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スペイン
Spain
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■地理
スペイン本土は高原や山地(ピレネー山脈やシエラ・ネバダ山脈)に覆われている。高地からはいくつかの主要な河川(タホ川、エブロ川、ドゥエロ川、グアディアナ川、グアダルキビール川)が流れている。沖積平野は沿岸部に見られ、最大のものはアンダルシア州のグアダルキビール川の平野である。東部の海岸にも中規模な河川(セグラ川、フカール川、トゥリア川)による平野が見られる。
■イベリア半島
バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。イベリアの名は、古代ギリシア人が半島先住民をイベレスと呼んだことに由来する。しかし、もともとは漠然とピレネー山脈の南側に広がる地域を指した言葉である。面積は約59万平方km、形状は東西約1100km、南北約1000kmのほぼ方形をなす。北緯44度と北緯36度、西経9度と東経3度の間に広がっている。半島の付け根にあたる北東部は、幅約30キロにわたりピレネー山脈によってフランスと画されている。一方、南西端は最も狭いところが約14キロのジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸と向かい合っている。
■ジブラルタル海峡
Estrecho de Gibraltarは、ヨーロッパのイベリア半島とアフリカの北端を隔てる海峡。海峡の北側の陸地はスペイン(ヨーロッパ大陸)、南側の陸地はモロッコ(アフリカ大陸)である。海峡の東側が地中海、西側が大西洋である。水深は286m、海峡の幅は14km〜44kmであり、60kmにわたって延びる。
■シエラネバダ山脈
Sierra Nevadaは、スペイン南東部アンダルシア地方にある山脈。最高地点は、3,478.6mのムラセン山。スペイン語で「積雪のある山脈」を意味し、年間を通じて雪が残っている。
■ビスケー湾
スペイン語:Golfo de Vizcaya)は、北大西洋の一部でイベリア半島の北岸からフランス西岸に面する湾である。フランスではガスコーニュ湾、スペインではビスカヤ湾と、それぞれこの湾に面した地域の名であるガスコーニュ、ビスカヤにちなんだ名で呼んでいるが、いずれもバスクと関連のある地名である。なお、スペインでは湾の西側を特にカンタブリア海と呼ぶ。
■ピレネー山脈
バスク語:Pirinioak)フランスとスペインの国境が走る褶曲山脈である。ヨーロッパ大陸とイベリア半島を分ける山脈でもある。山脈はほぼ東西方向に延び、長さ430km、幅は定義にもよるが100km程度である。山脈の中央東寄りの位置にはミニ国家であるアンドラ公国がある。「ピレネーを越えるとそこはアフリカだった」という言葉があるように8世紀から11世紀にかけて、イスラム教徒の侵入を阻む防壁としても働いた。
■グアダルキビール川
(Guadalquivir)は、スペインを流れる川である。全長657kmはスペインで5番目に長く[1]、アンダルシア地方では最長である。名前はアラビア語で大いなる川を意味するWadi al-Kabirに由来している。古代の町タルテッソスは、場所はまだ見つかっていないが、この川の河口に位置していたと言われている。タルテッソスはバスク語で海の間(大西洋と地中海)を意味する。
■セグラ川
Rio Segura、スペイン南東部の川。ハエン県に源を発し、アルバセテ県、ムルシア州、アリカンテ県を流れる。セグラ川下流域は、ヨーロッパ有数の汚染河川である。しかし近年の全面的な水質管理、排水浄化施設の設置で状況は劇的に改善されている。
■グアディアナ川
(Guadiana)は、スペインとポルトガルを流れる主要な河川の一つ。その一部は両国の国境となっている。ローマ時代には属州ヒスパニア・バエティカとルシタニアの境であった。
■エブロ川
(スペイン語:Ebro)は、スペイン北東部を流れるスペインで最も流量が多く2番目に長い川である。水源はカンタブリア州のフォンティブレ(Fontibre)にあり、ミランダ・デ・エブロ、ログローニョ、サラゴサ、トルトーザおよびアンポスタを流れ、タラゴナ県で地中海に注ぐ。エブロ川の三角州は320km2の面積があり、地中海西部で最も大きい湿原の1つである。エブロ川の三角州は急速に広がっており、歴史的な成長の度合いはアンポスタに見ることができる。ここは4世紀には港町であったが、現在では河口より内陸部にある。これは波によって侵食される量よりもエブロ川の堆積物の量のほうが多いことの証明といえる。
■ドウロ川
(スペイン語:El Duero)イベリア半島を流れる重要な川の1つである。スペインのソリア県を水源とし、スペイン北部を流れポルトガルに入り、名を変え、ポルトから大西洋に注ぐ。全長は897kmであり、ポルトガルを流れている部分においては軽い船なら航行可能である。
■ビダソア川
スペイン北部のバスク地方を流れ、フランスとの国境で大西洋に注ぐ川である。ナバーラ州にあるエラーズ山(Errazu)に源を発する。ドネツテーベ(Doneztebe)などの町を流れ、大西洋のビスケー湾に注ぐ。下流の約10kmが、フランスのアンダイユ(Hendaye)とスペインのオンダリビア(Hondarribia)の間にあるフランスとスペインの国境となっている。この国境にはスペインとフランスの共同統治として管理されているフェザント島という中州がある。
■民族
ラテン系を中核とするスペイン人が多数を占める。一方で統一以前の地方意識が根強く、特にカタルーニャ、バスクなどの住人はスペイン人としてのアイデンティティを否定する傾向にあり、ガリシアやカナリア諸島の住民も前二者に比べると、穏健ではあるが、民族としての意識を強く抱いており、それぞれの地方で大なり小なり独立運動がある。
■言語
スペイン語(標準スペイン語。カスティーリャ語とも呼ばれる)が全国の公用語であり、その他カタルーニャ語、バレンシア語、バスク語、ガリシア語、アラン語が地方公用語になっているほか、アストゥリアス語とアラゴン語もその該当地域の固有言語として認められている。バスク語以外は全てラテン語に由来している、また、ラテンアメリカで話されているスペイン語は、1492年以降スペイン人征服者や入植者が持ち込んだものがその起源である。
■スペイン人
el pueblo espanol)はヨーロッパ南西のイベリア半島の国家スペインの国籍保持者もしくはその住民。スペインという国の成立は、西欧主要国の中でも比較的古い部類に入る。しかしスペイン人という民族グループの成立は、統一の立役者としてスペイン人を自負するカスティーリャ王国の住民と、その過程で失われた国々(カタルーニャ君主国、ナバーラ王国など)の住民という対立軸から、今日に至るまでスペイン国民全体を纏める存在にはなり得ていない。
■バスク人
バスク語: euskaldunak)とは、系統不明の民族で、イベリア半島のバスク地方に分布する。古代の時点でローマから自治を許され、中世から近世にはバスク人の王(イニゴ・アリスタ)の末裔達がイベリアの並み居る王家を継承するなど権勢を誇った。バスク人は中世より漁師として大西洋へタラ漁や捕鯨に繰り出し、大航海時代には多数の航海者やコンキスタドールを輩出し、南北アメリカ大陸に多くの移民を送り出した。
■バスク語
euskara)は、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。スペインのバスク自治州全域とナバラ州の一部ではスペイン語とともに公用語とされている。2006年現在、約66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語またはフランス語とのバイリンガルである。バスク語は現存するどの言語とも系統関係が立証されていない孤立した言語であり、西ヨーロッパで唯一生き残ったインド=ヨーロッパ語族以前の言語である。紀元前58年に始まるガリア戦争以前から、現在のフランスアキテーヌ地域圏南部(当時のアクイタニア)にはアクイタニア人が住んでいた。彼らの話していたアクイタニア語はバスク語の祖先かその近縁の言語である。
■ヴァスコン人
(ラテン語:gens vasconum)とは、古代にローマ人たちがやってきたとき、イベリア半島にいた民族。彼らは現在のナバラ州、ラ・リオハ州の低地、アラゴン州の北西部に至る地域で暮らしていた。その名から、彼らは現在のバスク人の祖先と考えられている。ヴァスコン人の土地には、ヴィッラの焼け跡や駐屯部隊に支払われた多量の硬貨が発掘されるなど、4世紀から5世紀に起こった動乱の痕跡が残されている。
■イベリア人
Iberosは先史、古代からイベリア半島に住んでいた人々を指す、古代ギリシャ・古代ローマの文献に現れた名称。イベリア人という名称を、古代の記述家たちは二通りに用いた。一つは、最も一般的な、イベリア半島に住む人々の総称としてである。
■カスティーリャ人
(castellanos)は、イベリア半島中北部に居住する民族で、以下の二つの定義を持つ。スペインの建国はカスティーリャ人の王国(カスティーリャ王国)によって果たされた。従ってスペイン人という概念は実質、カスティーリャ文化に異民族を同化させることと同義だった。しかし異民族は無論のこと、当のカスティーリャ人にも余所者を含む「スペイン人」という概念に帰属心を持たない人々がおり、彼らは自分たちを依然としてカスティーリャ人であると考えている。
■カタルーニャ人
(Catalans)は、インド・ヨーロッパ語族に属する民族で、イベリア半島のカタルーニャ地方に分布する。カタラン人、カタロニア人とも。「カタルーニャ人」という民族意識が何時ごろから、何を基盤として成立したのかについては議論が多い。その地名・民族名の由来すら南仏のカタラノウス村という土地の兵士が入植したという意見、「ゴート人とアラン人の土地(ゴドス=アラノス)」という言葉が訛ったという説など、全く一定していない。
■アラゴン人
(Os aragoneses)はイベリア半島の中央部から北東部にかけての歴史的な領域である、アラゴン地方に居住するエスニック・グループまたは民族。その言語はアラゴン語(l'aragonés)と呼ばれ、中世においてはアラゴン王国の全領域で話されていたが、今日では高アラゴン地域(l'Alto Aragón、ピレネー山中のアラゴンの高地地域)で主に高齢者によって話されている。母語話者人口は数千人から数万人といわれ 、絶滅の危機にある少数言語となっている。
■ケルティベリア人
古代イベリア半島に居住していたケルト人の一派のこと、またはむしろ他の名前を持つケルト系諸族をさす名称(ウェトネス族、ウァッセオス族、ルシタニ族なども含む)。これらの人々はイベリア山地の西に住んでいた。ローマ人たちは彼らをケルト人とイベリア人の混血であるとみなしていた。
■タルテッソス
ラテン語: Tartessus)は、現在のスペイン南部アンダルシア地方のグアダルキビール川河口近くに存在したとされる古代王国である。古代の歴史家ヘロドトスの『歴史』、プリニウス(大プリニウス)の『博物誌』に引用されたストラボンの記述、タルテッソスの絶滅後ではあるがアヴィエヌスの紀行記に見られる。ヘロドトスなどギリシアの古代史家は、タルテッソスの伝説上の王「アルガントニオス」が常人を遥かに超える長命を誇っていたとしている。
■カタルーニャ語
スペイン東部のカタルーニャ地方に居住しているカタルーニャ人の言語。カタロニア語。インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する。アンドラ公国では公用語になっており、またスペインではガリシア語、バスク語と並んで地方公用語(カタルーニャ、バレンシア、バレアレス諸島各自治州)となっている。
■アルマダの海戦
Spanish Armada、は、スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称。広く知られる「無敵艦隊」の名称はスペイン語Armada Invencibleの訳で、スペイン海軍のC・F・ダロ大佐が1884年に著した論文の題名が原典とされている。
■ガレオン船
(Galleon)とは、16世紀半ば〜18世紀ごろの帆船の一種である。単にガレオン・ガリオン・ガリアンなどとも表記される。戦列艦の原型にもなった。カラックから発展した船形で、カラックに比べて幅と全長の比が1:4と長く、吃水が浅いためより速度が出るが同時に転覆もしやすくなった。カラックより小さめの船首楼と大きい1〜2層の船尾楼を持ち、4〜5本の帆柱を備え、1列か2列の砲列があった。
