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ノルウェー王国
Kingdom of Norway

ヨーロッパ

■ノルウェーの歴史
現在のノルウェーの地は暖流の影響で比較的温暖で、古代から人が居住していた。紀元前4世紀には北ゲルマン系のノルマン人(ノール人)がこの土地に定着し、それが、今のノルウェー人の基礎となる。 8世紀のヴァイキングの時代にはデンマーク・スウェーデンヴァイキングとともに、海外に通商、略奪、探検で進出し、アイスランド、グリーンランド、さらにシチリア、ロシア(ルーシ)、ノルマンディーへと移住した。


■地理
スカンディナヴィア半島の西岸に位置し、国土面積は日本とほぼ同じで約7300km2(熊本県程度)だけノルウェーの方が広い。北極海およびノルウェー海に面し、海岸にはフィヨルドが発達している。国土は北緯57度以上という高緯度地帯に位置しているが、北大西洋海流の分枝である暖流のノルウェー海流の影響により、冬でも不凍港であるほど温暖である。


ノルウェー海
Norwegian Seaとは大西洋の一部で、北海とグリーンランド海の間の海。南東側にスカンジナビア半島・ノルウェーの陸地が位置する。暖流の北大西洋海流が海域の南西から北東方向へ流入しているため、高緯度地帯に位置しているにもかかわらず、冬季でも流氷などは無い。ノルウェー沿岸においては、海底油田開発も行われている。

北海
North Sea、は、大西洋の付属海。東はノルウェー、デンマーク、南はドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、西はイギリス、北はオークニー諸島・シェトランド諸島に囲まれている。北海沿岸の確実な記録が残されるようになるのは、紀元前55年から紀元前54年のユリウス・カエサルによるブリタンニア侵攻であり、43年にはクラウディウス帝によって属州ブリタニアが創設された。

スカゲラク海峡
Skagerrakは、デンマークのユトランド半島とスカンジナビア半島との間にある海峡である。長さ240km、幅80−90 kmで、最深部は725mある。東側はカテガット海峡を経由してバルト海に繋がり、西側は北海が広がっている。

バレンツ海
Barents Seaは、北極海の一部で、北西はスバールバル諸島、北東はゼムリャフランツァヨシファ、東はノヴァヤゼムリャに囲まれた海。オランダの探検家ウィレム・バレンツにちなんで命名された。東はカラ海、西はノルウェー海に繋がる。最南西部の大湾は白海と呼ばれる。

ミョーサ湖
ノルウェーで最も大きい湖である。ノルウェーの南部、オスロから100kmほど北に位置している。ラーゲン川の支流が北側から流れ込み、Vorma川の支流が南側より流れ出している。湖岸には、ハーマル・イョビク・リレハンメルなどの町がある。Skibladnerと呼ばれる汽船とレジャー用の小さいボートを除いて、水上の交通手段は確立されていない。

ガルフピッゲン
ノルウェー、スカンディナヴィア山脈にある山で、ノルウェーおよび北ヨーロッパの最高峰。標高は2469m。ヨートゥンハイメン山地にあり、オップラン県のロム(Lom)にある。長年にわたり、ノルウェーではこの山が最高峰であることは知られていなかった。ドーブレ山地にあるスノーヘッタ山の方が有名であったからである。

グロンマ川
Glomma,は、ノルウェー最長で最大流域面積をもつ川である。流域面積はノルウェー全土の13パーセントを占める。グローマ川とも呼ばれる。ソール・トロンデラーグ県ローロス近郊のアウレスン湖に源を発し、南へ流れる。その西側にある広大なグドブランスダール谷から流れるローゲン川がミョーサ湖へ注ぎ、そこから流れるヴォルマ川がネスでグロンマ川に合わさり、川の流れが増す。

ヤンマイエン島
Jan Mayenは、北極海にあるノルウェー領の火山島。定住者はいないが、ノルウェー軍と測候所の要員が駐在して施設を運用している。グリーンランドとノルウェーの間に位置している。アイスランドからは北東へ約600km、グリーンランド東海岸中部から東へ約500km、もっとも近いノルウェー本土(ヌールラン県)とは約950kmの距離がある

ブーベ島
Bouvet Islandは、南大西洋の亜南極に浮かぶノルウェー領の火山島・無人島。ケープタウン(南アフリカ)の南南西約 2,500 km に位置する。最も近い陸地(南極大陸)との距離は 1,600 km であり、地理的に世界で最も隔絶した孤島である。。

スカンディナヴィア半島
南側のバルト海を内海とする、ヨーロッパ北方の巨大な半島で、半島はノルウェー、スウェーデンの2国からなる。中央にスカンディナヴィア山脈が走り、北極海側は氷河が作り出したフィヨルドと呼ばれる入り江が続く。バルト海に面した側は、湖沼の多い平坦な地形である。両側でその地形が極端に異なる二面性があり、世界的に見ても、多彩な自然環境を持つ半島であると言える。

スヴァールバル諸島
Svalbard)は、北極圏のバレンツ海にある群島。スピッツベルゲン島をはじめとする不毛の島々からなり、ノルウェー本土との間には属島のビュルネイ島がある。法的には完全なノルウェー領土の一部であるが、スヴァールバル条約との関連で法制度や行政機構は本土と異なる。人が定住する地としては最北に位置し最大の町はロングイェールビーンである。


スピッツベルゲン島
Spitsbergen)は、ノルウェー領スヴァールバル諸島最大の島。 同諸島で面積は 37,673 km2、海岸線延長は 3,919 km(九州島とほぼ同じ面積)になる唯一の有人島である。2009年現在、2,753人が住んでいる。 諸島全体の極地科学的研究対象としての重要性とともに、世界の農作物種の保存を目的としたスヴァールバル世界種子貯蔵庫の設営場所としても今後重要性を持つことが予想される。


