ルーマニア Romania
東ヨーロッパに位置する共和制国家。南西にセルビア、北西にハンガリー、北にウクライナ、北東にモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。首都はブカレスト。
古代にはガタエ人(ラテン語ではダキイ人)と呼ばれる民族が居住していた。ローマ帝国の領土となったことがあり、現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。紀元前513年、ドナウ川南でガタエ人の部族連合が、対スキュタイ人戦役中のペルシア王ダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。約600年後、ガタエ人(ダキイ人)は、ロ−マ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスの2度の遠征(101年〜106年)に敗れた。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。
■ブカレスト/Bucharest
ルーマニア南部・ワラキアにある同国の首都。ブカレストは、ドゥンボビツァ川の支流コレンティナ川の沿岸にあり、市内にはフロレアスカ湖、テイ湖、コレンティナ湖など、いくつか湖がある。さらに、市中心部にはチシミジウ湖(Cismigiu)という小さい人口湖がある。周辺には庭園や公園があり、著名な詩人・作家が訪れた。1459年にこの地に作られた城塞がワラキア公・ヴラド・ツェペシュの居城となった、というのがブカレストが史書に登場する最初である。以降、ヴォイヴォダであったミルチャ・チョバヌル(Mircea Ciobanul)によって王宮の夏の離宮として整備されていく。オスマン帝国の政策でムンテニアの重要性が増す中で、公国の都があったトゥルゴヴィシュテに比肩する都市へと成長していく。1698年、公国の都となり、貿易でも最重要都市になる。
■トライアン・ヴイア国際空港
(Traian Vuia International Airport)は、ルーマニア・ティミショアラにある国際空港。この空港は、初期の動力飛行を行い、牽引式プロペラを持った単葉機の先駆者として知られるルーマニアの発明家、トライアン・ヴイアにちなんで改称された。
■アンリ・コアンダ国際空港
Henri Coanda International Airport)は、ルーマニアの首都ブカレストにある国際空港である。2004年5月にルーマニア出身の技術者でジェットエンジンの父と言われるアンリ・コアンダにちなんで、「オトペニ空港(Otopeni Airport 、Aeroportul International Bucuresti Otopeni)」から今の空港名に改名された。同国のフラッグ・キャリア、タロム航空のハブ空港である。
外務省:ルーマニア
在ルーマニア日本国大使館
■ブラショフ
ルーマニアのほぼ中央に位置する都市で、ブラショフ県の県都。首都ブカレストからは166キロメートル離れている。カルパティア山脈によって囲まれるトランシルヴァニア地方の中心的都市の一つであり、都市の建設にはドイツからこの地に植民したトランシルヴァニア・ザクセン人が深く関わった。このため、「クローンシュタット」というドイツ語名を持つ。これは英語で言うところの Crown City を意味し、中世ラテン語名の「コロナ」(Corona)と同じであり、市の紋章に反映されている。
■ルーマニア鉄道
通称CFR(チェフレ)と呼ばれ、路線網は11,380km有しそのうち3,971kmは電化区間となっている。総距離は22,247kmとなりそのうち8,585kmは電化されている。ルーマニア国内の重要な路線網となっているだけでなく、欧州域内のネットワークの一端も担っており旅客、貨物輸送が行われている。CFRの営業開始は1880年からで、ルーマニアの領域に初めて鉄道が敷かれたのは1854年である。CFRは4つの企業体に分けられている。
■クルージュ=ナポカ
ルーマニア北西部の都市。クルージュ県の県都で、ルーマニア国内の教育・文化・工業の中心のひとつ。トランシルヴァニア地方の中心部、ソメシュル・ミク川の渓谷に位置し、ブカレストから約480kmの位置にある。ブカレスト、ヤシに次ぎルーマニア第3の人口を誇る。コロジュヴァール、クラウゼンブルクという名前でも有名。
■ヤシ
ルーマニア北東部、モルダヴィア地方の中央に位置する都市である。ルーマニア東部の主要都市の1つで、かつてのモルダヴィア公国の首都。ルーマニア第2の都市でもある。ヤッシーとも。ヤースヴァーシャールというのはチャーンゴーに好まれる言い方でもある。1860年、ブカレストのそれに先立ってヤシ大学が創立された。また、文学協会「ジュニメア(Junimea, 青年)」の活動には、評論家のティトゥ・マイオレスク(Titu Maiorescu, 1840年 - 1917年)、国民詩人といわれるミハイ・エミネスク、作家ヨン・クリヤンガ(Ion Creangă)らが加わっていた。現在でも、市内のコポウ公園はそこにある菩提樹の下でエミネスクが詩作に耽った場所として、市民に人気がある。
■オラデア
