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セルビア
Republic of Serbia
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<歴史>
■1918年
サン=ジェルマン条約により、旧オーストリア=ハンガリー帝国領の南スラヴ人地域はスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国として分離した。
■1919年
パリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど民族問題に取り組む姿勢をとった。ところが、建国当初から民族間の不和が続き、政治は行き詰まっていた。状況の打開を試み、1929年にセルビア王アレクサンダル1世がクーデターを起こしユーゴスラビア王国とした。
■第二次世界大戦
第二次世界大戦ではナチス・ドイツに侵攻され、王国政府はロンドンに逃れて亡命政権を樹立した。ドイツ軍は傀儡政権であるセルビア救国政府を成立させる一方で、軍政を敷いてセルビアでの事実上の支配権を握った。チェトニックはドイツ軍への抵抗をしない代わりに、クロアチア独立国でセルビア人がジェノサイドの対象となっていることへの報復としてクロアチア人やボシュニャク人に対する大量虐殺を始めた。これに対して、パルチザンは多民族混成の抵抗運動であり、市民への虐殺をせず、ドイツ軍に対して粘り強く抵抗した。
■社会主義時代
ユーゴスラビアを自力で解放することに成功したチトーは、王の帰国とロンドンの亡命政権を否定し、独自にユーゴスラビアの再建を始めた。
■1953年
チトーがユーゴスラビアの大統領となり、ソ連と一線を画した社会主義政策を展開した(自主管理社会主義)。
■1980年
チトーが死ぬと、セルビア領であるコソボ社会主義自治州がセルビアからの分離を求め、セルビア人との対立が深刻化するなどの民族対立や、地域の経済格差が顕在化した。
■1991年
クロアチア、スロベニア、マケドニア共和国がユーゴスラビアから独立、1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立した。
ユーゴスラビア連邦共和国時代
ユーゴスラビア連邦に残っていたセルビア共和国とモンテネグロ共和国の2つの共和国は、公式に社会主義体制を放棄した新しい連邦「ユーゴスラビア連邦共和国」を形成した。
■1996年
コソボのアルバニア人の民族主義勢力コソボ解放軍を中心に、コソボの独立を求めての武力闘争を始めた。これによってコソボ紛争が引き起こされ、1999年の北大西洋条約機構による爆撃に至った。
2003年にはユーゴスラビア連邦は、より緩やかな国家連合であるセルビア・モンテネグロに移行した。
■独立以降
2006年5月21日にモンテネグロは独立についての住民投票を実施し、賛成55.5%でモンテネグロ共和国の独立が決定した。これによって、モンテネグロは2006年6月3日(現地時間)に独立を宣言し、1918年のセルビアとの併合以来、88年ぶりに独立を回復することとなった。
■セルビア・モンテネグロ
東ヨーロッパに存在した国家。2003年に「ユーゴスラビア連邦共和国」から改称した。セルビア人の人口が多いセルビア共和国と、モンテネグロ共和国、およびセルビア共和国内のヴォイヴォディナ自治州とコソボ・メトヒヤ自治州で構成されていた。2006年5月21日にモンテネグロで行われた国民投票では独立賛成が55.5%を占め、独立を可決するに必要とされた55%を超えた。これを受けて2006年6月3日(現地時間)にモンテネグロ議会が独立を宣言した。
■スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国
第一次世界大戦終戦時のオーストリア=ハンガリー帝国解体後、旧オーストリア=ハンガリー帝国の南端部に、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人によって樹立された短命な国家である。
■ユーゴスラビア王国
バルカン半島西部から中央ヨーロッパにかけての地域を国土とし、1918年から1943年までの戦間期に存続した立憲君主制の国家。事実上は国王が亡命した1941年に、公式にはユーゴスラビア連邦人民共和国成立前の1945年に滅亡した。
■セルビア救国政府
Vlada Nacionalnog Spasa)は、第二次世界大戦時、ユーゴスラビア王国にナチス・ドイツが侵攻したユーゴスラビア侵攻の後、ナチス・ドイツによって1941年に設置された、ナチス・ドイツの傀儡政権である。
■クロアチア独立国
現在のクロアチアなどに存在した国家のひとつ。ナチス・ドイツの傀儡国家である。独立国家クロアチアと訳されることもある。
■ユーゴスラビア連邦共和国
Federativna Republika Jugoslavija; FRJ)は、1992年から2003年まで存続したバルカン半島中部の連邦国家である。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)が崩壊して4つの共和国が独立した後、同国に留まっていたセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって結成された。
■クロアチア紛争
1991年から1995年にかけてクロアチアのユーゴスラビアからの分離独立およびクロアチア人とセルビア人の民族対立をめぐる紛争である。
■ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦。1991年に勃発したユーゴスラビア紛争にともなうユーゴ解体の動きの中で、1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言。当時、同国には約430万人が住んでいたが、そのうち44%がボシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と異なる民族が混在していた。
■パルチザン
ユーゴスラビアのパルティザンは、正式名称をユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊(スロベニア語:Narodnoosvobodilna vojska in partizanski odredi Jugoslavije、といい、第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力である。パルティザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者とする。
■地理
欧州南東部のバルカン半島に位置する内陸国である。西側でモンテネグロ・ボスニア・ヘルツェゴビナ、南西部でコソボに接し、コソボを通じてアルバニアと接している。南部国境でマケドニア共和国、南東部でブルガリア、東部でルーマニア、北部でハンガリー、北西部でクロアチアと接している。
■バルカン半島
Balcaniaは、ヨーロッパの東南部で、トルコのヨーロッパ部分、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、そして1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分(マケドニア共和国、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)からなる地域と考えられている。