スヴァールバル世界種子貯蔵庫
Svalbard Global Seed Vault)は、ノルウェー領スヴァールバル諸島最大の島であるスピッツベルゲン島に位置する種子銀行である。ベント・スコウマンが提唱し、2008年2月26日、ビル・ゲイツ主導のもと、地球上の種子を冷凍保存する世界最大の施設がスピッツベルゲン島の中心地・ロングイェールビーン近郊にて操業開始した。最大300万種の種子を保存可能とされる地下貯蔵庫は、その温度をマイナス18〜20°Cに保たれ、万が一、冷却装置が故障した場合にも永久凍土層によってマイナス4 °Cを維持できる環境に置かれている。


フィヨルド
fjord、とは、氷河による浸食作用によって形成された複雑な地形の湾・入り江のこと。ノルウェー語による通俗語を元とした地理学用語である。湾の入り口から奥まで、湾の幅があまり変わらず、非常に細長い形状の湾を形成する。

ノルウェー海流
Norwegian Current)は、北大西洋海流の続流でノルウェー海を北上する海流をいう。ノルウェー北方で二分し、スカンジナビア北岸沿いにバレンツ海に向かう海流と、スピッツベルゲン島に向かうスピッツベルゲン海流となる。流速は0.5ノット程度で流量も約300万トンにすぎないので、海流としては大きなものではない。しかし、北極海の海流には重要な役割を果たしており、この流量はベーリング海峡からの流入量のおよそ10倍といわれている。

ノルウェー人
nordmenn)は、狭義にはノルウェー王国の国民、広義には同国を故地とする民族を指す。後者は共通の文化とノルウェー語を有し、アメリカ合衆国やカナダ、オーストラリアに移民のコミュニティがある。ヨーロッパの大部分の民族と同様、ノルウェー人も世界各地に存在する。10万人以上のノルウェー市民がアメリカ合衆国やカナダ、ほかのスカンディナヴィア諸国に常住している。

ゲルマン人
Germanic peoplesは、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンジナビア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ系を祖先としインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を話す諸集団の事を指す。ゲルマン人は古代時代にはローマ帝国を脅かす蛮族として活動し、中世にはローマ人(ラテン人)・キリスト教文化との混合によって中世ヨーロッパ世界を形成した。現代においては、ドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク等に住む人々、イングランドのアングロ・サクソン人、ベルギーのフランデレン人、フランスのアルザス人、イタリアの南ティロル人がこの集団の系譜を引いているが、何れの勢力も長い歴史の中で複数の部族間の離合集散や異民族との混血を繰り返しており、古代のゲルマン人とは同質ではない(これはほかの民族も同様)。元来はローマ帝国によるゲルマニア地方に居住する諸部族に対する他称である。

ノルマン人
(Normanean)は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人。初期の時点では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じ。西ヨーロッパには北海を船で渡り、ロシア平原へ向かった者はバルト海を渡って東のヴォルガ川上流でノヴゴルド公国を興し、川を下り、カスピ海へ出た。バルト海から南へ向かった者はドニエプル川上流でキエフ大公国を興し、下流へ進み黒海へ出た。黒海からはアゾフ海に注ぐドン川を遡上し、ハザール王国でヴォルガ川からカスピ海へ移動することが出来た。


ヴァイキング
ヴァイキング (英: Viking, 独: Wikinger)とは、8世紀から 300 年以上に渡って西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィアの武装船団(海賊)を指す言葉であったが、後の研究の進展により「その時代にスカンディナヴィア半島に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残した。ヴァイキングは「ロングシップ」(オーセベリで見つかったオーセベリ船など、いくつか完全に発掘されている)と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロングシップは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出鬼没といえる。

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サーミ人
スカンジナビア半島北部ラップランド及びロシア北部コラ半島に居住する少数民族。フィン・ウゴル系。サーミ語を話すが、ほとんどがスウェーデン語、フィンランド語、ロシア語、ノルウェー語なども話すバイリンガルである。ちなみにラップランドとは辺境の地を呼んだ蔑称。彼等自身は、サーミ、あるいはサーメと自称している。北方少数民族として、アイヌ民族などとの交流もある。錫を使った手工芸細工が有名である。


コンティキ号
Kon-Tiki)は、ノルウェーの人類学者、トール・ヘイエルダールらによって建造されたマストとキャビンを持つ大型の筏。南太平洋の諸島に住むポリネシア人の起源について南米のインカ文明とポリネシア文明との相似点が多いことから、ポリネシア人の祖先が南米から海を渡って渡来したアメリカ・インディアンである、という説があった。ヘイエルダールらはこの説を立証するため、インカを征服したスペイン人たちが描いた図面を元にして、バルサや松、竹、マングローブ、麻など、古代でも入手が容易な材料のみを用いて一隻のいかだを建造した。


ラップランド
(Lapland)はスカンジナビア半島北部からコラ半島に至る地域で、伝統的にサーミ人が住んでいる地域を指す。スウェーデン・ノルウェー・フィンランド・ロシアの4カ国にまたがっているが、ソ連崩壊と国際化の進展に伴って、既存の国境は重要ではなくなってきており、国境を越えた協力が重要視されている。これはこの土地に住む、サーミ人・非サーミ人を問わずに、考えられている。ラップランドはフィクション作品などでサンタクロースが住んでいる場所とされることがある。