ルーマニア西部トランシルヴァニア地方(クリシャナ地方)の都市。ビホル県の県都である。2002年の国勢調査によれば総人口は 206,527人。これには近郊の自治体の人口は含まれていない。近郊を含むとオラデア一帯には220,000人が住んでいる。オラデアは、温泉で有名である。その産出量は、季節によって変わる。オラデアはハンガリーとの国境に位置し、ルーマニアの西ヨーロッパへの玄関口となっており、そのためにルーマニアでも有数の繁栄した都市である。
■ティミショアラ
ルーマニア西部トランシルヴァニア地方の都市。行政的にはバナト地方に属し、ティミシュ県の県都で、ルーマニア第4の人口を誇る。都市の名はティミシュ川に由来する。ティミシュ川は古代ローマではティビシスまたはティビスクス川として知られていた。ティミショアラには多数の少数民族がおり、多文化都市となっている。ティミショアラは工業都市であり、またヨーロッパで最初に電気による街路灯が導入されたことで知られる。
■ブカレスト地下鉄
Bucharest Metroは、ルーマニアの首都ブカレストを走る地下鉄である。通称はメトロウ(Metrou)。運営会社はメトロレックス(Metrorex)。ブカレストでは最もよく利用される公共交通機関のひとつであり、平均して週に述べ75万人の利用者を運ぶ。路線の総延長は63キロメートル、45の駅が設置されている。1970年、都市の急速な開発の進行に伴って、それまでの公共交通システムは限界をむかえていた。このことに関して委員会が設置され、委員会はブカレストへの地下鉄システムの導入を求めた。共産主義時代のルーマニアの大型建設プロジェクトには国民の館をはじめ不要であったと見られるものが多い中、この地下鉄計画は「共産主義時代の大型建設プロジェクトの唯一の成功例」とも評される。
■ブカレスト交通公団
略称:RATBは、ルーマニアの首都ブカレストにおいて路面電車及びバス・トロリーバスを運行する公営企業である。ブカレストの公共交通は、1871年に運行が開始された馬車鉄道に端を発する。ブカレスト市が運営する公営交通としての発足は1909年で、1936年には市内の交通網のほとんどが公営交通により運行されるようになった。
■クラヨーヴァ
Craiovaは、ルーマニア第5の都市で、ドルジュ県の県都。中央オルテニア地方ジウ川東岸近くに位置する。昔からの政治的中心地であり、北のトランシルヴァニアアルプス山脈と南のドナウ川の中間点にある。ブカレスト西方の主要商業都市である。
■ガラツィ
Galatzは、ルーマニア東部ガラツィ県の都市。ガラツィ県の県都でもある。ドナウ川に面し、ブライラと非常に近い。市内には、壮麗な聖ゲオルゲ聖堂、ドナウ河岸に立つ17世紀の生神女マリア教会や、美術館、劇場、公園がある。
■ティミショアラ
ルーマニア西部トランシルヴァニア地方の都市。行政的にはバナト地方に属し、ティミシュ県の県都で、ルーマニア第4の人口を誇る。都市の名はティミシュ川に由来する。ティミシュ川は古代ローマではティビシスまたはティビスクス川として知られていた。ティミショアラには多数の少数民族がおり、多文化都市となっている。
■プロイェシュティ
ルーマニア、ムンテニア地方の都市。プラホヴァ県の県都である。首都ブカレストの北およそ56km地点にある。「黒い金の首都」の異名を持つ石油産業の旧中心地で、4つの製油所とその分野に関連したその他の工場がある。
■サトゥ・マーレ
Satu Mare、現在ニューヨーク・エルサレム・ロンドンなどルーマニア国外に居住する、ハシディズム・ユダヤ教徒のサトマール派の発祥地である。石器時代より人が定住していた。10世紀初頭、ハンガリーの年代記にゾトマール (Zotmar) という名の要塞があったことが記載されている。年代記によると、3日間の戦いの後、要塞はハンガリーが落としたという。
■ブライラ
ルーマニア東部ブライラ県の県都。ムンテニア地方に属し、ドナウ河岸港を持つ。ドナウ川を挟みガラツィと近接する。中小規模の船が航行可能で、ブライラは規模の大きな穀物運搬と備蓄施設をもつ。重要な産業都市であり、金属加工、繊維業、食品加工などが行われている。
■バカウ
Barchau、は、ルーマニア、バカウ県の都市。モルダヴィア地方に含まれ、ビストリツァ川の畔にある。バカウ駅は、ルーマニアで昇降客の多い駅の一つである。ウクライナ、ロシア、ブルガリア行きの鉄道国際線が到着する駅でもある。
■アラド
Aradは、ルーマニア西部アラド県の都市。県都でもある。ムレシュ川に面する。重要な産業中心地であり、交通の要所であり、ルーマニア正教会の主教座が置かれている。豊富な産業と商業の伝統を持つことから、アラドはルーマニアで最も繁栄する都市の一つである。多くの投資がされ、アラドは経済ブームに湧いている。
■ピテシュティ
Piteskは、ルーマニア、アルジェシュ県の都市で県都。アルジェシュ川沿いにある。重要な貿易・工業中心地で、2つの大学が本拠を置く。市は、劇作家アレクサンドル・ダヴィラにちなんで名付けられた県立劇場の本拠地である。その部門には人形劇場(1949年創設)、野外演劇劇場部門(1958年)、民俗芸能部門(1970年)がある。
■バヤ・マレ
FrauenbachまたはNeustadtは、ルーマニア、マラムレシュ県の都市。市の好位置から経済活動が盛んであり、ルーマニア北西部ではクルージュ=ナポカ、オラデアに次いで重要な都市である。市はグトゥイ山地とイグニシュ山地の近くにある。山地の標高は1400mを越える。山地一帯は人目を引く風景で有名で、市からアクセスが容易である。
■ボトシャニ
