化の中心はアメリカ合衆国・イスラエル・南アフリカなどに移っている。
■アレクサンドル・フレブ
1981年5月1日 - は、ベラルーシ、ミンスク出身のサッカー選手。ブンデスリーガ・VfLヴォルフスブルク所属。1999年、BATEボリソフ在籍中にベラルーシリーグ優勝に大きく貢献。AEKアテネからのオファーもあったがブルガリア代表のクラシミール・バラコフとのプレーを望み、ドイツ・ブンデスリーガのVfBシュトゥットガルトに移籍した。以降中心選手として活躍し頭角を表す。2005年よりアーセナルFCへ移籍した。2008年に移籍金1500万ユーロ(約24億円)でFCバルセロナへと移籍した。柔らかいボールタッチや両足を使うスピードの落ちないドリブル、パスセンスは世界でも最高クラスである。
■ルイス・グルーエンバーグ
Louis Gruenberg、1884年8月3日 - 1964年6月9日 ビバリーヒルズは、アメリカ合衆国の作曲家、ピアニスト。ベラルーシのブレスト=リトフスクにてロシア系・リトアニア系ユダヤ人の家系に生まれる。ロシア帝国の出身ながらも、生後間もなく(一説によると2歳の頃)家族に連れられアメリカ合衆国に移住する。父親はニューヨークシティのヴァイオリニストであった。シカゴのスラム街における出産を描いたドキュメンタリー映画“The Fight for Life”(ペア・ロレンツ監督)の音楽は、アカデミー賞最優秀映画音楽部門にノミネートされた。最晩年の20年間は、次第に音楽界や演奏界で孤立するようになった。また渡米後の最晩年のシェーンベルクと親交を保っていた。
■マルク・シャガール
Marc Chagall 1887年7月7日 - 1985年3月28日は、20世紀のロシア(現ベラルーシ)出身のフランスの画家。帝政ロシア領ヴィテブスクMoishe Segalとして生まれた。1907年、当時の首都サンクトペテルブルクの美術学校に入るが、同校のアカデミックな教育に満足しなかったシャガールはやがてレオン・バクストの美術学校で学ぶことになる。バクストは当時のロシア・バレエ団の衣装デザインなどを担当していた人物である。
■イマヌエル・ヴェリコフスキー
1895年6月10日(NS) - 1979年11月17日)はロシア出身のアメリカ人で、古代史を再解釈して(主にアメリカで)ベストセラーとなった著書『衝突する宇宙』(1950) でよく知られている。1895年、ロシア帝国のヴィーツェプスク(現在はベラルーシ)で裕福なユダヤ教徒の一家に生まれる。子供のころから複数の言語を学び、モスクワのギムナジウムに送り込まれて教育を受け、特にロシア語と数学に才能を見せた。
■オシップ・ザッキン
Ossip Zadkin1890年7月14日 - 1967年11月25日)は旧ロシア領のベラルーシ・ビテプスク出身の彫刻家、画家である。父親は地方大学で語学を教える教師でユダヤ系の経済的に豊かな家庭に生まれ育ち、1905年に母親の実家のあった北部イギリスのサンダーランドの工芸美術学校で英語を学びつつ造形学を専攻した。その後ロンドンの大英博物館で古典彫刻に触れるなどして影響を強く受け、彫刻家を志した。
1909年にフランス・パリに渡りパブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニ、藤嗣治たちと知り合い、ともにエコール・ド・パリ(パリ派)の芸術家として活躍する。1920年、隣家に引っ越してきたアルジェリア出身の女流画家だったヴィランティーヌ・プラックス(Valentine Henriette Prax)と知り合い翌年に藤田を証人に立てて結婚する。
■アーヴィング・バーリン
Irving Berlin1888年5月11日 − 1989年9月22日は、ベラルーシ生まれのアメリカの作曲家、作詞家。正式な音楽教育を受けたことはなかったが、半世紀にわたる音楽活動で膨大な量の優れたポピュラー・ソングを作詞・作曲し、ジョージ・ガーシュウィンをして「アメリカのシューベルト」と言わしめた人物である。ことに著名な代表曲に「ホワイト・クリスマス」「ゴッド・ブレス・アメリカ」などがある。5歳の時に家族とともにアメリカのニューヨークに移住するものの、移住した3年後に父親が死去したため、新聞売りや靴磨きなど様々な職を転々とする。後にニューヨーク、マンハッタンのチャイナタウンのカフェのウェイター兼専属歌手になり、カフェで歌うための曲を自作するようになる。その後ボードヴィルの舞台に自ら上がってもいる。
■アレクサンドル・ルカシェンコ
Aleksandr Grigor'evich Lukashenko、1954年8月30日 - は、ベラルーシの政治家で大統領(1994年 - )。また、ベラルーシ・ロシア連合国家の初代最高国家評議会議長(2000年 - )でもある。権力欲が強い人物として知られる。連合国家構想ももともとは自らがロシアの最高指導者になりたいが故に発案したものであった。事実、連合国家構想は、初め国力が低下し混乱していたロシアとは対照的に、1994年以来の自らの独裁政治により国力を増したベラルーシがイニシアチブを握っていた。