■パンノニア平原
中央・南東ヨーロッパに広がる広大な平原。鮮新世に存在したパンノニア海が干上がったものである。ドナウ川によって二分されている。
■ドナウ川
ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である
■サヴァ川
東ヨーロッパを流れる川である。ローマ時代にはSavusと呼ばれていた。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアの各国を流れ、セルビアの首都ベオグラードでドナウ川に合流する。この川がバルカン半島の北端の付け根とされることが多い。
■ドリナ川
セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナを流れる川である。ディナル・アルプス山脈の大きなカルスト河川で、ドナウ川水系に属する。ドリナ川は航行可能な河川ではないが、タラ川とともにバルカン諸国の中でカヤックやラフティングの地として人々をひき付けている。
■プレシェヴォ渓谷
セルビアの本土(中央セルビア)の最南端の一角を占める地域であり、プレシェヴォとメドヴェジャの2つの自治体がその中心を占める。両自治体ともコソボに接している。渓谷はバルカン半島を南北に貫く主要な経路であり、その北にはゴリスカ・モラヴィツァ川、南モラヴァ川、大モラヴァ川(Velika Morava)を経てドナウ川へと続いており、南へはヴァルダル川がマケドニア共和国、ギリシャ領マケドニアを貫いてエーゲ海へと至っている。
■セルビア人
主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。7世紀ごろバルカン半島中西部に定住し東ローマ帝国の影響下で正教会を受容した。12世紀後半にセルビア王国を打ち建ててセルビア人は東ローマ帝国から自立し、新たにセルビア正教会を樹立して宗教上も独立を勝ち取った。
■ボシュニャク人
15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。
■マジャル人
ハンガリー語: Magyarokとは、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族。マジャル人の総人口は約1450万人で、そのうちハンガリーには約950万人(2001年)のマジャル人が居住している。多くのマジャル人がハンガリー周辺諸国の少数民族として生活しており、その内訳はルーマニアの144万人をはじめとして、スロバキアの52万人、セルビアの29万人、ウクライナおよびロシアの17万人、オーストリアの4万人、クロアチアの1万6000人、チェコの1万5000人、そしてスロベニアの1万人となっている。
■ブルガリア人
ブルガリアを中心に居住する南スラヴ人の一派である。主として、ブルガリア語を使用する。今日、大部分のブルガリア人はブルガリアに住むが、一部は様々な国に移住している。現代ブルガリア人は、7世紀にバルカン半島に定住した、中央アジアの遊牧民ブルガール人とスラヴ人の子孫である。
■南スラヴ人
スラヴ人の中で主にバルカン半島周辺にいる旧ユーゴスラビアのボシュニャク人、セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、ブルガリア人などのことを指す。
■スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性を何よりのアイデンティティとしている。
■クロアチア人
主としてバルカン半島北西部のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに在住する南スラブ人。クロアチア語話者であり、主にカトリックを信仰する。クロアチア人は7世紀ごろセルビア人やスロベニア人とともにバルカン半島北西部に下った。東ローマ帝国の支配を経験したのち、9世紀半ばに独立国を形成する。
■アルバニア人
主にアルバニア共和国とコソボを中心としたバルカン半島に住む民族。アルバニアの住民の95%、コソボの住民の92%を占め、その他にもマケドニア共和国では人口の25%を占めマケドニア国内最大の少数民族である。モンテネグロやセルビア、ギリシャなど、それ以外のバルカン半島諸国に少数が住む。
■アルーマニア人
バルカン半島南部一帯に住む民族。主に北部ギリシャ、アルバニア、マケドニア、セルビア、ブルガリアなどに200万人ほどが居住しているとみられる。中世東ローマ帝国時代には「ヴラフ人」(Vlachs)と称していた。英語では、Vallachians,Wallachians, Wlachs などの表記も見られる。
■ロマ
roma,は、ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプは18世紀後半に作られたものであり、ロマでない集団との関係は不明である。
■セルビア王国
現在のセルビアを中心とした中世の王国。セルビア人は長くジューバと呼ばれる部族共同体に分立していたが、12世紀後半に東ローマ帝国の衰退に乗じてステファン・ネマニャが1168年に諸部族を統一してセルビア侯となる。その後、拡大した勢力を背景として1171年には国王として即位し、ネマニッチ朝を開いた。
■ドゥシャン法典
14世紀にセルビア王ウロシュ4世(ステファン・ドゥシャン)が制定した法典。1349年に招集された会議(サボル)において発布された(1353年または54年に増補版が発布された)。教会の地位、貴族や隷属民の権利と義務、刑法などを含む全201条によって構成されており、セルビアの慣習法と、ビザンツ帝国の成文法であるローマ法を融合させたものであった。
■コソボの戦い
1389年にコソボで勃発した、セルビア王国とオスマン帝国による会戦である。1389年6月15日[1]、コソボ平原で、セルビア侯ラザル、ボスニア王スチェパン・トヴルトコ1世、ワラキア大公ミルチャ1世などからなるバルカン半島の諸侯軍が、アジアからの勢力を伸ばしつつあったムラト1世率いるオスマン帝国軍と会戦した。戦いはオスマン帝国軍の大勝に終わった。
■チェトニック
第二次世界大戦下のユーゴスラビアにおける、セルビア将兵によって組織された、ナチス・ドイツへの抵抗組織。名称はチェトニクとも表記されるが、以下「チェトニック」で統一する。1941年4月6日、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツは国防軍の大部隊でユーゴスラビアを攻撃し、瞬く間に占領した。ユーゴスラビア正規軍は10日程度で壊滅したものの、民衆による抵抗がこれに代わった。当初、ユーゴスラビアに抵抗組織は2つ存在し、1つがヨシップ・ブロズ・チトー率いるユーゴスラビア共産党を中心とする「人民解放パルチザン部隊総司令部」(通称パルチザン部隊)、もう一つが本項で詳述するユーゴスラビア王国軍で降服を拒否したセルビアの将兵達が結成した「チェトニック」である。
■ベオグラード (小惑星)
ベオグラード (1517 Beograd) は、小惑星帯に位置する小惑星である。現在のセルビアのベオグラードでミロラド・プロティッチによって発見された。プロティッチが観測していた場所で、現在のセルビアの首都ベオグラードに因んで命名された。
■セルビア科学芸術アカデミー
セルビア科学芸術アカデミーは公的に1886年11月1日に設立されて以来、セルビアで最高の学術機関である。王立アカデミー設置法によれば、ミラン1世は最初の会員とされ、彼によって他のアカデミーの会員を選出するものとされた。最初の会員たちの名はミラン1世によって1887年4月5日に発表された。