(Botosani)は、ルーマニア北部の都市。ボトシャニ県の県都。モルダヴィア地方に属する。ルーマニアを代表する詩人ミハイ・エミネスクと歴史家ニコラエ・ヨルガの出身地である。ヴァシラケ人形劇場 ("Vasilache" Puppet Theatre) - ルーマニア内外の人形一座が本拠とする。
■シビウ
Sibiuはルーマニアのトランシルヴァニア地方南部の都市である。人口は170,000人(2002年)。シビウ県の県都である。ブルケンタール邸にある美術館と古書の図書館、旧市役所の建物にある歴史博物館、16世紀建築の薬剤師店の建物にある薬局博物館、自然史博物館、武器とハンティングトロフィーの博物館から成る。
■トゥルグ・ムレシュ
Novum Forum Siculorumは、ルーマニア、トランシルヴァニア地方の都市。トゥルグ・ムレシュには、多くのハンガリー住民が暮らし、その一部はセーケイ人を自認している。2003年以後、一部のセーケイ人組織が、自治県の中心地になろうと宣伝を行ってきた。
■教育
7歳から14歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が義務教育であり、無償となっている。主な高等教育機関としては、ブカレスト大学(1864年)などが挙げられる。
■保健
現在ルーマニアは深刻な野犬の問題に直面している。全国で推定200万匹が野放しになっている。2005年において同国内で2万人以上が犬に襲われる被害を受けている。当局は駆除に乗り出そうとしているが、動物保護団体の激しい反対に合い対策は進んでいない。2006年1月7日、動物愛護活動家でもあるフランスの女優ブリジット・バルドーは声明を出して駆除計画に抗議、ルーマニア当局を非難した。同年1月29日、日本人男性がブカレストで野犬に噛まれ、失血死する事件が起きた。
■文化
有名な吸血鬼ドラキュラは、15世紀のワラキア公であったヴラド・ツェペシュがモデルになったとされている。ウィッチクラフト(魔女文化)が数世紀の歴史を持ち、現在も「魔女」や「まじない師」「占い師」として生計を立てる人々が多く存在する。魔女たちからもほかの自営業者と同様に徴税するために2011年1月1日に労働法が改正され、魔女が「職業」として認められることとなった。
■ルーマニア料理
農業国らしい素材を生かしたルーマニアの民族料理を指す。18世紀にオスマン帝国領からハプスブルク家のハンガリー王国領となったため、隣国の旧ユーゴスラビアやブルガリアと比べ、トルコ料理の影響が比較的少ないことが特徴で、セルビア料理、オーストリア料理、ハンガリー料理の影響が見られる。肉料理の代表は、挽肉と刻みタマネギを混ぜ合わせてザワークラウトに似たキャベツの漬物で巻き、じっくりと煮込んだサルマーレ (sarmale) で、ルーマニア風ロールキャベツまたはドルマと言える。
1.面積:約23.8万平方キロメートル(本州とほぼ同じ。)
2.人口:約2,146万人(2010年)
3.首都:ブカレスト(人口約194万人)
4.民族:ルーマニア人(89.5%)、ハンガリー人(6.6%)など
5.言語:ルーマニア語(公用語)、ハンガリー語
6.宗教:ルーマニア正教(87%)、カトリック(5%)
106年 ローマ帝国によるダキア征服
271年 ローマ軍撤退
14世紀 ワラキア公国、モルドバ公国が建国される
15世紀末頃 オスマン帝国の宗主下に入る
1878年 独立
1881年 ルーマニア王国発足
1918年 トランシルバニアとの統一宣言
1947年 王制を廃止し、人民共和国樹立
1989年 政変により共産党一党独裁を廃止し、国名をルーマニアに改称
2004年 NATO加盟
2007年 EU加盟
■主要産業:金属(鉄鋼、アルミ)、工業(機械機器、繊維)、鉱業(石油)、農業(小麦、トウモロコシ)
■主要貿易品目(1)輸出 一般機械・電気機器、輸送用機器、織物・衣類・靴類、金属製品、化学製品・プラスチック、農産食料品(2)輸入 一般機械・電気機器、化学製品・プラスチック、鉱産原料品、金属製品、織物・衣類・靴類、農産食料品
■ルーマニア・レウ
Leu romanescはルーマニアの通貨単位。ルーマニアは2007年1月に欧州連合に加盟し、ユーロ導入義務を課せられている。ユーロ導入予定は2014年である。17世紀、ルーマニアをはじめ当時のオスマン帝国領内で流通していたオランダのギルダー (leeuwendaalder) は「ライオン」と呼ばれており、ルーマニアではルーマニア語でライオンを意味するレイ (lei) と呼ばれるようになった。この名称が通貨を表す一般的な名称として定着した。
■政治
政体は大統領を国家元首とする共和制国家であり、国民から直接選挙で選ばれる大統領と議会から選出される首相が行政を行う半大統領制を採用している。大統領は任期が5年である(2004年までは任期4年)。立法権は二院制の議会に属し、下院(代議院)は定数332人、上院(元老院)は定数137人で両院とも任期は4年。司法権は最高裁判所に属している。
■ルーマニア社会主義共和国
1945年から1989年まで、ルーマニアに存在した共産党一党独裁の社会主義国である。第二次世界大戦に枢軸国側で参戦したルーマニア王国は、1945年5月8日の敗戦によって解体され、ソビエト連邦に占領された。ソビエト連邦軍の占領下で、1947年12月30日に共産党政府が成立。君主制は廃止され、ルーマニア共産党の一党独裁を布く寡頭共和制によるルーマニア人民共和国(Republica Populara Romina)が成立した。