■キャラック船
(Carrack)は15世紀に地中海で開発された帆船。大航海時代を代表する船種のひとつ。スペインで作られた物についてはナオと呼ぶが、呼び名が違うだけで基本的に同じ船である。全長は30mから60m、全長と全幅の比は3:1とずんぐりしている。排水量は200トンから1500トンとサイズには個体差が大きい。通常は3本ないし4本のマストを備え、丸みを帯びた船体と特徴的な複層式の船首楼、船尾楼を有する。
■キャラベル船
Caravelは、3本のマストを持つ小型の帆船であり、高い操舵性を有したことなどから探検活動が盛んとなった15世紀に主にポルトガル人とスペイン人の探検家たちに愛用された。初期のキャラベルは全長20mないし30m、重量およそ50トン程度で、2本のマストを備えたものがポピュラーであり、全長と全幅の比は3.5:1となっておりバランスが良く、高い速力と機動性を両立した。
■ガレー船
galleyは、主として人力で櫂(かい、オール)を漕いで進む軍艦。古代に出現し、地形が複雑で風向きの安定しない地中海やバルト海では19世紀初頭まで使用された。ガレー船の特徴は両舷に数多く備えられた櫂である。風力を利用する帆船と比べると、人力による橈漕は非力であり、また持続力の面でも劣るので、長距離の航行には限界があるものの、微風時や逆風に見舞われた場合もある程度自由に航行することが可能であった。
■ビクトリア号
The Victoriaは、地球一周航行を目指しフェルディナンド・マゼランが指揮した船団を構成した5隻の内の1隻。木造帆船で85トンの大きさ、船種はキャラック船あるいはナオ船という。1519年から1522年にかけての地球一周の旅を達成した唯一の船となった。この遠征は過酷なものとなり、出航当時265名いた乗員の内、生還できた者は18名のみであり、航海の中でマゼランはじめ大部分の人員が失われた。
■半島戦争
Peninsular War1808年 - 1814年は、ナポレオン戦争中イベリア半島でスペイン軍、ポルトガル軍、イギリス軍の連合軍とフランス帝国軍との間に戦われた戦争である。日本ではスペイン独立戦争またはスペイン反乱[1]としても知られている。この戦争は「ハンマーと金敷」の役に擬えられている。すなわち「ハンマー」とはアーサー・ウェルズリーに率いられた4万から8万の軍勢からなる英葡軍であり、それによって金敷であるスペインの軍とゲリラとポルトガルの民兵軍の上でフランス軍が打ちのめされたのである。
■西ゴート王国
Regnum Visigothorum、415年 - 711年は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国。はじめはキリスト教アリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。
■グラナダ王国
グラナダを首都とした王国。ナスル朝グラナダ王国を指すことが多い。後ウマイヤ朝が衰えた11世紀始めにズィール朝の一族がこの地を征服し、1013年にタイファ諸国の1つであるグラナダ王国として独立した。しかし、11世紀にムラービト朝に、12世紀にムワッヒド朝に征服された。
■スペイン黄金世紀
Siglo de Oroは、15世紀から17世紀にかけてのスペインの美術、音楽、文学隆盛の時期を指す。その時期は、厳密にいつからいつまでとは言うことはできないが、一般的に、その始まりは1492年より早くはなく、間に、レコンキスタの終結、コロンブスの新世界への航海、フランスとスペイン・ハプスブルク家の間で結ばれたピレネー条約などを挟んで、大作家ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカが死んだ1681年をその終焉と見なしている。
■リベルタドーレス
Libertadoresは、スペイン、ポルトガルからの南アメリカの解放戦争を指導した者のこと。「解放者」の意味。彼らはクリオージョの資産家で、自由主義の影響を受け、多くの場合は大都市で軍隊の訓練を受けていた。最も卓越した解放者はシモン・ボリーバルとホセ・デ・サン・マルティンだった。ボリーバルは大陸の北で、サン・マルティンは大陸の南で、それぞれ解放戦争において重大な役割を果たした。彼らは1822年にグアヤキルで会談している。
■宗教
カトリックが94%である。イベリア半島では近代に入って多様な宗教の公認とともに、隠れて暮らしていたユダヤ教徒が信仰を取り戻し始めている。戦争時など様々な折にスペインに「帰還」し、祖国のために闘ったセファルディムもいた。残りは、ムスリムなど。
スペイン観光局オフォシャルサイト
<世界遺産>
■コルドバ歴史地区
コルドバ歴史地区(コルドバれきしちく)は後ウマイヤ朝の都であったコルドバにある世界遺産(文化遺産)地域。メスキータやローマ橋などの建造物とユダヤ人街が登録されている。
■グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェとアルバイシン
アルハンブラ宮殿(Palacio de la Alhambra)はグラナダのイスラーム建築の最高傑作とされる。その美しさから「イスラーム建築の華」とよばれることもある。
■ブルゴス大聖堂
15世紀に造られた北フランス風ゴシック様式建築の西正面は、六角形の尖塔をもつ塔が側に立つ(尖塔は表面が石造りのトラセリーで覆われている)。十字架状の平面図には、本堂と、外観の眺めでは広い歩廊がほぼ隠されている。
■マドリードのエル・エスコリアール修道院とその遺跡
首都マドリードはスペインを代表する観光都市でもあり、プラド美術館やマドリード王宮がある。マドリード州では、エル・エスコリアル修道院、アルカラ・デ・エナーレスの大学と歴史地区、アランフエスの文化的景観の3件が世界遺産に登録されている。
■アントニオ・ガウディの作品群
アントニ・ガウディ(1852年 - 1926年)は古今東西の折衷様式を唱えたモデルニスモの代表的建築家として知られる。アントニ・ガウディは26歳の時、パリの博覧会に出品したのをきっかけに大富豪、エウゼビ・グエイ(スペイン語読みはエウゼビ・グエル)と出会う。これが元で世界遺産の題名の一部となったグエル公園(パルケ・グエル)、グエル邸(パラシオ・グエル)の設計・建築を依頼されこれらを建設した。
■バルセロナのグエル公園、グエル邸
施主のエウゼビ・グエイ伯爵(スペイン語読みではグエルとなる)とアントニ・ガウディの夢が作り上げた分譲住宅で、1900年から1914年の間に建造された。
■カサ・ミラ
ガウディが54歳の時に設計した。1905年から1907年にかけて実業家のペレ・ミラとその妻ルゼー・セギモンの邸宅として建設された。カサ・ミラは直線部分をまったくもたない建造物になっていて、壮麗で非常に印象的な建物である。
■アルタミラ洞窟
アルタミラ洞窟壁画は、先史ヨーロッパ時代の区分で主にマドレーヌ期(約18,000年 - 10,000年前)と呼ばれる旧石器時代末期に描かれた野牛、イノシシ、馬、トナカイなどの動物を中心とする壁画である。法律家でありアマチュアの考古学者でもあるマルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵(Marcelino Sanz de Sautuola)の12歳の娘マリアによって偶然発見された。
■セゴビア旧市街とローマ水道
Segoviaは、スペインの都市。カスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県の県都である。マドリードからは87km、バリャドリッドからは111kmの位置にある。セゴビアには古代から人が住んでおり、現在のアルカサルの位置にはケルト人の城があった。
■オビエド歴史地区とアストゥリアスの教会
Oviedo、アストゥリアス語:Uvieuは、スペイン北部の都市。アストゥリアス州の州都。約25キロ北の港湾都市であるヒホンに近い工業都市。カンタブリア山脈の北麓に位置している。
■サンティアゴ・デ・コンポステーラ/旧市街
Santiago de Compostelaはスペイン、ガリシア州、ア・コルーニャ県の都市で、ガリシア州の州都。コマルカ・デ・サンティアーゴに属する。聖ヤコブの遺骸が祭られているため、古くからローマ、エルサレムと並んでカトリック教会で最も人気のある巡礼地であり世界中から巡礼者が絶えない。
■アビラ旧市街と塁壁の外の教会
アビラ(Á*ila)は、スペインの都市。カスティーリャ・イ・レオン州アビラ県の県都である。マドリードからは直線距離で西北西に約87kmの位置にある。海抜1,117mの高さにあり、スペインの県都でもっとも標高が高い。荒れ野の中に唐突にそびえている岩山の平らな頂上に建てられている。アビラの市壁は茶色い花崗岩で作られており、上に胸壁が並んでいる。88の塔と9つの門があり、よく保存されているが、市街の多くは市壁の外に広がっている。
■テルエルのムデハル様式建造物
スペイン・アラゴン州の10の建築物からなる。ムデハル様式とは、イスラム文化の様式を取り入れた中世スペインの建築や装飾の様式で、12世紀から16世紀にアラゴンやカスティーリャで盛んになった。
■古都トレド
トレド(Toledo)はスペイン中央部の都市。カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都で、トレド県(人口約60万人)の県都である。マドリードから南に71kmの距離で、タホ川に面する。1577年ごろギリシア人の画家エル・グレコがトレドに定住し、1614年に没するまで数々の傑作を残した。
■ガラホナイ国立公園
■カセレス旧市街
カセレス(Caceres)は、スペインの都市。エストレマドゥーラ州カセレス県の県都である。人口は90,750人(2006年)。古い市壁に囲まれた旧市街は「カセレスの旧市街」として1986年に世界遺産に登録された。
■セビリアの大聖堂、アルカサル
スペインのセビリアにあるカテドラルである。スペイン最大といわれているがトレド大聖堂も同様に自らをスペイン最大と称している。
■インディアス古文書館
Archivo General de Indiasは、セビリアの旧商品取引所(Casa Lonja de Mercaderes)に置かれている公文書館で、アメリカ大陸やフィリピンにおけるスペイン帝国の歴史を明らかにする上で、比類のない史料群が収められている。スペインのセビリアにあるカテドラルである。スペイン最大といわれているがトレド大聖堂も同様に自らをスペイン最大と称している。
■サラマンカ旧市街
サラマンカの市街はイスラム様式からヨーロッパのゴシック様式やサン・エステバン修道院のバロック様式などヨーロッパの建築文化が集積されることになった。また、酸化鉄を含んだ石材からなる建造物の町並みはサラマンカを比類なき美しい町であると賞賛されるにいたった。
■ポブレー修道院
Monestir Reial de Santa Maria de Pobletはスペイン、カタルーニャ州、タラゴナ県にあるシトー会の修道院。
■メリダの遺跡群
メリダは紀元前25年に「エメリタ・アウグスタ」の名前で建てられた。アウグストゥス帝の命により、グアディアナ川を渡る橋を守るためであった。メリダはスペインの中でもっとも重要なローマ建築を残している。トラヤヌス帝時代の凱旋門はその1つである。
■サンタ・マリア・デ・グアダルーペの王立修道院
ドゥーラ州カセレス県グアダルーペにある修道院。4世紀以上に渡って、国で最も重要な修道院とされてきた。修道院の始まりは13世紀後半である。カセレス県の羊飼いヒル・コルデロが、グアダルーペ河岸で聖母像を発見したのである。この像は、ムーア人侵攻のあった714年に明らかに地元住民が隠した物だった。この発見の場所に、礼拝堂が建てられた。
■サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路
サンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられている。フランスでは、「トゥールの道」、「リモージュの道」、「ル・ピュイの道」、「トゥールーズの道」の主要な4つの道がスペインに向かっている。
■ドニャーナ国立公園
この国立公園は、毎年50万羽以上の渡り鳥や水鳥たちが越冬地に選ぶ楽園である[2]だけでなく、多くの動植物にとっても良好な避難所となっている(後述#生態系参照)。スペイン南部のアンダルシア地方に位置し、大西洋に注ぐグアダルキビール川右岸に広がっている。