■人種的差別撤廃提案
Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国が人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。イギリス帝国の自治領であったオーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。
<世界遺産>
■スタリ・ラスとソポチャニ■ストゥデニツァ修道院■コソボの中世建造物群 ■デチャニ修道院■ペーチ総主教修道院■リェヴィシャの生神女教会■グラチャニツァ修道院■ガムジグラードとガレリウスの宮殿ロムリアーナ
■セルビアの音楽
記録されたセルビア人の音楽の歴史は中世にさかのぼる。セルビアでは当時、教会音楽は指揮者のもとで合唱、もしくは独唱で歌われていた。この当時の音楽はイエス・キリストに捧げられた音楽を集めたオスモグラスニク(Osmoglasnik)より知ることができる。
■ミロラド・パヴィチ
ユーゴスラビア・ベオグラード(現セルビア領)出身のセルビアの小説家。類のない仕掛けに富んだ幻想的な小説を発表した。また、詩人、散文作家、翻訳者、文学史研究家でもある。パヴィチの小説は、通常の小説のように初めから終わりまで通して読むようには書かれておらず、一冊一冊に様々な仕掛けが施されている。また、読者は著者パヴィチが勧めない読み方をすることもできる(なお、必ずしもパヴィチが読み方を勧めているとは限らない)。この仕組みのために、比類のない精緻な小説・作文技術が多用されている。
■ツェツァ
本名スヴェトラーナ・ラジュナトヴィッチ1973年6月14日 - は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国・セルビア社会主義共和国(現在のセルビア共和国)のジトラジャ(Zitorada)で生まれた歌手であり、バルカン半島一円で人気を得ている。ツェツァはバルカン半島のミュージシャンのなかではもっともギャラが高い一人として知られている。ツェツァは同地の民俗音楽や、それを土台にしたバルカン半島の流行音楽のジャンルであるターボ・フォーク(ポップ・フォーク)の歌手として活動を始め、やがてよりモダンな民俗的ダンスミュージックへと発展していった。ツェツァは9歳のときに、彼女の出身地であるセルビア共和国のジトラジャで歌を始めた。彼女は獣医高校を卒業している。
■マリヤ・シェリフォヴィッチ
1984年11月14日 - は、セルビアの歌手で、ユーロビジョン・ソング・コンテスト2007にセルビア代表として参加し、優勝を収めた人物。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、セルビア社会主義共和国クラグイェヴァツ(現:セルビア共和国)出身で、歌手のヴェリツァ・シェリフォヴィッチの娘。マリヤ・シェリフォヴィッチのデビュー・アルバムは2003年に発売され、好評を受けた。このアルバムからの最大のヒットはダルコ・ディミトロフ作曲の「Znaj da znam」であった。
■ドラガン・ストイコビッチ
1965年3月3日 - は、ユーゴスラビア(現・セルビア共和国)ニシュ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。愛称のPixyまたはPiksiは少年時代に見ていたアニメ「ピクシー&ディクシー」(Pixie and Dixie and Mr. Jinks)の主人公のネズミの名前に由来している。1965年3月3日、セルビア共和国第2の都市ニシュ近郊に生まれ、3歳の頃からストリートサッカーに興じていたという。14歳の時にラドニツキ・ニシュの下部組織に入団し、16歳でトップチームに昇格した。
■ドゥシャン・マカヴェイエフ
Dusan Makavejev, 1932年10月23日 - はユーゴスラビアのベオグラードに生まれた映画監督、脚本家。前衛的な作風が特徴で、イデオロギー的であったり、性的タブーに挑戦するかのような作品が多いのと同時に、映像の美しさの評価も高い。
■イーヴォ・ポゴレリチ
1958年10月20日 - は、ユーゴスラビアの首都ベオグラード生まれのピアニスト。1980年、22歳のとき当時43歳の師の女流奏者アリザ・ケゼラーゼと結婚したり、弱音指定の箇所を強打するなど型破りなことでも知られる。
■ステファン・ウロシュ2世ミルティン
1253年 - 1321年10月29日は、セルビア王国の王(在位1282年 - 1321年)。バルカン半島南部に領土を拡大し、「セルビアとフム、ディオクレア、アルバニアの地、及び沿岸地方の王」を称した。ステファン・ウロシュ1世の末子として生まれ、アンジュー家出身のアンナを母に持つ。兄ステファン・ドラグティンが退位したことで急遽王位に就き、即位時点で29歳を超えていた。
■アレクサンダル1世
1888年12月16日 - 1934年10月9日は、カラジョルジェヴィッチ家のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国王(在位:1921年 - 1929年)、のちユーゴスラビア王(在位:1929年 - 1934年)。アレクサンダル1世は、モンテネグロの首都ツェティニェにペータル1世の次男として生まれ、1909年に兄ジョルジェが廃嫡されたため、新たな王太子となった。1921年、アレクサンダルはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の王位を継承し、セルビア人の専制体制を築いてクロアチア人の激しい反発を招いた。
■ヨシップ・ブロズ・チトー
1892年5月7日 - 1980年5月4日は、第二次世界大戦からその死まで、最もユーゴスラビアに影響を与えた政治家であり、大統領、ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者である。「ティトー元帥」という呼び名でも知られている。少年時代を、ポドスレダにいる母方の曽祖父の所で過ごしたのち、クムロヴェツの小学校に入学し、1905年に卒業している。1907年、のどかな田舎から一転して、シサクの錠前屋の見習として働き出した。そこでチトーは労働運動に関心をもつようになり、初めてメーデー(5月1日、労働者の日)を祝った。1910年、冶金工の組合に加入すると同時に、クロアチアとスラヴォニアの社会民主党にも加わっている。
■スロボダン・ミロシェヴィッチ
1941年8月20日 - 2006年3月11日は、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア大統領(第3代)、セルビア共和国共産主義者同盟幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。欧米からは独裁者と見られている。ベオグラードの東約70キロの町ポジャレヴァツで生まれる。少年時代は学校の共産主義科目を得意としており、「小レーニン」と呼ばれた。ベオグラード大学法学部卒業後、ベオグラード情報局、ガス産業、ベオグラード銀行等、実業界で活躍した。
■ボリス・タディッチ
1958年1月15日 - は、セルビア共和国の政治家、心理学者。セルビア・モンテネグロ時代より同国大統領を8年にわたって務めた。民主党に所属している。2004年7月のセルビア大統領選挙で勝利、2008年2月に再選された。ボリス・タディッチは哲学者のユボミル・テディッチと心理学者のネヴェンカ・タディッチ夫妻の間に生まれた。小学校から高校までベオグラードで過ごし、ベオグラード大学で社会心理学臨床心理科を卒業した。卒業後はジャーナリスト、臨床心理学者として働き、第1ベオグラード・ギムナジウムで心理学を教え、心理学研究所で研究を行った。