■音楽
ルーマニアは、ルーマニア人、ハンガリー人、ロマ人(ジプシー)、など様々な民族・集団からなるヨーロッパ、バルカン半島の国家である。このようなルーマニアの土壌は、さまざまな民族に由来する要素を併せ持った、音楽的多様性を生み出してきた。現代ではポップ・ミュージック、ヒップホップ、ヘヴィメタル、ロックなどのジャンルも盛んである。しかし一方で、タラーフとよばれるバンドやロマによって演奏される土俗音楽もまた全国的に行われている。
■ジョルジェ・エネスク
20世紀の傑出した音楽家にして、存命中は最高のヴァイオリン演奏家の一人であった。日本ではフランス語表記のGeorges Enescoに倣ってジョルジュ・エネスコと書くことがあるが、ルーマニア語ではGeorge Enescuと綴られ、ジョルジェ・エネスク、ジェオルジェ・エネスクとの日本語表記もある。ルーマニアのリヴェニ(Liveni)村(現在はボトシャニ県、「ジョルジェ・エネスク」という名の小自治体になっている)に生まれ、幼年期より楽才を発揮。父親に連れられて作曲家エドゥアルド・カウデラを訪ね、才能を認められてヤシの音楽学校に入学を許される。エネスクは、クライスラーやティボーと共に20世紀前半の三大ヴァイオリニストの一人とされる。ヴァイオリニストとしては、情熱の高鳴りを感じさせる演奏スタイルと、ヴィブラートを程よく効果的に用いた独自の美音で知られていたが、クライスラーやティボーほど甘い音色ではなかった。しかし、かえってそのために、精神的な奥行きや格調の高さを感じさせ、とりわけベートーヴェンやシューマンのソナタ、またバッハの無伴奏作品は、実演・録音ともに伝説的な名演として語り継がれている。
■ディヌ・リパッティ
Dinu Lipatti, 1917年3月19日 - 1950年12月2日は、ルーマニアのピアニスト、作曲家。ブカレスト生まれ。アルフレッド・コルトーに魅入られて教えを受けるが、33歳でジュネーヴ郊外でこの世を去った。 彼のピアノの特徴は、透明な音色でピアノを最大限に歌わせていることである。純粋に徹した、孤高なまでに洗練されたピアニズムは古今でも随一とされる。 ショパンやモーツァルトなどを得意とした。ショパンのワルツ集は現在でも絶品とされている。
■ヴェレッシュ・シャーンドル
(Veress Sandor, 1907年2月1日 - 1992年3月4日)はハンガリー出身の作曲家、民族音楽学者。後年スイスに亡命したことで、当時のハンガリー社会主義政権によって演奏が禁じられ、半ば忘れられていたが、近年、教え子のハインツ・ホリガーやハンガリーのピアニスト、アンドラーシュ・シフらがヴェレシュ作品を取り上げ、バルトークと、リゲティやクルタークらをつなぐ重要な存在として再評価されるようになった。現代的手法とハンガリーの音楽的伝統を結合させ、洗練された旋律と清澄な表現が特徴的。教育者としても知られる。
■エイブラハム・ウォールド
Abraham Wald, 1902年10月31日 - 1950年12月13日はトランシルバニア出身の数学者。1902年にクルージュ=ナポカで生まれる。1927年にウィーン大学の数学科に入学、1931年に博士号を取得。1938年の渡米後は、コロンビア大学に在籍した。
カール・メンガーの弟子であり、ウィーンの銀行家・経済学者カール・シュレージンガーに紹介され、ウィーン学団が当時検討していたワルラスとカッセル体系の問題を紹介された。1950年にインド上空の飛行機事故で若くして死亡した。
■ボーヤイ・ヤーノシュ
(Bolyai Janos, 1802年12月15日 - 1860年1月27日)はハンガリー領トランシルヴァニア(現ルーマニア領)出身のセーケイ人(ハンガリー人)数学者。1818年から23年にかけて、ウィーンの工兵学校に学ぶ。父ボーヤイ・ファルカシュの影響を受けて平行線理論に興味を抱き、1835年、「ユークリッド第11公準を証明または反駁することの不可能の証明」において非ユークリッド幾何学の可能性を切り開き双曲幾何学を提唱した。幼いころから数学に異常な才能を示し、13・4歳のころには父親の代わりに講義を行い、好評を博したという。ボーヤイの父はあの数学の王ガウスの同窓生であり、父親自身も平行線問題を研究していたが、自分の自信作をガウスに見せて間違いを指摘され、それ以後この問題から遠ざかってしまった。
■セルジュ・チェリビダッケ
Sergiu Celibidache, 1912年7月11日 - 1996年8月14日は、ルーマニア生まれでドイツで活躍した指揮者・作曲家。ローマンに生まれ、第一次世界大戦中にヤシに転居、同地で21歳頃までを過ごす。6歳頃からピアノを学びはじめるが、これが直接音楽家を目指す契機にはならなかったようで、27歳になるまで天職を決めかねていたと告白している。父親は彼を政治家にしたがっていた、というのは本人の弁。ユダヤ文化の中心地であったヤシで育ちユダヤ人と深く交流したため、イディッシュ語も堪能であった。
■コンスタンティン・ブランクーシ