■歴史的城壁都市クエンカ
クエンカは美しい古都で、「歴史的城壁都市クエンカ」としてユネスコの世界遺産に登録されている。ウエカル川の断崖の上に建てられている「宙吊りの家」(casas colgantesまたはcasas colgadas)が有名である。
■バレンシアのラ・ロンハ・デ・ラ・セダ
15世紀後半に建てられた商品取引所で、当時のバレンシアの経済力の大きさを偲ばせる建造物である。これは商業の殿堂と理解されていたもので、機能的・実利的な側面を失うことなく、その極めて明白な象徴的特色を保持している。ゴシック様式の威容を誇るロンハは、プラサ・デル・メルカド(Plaza del Mercado,「商業広場」)31番地にあり、ロス・サントス・フアネス教会やバレンシア中央市場に面している。
■ラス・メドゥラス
Las Medulasは、スペインのレオン県にあるポンフェラーダの近郊に広がり、帝政ローマ時代に最盛期を迎えた金鉱山を主体とする人工悪地の、スペイン語地名である。
■バルセロナのカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院
カタルーニャ音楽堂は建築家リュイス・ドメネク・イ・ムンタネー(Lluis Domenech i Montaner)によってモデルニスモの様式で設計されたコンサートホールである。1905年から1908年にかけて、カタルーニャ・ルネサンス(文芸復興運動)において指導的役割を果たした合唱団、オルフェオ・カタラ(Orfeo Catala、1891年設立)のために建設された。
■聖ミジャン・デ・ジュソ修道院および聖ミジャン・デ・スソ修道院
数百メートルを隔てた異なる時代の2つの建造物群に分かれている。スソは「上方」、ユソは「下方」の意味で、ともに聖エミリアヌス(St. Emilianus / San Millan, サン・ミジャン)に因む修道院である。
■イベリア半島の地中海入り江の岩壁画
正確な作製年代は議論の余地があるが、おおむね紀元前8000年頃から前3500年頃のようである。洞窟壁画の一種ではあるが、自然光がさしこむ範囲に描かれているものが多い点で、他の多くの洞窟壁画と異なっている。
■アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区
Alcala de Henaresは、スペインの都市。アルカラ・デ・エナーレスとも表記される。スペイン中央のマドリード州東部に位置する。人口は約20万人。「アルカラ」はアラビア語の「城」という語に由来する。
■イビサ、生物多様性と文化
イビサ島が世界中から注目されるのは、戦後、この島がヨーロッパのヒッピー文化の中心となってからである。やがて1980年代終わりに、この島で息づいていたバレアリックと呼ばれる、独特の自由なダンス音楽スタイルと、そのクラブシーンの享楽的な雰囲気を、当時、英国で盛り上がっていたセカンド・サマー・オブ・ラブ世代のDJ達と、プロモーターが発見したことにより、英国の若者たちのパーティー・アイランドとして、爆発的な発展を遂げることになる。
■サン・クリストバル・デ・ラ・ラグナ
San Cristobal de La Lagunaは、スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島北部の都市である。この町は、1496年にコンキスタドールのアロンソ・フェルナンデス・デ・ルーゴによって建設された。この町は1823年までテネリフェ島の最初の主都としての地位にあった。
■アタプルカの遺跡群
アタプエルカの遺跡の中でも最も有名なものは、シマ・デ・ロス・ウエソス(Sima de los Huesos, 骨の採掘坑)である。この遺跡はクエバ・マヨル(Cueva Mayor, 「主要な洞窟」)に穿たれた深さ13 m の穴の底にあり、そこで発見された人骨は少なくとも更新世中期にあたる35万年前に遡る。
■ボイ渓谷のロマネスク様式教会群
ムーア人によるスペイン占領は、ピレネー山脈にあるこの標高の高い渓谷を貫くには至らなかった。この地方での最初のキリスト教集落は、9世紀に成立した。その地方のcountsは、名目上支配していたフランク王国の領主たちからほとんど注意を払われていなかった。人口は大半がバスク人だった。
■タラゴナの遺跡群
古代ローマ時代に築かれ、今でも水道橋や円形競技場などの遺跡が残り、世界遺産に登録されている。遺跡のために観光客も多く集める。近隣の都市としては、約80キロ東にバルセロナ、200キロ北西にサラゴサが位置している。
■エルチェの椰子園
この椰子園の歴史は古く、エルチェの土地にナツメヤシが植えられるようになったのは、紀元前5世紀のカルタゴの時代だと考えられている。カルタゴの後にエルチェも含めたイベリア半島全域を支配したローマ帝国、ムーア人の統治の下でも、この椰子園は生き残ってきた。
■ルーゴのローマ城壁
ルーゴの市壁は2000年に「ルーゴのローマ城壁」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。ローマ時代の市壁としてはヨーロッパでも珍しく保存状態が良好で、欠けることなく街を360度取り囲んでいる。
■ミゲル・デ・ウナムーノ
ミゲル・デ・ウナムーノ・イ・フーゴ(Miguel de Unamuno y Jugo,1864年9月29日-1936年12月31日)は、スペインを代表する哲学者、文学者、詩人、劇作家。いわゆる「98年の世代」にあたり、真のスペインの思想・国家・人民のあり方について模索し続け、スペイン思想界に大きな影響を残した。思想面では哲学と詩の両面から生と死、あるいは自己の問題などに取り組み、実存主義的な思想家としてしられる。スペイン、バスク地方のビルバオの生まれ。厳格なカトリック教徒の家庭で育つ。1880年にマドリード大学へ入学。文学・哲学・言語学を学ぶ。1883年に博士号を取得。この頃はイギリスのハーバート・スペンサーの合理主義的な思想に深い関心を示していた。
■エドゥアルド・チリーダ
エドゥアルド・チリーダ・ファンテギ(Eduardo Chillida Juantegui, または Eduardo Txillida Juantegi, 1924年1月10日 - 2002年8月19日)は、スペイン系バスク人の彫刻家。鉄や石、テラコッタなどで抽象彫刻を多数製作した。特に、規模の大きい屋外彫刻作品が知られており、スペインを始め欧米の各地にチリーダの作品が設置されている。大学入学前には、地元のサッカークラブであるレアル・ソシエダでゴールキーパーを経験した。1943年にマドリード大学に進学し、建築を専攻、1946年まで在学した。しかし翌年の1947年には、芸術を志して建築の勉強を放棄し、1948年にはパリに移住してアトリエを構え、石膏や粘土による制作を開始した。
■ホセ・ラファエル・モネオ
ホセ・ラファエル・モネオ・バレス(Jose Rafael Moneo Valles、1937年5月9日 - 、ナバラ州トゥデラ生まれ)はスペインの建築家。1996年にプリツカー賞を受賞するなど、スペインを代表する建築家として知られる。マドリード建築大学(ETSAM、建築高等工科大学)で1961年に学位をとる。1958年から1961年にかけて、マドリードで建築家フランシスコ・ハビエル・サネス・デ・オイサ(Francisco Javier Saenz de Oiza)の事務所に勤め、さらに20世紀半ばのスペインを代表する建築家アレハンドロ・デ・ラ・ソタやデンマークの建築家ヨーン・ウツソンに師事し、ウツソンから北欧建築の影響を受けた。
■マテオ・アレマン
(Mateo Aleman、1547年 - 1616年)は、スペインの作家。ピカレスク小説の雛形となった『ピカロ、グスマン・デ・アルファラーチェの生涯 Vida y del Picaro Guzman de Alfarache (第1部は1599年、第2部は1604年に上梓)』を著した。この小説は「ピカレスクPicaresque(Picaro → Picaresca)」の語源ともなった。アレマンは、セルバンテスと縁の深い作家である。作風は少々異なるが、セルバンテスの代表作『ドン・キホーテ』と共通する部分も多い。 生まれ年も同年であり、また50歳の秋に同じセビリアの監獄に入り、同じ年に亡くなっている。
■マヌエル・デ・ファリャ
(Manuel de Falla y Matheu, 1876年11月23日カディス - 1946年11月14日アルゼンチン・コルドバ)は、スペインの作曲家。晩年にフランコ政権を避けてアルゼンチンに亡命した。1890年代からマドリードでピアノを学ぶかたわら、近代スペイン音楽復興の立役者フェリーペ・ペドレルに作曲を師事。1907年から1914年までパリに滞在。いち早くファリャの才能を認めたデュカスはオペラ・コミック座で『はかなき人生』を上演させ、ファリャをスペイン出身の作曲家アルベニスに紹介した。
■フェデリコ・ガルシーア・ロルカ
1898年6月5日 - 1936年8月19日はスペインの詩人、劇作家。ガルシアとも表記される。ロルカは画家サルバドール・ダリや映画監督ルイス・ブニュエル、評論家セバスティア・ガッシュなど様々な親交があった。ダリには詩集を捧げており、彼の妹とも親しかった。その一方で、作品の内容から彼は同性愛者であったと言われている。音楽、絵画においても多彩な才能を示したが、そのリベラルな作品と言動のため、スペイン内戦の際にファランヘ党員によって銃殺された。
■コスメ・デ・トーレス
(Cosme de Torres, 1510年 - 1570年10月2日)はフランシスコ・ザビエルと共に戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師。カトリック教会の司祭。ザビエルの意志を受けて18年にわたって日本で宣教。彼の目指した「適応主義」(宣教師が現地の文化に根ざして生きること)は当時のヨーロッパ人の限界を超えた思想であり、日本におけるキリスト教布教の成功をもたらした。
■ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル
(Vicente Martin y Soler, 1754年5月2日 - 1806年1月30日)はバレンシア出身の18世紀の舞台音楽の作曲家。こんにちではほとんど無名になっているものの、生前は歌劇やバレエ音楽の作曲家として著名で、とりわけオペラ・ブッファの作曲家として、モーツァルトと並び立つ存在として好意的に評価されてきた。
■ビセンテ・ブラスコ・イバニェス
Vicente Blasco Ibanez, 1867年1月29日 - 1928年1月28日はスペインの作家。バレンシアに生まれ、当地を舞台とした『バレンシア物語』などの郷土小説を数作発表する。続いてスペイン各地を取材し、より広範な執筆を行なう。闘牛士の栄光と悲劇を描いて評判となり、のちにルドルフ・ヴァレンティノ主演で映画化された『血と砂』(1908年)は、この時期の作品にあたる。
■バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
(Bartolome Esteban Perez Murillo、 1617年12月31日 - 1682年4月3日)は、バロック期のスペインの画家。甘美な聖母像や、愛らしい子どもの絵で知られるムリーリョは、スペイン絵画の黄金期である17世紀を代表する画家である。1618年、スペイン南部のセビリャに生まれる。14人兄弟の末子で、幼い頃に両親を亡くし、姉夫婦のもとで育てられたというが、その名声に比して伝記の細かい部分には不明点が多い。
■ビセンテ・アレイクサンドレ
(Vicente Pio Marcelino Cirilo Aleixandre y Merlo、1898年4月26日-1984年12月14日)はセビリア生まれのスペインの詩人で、1977年にノーベル文学賞を受賞した。27年世代の一人で、1984年にマドリードで死去した。主に散文詩を書いていた頃の初期の詩は高度にシュルレアリスム的であり、地球や海を表すシンボルを用いて自然の美しさを賞賛していた。
■フランシスコ・コレア・デ・アラウホ
(Francisco Correa de Arauxo, 1584年9月16日? セビリャ - 1654年秋 (10月か11月) セゴビア)は、ルネサンス音楽からバロック音楽の過渡期に活躍したスペインのオルガニスト・作曲家・聖職者。アンダルシア出身と見做されているが、ポルトガル出身との説もある。職人の家系に生まれる。1599年よりセビリャのサン・エルサルバドル教会の首席オルガニストを勤める。1608年に司祭に叙階される。長年にわたる聖職者仲間とのいさかいや教会当局者のごまかしに辟易して、何度もスペイン中の大聖堂に求職活動を繰り返すが、成功しなかった。
