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ポーランド共和国
Republic of Poland
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■地理
西でドイツ、南でチェコとスロヴァキア、東でウクライナ、ベラルーシ、リトアニアと接していて、北東ではロシア(カリーニングラード)とも国境を接している。北はバルト海 (Morze Bał飛yckie) に面している。南部を除き国土のほとんどが北ヨーロッパ平野であり、全体が非常に緩やかな丘陵地帯となっていて独特の景観を有する。
■北ヨーロッパ平野
North European Plain)は中央ヨーロッパ北部に広がる平野。中央ヨーロッパ高地やズデーテン山地・カルパティア山脈の北、および北海・バルト海の南を東西に伸びており、ベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、ポーランドの各国にまたがる。
■タトラ山脈
ポーランドとスロバキアの国境に位置する山脈で、カルパティア山脈の一部。この地方はウィンタースポーツでよく知られている。
■カルパティア山脈
中央ヨーロッパ・東ヨーロッパの山脈である。主にスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと、周辺のチェコ、ハンガリー、セルビアにまたがっており、全長約1500km。
■ズデーテン山地
Sudetyは、ドイツ東部からポーランド南部を経てチェコまでのびる山地。日本語ではスデーティ山地とも表記する場合もある。最高峰はチェコとポーランドの国境にあるシニェシュカ山で、標高1,602mである。
■ノテチ川
Natissisは、ポーランド中部を東西に流れる河川である。長さ388kmはポーランド7位で、流域面積は17,330平方kmにおよぶ。ヴァルタ川の最大の支流(左支流)で、オーデル川を経てバルト海に注ぐ。
■バルト海
Baltic Seaとは、北ヨーロッパに位置する地中海。ヨーロッパ大陸本土とスカンジナビア半島に囲まれた海洋であり、日本での古称は東海。面積40万平方km。平均深度は55mと浅い海洋であるが、最大深度は459mとなっている。平均水温は3.9度。特筆すべきこととして、平均塩分濃度が全海洋平均の31.9パーミルと比べて26パーミルとかなり低いことがあげられる。
■オーデル川
Odraは、中央ヨーロッパを流れる河川である。チェコ共和国北東部のズデーテン山脈に源流を発し、ポーランド国内のシレジア(シロンスク)を北西に向けて流れ、ポーランドとドイツの国境(オーデル・ナイセ線)沿いの延長187kmを北に向かう。
■ドニエプル川
Dniepr は、ロシアから始まって、ベラルーシを経てウクライナに流れ黒海に注ぐ川である。総延長は、2285km。ドニプロという川の名はサルマタイの言葉で「はるか遠くの川」を意味する。反対にドニエストル川は彼らの言葉で「近くの川」の意味である。
■ヴィスワ川
(Wisla)は、ポーランドで最長の川である。全長は1,047km、流域面積はポーランド国土の60%以上におよぶ。ポーランド南部のベスキト山脈の標高1,106m地点に源を発し、ポーランド国内を大きく蛇行しながら北へ流れ、バルト海へと注ぐ。
■ナイセ川
チェコ北部に源流を発し、第二次世界大戦後に設定されたドイツとポーランドの国境であるオーデル・ナイセ線の一部を成す。全長252km。ドイツ側はザクセン州とブランデンブルク州、ポーランド側はドルヌィ・シロンスク県およびルブシュ県の間の国境沿いを北に流れる。
■ヴァルタ川
Vartaはポーランドの中部から西部にかけて流れる河川で、オドラ川(オーデル川)最大の支流である。合流点まではオドラ川本流よりも長い。ドイツ語ではヴァルテ川と呼ばれる。ポズナンやゴジュフ・ヴィエルコポルスキなどポーランド西部の主要都市を流れる。
■ポーランドの歴史
現在のポーランドの領域に農業従事者たちが住みついたのは約7500年前である。スラヴ人と呼ばれる民族集団がこの地域に住むようになったのは1500年前のことであるとされてきたが、近年ではそれよりもはるか前からスラヴ人の祖先(プロトスラヴ人)が定住していたという説が見直されてきている。
■ポーランド・リトアニア共和国
(1569年 - 1795年)は、ポーランド王国とリトアニア大公国の制度的国家合同(ルブリン合同)によって1569年に成立した複合君主制(ポーランドの元首とリトアニアの元首を一人の人物が兼任する)国家。16・17世紀のヨーロッパ世界においてオスマン帝国に次いで広大かつ膨大な人口を抱える巨大国家であった。
■ポーランド王国
1795年までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。
■ポーランド立憲王国
ポーランドを支配していた国家の1つ。1815年、ナポレオン・ボナパルトのワルシャワ公国に代わって設置された。正式にはポーランド王国という国名であったが、以前に存在していたポーランド王国と紛らわしいため「立憲王国」と呼ばれることが多い。
■ポーランド・リトアニア合同
Unia polsko-litewskaは、1569年のポーランド・リトアニア共和国(二民族の共和国)創設までに、ポーランド王国とリトアニア大公国が長期にわたって繰り返していた一連の法令による諸同盟を指す。1791年、共和国が5月3日憲法によって短命ながら統一国家へと移行した際も、合同に数えられる。この合同関係にある両国はポーランド・リトアニア連合王国と呼ばれることが多い。
■黄金の自由
Aurea Libertasアウレア・リベルタスは、ポーランド王国およびルブリン合同(1569年)後のポーランド・リトアニア共和国(一般に「ポーランド」と呼ばれる)において機能した、貴族支配による民主主義の政治システム。このシステムの下では、領地を有する全ての貴族(シュラフタ)が法的に平等であり、きわめて多くの諸特権を享受していた。
■ルブリン合同
Unia lubelskaは、1569年7月1日に成立した制度的同君連合である。これにより、ポーランド王国とリトアニア大公国はポーランド・リトアニア共和国に統合された。実質的には、ポーランドによるリトアニアの併合であり、ポーランド・リトアニア共和国は、選挙された一人の君主(ポーランド王・リトアニア大公)・元老院・合同議会(Sejm)によって統治されることとなった。
■カリシュの法令
「ユダヤ人の自由に関する一般契約」は、一般的には「カリシュの法令」として知られるポーランドの法律。これは1264年9月8日、カリシュにおいて大ポーランドのボレスワフ敬虔公によって発布された。この法令はポーランドのユダヤ人の法的地位の根拠となり、これによって「国民内国民」とも言えるようなイディッシュ語話者による自治組織が創始された。
■ポーランド人民共和国
Polska Rzeczpospolita Ludowaは、第二次世界大戦後の1952年に成立し、1989年に崩壊した一党独裁制(共産主義)の共和制国家である。軍事的にはワルシャワ条約機構加盟国であった。東側諸国の一員であり、実質的にはソビエト連邦の衛星国であった。
■ハルシュタット文化
中央ヨーロッパにおいて青銅器時代後期(紀元前12世紀以降)の骨壺墓地文化から発展し、鉄器時代初期(紀元前8世紀から紀元前6世紀)にかけて主流となった文化。後に中央ヨーロッパのほとんどはラ・テーヌ文化に移行した。
■シュラフタ
Szlachtaは、もとはポーランド王国の貴族階級、ないしそこに所属する人々を示し、のちにその資格がポーランド・リトアニア連合、ポーランド・リトアニア共和国、ポーランド立憲王国のポーランド、リトアニア、ルーシ(ウクライナ・ベラルーシ・西部ロシア)の各地方において存在していた貴族階級、ないしそこに所属する人々に拡大した。
■サルマティズム
Sarmatyzmは、16世紀から19世紀にかけて、ポーランド・リトアニア共和国の貴族階級およびウクライナ・コサックの生活様式や思想などにおいて支配的だった文化現象。いわゆる共和国の「黄金の自由」時代と共に興隆し、貴族階級が自らの祖先を東欧から中央アジアにかけて活動していた古代の遊牧民とみなした「サルマタイ人起源説」に基づいて、東方地域に影響された特異な文化を形成した。
■バール連盟
Konfederacja barska、1768年 - 1772年は、ポドレ地方の要塞都市バールにおいて、ポーランド貴族(シュラフタ)が結成した連盟(コンフェデラツィア)。ロシア帝国の侵略、およびポーランド・リトアニア共和国のマグナート(富裕貴族)の権力を制限しようと試みていた国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキらの改革の双方に対する政治的な自由と独立を目的としており、内外の圧迫に応戦するものだった。
■タルゴヴィツァ連盟
Konfederacja targowickaは、ロシア女帝エカチェリーナ2世の支持を受けたポーランド・リトアニア共和国のマグナート(大貴族)たちが、1792年4月27日にサンクトペテルブルクにおいて結成した連盟。連盟は1791年に4年議会の制定した5月3日憲法に反対しており、特に貴族の諸特権を制限する事項に反発していた。
■プシェヴォルスク文化
Przeworsk Cultureは紀元前2世紀から4世紀にかけてポーランドの南部と中部およびウクライナの西部に広がって存在していた鉄器時代文化。ヴァンダル族(ルギイ族)の文化と推定される。プシェヴォルスク(Przeworsk)はポーランド東南部、ポトカルパチェ県の街で、この街で典型的な遺跡が最初に発見されたことにちなむ。
■ヴィェルバルク文化
(Wielbark culture)は、1世紀初頭から3世紀にわたって、ポーランドからウクライナに見られる文化。特にゴート族と関連づけられる。ヴィエルバルク文化とも表記される。3世紀初頭までに、文化発祥の地であるバルト海沿岸では人口が激減することが確かめられており、その後はウクライナ方面に移動。
■ザルビンツィ文化
Zarubintsy Cultureは前3-2世紀ごろから1世紀ごろにプシェヴォルスク文化の東方、現在のウクライナ北部からベラルーシ南部にかけてのいわゆるドニエプル川上流地方に繁栄した文化。名称は、ウクライナのチェルカースィ州ザルービネツィ村で発見された遺跡にちなむ。南方のチェルニャコヴォ文化の系統の地方文化が拡大してくる3世紀まで続いた。
■ルサチア文化
Lusatian culture、ルサティア文化とも表記される)は後期青銅器時代から初期鉄器時代(紀元前1300年ごろから紀元前500年ごろまで)にかけて、ポーランドを中心に、チェコ・スロバキア・ドイツ東部・ウクライナのそれぞれ一部地方にかけて広がっていた文化。
■ラ・テーヌ文化
(La Tene culture)は、ヨーロッパの鉄器時代の文化であり、スイスのヌーシャテル湖北岸にあるラ・テーヌの考古遺跡で1857年 Hansli Kopp が多数の貴重な遺物を発掘したことから名付けられた。ラ・テーヌ文化は鉄器時代後期(紀元前450年からローマによって征服される紀元前1世期まで)に東フランス、スイス、オーストリア、西南ドイツ、チェコ、スロバキア、ハンガリーで発展し栄えた。
■球状アンフォラ文化
Globular Amphora culture)は紀元前3400年ごろから紀元前2800年ごろにかけて、西はエルベ川西岸地方、東はドニエプル川中流域まで広がっていた銅器時代文化。インド・ヨーロッパ語族の中央ヨーロッパ以西への進出に関して非常に重要な意味があると考えられている。
■ゲルマニア
ローマの歴史家タキトゥスが、ゲルマニア地方の風土や、その住民の慣習・性質・社会制度・伝承などについて記述した書物である。紀元98年の作。ローマ帝国の外縁に住むゲルマニア人(ゲルマン人)についてのタキトゥスの記述はいろいろな偏見の入り混じったものであった。タキトゥスは、彼の目には退廃していると映っていた当時のローマ人と比べて、ゲルマニア人の性質を「高貴な野蛮人」だという見方で伝えた。
■ブルグント族
Burgundians、は、スカンジナビア半島からボーンホルム島(Bornholm、古ノルド語による古い表記ではBurgundarholmr)、後にヨーロッパ大陸へと移住した東ゲルマン諸語を話すゲルマン人である。300年頃、「ブルグント族の島」の意味する名前を持つボーンホルム島から突如人々の姿が消えた。
■ヴァンダル族