Constantin Brancusi, 1876年2月19日 - 1957年3月16日は、ルーマニア出身の20世紀を代表する独創的な彫刻家である。20世紀の抽象彫刻に決定的な影響を与え、ミニマル・アートの先駆的作品も残した。ブランクーシの独創的な作品は、後の現代彫刻、絵画、デザインなどへ、多大なる影響を与えた。特に代表作でもある『無限柱』シリーズは、単純なユニットの反復により構成され、本人が友人のマン・レイに語ったところでは、どこで切断しても無限の柱としての特性を失わないものとされる。またイサム・ノグチはパリでブランクーシの助手となることで抽象彫刻家としてのキャリアに方向性を見出した。
■ミハイ・エミネスク
(Mihai Eminescu、1850年1月15日 - 1889年6月15日)はルーマニアとモルドバで詩聖と称えられ、最もよく知られている近代のルーマニア詩人。1866年、ミハイが16歳の時にミハイの作家としての最初の足跡がある。同年1月、ギムナジウムのルーマニア人教師アロン・プムヌルが亡くなり、チェルナウツィでプムヌルから学んだ生徒達は小冊子『ギムナジウムの生徒達の涙』を出版。その中に「アロン・プムヌルの墓で」(La mormantul lui Aron Pumnul)と題した詩が掲載されており、ミハイル・エミノヴィチ(M. Eminovici)のサインが見える。彼はおそらく、ルーマニアの全ての地域で作品を発表し、あらゆる部分のルーマニア人の問題に絶えず興味を持っていた、初めてのルーマニアの作家であった。
■ヴィクトル・ポンタ
Victor Ponta、1972年9月20日 - は、ルーマニアの政治家。世界金融危機に対応するための緊縮財政政策により、反政府運動が活発になり、エミール・ボック率いる内閣は総辞職する。ミハイ・ラズヴァン・ウングレアーヌが首相に就任したものの、4月の上下両院合同会議において内閣不信任決議案が可決され再び総辞職。
■ドラゴシュ
(Dragos)は初代のモルダヴィア公であり(在位1351年-1353年)、この地方を治めた最初のルーマニア人である。ジョチ・ウルス(黄金オルド、金帳汗国)に対する備えのため、ハンガリー王の命でマラムレシュを離れ、タタール人をドニエプル川以東に追い返した。ワラキアの年代記作者ラドゥ・ポペスクの著書と、モルダヴィア公で歴史家のディミトリエ・カンテミールの『モルダヴィア年代記』には、ドラゴシュが野牛を狩っているときにモルダヴィアを建国した伝説が記録されている。
■ディミトリエ・カンテミール
Dimitrie Cantemir, 1673年10月26日、 - 1723年は、モルダヴィア(ルーマニア)生まれの文人、学者で、モルダヴィア公(在任1693年3月 - 4月、1710年11月 - 1711年7月)。ディミトリエはモルダヴィアのヤシで言語、文学、歴史の教育を受けた後、1688年から22年間をイスタンブルで過ごした。イスタンブルではスルタン・アフメト2世に才能を愛され、東洋の諸言語と文化、音楽を学んだ。
■カロル1世
Carol I、1839年4月20日 - 1914年10月10日は、ルーマニア公(在位:1866年5月22日 - 1881年3月26日)、後に初代ルーマニア国王(在位:1881年3月26日 - 1914年10月10日)。若いカール侯子は偽名を使って(オーストリア帝国が母国と対立関係にあったため)、デュッセルドルフ、ボン、フライブルク、チューリッヒ、ウィーン、ブダペストを鉄道で移動した。ルーマニア国境に着くとブランチャヌが待っており、そこから彼の馬車で移動した(当時のルーマニアには鉄道が敷かれていなかった)。1866年5月10日、カールはブカレストへ到着した。彼の到着の知らせは電信で国中に知らされ、新しい指導者を熱望していた群衆に歓迎された。
■イオン・アントネスク
(Ion Victor Antonescu, 1882年6月14日 - 1946年6月1日)は20世紀前半のルーマニアの軍人・政治家。(王族以外で3名しかいない)元帥。彼の政権下で副首相を務めたミハイ・アントネスクは兄弟ではなく、遠縁の親戚関係。ピテシュティ出身。父は大地主で、大尉だった。フランスで軍事教育を受ける。1907年の農民蜂起の鎮圧に参加。1913年のバルカン戦争時、街道の要所を少数の兵力により守り向いた功績により、ミハイ勇敢公勲章騎士十字章を受勲。
■ミハイ1世
Mihai I, 1921年10月25日 - は、ルーマニア王国の国王(在位:1927年7月20日 - 1930年6月8日、1940年9月6日 - 1947年12月30日)。父はカロル2世、母はギリシャ国王コンスタンティノス1世の長女エレニ。第二次世界大戦の結果を受けて、ルーマニア王国にはソ連軍が駐留していた。結果、共産化の波はルーマニアにも押し寄せ、君主制廃止の世論に抗しきれず、ミハイ1世は1947年に亡命に追い込まれる。その後スペインに渡り、イベリア航空のパイロットなどをしながら亡命生活を強いられたが、ルーマニア革命によるルーマニア社会主義共和国の崩壊後、1992年にようやく帰国が許され、1997年以降ルーマニアに在住している。
■アリナ・ドゥミトル
(Alina Alexandra Dumitru 1982年8月30日- )はルーマニアのブカレスト出身の柔道家。身長158cm[1]。5段。現在はルーマニア軍でキャプテンを務めている[2]。柔道は14歳の時に始めた[2]。2002年、スロベニアのマリボルで開かれたヨーロッパ柔道選手権大会の女子48kg以下級で銅メダルを獲得した。その後2004年から2008年までの同大会の48kg以下級で5連覇を果たした。その間2005年,2008年には決勝でアテネオリンピック銀メダリストのフレデリク・ジョシネを破っている。