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ノルウェー国教会
Den norske kyrkja)は、ルター派を奉じるノルウェーの国教会。聖書、使徒信条、ニカイア信条、アタナシオス信条、ルター小教理問答書及びアウクスブルク信仰告白に基づき運営しており、ポルヴォー・コミュニオンにも加盟している。ローマ・カトリック教会とは義認の教理についての共同宣言を行っている。


同君連合
複数の君主国の君主が同一人物である状態・体制のことである。同君連合の形態は大きく2つに分けることができる。同君連合の各構成国がそれぞれ独立した主権をもち続ける人的同君連合(身上連合、英語:personal union)と、各構成国を超えた中央政府が置かれて一元的にコントロールされる物的同君連合(物上連合、英語:real union)の2つである。

アーケシュフース城
Akershus slott og festning)は、ノルウェーの首都オスロにある古城。「アケルスス城」とも。もともとはオスロを防御する目的で建設された。最初に建設が着工されたのは1290年代後半ごろで、ホーコン5世主導のもとに行われた。この城はテンスバル城塞にとって代わり、その時代のノルウェーにおける2大城郭の一つとなった(もう一方はボフス城塞)。

トルステンソン戦争
Torstenson-krigen)は、1643年から1645年にかけて行われたスウェーデンとデンマークとの戦争である。三十年戦争中の局地戦であるため正確な呼称はないが、デンマークはトルステンソン戦争と呼称している。スウェーデン軍の指揮を執った将軍レンナート・トルステンソンの名に由来する。


<世界遺産>
ウルネスの板張り教会
教会が建築されたのは、1130年前後と推測されている。ウルネスの教会建築は、キリスト教建築とヴァイキング建築が結びついた、いわゆる「ウルネス様式(en:Urnes style)」と呼ばれるスカンディナヴィアにおける動物を模したスタイルである。
■ブリッゲン
レーロース
レーロースの名前の由来は、レーロースという農場の名前にちなむ。町は、その農場の上に建設された。レーとは河川の名前であり、ロースは、河口という意味であるが、レーの由来はよく分かっていない。
■アルタの岩絵

ムンク美術館
ムンク美術館(ノルウェー語: Munch-museet)は、画家エドヴァルド・ムンクの作品や生涯についての資料を展示する、ノルウェーのオスロにある美術館である。ムンク美術館は、オスロ市立映画館の利益を基に設立され、1963年にムンクの生誕100周年を記念してオープンした。収蔵品は、ムンクからオスロ市に遺贈された作品や記録類、妹のInger Munchからオスロ市に遺贈された作品、及び市場で購入された版画作品等からなっている。


ベルセルク
berserkとは、北欧神話・伝承に登場する、異能の戦士たちである。古ノルド語やアイスランド語ではベルセルクル (berserkr)、英語ではバーサーカー (berserker) と言い、日本語ではしばしば狂戦士と訳される。軍神オーディンの神通力をうけた戦士で、危急の際には自分自身が熊や狼といった野獣になりきって忘我状態となり、鬼神の如く戦うが、その後虚脱状態になるという。この忘我状態のベルセルクは動く物ならたとえ肉親にも襲い掛かったので、戦闘ではベルセルクと他の兵士は出来るだけ離して配備し、王達もベルセルクを護衛にはしなかったという。


■国民
2011年の統計[8] によるとゲルマン系のノルウェー人がほとんどで82.0%を占める。その他、スウェーデン系1.6%、デンマーク系1.0%、他に少数民族のサーミ人約2万人がいる。残りは移民であり、2010年には移民人口は552,000人と全人口の11.4%を占めている。

■言語
公用語はノルウェー語である。ノルウェー語には、ブークモール(書物の言葉)およびニーノシュク(新しいノルウェー語)の2種類がある。どちらも公用語であるが、9割近くがブークモールである。公式にはニーノシュクの使用人口が1割以上居ることになっているが、実態は各地のランスモール(土着の言葉)の話者である。

■宗教
プロテスタントのルーテル教会が国教であり、ノルウェー国教会の所属が84.9%を占めている(2006年現在)。

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オスロ・フィルハーモニー管弦楽団
Oslo Philharmonic Orchestra)は、ノルウェーのオスロを拠点とするオーケストラである。起源は1879年にエドヴァルド・グリーグらが設立したクリスチャニア音楽協会に遡る。国立劇場でも公演を始めた。1919年、Filharmonisk Selskabs Orkesterとして再建。

ハーディングフェーレ
Hardingfele)はノルウェーの民族楽器である。ヴァイオリンよりやや小型の擦弦楽器で、4本の演奏弦に加え駒の下部に4〜5本の共鳴弦が張られているのが特徴である。ノルウェーのハルダンゲル地方で生まれた。ノルウェー出身の作曲家、エドヴァルド・グリーグやゲイル・トヴェイトが自分の作品に用いている。グリーグは『ペール・ギュント』の前奏曲などにこの楽器を用いている。


ノーベル平和賞
Nobel Peace Prize)は、ノーベル賞の一部門で、アルフレッド・ノーベルの遺言によって創設された五部門のうちの一つ。 ノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルはスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念して「平和賞」の授与はノルウェーで行うことにした。平和賞のみ、スウェーデンではなくノルウェーが授与主体である。


ヨースタイン・ゴルデル
Jostein Gaarder、1952年8月8日- は、ノルウェーの小説家、児童文学作家。ゴルデルは、オスロの教師一家に生まれる。オスロ大学で思想史やスカンジナビアの言語を学び1976年に卒業。一時期、作家として独り立ちする前に、高校教師としてベルゲンで哲学と文学を教えていた。1986年から小説を書き始め、1990年に「カード・ミステリー」が注目される。彼の最もよく知られている著作は、1991年にノルウェーで初出版された「哲学の歴史についての本」という副題をつけられた『ソフィーの世界』(ISBN 0425152251)である。

