バチカン Vatican
イタリアのローマ市内にある世界最小の主権国家。ヴァチカンやバティカン、ヴァティカンとも表記する。バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。326年にコンスタンティヌス1世によって使徒ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、755年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。バチカンの人口は826人(2009年7月推定値)であり、彼らはバチカンの城壁内で生活している。バチカン市民のほとんどはカトリックの修道者であり、枢機卿・司祭などの聖職者と、叙階されていない修道士・修道女がいる。教皇庁で働く、修道者以外の一般職員は3000人にものぼるが、彼らのほとんどは市国外に居住し、そこから通勤している。
バチカン放送局
外務省:バチカン
在バチカン日本国大使館
■バチカン市国の鉄道
バチカン市国が保有する路線延長300mの世界最短の国有鉄道[1]。ピウス11世(在位:1922年-1939年)の在位中に駅と路線が建設された。ラテラノ条約によりイタリアの鉄道路線への乗り入れが認められている。
■シェンゲン協定
ヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えることを許可する協定である。欧州経済共同体に加盟していた当時の10の加盟国のうちベルギー、フランス、ルクセンブルク、オランダ、西ドイツの5か国が1985年6月14日にルクセンブルクのシェンゲン付近を流れるモーゼル川に投錨していたプランセス・マリー=アストリ号において署名した文書。
1.人口:793人(2011年3月)
2.面積:0.44平方キロメートル(日本の皇居は1.15平方キロメートル)
この他、市国外の伊領土内に治外法権を有する施設あり。
3.言語:公用語はラテン語。また、一般に外交用語はフランス語、業務用語はイタリア語。
4.元首:ローマ法王(立法、行政、司法の全権を行使)
5.宗教:キリスト教(カトリック)
6.政治機関:バチカン市国委員会が統括し、市国政庁が執行。
64年頃 ネロ皇帝の迫害のため殉教したキリストの使徒ペテロが、バチカンの丘に葬られる。
349年 ペテロの墓の上に、聖ピエトロ聖堂建設。
756年 カロリング朝ピピンが、ラヴェンナ等の都市をローマ法王に寄進(法王領の始まり。)
1870年 イタリア軍、法王領に侵入(「ローマ問題」)。
1929年 イタリアとローマ法王庁との間でラテラノ条約締結(イタリアは、バチカン市国を独立した主権国家として承認)
■.定義:ローマ法王及びローマ法王庁(政府に相当)を総称した概念。約11億8千万人とも言われる信者を擁するカトリック教会の最高機関。
■政治
法的にはバチカンの政体は非世襲の首長公選制であるとみなされる。首長である教皇の権威はバチカン市国のみならず聖座全体におよぶものである。教皇は80歳以下の枢機卿たちの選挙(コンクラーヴェ)によって選ばれる。教会法において教皇に必要な資格は男性のカトリック信徒であるということだけであるが、実質上は枢機卿たちの互選になっている。
■国家予算
バチカンの「国家予算」は2003年のデータで歳入が約277億円で歳出290億円となっている。主な産業として出版業、モザイク製作などがある。バチカンは国家というにはあまりに特殊な存在であり、(下記にある「宗教活動協会」の投資運用は除き)利益追求の産業活動は行っていないため、歳入は「聖ペトロの献金」(Peter's Pence)として知られる世界中のカトリック信徒からの募金、切手の販売、バチカン美術館の入場料収入、出版物の販売などによるものである。
■宗教活動協会
また、第二次世界大戦中の1942年に、ピオ12世によってそれまでの「宗務委員会」から改組され設立された、バチカンの国家財政管理を行う組織である「宗教事業協会」(Instituto per le Opere di Religioni/ IOR、「バチカン銀行」とも呼ばれる)
■ロスチャイルド家
(Rothschild) は元来ユダヤ系ドイツ人の一族であり、18世紀からヨーロッパの各地で銀行を設立し、現在に至っている。現在、ロスチャイルド家が営む事業は主にM&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキングが中心である。パリのロスチャイルドは、1870年に資金難にあえぐバチカンに資金援助を行うなどして取り入り、その後ロスチャイルド銀行は、ロスチャイルドの肝いりで設立されたバチカン銀行(正式名称は「宗教活動協会」、Instituto per le Opere di Religioni/IOR)の投資業務と資金管理を行う主力行となっている。
■軍事・警察
バチカン市国は一切の軍事力は保持していない。警察力もスイスからの傭兵である「市国警備員(スイス人衛兵)」がいるものの、基本的にイタリアの警察に依存しているため、「別国」でありながら、実際の警備はイタリア国家警察(Polizia dello Stato)が行っている。