■セルジュ・モスコヴィッシ
(Serge Moscovici, 1925年6月14日 - )は、ルーマニア出身でフランスを拠点に活動する社会心理学者。モスコヴィッシは1925年、ルーマニアのブライラでユダヤ系の家庭に生まれた。1938年、反ユダヤ主義の高まりによって在学していたブカレストの高校から退学を余儀なくされた。1941年1月、ブカレストでポグロムの被害を受けて強制労働キャンプに連行され、1944年8月23日のソ連軍の侵攻まで収監された。第二次世界大戦中のこの4年間に、彼はフランス語を学び、スピノザやデカルトなど哲学書を読みふけった。
■クン・ベーラ
(Kun Bela, 1886年2月20日 - 1939年11月29日もしくは11月30日)は、ハンガリーの共産主義者、政治家。現ルーマニア・サラージュ県チェフ・シルヴァニェイ Cehu Silvaniei)で生まれた。第一次世界大戦においてロシア軍の捕虜となり、そこで共産主義者となった。1918年秋、オーストリア・ハンガリー帝国が敗北しハンガリー民主共和国が独立すると、クンは帰国してハンガリー共産党の指導者となった。翌1919年3月、ハンガリー共産党はハンガリー革命を起こしてカーロイ・ミハーイの政権を倒した。
■モニカ・ロシュ
Monica Rosu, 1987年5月11日-はルーマニア、バカウ(Bacau)出身の女子体操選手。身長152cm、体重43kg。女子選手としては上半身が非常に強く、特に跳馬において圧倒的な強さを見せた。2004年のアテネオリンピックの種目別跳馬で金メダルを獲得。2005年に怪我をして、世界選手権のルーマニア代表チームに選ばれず、そのまま引退。
■ニコラエ・ディカ
(Nicolae Constantin Dica 1980年5月9日 - )は、ルーマニア・ピテシュティ出身のサッカー選手。ルーマニア代表である。2003年10月11日の日本戦でルーマニア代表デビューした。2006年のキプロスとの親善試合で初得点した。2007年11月21日のアルバニア戦、2008年5月31日のモンテネグロ戦ではそれぞれ2得点した。
■ヨシフ・イヴァノヴィチ
(Iosif Ivanovici, 1845年 ティミショアラ - 1902年9月28日 ブクレシュティ)はルーマニアの作曲家・指揮者でガラツィとブクレシュティの軍楽隊の隊長である。ティミショアラに生まれる。彼はワルツ、ファンファーレ、行進曲や民謡に基づく作品などおよそ350の作品を残し、パリ万博では作曲賞を受賞したほどである。
■マリユス・コンスタン
(Marius Constant, 1925年2月7日 ブカレスト - 2004年5月15日 パリ)はルーマニア出身のフランスの作曲家・指揮者。パリ音楽院にてオリヴィエ・メシアン、ナディア・ブーランジェ、アルテュール・オネゲルに学ぶ。1963年に現代音楽アンサンブル・アルスノヴァを設立。1978年より1988年までパリ音楽院で教鞭をとる。1993年よりメシアンの後任としてフランス美術院アカデミー会員に就任した。
■イアンク・ドゥミトレスク
(Iancu Dumitrescu, 1944年 - )はルーマニアの現代音楽の作曲家。アルフレート・メンデルスゾーンとセルジウ・チェリビダッケに師事するなどオーソドックスな音楽教育も受けたドゥミトレスクであるが、個性を決定づけたのは1970年代に接したジャチント・シェルシの音楽であり、ガラスが降り注ぐ夢(本人談)で聞こえた音響であった。
■アルノルト・ロゼ
Arnold Josef Rose, 1863年10月24日:ヤシ- 1946年8月25日:ロンドン)はルーマニア出身でオーストリアで活躍したユダヤ系ヴァイオリニストで、アルマ・ロゼ Alma Rose の父。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを57年に渡って務め(65歳で定年となる現在ではこの記録が破られることはない)、ロゼ四重奏団を主宰した。1881年から1938年までの長きにわたりウィーン宮廷歌劇場とウィーン・フィルの第1コンサートマスターとして君臨した。また弦楽四重奏団(ロゼ四重奏団)を組織し、1890年11月11日には、ブラームスの弦楽五重奏曲第2番を初演した。ウジェーヌ・イザイ曰く、「ロゼがソリストとして躍進を遂げなかった事は、他の全てのヴァイオリニストにとっては幸運であった」
■ファンファーレ・チョカルリア
ルーマニアのロマ(ジプシー)によるブラスバンド(ジプシー・ブラス)。ルーマニア北西部の村ゼチェ・プラジニ (Zece Prajini) 出身。ファンファーレ・チョカルリアは地元の結婚式や洗礼式などで演奏するアンサンブルとして活動していた。1996年10月、ドイツ人のサウンド・エンジニアでプロデューサのヘンリー・エルネスト (Henry Ernst) が、ルーマニアのゼチェ・プラジニを訪れたとき、そこにいた多くのミュージシャンたちの才能を確信し、バンドに「ファンファーレ・チョカルリア」と名づけた。
■ゲオルゲ・ポペスク