(Vandal)は、ローマ帝国末期にヨーロッパ中央部に侵入してきた系統不明の民族で、北アフリカのカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国した。彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)は、おそらくヴァンダル族に由来する地名である。また彼らの名前は、ヴァンダリズムの語源ともなっている。
■ゴート族
ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の古民族。バルト海南部から黒海沿岸部に移動した後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」によってイタリア半島やイベリア半島に王国を築いた。ローマ帝国の軍勢と戦い、壊滅的打撃を与えたこともある精強な軍を持った民族である
■フン族
Hunは、ヴォルガ川東方から現れた遊牧民の集団で、370年頃にヨーロッパへ移住して大帝国を築いた。彼らは恐らく300年程前に中国の北隣に居住していた匈奴の子孫であり、テュルク系民族のユーラシア大陸にまたがる最初の拡張であろう。フン族の起源と言語は数世紀にわたり議論の的になっている。
■アヴァール
(Avars)は、 5〜9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。
■マジャル人
Magyarok)とは、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族。固有の言語はウラル語族のハンガリー語で、人種はコーカソイドである。極めてごく一部にモンゴロイドの遺伝子を持つ者もいる。マジャル人の総人口は約1450万人で、そのうちハンガリーには約950万人(2001年)[19]のマジャル人が居住している。
■スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性を何よりのアイデンティティとしている。
■ケルト人
Keltは、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年〜紀元前500年)を発展させた。
■ゲルマン人
Germanic peoplesは、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンジナビア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ系を祖先としインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派その他に属する言語を話していたと推定される諸部族の事を指す。ゲルマン人という用語を広めたのはユリウス・カエサルであると考えられているが、カエサルはこの言葉を「ゲルマニアに居住する非ケルト系の民族」「ガリア北東部に住む系統不明の民族集団」という二つの定義で用いた。
■バルト人
baltiは、バルト海東南岸付近(現在のリトアニアと、ラトビア)に居住するバルト語派を話す民族をいう。古くからバルト海の東南にある南のヴィスワ川、ダウガヴァ川、また ドニエプル川 北方が囲まれている地域に居住したインド・ヨーロッパ語族のグループから来ている。
■ポーランド人
Polacyは、ポーランドの主要民族。中東欧に広がるスラヴ系民族のひとつで、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派の西スラヴ語群に属するポーランド語を母語とする。英語名はPoles。民族名の起こりは、古代にポーランド平原を統一し、ポーランド王国の基礎を築いた西スラヴ人の一派の諸部族のうちの中心部族であったポラン族(別名レフ族)に由来している。
■グラル人
Gorals、意味は「高地の人々」はポーランド南部、スロバキア北部、チェコ北東部といった地域に住んでいる原住民。現在はウクライナ領となっているブコヴィナ地方と、ルーマニア北部にも見られる。
■リプカ・タタール人
14世紀初頭にリトアニア大公国に移住してきたタタールを起源とする民族集団。最初に移住してきたのは、シャーマニズム信仰を保持するために非キリスト教徒のリトアニア人たちの下に避難してきた亡命者だった。
■イディッシュ文化
(yidishkeyt)とは、ドイツ以外のドイツ語圏の方言であるイディッシュ語を母語とする人をはじめとする、アシュケナージ系ユダヤ人の文化。文学・音楽・演劇などを含む。現在、イディッシュ文化の中心はアメリカ合衆国・イスラエル・南アフリカなどに移っている。
■ポーランドの観光地
ポーランドで特筆すべきは治安の良さである。観光ガイドブックや外務省の海外渡航情報のウェブサイトではポーランドの治安が悪いような印象を読者に与えるような記述がなされていることが多いが、ポーランドの犯罪被害はまれで、アイルランド、イギリス、アイスランド、エストニア、オランダ、デンマーク、スイス、ベルギー、スウェーデン、ノルウェーといった、一般に「治安がよい」と考えられている国々よりも犯罪被害率が低い。
■国民
2002年の国勢調査によると、人口は約3698万人で、そのうち約97%がポーランド人(カシュープ人やグラル人を含む)である。かつては多民族国家であったが、第二次世界大戦当時のポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動し、現在のようなほぼ単一民族国家となった。現在までに国民のほぼ全てが母語をポーランド語としている(ポーランド化)が、民族・人種・個人信条に非常に寛容で多くの移民や政治難民を受け入れていた過去のポーランド王国の政策を反映して、彼らの先祖は原ポーランド人(レフ人)、ドイツ人、ユダヤ人、リトアニア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ルシン人、ロシア人、ラトビア人、スウェーデン人、スコットランド人、オランダ人、チェコ人、スロバキア人、フランス人、ハンガリー人、イタリア人、タタール人、アルメニア人など非常に多民族にわたっている。
■ポーランド料理
ポーランド料理は、基本的に家庭料理である。ポーランド固有の料理は少ないが、中世から近世のポーランド王国はポーランド人のほかに東欧系ユダヤ人・チェコ人・ハンガリー人・ドイツ人・リトアニア人・ラトビア人・ベラルーシ人・ウクライナ人・スコットランド人・アルメニア人・タタール人(リトアニア・タタール人)などで構成される多民族国家だったため、周辺のあらゆる民族の食習慣を取り入れて独自の食文化を構築しており、伝統料理のバラエティは非常に豊かである。
<世界遺産>
■ベラヴェシュスカヤ・プーシャ/ビャウォヴィエジャ原生林
ビャウォヴィエジャの森(ベロヴェーシの森)は、ポーランドとベラルーシの国境にまたがる原生林。ヨーロッパに残された最後の原生林と言われる。貴重なヨーロッパバイソンの棲息地としても知られる。ユネスコの世界遺産(自然遺産)に、ポーランド側は1979年、ベラルーシ側は1992年に登録された。
■クラクフ歴史地区
クラクフはポーランド文化の中心地であるといわれる。また第二次世界大戦であまり被害を受けなかったこともあり、世界遺産に登録されている旧市街には、歴史的な建造物が多く残っている。なかでも旧王宮であるヴァヴェル城や聖マリア教会、織物会館などは有名で、観光客にも人気がある。築700年程度のアパートが代々手入れされて現代でもそのままアパートとして使われていることがある。
■ヴィエリチカ岩塩坑
1044年の創業(ポーランド王国のクラクフへの遷都は1038年)。廃坑になっていない岩塩坑としては世界最古で、同時に世界最古の製塩企業でもある。深さは地下 327 m 、全長は 300 km 以上に及ぶ(廃坑になっているものも含めると世界最古の岩塩坑は同じくポーランド共和国マウォポルスカ県にあるボフニャ岩塩坑)。特筆すべきは、観光客向けの 3.5 km の坑道で、歴史上や神話上の様々なモチーフを象った彫像が並んでいる。その全ては、坑夫たちが信仰のために岩塩を彫り上げたものである。
■アウシュヴィッツ強制収容所
Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenauは、第二次世界大戦中に、ヒトラー率いるナチ政権が国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所である。
アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。周辺には同様の施設が多数建設されている。ユネスコは二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年「負の世界遺産」に認定した。
■ワルシャワ歴史地区
この地区は、ヴィスワ川沿いのWybrzeze Gdanskie通り、およびGrodzka通り、Mostowa通り、Podwale通りに沿って位置する。ワルシャワ市の最も古い地区であり、同市における最も傑出した旅行者向け観光地の一つである。エリアの中心は旧市街マーケットプレイス(市場広場)であり、伝統的なポーランドのレストラン、カフェ、商店がある。通りを囲むように、優れた中世の建造物がある。たとえば、城壁、城楼(barbican)および聖ヨハネス大聖堂(St. John's Cathedral)などである。
■ザモシチ旧市街
ザモシチは、1580年に、ポーランド・リトアニア共和国を構成するポーランド王国の宰相(大法官)にして、陸軍(ポーランド語版)の最高司令官でもあったヤン・ザモイスキが建設した町である。西ヨーロッパ・北ヨーロッパと黒海を結ぶ結節点にあり、ヨーロッパ各地にバロック建築が流行し始めた時代に、イタリア・パドゥア出身の建築家であるベルナルド・モランドが建築を指示した後期ルネサンス建築が完璧な姿で残っている
■中世都市トルニ
Thornは、ポーランド中北部ヴィスワ川のほとりに位置する工業都市で、クヤヴィ=ポモージェ県の県議会所在地。1998年までは旧トルン県の県都であった。1997年に旧市街が世界遺産に登録された。紀元前12〜11世紀 − ラウジッツ文化時代に要塞として建設。8世紀〜12世紀 - ヴィスワ川の渡し場の近くに存在。1230年 - 古トルンに要塞が建てられる。1233年12月22日 − 都市としての権利を獲得
1236年 - 現在トルンがある場所へ移動。1264年 - 新市街の建設。
■マルボルクのドイツ騎士団の城郭
Zamek w Malborkuは、ポーランドの都市マルボルク (Malbork、ドイツ語:マリエンブルク Marienburg)にある城。1997年12月に「マルボルクのドイツ騎士団の城」として世界文化遺産に登録された。グダンスクの南東約50km、ヴィスワ川下流の畔に位置する。マルボルク城は第二次世界大戦末期の1945年春、篭城したドイツ軍と攻勢をかけるソ連軍との激しい戦闘よってほとんどが破壊された。戦争が終結すると、ヤルタ協定によりマルボルクが属していた東プロイセン南部はドイツ領からポーランド領になった。
■カルバリア・ゼブジトフスカ:マニエリスム様式の建築と公園の景観複合体と巡礼公園
(Kalwaria Zebrzydowska)は、ポーランド南部にある町である。2006年時点の人口は4503人、面積は5.5 km2 である。1772年から1918年まではオーストリア帝国領だった。1975年から1998年まではビェルスコ=ビャワ県に属していたが、1999年以降はマウォポルスカ県に属している。町の歴史は、17世紀初頭に地元の有力者ミコワイ・ゼブジドフスキが、この地をキリスト受難の丘であるゴルゴタ(ラテン語名はカルウァリア Calvaria)に見立てて宗教的建造物群を建てたところから始まる。
■ヤヴォルとシフィドニツァの平和教会群
ポーランドのドルヌィ・シロンスク県にあるヨーロッパ最大の木造宗教建築物である。グウォグフにもあったが、1758年に焼失した。「平和教会」(Friedenskirchen) と名付けられた福音派の教会が、現ポーランド領下のシレジア地方のヤヴォル、シフィドニツァ、グウォグフに建てられた。ヤヴォルの教会は聖霊の祈りに基づいたもので、シフィドニツァの教会は聖三位一体の祈りに基づいたものであった。
■南部小ポーランドの木造聖堂群