エドヴァルド・グリーグ
Edvard Hagerup Grieg、1843年6月15日 - 1907年9月4日は、ノルウェーの作曲家である。2007年で没後100周年となった。グリーグはノルウェーの民族音楽から着想を得て、国民楽派の作曲家として注目された。 彼の民族音楽からの深い影響は組曲「ペール・ギュント」1曲目、「朝」の冒頭がノルウェーの民族楽器であるハリングフェーレの共鳴弦を端からつま弾いた時の旋律から始まっていることからもうかがうことができる。グリーグは、スウェーデン統治下のノルウェーで、ベルゲン市街の家に5人きょうだいの第4子(兄1人、姉2人、妹1人)として生まれた。1858年(15歳)、ヴァイオリニスト、オーレ・ブル(Ole Bull, 1810年 - 1880年)に才能を見出され、3年半の間ライプツィヒ音楽院で作曲とピアノを学ぶ。

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レイフ・オヴェ・アンスネス
Leif Ove Andsnes, 1970年4月7日 ローガラン県カルモイ − はノルウェーのピアニスト。ベルゲン・グリーグ音楽院にてイジー・フリンカに師事し、1987年にオスロにてデビュー。その後はアムステルダムやボローニャ、ロンドン、ミュンヘンなどでリサイタルを行う。作曲者自身の所有したグランドピアノで録音を行なっていることからも、熱心なグリーグの擁護者として知られるが、実際にはレパートリーの幅はきわめて広く、モーツァルトやベートーヴェン、ショパン、シューマン、リスト、ヤナーチェク、ドビュッシー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ニールセンなどを得意とする。

トルルス・モルク
Truls Otterbech Mork, 1961年4月25日 - はノルウェーのチェリスト。ベルゲンの音楽家の家庭に生まれ、父親もチェリストで母親はピアニストであった。7歳のとき母親の手ほどきでピアノを始めるがヴァイオリンも弾くようになり、やがて父親の指導でチェロの学習に切り替えた。現在では国際的な活躍を続ける中堅チェロ奏者の一人であり、バッハの《無伴奏チェロ組曲》やショスタコーヴィチのチェロ協奏曲に至るまで、すなわち古今の、室内楽や独奏曲から協奏曲に至るまでの幅広いレパートリーによって有為の演奏家として認められている。

ハーラル5世
Harald V、1937年2月21日 - は、ノルウェー国王(1991年1月17日 - )。オーラヴ5世の子。日本の報道などでは英語読みしてハラルド5世とも表記される。高校卒業後、ノルウェー騎兵将校訓練学校・陸軍士官学校へ進み、1959年に軍隊教育を修了した。1957年9月21日、祖父王の崩御にともない、同日に20歳で王太子となる。オスロ大学で学んだ後、兵役終了とともにオックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学した。

イェンス・ストルテンベルグ
Jens Stoltenberg、1959年3月16日 - は、ノルウェーの経済学者、政治家。ノルウェー王国首相、ノルウェー労働党党首。1959年、母カリン・ストルテンベルグと父トールヴァル・ストルテンベルグの間に生まれる。カリンは国務長官、トールヴァルは外務大臣や国連高等難民弁務官を務めた政治家一家である。ノルウェー労働党の青年組織(AUF)の代表を1985年から1989年まで務め、1990年から1992年まではオスロ労働党代表でもあった。

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キルステン・フラグスタート
(Kirsten Målfrid Flagstad、1895年7月12日 - 1962年12月7日)はノルウェーのオペラ歌手。20世紀に活躍した(特にワーグナーの楽劇において)最高のソプラノの一人と評価されている。現在の100ノルウェー・クローネ紙幣に彼女の肖像を見ることができる。

ビョルンスティエルネ・ビョルンソン
(Bjornstjerne Bj0rnson, 1832年12月8日 − 1910年4月26日)は、ノルウェーの作家。1903年にノーベル文学賞を受賞した。ビョルンソンは、ヘンリック・イプセン、ヨナス・リー、アレクサンダー・ヒェランとともにノルウェー人作家の「偉大な4人」とされる。代表作は詩集の「詩と歌」である。ノルウェーの国歌『我らこの国を愛す』の作詞者であり、また彼の肖像は長らく50クローネ紙幣に描かれていた。

コンラード・バーデン
Conrad Baden、1908年8月31日 - 1989年6月11日)は、ノルウェーの作曲家・オルガニスト。ドランメン出身。教会オルガニストの息子として生まれる。オスロ音楽院でオルガニストとしての教育を受け、1931年に卒業。その後ライプツィヒ音楽院でギュンター・ラファエルとクルト・トマスに師事。1934年から1936年までペール・ステーンベルグに対位法を、1940年から1942年までビャーネ・ブルースタに管弦楽法と作曲を学んだ。

マリアンヌ・アンデルセン
(Marianne Andersen、1980年3月26日 - )は、ノルウェーのドランメン出身のオリエンテーリング選手。世界選手権とヨーロッパ選手権での獲得メダル数合計は13にもおよび、また国内選手権も9度制しているノルウェーを代表する選手である。彼女は世界選手権において金メダルを1度、銀メダルを7度、そして銅メダルを2度ほど獲得している。