■ホアキン・トゥリーナ
(Joaquin Turina, 1882年12月9日セビーリャ - 1949年1月14日)はスペインの作曲家・音楽教師。郷里とマドリッドで音楽を学ぶ。1905年から1914年までパリのスコラ・カントルムに留学し、ヴァンサン・ダンディに作曲を師事するかたわら、モーリツ・モシュコフスキのもとでピアノを学んだ。トゥリーナ作品の多くは、伝統的なアンダルシアの民俗音楽に影響されている。19世紀末から20世紀初頭のスペインの作曲家が、おおむね特定の創作ジャンルに偏りがちだったのに対して、トゥリーナはほぼすべてのジャンルを走破し、なおかつ教育者や理論的な著作家としても活躍した。
■ソロモン・イブン・ガビーロール
Avicebron, Avencebrol, 1021年/1022年頃 マラガ - 1058年/1070年頃 バレンシア)はスペインのユダヤ教徒の詩人・新プラトン主義哲学者。 ベン・ガビーロール、アビケブロン、とも。新プラトン主義の哲学者として、プロティノスと同じく流出説をとり、「最高の原理である神の意志から、知性、世界精神、自然の順に流出する」とした。アラビア語の著作は、言語に通じていたユダヤ教徒によってラテン語に訳され、中世ヨーロッパ思想界に大きな影響を与えた。
■ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン
(Pedro Antonio de Alarcon,1833年3月10日 - 1891年7月19日)は、19世紀のスペインの小説家である。1859年から1860年スペイン・モロッコ戦争に志願兵として参加した。 その記録が『アフリカ戦争の証人の日記』としてまとめられている。スペインの伝承歌謡にもとづく短編小説『三角帽子』(1874年)の作者として知られる。
■パブロ・ピカソ
(Pablo Picasso、1881年10月25日 - 1973年4月8日)はスペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムを創始した。生涯におよそ13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。
■イシドールス
Saint Isidore of Seville、560年頃 − 636年4月4日は、中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、カトリックでは「インターネット利用者及びプログラマー」の守護聖人。 30年以上セビリャ大司教を務めた。中世のヒスパニアの地域で書かれた後の歴史書はすべて、このイシドールスの歴史を範としていた。
■ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ
(Pedro Calderon de la Barca, 1600年1月17日、マドリード - 1681年5月25日)は、ロペ・デ・ベガ、フランシスコ・デ・ケベードと並ぶ17世紀スペイン・バロック演劇の代表的な劇作家、詩人である。奇知・誇飾というバロック的表現を得意とした。
■トマス・ルイス・デ・ビクトリア
(Tomas Luis de Victoria, 1548年 アビラ - 1611年8月20日)は黄金世紀スペインの生んだルネサンス音楽最大の作曲家の一人。16世紀スペインの作曲家では最も有名であり、多くの人からパレストリーナに次ぐポリフォニックな教会音楽の大家と見なされている。
■ルイス・デ・ミラン
(Luis de Milan, 1500年頃 - 1561年以降?)はスペインルネサンス期の作曲家、ビウエラ奏者である。ミランは、15世紀から16世紀にかけてイベリア半島およびイタリアの一部で用いられていた楽器であるビウエラ・ダ・マーノのための音楽を出版した歴史上最初の人物である。また、ミランは自作の音楽について、言葉によってテンポを指定した最初の作曲家のうちの一人でもある。
■ミゲル・デ・セルバンテス
(Miguel de Cervantes Saavedra, 1547年9月29日 アルカラ・デ・エナーレス - 1616年4月23日、マドリード)は、近世スペインの作家で、『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(Don Quijote de la Mancha)の著者として著名。少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれていれば手にとって読むほどの読書好きであったが、父の仕事がうまくいかず、バリャドリード、コルドバ、セビーリャと各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかった。だが1564年ごろ、マドリードに転居したセルバンテスはルネサンスの人文学者ロペス・デ・オヨスに師事する。
■フリオ・リャマサーレス
(Julio Llamazares,1955年3月28日 - )はスペインの小説家、詩人。レオン県の町ベガミアンに生まれる。マドリッド大学の法学部に入学し、卒業後は弁護士を経てジャーナリストとして働くかたわらで詩を書き続ける。その後小説の執筆に活動の重点を移し、とくに1988年に発表した『黄色い雨』によって高く評価され、世界的に知られるようになった。
■エルビラ・リンド
(Elvira Lindo, 1962年1月23日 - )は、スペインの小説家、ジャーナリスト、脚本家。カディスに生まれる。12歳の時に、家族と共にマドリードに移る。マドリード・コンプルテンセ大学ではジャーナリズムを専攻。1981年、スペイン国営ラジオ (Radio Nacional de Espana) のアナウンサーとして働き始める。その後、女優、脚本家、小説家としても活躍。
■モンセラート・カバリェ
(Montserrat Caballe,1933年4月12日 - )はカタルーニャ(スペイン)生まれのオペラ歌手(ソプラノ)で、優れたベルカント歌唱技術とロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティらのベルカント・オペラの諸役での優れた歌唱で名高い。カバリェが世界的に知られるようになったきっかけは、1965年ニューヨーク市のカーネギー・ホールで行われた演奏会形式の『ルクレツィア・ボルジア』上演で、病気でキャンセルしたマリリン・ホーンの代役を務めたことである。
■テレサ・ベルガンサ
(Teresa Berganza、1936年3月16日 - )は、スペインの著名なメゾソプラノ歌手。ロッシーニ、モーツァルト、ビゼーのオペラの役柄がよく知られる。彼女は、その高度な歌唱技術と知性に富んだ音楽性、そして魅力的な舞台姿で賞賛されている。ベルガンサはマドリードに生まれ、同地のマドリード音楽院でピアノと声楽を学び、1954年に歌唱で1等賞を得ている。1955年にマドリードで初めての演奏会を開いた。
■カルメン・マウラ
(Carmen Maura, 1945年9月15日 - )は、スペイン・マドリード出身の女優。ナイトクラブやギャラリーで演技をはじめ、次第に舞台やテレビ、映画へと活動の場を広げていった。ペドロ・アルモドバル作品の常連である。これまで4度ゴヤ賞を受賞。
■アレハンドロ・アメナーバル
(Alejandro Amenabar, 1972年3月31日 - )は、スペイン出身の映画監督、脚本家である。マドリードの映画学校で学ぶ。19歳から映画作りをはじめるが、23歳のときに監督したサスペンス『テシス 次に私が殺される』がスペインで大ヒット。ハリウッドに進出した第3作目『アザーズ』では、主演にニコール・キッドマンを迎える。第4作目『海を飛ぶ夢』は実在の人物でラモン・サンペドロの手記『地獄からの手紙』を元に、30年近い四肢麻痺生活の末に、尊厳死を望んだ主人公の闘いを描く。この作品で2005年のアカデミー賞外国語映画賞をはじめ、数々の賞を受賞。
■ホセ・カルデロン
Jose Calderon1981年9月28日 - は、スペインのプロバスケットボール選手。NBAのトロント・ラプターズに所属。エストレマドゥーラ州バダホス県ビジャヌエバ・デ・ラ・セレーナ出身。ポジションはポイントガード。身長191cm、体重95kg。ドラフトにはエントリーしなかったが、トロント・ラプターズの勧誘を受けてNBA入りを決意。ルーキーイヤーとなった2005-06シーズンは64試合に出場し、5.5得点4.5アシストの成績を残した。
■ダビド・ビジャ
(David Villa Sanchez, 1981年12月3日 - )は、スペインのアストゥリアス州ラングレオ出身のサッカー選手。リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに所属するスペイン代表である。ポジションはFW(ストライカー)。スペイン代表歴代最多得点記録の保持者である。EURO 2008のグループステージ第1戦のロシア戦ではハットトリックを達成した3点目を決めた際、フェルナンド・トーレス(その直前に無得点のまま途中交代を命じられ、落胆の色を隠せないまま、ルイス・アラゴネス監督との握手を拒否して、ベンチに下がっていた)の元へ真っ先に抱擁しに向かい、3点目をトーレスに捧げると言った。
■ミチェル
(Michel)ことホセ・ミゲル・ゴンサレス・マルティン・デル・カンポ(Jose Miguel Gonzalez Martín del Campo, 1963年3月23日 - )は、スペイン・マドリード出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。クロスの精度や決定力などが持ち味であった。10年以上に渡ってレアル・マドリードに在籍し、数々のタイトルを獲得している。スペイン代表としては66試合に出場して21得点を挙げ、2度のFIFAワールドカップと1度のUEFA欧州選手権に出場した。
■ラファエル・ナダル
(Rafael Nadal Parera, 1986年6月3日 - )は、スペイン・マヨルカ島・マナコー出身の男子プロテニス選手。2005年から2008年の全仏オープン男子シングルスで大会4連覇を達成し、2008年北京五輪の男子シングルス金メダルも獲得した。2003年5月28日にマヨルカ天文台で発見された小惑星が、この島の出身者であるナダルにちなんで「ラファエル・ナダル (小惑星)」 (128036 Rafaelnadal) と名づけられた。
■アントニア・サン・フアン
(Antonia San Juan, 1961年3月22日- ) はスペイン出身の女優、映画監督、脚本家。マドリッドのキャバレーで自分のショーを持っていたという。1997年より、小さな役で映画に出演し始め、2002年の『靴に恋して』では主演の座をつかんだ。『オール・アバウト・マイ・マザー』では体当たりで性転換者を演じて強烈な印象を残したために、彼女のことを男性だと思う人が多いが、実際は本当の女性である。
■ホセ・アントニオ・アギーレ
(Jose Antonio Aguirre y Lecube、1904年3月6日 - 1960年3月22日)は、バスク国民党の政治家。スペイン内戦中の1936年に初代レンダカリとなった。彼が在職中にバスク自治政府は共和国側に立って戦い、アギーレはバスク自治政府が直接指揮するバスク軍を創設した。彼は既に非常に明快な政治的見解を持ち、バスク民族主義者としてバスク国民党に入党した。党内は2つの派閥に分かれていたが、アギーレはこの分裂を好まなかった。彼は、バスク国はどんな違いも越えた存在と考えていた。
■ホセ・コマス・ソラ
Jose Comas y Sola、1868年12月19日 − 1937年12月2日はスペイン(カタルーニャ)の天文学者である。カタルーニャ語での表記はジョゼップ・コマス・イ・ソラ(Josep Comas i Sola)となる。バルセロナ出身。火星や土星などの惑星の観測を行い、土星の自転周期の測定をおこなった。火星や土星などの惑星の観測を行い、土星の自転周期の測定をおこなった。1907年に木星の衛星タイタンに大気のある証拠となる観測を行った。
■カルマ・チャコン