中世後期に起源を持つこの地方の木造聖堂の様式は、ゴシック様式の装飾や色とりどりの細部で始まったが、木造であることから、石やレンガで出来たゴシック建築とは、構造も全体像も印象も大きく異なっている。より後の時代に建設された木造聖堂には、ロココ様式やバロック様式の装飾的影響を示しているものもある。これらの聖堂の形態は、この地方での東方典礼カトリック教会や東方正教会の存在に深く影響されている。
■ムスカウ公園
この地を所有していたヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ侯爵は、その頃イギリスで流行していた風景式庭園の手法に基づいて1815年に造園に着手した。彼は木や水流などの自然物を風景画のように配置する一方、それらと調和するような建物の建築・改築を行った。こうして彼は30年間、この庭園の整備に関わり続けた。
■ヴロツワフの百周年記念ホール
(Hala Stulecia) は、マックス・ベルクの計画に従って建てられた、ポーランド・ヴロツワフにある20世紀初頭の建造物。「人民ホール」(Hala Ludowa) ともいう。ホールはライプツィヒの戦い(諸国民戦争)の百周年を記念する展示会のために、1911年から1913年にかけて競馬場跡に建造された。内部の直径69m、高さ42mの鉄筋コンクリート製の丸屋根構造で、当時のコンクリート建築物としては最大を誇る。
■ベラヴェシュスカヤ・プーシャ/ビャウォヴィエジャの森
ビャウォヴィエジャの森(ベロヴェーシの森)は、ポーランドとベラルーシの国境にまたがる原生林。ヨーロッパに残された最後の原生林と言われる。貴重なヨーロッパバイソンの棲息地としても知られる。ユネスコの世界遺産(自然遺産)に、ポーランド側は1979年、ベラルーシ側は1992年に登録された。
■スタニスワフ・レム
1921年9月12日 - 2006年3月27日は、ポーランドの小説家、SF作家、思想家。ポーランドSFの第一人者であるとともに、20世紀SF最高の作家の一人とされる。また、著書は41の異なる言語に翻訳され2700万部が販売されており、世界で最も広く読まれているSF作家である。代表作に、2度映画化もされた『ソラリスの陽のもとに』など。
■ヴィスワヴァ・シンボルスカ
1923年7月2日 - はポーランドの詩人、随筆家、翻訳家。1996年のノーベル文学賞他様々な賞を受賞し、彼女は存命中の最も偉大なポーランドの詩人だと考えられる。1939年の第二次世界大戦開戦の時も秘密裏に教育を受けていた。1943年から鉄道員として働くことで、ドイツでの強制労働へ連行されずに済んだ。この時英語教科書の挿絵を描いていたと同時に物語や時折り詩も書きはじめていた。
■クリスティアン・ツィマーマン
Krystian Zimerman、1956年12月5日 - は、ポーランドのピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。1956年12月5日、ポーランド南部のザブジェにドイツ系ポーランド人の家庭に生まれる。父親はピアニストで、工場の設計部門に勤める傍らバーでピアノを弾くという生活をしていた。ツィマーマンは幼少期、家に置かれていたグランドピアノの蓋を開けて毛布をかぶせ、インディアンのテント遊びをしていたと語っている。5歳の頃父からピアノを学び、7歳からアンジェイ・ヤシンスキ(Andrzej Jasinki)に師事した。
■ブノワ・マンデルブロ
1924年11月20日 - 2010年10月14日はユダヤ人でフランス系アメリカ人の数学者であり、経済学者であり、自然科学者。(マンデルブロ自身は「自分は、経済学者である」と話している。)フラクタルの父として著名である。Mandelbrot(マンデルブロート)と表記される。1975年、マンデルブロは一連の図形を表現するためにフラクタルという概念を考案し、1977年にLes objets fractals, forme, hasard et dimension (英語のタイトルはFractals: Form, chance and dimension)という論文で発表した。
■エミリア・プラテル
1806年11月13日 - 1831年12月23日は、ポーランド・リトアニアの貴族、革命家。伯爵夫人。11月蜂起に参加し、かつてのポーランド・リトアニア共和国を構成していたポーランド、リトアニア、ベラルーシの国民的英雄となった。
■ブロニスワフ・コモロフスキ
1952年4月4日 - は、ポーランドの政治家。現在、同国大統領(第三共和制第4代)。元国防相(第三共和制第10代)。2005年から2007年までセイム(ポーランド下院)副議長を務め、2007年11月5日から2010年7月8日までセイム議長に就任。2010年4月10日ポーランド空軍Tu-154墜落事故発生によるレフ・カチンスキの死去に伴い、大統領代行に就任した。コルチャック家紋のマグナート(大貴族)の家系である。
■ギュンター・グラス
(Gunter Grass, 1927年10月16日 - )はドイツの小説家、劇作家、版画家、彫刻家。代表作に『ブリキの太鼓』など。1999年にノーベル文学賞受賞。ギュンター・グラスはダンツィヒ(現ポーランド領グダニスク)で生まれた。父はドイツ人の食料品店主、母は西スラヴ系少数民族のカシューブ人。当時、ヴェルサイユ条約によりドイツから切り離され、国際連盟の保護下に形式上独立国だったダンツィヒ自由市で、ドイツとポーランドをはじめとする様々な民族の間で育ったことが、その後のグラスの作品に大きく影響することになった。
■エレン・シュヴィールス
(Ellen Schwiers, 1930年6月11日 - )はドイツの女優。ヴァイマル共和政時代のシュチェチン(現在はポーランド)で生まれる。父も俳優で、彼女が子供の頃から移動劇団でドイツ中を巡業していた。そのため、何度も学校を転校した。終戦後、ヘッセン州のマールブルクに落ち着き、演技の専門教育を受けた。
■カール・レーヴェ
(Carl Loewe, 1796年11月30日 - 1869年4月20日)はドイツ初期ロマン派音楽の作曲家・歌手。本名はヨハン・カール・ゴットフリート・レーヴェ(Johann Carl Gottfried Lowe)。バラードと呼ばれるタイプの、劇的な内容と比較的長い演奏時間を要する、物語詩への作曲を得意としており、そのため後にフーゴー・ヴォルフによって尊敬された。こんにちではさほど有名ではないが、リートだけでも400曲、そのほかに器楽曲も残した精力的な作曲家であった。シューベルトとほとんど同時期に、ゲーテの詩による《魔王》を完成させていたことは有名。
■レフ・ヴァウェンサ
1943年9月29日 - は、ポーランドの政治家、労働組合指導者、電気技師で、ポーランド共和国の第三共和制初代大統領。ノーベル平和賞受賞者。ポーランドのクヤヴィ・ポモージェ県リプノ郡にあるポポヴォという小さな村で生まれる。高校を卒業したのち、1967年グダニスク造船所(旧レーニン造船所)で電気技師となる。1980年の独立自主管理労働組合「連帯」創設メンバー。当時の政策を批判したため、戒厳令により身柄を拘束された。その後1990年の大統領選挙で当選し、次々と自由化・民営化を行っていく。
■ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ
1923年7月6日 - は、ポーランドの軍人、政治家で、元ポーランド統一労働者党第一書記、首相、国家評議会議長、ポーランド大統領。ポーランドのルブリン県プワーヴィ郡のクルフで、愛国主義的な貴族の子として生まれる。祖父は1863年にロシア帝国支配下で起こった一月蜂起に参加し、父ヴワディスワフも1920年のポーランド・ソヴィエト戦争に参加している。
■タデウシュ・コシチュシュコ
Andrzej Tadeusz Bonawentura Kosciuszko 、1746年2月4日 - 1817年10月15日)はポーランド・リトアニア共和国の将軍にして政治家、アメリカ合衆国の軍人で、1794年の蜂起の指導者としてポーランドとリトアニアでは国民的英雄である。1793年の第2回ポーランド分割後にポーランドに戻り、主にジャコバン派と農民たちを糾合してクラクフで蜂起。最大の戦闘「ラツワヴィツェの戦い」(記念館がヴロツワフにある)でロシア軍に大勝し一時はワルシャワ、ヴィリニュスをおさえたが、やがて兵力を次々と補充してきたロシア・プロイセン連合軍に圧倒された。
■ハインリヒ・シェンカー
(Heinrich Schenker, 1868年6月19日 - 1935年1月13日)は、ポーランド生まれの音楽学者である。楽曲分析の理論のひとつ、シェンカー理論の創始者として知られる。ポーランドのガリチア地方のヴィシニョフチキ Wisniowczyki で生まれる。その後、ウィーンへ移住し、そこでアントン・ブルックナーに師事。ピアノ伴奏者や室内楽の演奏家として活躍する傍ら、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アントニー・ファン・ホーボーケン、フェリクス・ザルツァーらにピアノと音楽理論を教える。
■ブルーノ・シュルツ
Bruno Schulz, 1892年7月12日 - 1942年11月19日は、ポーランドのユダヤ系作家・画家。シュルツは、ヴィトルド・ゴンブローヴィチ、スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェヴィチとともに、戦間期ポーランドでひときわ異彩を放った作家の一人として再評価されており、現在その作品は世界十数ヶ国に翻訳されている。
■イツホク・レイブシュ・ペレツ
Izak Lejb P., 1851/2年5月18日 - 1915年4月3日はポーランドのイディッシュ語作家。戯曲・詩・短編小説など多作。出版社『ユダヤ文庫』(ワルシャワ、1891年-95年)の出版に参加。モダニズム文学の手法を取り入れて象徴主義的な作品を残し、イディッシュ文学の水準を高めた。イディッシュ文学の第一世代を代表する作家の一人。
■ジョゼフ・コンラッド
Joseph Conrad, 1857年12月3日 - 1924年8月3日はイギリスの小説家。本名テオドル・ユゼフ・コンラト・コジェニョフスキ(Teodor Jozef Konrad Korzeniowski)としてベルディチュフ(当時ポーランド、現ウクライナの一部、ウクライナ語ベルディチフ)に生まれる。父親は没落したシュラフタ(ポーランド貴族)の小地主で、ロシア占領下のポーランドにおいて独立運動を指導していたが摘発。捕らえられシベリアでの強制労働に処され、このときコンラッドは5歳だった。
■チェスワフ・ミウォシュ
Czesł悲w Milosz 1911年6月30日 - 2004年8月14日はリトアニア系ポーランド人の詩人、作家、エッセイスト、翻訳家。共産主義体制下のポーランドからフランスへ亡命。アメリカ合衆国でポーランド文学教授となり執筆活動を行った。1980年にノーベル文学賞受賞。1939年、ナチスによるポーランド侵攻。ミウォシュはワルシャワで詩集を地下出版し、文化面での抵抗運動を行った。
■アンジェイ・ワイダ
Andrzej Wajda、1926年3月6日 - はポーランドの映画監督。1926年、ポーランド東北部のスヴァウキで生まれる。父はポーランド軍大尉で対独戦中にカティンの森事件に巻き込まれて亡くなる。青年時代に、浮世絵をはじめとした日本美術に感銘を受け、芸術を志す。第二次世界大戦中は対独レジスタンス運動に参加した。1958年の『灰とダイヤモンド』で、反ソ化したレジスタンスを描き、象徴的表現を多用した鮮やかな描写は西側でも高い評価を受け、ヴェネツィア国際映画祭批評家連盟賞を受賞した。
■クシシュトフ・ザヌッシ
(Krzysztof Zanussi, 1939年6月17日 - )はポーランド・ワルシャワ出身の映画監督。 クシシュトフ・ザヌーシとも表記される。ワルシャワ大学で物理学を、クラクフのヤゲロニアン大学で哲学を学ぶ。 ポーランド映画史を代表する映画監督の一人。1970年代にポーランドの「社会的不安の映画」運動の中心的存在として活躍する。インテリ層の道徳的ジレンマを描いた作品が多い。
■ヴィトルト・ルトスワフスキ
1913年1月25日 - 1994年2月7日は、ポーランドを代表する作曲家、ピアニスト。ヴィトルド・ルトスワフスキとも呼ばれる。「スターリンは死んだ。これからは私たちの時代だ」。ポーランドは東欧の共産主義諸国としては例外的にスターリンの死後前衛芸術への門戸を開き、ポーランド楽派や映画のポーランド派などがそれらの活動の前衛性で西側諸国にも注目された。
■カロル・シマノフスキ