■オルガ・コルブト
(Olga Valentinovna Korbut: 1955年5月16日 - )は、ソビエト連邦の女子体操選手。ベラルーシ出身。1972年のミュンヘンオリンピックで、団体、平均台、ゆかで金メダル、段違い平行棒で銀メダルを獲得。華麗な演技でミュンヘンの観衆を魅了し、「ミュンヘンの恋人」と呼ばれた。
■スタニスラフ・シュシケビッチ
Stanislav Shushkevich、1934年12月15日 - は、ベラルーシの政治家。ヤゲウォ大学教授。ベラルーシ最高会議議長(在任期間1991年9月18日から1994年1月)。ソビエト連邦崩壊後、独立したベラルーシの初代の国家元首。ロシア語、ポーランド語に堪能。1934年ソビエト連邦白ロシア共和国の首都ミンスクに生まれた。交換教授としてポーランドのクラクフにあるヤゲロォー大学に勤務した。
■マイヤー・ランスキー
(Meyer Lansky, 1902年7月4日 - 1983年1月15日)はユダヤ系ロシア人のギャング。本名はマイェル・スホフラニスキ(Majer Suchowlanski)。幼い頃からの友人であるラッキー・ルチアーノの右腕として活躍する。ルチアーノ帝国の財政顧問。ルチアーノとは組織犯罪史上重要なパートナーシップを組む(強い絆)。身長は低く160前後だったという。調整役に徹することが多かったため地味な存在に見えるが、長年にわたってマフィアの重鎮として君臨した大物中の大物。当時ロシア帝国領だったグロドノ(現・ベラルーシ)でポーランド系ユダヤ人の両親の間に生まれる。1911年、家族とともにアメリカに移住してニューヨークに定住した。
■イサイ・シューア
(Issaj Schur, Issai Schur, 1875年1月10日 - 1941年1月10日)は、ドイツとイスラエルの地で活動したユダヤ系の数学者。ポーランド(ベラルーシ)のモギリョフ県モギリョフ(マヒリョウ)でユダヤ系ドイツ人の子として生まれる。ベルリンで学び、1901年に博士号を取得。1903年に講師となり、ボン滞在を経て、1919年に教授となる。主な研究テーマは代数学であり、群の表現論において、フェルディナント・ゲオルク・フロベニウスの複雑な理論を簡単にした。
■アーヴィング・バーリン
(Irving Berlin、1888年5月11日 − 1989年9月22日)は、ベラルーシ生まれのアメリカの作曲家、作詞家。正式な音楽教育を受けたことはなかったが、半世紀にわたる音楽活動で膨大な量の優れたポピュラー・ソングを作詞・作曲し、ジョージ・ガーシュウィンをして「アメリカのシューベルト」と言わしめた人物である。マンハッタンのチャイナタウンのカフェのウェイター兼専属歌手になり、カフェで歌うための曲を自作するようになる。その後ボードヴィルの舞台に自ら上がってもいる。1911年作曲の『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』のヒットで名声を確立、これをきっかけに本格的にショーの世界に入り込み、多くのミュージカル楽曲の作詞、作曲を行う。
■ビクトリア・アザレンカ
(Victoria Azarenka, 1989年7月31日 - )は、ベラルーシ・ミンスク出身の女子プロテニス選手。2012年の全豪オープン女子シングルスの優勝者であり、ベラルーシ人として初めて世界ランキング1位になった選手である。2012年は初戦のシドニー国際で優勝し、全豪オープンでは、4大大会初の決勝進出。決勝で、マリア・シャラポワに 6-3, 6-0 でストレート勝ち。4大大会シングルス初優勝となった。
■エヴノ・アゼフ
Evno Fishelevich Azef、1869年 - 1918年4月24日は、ロシア帝国の革命家。エスエル(社会革命党)の幹部にして、ロシア革命史上最大の内通者、スパイとして複雑怪奇な一生を送った。1868年ロシア帝国グロドノ県(現在のベラルーシ)のユダヤ人洋服職人・小商人の家庭に生まれる。暮らしは貧しかったが、6人の兄弟姉妹とともに、ロストフ中学校に進学した。卒業後、芸能人の一座に入って旅巡業をしたり、商売や事務所勤務をしたりする。そのうちにユダヤ人の革命サークルに参加し、商売などで各地を回る内に他の革命組織との間に関係を持つようになっていった。
■スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ
Svetlana Alexievich、1948年5月31日 - は、ベラルーシの作家、ジャーナリスト。現在は西ヨーロッパ在住。ウクライナ出身。ウクライナ人の父とベラルーシ人の母をもつ。ベラルーシ大学卒業後はジャーナリストとして活動。聞き書きを通して、大事件や社会問題を描く。第1作『戦争は女の顔をしていない』では、第二次世界大戦に従軍した女性や関係者を取材。第2作『ボタン穴から見た戦争』では、第二次世界大戦のドイツ軍侵攻当時に子供だった人々の体験談を集めた。
■アレクセイ・イグナショフ