(Carme Chacon Piqueras IPA1971年3月13日 - )はスペインの政治家、第2次サパテーロ内閣においてスペイン初の女性国防相に任命(2008年 − 2011年)され話題となった。バルセロナ大学法学部を卒業後、カナダのヨーク大学オズグッド・ホール・ロー・スクール、英国のキングストン大学、モントリオール大学などの大学院に進学し法律を学ぶ。その後ジローナ大学で憲法学の講師を務める。
■ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル
Vicente Martin y Soler, 1754年5月2日 - 1806年1月30日はバレンシア出身の18世紀の舞台音楽の作曲家。今日ではほとんど無名になっているものの、生前は歌劇やバレエ音楽の作曲家として著名で、とりわけオペラ・ブッファの作曲家として、モーツァルトと並び立つ存在として好意的に評価されてきた。近年になって再評価が進みつつあり、歌劇の上演及び録音が行われるようになった。
■アントニ・ガウディ
Antoni Placid Guillem Gaudi i Cornet, 1852年6月25日 - 1926年6月10日)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家。19世紀から20世紀にかけてのモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。1863年、ガウディは貧しい家庭の子弟のために設立されたピアリスト修道会(Piarists)の学校に入学する。この学校でガウディはエドワルド・トダ・イ・グエイ(エドゥアルド・トダ・イ・グエル)とジュゼプ・リベラ・イ・サンス(ホセ・リベラ・イ・サンス)という友人を得る。
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スペイン Spain
ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。首都はマドリード。
■スペインの歴史
後期旧石器時代の紀元前14000年代 クロマニョン人がスペイン北部にてアルタミラ洞窟の壁に動物画を残した。紀元前5000年ごろの新石器時代には巨石文化とともにイベリア人が移籍してきた。紀元前12世紀、フェニキア人がイベリア半島に進出。フェニキア人はヨーロッパで最古の都市カディスを建設。
■マドリード
Madridは、スペインの首都。スペインの行政の中心地(首都)であり、イベリア半島の経済の中心地の1つである。人口は約325万人。2010年の近郊を含む都市圏人口は539万人であり、世界第53位、EUでは第4位である。欧州の首都の中では最も標高が高い。
■バルセロナ
Barcelonは、スペインの首都マドリードに次ぐ第2の都市である。地中海沿岸に位置する港湾都市で、フランスとの国境であるピレネー山脈から160km南に位置する。バルセロナの開けた通路や鉄格子模様の道路を徒歩で観光すれば、ローマ時代の遺跡から中世の都市へ、さらには近代都市へと旅するまたとない機会を得ることができる。
■バレンシア
Valenciaは、スペインの都市。バレンシア州の州都で、バレンシア県の県都。人口は約80万人でスペイン第3位。バレンシア都市圏の人口は173万人に上る。パエリア発祥の地でもある。バレンシアは地中海でもっとも物流の多い港の一つであり、スペインの輸出の20%を担っている。おもな輸出品は食料品、家具、陶器タイル、織物、鉄製品である。
■芸術科学都市
Ciudad de las Artes y las Cienciasは、スペインのバレンシアにある科学教育と芸術のための施設の複合体。1957年に大洪水を起こしたため付け替えられ1980年に公園となったトゥリア川の旧い川床に、5つの印象的な現代建築群が連なっている。設計者はバレンシア生まれの建築家・構造技術者サンティアゴ・カラトラバと、マドリード生まれのメキシコの建築家フェリックス・キャンデラ。
外務省:スペイン
在スペイン日本国大使館
■バレンシア大学
Universidad de Valenciaはスペインバレンシア州の州都であり、スペイン第三の都市でもある バレンシアにある大学である。バレンシア地方で、またスペインで最も古い大学の一つである。創立は1499年で、現在の学生数は約55,000人である。
■サラマンカ大学
Universidad de Salamancaは、マドリードの北東に位置する都市サラマンカにある大学。現存するスペイン最古の大学で、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、パリ大学、ボローニャ大学などとともにヨーロッパでも設立の古い大学の1つでもあり、「知識を欲する者はサラマンカへ行け」と言わしめた。2004年現在、学生数約32,000の総合大学である。
■バリャドリッド大学
Universidad de Valladolidはスペインのバリャドリッドにある大学。創立は13世紀にまでさかのぼる。キャンパスはバリャドリッドのほか、パレンシア、ソリア、セゴビアにもある。
■バルセロナ大学
Universidad de Barcelonaはスペイン・カタルーニャ州バルセロナにある大学。1450年11月3日、アルフォンソ5世により創立された。
■リェイダ大学
University of Lleida, 略称 UdLはスペイン (カタルーニャ州) のリェイダにあり、カタルーニャ、そしてアラゴン連合王国で最初に設立された大学である。
■アルカラ大学
Universidad de Alcala) は、スペインマドリード州アルカラ・デ・エナーレスにある公立大学である。大学には約26,000人の学生と1750人の教授が所属している。
■カタルーニャ工科大学
Universitat Politecnica de Catalunya、は、スペインのバルセロナに所在する大学。カタルーニャ州最大規模の工科大学である。
■マドリード・コンプルテンセ大学
Universidad Complutense de Madrid, UCMは、スペインのマドリード、モンクロア=アラバカ区に位置する総合大学。単に「マドリード大学」と言った場合、通常この大学を指す。マドリード・コンプルテンセ大学の歴史は非常に古く、欧州最古の部類に属し、スペインにおいてはサラマンカ大学に次ぐ歴史を誇る。学生総数は約9万人。
■セビリア大学
(Universidad de Sevilla) とは、スペインのセビリアにある公立の大学。2004年の時点で全キャンパスに合計73,350人の学生が在籍し、スペイン国内に現存する大学としては2番目に多い学生数を誇っている。
■オビエド大学
Universidad de Oviedoはスペイン・アストゥリアス州オビエドにある大学。16世紀末に異端審問所の長でもあったカトリックの大司教フェルナンド・バルデス・サラスによって1574年に創立、活動は1608年から開始された。
■サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学
Universidade de Santiago de Compostela)はスペイン・ガリシア州ア・コルーニャ県サンティアゴ・デ・コンポステーラにある大学。 キャンパスはサンティアゴ・デ・コンポステーラ市内旧市街を挟んで南と北に2か所とルーゴ県のルーゴにもある。創立は15世紀にまでさかのぼり、1990年にビーゴとア・コルーニャに大学ができるまでは、ガリシア地方唯一の大学であった。
■アタプエルカ
スペインのカスティーリャ・イ・レオン州ブルゴス県の町で、カルスト地形の広がるシエラ・デ・アタプエルカ(Sierra de Atapuerca, シエラ・アタプエルカとも)の名前の由来にもなっている。一帯のカルスト地形にはグラン・ドリーナのような洞窟がいくつもあり、ヨーロッパにおける最も初期の人類が残した石器類なども発見されている。アタプエルカの遺跡の中でも最も有名なものは、シマ・デ・ロス・ウエソス(Sima de los Huesos, 骨の採掘坑)である。この遺跡はクエバ・マヨル(Cueva Mayor, 「主要な洞窟」)に穿たれた深さ13 m の穴の底にあり、そこで発見された人骨は少なくとも更新世中期にあたる35万年前に遡る。
■バレンシア
Valencia、は、スペインの都市。バレンシア州の州都で、バレンシア県の県都。人口は約80万人でスペイン第3位。地中海に面し、温暖な地中海性気候で雨量も少ない。観光地としては世界遺産に登録されているラ・ロンハや国立陶器博物館、カテドラルなどがあり、3月に開催される火祭りは著名。
■セビリア
(Sevillaはスペイン南部の都市。アンダルシア州の州都で、セビリア県の県都。人口は70万人でスペイン第4位。セビリア都市圏の人口は130万人に上る。スペイン南部の政治、経済、文化の中心地であり、観光都市である。古代ローマ時代には「ヒスパリス」と呼ばれた。紀元前8世紀か9世紀にタルテソスにより支配され、のちにフェニキア人やカルタゴ人の植民都市となった。
■セウタ
(Ceuta)は、アフリカ大陸北部にあるスペインの飛地領。ジブラルタル海峡に近い地中海沿岸に位置する。面積28km2、2008年現在の人口は78,320人。スペイン軍が駐留するモンテ・アチョ (Monte Hacho) と呼ばれる丘の周辺に町が広がっている。沖合いの小島、サンタ・カタリーナ島も含まれている。ギリシャ神話に登場するヘラクレスの柱は、モンテアチョか、セウタから西数kmのモロッコ領のヘベルムサ山 (Jebel Musa、Jebelはアラビア語で山を表すのでムサ山) のことではないかと考えられている。
■パルマ・デ・マリョルカ
(Palma de Mallorca)は、スペインの都市。地中海に浮かぶバレアレス諸島のマリョルカ島に位置する。バレアレス諸島の島々で構成されるバレアレス諸島自治州の州都。言語的にはカタルーニャ語のマリョルカ方言を話す。人口は約37万5千人で、スペイン第9位。
■マラガ
(Malaga)はスペイン南部、アンダルシア州、マラガ県の自治体で、同県の県都。人口は56万人で、スペイン第6位。地中海に面し、リゾート地コスタ・デル・ソルの中心である。画家のピカソの出身地としても有名。紀元前1000年頃、フェニキア人が現在のマラガの位置に「マラカ」(Malaka)という都市を建てた。「マラカ」の名はおそらくフェニキア語の「塩」から来ており、港で魚が塩漬けにされたことによる。
■カディス
大西洋に面する港湾都市。紀元前より貿易港として栄え、現在も工業製品やぶどう酒など様々な商品が積み出される。アフリカなど各地へ向かう船も発着する。
■ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ
Jerez de la Fronteraは、スペイン南部の都市。アンダルシア州カディス県に属する。カディスから約37km北東の内陸に位置する。シェリー酒(スペイン語で「ヘレス」)とフラメンコで有名。旧石器時代から人が住んでおり、3000年前にはタルテソス人が居住していた。「ヘレス」の名はフェニキア語の「セレス」(Xeres)に由来する。
■グラナダ
(Granada)は、スペイン南部の都市。アンダルシア州グラナダ県の県都である。かつてはイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国の都であり、壮麗なアルハンブラ宮殿が有名である。シエラネバダ山脈が抱える「ベガ」と呼ばれる肥沃な平野を基盤にして栄えた。
■マドリード・バラハス国際空港
El Aeropuerto de Madrid-Barajasとは、スペインの首都、マドリードにある国際空港である。この空港は1928年に開港した。乗降客数では世界で10位となる空港である(2007年)。
■マドリード地下鉄
マドリードで営業している地下鉄である。マドリードの人口約350万人、都市圏人口約600万人に比べると、世界的に見てもかなり大きな地下鉄網である。地下鉄の開業は1919年、路線数は13、駅数は231で、路線長は282.5 キロメートルある。
■バルセロナ・エル・プラット国際空港
(L'Aeroport Internacional de Barcelona - El Prat de Llobregat) とは、スペインのバルセロナおよびアル・プラ・ダ・リョブレガートにある国際空港である。
■シウダ・レアル・セントラル空港
スペイン・シウダ・レアルの南方約15kmに位置する国際空港。ドン・キホーテ空港、南マドリード空港の別名を持つ。