オーレ・アイナル・ビョルンダーレン
(Ole Einar Bjorndalen、1974年1月27日 - )は、ノルウェー、ブスケルー県ドランメン出身のバイアスロン選手、クロスカントリースキー選手。1985年からバイアスロンを始める。 1992年のジュニア世界選手権団体で銅メダルを獲得。翌1993年は個人、スプリント、団体で3個の金メダルを獲得した。2002年のソルトレイクシティオリンピックでは、史上初のバイアスロン全4種目(10kmスプリント、20km個人、12.5kmパシュート、4×7.5kmリレー)制覇を達成し、今でもオリンピックでバイアスロン全種目制覇した唯一の人物である。

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ヘンリック・イプセン
(Henrik Johan Ibsen、1828年3月20日 - 1906年5月23日)は、ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督。近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」と称される。シェイクスピア以後、世界でもっとも盛んに上演されている劇作家とも言われる。イプセンの劇は同時代の多くの人にスキャンダラスと考えられた。当時は家庭生活や礼儀についてのヴィクトリア朝的価値観がヨーロッパで大きく広まっており、それらに対するいかなる挑戦も不道徳的で非常識とされていたためである。

アンドレアス・トルキルドセン
Andreas Thorkildsen、1982年4月1日 - は、ノルウェーの陸上競技選手である。2004年アテネオリンピック、2008年北京オリンピックを連覇したやり投の金メダリストである。これは、ノルウェー選手として、メルボルンオリンピックのエギル・ダニエルセン以来48年ぶりの金メダルであった。さらに、2008年の北京オリンピックでは、オリンピック新記録の90m57をマークし、2連覇を達成した。

ロイクソップ
(Royksopp)は、ノルウェーのエレクトロデュオ。1998年結成。同国トロムソ出身で、現在は主にノルウェーにおける第2の都市であるベルゲンを拠点に活動している。アンビエントとシンセ・ポップを自在に行き来するメランコリックでカラフルなエレクトロニック・ミュージックを発信し、いまや北欧を代表するダンス・アクトとして世界的な人気を誇る。

赤毛のエイリーク
Erik the Red, 950年頃 - 1003年頃は、ヨーロッパ人として初めてグリーンランドに入植したとされる人物である。本名はエイリーク・ソールヴァルズソン (Eiríkr Þorvaldsson) 。「赤毛のエイリーク」は個人の特徴を名前の後ろにつけて区別する慣習によるあだ名であるが、『赤毛のエイリークのサガ』や『グリーンランド人のサガ』、『入植の書』など、アイスランド・サガに残る記録により、こちらの呼称で知られるようになった。生い立ちははっきりしないが、950年頃ノルウェー南西部のヤーレンで生まれたとされる(アイスランド生まれとする説もある)。

ヴィドクン・クヴィスリング
(Vidkun Abraham Lauritz Jonssøn Quisling, 1887年7月18日 - 1945年10月24日)は20世紀前半のノルウェーの軍人・政治家。ルター派の聖職者の家庭に生まれる。ノルウェー軍に入隊し、士官学校を優秀な成績で卒業、参謀本部の将校となる。最初のうちは社会主義寄りの思想を持っていたが、1920年代にフリチョフ・ナンセンと共にソ連の飢餓救済にあたったことを切っ掛けとして社会主義から離れ民族主義に目覚めた。

ヨハン・オラフ・コス
(Johann Olav Koss、1968年10月29日 - )はノルウェー、ブスケルー県ドランメン出身の元スピードスケート選手。後に指導者。1990年代前半に国際大会で活躍した。1992年アルベールビルオリンピックでは脾臓の炎症の手術を受けて5日後に5000mで7位、その3日後1500mでは金メダルを獲得、さらに10000mで銀メダルを獲得した。

オッド・マルティンセン
Odd-Willy Martinsen、1942年12月20日 - は、ノルウェー、ブスケルー県ドランメン出身の元クロスカントリースキー選手。1960年代から1970年代にかけて活躍した。現役引退後は競技役員として活動した。娘のベンテ・マルティンセンもクロスカントリースキーのオリンピックメダリストである。

ベンテ・スカリ
(Bente Skari、1972年9月10日 - )はノルウェー、オスロ郊外のNittedal出身の元クロスカントリースキー選手。1990年代から2000年代前半にかけて活躍、オリンピックと世界選手権で計6個の金メダルを獲得した。父は1968年グルノーブルオリンピックのリレーで金メダルを獲得するなどしたオッド・マルティンセン。

マリオン・レイヴン
(Marion Elise Ravn、1984年5月25日 - )は、ノルウェー王国ロレンスコグ出身の女性歌手で元子役。現在はアメリカ合衆国を中心に活動。彼女の苗字は海賊に由来し、またRavnは英語表記でRaven(カラス)という意味にもなり彼女の芸名とロゴに使われている。女性歌手マリット・ラーセンと共にノルウェーでポップデュオM2M(英語版)として活躍。

フローデ・ヨンセン
(Frode Johnsen、1974年3月17日-)は、ノルウェー、シーエン出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。高校卒業後に大学と同等の教育機関である警察官養成学校に通いながらアマチュアチームでプレーしていた。1999年に25歳でノルウェーのサッカークラブ、オッド・グレンランドでプロデビューを飾る。

バイオスフィア
(Biosphere) 名義で活動してるゲイル・イェンセン (Geir Jenssen、1960年5月30日-) はノルウェー・トロムソ出身のアンビエント・ミュージシャンである。ブライアン・イーノ・デペッシュ・モードなどに影響を受け、1983年に音楽活動を始める。1991年に Biosphere 名義で1stアルバム『Microgravity』を発表。アンビエントテクノ・ミュージックの先駆けとして高い評価を受け、1994年発表の2ndアルバム『Patashnik』収録の「Novelty Waves」はリーバイスのキャンペーンとしても使われた。また、ゲイル・イェンセンは登山家としての活動も活発であり、2001年には標高8,201 mのチョ・オユーの登山に成功している。