■ランツクネヒト
Landsknechteは、1486年にマクシミリアン1世によってスイス傭兵を教師にして編成されたヨーロッパ(主にドイツ)の歩兵の傭兵である。主に槍及び矛を、それ以外にも両手剣や白兵戦用の剣(カッツバルゲル)を装備していた。服装は非常に派手で、ショス(パンツ/ズボン)は左右で縞模様や色の違ったものを履き、上着には縦に切れ目を入れて下地の色が見えるようになっており、この衣装で戦いに赴いた。服装に厳格であった中世においてこの衣装は非常に趣味が悪いとして顰蹙を買ったが、「あまりに危険な立場の彼らが、少しぐらいの楽しみの誇りのために、このような格好をしてもよいではないか。」というマクシミリアン1世の発言により、死ぬ間際の娯楽として許可された。
■東方典礼カトリック教会
帰一教会(きいつきょうかい)、ユニア教会、ユニエート教会、東方帰一教会、東方典礼、合同派などとも呼ばれる、正教会や東方諸教会で用いられる典礼を使いながら、ローマ・カトリック教会とのフル・コミュニオン関係にあり、ローマ・カトリックの教義を受け入れ、ローマ教皇権を認めた諸教会。自権者Sui iuris(独立教会)でありながらカトリックに帰属するにいたったという意味でユニエイトという概念ができた。
■イタリア統一運動
19世紀に起こったイタリア統一を目的とした政治的・社会的運動である。イタリア語でリソルジメント(Risorgimento)と呼ばれ、日本語でもそのまま用いられる。リソルジメントの語源はカミッロ・カヴールが発行した新聞『イル・リソルジメント』(il Risorgimento)である。この言葉はイタリア語でri + sorgere + mentoに分けることができる。それぞれ、再び、昇る(発生する、立ち上がる)、事(-mentoは動作を名詞化する)を指し、リナシメント(rinascimento:ri + nascere + mento)、すなわちルネサンスの「再び、生まれる、事」に対応する。
■概要
バチカンはローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。バチカンの統治者はローマ教皇である。ローマ教皇庁の責任者は国務長官(Cardinal Secretary of State, 通常は枢機卿)、実際の統治はバチカン市国行政庁長官兼バチカン市国委員会委員長(Governor of Vatican City and President of the Pontifical Commission for Vatican City State 通常は枢機卿)が務めている。バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためである。
■第2バチカン公会議
Concilium Vaticanum Secundum、1962年〜1965年)は、ローマ教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会の公会議である。この会議では、公会議史上初めて世界五大陸から参加者が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなった。教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は20世紀のカトリック教会において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。
■黒い貴族
aristocrazia nera)は、1870年から1929年にかけてのイタリア王国のローマ問題(バチカン捕囚)において、ローマ教皇と教皇庁を支持する立場をとったローマ貴族たちの呼称。「黒い貴族」たちは、ローマ教皇領を占領して1870年9月20日にローマ入城を果たしたイタリア王国の統治者サヴォイア家に忠誠を誓うことを拒み、教皇ピウス9世の側についた。
■アヴィニョン捕囚
キリスト教のカトリック・ローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョンに移されていた時期(1309年 - 1377年)を指す。古代のバビロン捕囚になぞらえ、教皇のバビロン捕囚とも呼ばれた。1303年にフランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立からアナーニ事件(フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃した事件。教皇は直後に病死)が起こった。これ以降、教皇はフランス王の言いなりとなっていった。
■ローマ問題
Roman Question)は、1861年から1929年にかけてのイタリア王国とローマ教皇庁の間におきた政治的な問題。1861年、イタリア王国はローマ教皇ピウス9世に対して、ローマ市街をイタリア王国へ明け渡す。バチカンおよびラテラノ宮殿の占有を認める。上記の占有と引き換えに、年32万5千リラを支払う。ことを求めた。