(Gheorghe Popescu、1967年10月9日 - )は、ルーマニア・カラファト出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはDF、MF。1985年にウニベルシタテア・クライオヴァでデビューを飾るとすぐさま頭角を現し、1988年には代表デビューを果たす。1990年のイタリアW杯でも義兄にあたるゲオルゲ・ハジとともにチームの中心選手として活躍を見せた。
■アドリアン・ムトゥ
Adrian Mutu, 1979年1月8日 - は、ルーマニア・ピテシュティ出身の元同国代表、セリエA・ACチェゼーナのサッカー選手。ポジションはフォワード及びミッドフィールダー。ゲオルゲ・ハジ引退後のルーマニアサッカー界の牽引者であり、パルマFCやフィオレンティーナでの活躍から2000年代のセリエA外国人選手を代表する選手である[1]。多くの観客を魅了すると同時に多くのスキャンダルにも見舞われ、2004年に自らが引き起こしたドーピング問題(コカイン摂取)では解雇、長期に渡る出場停止処分と、自身のキャリアに多大な影響を与えることとなった。
■シモナ・アマナール
Simona Amanar, 1979年10月7日 - はルーマニア、コンスタンツァ(Constanta)出身の女子体操選手。特に跳馬で無類の強さを見せたが、その他の競技においても安定した強さを持っていた。ルーマニアの女子体操選手としてはナディア・コマネチの9個に次ぐ、7個のオリンピックメダルを獲得している。1990年代後半から2000年までルーマニアナショナルチームのキャプテンを務めた。2001年に世界のトップの実力を維持したまま引退。
■アンリ・コアンダ
(Henri Marie Coanda1886年6月7日 - 1972年11月25日)はルーマニアの発明家、航空力学の先駆者にして世界初のジェット機コアンダ=1910を製作した人物。自分はごく小さい頃から風というものの神秘には魅了されていた、と後に述懐している。1910年 - コアンダ=1910。世界初のモータージェット飛行機である(実演の際に壊れてしまった)。1926年 - ルーマニアで働き、コアンダは地下の液体を探知する装置(石油の試掘に有用)を開発した。その直後コアンダはペルシア湾にて、沖合いで油井を掘るシステムを設計している。
■リュシアン・ゴルドマン
Lucien Goldmann、1913年 - 1970年は、ユダヤ系ルーマニア出自のフランスの哲学者・社会学者。独特のマルクス主義に基づく文学分析によって戦後フランスにおいて大きな影響力をもった。1913年、ブカレスト生まれ。その後、ルーマニアのボトシャニに育つ。1959年以来11年にわたってパリの社会科学高等研究院(EHESS)で教え、1970年パリで急逝。
■アンドレイ・フィリモン
(Andrei Filimon, 1977年7月27日)はルーマニアの卓球選手。1991年にグラナダで行われたヨーロッパユース選手権カデットの部でシングルス準優勝、混合ダブルスで優勝した。また1994年にパリで開催された同大会のジュニアの部で混合ダブルス優勝、1995年ハーグ大会ではシングルスで準優勝した。ロートスでの巻き込みサーブからの展開が得意であり、中陣から両ハンドドライブをガンガン打ち込んでくる。その中でもバックハンドドライブはクレアンガを彷彿とさせる程の凄まじい破壊力を誇る。
■ジョニー・ワイズミュラー
(Johnny Weissmuller、1904年6月2日 - 1984年1月20日)は、オーストリア・ハンガリー帝国出身のアメリカ合衆国で活躍した水泳選手・俳優。ヨーハン・ペーター・ヴァイスミュラーとして、現在のルーマニアのティミショアラの近くでドイツ系の家庭に生まれる。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと7年契約を結んでから俳優としてのキャリアが本格的に始まった。1932年の『類猿人ターザン』でターザン役を演じ、世界にセンセーションを巻き起こした。
■コルネリウ・コドレアヌ
(Corneliu Zelea Codreanu;1899年9月13日 - 1938年11月30日)は、ルーマニアの政治家。20世紀前半のファシスト組織、鉄衛団の指導者。フシ(Huai)出身。ポーランド人の父とドイツ人の母の間に生まれる。士官学校を卒業し、砲兵将校として第一次世界大戦に従軍。1938年4月17日、コドレアヌは反政府活動の容疑で逮捕され、懲役10年を言い渡された。その後、逃亡を図ったという口実で、カロル2世の命令により30人の同志と共に殺害された。
■ローゼ・アウスレンダー
(Rose Auslander、1901年5月11日 - 1988年1月3日)は、ユダヤ系ドイツ人作家。詩人であり、翻訳の仕事も手がけている。オーストリア=ハンガリー帝国領ブコヴィナのチェルノヴィッツ(現ウクライナ領)で、ロザリーエ・シェルツァー(Rosalie Scherzer)の名で生まれる。 20歳の時、大学の友人イグナーツ・アウスレンダーと共に、生まれ故郷を後にする。ニューヨークで2年後にイグナーツと結婚したが、1926年「結婚生活の退屈のため」離婚に至る。
■アハロン・アッペルフェルド
(Aharon Appelfeld, 1932年1月16日 - )はルーマニアのブコヴィナ出身のイスラエルの現代作家。ヘブライ語で執筆する。ノーベル賞候補にも挙げられたことがある。1940年、ナチス・ドイツのホロコーストにより母が殺された後、アハロン・アッペルフェルドは父とともにゲットーに移住させられ、後には強制収容所に送られた。父の死後、アハロンは逃亡し、ウクライナで3年間潜伏生活を送り、ソビエト連邦の軍隊に加わった。