■ドラジャ・ミハイロヴィッチ
1893年4月27日 - 1946年7月17日は、ユーゴスラビア王国の軍人。武装抵抗組織「チェトニック」の指導者。セルビア人。ユーゴスラビア王国の将校だったが、1941年にナチス・ドイツが侵攻すると山中に逃れ他の生き残りとともにチェトニックを結成し指導者になる。王党主義者で反共主義者だったためチトーのパルチザン部隊と枢軸国に支えられたウスタシャと戦った。1945年5月8日にチェトニックは崩壊。逃亡するが、翌年に逮捕され、連合国から助命を嘆願されたがチトーは応じずベオグラードで処刑された。
■ヴォイスラヴ・シェシェリ
1954年10月11日 - 、ユーゴスラビア連邦人民共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国サラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身)は、セルビアの政治家であり、国民議会におけるセルビア急進党の創設者、党首。ユーゴスラビア紛争に加担した民兵組織「白い鷹」の創設者。父はモンテネグロ出身で、母はヘルツェゴビナの古いセルビア人の家系の出身であった。シェシェリはサラエヴォ大学で法学を学んで卒業し、後には博士号も取得した。成績優秀であり、ユーゴスラビアで最も若いPh.D.となった。
■トミスラヴ・ニコリッチ
1952年2月15日 - は、セルビアの政治家であり、セルビア進歩党を設立しその党首となった。かつてセルビア急進党に属し、2003年2月23日よりその副党首となり、党首のヴォイスラヴ・シェシェリに代わって実質的に党を指導する立場にあったが、シェシェリとの方針の違いから2008年9月6日に急進党を離れてセルビア進歩党を設立した。
■ヴォイスラヴ・コシュトニツァ
1944年3月24日 - は、セルビアの政治家。ユーゴスラビア連邦共和国最後の大統領。セルビア共和国首相(セルビア・モンテネグロ時代の2004年から分離独立後の2008年まで)を歴任。現在、セルビア民主党党首。博士号を持つ憲法学者。ユーゴスラビアの首都(現セルビアの首都)ベオグラードに生まれ、ベオグラード大学法学部を卒業。1970年に同大学で講師の職を得るがチトー体制に反する言論から政治的粛清にあい、1974年に大学を追われた。
■サシャ・イリッチ
1977年12月30日 - はセルビア出身の同国代表サッカー選手。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー。セルビアのアマチュアクラブでキャリアをスタート、1998年にセルビア・スーペルリーガ(セルビア1部リーグ)の名門パルチザン・ベオグラードに移籍。7シーズン所属し、同国リーグでの優勝を経験する。
■ステファン・ネマニャ
1113年 - 1200年)は、セルビア王国ネマニッチ朝の創始者。在位1171年 - 1196年。1168年、兄を殺してセルビア侯として即位する。その後セルビアの諸部族を統一、宗主であった東ローマ帝国との長い戦いに勝利し、1171年には独立の君主、セルビア王ステファン1世として即位しネマニッチ朝を開いた。
■エミナ・ヤホヴィッチ
1982年1月15日 - は、セルビアの歌手である。民族的にはボシュニャク人である。1982年1月15日、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国・セルビア社会主義共和国の南部サンジャク地方の主要都市・ノヴィ・パザルに生まれる。音楽の初等教育を受け、地元の合唱団や民謡グループで歌っていた。高校時代は演劇をしていた。こうした来歴の中で歌唱に自身を見出すようになった。
■アデム・リャイッチ
Adem Ljajic、1991年9月29日 - )は、ユーゴスラビア(現・セルビア)出身のサッカー選手。セリエA・ACFフィオレンティーナ所属。ポジションはMF。パルチザン在籍時には公式ホームページに「パルチザンのカカ」と紹介され、偉大なヴィジョン、スピード、ドリブル、サッカーに対する少年のような喜び、を持っているとされた。
■コストラーニ・デジェー
(Kosztolanyi Dezso 1885年-1936年) は、 ハンガリーの著名な 詩人、 小説家、 ジャーナリスト。1885年、 オーストリア・ハンガリー帝国の一部であり、現在は セルビア北部に位置する スボティツァ(Szabadka、Subotica)に生まれた。この街は、彼の小説「Skylar」や「Golden Kite」の舞台となる架空の街"Sarszeg"のモデルとなっている。
■ライコー・フェーリクス
Feliks Lajko、1974年12月17日 - )は、ユーゴスラビア連邦出身のヴァイオリニスト、作曲家である。その音楽は、いわゆる「ワールドミュージック」と呼ばれるものである。ジャンルわけすることは難しいが、ライコーの音楽はパンノニア平原の伝統的な弦楽器の音楽の影響を土台としている。
■シルヴェスター・リーヴァイ
(Sylvester Levay1945年5月16日-)は、ハンガリーの作曲家である。セルビアのスボティツァ生まれ。作家であるハンガリー人の父と音楽教師であるハンガリー人の母の間に生まれる。8歳の時からミュージカル曲の習作を始める。15歳の時、最初に作った楽曲がコンテストで優勝。
■ルージャ・マグドルナ
Ruzsa Magdolna、はルージャ・マグディ(ハンガリー語:Rúzsa Magdi)は、セルビア出身で民族的にはハンガリー人の歌手である。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、セルビア社会主義共和国のヴォイヴォディナ社会主義自治州・マリ・イジョシュ出身で、ハンガリーのブダペストで歌手としての活動を始めた。2006年にハンガリーの音楽タレント・コンテスト番組メガスターを勝ち抜いてデビューを果たした。
■チボル・セケリ
Tibor Sekelj ティボル・セケリ、1912年2月14日 − 1988年9月20日)は、ユダヤ人の探検家、エスペランティスト、著作家、弁護士である。チボルの探検した地域は、アジア、アフリカ、南米全域に及ぶ。ハンガリー語とクロアチア語のほか、ドイツ語、スペイン語、英語、フランス語、エスペラントを話した。
■セカ・アレクシッチ
Svetlana Aleksic)は、1981年4月23日生まれ、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国ズヴォルニク(、現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国・スルプスカ共和国)出身のターボ・フォーク歌手。民族的にはセルビア人であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ国籍のみを保持している。
■ステヴァン・フリスティッチ
(Stevan Hristic、1885年6月19日 - 1958年8月21日)は、セルビアの作曲家。ベオグラード出身。第一次世界大戦前にライプツィヒ、モスクワ、パリ、ローマで学んだ。ヨーロッパ音楽とセルビアの伝統音楽の両方に通暁しており、作品はメロディーと和声の両面で民俗音楽と後期ロマン派音楽と印象主義音楽を融合させたものであった。
■ジェリコ・ヨクシモヴィッチ