アルネ・ノールヘイム
Arne Nordheim, 1931年6月20日- 2010年6月5日はノルウェーの作曲家。1982年より、オスロの王宮近くのノルウェー政府保有の栄誉邸宅Grottenに居住。数々の受賞歴を持ち、1997年にISCM(国際現代音楽協会)の名誉会員に選出される。2006年8月18日、ノルウェー国立音楽アカデミーより名誉博士号(doctor honoris causa)を授与される。「孤独、死、愛、風景」を音楽的主題と定めており(Aksnes, 2004)、それはノールヘイムの全国的認知をもたらした、スウェーデンの詩人Pär Lagerkvistの詩による歌曲集「宵の国」("Aftonland", 1959年)にも既に明らかである。

メイヘム
(Mayhem)はノルウェーのLanghusで結成されたヘヴィメタルバンド。後にオスロに拠点を移している。初期ブラックメタルシーンの中核的な存在であり、ブラックメタルサウンドの一形態を確立したという点においてエンペラー、バーズム、ダークスローンと並ぶバンドである。その狂暴な音楽性のみならず、ヴォーカリストのデッドの自殺、およびバンドの中心人物であったユーロニモ(Euronymous)がヴァルグ・ヴィーケネス(Varg Vikernes)に殺害された事件によって悪名高い。

エンペラー
(Emperor) は、ノルウェーのブラックメタルを代表するバンド。 ブラックメタルのアーティストの多くが犯罪を起こしていた90年代初頭の時期には3人のメンバーが逮捕された。活動初期に製作したEPも当時既に評価を受けており、後に彼等が活動中にリリースした4枚のアルバムはブラックメタルの範囲にとどまらず、世界中のメタルシーンに影響を与えた。

ロアール・アムンセン
(Roald Engelbregt Gravning Amundsen, 1872年7月16日 - 1928年6月18日?)は、ノルウェーの探検家。主に極地に挑んだ探検家として知られる。イギリス海軍大佐のロバート・スコットと人類初の南極点到達を競い、1911年12月14日には探検隊を率いて人類史上初めて南極点への到達に成功。また、1926年には飛行船で北極点へ到達し、同行者のオスカー・ウィスチングと共に人類史上初めて両極点への到達を果たした人物となった。

スノッリ・ストゥルルソン
(Snorri Sturluson, 1178年あるいは1179年 - 1241年9月23日)は、アイスランドの詩人・政治家・歴史家(著述家)である。ノルウェー王朝の歴史『ヘイムスクリングラ』や『スノッリのエッダ』の著者としても知られている。優れた学者であったが、権勢欲、名誉欲の強い野心家でもあった。

アルマウェル・ハンセン
Gerhard Henrick Armauer Hansen、1841年7月29日 - 1912年2月12日)はらい菌の発見で知られるノルウェーの医者。ハンセン病(旧称:癩病)は彼の名に因む。ベルゲンで生まれ、王立フレデリーク大学(現在のオスロ大学)で医学を学び、1866年学位を取得した。 研修医として短期間クリスチャニア(現オスロ)の国立病院で勤めた後、ロフォーテンの医者となった。

アルフ・プリョイセン
(Alf Proysen, 1914年7月23日-1970年11月23日)は、ノルウェーの児童作家・歌手。「スプーンおばさん」のシリーズが有名。3人兄弟の末っ子として生まれる。家庭が貧しく、幼少時から農場で働く。学校へは行かなかったものの、空想力や歌唱力に富み、農村の祭などで自作の歌を披露し喜ばれた。彼の代表作となる「スプーンおばさん」シリーズは、1956年にスウェーデン語版が、翌年ノルウェー語版が出版されたのが始まりである。これは世界18言語に訳され、やはり映画化された。作家として名を成してからも、歌謡を自作し続け、また各地の民謡を歌いに回った。

トール・ヘイエルダール
(Thor Heyerdahl, 1914年10月6日 - 2002年4月18日)は、ノルウェーの人類学者、海洋生物学者、探検家。筏(いかだ)船のコンティキ号でペルーのカヤオ港から南太平洋のツアモツ島まで4,300マイル(8千km弱)の航海を行ったことで有名。当時はポリネシアの島々の住人(ポリネシア人)の起源は謎とされており、ヘイエルダール自身も調査を行った。その結果、南米ペルーにある石の像とポリネシアにある石の像が類似していること、植物の呼び方が似ていることなどを踏まえ、ポリネシアの住人の起源は南米にあると論文で発表。

シグリ・ウンセット
(Sigrid Undset, 1882年5月20日 - 1949年6月10日)は、ノルウェーの小説家。1928年ノーベル文学賞受賞者。デンマークのカルンドボー生まれ。一家は彼女が2歳の時にデンマークからノルウェーに移り住んだ。1924年にはカトリックへ改宗する。1940年、ナチス・ドイツの占領から逃れてアメリカ合衆国へ、そして第二次世界大戦終了の1945年に帰国した。

ベアーテ・エリクセン
(Beate Marie Eriksen 1960年10月9日-)は、ノルウェーの女優。映画監督。また、彼女はテレビドラマでも演じており、ソープオペラシリーズホテル・カエサル(Hotel Cæsar)に出演および監督をしている。彼女は第二次世界大戦のパイロットであるマリウス・エリクセンの娘であり、アルペンスキーヤーであるスタイン・エリクセンの姪にあたる。