(Alexey Ignashov、男性、1978年1月18日 - )は、ベラルーシ出身のキックボクサー。フリー。ニックネームは「レッド・スコーピオン」「毒サソリ」「ベラルーシの赤サソリ」。参戦当初は「アーツ2世」「東欧のアーツ」とも言われていた。かつては母国ベラルーシのチヌックジムに所属していた。長身から繰り出される膝蹴りが得意。この膝は「レッド・スコーピオン(赤いサソリ)」と表現され、それがそのままイグナショフを表す代名詞となった。2003年以降はパンチを主とするカウンター狙いのファイトスタイルになっている。
■アンドレイ・アルロフスキー
Andrei Arlovski、男性、1979年2月4日 - は、ベラルーシの総合格闘家。ミンスク出身。チーム・ピットブル所属。元UFC世界ヘビー級王者。ボクシングテクニックとタックルを切るレスリング力、110kgとは思えない均整の取れた肉体にヘビー級トップクラスのスピードが特徴。またサンボ出身であるため、関節技も出来る。一方、顎が弱く負ける時は顔面にパンチをもらい崩れる場面が多かった。
■ダヴィト・ギンヅブルク
David Goratsievich Gintsburg, 1857年7月5日 - 1910年12月22日)は、帝政ロシアの東洋学者、男爵。Gü粐鋩burgとも表記する。大富豪ゴラツィー・ギンヅブルクの息子としてカーメネツェツ=ポドルスクに生まれ、家庭で教育を受ける。パリやペテルブルクで学んだ後、20歳のときにペテルブルク大学からcandidateの学位を取得。のちに、東洋学者ヴィルヘルム・アールヴァルトとグライフスヴァルトのもとでアラビア語の詩を学んだ。
■モイセイ・ギンズブルグ
(Moisei Ginzburg、1892年6月4日(ユリウス暦5月23日) - 1946年1月7日)は、ロシアの建築家。ロシア構成主義の理論的指導者として、また機能重視主義の指導者の一人として知られる。現代建築家協会「現代建築」誌創立者の一人。ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ミリューチンなどとも親しく、ヴェスニン兄弟らとも協働した。ベラルーシのミンスク出身。
■フェリックス・ジェルジンスキー
Feliks Edmundovich Dzerzhinskii, 1877年9月11日 - 1926年7月20日)は、ポーランドの貴族階級出身の革命家で、後にソ連邦の政治家に転じた。革命直後の混乱期において誕生間もない秘密警察を指揮し、その冷厳な行動から「鉄人」「労働者の騎士」「革命の剣」など数多くの異名で呼ばれた。
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ベラルーシ Belarus
東ヨーロッパに位置する共和制国家。東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する。首都はミンスク。ソビエト連邦から独立した。国際連合にはウクライナと共に、ソ連時代からソ連とは別枠で加盟していた。
■ミンスク
ベラルーシ共和国の首都である。国の中央部に位置し、人口は約180万人。北緯53度55分、東経27度33分。独立国家共同体(CIS)の本部が置かれている。ベレジナ川の支流シヴィスワチ川とニアミハ川の河畔に広がる。10世紀ごろ、ミンスクは、東スラブ人の支配するポロツク公国の版図に含まれていた。1067年、ニアミハ川河畔でポロツクとキエフ大公国のあいだで激しい戦闘があったことを記した史料で、ミンスクの名が初めて確認される。この年をミンスク建都の年としている。第二次世界大戦後、町は周囲の村を組み込みながら急速に復興した。かつての建築を再建するのでなく、スターリン様式の都市計画が行われ、無機質な建築が建てられていった。1972年には人口が100万人に達し、1986年には150万人になった。1986年のウクライナのチェルノブイリ原子力発電所の事故ではウクライナよりベラルーシが被害を受け、地方の住民の多くがミンスクに移り住んだ。
■ブレスト
ベラルーシ西部の都市、ポーランドとの国境近くに位置する。ブク川(bug)とMukhavets川との合流点にある。ブレスト=リトフスク(Brest-Litovsk)とも呼ばれる。人口は2004年の統計では29万人。ブレスト中央駅は、ベルリンとモスクワを結ぶ鉄道のレールのゲージの変換点であり、税関と出入国管理のポイントでもある。1941年6月22日、ドイツ軍のソ連侵攻に伴い、町はドイツ軍の攻撃を受けた。それに対し、ブレストの要塞は、激しく抵抗した。抵抗は約1ヶ月続き、その抵抗の果敢さからブレストはソ連より「英雄都市」の称号を受けた。ドイツ軍占領後、ナチスによりブレストのユダヤ人は多くが殺害された。なお、1944年にはソ連により町は奪還された。
■ベラルーシ行政アカデミー
Academy of Public Administration under the aegis of the President of the Republic of Belarus)は、ベラルーシの首都ミンスクにある国立アカデミー。ベラルーシ国内で最も教育水準の高い大学であり、将来の官僚を目標とし、経営学、リーダーシップ、マネジメント、軍事といった帝王学を学ぶことが出来る。現在までの卒業生は約40,000人で、国務大臣、裁判官、国会議員大企業社長、大学教授、医師と多岐に渡る。