■セビリア空港
Seville Airportは、スペイン・アンダルシア州セビリアにある国際空港である。サン・パブロ空港とも呼ばれる。
■パルマ・デ・マリョルカ空港
Aeropuerto de Palma de Mallorcaはパルマ・デ・マリョルカ(パルマ・デ・マヨルカ)の約8km東に位置する国際空港である。
■マラガ空港
Aeropuerto de Malagaは、スペインアンダルシア州マラガ県の県都であるマラガにある空港。マラガから南西約8Kmに位置する。別名パブロ・ルイス・ピカソ国際空港と呼ばれている。
■アンダルシア州
スペインを構成する自治州の一つである。 スペイン南部に位置し、北はエストレマドゥーラ州とカスティーリャ=ラ・マンチャ州、東はムルシア州、そして西はポルトガルと接し、南は地中海・ジブラルタル海峡・大西洋がある。
■サンタンデール
Santanderはスペイン、カンタブリア州の自治体で、同州の州都である。サンタンデールは1941年に大火の被害を受けた。強い南風に煽られ、火は2日間燃え続けた。犠牲者はただ一人、消防士が亡くなったが、数千の家族が住処を失い、市は混沌とした状態に突入した。火事が終わると、サンタンデールの歴史的部分はほぼ完全に破壊された。中世に作られた下町の大部分を焼失した。そして市のロマネスク様式の大聖堂の中身もすっかり焼けてしまった。
■サンタンデール音楽祭
Festival Internacional de Santanderは、スペインのサンタンデールで毎年8月に開催されるクラシック音楽の音楽祭。音楽祭の期間中に2〜3のオペラ公演が行われるほか、バレエや演劇の公演、歌曲のリサイタル、合唱・管弦楽・室内楽のコンサートも行われる。メイン会場はパラシオ・デ・フェスティバレスであるが、50の教会や修道院、2つの公園、さらに周辺のカンタブリア州の町も会場となる。
■メリリャ
Melilla, は、モロッコの地中海沿岸にあるスペインの飛地領。自由貿易港であり、主要な産業は漁業。スペイン本国からのフェリーは6時間以上の時間が掛かるため、住民の食料品や生活物資の多くをモロッコに依存している。このためモロッコ側からの入国審査を簡素化し、関税を安く設定しているが、モロッコの住民側はこうした措置を逆手に取り、海外(特にEU地域)製品を買い付ける場として活用している。
■サラゴサ
Zaragozaは、スペイン北東部の都市。アラゴン州の州都で、サラゴサ県の県都。ウエルバ川が合流するエブロ川中流、川谷の中心地で、マドリード、バルセロナ、バレンシア、ビルバオ、トゥールーズの各都市とは約300kmの距離にある、交通の要所である。
■ムルシア
Murciaは、スペイン南東部の都市で、ムルシア州の州都。セグラ川に面する。「ウエルタ」または「ムルシアの菜園」として知られる豊かな低地の平原のほぼ中央に築かれている。その平原はセグラ川の谷を含み、右手には支流のグアダレンティン川が流れ、山地に囲まれている。
■ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア
(Las Palmas de Gran Canaria)は、スペイン領カナリア諸島のグラン・カナリア島にある都市。カナリア諸島自治州の州都(サンタ・クルス・デ・テネリフェと共同)であり、ラス・パルマス県の県都である。スペイン第8位の人口を持つ。
■サンティアゴ・デ・コンポステーラ
(Santiago de Compostela)はスペイン、ガリシア州、ア・コルーニャ県の都市で、ガリシア州の州都。コマルカ・デ・サンティアーゴに属する。旧市街は1985年にUNESCO世界遺産に登録されており、また、エルサレム、バチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地のひとつでもあり、世界遺産に登録されているサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の終着地でもある。
■グラナダ
Granadaは、スペイン南部の都市。アンダルシア州グラナダ県の県都である。かつてはイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国の都であり、壮麗なアルハンブラ宮殿が有名である。
■バリャドリッド
Valladolid IPAはスペインの都市。カスティーリャ・イ・レオン州の州都で、バリャドリッド県の県都。1550年から翌年にかけて、この地でラス・カサス(『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』でアメリカ大陸における現地民迫害を告発したドミニコ会士)は「バリャドリッド論争」を行い、セプルベダと論戦を繰り広げた。
■パルマ・デ・マリョルカ
(Palma de Mallorca)は、スペインの都市。地中海に浮かぶバレアレス諸島のマリョルカ島に位置する。バレアレス諸島の島々で構成されるバレアレス諸島自治州の州都。言語的にはカタルーニャ語のマリョルカ方言を話す。パルマ・デ・マヨルカ、パルマ・デ・マジョルカなどとも表記される。人口は約37万5千人で、スペイン第9位。
■ビルバオ
Bilbao、は、スペイン北部の都市。バスク州ビスカヤ県の県都である。人口は約35万4千人で、スペイン第10位。スペイン北部屈指の港湾都市で、鉄鋼業が盛んである。20世紀のスペイン内戦では、ビルバオは共和国政府側に立ち、初めての「バスク自治政府」がこの地でホセ・アントニオ・アギーレを首班として設立された。
■コルドバ
(Cordoba)は、スペインの都市。アンダルシア州、コルドバ県の県都。グアダルキビール川に面する。かつての後ウマイヤ朝の首都で、イスラム時代の文化を伝える建築物や街路が遺されている。
■トレド
(Toledo)はスペイン中央部の都市。カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都で、トレド県(人口約60万人)の県都である。マドリードから南に71kmの距離で、タホ川に面する。かつての西ゴート王国の首都であり、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地である。「町全体が博物館」と言われ、タホ川に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されている。
■アルバイシン
Albaicin)とは、スペイン・グラナダにある丘陵の地区。中世ムーア人の統治時代の建築様式を残す一角である。1984年に、アルハンブラ宮殿、ヘネラリフェと合わせて、グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシンの登録名で、UNESCOの世界遺産に登録された。
■バレアレス諸島
Islas Balearesは、西地中海に浮かぶ群島で、スペインを構成する自治州の一つとなっている。バレアレス諸島自治州は同名の一県のみで構成されている。州都・県都は、パルマ・デ・マリョルカ。
■国名
正式名称は特に定められていないが、1978年憲法ではスペイン語で、Espana(エスパーニャ)、Estado Espanol(エスタード・エスパニョール)などが用いられている。在のスペインは、国王を元首とする王国であるが、スペイン1978年憲法では、それまでの憲法では明記されていた国号は特に定められていない。
■スペインの国旗
「血と金の旗」と呼ばれ、赤、黄、赤に並んだ横三色の中央・旗竿寄りに国章が配してある旗。民間では普通国章のないものを使用する。国旗の黄の部分の幅は赤の部分1つの幅の2倍である。すなわち、1:2:1。国章の柱(ヘラクレスの柱)に巻き付いた帯にはラテン語でPLUS ULTRA(PLVS VLTRA;「より彼方へ」という意)と記されている。新大陸発見以前は「Non Plus Ultra(ここは世界の果てである)」と記されていた。
1.面積:50.6万平方キロメートル(日本の約1.3倍)
2.人口:約4,702万人(2010年1月)
3.首都:マドリード(マドリード市人口約327万人)(2010年1月)
4.言語:スペイン(カスティジャ)語(地方によってはバスク語、カタルニア語、ガリシア語が使用されている。)
5.宗教:憲法で信仰の自由が保障されている(約75%がカトリック教徒と言われる)
1492年 グラナダ(ナスル朝)陥落、キリスト教徒によるスペイン再支配確立、コロンブスがアメリカ大陸到達
1588年 無敵艦隊英海軍に敗北、以後スペイン帝国衰退へ
1873年〜1874年 第一共和制
1931年〜1939年 第二共和制
1936年〜1939年 スペイン内戦
1939年〜 フランコ政権
1975年 フランコ死去、フアン・カルロス一世即位
1977年 総選挙の実施(41年振り)
1978年 新憲法制定
1986年 EC加盟
■主要産業:自動車、食料品、化学品、観光産業
■主要貿易品目(2010年)(1)輸出 自動車関連、果物・豆類、産業用機械、輸送機械、医薬品(2)輸入 石油・石油副産物、自動車関連、繊維製品、事務・通信機器
■ユーロ
ユーロはヨーロッパでは23の国で使用されている。この23か国のうち17か国が欧州連合加盟国である。ユーロは準備通貨としてはアメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位を有していた。さらに、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていた。しかし、近年のユーロ危機で、通貨連盟の矛盾が表面化しその存続を危ぶむ意見さえも出るようになってきている。
■経済
IMFによると、2010年のスペインのGDPは1兆3747億ドルであり、世界第12位である[27]。市場為替相場を基とした国内総生産は2008年は世界9位で カナダを超えるがサミットには参加していない。企業は自動車会社のセアトやペガソ、通信関連企業のテレフォニカ、アパレルのザラ、金融のサンタンデール・セントラル・イスパノ銀行などが著名な企業として挙げられる。
■鉱業
スペインの鉱業資源は種類に富み主要な鉱物のほとんどが存在するとも言われる。しかし歴史的に長期に渡る開発の結果21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める亜炭(1228万トン)が有力。品質の高い石炭(975万トン)、原油(32万トン)、天然ガス(22千兆ジュール)も採掘されている。主な炭鉱はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。
■教育
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は97.9%であり、これはアルゼンチン(97.2%)やウルグアイ(98%)、キューバ(99.8%)と並んでスペイン語圏最高水準である。
■国民党
Partido Popular、略称:PPは、スペインの中道右派の政党。中道左派のスペイン社会労働党と二大政党を形成する。日本の外務省では民衆党と表記される[2]。1976年、マヌエル・フラガ・イリバルネら7人のフランシスコ・フランコ体制の政治家を中心に結成された国民同盟(Alianza Popular、AP)を前身とする。
■スペイン社会労働党
Partido Socialista Obrero Espanolは、スペインの社会民主主義政党。略称はPSOE(ペソエ)。社会主義インターナショナル加盟政党である。1879年に労働者によるマルクス主義政党として、ガリシア地方フェロル出身のパブロ・イグレシアスによってマドリードで結成された。
■統一左翼
Izquierda Unidaはスペイン共産党(PCE)を中核とする政党連合の名称で、非社会労働党(PSOE)系の左翼勢力が結成して結成された。現在のコーディネーター(代表)はカジョ・ララ。
■音楽
クラシック音楽においては声楽が発達しており、著名な歌手としてアルフレード・クラウス、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、モンセラート・カバリェ、テレサ・ベルガンサなどの名を挙げることができる。クラシック・ギターも盛んであり、『アランフエス協奏曲』を残した作曲家のホアキン・ロドリーゴや、ギター奏者のセレドニオ・ロメロ、ペペ・ロメロ、アンヘル・ロメロ一家、マリア・エステル・グスマンなどが活躍している。その他にも特筆されるべきピアニストとしてアリシア・デ・ラローチャとホアキン・アチュカーロの名が挙げられる。南部のアンダルシア地方のジプシー系の人々から発祥したとされるフラメンコという踊りと歌も有名である。