(Karol Maciej Szymanowski, 1882年10月6日 - 1937年3月29日)は、ポーランドの作曲家。激動する時代に合わすかのようにその作風を何度か変えながら4つの交響曲、2つのヴァイオリン協奏曲、2つの弦楽四重奏曲、2つのオペラ、ピアノ曲や歌曲を残した。シマノフスキの音楽教育の環境を考えれば至極当然であるが、創作初期には、ショパン、ワーグナー、スクリャービン、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガーらの影響が明らかな後期ロマン派の作風の作品を創作した。
■ミェチスワフ・カルウォーヴィチ
(Mieczysł悲w Karł被wicz, 1876年12月11日 - 1909年2月8日)はポーランドの作曲家・指揮者・登山家・作家・写真家。 存命中は、とりわけその華麗な交響詩により、ポーランド音楽界の再生を担う希望の星として、シマノフスキ以上に将来を有望視されていたが、タトラ山脈にてスキー遠征中に、雪崩に遭遇し死去した。 ドイツ観念哲学を愛好し、ショーペンハウアーの悲観主義哲学やニーチェの超人思想に影響を受け、悲劇的かつ感傷的な曲想を好んで展開することになった。
■タデウシュ・バイルト
(Tadeusz Baird, 1928年7月26日グロジスク・マゾヴィエツキ - 1981年9月2日ワルシャワ)はポーランドの現代音楽の作曲家。ユネスコ国際作曲家会議で、作曲作品が1959、1963、1966年に次々と入賞して国際的に評価された。カジミェシュ・セロツキとともに、現代音楽祭ワルシャワの秋を設立。セロツキ、ヤン・クレンツとともにグループ49を旗揚げし、新古典的な作風からスタートしたが、やがて50年代以後の前衛のイディオムを参照して、独自の音楽性に到達。
■イレーナ・センドラー
Irena Zgrzembska、1910年2月15日 - 2008年5月12日)はポーランド人カトリック教徒の慈善活動家。第二次世界大戦中は「ポーランド地下国家(Polish Underground State)」と反ホロコーストレジスタンス「ジェゴタ」の活動家。2500人にものぼるユダヤ人児童を見つからないようにワルシャワ・ゲットーから連れ出し、偽造書類を作成したりゲットーの外の個人やグループの家にかくまったりすることにより救出する活動を行った。
■ズビグニェフ・ボニエク
Zbigniew Boniek、1956年3月3日 - は、ポーランド・ブィドゴシュチュ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFW、MF。地元のサッカークラブ、ザビシャ・ブィドゴシュチュでサッカーを学び、1975年にヴィジェフ・ウッチと契約して選手キャリアをスタートさせる。当初はDFとしてプレーしていたが、後にFWへ転身すると才能が開花。
■クリストフ・ウダルチャク
1981年9月19日 - は、ポーランドのプロボクサー。ワルシャワ出身。現WBC世界クルーザー級王者。元IBF世界クルーザー級王者。ポーランドを主な活動拠点として、無敗のまま2001年12月7日に空位のIBFインターコンチネンタルクルーザー級王座を獲得。総試合数47.勝ち44.KO勝ち32.敗け2.引き分け1
■イダ・カミンスカ
(Ida Kaminskaイーダ・カミーィンスカ、1899年9月18日 - 1990年5月21日)はポーランドの女優・演出家。5歳から劇場での仕事を始めた。1912年に母親と姉と共に映画に出演。その後、映画には他に4本しか出ていない。しかしながら、1965年に出演した『大通りの店』ではアカデミー助演女優賞にノミネートされた。最後の映画出演は1970年の『さまよえる天使』である。
■イェジ・ククチカ
(Jerzy Kukuczka、1948年3月24日 - 1989年10月24日)は、ポーランドの登山家。1987年9月18日に、ラインホルト・メスナーに次いで世界で2番目に8000メートル峰全14座登頂を成し遂げた。カトヴィツェ出身。1989年10月24日、未登(当時)のビッグ・ウォールであるローツェ南壁登攀の途中、標高約8,200mの部位から転落死した。
■モリス・コーエン
モリス・"二挺拳銃"・コーエン(Morris "Two-Gun" Cohen 1887年 - 1970年)はポーランド生まれのイギリスの冒険家。孫文の用心棒、中国軍の陸軍大将代理として知られた。出稼ぎでカナダ横断鉄道の工事に従事している中国系移民たちと親しくするようになった。サスカトゥーンで中華料理店主が強盗に遭っているところに出くわして不埒者を殴り倒し、道に放り出したことがきっかけだった。この当時、身を張って中国人を助けるような白人はほとんどいなかった。中国人たちは彼を歓迎し、ついには同盟會(孫文を中心とする反満州組織)に入るよう勧誘した。こうして彼は中国人の代弁者となった。
■カジミェシュ・トヴァルドフスキ
1866年10月20日 - 1938年2月11日)はポーランドの哲学者。ウィーンに生まれ、ウィーン大学にてフランツ・ブレンターノの薫陶を受ける。1891年、デカルトに関する論文で博士号を取得。1894年には教授資格を取得し、1895年よりルヴフ大学哲学教授に就任。精力的な教育活動を展開し、いわゆる「ルヴフ=ワルシャワ学派」の礎を築いた。彼の熱っぽい講義は絶大な人気を博し、早朝より聴講のための場所取りをする学生までいたという。
■ポール・ムニ
Paul Muni, 1895年9月22日 - 1967年8月25日はアメリカ合衆国の俳優。マーロン・ブランドが最も尊敬した俳優と言われている。オーストリア=ハンガリー帝国・ガリツィアのルヴフ(現在はウクライナ領リヴィウ)でユダヤ系の家に「メシレム・マイエル・ヴァイゼンフライント」として生まれる。彼が7歳の時に家族でアメリカに移住した。両親はイディッシュ演劇に出演する俳優であり、彼も12歳の時からイディッシュ語舞台に立っていた。
■グジェゴシ・ラトー
Grzegorz Lato、1950年4月8日 - は、ポーランド出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者、政治家。現役時代のポジションはFW。100mを11秒台で走る俊足とドリブルが武器のポーランドを代表する右サイドのウイングプレイヤー。1974年の西ドイツW杯では7得点を挙げ得点王に輝き、ゲームメーカーのカジミエシュ・デイナ、左ウイングのロベルト・ガドハと共に3位入賞に貢献し、ポーランドサッカーの一時代を築いた。
■ワンダ・ランドフスカ
(Wanda Landowska, 1879年7月5日:ワルシャワ - 1959年8月16日:コネチカット州レイクヴィル)は、ポーランド出身のチェンバロ奏者、ピアニスト。彼女は忘れられた楽器となっていたチェンバロを、20世紀に復活させた立役者である。4歳のころからピアノを始める。その後、ワルシャワ音楽院に進学しピアノの勉強を続ける。13歳の時にバッハの作品を連ねたリサイタルでデビュー。19歳の時にはベルリンで対位法の勉強を進める傍らで、モーリッツ・モシュコフスキに師事し作曲の勉強も行う。21歳の時、パリのスコラ・カントルムに招かれ教鞭をとる。
■ゼノン・ヤスクワ
(Zenon Jaskuł悲、1962年6月4日 - )は、ポーランド、ゴルズヴ出身の元自転車競技(ロードレース)選手。アマチュア時代には個人タイムトライアルのあまりの強さで大量の足切り失格者を出したことから「暗殺者」とまで呼ばれた。GB-MG時代の1993年のツール・ド・フランスでは大活躍を見せ、チームタイムトライアルの牽引車として区間優勝の原動力になったうえ、山岳区間ではチームメイトが序盤で力を使い果たしアシストがまったく機能しない状態にもかかわらず孤軍奮闘。
■アレクサンデル・ヴォルシュチャン
(Aleksander Wolszczan 、1946年 - )はポーランドの天文学者である。最初の太陽系外惑星の発見者とされる。1990年にデール・フレール(w:Dale Frail)とアレシボ天文台の観測結果から、パルサーPSR B1257+12を発見した。観測結果からこのパルサーは地球の質量の4.3倍と2.8倍の質量で、軌道が0.36AUと0.48AUの2つの惑星をもつことを発見した。これは結果が認められた最初の太陽系外惑星となった。
■アンジェイ・ムンク
(Andrzej Munk, 1929年10月16日 - 1961年9月20日)は、ポーランドの映画監督。クラクフに生まれる。第二次世界大戦中にドイツがポーランドを侵略した際、ユダヤ系であったためにワルシャワに移り隠れ住んだという。ワルシャワ蜂起に参加するも鎮圧され、クラクフに戻りロープウェイの管理人として働く。ホロコースト映画『パサジェルカ』を撮影するために訪ねていたアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から自宅に戻る途中、ウォヴィチュの近くで自動車事故による不慮の死を遂げる。
■リシャルト・カプシチンスキ
Ryszard Kapuscinski(ヘルプ / リンク)、1932年3月4日 - 2007年1月23日)は、ピンスク出身のポーランド人ジャーナリスト、作家、新聞社通信員。世界中から「20世紀の最も偉大なジャーナリスト」、「最も生気にあふれた報道記者」と評価される、現代ジャーナリズムの巨人。
■イグナシー・ドメイコ
Ignacy Domeyko1802年7月31日 − 1889年1月22日は19世紀のポーランド、リトアニア系の地質学者、鉱物学者で、チリで、地理学、地質学、鉱物学を研究した。当時ロシア帝国で、現在はベラルーシのニャスヴィシュに生まれ、その後現在はリトアニアのヴィリニュス大学で学んだ。学生時代に、ポーランドの文化運動や独立運動に加わり、何度か投獄され、1830年11月の反乱に参加し、1831年は亡命を余儀なくされ、ドイツを通り、フランスに逃れ、フランスでパリ鉱山学校で工学の学位をとった。
■ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチ
(Jaroslaw Iwaszkiewicz, 1894年2月20日 - 1980年3月2日)はポーランドの小説家、詩人。ウクライナのカルニク村でポーランド人の家庭に生まれ、キエフ大学で法学を修める。第一次世界大戦の後にポーランドのワルシャワへ移って議員秘書、外務省の職員として仕事を得た。一貫して、人間の孤独、愛と死、運命の悲劇性をテーマに数多い作品を発表した。
■ヤン・コハノフスキ
(Jan kochanowski、1530年 シツィナ - 1584年8月22日 ルブリン)はルネサンス時代のポーランドの詩人、王室秘書官。折衷主義哲学(ストア主義、エピクロス主義、ルネサンス期の新プラトン主義、そして古代とキリスト教を結びつけた神への深い信心の融合)の代表的な人物でもある。
■アイザック・バシェヴィス・シンガー
(Isaac Bashevis Singerはポーランド生まれのアメリカのノーベル賞作家(1902年11月21日あるいは1904年7月14日 - 1991年7月24日)。イディッシュ作家として初めてノーベル文学賞を受賞した。
■ルドヴィコ・ザメンホフ
Ludwig Lazarus Samenhof, 1859年12月15日 - 1917年4月14日)は、ユダヤ系ポーランド人の眼科医・言語学者で、現在のところ最も広く使われている人工言語エスペラントの創案者。
■マウゴジャータ・グリンカ
(Małgorzata Glinka-Mogentale, 1978年9月30日 - )は、ポーランドの女子バレーボール選手。ワルシャワ出身。センタープレーヤーとして活躍。ウイングスパイカー転向後は191cmの長身を生かし、高さだけでなくセンターとの絡みでの時間差、そして強烈なバックアタックを兼ね備えている。
■ズビグニュー・リプチンスキー
(Zbigniew Rybczynski, 1949年1月27日 - )は、ポーランド出身の映像作家・映画監督。女子美術大学客員教授。ウッチ出身。ポーランドの名門映画学校ウッチ映画大学を卒業後、ヨーロッパ・アメリカを中心に映像作家、脚本家、カメラマンとして活躍。現在、アメリカで制作会社ズビッグ・ビジョンを主宰。1982年『タンゴ』にて、第55回アカデミー短編アニメ賞を受賞。1990年『オーケストラ』にてエミー賞特殊技術賞受賞。アヌシー国際アニメーション映画祭ほか、数々の国際的な賞を受賞している。
■ステファン・バナフ