■欧州人文科学大学
Europos Humanitarinis Universitetas、略称: EHUは、リトアニアにあるベラルーシの大学。1992年から2004年まで、EHUはベラルーシの私立大学としてミンスクに設立されていた。2004年、ベラルーシ政府の意向によりEHUは閉校を余儀なくされる。しかし欧州連合 (EU)、北欧理事会、リトアニア政府、その他欧州各国政府、米国政府、NGOなどの支援により、EHUはベラルーシの隣国リトアニアで再開校することができ、2005年秋に学部課程と修士課程をヴィリニュスにて設立。
■ミンスク第1空港
Minsk 1 Airportは、ベラルーシ共和国の首都、ミンスクにある空港である。市内に近いが、短距離便と一部の国際線(モスクワ等)のみ就航している。
■ミンスク第2空港
Minsk 2 Airportは、ベラルーシ共和国の首都、ミンスクにある国際空港。ミンスク国際空港(英: Minsk International Airport)としても知られている。ミンスクには他にミンスク第1空港もある。ミンスク市中心部から北東に約40km離れている。
外務省:ベラルーシ共和国
在ベラルーシ日本国大使館
■交通
市内の公共交通は、Minsktransという国営の組織によって一体的に運営されている。バスやトラム(8路線)、トロリーバス(70路線)が中心である。1984年にミンスク地下鉄が開通し、2012年現在で2路線が運行しており、総延長は35.5kmである。
■ベラルーシの鉄道
国内を横断する最初の路線は、1866年に開業したワルシャワ〜ブレスト間であり、1871年にモスクワまで完成した。ベルリン、ワルシャワから、モスクワまでの国際鉄道路線が、ブレストからミンスクを経てヴォルシャまで、ベラルーシを横断している。 この他の重要な路線としては、キエフ方面へと続くミンスク-ゴメリ線、サンクトペテルブルク方面へと続くヴォルシャ-ヴィーツェプスク線、ミンスク-ヴィリニュス線などが挙げられる。
■ミンスク中央駅
ベラルーシ最大の駅で、ロシアやウクライナ、ポーランド方面などへ向かう国際列車が乗り入れる。また、ミンスク地下鉄マスコウスカヤ線のプロッシャ・レーニナ駅(英語版)やトラム、トロリーバスに乗換が可能である。
■ミンスク地下鉄
ベラルーシの首都ミンスクを走る地下鉄である。1984年に開業し、現在は2路線25駅を30.3kmで結ぶ。2005年には、1日当たりの利用者数は約80万人であった。1950年代から1970年代にかけて、市の人口は100万人以上に急増し、1960年代後半に高速鉄道の計画が持ち上がった。1977年6月に建設が始まり、1984年6月30日にソビエト連邦で9番目の地下鉄として開業した。
■フロドナ
ベラルーシのフロドナ州の州都。ネマン川沿いにあり、ポーランドやリトアニアとの国境に近い。2005年の人口は317,366。
■ナヴァフルダク
ナヴァフルダクの存在が記されたのは1044年、ヤロスラフ1世とリトアニア人部族との争いについて書かれた年代記においてである。1252年のヒパティア写本(en)において、新たな小さな町を意味する「ノヴォゴロドク」(Novogorodok)の名が現れた。
■スロニム
ベラルーシのフロドナ州にある、人口53,100人(1995年)の都市。スツァラ川とイサ川の合流点に位置し、バラナヴィーチとヴァウカヴィスクを結ぶ鉄道の中継地でもある。
■アシポヴィーチ
ベラルーシのモギリョフ州に属する人口35,200人の町。州都モギリョフから南に136km、ミンスク-ホメリ間の高速道路から北に3kmの位置にある。シヴィスワチ川の水力発電所がある。
■バラーナヴィチ
ベラルーシ共和国の都市である。ベラルーシ西部のブレスト州に属する。ベラルーシにおける鉄道交通の要所である。ミンスクとブレストの中間地点に位置しており、北上してリトアニアのヴィリニュスにも通じている。
■ビハウ
ベラルーシのマヒリョウ州に属する、人口2万人の町である。州都モギリョフの44キロメートル南の、ドニエプル川付近に位置する。また、この町には、17世紀のシナゴーグがあることが知られている。
■ホメリ
ベラルーシの南東に位置する都市。ホメリ州の州都であり、48万1000人(2005年度調査)の人口を抱えるベラルーシ第2の都市。面積は113km2。町からおよそ8km離れたところにゴメリ空港がある。
■ピンスク
ベラルーシのブレスト州にある人口12万8300人の、ベラルーシで10番目に大きい都市。市域の大部分は沼地である。ストルメン川 Strumenとピナ川 Pinaの合流点であり、プリピャチ川が市域を横切っていることから川船を製造する小さな工業都市の中心でもある。
■ヴィーツェプスク