アーリング・カッゲ
(Erling Kagge、1963年1月15日-) はノルウェーの探検家・冒険家、弁護士、芸術品コレクターかつ出版業者である。カッゲは、三極点(南極点、北極点、エベレスト山頂)へ世界で初めて到達した。カッゲはノルウェーで最も評価されている極地探検家であり、当代で最も偉大な冒険家の一人である。1989年までに、カッゲは二度のヨットによる大西洋横断航海を行った。ホーン岬を周りヨーロッパに戻ると、1989年にオスロ大学で法学の学位を受け取った。

テオドール・キッテルセン
(Theodor Severin Kittelsen、1857年4月27日-1914年1月21日)は、ノルウェーの画家。ノルウェーで最も人気のある画家の一人である。主に自然を描いた絵画 (風景画)と、伝説や説話の絵画、特にノルウェーの伝承に登場する妖精、トロール (troll)を描いた絵画で有名。

クリスチャン・クローグ
(Christian Krohg,1852年8月13日 - 1925年10月16日)はノルウェー出身の画家・著述家・ジャーナリスト。クローグはドイツで教育を受け、1881年から1882年までパリで活動した。その間リアリズムの影響を受け、人々の生活-特に社会的な地位の低い人々や社会の暗部を描くようになる。クローグは特に売春婦たちを描いた作品で知られている。また、1886年には売春婦をテーマにした小説"Albertine"を出版。

アガーテ・バッケル=グロンダール
(Agathe Backer Grondahl, 1847年12月1日 ホルメストラン - 1907年6月4日 オスロ)はノルウェーのピアニスト・作曲家。オスロでオットー・ヴィンテル=イェルムとハルフダン・シェルルフ、ルトヴィク・マティアス・リンデマンに師事。その後フィレンツェでハンス・フォン・ビューローの、ヴァイマルでフランツ・リストの薫陶を受ける。バーナード・ショーが注目するほど国際的に名声のあるピアニストであったが、後年に聴力を失い、音楽活動を断念した。エドヴァルド・グリーグとは親友同士であり、バッケル=グロンダールが亡くなると、グリーグは「ミモザの花のような彼女の音楽はもう聴けない」と言って惜しんだ。

スヴェレ・フェーン
(Sverre Fehn、1924年8月14日 - 2009年2月23日)はノルウェー・コングスベル出身の建築家。第二次世界大戦の後にオスロ建築大学で建築を学んだ。1952‐53年にかけてモロッコを旅行、その土着の建築に深い感銘を受ける。パリに渡りジャン・プルーヴェのスタジオに2年勤務する。1954年にノルウェーに戻って自分の事務所を設立、1958年のブリュッセル万博のノルウェー館を手がけたことによって国際的に注目されるようになる。

ノルウェー Norway
北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島西岸に位置する立憲君主制国家である。東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接する。国土は南北に細長く、海岸線は北大西洋の複数の海域、すなわちスカゲラック海峡、北海、ノルウェー海およびバレンツ海に面している。海岸線には、多くのフィヨルドが発達する。この他、ノルウェー本土から約1,000km離れた北大西洋上のヤン・マイエン島は固有の領土の一部として領有され、また、スヴァールバル条約によりバレンツ海のスヴァールバル諸島を領有している。南大西洋にブーベ島を属領として持つ。首都はオスロ。

オスロ
ノルウェー王国の首都にして最大の都市。王宮、行政、立法、司法などの機関が集まる。オスロ市はオスロ県と同じ範囲である。世界でも物価の高い都市のひとつである。オスロ市の人口は568,809人(2008年7月) で、ノルウェーの人口の11.8%を占める。オスロ市の人口は現在も毎年約1万人ずつ増え続けている。これはヨーロッパでもかなり速いペースの人口増加である。オスロという地名の由来には、古ノルド語から来ている、オスロ中心部のビョルヴィカにつくられた最古の農場の名前であるなど、様々な説が存在する。


オスロ大学
Universitetet i Oslo)はノルウェーのオスロにある大学。1811年、フレデリク6世の名前を取って Royal Frederick University として設立された。1939年に現在の校名に改名された。現在、3万人の学生をかかえる、ノルウェーでも最大規模の大学となっている。


外務省:ノルウェー王国
在ノルウェー日本国大使館


サルプスボルグ
Sarpsborgは、ノルウェー・エストフォル県の都市。面積406平方キロメートル、人口50,115人(2006年)。サルプスボルは、有名なヴァイキング時代の王オーラヴ・ハーラルソン(別名聖オーラヴ)によって1016年に創設された。不幸なことに旧市街の大半が1702年の地滑りでグロンマ川に飲み込まれた。市はより安全な場所へ移されて再建されたが、1567年のスウェーデン軍侵攻で焼き払われた。

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ドランメン
Drammenは、ノルウェー・ブスケルー県の都市。1838年に市となった。面積は137平方キロメートル、人口約60,000人(2007年)。ドランメンはノルウェーの主要都市の一つで、首都オスロから40キロ離れている。都市の中心は谷の終わりに位置し、ドランメンセルヴァ川の両側に市が広がる。AskollenとSkogerveienに残る石窟芸術は紀元前5000年から7000年頃のものである。これらがこの谷に人が定住していた証となる。Askollenにはヘラジカを描いた壁画がある。

トンスベルグ
(Tonsberg)は、ノルウェー・ヴェストフォル県の都市。面積107平方キロメートル、人口37,493人(2007年)。郊外の自治体を含めて都市圏を形成しており、トンスベルグ都市圏は人口約46,000人で、ノルウェー第10位である。一般にはトンスベルグはノルウェー最古の都市とされている。歴史家スノッリ・ストゥルルソンによれば、トンスベルグは871年のHafrsfjordの戦い以前に創立されたという。戦いが起きた年については議論がされており、多くの歴史家は戦いの起こった年は900年頃だとしている。