Stefan Banach, 1892年3月30日 - 1945年8月31日はポーランドの数学者。ルヴフ工科大学にて工学を学び、1964年前期課程を修了した。その後、ルヴフ大学のシュタインハウスと劇的な出会いをするまでの経歴は分かっていない。バナフはクラクフのプランティ公園で、仲間と数学の話をしているときに、シュタインハウスに話しかけられ、当時未解決問題だった、実解析関連の問題をたちまち解いて見せた。これをきっかけとして、数学の才能を認められ数学者に転じる。1920年の博士論文では、こんにちバナッハ空間とよばれている概念が導入されており、この論文は現代的な関数解析の幕開けを告げるものとして高く評価されている。
■クリスタ・ヴォルフ
Christa Wolf、1929年3月18日 - 2011年12月1日は、ドイツの小説家。1929年、プロイセン州のランツベルク・アン・デア・ヴァルテ(現在のポーランド領ゴジュフ・ヴィエルコポルスキ)に生まれる。大学でドイツ文学を学んだ後、1961年に作家デビュー。1963年、ベルリンの壁建設によって別れ別れになった恋人を描く『引き裂かれた空』が大きな反響を呼び、東ドイツを代表する作家と目される。
■ハンス・ベルメール
(Hans Bellmer, 1902年3月13日 - 1975年2月23日)は、ドイツ出身の画家、グラフィックデザイナー、写真家、人形作家。ドイツ帝国のカトヴィッツ(現在のポーランド領カトヴィツェ)出身。ナチ党の政権掌握後の1930年代中頃に、等身大の創作人形を制作・発表したことで知られる。芸術家としても超現実主義者(シュルレアリスト)に分類されるベルメールだが、ドイツの情勢を支持する仕事はしないと宣言し、ナチズムへの反対を表明した。
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ポーランド Poland
中央ヨーロッパに位置する共和制国家。北にはバルト海が広がり、北東ではロシアの飛地であるカリーニングラード州とリトアニア、東ではベラルーシとウクライナ、南ではチェコとスロバキア、西ではドイツと接する。首都はワルシャワ。
■ワルシャワ
Warsawは、ポーランドの首都でかつポーランド最大の都市。マゾフシェ県の県都。中央ヨーロッパの政治、経済、交通の要衝でもある世界都市。ヴィスワ川の中流、マゾフシェ地方に位置し、市内をヴィスワ川が貫通する。ワルシャワについての最古の文書は13世紀、1285年のものである。当時のワルシャワはマゾフシェ公爵領に属し、漁業を中心とする寒村であった。
■ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団
ワルシャワ歌劇場の管弦楽団を母体として1901年にポーランドの貴族や財界人の主導のもとに設立された。初代音楽監督はエミール・ムウィナルスキで、第1回公演には有名なピアニストのイグナツィ・パデレフスキも出演した。
■ヤギェウォ大学
ヤギェウォ大学(Uniwersytet Jagiellonski)はクラクフにあるポーランド最古の大学。1364年、カジミェシュ3世により創建された。ニコラウス・コペルニクスなどが学んだ。ポーランドを代表する総合大学で、近年では大学ランキングでワルシャワ大学を抜いてポーランドのトップに立つこともある。夜間部など含め学生総数は約38,000人。
■ヴロツワフ大学
University of Wroclaw、は、ポーランドのヴロツワフにある大学。ヴロツワフに大学が設立されたのは16世紀に溯る。16世紀にヴロツワフの市の委員会は大学を設立し ウラースロー2世 に裁可を受けたが、クラクフのヤギェウォ大学の反対により大学はすぐに閉鎖された。200年後の1702年頃神聖ローマ皇帝レオポルト1世 がイエズス会の小さいアカデミーを創設し、レオポルト・アカデミーと命名した。
■ウッチ大学
University of Lodzはポーランド共和国ウッチ県ウッチにある国立大学。1945年創設。
■リヴィウ大学
Ivan Franko National University of L'vivは、ウクライナの都市リヴィウにある大学である。リヴィウ大学は1661年、ポーランド王のヤン2世がそれまであったイエズス会系のギムナジウムを大学としたのが始まり。
■ワルシャワ大学
Uniwersytet Warszawskiはポーランドのワルシャワにある大学。1816年、ロシア皇帝アレクサンドル1世がポーランド立憲王国に大学を開設する権限を与えたことにより法学行政学、医学、哲学、神学、芸術学の5学部体制で設立された。
■グダニスク大学
University of Gdanskはポーランドのグダニスクにある大学である。1970年、ソポトの高等経済学校(前身は高等海運学校)とグダニスクの高等教育学校との合併によって設立された。9つの学部に33,000人の学生が学んでいる。
■アダム・ミツキェヴィチ大学
Adam Mickiewicz Universityはポーランドのポズナンにある大学である。ポズナン大学とも。1919年に設立された。設立当時はポーランドの最初の王朝ピャスト朝にちなんでピャスト大学という名称であった。
■マリー・キュリー・スクウォドフスカ大学
Maria Curie-Sklodowska Universityはポーランド共和国のルブリン県ルブリンにある大学。1944年創設。ルブリン大学とも呼ばれる。
■ルブリン医科大学
Medical University of Lublinは、ルブリンに本部を置くポーランドの医科大学である。1944年に設置された。
外務省:ポーランド大使館
在ポーランド日本国大使館
■バリツェ空港
(Port lotniczy Krakow-Balice, Balice Airport) は、ポーランド、マウォポルスカ県クラクフにある空港である。
■ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港
Warsaw Frederic Chopin Airportとは、ポーランドの首都ワルシャワにあるポーランド最大の空港。かつてはオケンチェ空港(Okecie Airport)が正式名称であった。ポーランドの空の玄関口であり、LOTポーランド航空の本拠地空港である。
■クラクフ
Krakau はポーランド南部にある都市で、マウォポルスカ県の県都。ポーランドで最も歴史ある都市の一つであり、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではクラクフがポーランド王国の首都であった。ポーランドの工業、文化の主要な中心地でもある。
■ヴロツワフ
ポーランド西部にある第4の都市で、ドルヌィ・シロンスク県の県都。歴史的にシロンスク地方の中心都市で、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつである。市内にはオドラ川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっている。ポーランドでもっとも住民所得の高い都市の一つである。とりわけ有力なものは、バス・自動車製造業、化学製品製造や電子産業である。
■グダニスク
ポーランドの都市。バルト海南部に面するポモージェ地方東部に位置し、グダニスク湾を擁するポーランド最大の港湾都市であり、ポモージェ県の県都である。「グダニスク」という地名は、ここを流れるモトワヴァ川の古名であるグダニャ川から来ている。これは原インド・ヨーロッパ語で「滔々と流れる水(すなわち河)」が原義となる語幹から成り立つ語。
■シュチェチン
(Szczecin)はポーランドの都市で、西ポモージェ県の県都。ドイツ名はシュテッティン(Stettin)。ポーランド北西部にあり、ドイツとの国境沿いに位置する。バルト海に面し、ポーランドではグダニスクに次ぐ第2の規模の港湾都市で機械工業などが盛んである。歴史的にプロイセンの影響下にあった時代が長い。
■ポメレリア
(Pomerelia, はポーランド北部のバルト海沿いにある歴史的地方名。ポメラニア東端部にあり、北はバルト海に、東はヴィスワ川とその河口の三角州に接している。ヴィスワ川の東はプロイセン。
■ウッチ
ポーランド中央部の都市で、ウッチ県の県都。ウッチ高地に位置する。ポーランド第2の都市、最大の工業都市であり、繊維工業の中心地でもある。ウッチが最初に記録に登場したのは1332年のことである。18世紀の終わりまでは小さな農村で、ヴウォツワヴェック司教区の所領だった。
■ビャウィストク
ポーランド北東部にある都市で、ビャウィストク県の県都であった。現在はポドラシェ県の県都。ポーランド北東部最大の都市である。
■チェンストホヴァ
ポーランド南部シロンスク県の都市。ヴァルタ川が流れる。市は、聖パウルス派修道院で黒い聖母を祀るヤスナ・グラ修道院で知られる。毎年1千万人もの巡礼者が世界各地から集まる。
■ポズナン
ポーランド最古の都市の一つで、中世ポーランド王国の最初の首都である。この地には石器時代から人が住んでいたが、8世紀から9世紀に形成されたスラヴ人の城塞集落が都市としてのポズナンの起源とされる。
■グディニャ
古くから記録に登場する漁村であったが、新たに港湾が建設され大都市となったのはポーランド独立後の1920年代以降のことである。バルト海のグダニスク湾に面しており、ポーランドの主要な港湾の一つである。
■カトヴィツェ
Katowiceは、ポーランドの都市。シロンスク県の県都で、同地方を代表する工業都市。近隣の都市としては、約70キロ東にクラクフがある。また30キロ南東に位置するオシフィエンチム(独語名:アウシュヴィッツ)には、アウシュヴィッツ強制収容所が残されている。
■ルブリン
(Lublin)はポーランドの都市で、ルブリン県の県都。 ルブリン県の政治、産業、経済の中心地。市内には公園や森林も多く、緑豊かな閑静な街である。
■オルシュティン
Olsztynは、ポーランドヴァルミア=マズールィ県の県都で一番大きい都市である。主な文化・文教・経済活動の中心や一般官庁ばかりでなく、重要な鉄道連絡駅及び交通の要所でもある。町の建設は、14世紀にドイツ騎士団の手で始まった。
■オポーレ
(Opole)は、ポーランド南西部の都市。オポーレ県の県都。同県の経済、文化の中心地。ポーランドでも長い歴史を持つ都市の一つで、中世前半には上シロンスク地方の主都であった。
■ヤヴォジュノ
Jaworznoはポーランド西部、シロンスク県の都市。人口200万人を抱える「上シロンスク広域都市圏」に属し、その都市圏のもっとも外れに位置するのどかなベッドタウン。
■ソポト
(Sopot)はポーランドの都市。ポモージェ県に属する。人口は約4万人(2006年)。バルト海に面する観光都市。国内外から多くの観光客が訪れる。ソポト国際音楽祭も開催される。大都市であるグダンスクとグディニャの中間に位置しており、両都市まで約10キロ程度。
■ジェシュフ
カルパート山脈の北麓、高地に位置する都市。クラクフ(西に約150キロ)とウクライナのリヴィウ(東に約150キロ)の中間地点にあり、両都市と鉄道で結ばれている。
■タルヌフ
Tarnowは、ポーランドの都市。マウォポルスカ県に属する。ビャワ川沿いの工業都市。近隣の都市としては、約75キロ西のクラクフ、100キロ北のキエルツェ、75キロ南のムシナなどが挙げられる。
■トルン
Thornは、ポーランド中北部ヴィスワ川のほとりに位置する工業都市で、クヤヴィ=ポモージェ県の県議会所在地。ワルシャワからの距離はおよそ180kmで、ヴィスワ川の中流に位置する。
■ジェロナ・グラ
Zielona Gora,は、ポーランドの西部、ルブシュ県の都市である。市名の意味は、ポーランド語とドイツ語で同じく「緑の山」となる。ジェロナ・グラは数世紀に渡ってワインの生産で知られる。現在ポーランド国内で白ワインが作られている2箇所の1つである(もう1つはマゾフシェ地方のヴァルカ)。
■レグニツァ
Liegnitz)は、ポーランド南西ドルヌィ・シロンスク県の都市。第二次世界大戦後にナチス・ドイツが敗北すると、リーグニッツとナイセ川東部のシレジア全土は、1945年のポツダム会談によってポーランドの領土となった。
■ヴォンブジェジノ
ポーランド、クヤヴィ=ポモージェ県の町で、ヴォンブジェジノ郡の郡都。古い通商路が2つの湖、フリーデックゼー(Friedecksee)とショロスゼー(Schlosssee)の間を通っていた。8世紀、そこにスラブ民族が住居と防壁を建設した。
■ヘウム
ポーランド東部の都市。ルブリンの南東、ザモシチの北、ビャワ・ポドラスカの南に位置し、ウクライナ国境からわずか25kmしか離れていない。