ヴィーツェプスクについての現存する最古の記録は1021年にさかのぼる。都市の公式の建立年は974年で、キエフ大公妃オリガの命により、クリブチの古い入植地のあった場所に建設された。
■シクロウ
ベラルーシ・マヒリョウ州の都市。マヒリョウからは 35 km 北に離れている。ヴォルシャとマヒリョウを結ぶ鉄道が通っている。人口は15,900人(2004年)。
■マヒリョウ
マヒリョウ州の州都。人口は367,788人(2007年)でベラルーシで3位。ロシア連邦に近くロシアのスモレンスク州まで76km、ブリャンスク州まで105km。町ができたのは1267年。14世紀以降は、リトアニア大公国の一部となり、ルブリン合同でポーランド・リトアニア共和国となった以降はポーランド王冠領の直轄に移された。
■マズィル
Mozyrは、ベラルーシのホメリ州にある都市。モジル、マジルなどとも表記される。首都ミンスクの東210km、チェルノブイリの北西100kmに位置し、プリピャチ川に面している。人口は2004年の推計で111,770人だが、都市圏になると対岸のカリンカヴィチなども含まれるため15万人になる。1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故ではこの地にも多量の放射能が降り注ぎ、大きな被害が出た。マズィルはホメリ一帯におけるモダンロック音楽の中心地で、2003年から音楽の国際フェスティバルが催されている。
■ポラツク
Polatsk)は、ベラルーシのヴィーツェプスク州、ポラツク地区にある町。西ドヴィナ川が流れる。ポラツクの名が初めて歴史に登場したのは862年、過ぎし年月の物語にその名が見られる。9世紀になるとクリヴィチ族によるポラツク公国が台頭し、キエフ、ノヴゴロドとともにキエフ・ルーシの重要都市になる。
■ベラルーシの国旗
ベラルーシの国旗(ベラルーシのこっき)は、赤と緑の2色旗。1995年6月7日に国民投票の結果として制定された。ベラルーシがソビエト連邦内の共和国であった1951年に制定された旗のデザインの改訂版(鎌とハンマーが除かれ、装飾文様の配色が紅白逆にされた)である。
■国名
公式の英語表記は、Republic of Belarus(リパブリック・オブ・ベラルース)。通称、Belarus。少なくとも16世紀にはこの地は「ベラ(白)ルーシ」と呼ばれていた。この「白」の意味するところについては定かでない。
1.面積:20万7,600平方キロメートル(我が国の約半分)
2.人口:約968万人(2008年)
3.首都:ミンスク
4.民族:ベラルーシ人(81.2%)、ロシア人(11.4%)、ポーランド人(3.9%)、ウクライナ人(2.4%)
5.言語:公用語はベラルーシ語(東スラヴ諸語の一つでロシア語に近い)、ロシア語
6.宗教:ロシア正教が最も優勢、その他、カトリック、無宗教
10−12世紀 キエフ・ルーシ時代
13−14世紀 リトアニア大公国の構成地域となる
1569年 ポーランドとリトアニア大公国の連合国家成立
1772年 第一次ポーランド分割により、白ロシア東部、ロシア領となる
1793年 第二次ポーランド分割により、白ロシア中央部、ロシア領になる
1795年 第三次ポーランド分割により、白ロシア西部、ロシア領になる
1919年 白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国の成立
1921年 ポーランド・ソヴィエト戦争の結果成立したリガ条約により、白ロシアの東半分がソ連領、西半分がポーランド領となる
1922年 ソ連邦の結成に参加
1939年 ソ連軍ポーランドに侵攻し西半分を占領(同年9月)、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきポーランド西半分を白ロシア領に編入
1986年4月26日 チェルノブイリ原発事故により多大の被害
1990年7月27日 共和国主権宣言
1991年8月25日 共和国独立宣言
1991年9月19日 国名変更
1991年12月8日 ロシア、ウクライナとともに独立国家共同体創設協定を締結(これによりソ連邦の解体は決定的なものとなる)
1994年 ベラルーシ憲法制定
1996年 憲法改正の国民投票(大統領権限の大幅強化)
2004年 憲法改正の国民投票(大統領の三選禁止規定削除)
■主要産業(産業別構造比)鉱工業(32.8%)、農林水産業(10.2%)、建設業(10.8%)、サービス業(46.2%)(2008年:CIS統計委員会)
■主要貿易品目(1)輸出 鉱物製品、化学品、輸送機材(2)輸入 鉱物製品、機械・設備、金属製品
■ベラルーシ・ルーブル
ベラルーシの通貨である。補助通貨はカペイカであり、1ルーブル=100カペイカ。ソビエト連邦から独立後しばらくの間はソビエト連邦ルーブルが通用していたが、ベラルーシ中央銀行が設立され、1992年5月新たにベラルーシ・ルーブルが発行が開始された。
■貿易