Zeljko Joksimovic、1972年4月20日 - )は、セルビアでもっとも人気のある歌手の一人であり、同国以外にもオーストリア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、イスラエル、マケドニア共和国、ルーマニア、スロベニア、スウェーデン、スイス、トルコ、モンテネグロなどの国々でも知られている。
■ドラガナ・ミルコヴィッチ
Dragana Mirkovic、1968年1月18日 - )は、セルビアのターボ・フォーク歌手である。夫のトニ・ビイェリッチとの間に息子と娘がおり、オーストリアのウィーンに暮らしている。夫妻はポジャレヴァツに拠点を置くDM SAT(DM SAT)という独自のバルカン音楽のチャンネルを持っており、ケーブル配信や衛星配信を通じてバルカン各地で視聴できる。
■ランボー・アマデウス
Rambo Amadeus 1963年6月14日 - )は、モンテネグロ・コトル出身で、旧ユーゴスラビア諸国全域で人気のある歌手である。アマデウスの作品には、自ら「皮肉的なウィット」と評する一般的な人々や政治に対する風刺が多く含まれており、ジャズやロック、のちにドラムンベースなどの要素を取り入れたものとなっている。 |
セルビア Serbia
南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。首都ベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで、一貫して連邦の首都であった。
■ベオグラード
セルビア共和国の首都であり、最大都市である。ベオグラードはバルカン半島、パンノニア平原の中にあり、ドナウ川とサヴァ川の合流地点に広がっている。2007年の公式の推計による人口は1,756,534人であった。かつてはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都であり、旧ユーゴスラビア地域で最大の都市である。ヨーロッパでも最古の都市の一つであり、考古学的な調査では、同地における人の居住は紀元前6千年紀にまでさかのぼる。
■スカダルリヤ
Skadarlijaは、セルビア共和国の首都であるベオグラードの中心部に位置する通りであり、その周辺一体の繁華街を指し示す地区名ともなっている。ベオグラードのスタリ・グラード区に含まれ、かつては独立した行政区(スカダルリヤ区)であった。ボヘミアニズムの要素が色濃く残る街であり、「ベオグラードのモンマルトル」とも称される。こんにちのスカダルリヤは、ベオグラードの観光名所のひとつとなっている。その歴史の中でよく知られるようになったレストランやホテル、画廊、古美術店、みやげもの店、そしてセビリ(Sebilj)と呼ばれる水飲み場がある。セルビア式のブラスバンドやベオグラードの伝統的なアーバン・ミュージック、伝統衣装に身を包んだ俳優らによる演技が路上で繰り広げられている。
■ベオグラード・ニコラ・テスラ空港
Belgrade Nikola Tesla Airportは、セルビアの首都、ベオグラードにある国際空港。市街地から西へ12kmの場所にある。セルビアのフラッグ・キャリアであるJat航空の本拠地ハブ空港でもある。 空港名は、セルビア人電気技師のニコラ・テスラを冠している。
外務省:セルビア共和国
在セルビア日本国大使館
■スタリ・グラード
セルビア共和国の首都・ベオグラードを構成する17の基礎自治体(オプシュティナ)のひとつであり、またその中心を占める地区の呼称である。自治体の領域は、ベオグラード中心部でもっとも古い地区を含んでおり、それゆえに「古い街」を意味する「スタリ・グラード」と呼ばれている。
■ベオグラード大学
ベオグラード大学(セルビア語: Univerzitet u Beogradu), セルビアのベオグラードにある大学, 1808年に創立されたセルビア共和国で最も歴史のある大学で、 30学部および8つの研究所を擁し教員数約3千人,学生数約 10万人。1808年創立のベオグラード大学はセルビア共和国最大の総合大学であり,古い歴史と高い研究水準を誇っている。
■ベオグラード・アリーナ
セルビアのベオグラードにあるセルビア最大の屋内競技場。全体面積は48,000平方メートル。収容人数は23,000席。ハンドボールやバスケットボール、バレーボール、コンサートなどにも対応できる。2004年に7000万ユーロの建設費をかけて完成し、2008年のユーロビジョン・ソング・コンテストの会場になった。
■ベオグラード港
Port of Belgradeは、セルビア共和国の首都ベオグラードにあるドナウ川の河川港である。おもな施設は、ベオグラード市中心部スタリ・グラード区付近に設けられている。
■サンジャク
セルビアとモンテネグロの国境にまたがって広がる地域の名称。イスラム教徒、ボシュニャク人が多い地域として知られる。知られている地域で最古の居住者はトラキア人であった。紀元1世紀、この地域はローマ帝国に征服され、6世紀から7世紀にかけてスラヴ人、セルビア人の部族が住むようになった。
■ノヴィ・ベオグラード
セルビアの首都・ベオグラード市を構成する17の自治体(オプシュティナ)のひとつであり、その中で最大の人口を持つ。旧来のベオグラード市街地とはサヴァ川を挟んで向かい側に位置しており、1947年まで無人であったサヴァ川左岸の土地を開発して作られた計画都市である。
■ゼムン
セルビアの歴史的な街であり、また現在は同国の首都・ベオグラードを構成する17の区(オプシュティナ)の1つとなっている。歴史上、ゼムンはベオグラードとは別の街として発展してきたが、20世紀後半にノヴィ・ベオグラードの開発によって両者は結ばれて1つの都市となった。ベオグラード大学の農学部を始め、多数の高等教育機関(内政、機械・工学、薬学など)や研究機関(農林学、鉱業、トウモロコシ、畜産、核エネルギー応用、物理学など)の施設がゼムンにある。また、郷土博物館やマドレニアヌム(Madlenianum)オペラ劇場がある。
■ボル
セルビア東部の町及び基礎自治体で、1903年からフランス企業が操業を開始したヨーロッパでも最大規模の銅鉱山があり、ボル郡の行政的な中心都市である。人口は市街地で33,328人、基礎自治体全体では48,155人である。1903年、ボルに銅鉱山が操業を開始したがこれは町の開発にとっては重要な出来事であった。ハンガリーの詩人ラドノーティ・ミクローシュはボルの銅鉱山で強制労働に就かされた1944年に美しい詩を作っている。
■ポジャレヴァツ
セルビアの都市。首都ベオグラードから約70キロ離れている。人口は約4万2千人(2002年)。1718年、この地でパッサロヴィッツ条約(パッサロヴィッツはドイツ語での呼称)が結ばれ、オーストリア・ハプスブルク家が、オスマン帝国の領土を奪って版図を東方へ拡大させた。街にはセルビアで二番目に古い(最古はベオグラード)国立博物館がある。郊外には古代ローマ帝国の都市遺跡(Viminacium)がある。
■レスコヴァツ
セルビア南部の都市および基礎自治体で、ヤブラニツァ郡の行政的な中心都市である。2002年の国勢調査による人口は市街で63,185人、周辺部を含めた基礎自治体全域では156,252人であった。レスコヴァツは交通の要衝で、セルビアからマケドニア、ギリシャ方面へ向かう列車はレスコヴァツを経由する。毎日19本の列車がレスコヴァツには停車している。
■ヴァリェヴォ
セルビアの都市および基礎自治体で、コルバラ郡の行政的な中心都市である。近郊のペトニツァ村で科学者によってセルビアでは最初に形成されたとされる新石器時代の居住地跡が発見されている。ヴァリェヴォの戦争による大きな被災は第二次世界大戦時と1999年にユーゴスラビアに対してNATOがコソボ紛争に関連して行ったアライド・フォース作戦による空爆である。