■ザコパネ
Zakopane)はポーランドの都市。マウォポルスカ県に属する。ポーランド屈指の避暑地、保養地であり、ウィンター・スポーツも盛んである。
■チャルトリスキ美術館
Muzeum Ksiazat Czartoryskich w Krakowieはポーランド南部の都市クラクフにある、ポーランド最古の美術館である。1801年にイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人によって設立された。現在のルブリン県の都市プワヴィで設立された。
■クラクフ音楽アカデミー
Akademia Muzyczna w Krakowieはポーランドのクラクフにある音楽大学。1888年、ウワディスワフ・ジェレンスキによって設立された。現代音楽作曲家のヴィトルト・ルトスワフスキや『ヒロシマの犠牲者の追悼のための哀歌』で評価されているクシシュトフ・ペンデレツキの出身校として知られている。
■ショパン音楽アカデミー
Akademia Muzyczna im. Fryderyka Chopina,は、ポーランドのワルシャワにある国立音楽大学。ポーランドで最も伝統があり、最も規模の大きなアカデミーである。アカデミーは1810年に国立演劇学校として設立された。院長のユゼフ・エルスネルにより音楽科の基盤が作られた。1821年にワルシャワ大学の音楽学部に組み込まれ、本格的な音楽教育を施した。1826年から1829年までの3年間、フレデリック・ショパンはこのアカデミーで学んだ。
■ウッチ映画大学
「レオン・シレル記念国立ウッチ高等映画テレビ演劇学校」は、未来の俳優、演出家・映画監督、写真家、撮影監督・撮影技師、テレビの制作スタッフを養成するためのポーランドの名門校である。1948年3月8日、ウッチに設立された。
■クラクフ工業大学
Cracow University of Technology、ポーランド語Politechnika Krakowskaは、クラクフに本部を置くポーランドの国立大学である。1946年に設置された。
■国名
正式名称はポーランド語で Rzeczpospolita Polska(ジェチュポスポリタ・ポルスカ)。通称 Polska。略称 RP。ポーランドの国名の「ポルスカ」は野原を意味する「ポーレ」 が語源と言われている。
1.面積:32.3万平方キロメートル(日本の約5分の4、日本から九州、四国を引いた程度)
2.人口:約3,814万人(2008年)
3.首都:ワルシャワ(約171万人)
4.民族:ポーランド人(人口の約97%)
5.言語:ポーランド語
6.宗教:カトリック(人口の約90%)
966年 ピアスト朝、キリスト教を受容
1386年 ヤギエウォ王朝の成立
1573年 選挙王朝
1795年 第3次分割によりポーランド国家消滅
1918年 独立回復
1945年7月 国民統一政府の樹立
1989年9月 非社会主義政権の成立
1999年3月 NATO加盟
2004年5月 EU加盟
■主要産業:食品、自動車、金属、化学製品、燃料
■主要貿易品目(1)輸出 機械機器類、輸送機械、金属製品(2)輸入 機械機器類、鉱物性燃料、金属製品
■ズウォティ
(złoty) は、ポーランドの通貨単位である。1ズウォティは100グロシュ。 ISO 4217コードに基づくPLN(波: polski nowy, 英: polish new)と表記される。ポーランド国内ではPLN表記が優勢になりつつある。日本ではズロチまたはズオチと呼ぶこともある。
■ポーランドの経済
機械、エレクトロニクス、航空機、鉄鋼、化学製品、自動車、食品、繊維などの工業が主。伝統的に競争力を持つ産業は航空機(部品、とくにエンジンの生産)、鉄鋼、化学製品、食品である。かつては造船が盛んだった。現在は外資が中心となり自動車生産が盛ん。
■工業
先進国として、EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる第二次産業が行われている。特にパーソナルコンピュータやテレビなどの情報家電の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。乗用車、トラック、バス、路面電車、鉄道車両などの生産も盛んで、ソラリス、PESA、Newagなどといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。
■農業
ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家であり、社会主義時代にも国有化・集団化の動きは無かった。国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。このような小規模農家はコスト効率が悪い反面、近年のオーガニックブームなどで、付加価値の高い作物を作るのに適しており、高品質の有機栽培作物が他のヨーロッパ諸国に盛んに輸出されている。
■鉱業
ポーランドは鉱物資源が豊富であり、石炭を中心として多種多様の非鉄金属に恵まれている。石炭の生産量は世界第8位である。ポーランドのバルト海沿岸は琥珀の世界最大の産地で、グダンスクには世界の琥珀製品製造業の85%が集中している。また、近年ポーランドで巨大なシェールガス埋蔵量が確認されている。その量は少なく見積もってポーランドにおける天然ガス消費量の300年分に相当する5.3兆m3に上ると見られている。
■コハク
Amber)とは、木の樹脂(ヤニ)が地中に埋没し、長い年月により固化した宝石である。半化石樹脂や半化石の琥珀は、コーパル(英: Copal)という。
■ドイツ・ポーランド不可侵条約
Deutsch-polnischer Nichtangriffspakt、は、1934年1月26日に、ナチス・ドイツとポーランドとの間に結ばれた国際条約である。この条約の中でドイツとポーランドの両国は、以後10年間にわたって、諸問題を両国の交渉によって解決し、武力を用いないことを誓約している。この条約は、ポーランドとドイツの関係正常化に効果があった。
■ポーランド統一労働者党
Polska Zjednoczona Partia Robotnicza、略称:PZPRは、冷戦時代のポーランド人民共和国に存在した政党。1948年結成、1989年解散。
■法と正義
Prawo i Sprawiedliwoscは、ポーランドの政党。党首はヤロスワフ・カチンスキ。略称:PiS(ピス)。2001年4月13日にPiSが政党登録された。同年に行われた議会選挙では、セイムで得票率9.50%、44議席を獲得した。「すべての人に公正な第4共和国」をスローガンに掲げ、テレビコマーシャルやインターネットを駆使した宣伝活動を行なって支持を拡大、セイムにおいて得票率26.99%で155議席、セナトで49議席を獲得し、第一党に躍進した。
■独立自主管理労働組合「連帯」
NSZZ "Solidarnosc"は、ポーランドにおいて労働組合から公然たる反共運動へと発展した組織である。1980年、社会主義国として初の労働者による自主的かつ全国規模の労働組合として結成。同労働組合は、自由な組合活動が認められていない中で成立したもので、成立当時、ポーランドの労働組合といえば政府主導の「労働組合中央評議会」であった。
■パリコト運動
Ruch Palikota)は、ポーランドの政党。2011年6月1日に政党登録された。個人的自由の拡大と経済的自由の拡大を同時に追求する自由至上主義(リバタリアニズム)を標榜する政党。
■ポーランド農民党
Polskie Stronnictwo Ludowe, 略称:PSLは、ポーランドの中道右派政党。ポーランド国民党とも訳され、英語では「国民党」に相当する Polish People's Party の名称を用いており、こちらの政党名で定着しているが、日本の研究者の間では今日もなお「農民党」と呼ばれている。
■市民プラットフォーム
Platforma Obywatelskaは、ポーランドの政党。略称:PO(ペー・オー)。党首はドナルド・トゥスク。同時期に結成された他の党(右翼政党の「法と正義」および極右政党のポーランド家族同盟)に比べて支持をのばした。自由に立脚しながらも社会のバランスを重視する穏健な中道右派政党として、国民より絶大な支持を集めている。
■国際関係
際連合(UN)、欧州連合(EU)、シェンゲン協定、シェンゲン情報システム(SIS)、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、欧州電気標準化委員会(CENELEC)に加盟している。
■1月蜂起
powstanie stycznioweは、旧ポーランド・リトアニア共和国領(現在のポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ北部とロシア西端部)で発生したロシア帝国に対する武装蜂起。1863年1月22日に始まり、1864年4月11日に終結した。蜂起はポーランドの青年がロシア帝国軍に徴兵されることに対する抗議運動と同時に始まり、すぐにポーランド人やリトアニア人の高官や様々な政治家も参加した。
■カティンの森事件
第2次世界大戦中にソ連のグニェズドヴォ近郊の森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜達は皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かいそのまま消息不明となる。
■ジェゴタ
Zegotaは「ユダヤ人救済委員会(pl:Rada Pomocy Zydom)」の暗号名で、これは1942年から1945年の期間にナチス・ドイツに占領下のポーランドでユダヤ人救済のために活動した地下組織をさす。ジェゴタが救済活動をした規模は明らかになっていないが、かなり大規模であったことは確かである。子供たちは里親家族、孤児院、あるいは修道院によって管理されていたそれと似たような組織に保護されていた。ジェゴタは里親家族に子供たちを親類だと言うように指示し、養育のための資金援助をした。ジェゴタの児童関係部門はイレーナ・センドラー(Irena Sendlerowa)によって率いられ、ワルシャワだけで2,500人ものユダヤ人児童をワルシャワ・ゲットーから救い出し、保護していた。
■ポーランドの教育
7歳から6年間の初等学校シコワ・ポドゥスタヴォーヴァ (szkola podstawowa)で始まる。13歳になると3年間の下層中等課程であるギムナジウム (gimnazjum)に入学し、試験を受けて卒業する。上層中等課程はいくつかの選択があるが、もっとも一般的なのが3年制の普通高等学校リツェウム (liceum)と4年制の技術高等学校テフニクム (technikum)である。両課程とも課程修了と大学入学資格を兼ねた統一試験マトゥーラ(matura。英国のAレベルやフランスのバカロレア資格とほぼ同等である)に合格すれば卒業できる。
■ポーランドの現代音楽
1945年5月8日の第二次世界大戦終結後、ポーランドはソビエト連邦の影響下に置かれ、いわゆる「スターリン時代」の辛酸を嘗める。そのヨシフ・スターリン没後、西側の前衛音楽の吸収に最も積極的に動いた国がポーランドであり、1950年代後半からポーランド出身の作曲家が次々と頭角を現す。1960年代には、彼らはドイツを始めとする西側の批評家を中心に「ポーランド楽派」と名付けられるに至る。
■言語
国語はポーランド語。ポーランド語は印欧語のスラヴ語派西スラヴ語群に属する言語で、チェコ語、スロヴァキア語、上ソルブ語、下ソルブ語などと共通のグループに属し、そのうち、カシューブ語などと共にレヒト諸語(レフ諸語)を構成する。表記はロシア語等で用いられるキリル文字ではなく、ラテン式アルファベットでなされる。
■ポーランド語
polszczyzna(ポルシュチズナ))は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派の西スラヴ語群レヒト諸語に属するポーランドの公用語。レヒト諸語と同じ西スラヴ語群に属する言語は、チェコ・スロヴァキア諸語とソルブ諸語である。
■宗教
米国CIAの調査によると、国民の約95%がカトリック教徒であり、うち75%が敬虔な信者である。このように、ポーランド人の価値観や日常生活にカトリックの信仰が根付いており、ポーランド・カトリック教会が存在する。史上初のポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ二世は絶大な尊敬を集めた。