2002年時点では輸入90億ドルに対し、輸出は81億ドルであり、わずかに入超である。主な輸入品は原油、機械類、鉄鉱。輸入相手国は、ロシア、ドイツ、ウクライナである。ロシアとの取引が65%を占める。主な輸出品は、石油製品、自動車、機械類であり、輸出相手国はロシア、ラトビア、イギリスである。輸出ではロシアの占める割合は50%にとどまる。
■経済
1991年の独立後、他のCIS諸国と同様に市場経済化を推進していた。しかし、1995年に大統領に就任したルカシェンコは、「社会主義市場経済」を導入し社会主義政策を開始した。これに基づき、統制価格の導入や、政府による民間企業への介入により自国の製造業の保護に努める傍ら、ロシアと関税同盟を結ぶなどの経済統合政策により、経済成長を実現させた。紆余曲折の末、ルカシェンコ大統領がロシア主導の「ユーラシア連合」への参加を表明し、その見返りにロシアは天然ガスを特別割引価格で提供、また、ガスパイプラインをロシアが買い取る協定が結ばれ、ベラルーシ経済がロシアに掌握された格好となった。
■社会主義市場経済
socialist market economy)とは、中華人民共和国が導入した経済体制である。市場経済を通じて社会主義を実現すると規定された、経済の活性化を図るという体制を指す。
■ライムギ
学名Secale cereale)はイネ科の栽培植物で、穎果を穀物として利用する。別名はクロムギ(黒麦)。単に「ライ」とも。日本でのライムギという名称は、英語名称のryeに麦をつけたものである。食用や飼料用としてヨーロッパや北アメリカを中心に広く栽培される穀物である。寒冷な気候や痩せた土壌などの劣悪な環境に耐性がある。
■アマ (植物)
(亜麻、学名:Linum usitatissimum)は、アマ科の一年草。ヌメゴマ(滑胡麻)、一年亜麻、アカゴマなどの異称もある。茎の繊維はリンネル(リネン)製品となる。アマはアサと間違えられることがあるが、アサよりも柔らかくかつ強靭で上等な繊維である。フランス語ではランと発音され、ランジェリーはアマの高級繊維を使用した女性の下着に由来する。
■泥炭
泥状の炭。ピート(Peat)、あるいは草炭(そうたん)とも呼ばれる。主に低気温地域の沼地で、植物遺骸が十分分解されずに堆積して形成される。熱帯地域でも木質遺骸による泥炭(トロピカルピートと呼ばれる)が形成されることもある。つまり、いずれも植物遺骸などの有機物の堆積する速度が、堆積した場所にいる微生物が有機物を分解する速度を上回った時に泥炭が形成されるものである。
■花崗岩
granite)とは、火成岩の一種。流紋岩に対応する成分の深成岩である。石材としては御影石(みかげいし)とも呼ばれる。花崗岩は大陸や島弧などの陸地を構成する岩石の中では非常に一般的なもので、各地で見つかる。花崗岩の英語名である granite の語源は、ラテン語で種子や穀粒を意味する granum である。数mmの結晶が寄り集まった粗い粒子構造から命名された。
■ベラルーシ共和国憲法
ベラルーシ共和国の根本法である。ソビエト連邦からの離脱を宣言してから3年後の1994年に制定され、ベラルーシの統治機構を定めるとともに、市民の権利及び自由を定めている。当時の議会に当たるベラルーシ最高ソビエトが起草に当たり、市民及び法律専門家の意見を取り入れて修正された。前文と九つの部(セクション)、146か条から成る。
■国際連合
United Nations、略称は国連(こくれん)、UN)は、国際連合憲章の下、1945年に設立された国際組織である。主たる活動目的は国際平和の維持(安全保障)、そして経済や社会などに関する国際協力の実現である。2011年7月現在の加盟国は193か国であり、現在国際社会に存在する国際組織の中で最も広範・一般的な権限と、普遍性を有する組織である。
■デイヴィッド・ピンスキ
David Pinski, 1872年4月5日- 1959年8月11日はベラルーシ(ポーランド)出身のイディッシュ語作家。ロシア時代は社会主義運動を推進した。1899年に渡米するが、その後も進歩的な雑誌の編集を担当した。劇の上演は欧米で成功を収めた。
■スベトラーナ・ボギンスカヤ
(Svetlana Leonidovna Boguinskaia、1973年2月9日 - )は、ベラルーシ出身の元体操競技選手。もともとフィギュアスケートをやっていたが、6歳で体操を始め、8歳からモスクワで指導を受ける。ソビエト連邦代表として、1987年世界体操競技選手権(ロッテルダム)で初のメダルを獲得した。翌年のソウル五輪でも、団体総合・跳馬の優勝を含む4つのメダルを獲得。
■ヴァシル・キリエンカ
Vasil Kiryienka、1981年6月28日- は、ベラルーシ・リチェザ出身の自転車競技選手。ロードレースとトラックレースの兼用選手であり、2008年にマンチェスターで開催された世界自転車選手権のポイントレースにおいて、フランスのクリストフ・リブロンの終盤の猛追を1ポイント差退けて優勝。同種目の北京オリンピック出場権を獲得した。
■ジョレス・アルフョーロフ