■イリナ・イオネスコ
Irina Ionesco、1935年9月3日 - )は、フランスの女流写真家。ルーマニア系フランス人。1935年9月3日パリにルーマニア移民の家庭に生まれる。幼年期をルーマニア・コンスタンツァで過ごした後、再びフランスに戻る。1965年から写真を撮影し始める。1977年娘であるエヴァ・イオネスコをモデルに写真集「鏡の神殿」(Temple aux miroirs)を発表しセンセーションを呼ぶ。
■エヴァ・イオネスコ
(Eva Ionesco, 1965年7月18日 - 別表記:エバ・イヨネスコ)は、パリ生まれ、フランスのモデル・女優。ルーマニア系フランス人で女流写真家のイリナ・イオネスコの娘。5歳の頃から母親の撮影する写真のモデルをつとめた。1977年にイリナ・イオネスコの写真集「鏡の神殿」(Temple aux miroirs)が出版された事により、エヴァはヨーロッパを代表するロリータ・スターになった。
■イシドール・イズー
Jean-Isidore Isou Goldstein, 1925年1月29日 - 2007年7月28日)は、ルーマニアで生まれパリで亡くなった詩人。映画評論家。レトリスム(文字主義)の発案者である。モーリス・ルメートル (Maurice Lemaître)に多大な影響を与えた。イシドール=イズーはルーマニアのボトシャニに1925年1月29日にユダヤ系として生まれた。イズーは厳格な家庭に生まれたために物心がついたときには多くの哲学書や文学作品に熱心な天才児であった。
■エリ・ヴィーゼル
(Elie Wiesel, 1928年9月30日 - )は、ルーマニア出身のアメリカのユダヤ人作家。自らのホロコースト体験を自伝的に記し、1986年にノーベル平和賞を受賞した。現在、ボストン大学教授。シゲトは1940年にナチス・ドイツの占領を受け、この町のユダヤ人は1944年に強制収容所へ送られた。ヴィーゼルはアウシュヴィッツで囚人番号A-7713の刺青を左腕に彫られた上、家族と死に別れた。
■デイヴィッド・ウェクスラー
(David Wechsler, 1896年1月12日 - 1981年5月2日)は、ルーマニア生まれのユダヤ系アメリカの心理学者。医療、福祉、教育など幅広い分野で活用されている診断的知能検査、WISC、WAIS、WPPSIの開発者として名高い。ルーマニア、ヤシ県のレスペズィ村にてユダヤ系の家庭に生まれ、幼時に一家でアメリカに渡る。
■ミルチャ・エリアーデ
Mircea Eliade,1907年3月9日 ブカレスト - 1986年4月22日 イリノイ州シカゴ)は、ルーマニア出身の宗教学者・宗教史家、作家(主に幻想文学および自伝的小説で有名)である。1928年、ブカレスト大学でエミール・シオランやウジェーヌ・イヨネスコに出会い、3人は途中短い中断はあるものの、生涯の友人となった。
■リディア・シモン
(Lidia Simon, 1973年7月3日 - )は、 ルーマニア出身の女子陸上競技選手(主にマラソン)である。オリンピックでは1996年・6位、2000年・2位、2008年・8位と計3回入賞、また世界陸上選手権では1997年・3位、1999年・3位、2001年・1位、2007年・5位と計4回入賞している。五輪・世界陸上と合わせて合計入賞7回は、女子マラソン選手としては史上最多記録である。
■ヨーゼフ・シュミット
(Joseph Schmidt, 1904年3月4日 - 1942年11月16日)はユダヤ人のテノール歌手・映画俳優。タウバー、ヤーライ、キープラと共に戦前のドイツ語圏に於けるオペレッタと音楽映画の黄金時代を飾ったスターテノールの一人で、ナチス・ドイツの犠牲となり悲劇の夭折を遂げた。家族は敬虔なハシディズムで、ヨーゼフはシナゴーグで少年合唱団に参加し、その当時から頭角を表し、ソプラノ歌手フェリシティ・レルヒェンフェルトの下に声楽を学び、1925年からはワイセンボーンの発明者であり、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの師であるヘルマン・ヴァイセンボルンに師事した。
■ソール・スタインバーグ
Saul Steinberg, 1914年6月15日 - 1999年5月12日)はルーマニア生まれのアメリカの漫画家でイラストレーター。日本ではスタインベルグとも表記。その知的で洗練されたスタイルで一コマ漫画の世界に革命を起こす。主に『ニューヨーカー』誌で活躍した。ブカレスト大学で1年だけ哲学を学んだ後、イタリアのミラノ工科大学に転じて建築を専攻、1940年に卒業した。ミラノでは諷刺雑誌『ベルトルド』に積極的に関与したが、1942年、ファシスト政権下の反ユダヤ的なイタリアを逃れて渡米。
■ローラ・ボベスコ
(Lola Bobesco、1921年8月9日 - 2003年9月4日)ルーマニア出身のベルギーのヴァイオリニスト、ブリュッセル音楽院教授。天才少女として父親の伴奏によりデビューした後、1934年にパリ音楽院に入学。1937年にウジェーヌ・イザイ・コンクールで第7位に入賞し、世界的に有名になる。バロック音楽とフランス音楽を得意とし、とりわけヴィオッティの協奏曲や、フランク、フォーレ、ギヨーム・ルクー、ドビュッシー、プーランクのソナタの録音は人気がある。