■フレデリック・ショパン
Fryderyk Franciszek Chopin(フルィデールィク・フランチーシェク・ショペーン) 、1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説もあり) - 1849年10月17日)はポーランド出身の前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。
■ヤヌシュ・コルチャック
Janusz Korczak, 1878年7月22日 - 1942年8月は、ポーランドの小児科医、孤児院院長で、児童文学作家。本名は、ヘンリク・ゴルトシュミット(Henryk Goldszmit)。ユダヤ系ポーランド人。1898年から1904年までワルシャワ大学で医学を学ぶ。1911年、新しく建設されるユダヤ人の孤児のための孤児院の院長のポストを打診された時、彼はその職を受諾し、その地位に就くことを決意した。
■ヴワディスワフ・レイモント
1867年5月7日 - 1925年12月5日はポーランドの小説家。1924年度ノーベル文学賞受賞。ポーランド・コベレベルケの農村でオルガン弾きの息子として生まれた。幼少より演劇に熱中し、定職につくことなくポーランド中を放浪した。1895年に発表したルポタージュ『ヤスナ・ゴーラへの巡礼』で自身の持つ文学的才能を評価され、小説家としての地位を確立する。
■ヴァツワフ・シェルピニスキ
1882年3月14日 - 1969年10月21日は、ワルシャワで生没したポーランドの数学者である。彼は集合論(選択公理や連続体仮説に関する研究)や数論、関数論、位相幾何学に対する多大な貢献をしたことで知られている。
■ウワディスワフ・シュピルマン
1911年12月5日 - 2000年7月6日は、ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、作曲家。この時代、シュピルマンはクラシック音楽の演奏活動のほか数多くの大衆音楽を作曲、自らも演奏した。なかでも彼が作曲し、カジミェシュ・ヴィンクラー(Kazimierz Winkler)が作詞した明るいジャズ調の歌謡曲『ワルシャワの赤いバス』("Czerwony Autobus")は現在でもポーランド人が最も愛する曲の一つとして現在でもよく歌われており、ポーランド人はこの歌とともに戦前の美しいワルシャワの街を想像するのである。
■ニコラウス・コペルニクス
1473年2月19日 - 1543年5月24日は、ポーランド出身の天文学者である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な再発見とされる。
■ドナルド・トゥスク
(ポーランド語: Donald Franciszek Tusk, 1957年4月22日 - )はポーランド・グダニスク出身の政治家。現在、同国首相(第三共和制第14代)。所属する政党は Platforma Obywatelska(市民プラットフォーム、PO)。PO党首。ポーランド人に近いスラヴ系少数民族カシューブ人(言語がポーランド語に非常に近いためポーランド人の一部族ともみなされる)の血筋を引く。
■ミェシュコ1世
(Mieszko I, 935年? - 992年5月25日)は、ポーランド王国ピャスト朝の創始者で事実上の初代ポーランド王。ただし王号は正式に公認されておらず、実際にはポーランド公(在位:963年 - 992年)。963年に即位する。しかし即位直後からウィエルトやヴォリニアなどのスラヴ系支族とその同盟者のザクセン伯ヴィヒマンの侵攻に悩まされ、バルト海沿岸のポンメルン地方を侵略されてしまった。しかし政治能力に優れた人物で、その後の神聖ローマ帝国の侵略を食い止めるために、ローマ教皇に莫大な貢物を送ってその援助を受け、966年にはギリシア正教からカトリックに改宗した。
■クシシュトフ・ペンデレツキ
(Krzysztof Penderecki 1933年11月23日 - )ポーランドはクラカウ生まれのユダヤ系の作曲家で指揮者。ポーランド楽派の主要作曲家の1人である。ダルムシュタット語法によらない初期の電子音楽における経験から発想されたオーケストラを用いたトーンクラスターや特殊奏法だけの刺激的な音響作曲法に大きな特徴があった。
創作の頂点とされる「ルカ受難曲」やオペラ「ルダンの悪魔」を書き上げた後は新ロマン主義へ傾倒し、作風を古典的なものへ回帰させていった。
■マレク・グレフタ
(Marek Grechuta、1945年12月10日-2006年10月9日)は、ポーランドの歌手、作曲家、作詞家。ルブリン県ザモシチ市生まれ。マウォポルスカ県クラクフ市の工科大学で建築学を学んでいた1967年に、キャバレー『Anawa』で歌手としてデビュー。同年、彼はVI Ogolnopolski Konkurs Piosenkarzy Studenckich(第4回全国学生歌手選手権)で歌手として準優勝、『Tango Anawa』で優秀曲賞(作曲はJ. K. Pawluskiewicz)を受賞した。
■ズジスワフ・ベクシンスキー
(1929年2月24日 - 2005年2月22日)は、ポーランドの画家、写真家、芸術家。作品では、死、絶望、破損、廃退、廃墟、終焉などが描かれ、それは不気味さや残酷さと同時に荘厳な美しさを感じさせる。独特の世界観から多くの支持を得た画家である。 作品自体は退廃的で「終焉の画家」と呼ばれる程だが、彼自身は人当たりが良く少し内向的で、人との会話をよく楽しんだとして知られている。 だが、政治不信、マスコミ嫌い等があり、普段は隠居のように暮らし制作に没頭しており、他の芸術に触れることも嫌った為、ポーランド語以外は話さず、ポーランドから出る事も生涯なかった。
■ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ
Halina Czerny-Stefanska 、1922年12月30日 クラクフ - 2001年7月1日 クラクフは、ポーランドの女性ピアニスト、教育者。第4回ショパン国際ピアノコンクール(ワルシャワ、1949年9月15日 - 10月15日)で第1位および最優秀マズルカ演奏賞を受賞。ショパン・コンクールでの成功を機に、全世界でショパンを弾いて回った。ポーランドを代表するショパン弾きとして一世を風靡したが、レパートリーはバロック、古典から現代曲まで多岐に渡る。自国ポーランド人作曲家の曲も積極的に演目に取り入れた。
■カジミェシュ・セロツキ
(Kazimierz Serocki, 1922年3月3日 - 1981年1月9日)は、ポーランドの現代音楽の作曲家、ピアニスト。名の日本語表記はカジミエルシ、カジミエシなどの綴りも見られる。ラザール・レヴィにピアノを、ナディア・ブーランジェに作曲を学んだ。ヤン・クレンツ、タデウシュ・バイルトと共にグループ49を結成する。ポーランドの現代音楽の黎明期を代表する人物であり、音源が残っていないが、ピアニストとしても卓越した存在であったと伝えられる。
■マリ・キュリー
1867年11月7日 - 1934年7月4日は、現在のポーランド(ポーランド立憲王国)出身の物理学者・化学者。パリ大学初の女性教授職に就任した。放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案による。フランソワーズ・ジルー著『Marie Curie:A Life』が描き出したマリの人生は、彼女がフェミニストの先駆的存在だったことを明らかにしている。マリは時代に先んじて、束縛を断ち、自立した生涯を過ごし、その資質は損なわれる事は無かった。アルバート・アインシュタインも、このような美点は彼女が得た栄誉によっていささかも曲がってしまうことはなかったと記している。
■クシシュトフ・キェシロフスキ
1941年6月27日 - 1996年3月13日はポーランドのワルシャワ出身の映画監督である。ロマン・ポランスキー、アンジェイ・ワイダなどを輩出しているポーランドの名門ウッチ映画大学を卒業。短編のドキュメンタリー映画の製作から始めた。
■クリストフ・コメダ
1931年4月27日 - 1969年4月23日は、ポーランドを代表するジャズ・ピアニスト、作曲家。本名はクシシュトフ・トルチンスキ(Krzysztof Trzcinski)だが、ジャズを嫌う共産党に目を付けられることを恐れ、ステージネームとしてコメダの名前を使用していた。コメダは元々医者であったが、1950年代後半からヨーロッパ各国でジャズ演奏の活動を始める。ワルシャワのジャズ・ジャンボリー演奏会などでのライブ録音が残されている。
■カジミェシュ・セロツキ
(Kazimierz Serocki, 1922年3月3日 - 1981年1月9日)は、ポーランドの現代音楽の作曲家、ピアニスト。名の日本語表記はカジミエルシ、カジミエシなどの綴りも見られる。ラザール・レヴィにピアノを、ナディア・ブーランジェに作曲を学んだ。ヤン・クレンツ、タデウシュ・バイルトと共にグループ49を結成する。
■フェルディナント・コーン
(Ferdinand Julius Cohn、1828年1月24日 - 1898年6月25日)はプロイセン(現ポーランド)の植物学者、細菌学者、医師。1851年からブレスラウ大学で教鞭を執った。1859年にはブレスラウ大学の植物園の所長となった。コーンは、バシラス属細菌の生活環を明らかにし、細菌の属として定義をすることで、世界で初めて真正細菌を分類したことで知られる。
■ヨハネス・ヘヴェリウス
Johannes Hewel、1611年1月28日 ダンツィヒ - 1687年1月28日は、ポーランドの天文学者。月の地形学の創始者とされる。ポーランド・リトアニア共和国のグダニスクでボヘミアから来た醸造所を営む家庭に生まれた。ギムナジウムで学んだ後、ライデンで法学を学ぶ。その後、イギリスやフランスを旅し、ピエール・ガッサンディ、マラン・メルセンヌ、アタナシウス・キルヒャーらと交流を持った。
■ダリウス・ミハエルゾウスキー
(Dariusz Michalczewski、男性、1968年5月5日 - )は、ポーランドの元プロボクサー。元WBA、IBF、WBO世界ライトヘビー級チャンピオンであり元WBO世界クルーザー級チャンピオン。恵まれた体格とスピード、テクニックを武器に1990年代後半のライトヘビー級王者に君臨し続けた。精悍な顔つきと鋭い眼光から「The Tiger(虎)」の異名を持つ。ポーランド、グダニスク出身。2003年10月18日にフリオ・セサール・ゴンザレスに敗れてタイトルを失うまで、実に10年近く、23度もタイトル防衛し続けるという驚異的な記録を作った。
■クラウス・キンスキー
(Klaus Kinski、1926年10月18日-1991年11月23日)はポーランドで生まれ、ドイツで活躍した俳優。長女のポーラ・キンスキー、次女のナスターシャ・キンスキー、長男のニコライ・キンスキーはともに俳優となった。自由都市ダンツィヒの一部であったソポトで、薬剤師の子として生まれた。4歳の時、一家でベルリンに移住。第二次世界大戦にドイツ兵として従軍した後に演技の道に進み、舞台でシェイクスピアやフランソワ・ヴィヨンを朗読するなどしていた。
■マルギット・ニュンケ
Margit Nunke、1930年11月15日 - はドイツの女優、歌手。ヴァイマル共和政時代のシュチェチン(現在はポーランド)で生まれる。1955年6月、ミス・ドイツ(Miss Germany)に選ばれ、同年の7月22日、アメリカ西海岸のロングビーチ (カリフォルニア州)で開催されたミス・ユニバース世界大会にドイツ代表として出場し、第4位に入賞。その後、女優に転身し、映画『白銀は招くよ!/ザイラーと十二人の娘』(1959年)でトニー・ザイラーの相手役を務めた。
■タデウシュ・マゾヴィエツキ
Tadeusz Mazowiecki, 1927年4月18日 - はポーランド・プウォツク出身の政治家。独立自主管理労働組合「連帯」によるポーランド民主化運動の指導者の一人であり、東欧では戦後初となる非共産主義政権の初代首相となった。2010年より大統領顧問を務める。
■ユゼフ・ポニャトフスキ
Jozef Antoni Poniatowski, 1763年5月7日 - 1813年10月19日は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族、オーストリア軍の将校、およびナポレオン1世の下でも将軍として活躍して1813年にフランス帝国の元帥となった軍人である。ボロディノの戦いでポニャトフスキのポーランド軍団は勇戦したが、ナポレオンがロシア遠征に失敗するとワルシャワ公国の存在も危うくなり、敵側になびくポーランド人も多かったが、ポニャトフスキはナポレオンを裏切らなかった。