教皇庁は、カトリック教会が特定の政治権力の影響を受けないことを理由にこれを拒絶。ピウス9世はイタリア政府に関わる者すべてを破門するという強硬な処置をとった。
■サヴォイア家
asa di Savoia カーサ・ディ・サヴォイアもしくはサヴォイヤ)は、かつてイタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォイア一帯を支配していた辺境伯貴族の家系。1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王家となる。フランス語名からサヴォワ家(Maison de Savoie サヴワ)と呼ばれることもある。
■コロンナ家
(Colonna)は、中世ローマで力を持ったイタリアの有力貴族。ローマのトラヤヌス帝のコロンナ(円柱)の近くに一族が住んでいた事からこの名となっている。特に教皇庁がアヴィニョンに移転したアヴィニョン捕囚の時期、オルシーニ家と覇権を争い、ローマは一時荒廃し不穏な状況となった。アヴィニョン捕囚が終わった後もしばしばローマ教皇庁の施策に反対して、反乱を起こすことがあった。
■オルシーニ家
(Orsini)は、中世ローマの有力貴族。コロンナ家とはライバル関係にあり、ローマの覇権を争った。12世紀のケレスティヌス3世、13世紀のニコラウス3世、18世紀のベネディクトゥス13世とローマ教皇を出した。なお、マイオ・オルシーニを祖とする一傍流がアドリア海からギリシア地域に進出、ケファロニア宮廷伯として独立した。
■国土
バチカン市国はローマの北西部に位置するバチカンの丘の上、テベレ川の右岸にある。その国境はすべてイタリアと接しており、かつて教皇を外部の攻撃から守るために築かれたバチカンの城壁に沿ってしかれている。面積は約0.44km2と、国際的な承認を受ける独立国としては世界最小で、東京ディズニーランド (約0.52km2) よりも小さい。その狭い領土の中にサン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン美術館、サン・ピエトロ広場などが肩を並べている。
■文化遺産
バチカン市国は国自体が文化遺産の宝庫である。サン・ピエトロ大聖堂やシスティーナ礼拝堂など、ボッティチェッリ、ベルニーニ、ミケランジェロといった美術史上の巨匠たちが存分に腕をふるった作品で満ち溢れている。
■教皇
キリスト教の高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。教皇はカトリック教会全体の首長という宗教的な地位のみならず、ローマ市内にある世界最小の独立国家バチカンの首長という国家元首たる地位をも担っている。1870年のイタリア半島統一以前には教皇の政治的権威の及ぶ領域はさらに広く、教皇領と呼ばれていた。教皇領の成立の根拠とされた「コンスタンティヌスの寄進状」が偽書であることは15世紀以降広く知られていたが、教皇領そのものはイタリア統一まで存続した。1870年以降、教皇庁とイタリア政府が断絶状態に陥ったため、教皇の政治的位置づけはあやふやであったが1929年に結ばれたラテラノ条約によってようやくイタリア政府との和解を見た。
■ベネディクト16世 (ローマ教皇)
ラテン語:Benedictus XVI 英語:Benedict XVI 1927年4月16日 - )は第265代ローマ教皇(在位:2005年4月19日 - )。バチカン市国国家元首。ラテン語表記でベネディクトゥス16世と表記されることもある。ドイツ出身で本名はヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー(Joseph Alois Ratzinger)。1972年、ラッツィンガーはハンス・ウルス・フォン・バルタザールやアンリ・ドゥ・リュバックらと共に神学ジャーナル『コムニオ』を発刊。『コムニオ』は今では17言語で発行されるほどカトリック神学の世界において重要なものとなっている。
■タルチジオ・ベルトーネ
(Tarcisio Bertone、1934年12月2日 - ) はイタリア出身のカトリック司祭、枢機卿、サレジオ会士。2006年9月15日よりバチカン市国国務省長官に就任。同長官はバチカン元首のローマ教皇に次ぐ地位で、首相に相当し、政治、外交を総括する。2007年4月4日からはカメルレンゴも兼務することとなった。2002年から2006年までジェノヴァ大司教もつとめており、現在はフラスカティの司教枢機卿をつとめる。
■コンスタンティヌス1世
Gaius Flavius Valerius Constantinus ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス、272年2月27日 - 337年5月22日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年 - 337年)。帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と称される。
■ピウス11世 (ローマ教皇)