■シャバツ
セルビア西部の都市およびそれを中心とした基礎自治体で、サヴァ川に沿った歴史的な地域であるマチュヴァ地域に位置する。1820年から1850年にかけて、シャバツにおいて最初の病院や薬局、セルビア人グラマースクール、ギムナジウム、劇場、音楽団体などが設置されている。
■ルチャニ
セルビア、モラヴィツァ郡のドラガチェヴォ地方(Dragacevo)にある町、およびそれを中心としたオプシュティナ(基礎自治体)である。2002年時点の人口は、自治体全域で24,614人、町で4309人である。市内のグチャでは、毎年ドラガチェヴォの集いが開かれる。これは世界最大規模のトランペット、ブラスバンドの音楽祭である。
■プレシェヴォ
セルビア、プチニャ郡の町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、セルビアの南端に位置する同自治体は南にマケドニア共和国、西にコソボと隣接している。合計161の劣化ウラン弾が、プレシェヴォ近くのレリャン(Reljan)で見つかっている。セルビア政府はレリャンでの劣化ウラン弾の除去作戦に35万ユーロを拠出している。
■ピロト
セルビア南東部の都市および基礎自治体である。2011年の統計によればピロト市街の人口は38,432人、基礎自治体全域では57,911人であった。ピロトはピロト郡の行政的な中心都市で、セルビアの文化で高い評価の伝統的な絨毯織物であるピロツキ・チリムでも知られている。
■クラリェヴォ
セルビアにある都市および基礎自治体で、イバル川河畔にあり西モラヴァ川との合流地点から西に7kmの場所に位置する。クラリェヴォでもっとも注目されるのはジツァ修道院に属する戴冠を行う教会である。クラリャヴォの紋章が示すようにここでは、7人の王が戴冠を行っている。教会はビザンティン建築様式で一部は修復されている。メインとなる塔は1210年以来のものでセルビアの大主教サワにより設立された。著名なストゥデニツァ修道院はクラリェヴォの南西39kmの山の上に建ち、イバール川の支流であるストゥデニツァ川を見下ろしている。
■ノヴィ・パザル
セルビア南西部、ラシュカ郡にある都市およびそれを中心とした基礎自治体である。2002年の国勢調査による人口は基礎自治体全体で85,996人で、ノヴィ・パザル市街は54,604人であった。ノヴィ・パザルはサンジャク地方の中心地で、セルビアにおけるボシュニャク人の文化的な中心地でもある。
■ザイェチャル
セルビア東部の都市および基礎自治体で、2002年の国勢調査による人口はザイェチャル市街では40,700人、基礎自治体全域では69,969人であった。人口の約90%はセルビア人が占め、約4.5%は少数民族のヴラフ人が占める。ザイェチャルには多くの初中等学校が立地しており、セルビアでは最初に設立された私立大学でベオグラードに本拠地を置くメガトレンド大学の学部もある。
■スルチン
セルビアの首都・ベオグラードを構成する17の自治体(オプシュティナ)のひとつ(スルチン区)であり、またその中心をなす地区の呼称である。ベオグラードの空の玄関口であるベオグラード・ニコラ・テスラ空港の所在地であり、2003年にゼムン区から分離して新設された。
■メドヴェジャ
アルバニア語:Medvegjaは、セルビア、ヤブラニツァ郡の町、およびそれを中心とした基礎自治体である。2002年の国勢調査によると、自治体の人口は10,760人であり、うち町の人口は2,810人であった。
■ニシャヴァ郡
セルビア中央部の郡。郡庁所在地は中央セルビアでベオグラードに次ぐ第二の都市、セルビア全体でも第三の都市であるニシュ。郡名もニシュに由来する。ニシュ市内には、17世紀末に築かれ、バルカン半島で最もよく保存された要塞であるニシュ要塞がある。
■ボシレグラード
Bosilegrad、は、セルビア、プチニャ郡の町、およびそれを中心とした基礎自治体である。自治体の面積は571平方キロメートルである。1920年から1941年までの間、ユーゴスラビア当局によってボシレグラードの住民はセルビア人とされ、ブルガリア語での教育や教会での儀礼を受ける権利を否定されてきた。ブルガリア人は内部西方失地革命組織を組織し、ユーゴスラビア当局への抵抗を続けた。
■ヴラニェ
セルビア南部の都市及び基礎自治体で、プチニャ郡の行政的な中心都市である。人口は2011年現在市街地で54,456人、基礎自治体全体で82,782人である。11世紀以来のマルコヴォ要塞が町の北部にあり、町には伝統的なバルカンやオスマンの建築物が残されている。
■ヤゴディナ
Jagodinaはセルビアの都市および基礎自治体でベオグラードの南136kmの場所にあり、ベリツァ川河畔に位置している。ユホル型"Juhor-type"と呼ばれる青銅器時代中期の金のブレスレットがトルツェヴァツで発見されている。東ローマ帝国の皇帝であったフォカスや643年、644年以来のコンスタンティノス4世のコインがこの地域では発見されており、6世紀以来の初期スラヴ陶器なども発見されている。
■クルシェヴァツ
セルビア中央部ラシナ郡の都市、それを中心とした基礎自治体である。クルシェヴァツは1371年、セルビア候ラザルの公国の首都として成立し、1387年に初めて地名が言及されている。
■トポラ
セルビアの町および基礎自治体でシュマディヤ郡に属する。トポラは1804年に起こったオスマン帝国に対する蜂起である第一次セルビア蜂起のリーダーにカラジョルジェが最初に選ばれた場所である。
■プロクプリェ
Prokupljeはセルビアの都市および基礎自治体である。ヨーロッパではもっとも初期の金属加工が2007年プロチェニクで発見された。これは、紀元前5,500年前の銅器時代に遡るものであり、それ以前に最古と考えられていたものより数世紀前の物であった。
■ウジツェ
セルビア西部ズラティボル郡の都市及び基礎自治体で、ズラティボル郡の郡都である。市の中央広場には劇場や図書館が立地する。また、その周辺には新聞社やラジオ、テレビ局、出版社などもある。ギャラリーが旧市街のパシノヴァツ(Pasinovac)にある他、東側の主要な通りには国立博物館が立地し、ウジツェの歴史を感じさせる展示がある。
■ズレニャニン
中央バナト郡の行政中心地である。基礎自治体としての人口は132,051人(2007年)。セルビア領バナート最大の都市で、ヴォイヴォディナ自治州第3の都市である。また、セルビア第6位の都市でもある。
■スボティツァ
ハンガリーとの国境からは10kmの場所に位置し、以前はヴォイヴォディナでは一番大きな都市であったが現在ではノヴィ・サドに次いで2番目に大きな都市である。
■ペトロヴァラディン
Peterwaradein)は、セルビア、ヴォイヴォディナ自治州の州都であるノヴィ・サド市の一地区である。ペトロヴァラディン要塞を取り巻くように、ドナウ川の右岸に位置しており、ドナウ左岸に広がるノヴィ・サド市街地の主要部とは橋で結ばれている。
■スレムスカ・ミトロヴィツァ
セルビアの都市及び基礎自治体でヴォイヴォディナ自治州スレム郡の行政的な中心都市である。ローマ帝国テトラルキア期にはローマ帝国の4つの首都のうちの一つとなり「栄光の母の都市」とも呼ばれた。
■国名
英語においては「Republic of Serbia」、通称「Serbia」(サービア)である。
1.面積:77,474平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)
2.人口:732万人(2009年、世銀統計)