Zhores Ivanovich Alferov、1930年3月15日 − は、ヘテロ接合の物理学に多大な貢献を残したロシア人物理学者である。ベラルーシのヴィチェプスクで、ロシア人とユダヤ人の家系を引く家庭に生まれた。1952年、彼はレニングラードのレーニン電子技術研究所を卒業した。1953年からはソ連科学アカデミーのヨッフェ物理学技術研究所で職に就き、この研究所でいくつかの学位を得た。1962年より、ヘテロ接合半導体の研究に携わっている。彼はインジェクションの形状を考案したり、レーザー、太陽電池、LEDを改良したり、エピタキシャル成長の研究を行うなどの業績を残した。
■シュロイメ・アンスキー
(Shloime Ansky, 1863年 ヴィチェプスク - 1920年11月8日)はベラルーシ出身のイディッシュ語作家・劇作家であり、イディッシュ民俗学者。民話に興味を持ち続け、民俗学者として極めて活発な活動を展開。また、生涯を通じて社会主義者を通し、ロシアのユダヤ系市民のための社会主義活動を行った。ロシア議会の代議士でもあり、第一次世界大戦中にはユダヤ人亡命者を助け、また「文化同盟」の設立や、ヴィルナに「民俗誌博物館」を創設したりした。
■レフ・ヴィゴツキー
(Lev Semenovich Vygotsky,1896年11月17日(ユリウス暦11月5日)- 1934年6月11日)はベラルーシ出身、旧ソビエト連邦の心理学者。唯物弁証法を土台として全く新しい心理学体系を建設し、当時支配的であった心理学(フロイトの精神分析学・ゲシュタルト心理学・行動主義心理学・人格主義心理学など)を鋭く批判した。10年ほどの短い研究活動の中で、発達心理学をはじめとする幅広い分野について数多くの実験的・理論的研究を行い、37歳の若さで世を去った。「心理学のモーツァルト」とも称され、その思想は21世紀の今日も影響力を持ち続けている。
■ビタリー・シェルボ
Vitaly Venediktovich Scherbo, 1972年1月13日 - は、ベラルーシ出身の体操選手。彼は1992年のバルセロナオリンピックの体操競技に独立国家共同体(EUN)代表として出場し、合計6つの金メダルを獲得した(男子団体総合、個人総合、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒)。これは体操における最高記録である。跳馬に彼が最初に行った技「シェルボ (Scherbo)(ロンダート-後ろとび一回ひねり-後方伸身宙返り)」と「シェルボ2(ロンダート-後ろとび一回ひねり-後方伸身宙返り一回ひねり)」がある。
■ニコライ・シャクラ
(Nikolai Ivanovich Shakura,1945年10月7日 - )はベラルーシ生まれの宇宙物理学者である。モスクワ大学附属シュテルンベルク天文研究所の宇宙物理学部門のリーダーである。X線連星系(X線2重星)を研究し、1973年ラシード・スニャーエフとともに降着円盤の標準モデルを提案したことで有名である。
■シャイム・スーティン
Chaim Soutine、Haim Sutin1893年1月13日 - 1943年8月9日は20世紀の画家である。ベラルーシ出身のユダヤ人だが、おもにパリで活動した。エコール・ド・パリの画家の一人に数えられる。1893年、現在のベラルーシ・ミンスク州のスミラヴィチで11人兄弟の10番目として生まれた。父は修繕屋をしていたが、村ではもっとも貧しい一家だったという。スーティンは体も弱く、家の手伝いも出来ない為、兄弟たちから邪魔者扱いをされていた。そのような中で絵画に興味を持つようになったが、貧困及び宗教的戒律を理由に絵を描くことを認められなかったことから故郷を去り、1910年から3年間、ヴィリニュスの美術学校で学ぶ。
■ヤーコフ・ゼルドビッチ
Yakov Borisovich Zel'dovich、1914年3月8日 − 1987年12月2日)は、ソビエト連邦の物理学者である。ソビエトの核兵器の開発に重要な役割をはたし、核物理学、素粒子物理学、天体物理学、相対性理論の分野で重要な業績をあげた。ミンスクで生まれた。家族とともに、サンクトペテルブルクに移り、1931年からサンクトペテルブルクのソビエト科学アカデミーの化学物理研究所で働き、1941年ドイツ軍の侵攻により、研究所とともにがカザンに移り1943年までのカザンにとどまり、その後モスクワに移った。
■レナ・ハデス
Lena Hades, 1959年10月2日 - は、ベラルーシ出身のロシアの画家、作家、芸術理論家である。ユダヤ系。ハデスは、フリードリッヒ・ニーチェの著作である『ツァラトゥストラはかく語りき (Also Sprach Zarathustra) 』を主題として、油彩、水彩等で、40を越える作品を制作している。ロシア語とドイツ語の二カ国語で記されたニーチェに関する著作が、20作から成るハデスの絵画群を掲載して、ロシア科学アカデミー哲学協会によって、2004年に出版されている。
■マリア・シャラポワ