■美術
16世紀に入るとマニエリズムに移行し、この時期にはエル・グレコが活躍している。バロック期にはフランシスコ・リバルタやホセ・デ・リベラ、フランシスコ・デ・スルバラン、アロンソ・カーノ、ディエゴ・ベラスケス、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、フアン・デ・バルデス・レアルなどが活躍した。18世紀から19世紀初めにかけてはフランシスコ・デ・ゴヤが活躍した。
■スペイン料理
スペインは地方によって気候や風土、文化、習慣が異なるため、材料やその調理方法は様々で、事実上スペイン料理としてひとくくりにはできない。共通点としては、オリーブオイルやニンニクを好んで使用していることなどが挙げられる。北部のガリシア、バスクなどでは新鮮な魚介類を使用した煮込み料理が特徴である。カスティーリャでは焼き物料理、アンダルシアでは揚げ物料理が特色として挙げられ、フランスに近いカタルーニャなどではフランス料理に近い料理が作られる。
■スペインワイン
スペインは、イタリアとフランスに続く世界第3位のワイン生産国である。ブドウの作付面積では117万ヘクタールで世界第1位となっている。しかし、他の作物と一緒に植えられる場合が多く、作付面積の割に生産量は少ない。
■文学
12世紀中盤から13世紀初頭までに書かれた『わがシッドの歌』はスペイン最古の叙事詩と呼ばれている。スペイン文学においては、特に著名な作家として世界初の近代小説と呼ばれる『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテスが挙げられる。近代に入ると、1898年の米西戦争の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した「98年の世代」と呼ばれる一群の知識人が現れ、哲学者のミゲル・デ・ウナムーノやオルテガ・イ・ガセト、小説家のアンヘル・ガニベ、詩人のフアン・ラモン・ヒメネス(1956年ノーベル文学賞受賞)やアントニオ・マチャードなどが活躍した。
■スペインの映画
フランスで1895年12月28日にリュミエール兄弟によって「シネマトグラフ」が公開された翌年、1896年5月には隣国スペインでもシネマトグラフが公開されたといわれる。1910年頃には、マドリードとバルセロナを中心に映画は発展し、アメリカのメジャー映画や他のヨーロッパ映画も数多く上映されるようになり、映画館も数百を数え、映画雑誌も数多く創刊されている。
■哲学
ローマ時代において活躍したストア派哲学者の小セネカはコルドバ出身だった。中世において、イスラーム勢力支配下のアル=アンダルスでは学芸が栄え、イブン=スィーナー(アウィケンナ)などによるイスラーム哲学が流入し、12世紀のコルドバではアリストテレス派のイブン=ルシュド(アウェロエス)が活躍した。17世紀から18世紀にかけては強固なカトリックイデオロギーの下、ベニート・ヘロニモ・フェイホーやガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノスなどの例外を除いてスペインの思想界は旧態依然としたスコラ哲学に覆われた。
■スコラ学
「Scolaticus」(学校に属するもの)に由来する言葉で、11世紀以降に主として西方教会のキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された学問のスタイルのこと。スコラ学は決して特定の哲学や思想をさすものでなく、学問の技法や思考の過程をさすものである。当時の「修道院」において用いられた学問の技法と対照的なものであった。すなわちスコラ学の特徴は問題から理性的に、理づめの答えが導き出されることにあった。これに対して修道院で伝統的にとられていた学問のスタイルは古典の権威をとおして学ぶだけであり、研究者の理論的思考というものは必要とされていなかった点に違いがある。
■実存主義
existentialismとは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張する思想である、とされる(「実存は本質に先立つ」)。古代哲学では、ヘラクレイトスのロゴスの思想の影響下に、イデア論を構想したプラトンを批判的に継承したアリストテレスが、第二実体 (普遍者) と第一実体 (個物に対応) との区別を提唱し、これが継承される形で、中世哲学で、可能態と現実態との区別が説かれるようになった。 近代哲学では、ヘーゲルが、理念と現実との不可分性(理念的・必然的、あるいは合目的的ではない、一回的な、あるいは偶発的な個物は永続性や普遍性を欠く、という意味で現実性を欠く、という意味合い)を説いて「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的」(法の哲学序文)であるとした。
■サグラダ・ファミリア
サグラダ・ファミリアは聖家族贖罪教会(カタルーニャ語:Temple Expiatori de la Sagrada Familia)という正式名称を持つバルセロナにあるカトリックのバシリカである。日本語では聖家族教会と呼ばれることも多い。ガウディは仔細な設計図を残しておらず、大型模型や、紐と錘を用いた実験道具を使って、構造を検討したとされる。スペイン内戦でそれらの模型は破片となり、ガウディの構想に基づき弟子たちが作成した資料などは大部分が消失した。ガウディの死後、もはや忠実にガウディの構想通りとはならないこの建築物の建造を続けるべきかという議論があったが、職人による伝承や大まかな外観のデッサンなど残されたわずかな資料を元に、時代毎の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。
■フアン・ラモン・ヒメネス
1881年12月24日 - 1958年5月29日はスペインの詩人。彼が近代詩で成し遂げた最も大きな業績は、純粋詩の確立である。1956年にノーベル文学賞を受賞した。モデルニスモ文学を代表する詩人ルベン・ダリオの強い影響を受けた。同年、芸術的分野へ進むことに理解を示してくれた父親を亡くしたことで精神に不調を来たしたため、フランスボルドーの精神療養施設に入所し、その期間にフランス詩の知識を深めた。彼は療養生活中にもモデルニスモ詩人たちと交流を続け、詩作を続ける。
■ホセ・オルテガ・イ・ガセト
1883年5月9日 - 1955年10月18日は、スペインの哲学者。マドリード生まれ。父親は高名なジャーナリスト、ホセ・オルテガ・イ・ムニーリャ(es:Jose Ortega Munilla 1856−1922年)母親はドローレス・ガセット。オルテガの思想は、「生の理性 (razon vital)」をめぐって形成されている。「生の理性」とは、個々人の限られた「生」を媒介し統合して、より普遍的なものへと高めていくような理性のことである。
■アルトゥーロ・ペレス=レベルテ
Arturo Perez-Reverte Gutierrez, 1951年11月25日 - はスペインの小説家、ジャーナリストである。1996年にジュブナイル小説として発表した(当初は娘のカルロタに読ませる為に書き起こされた)「El capitá℃ Alatriste(『アラトリステ』)がジュヴナイル小説の枠を大きく越えてスペイン国内で大ヒットし、「Las aventuras del capitan Alatriste (アラトリステ隊長の冒険)」としてシリーズ化される。
■アルフレード・クラウス
Alfredo Kraus, 1927年11月24日 - 1999年9月10日は、スペインのテノール歌手。20世紀後半のもっとも偉大なリリコ・テノール歌手とされている。オペラ、サルスエラ好きの両親に連れられて、アルフレード少年も幼少の頃から声楽への関心を深めたという。1945年からは電気技師となるべく工業学校に通学するが、その一方で地元合唱団などで歌った。その才はやがて見出され、1948年にはスペイン本土、バルセロナに渡って本格的な声楽の訓練を開始する。
■プラシド・ドミンゴ
Placido Domingo,1941年1月21日 - は、スペイン生まれのテノール歌手で、指揮者、歌劇場芸術監督としても活動している。スペインのマドリード生まれ。両親はサルスエラ歌手。1949年、サルスエラ劇団を経営する家族とともにメキシコに移住、両親の一座で子役として舞台に立っていた。1955年にメキシコシティの国立音楽院に入学してピアノと指揮を学ぶ。
■ホセ・カレーラス
Jose Carreras、1946年12月5日 - は、スペインのカタルーニャ州バルセロナ生まれの著名なテノール歌手で、ヴェルディやプッチーニなどのオペラの名唱で知られる。カレーラスはバルセロナに生まれ、幼い頃から音楽的才能を現した。8歳でスペイン国立放送に出演、『女心の歌』(ヴェルディ)を歌って初めての公開の演奏を行った。
■フランシスコ・デ・ゴヤ
Francisco Jose de Goya y Lucientes, 1746年3月30日 - 1828年4月16日は、スペインの画家。14歳の時から約4年間、サラゴーサで地元の画家に師事して絵画の修行をする。この間、のちにゴヤの義兄となる、兄弟子・フランシスコ・バエウ(バイユー)に出会う。40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤは、1792年、不治の病に侵され聴力を失う。今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『マドリード、1808年5月3日』などはゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。
■サンティアゴ・ルシニョール
Santiago Rusinol i Prats, 1861年2月25日 - 1931年6月13日は、スペインの画家、劇作家。1861年バルセロナで織物業を手がける家庭に生まれる。バルセロナの水彩画学校ではトマス・モラガス (Tomas Moragas) に師事し絵画を学ぶ。1889年パリに渡り、モンマルトルで芸術活動を行う。
■ジョアン・ミロ
ジュアン・ミロ・イ・ファラー, 1893年4月20日 - 1983年12月25日は20世紀のスペインの画家。ミロは1911年、18歳の時、うつ病と腸チフスを患い、療養のためカタルーニャのモンロッチという村に滞在した。このモンロッチの村の環境がミロの芸術に大きな影響を与えたようである。彼はこの頃から画家を目ざすようになり、翌1912年、バルセロナの美術学校に入学した。
■ビクトル・エリセ
Victor Erice, 1940年6月30日 - はスペイン出身の映画監督・脚本家である。映画学校で学びながら、映画雑誌に批評や評論などを書いて生計を立てていた。1964年、兵役についていたのち、溝口健二の『山椒大夫』を見て大きな感銘を受け、除隊後は映画一筋に生きる道を決意する。73年の『ミツバチのささやき』が、同年サン・セバスティアン国際映画祭でグランプリ。
■ミツバチのささやき
The Spirit of the Beehiveは、1973年のスペイン映画。監督はビクトル・エリセ、主演はアナ・トレント。フランシスコ・フランコによる独裁政治が終了する数年前に製作されたこの映画は、その独裁が始まるスペイン内戦の終結直後の1940年を舞台とし、内戦後の国政に対する微妙な批判を匂わせている。
■汚れなき悪戯
Marcelino Pan y Vinoは1955年製作のスペイン映画。19世紀の前半、スペインのある町の町長を3人のフランシスコ会修道士が訪れ、侵略者フランス軍により破壊されたまま廃墟となっている丘の上の市有地の修道院を再建する許可を求めた。町民の助けを得て再建された修道院ではやがて12人に増えた修道士たちが働いていたが、ある年の聖マルセリーノ祭の朝、門前に赤子が置かれていた。両親は既に亡くなっていたことが判ったので、修道士たちは近隣に里親を求めて歩き回った。
■イブン・ジュバイル
bn Jubayr, 1145年 - 1217年は、12世紀から13世紀にかけて活躍したムスリムの旅行家。彼によって記された旅行記は、文学作品としてのみならず、当時の状況を知る史料としても重要な価値を有している。
■アリシア・デ・ラローチャ
Alicia de Larrocha, 1923年5月23日 - 2009年9月25日は、スペインのピアニストで、20世紀を代表するピアニストの一人。