3.首都:ベオグラード(人口160万人)
4.民族:セルビア人(83%)、ハンガリー人(4%)等(2002年国勢調査)
5.言語:セルビア語(公用語)、ハンガリー語等
6.宗教
セルビア正教(セルビア人)、カトリック(ハンガリー人)等
6〜7世紀 セルビア人等スラブ系民族がバルカン半島に定住。
11世紀 セルビア王国建国、14世紀のドゥシャン王の時代に大いに栄える。
1389年 オスマン・トルコに敗北し、その支配下となる。
1878年 ベルリン条約によりセルビア王国の独立承認。
1918年 第一次世界大戦後、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(後、ユーゴスラビア王国)建国。
1941年 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによる占領。ユーゴスラビア王国消滅。
1944年 「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」(6共和国で構成)の1共和国となる。
1992年 ユーゴ解体の中で、モンテネグロとともに「ユーゴスラビア連邦共和国」を建国。
1999年 コソボ紛争により、NATO空爆を受ける。コソボが国連の暫定行政下となる。
2003年 「セルビア・モンテネグロ」に国名変更。
2006年 モンテネグロの独立(6月)により、「セルビア共和国」となる。
2008年 コソボがセルビアからの独立を宣言(2月)。
■主要産業:サービス業(58%)、工業(29%)、農業(13%)(2007年、世銀統計)
■主要貿易品目:輸出:鉄鋼、非鉄金属、電化製品、穀物、野菜・果実:輸入:石油、天然ガス、非鉄金属、電化製品、鉄鋼
■ディナール
dinarは、アラブ地域などの多くの国で使われている通貨である。アラビア語では「ディーナール」と発音される。これは以下の各国で使われているが、それぞれ独自で発行されているため価値はそれぞれ異なる。ディナールの名称は、ローマ帝国の銀貨、デナリウスに由来する。
■政治
セルビアは共和制、議院内閣制を採用する立憲国家である。現行憲法は2006年11月に発布されたものである。事実上、セルビアから分離状態にあるコソボは2008年2月に独立を宣言し、一部の国々と独自の外交関係を持っているものの、セルビア共和国憲法ではコソボを「セルビアの不可分の地方」としている。
■セルビア急進党
Srpska radikalna stranka、略称:SRSはセルビアの政党。大セルビア主義を掲げる極右の民族主義政党とみられている。1991年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が解体しセルビア共和国でも民族主義が勃興していくなか、ヴォイスラヴ・シェシェリらによって創設。第二次世界大戦におけるセルビア民族主義ゲリラ組織チェトニックの伝統を引き継ぐと主張した。
■セルビア進歩党
Srpska napredna strankaは、セルビアの右派政党。セルビア急進党のヴォイスラヴ・シェシェリ党首(2003年に戦争犯罪および人道に対する罪の容疑で旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に身柄を移送されており、公判中)と対立したトミスラヴ・ニコリッチ(2008年セルビア大統領選挙で善戦した)が、同党から分離して成立させた政党。
■セルビア民主党
Demokratska stranka Srbije、略称:DSSは、セルビアの保守政党。穏健な民族主義者とみられている。1992年、民主党を離党したヴォイスラヴ・コシュトニツァが結成。中道左派化した現在の民主党に対し、セルビアにおける歴史的な民主党の後継者を自認している。だが90年代のあいだは党勢は低迷していた。
■G17プラス
セルビアの中道右派政党。1997年、当時のセルビア社会党のスロボダン・ミロシェヴィッチ社会主義政権に対し、自由市場を求める17名のエコノミストによる非政府組織として結成され、ミロシェヴィッチ追放(ブルドーザー革命)後の2002年に政党化した。
■セルビア社会党
左翼ナショナリズムを掲げる社会主義または民主社会主義政党と考えられている。1990年、スロボダン・ミロシェヴィッチの指導下でセルビア共和国共産主義者同盟(ユーゴスラビア共産主義者同盟のセルビア部分)とセルビア勤労人民社会主義同盟(統一戦線組織・ユーゴスラビア勤労人民社会主義同盟のセルビア部分)が合同して結成された。
■鉱業
モンテネグロを含むセルビアの鉱業を特徴付けるのは豊富な有機鉱物資源である。品質は低いが燃料に向く褐炭を大量に産出する。2002年時点の採掘量は、世界シェアの3.8%に達する3450万トン(世界第10位)である。このため、輸入に占める燃料の割合は数%以下であり、総発電量に占める火力発電の比率が64.5%と高い。つまり、エネルギー自給に関してはセルビアには問題が少ない。
■国民
2002年に行われた国勢調査によると民族構成は、セルビア人が82.86%、マジャル人が3.91%、ボシュニャク人が1.82%、ロマが1.44%、ユーゴスラビア人が1.08%、クロアチア人が0.94%、モンテネグロ人が0.92%、アルバニア人が0.82%等となっている。
■ドラガチェヴォの集い
またはグチャ・トランペット音楽祭は、セルビア、チャチャク近くの小さな町・グチャで毎年開かれるトランペットの音楽祭である。グチャへはセルビアの首都であるベオグラードからはバスで5時間かかる。国内外から毎年30万人を超える人々が、人口2千人強のグチャを訪れる。音楽祭に参加できるのはごく限られたバンドのみであり、毎年早くから予選が行われる。
■ニコラ・テスラ
Nikola Tesla1856年7月10日 - 1943年1月7日は、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、また無線送電システム(世界システム)を提唱したことでも知られる。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。父母はセルビア人で、父はセルビア正教会司祭。姉が2人、兄デン(12歳で事故死)、妹が1人。兄を喪った5歳の頃から幻覚を頻繁に見るようになったとされる。また、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るために勉学に励み、特に数学において突出した才能を発揮したとされる。
■ミロラド・プロティッチ
Milorad B. Protić, 1910年8月6日 - 2001年10月29日は、ユーゴスラビア(現セルビア)の天文学者である。ユーゴスラビアの首都であったベオグラードに生まれ、ベオグラードで没した。その間彼は、生涯で7個もの小惑星を発見した。
■リュボミィル・リュボエビッチ
1950年11月2日 - は、セルビアのチェスプレーヤー。幼少時はサッカーの選手になりたくてサッカーに熱中していたが、足を怪我したためチェスに転向した。1970年にインターナショナルマスターとなり、翌年にはグランドマスターとなった。1970年代後半には同年輩のロベルト・ヒュブナー(ドイツ)、エンリケ・メッキング(ブラジル)、ウルフ・アナスン(スウェーデン)とともに「四羽烏」と呼ばれ、当時世界チャンピオンだったアナトリー・カルポフからチャンピオンを奪うのはこの4人の中の誰かであるとまで言われた一流プレーヤーであった。だがカルポフからタイトルを奪ったのは1980年代に入ってから台頭してきたガルリ・カスパロフであった。
■ゾラン・ジンジッチ