(Maria Sharapova, 1987年4月19日 - )は、ロシア・西シベリアに位置するチュメニ州ハンティ・マンシ自治管区・ニャガン市出身の女子プロテニス選手。2012年全仏オープンで生涯グランドスラムを達成した。ベラルーシ人の両親の間で生まれたシャラポワは、ロシアで生まれたためにロシア人扱いになっている。2010年10月にNBAのロサンゼルス・レイカーズに所属するサーシャ・ブヤチッチと婚約した。1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の影響により、両親がロシア・西シベリアにあるニャガンへ移住を決意する。
■エル・リシツキー
El Lissitzky、1890年11月23日 スモレンスク近郊ポチノク - 1941年12月30日 モスクワ)は、ロシア出身のグラフィックデザイナー、ブックデザイナー、展示デザイナー、建築家、写真家である。「プロウン」(新しいものの確立のプロジェクト)の提唱者。この「プロウン」と題された一連のシリーズは1919年から1921年にかけて制作する。これはフォルムと構成の建築様式的な実験モデルとして知られている。
■ターニャ・ディアヒレヴァ
1991年6月9日- )は、ベラルーシ出身のファッションモデル。父はウクライナ人、母はポーランドの血を引くベラルーシ人である。2006年春夏コレクションよりデビュー。シャネル、クリスチャン・ディオールなどトップメゾンに登場した。
■ブラディミル・サムソノフ
Vladimir Samsonov, 1976年4月17日- )は、ベラルーシの卓球選手。ベラルーシのミンスク出身。7歳で卓球を始め、ジュニア時代はソ連代表として国際大会に出場しヨーロッパユース卓球選手権のタイトルを総なめにした。1997年の世界選手権マンチェスター大会では男子シングルスで準優勝、1998年のヨーロッパ選手権では男子シングルスで優勝を果たした。
■メンデレ・スフォリム
(Mendele Moykher Sforim 1836年1月2日(ユリウス暦1835年12月21日) ミンスク近郊コピル Kopyl - 1917年12月8日(ユリウス暦11月25日))はベラルーシ出身のイディッシュ語作家で、ヘブライ語作家。聖書ヘブライ語をベースにしながらも、ラビ・ヘブライ語の要素や、中世のヘブライ語文学に使われていた語彙を取り入れ、あらゆる時代の単語、表現法、文法を織り混ぜた文体を作り上げていった。これは「総体ヘブライ語」と呼ばれる。
■ペレツ・スモレンスキン
(Peretz Smolenskin, 1842年 ベラルーシ・モヒリョウ Mogilev 近郊 - 1885年)はベラルーシ出身のユダヤ教徒の小説家。1882年、ナータン・ビルンバウムらと共に、オーストリア初のユダヤ人「民族主義」的な大学知識人の団体「カディマ Kadimah」を創設した。
■エリエゼル・ベン・イェフダー
1858年1月7日 - 1922年12月16日)は現代ヘブライ語復活の中心人物。ロシア帝国領だったリトアニアからパレスチナに移り住み、ほぼ独力でヘブライ語を話し言葉として現代に復活させた。彼は幼い頃にヘブライ語に翻訳されたロビンソン・クルーソーを読んで衝撃を受けたといわれる。エリエゼル・ベン・イェフダーは、1858年1月7日、ロシア帝国領リトアニアのルジュキーという町(現在はベラルーシ領の北部)で生まれた。
■ナターシャ・ズベレワ
Natalya (Natasha) Zvereva, 1971年4月16日 - は、ソビエト連邦(現在はベラルーシ)・ミンスク出身の女子プロテニス選手。1988年の全仏オープン女子シングルス準優勝者で、4大大会の女子ダブルスですべてのタイトルを獲得した選手である。1992年のバルセロナ五輪女子ダブルス銅メダル獲得もある。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス1位。
■レオン・バクスト
Leon Samoilovitch Bakst, 1866年2月8日 - 1924年12月28日は、ロシアの画家、挿絵画家、舞台美術家、衣裳デザイナー。誕生日には、5月10日説もある。セルゲイ・ディアギレフが主宰したバレエ・リュスで、『火の鳥』、『牧神の午後』、『ダフニスとクロエ』ほかの舞台美術を担当した。白ロシア(現ベラルーシ)、グロドノの中流ユダヤ家庭に生まれた。一家でペテルブルクに移り、ギムナジウム卒業後の1883年 - 1887年、ペテルブルク帝室美術院に学び、かたわら、マッチのラベル描き・図書の装釘などをした。
■アダム・ミツキェヴィチ
(Adam Bernard Mickiewicz 1798年12月24日 - 1855年11月26日)はポーランドを代表する国民的ロマン派詩人であり、政治活動家。旧ポーランド東部のノヴォグルデク(現ベラルーシ、ナヴァグラダク)で、弁護士の子として生まれる。1807年から1815年にかけてドミニコ会の修道院で学ぶ。その後教職に就くために、ヴィリニュスにあるステファン・バトリ大学で学ぶ。学生時代には、ポーランド立憲王国としてポーランドを支配するロシア帝国からの独立を目指す若者による政治・教育地下組織の共同設立者の一人となった。
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