(Pius XI,1857年5月31日-1939年2月10日)はローマ教皇(在位:1922年2月6日-1939年2月10日)、カトリック教会の司祭。本名 アキッレ・ラッティ(Achille Ratti)。二つの世界大戦のはざまの時期にあって、世界平和の実現に奔走し、19世紀以来とだえていた諸国と教会の関係正常化をはかった。ピオ11世とも表記される。本来は学者で、諸言語に通じ、古代以来のさまざまな神学的著作に精通していた。ピウス11世を名乗るラッティは、教皇として文化と政治の両面で目覚しい働きをしている。バチカンの絵画館、ラジオ局、そしてローマ教皇庁立科学アカデミーらはすべてピウス11世のもとでつくられたものである。
■ロベルト・カルヴィ
(Roberto Calvi、1920年4月13日 − 1982年6月17日、暗殺のため死亡日は不明)は、イタリアの銀行家。バチカンの資金管理を行う銀行であったアンブロシアーノ銀行の頭取であったことから、「教皇の銀行家」と呼ばれていた。ミラノ生まれ。ミラノ大学卒業後の1947年に、イタリアの国立銀行の1つであるバンカ・ナツィオナーレ・デル・ラヴォーロの子会社で、バチカン銀行(正式名称は「宗教事業協会」、Instituto per le Opere di Religioni/IOR)の資金管理を行うイタリアのアンブロシアーノ銀行に入行した。また、1969年には、ネオ・ファシストの極右政党であるMSIやCIAと深い関係を持っていたリーチオ・ジェッリが代表を務めるフリーメイソンの「ロッジP2(Propaganda Due)」の会員となり、ジェッリを通じて、バチカン銀行の財政顧問も務めた弁護士で、自らが経営するミラノのプライベートバンクを通じてマフィアのマネーロンダリングを行っていたミケーレ・シンドーナとの関係を結んだ。
■ポール・マルチンクス
(Paul Casimir Marcinkus、1922年1月15日 - 2006年2月20日)は、アメリカ生まれのカトリック大司教で、「バチカン銀行」の元総裁。アメリカのイリノイ州シセロのリトアニア系移民の家に生まれ、聖職者の道へ進む。第二次世界大戦後の1950年にイタリアのローマに向かい、1953年よりバチカンに常駐する。1971年には、ローマ教皇庁の運営資金調達と資金管理を行うバチカン銀行(正式名称は「宗教事業協会」、Instituto per le Opere di Religioni/IOR)の総裁へ就任する。なおこの頃より、アメリカのデヴィッド・M・ケネディ財務長官との親密な関係を築いた。
■イヴ・コンガール
(Yves Marie Joseph Congar, 1904年4月8日スダン - 1995年6月22日)はフランス人のカトリック司祭、神学者。ドミニコ会員で、20世紀を代表する神学者の一人。最晩年に生涯の功績に報いる形で枢機卿にあげられた。フランスのスダン出身のイヴ・コンガールは、1925年、ドミニコ会入会。1930年、司祭叙階。第2バチカン公会議においてカール・ラーナーらと共に主導的な役割を果たした。同公会議後は、ローマの国際神学委員会委員を務めた。パリで死去。
■ピウス11世 (ローマ教皇)
Pius XI,1857年5月31日-1939年2月10日)はローマ教皇(在位:1922年2月6日-1939年2月10日)、カトリック教会の司祭。本名 アキッレ・ラッティ(Achille Ratti)。二つの世界大戦のはざまの時期にあって、世界平和の実現に奔走し、19世紀以来とだえていた諸国と教会の関係正常化をはかった。オーストリア帝国のロンバルド=ヴェネト王国デージオで工場経営者を父に生まれたアキッレ・ラッティは、要職であるミラノ大司教を経て教皇に選出された。
■ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)
John Paul II、1920年5月18日 - 2005年4月2日)は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ラテン語表記でヨハネス・パウルス2世とも表記される。ハドリアヌス6世(オランダ出身、在位:1522年 - 1523年)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラブ系教皇。同時に20世紀中最年少で着座した教皇でもある。神学と哲学の2つの博士号を持っていた。
■マルセル・ルフェーブル
Marcel-François Lefebvre, 1905年11月29日 − 1991年3月25日)は、フランスのカトリック大司教。西アフリカの教皇使節と聖霊修道会の総長としての職務を経て、第二バチカン公会議に関連した教会の変化への反対を主導した。1970年に、伝統主義カトリックの擁護を標榜する司祭団体である聖ピオ十世会 (SSPX)を創立した。1988年、教皇ヨハネ・パウロ2世の命に反し、同会での活動を続けるため4人の司教を聖別(叙階)した。教皇庁は直ちに、彼と叙階式に参加した他の司教が教会法の下に自動破門の制裁を受けたと宣言した。ルフェーブル大司教の支持者は破門について異議を唱えてきた。2009年1月21日、教皇庁は4人の司教の破門を取り消した。