1952年8月1日 - 2003年3月12日はセルビアの政治家。セルビア共和国前首相、ベオグラード元市長。哲学博士。1989年にノヴィ・サド大学の教官になるためにユーゴスラビアに帰国、この場所で民主党を設立した。1993年に党首に就任した。1996年から1997年にかけて、権威主義的な傾向を強めていたスロボダン・ミロシェヴィッチ政権に対する大規模な抗議行動が起こった後、ジンジッチは第二次世界大戦後、初の非共産党系のベオグラード市長となった。
■ステパ・ステパノヴィッチ
1856年2月28日 - 1929年4月29日は、セルビアの軍人。元帥(Vojvoda)。1912年〜1913年のバルカン戦争時、第2軍司令官となり、戦功を上げた。第一次世界大戦勃発と共に、最高司令部参謀次長となり、ラドミル・プトニクの就任まで参謀部を率い、セルビア軍の動員・集結を指導した。
■アデム・リャイッチ
1991年9月29日 - は、ユーゴスラビア(現・セルビア)出身のサッカー選手。セリエA・ACFフィオレンティーナ所属。ポジションはMF。パルチザン・ベオグラードの下部組織で育ち、マンチェスター・ユナイテッドFCなどのビッグクラブからモニターされてきた選手。プレースタイルが似ていることから、パルチザン在籍時には公式ホームページに「パルチザンのカカ」と紹介され、偉大なヴィジョン、スピード、ドリブル、サッカーに対する少年のような喜び、を持っているとされた。
■ミルサド・テュルクジャン
1976年6月7日 - は、トルコのプロバスケットボール選手。トルコ男子プロバスケットボールリーグ1部TBLの名門フェネルバフチェに所属している。ユーゴスラビア連邦セルビア社会主義共和国ラシュカ郡ノヴィ・パザル出身。ポジションはパワーフォワード。206cm、110kg。妹は歌手のエミナ・ヤホヴィッチである。
■パヴレ・カラジョルジェヴィチ
1893年4月27日 - 1976年9月14日)は最後のユーゴスラビア王ペータル2世の摂政(1934年 - 1941年)。王族カラジョルジェヴィチ家の一員で、ペータル2世の父アレクサンダル1世の従弟にあたり、ユーゴスラビア公の称号を有した。1934年10月9日、国王アレクサンダル1世がマルセイユで暗殺されると、暫定王位継承者であるパヴレが幼いペータル2世の摂政に指名された。
■アナ・ニコリッチ
Ana Nikolic、1978年9月27日 - )は、セルビアの歌手。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、セルビア社会主義共和国ベオグラード(現・セルビア)出身で、民族的にはセルビア人である。2006年、シングル「Romale, romali」がヒットとなり、セルビア国営放送やRTVピンク、BKTV(BKTV)などで繰り返し放送された。
■ボージャン・クルキッチ
(Bojan Krkic Perez, 1990年8月28日 - )は、スペイン・カタルーニャ州リェイダ県リニョラ出身のサッカー選手。幼少のころに名門バルセロナに入団し、カンテラの各カテゴリの得点記録を軒並み塗り替え、バルセロナの若手有望株と期待された。特に2006年に昇格したセカンドチームであるバルセロナBではセンターフォワードのレギュラーポジションに定着し、22試合で10ゴールとジョバニ・ドス・サントスらとともにオフェンスの中心を担う活躍をみせるなど、カンテラ通算7年間(1999年〜2006年)で900点以上をあげた。
■デヤン・ボディロガ
Dejan Bodiroga、1973年3月2日 - )は、セルビアズレニャニン出身の元プロバスケットボール選手である。ポジションはシューティングガード/スモールフォワード。欧州だけでなく、世界的に名を残した名選手。ブラジルのオスカー・シュミットと共にNBAにドラフトされたがNBAに行かなかった選手としては、随一の選手の一人と言われている。
■ウラジミール・グルビッチ
Vladimir Grbic, 1970年12月14日 - )は、セルビアの男子バレーボール選手。ズレニャニン出身。ポジションはウイングスパイカー。元バレーボールセルビア・モンテネグロ男子代表。2000年、ローマ在籍時にはスクデット獲得と、シドニーオリンピックで金メダル獲得に貢献し、同年欧州バレーボール連盟の最優秀選手に選ばれた。
■ストヤ
Stojanka Novakovic、1972年6月4日 - )は、セルビア共和国・ペルレズ出身のターボ・フォーク歌手である。民族的にはセルビア人である。セルビアのみならずバルカン半島一円で人気を誇る歌手で、ブルガリアではヴェスナ・ズミヤナツやツェツァ、レパ・ブレナと並んでよく知られた旧ユーゴスラビア諸国出身のターボ・フォーク歌手である。
■ヨバナ・ブラコチェビッチ
Jovana Brakocevic, 1988年3月5日 - )は、セルビアの女子バレーボール選手。ヴォイヴォディナ自治州のズレニャニン(当時はユーゴスラビア社会主義連邦共和国)出身。ポジションはオポジット。バレーボールセルビア女子代表。196cmの長身を活かし、長い手の遠心力を使ってスパイクを打つ。卓越した身体能力を持っていたことから、次世代の大型エースとして注目された。
■ダニロ・キシュ
(Danilo Kis、1935年2月22日 − 1989年10月15日 )は、ユーゴスラビア人の小説家、詩人である。1935年、ユーゴスラビア王国のセルビア北部スボティツァ生まれ。戦争中は父の故郷のハンガリーで暮らすも、父はアウシュビッツ収容所に送られ、消息を絶つ。第二次世界大戦後、母の故郷のモンテネグロ ツェティニェに移住した。ベオグラード大学で文学を学んだ。
■チャート・ゲーザ
Csath Geza, 1887年2月13日 - 1919年9月11日)はハンガリーの小説家、劇作家、音楽家、音楽評論家、医師。同じくハンガリーの著名な小説家・詩人であるコストラーニ・デジェーの従弟にあたり、彼の勧めで「ニュガト(Nyugat)」に短編小説を発表した。バルトークを最も早く評価した一人でもある。
■ブラニスラヴ・イヴァノヴィッチ
Branislav Ivanović, 1984年2月22日 - )は、セルビア北部のスレムスカ・ミトロヴィツァ出身で、同国代表、プレミアリーグ・チェルシー所属のサッカー選手。ポジションはDF (SB, CB)。セルビア代表ではキャプテンも務める。
■シュテファン・モクラーニャッツ
Stevan Stojanovic Mokranjac、1856年1月9日 - 1914年)は、セルビアの作曲家。教育者として多くの演奏家を育てセルビアにおける演奏技術の向上に貢献するとともに、セルビアの民族音楽の収集と発展に努め、セルビアの音楽学の基礎を築いた。また、多くの正教会の聖歌を作曲してもいる。
■レパ・ブレナ
1960年10月20日生まれ、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国ブルチコ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国ブルチコ行政区)出身の歌手で、現在はレコード会社のオーナー。
■イェレナ・カルレウシャ
Jelena Karleusa、。1978年8月17日 - )、通称JKはセルビアのターボ・フォーク歌手で、1990年代後半から2000年代にかけてのセルビアではトップクラスの人気を持っている。彼女の知名度はボスニア・ヘルツェゴビナやマケドニア共和国などの旧ユーゴスラビア諸国のほか、ブルガリアなどでも人気の歌手である。
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