■ユゼフ・ピウスツキ
(Jozef Klemens Pilsudski, 1867年12月5日 - 1935年5月12日)は第二次ポーランド共和国の建国の父にして初代国家元首、国防相、首相。ポーランド軍創立者にして元帥。独裁的な政権で同国を盛り立てたことで知られる。母親マリアから当時ロシア政府によって禁止されていたポーランド語の読み書きと自国の歴史を学ぶ。ピウスツキの独立精神は母親の教育によるものが大きい。1884年、母マリア死去。
■ヤン・ザモイスキ
Jan Zamoyski,1542年3月19日 - 1605年6月3日は、ポーランド・リトアニア共和国のマグナート(大貴族)。立憲主義を表すものとして、17世紀に確立したイギリスの政体に関して頻繁に使われる「国王は君臨すれども統治せず」(Rex regnat et non gubernat)の言葉は、本来はこのヤン・ザモイスキの言葉であり、彼が16世紀に確立したポーランド・リトアニア共和国の立憲政体を表したものである。
■アダム・ミツキェヴィチ
(Adam Bernard Mickiewicz 1798年12月24日 - 1855年11月26日)はポーランドを代表する国民的ロマン派詩人であり、政治活動家。学生時代には、ポーランド立憲王国としてポーランドを支配するロシア帝国からの独立を目指す若者による政治・教育地下組織の共同設立者の一人となった。1829年にロシア出国を認められ、ドイツのヴァイマルでゲーテに会った後にイタリアに向かい、最終的にはローマで創作活動を行った。ここでミツキェヴィチの代表作ともされる叙事詩「パン・タデウシュ」を執筆。
■ヘンリク・シェンキェヴィチ
Henryk Adam Aleksander Pius Sienkiewicz, 1846年5月5日 - 1916年11月15日)は、ポーランドの小説家。シェンキェヴィチはロシア占領下のポーランド、ウォラ・オクジェスカの裕福な家庭に生まれた。父方の先祖はキリスト教に改宗しシュラフタ(ポーランド貴族)の資格を得たリプカ・タタール人であった。ワルシャワ大学を卒業した後、新聞社に入りアメリカ特派員を務める。愛国心が強かったシェンキェヴィチは、愛国者の勇敢な行為を激賞した歴史小説を著した。
■イェジ・アンジェイェフスキ
Jerzy Andrzejewski 1909年8月19日-1983年4月19日は、ポーランドの小説家。帝政ロシア支配下のポーランド立憲王国に生まれる。ワルシャワ大学で文献学を学ぶ。1934年に短編『終り』で文壇デビューし、1937年に『心の秩序』で文学院の新人作家賞を受賞した。ポーランド人民共和国成立後、アンジェイェフスキは下院議員となる。1950年に共産党に入党するが、1956年に離党した。ワルシャワ蜂起を描いた『灰とダイヤモンド』が彼の代表作として認識されており、アンジェイ・ワイダ監督によって映画化された。
■イェジー・カヴァレロヴィチ
(Jerzy Kawalerowicz (Jerzego Kawalerowicza), 1922年1月19日 - 2007年12月27日)はポーランドの映画監督。クラクフ美術大学卒。数年間の助監督経験を経て、1951年監督デビュー。1953年、1954年にそれぞれ『セルロース』『フリギアの星の下で』の2部作を監督。当時支配的であった社会主義リアリズムの枠を守りながらも、他の社会主義リアリズム映画が陥りがちであった一面的描写やステレオタイプを避けることに成功した。
■ジャージ・コジンスキー
Jerzy Nikodem Kosinski , 1933年6月18日 - 1991年5月3日はポーランド出身でアメリカ合衆国で活動した小説家。戦後両親と再会し、身体障害者の学校へ入学。成績はきわめて優秀で、ウッチ大学で歴史と政治学の修士号を取得し、ソ連へ留学する。20代初めの若さでワルシャワのポーランド科学アカデミーで助教授をつとめた。しかし当時の共産主義体制を嫌い、約2年にわたって国外へ出る計画を立て、写真に熱中し国際的な写真コンテストに作品を出品し、写真家として評価されるようになる。
■ユリウシュ・ザレンプスキ
(Juliusz Zarebski, 1854年2月28日か3月3日 ジトーミェシュ(ジトームィル) - 1885年9月15日ジトーミェシュ)はポーランドのピアニスト、作曲家。ショパン(1849年没)とシマノフスキ(1882年生)の間の時期に活躍したが、1885年に結核により31歳の若さで亡くなった。ピアノの手ほどきを母親から受けたのち、地元ジトーミェシュでピアニストとしての専門教育を受けた。十代になると作曲に興味を持ち始め、16歳でウィーンに赴きピアノをJ. Dachsに、作曲をF. Krennに学んだ。
■イグナツィ・パデレフスキ
(Ignacy Jan Paderewski, 1860年11月18日 - 1941年6月29日)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家・外交官である。第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代首相。1880年にアントニナ・コルサクヴナ (Antonina Korsakowna) と結婚し、まもなく最初の子アルフレト (Alfred) が生まれた。
しかしながら翌年になると長男の障害が判明し(1901年に死去)、10月にアントニナ夫人も亡くなってしまう。
■ルドヴィコ・ザメンホフ
Ludwig Lazarus Samenhof, 1859年12月15日 - 1917年4月14日はユダヤ系ポーランド人の眼科医・言語学者で、現在のところ最も広く使われている人工言語エスペラントの創案者。ザメンホフは1859年にポーランド北東部のビャウィストクで生まれた。当時、ポーランドは帝政ロシア領で、町の人々は4つの主な民族(ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、イディッシュ語を話す大勢のユダヤ人)のグループに分断されていた。ザメンホフはグループの間に起こる不和に悲嘆し、また憤りを覚えていた。
■ゼノ・ゼブロフスキー
Zenon Zebrowski、1891年 - 1982年4月24日は、ポーランド出身のローマ・カトリック教会の聖職者。「アリの町の神父」として知られる。長崎市への原子爆弾投下で自らも被災(被爆)したが、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力を入れた。「ゼノ神父」と呼ばれることがあるが、司祭叙階は受けておらず、コンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士である。1945年8月9日、長崎市で被爆した。
■トマシュ・アダメク
Tomasz Adamek、男性、1976年12月1日 - は、ポーランドのプロボクサー。シロンスク県出身。現IBF世界クルーザー級王者、元WBC世界ライトヘビー級王者。アマチュアボクシングをベースにしっかりとした攻防技術を持っており堅実なボクシングをする。一発のパンチ力ではなく手数の多さで勝負をする。デビュー以来無敗のままポーランド出身者としてはダリウス・ミハエルゾウスキーに次ぎ2人目の世界王者になった。総試合数44.勝ち43.KO勝ち28.敗け1
■イェジイ・ジュワフスキ
1874年7月14日 - 1915年8月9日はポーランドの文学者、哲学者、翻訳家、登山家、民族主義者である。その最も良く知られた業績は、1901年から1911年にかけて書かれたSF叙事詩"トルィロギヤ・クシェンジツォヴァ(Trylogia Ksiezycowa)"(月三部作)である。「世界で最も売れているSF作家」として名高いスタニスワフ・レム (1921年 - 2006年) は、「月三部作」の第一巻"ナ・スレブルヌィム・グロビェ(Na Srebrnym Globie)"『銀球で』[2]1956年版と1975年版に紹介文を寄稿して、ジュワフスキの言葉には自分を「空想の作家」にするきっかけを与えるものがあったこと、「月三部作」を読むのに使った時間は彼の少年時代で最も魅惑的かつ人生を変える体験だったことを書き記している。
■ポーラ・ネグリ
(Pola Negri、1897年1月3日 - 1987年8月1日)は、サイレント映画時代に活躍したポーランド出身の女優である。バレエ・ダンサーになる訓練を受けていたが病気が元で挫折、演技の道に進む。第一次世界大戦の終わり頃までには、ワルシャワで人気舞台女優となっていた。1920年代には、彼女のエキゾチックでグラマラスな容姿は人気を博し、また、チャールズ・チャップリンとの婚約やルドルフ・ヴァレンティノとのロマンスも話題になった。
■ミェチスワフ・ホルショフスキ
Mieczyslaw Horszowski、1892年6月23日 - 1993年5月22日は、ポーランド出身のピアノ奏者(ミエチスラフ・ホルショフスキとも)。99歳まで公開演奏会を行った。晩年のバッハ、モーツァルトやショパンにおける情味深い演奏での評価が特に高い。とりわけショパンについては、自身がポーランド出身である上にショパン直系の弟子筋に当たる。高齢での演奏であっても決して枯れたものではなく、むしろみずみずしいところも特徴である。
■テクラ・バダジェフスカ
Tekla Badarzewska-Baranowska、1834年/1838年 - 1861年9月29日)は、ポーランド出身の作曲家・ピアニスト。ボンダジェフスカはワルシャワから北北西に100km離れた町ムワヴァ(Mł悲wa)の生まれで、生年を1834年とする説と1838年とする説がある。彼女は本格的な音楽教育は受けていなかったが、サロンでのピアノ演奏家として活躍し自ら作曲も行っていた。1856年、18歳あるいは22歳ごろの時に作曲した『乙女の祈り』(波: Modlitwa dziewicy, 仏: La priere d'une vierge)がパリの音楽ニュース雑誌に掲載され、その名が広く知られるところとなった。
■カロル・ラートハウス
(Karol Rathaus, 1895年9月16日 - 1954年11月21日)は、ポーランド系オーストリア人の作曲家。フランツ・シュレーカーの愛弟子の一人として、シュレーカーがウィーンからベルリン高等音楽学校に転職すると、師を追って同校に進み、音楽学と作曲法について研鑽を重ねる。1920年代に修行時代を終えると、ベルリン高等音楽学校で作曲と音楽理論の教師として就職。一連のデビュー作によって旋風を巻き起こすとともに、大成功を収めた。
■マリアン・レイェフスキ
Marian Adam Rejewski, 1905年8月16日 - 1980年2月13日は、ポーランドの数学者・暗号研究者。1932年にエニグマ暗号を破った。エニグマとは、ナチス・ドイツで使用された最も重要な暗号機である。レイェフスキとポーランド軍参謀本部第2部暗号局の同僚たち(特にヘンリク・ジガルスキやイェジ・ルジェツキ)の成果は、第二次世界大戦中、イギリスがドイツの暗号化された通信を解読することを可能にした。このことは連合国側の勝利の要因のひとつともなる。
■バーシア
(Basia)、本名:バルバラ・スタニセワ・チェチェレフスカ(Barbara Trzetrzelewska, 1954年9月30日 -)は、イギリスを中心に活動するポーランド出身の歌手、レコードプロデューサーである。ポーランドのシロンスク県ヤヴォジュノ生まれ。実家はアイスクリーム屋を営んでいた。幼少から合唱をやっていた。成長してプロの歌手としてポーランド国内で歌う。
■イグナツィ・パデレフスキ
(Ignacy Jan Paderewski, 1860年11月18日 - 1941年6月29日)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家・外交官である。第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代首相。パデレフスキは、万全の技術を身につけるのに忍耐力が必要なことを、以下のように述べ、多くの人に記憶されてきた。「一日練習を怠ると自分には分かる。二日怠ると批評家に分かる。三日怠ると聴衆に分かってしまう。」
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