■フェデリコ・モンポウ
Frederic Mompou i Dencausse、スペイン語:Federico Mompou, 1893年4月16日 バルセロナ - 1987年6月30日 バルセロナは20世紀スペインの作曲家。パリ音楽院への留学を志すも断念。結局その地でイシドール・フィリップやフェルディナン・モット=ラクロワにピアノを師事する。同年、クロード・ドビュッシーやエリック・サティに強烈に影響された最初のピアノ曲集の第1部を書き上げる。極端に内気な性格だったため、演奏家として立つことを断念し、代わりに作曲に身を捧げることにした。1921年(もしくは1920年)に再びパリを訪れる。1924年にケーキ屋を開くが間もなく倒産する。1937年まで神経衰弱のため何も作曲しなかった。
■フアン・セバスティアン・エルカーノ
Juan Sebastian Elcano、1486年 - 1526年8月4日はスペイン王国に仕えたスペインの探検家(バスク人)である。フェルディナンド・マゼランの船団の指揮を引き継ぎ1522年、史上初となる世界周航を達成した。
■ファウスト・デ・エルヤル
Fausto de Elhuyar (Elhyar) y de Suvisa、1755年10月11日、ログローニョ - 1833年2月6日、マドリッドはスペインの化学者である。1783年、兄のフアン・ホセ・デ・エルヤルとタングステンの単離に成功した。
■フアン・カルロス1世
(スペイン語: Juan Carlos I、1938年1月5日 - )は、スペイン国王(在位:1975年11月22日 - )。祖父であるスペイン・ブルボン朝(ボルボン朝)のスペイン国王アルフォンソ13世は、1931年の共和派政権の誕生を受けて家族とともにイタリア王国の首都であるローマへ亡命し、王政は終わりを迎えて共和政が成立した。その後発生したスペイン内戦を経て、フランシスコ・フランコがカウディーリョとして国を治めることになった。
■マリアーノ・ラホイ・ブレイ
(Mariano Rajoy Brey、1955年3月27日 - )は、スペインの政治家。現在、スペイン首相(第6代)、与党国民党の党首を務める。サンティアゴ・デ・コンポステーラに判事の息子として生まれ、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学で法律を学んだ。スペインでは高度な法律専門職である登記人の資格試験に最年少の23歳で合格、不動産登記人としてのキャリアをスタートした。穏和な人柄で調整型の政治家とされる。葉巻好きでレアル・マドリードの熱狂的なファン。
■パブロ・デ・サラサーテ
パブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス(Pablo Martin Meliton de Sarasate y Navascuez, 1844年3月10日 - 1908年9月20日)は、スペイン、バスク地方のパンプローナに生まれた作曲家、ヴァイオリン奏者。8歳のときに初めての公演をし、10歳のときにスペイン女王イサベル2世の前で演奏を披露した。その後パリ音楽院で学び、13歳のときヴァイオリン科の一等賞を得た。サン=サーンスはサラサーテに「序奏とロンド・カプリチオーソ」、「ヴァイオリン協奏曲第3番」などを献呈している。サラサーテはまた、ラロの「スペイン交響曲」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」、「スコットランド幻想曲」の初演者、被献呈者でもある。サラサーテの華麗な名人芸は、チャイコフスキーやブラームスなどにも影響を与えた。
■フリオ・メデム
(Julio Medem, 1958年10月21日 - )はスペインのサン・セバスティアン出身の映画監督・脚本家である。バスク大学で医学を学ぶ傍ら、映画評を書くなどしていた。卒業後に本格的に映画の世界へ。1992年に初めての長編映画を製作した。運命的な恋愛を主題とした映画を得意としていたが、近作のドキュメンタリー映画『バスク・ボール』(La Pelota vasca)では生まれ故郷であるバスク地方の独立・テロ問題などを扱い、様々な立場の人々からの大きな議論を呼ぶこととなった。
■ディエゴ・ベラスケス
(Diego Rodriguez de Silva y Velazquez, 1599年6月6日(洗礼日) - 1660年8月6日)はバロック期のスペインの画家。マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠である。生涯隠していたが、コンベルソの家系。(ポルトガルから来た父方の祖父がコンベルソ) スペイン南部の都市セビリアに生まれ、11歳頃に当地の有力な画家で義父でもあるフランシスコ・パチェーコに弟子入りした。
■クリストバル・デ・モラーレス
(Cristobal de Morales, 1500年頃 セビリャ - 1553年10月7日 マルチェーナ Marchena)はルネサンスの作曲家。ビクトリア以前のスペインの作曲家では、最も影響力があった。早期教育の段階から古典を含む厳格な学問を叩き込まれるかたわら、当時の第一線の作曲家に薫陶をほどこされた。その後はアビラやプラセンシアに職を得た。スペインで得られた地位は、経済上ないしは政治上の困難により、相次ぐ挫折に見舞われた。この頃までにヨーロッパで最も偉大な作曲家として著名になっていたにもかかわらず、職探しをして境遇を得るのに難儀するようになっていたことから、どうやら使用人としては不人気だったようである。
■フランシスコ・デ・ケベード
Francisco Gomez de Quevedo y Santibanez Villegas, 1580年9月14日 - 1645年9月8日は、スペイン文化の黄金時代を代表する作家、詩人。スペイン文学史上最大の存在感を持つ人物の一人である。スペイン・バロック文芸の有力な潮流の一つであるコンセプティスモ(直接的な表現、切れの良いリズムを高く評価する運動)の雄として知られ、その正反対の潮流であるカルテラニスモの文人たちとは厳しく対立した。
■フランシスコ・フランコ
(Francisco Franco y Bahamonde, 1892年12月4日 - 1975年11月20日)は、スペインの軍人、政治家、独裁者(総統)。ガリシア出身。フランコは、スペイン北西部ガリシア地方の造船と海軍基地の町フェロルの軍人の子として生まれた。1907年8月15歳の時トレドの陸軍士官学校に入学し、卒業は18歳で少尉となった。母を人生の師としていた。20歳の時、頑強な独立運動が展開されていたスペインの植民地モロッコに派遣され、この地で以後5年間、ベルベル人の独立を求める反乱(第三次リーフ戦争を参照)の鎮圧に当たった。
■フアン・ゴイティソーロ
Juan Goytisolo,1931年1月6日 - はスペインの小説家。1956年にフランス・パリへ亡命している。代表作として『天国の悲しみ』、『禁猟区』、『サラエヴォ・ノート』などがある。また、2004年のフランス映画『アワーミュージック』に本人役として出演している。幼くしてバスク人の父を、そして7歳の時にイタリアによるバルセロナ市内爆撃でカタルーニャ人の母親を亡くす。この空爆による母の死はゴイティソーロにとって大きな傷を残すと共に、のちの執筆活動及び政治活動の原点となった。1993年に「複数の文化間の対話、自由と寛容のための戦い、キリスト教世界とイスラム世界の調停者としての役割」を果たしていることを理由にネリー・ザックス賞を贈られた。
■ルイス・ブニュエル
Luis Bunuel, 1900年2月22日 - 1983年7月29日は、スペイン出身、のちにメキシコに帰化した映画監督、脚本家、俳優である。フランス、スペイン、アメリカ合衆国、メキシコ、国境を越えて多種多様な映画を撮った。特にシュールリアリズム作品とエロティシズムを描いた耽美的作品で有名である。キリスト教に関する作品もあり、物議を醸した。
■カルロス・サウラ
(Carlos Saura, 1932年1月4日- )はスペインの映画監督・脚本家である。本名は Carlos Saura Atarés、アラゴン州ウエスカに生まれた。母親はピアニスト、兄弟に画家がおり、若い頃から写真・映画に興味を持つ。マドリッドで映画制作とジャーナリズムを学んだ。カンヌ国際映画祭で3度、ベルリン国際映画祭でも3度、賞を受けている。
■ペドロ・アルモドバル
Pedro Almodovar, 1951年9月24日 - はスペインの映画監督・脚本家・映画プロデューサーである。独裁者のフランコ政権の抑圧下に育つも、民主化への移行のもとで起こった反権威的な音楽・絵画・映像などの芸術活動に加わる。息子を失った母親を描いた『オール・アバウト・マイ・マザー』でアカデミー外国語映画賞を受賞、そして『トーク・トゥ・ハー』でアカデミー脚本賞を受賞するなど、スペインを代表する映画監督の一人となった。
■パウ・ガソル
Pau Gasol Saez, 1980年7月6日 - は、スペインのプロバスケットボール選手である。NBAのロサンゼルス・レイカーズ所属。カタルーニャ州バルセロナ県のサン・ボイ・デ・リョブレガート出身。身長213cm、体重117kg。ポジションはパワーフォワード、センター。2001年のNBAドラフトでアトランタ・ホークスから全体3位指名を受けた後、シャリーフ・アブドゥル・ラヒームとのトレードでメンフィス・グリズリーズ入りを果たした。
■イケル・カシージャス
(Iker Casillas Fernandez、1981年5月20日 - )は、スペイン、モストレス出身のサッカー選手。リーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリード所属。ポジションはGK。優れた反射神経を生かしたセービングで1対1の場面に強く、世界最高のGKの一人とされている。また、UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02決勝やUEFA欧州選手権2008準決勝のイタリア代表戦、2010 FIFAワールドカップ決勝のオランダ代表戦などに代表されるように大舞台に強い。
■フェルナンド・トーレス
(Fernando Jose Torres Sanz, 1984年3月20日 - )は、スペイン・フエンラブラダ出身のサッカー選手。イングランド・プレミアリーグのチェルシーFC所属。スペイン代表。ポジションはフォワード。リヴァプールFCに所属していた2007-08シーズンにリーグ戦1シーズン24得点をあげるなどプレミアリーグを代表する選手とみなされている。
■ミゲル・インドゥライン
(Miguel Angel Indurain Larraya、1964年7月16日 - )は、スペインの自転車プロロードレース選手。ナバラ自治州出身(民族的にはバスク人)。1991年から1995年にかけてツール・ド・フランス個人総合5連覇を達成したほか、1992年・1993年のジロ・デ・イタリア個人総合優勝、1995年の世界選手権など、数多くのタイトルを獲得した。
■ハビエル・バルデム
(Javier Angel Encinas Bardem, 1969年3月1日 - )は、スペインの俳優。カナリア諸島ラスパルマスにて、祖父母の代から俳優の芸能一家に生まれる。叔父は監督のフアン・アントニオ・バルデム。6歳でデビューし、テレビなどに出演するようになるが、一方でラグビーのスペイン代表チームに選抜されるなど、スポーツ選手としても活躍。しかし芸術に興味を持ち、マドリッドで4年間絵画を学ぶが、才能がないと感じて画家への道を諦める。
■ペペ・ロメロ
(Pepe Romero, 1944年3月8日 - )は国際的に著名なクラシック・ギター奏者。スペインのマラガ出身。ギターの傑出したヴィルトゥオーソとして著名。フラメンコギターの演奏も得意とする。作曲家でロメロ・ギター四重奏団の創設者セレドニオ・ロメロの次男である。
■アンドレス・イニエスタ
(Andres Iniesta Lujan, 1984年5月11日 - )は、スペイン・アルバセーテ県フエンテアルビージャ出身のサッカー選手。8歳のときに地元アルバセテ・バロンピエの下部組織に入団した。12歳の時に出場した全国大会ではほれぼれするほどのドリブル能力と年齢を疑いたくなるような視野の広さを見せつけ、様々なクラブから注目を集めた。
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