シーエン
Skienは、ノルウェー・テレマルク県の都市。1838年に市となった。面積779平方キロメートル、人口50,595人(2007年)。ノルウェー第7の主要都市で、都市圏はシーエン、ポルスグラン、バンブルの3つで人口85,000人以上となる。1979年まで、シーエンは14世紀に創設されたと信じられてきた。考古学調査で板に刻んだ動物画が見つかり、それが10世紀以前のものであったことからさらに起源がさかのぼれる可能性がある。

トロムソ
Tromso、北部サーミ語: Romsaはノルウェー北部トロムス県に位置する都市である。トロムセ、トロムセーとも表記する。ノルウェー北部地方の中心都市であり、またいわゆるラップランドの中ではムルマンスクに次いで第2の規模の都市である。北極圏内に位置しているがメキシコ湾流の影響で同じ緯度の他の地域と比べれば気候は穏やかである。水産業の街であるとともに学術都市でもあり、白夜やオーロラといった北極圏特有の自然を体験できる観光地でもある。

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トロムソ大学
Universitetet i Tromso, UiTはノルウェー北部の都市トロムソにある大学である。ノルウェーに7つある大学の1つであり、ノルウェー北部地方随一の教育研究機関である。その立地から、この地域の自然環境、文化、社会に関する学問に焦点を当てており、北極圏研究の国際的な拠点のひとつとなっている。

ベルゲン大学
Universitetet i Bergenは、ノルウェーのベルゲンに本部を置く大学。設立は1946年と比較的若い大学であるが、実際の学術活動はベルゲン博物館が設立した1825年まで遡る。今日、16,000人を超える学生が在籍する。現地の学生(欧州市民)は大学への授業料の支払いが免除されているが、学生福祉団体への加入が義務付けられている


クリスチャンサン
(Kristiansand)は、ノルウェー・ヴェスト・アグデル県の都市。1838年に市となった。1965年にオッデーネスとランドサン、Tveitと合併した。クリスチャンサン動物園は市東部にあり、多くの種類の動物を飼育しており、大半が自然な状態で飼われている。オオカミ、トラ、ヤマネコがいる。地域は、動物園とレクリエーション用公園とが驚くべき調和で配当されている。毎年7月、クリスチャンサンではクアルト祭というノルウェー最大規模の音楽祭が催される。

トロンハイム
(Trondheim) はノルウェー中部に位置するノルウェー第3の都市。ソール・トロンデラーグ県に属する。人口は165,191人(2008年1月1日現在)、面積342平方キロ。オーラヴ王が船出をしたと伝承される地で、ノルウェー王国最初の首都。トロンヘイムとも表記される。

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ボードー
(Bodo) は、ノルウェー・ヌールラン県の都市で、同県の県都。北極圏のちょうど北側に位置し、ヌールラン県最大の都市で、北部ノルウェーで2番目に大きい都市である。ボーデ市は北極圏のちょうど北に位置し、6月2日から7月10日まで白夜となる。世界一強い潮流はSaltstraumenといい、ボードーの東30キロにある。

ニーオーレスン
(Ny-Alesund、Ny-Ålesund)は、北緯78度55分 東経11度56分 座標: 北緯78度55分 東経11度56分 に位置し、ノルウェー領スヴァールバル諸島のスピッツベルゲン島にある、人が定住する地としては世界最北に位置する町である。1980年代からは、ノルウェー人だけでなく世界中の研究者が極地科学や極地生態研究の世界的拠点として活用するようになった。

オーレスン
(Alesund, Aalesund) はノルウェーの都市。ベルゲンの北北西236km、沿岸の島に位置する港町。ユーゲント・シュティール建築でも有名。人口3.7万人 (1996年)。10世紀にノルマンディー公となったロロが、フランスに渡る以前につくったギスケの町(オーレスン北西)から発祥したといわれる。 19世紀後半からは近郊のフィヨルド群に多くの観光客が訪れるようになった。


ベルゲン空港
Bergen Airport, Fleslandは、ノルウェーのベルゲンの19キロ南方にある国際空港である。

トロムソ空港
Tromso lufthavn、(IATA: TOS, ICAO: ENTC))はノルウェー北部の都市トロムソにある空港である。トロムソイヤ島の西側、トロムソの中心市街から北西3kmの距離に位置している。トロムソ以外にもトロムス県の北部・中央部への最寄りの空港となる。ノルウェー北部地方で最大の空港であり、フィンマルク県各地およびスヴァールバル諸島の空港に対してのハブとなっている。

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リュッゲ空港
Moss Airport, Ryggeとは、ノルウェー・モスの南東約10キロにある空港。オスロは60kmほど北方に位置しているが、格安航空会社のノルウェー・エアシャトルとライアンエアーがオスロへの拠点空港として利用している。

オスロ空港
Oslo/Gardermoen Airport)は、ノルウェー王国の首都、オスロの47キロ北方にある国際空港である。正式名称はガーデモエン空港(Gardermoen Airport)である。ノルウェー・エアシャトルの本拠地である。


ノルウェー国鉄
Norwegian State Railwaysとも。以下NSBは、ノルウェーの鉄道事業者である。経営は、ノルウェー政府によって行われており、ノルウェー最大の鉄道事業者である。


ラルダールトンネル
ノルウェー西部ソグン・オ・フィヨーラネ県にある、ラルダールとアウルランを結ぶ道路トンネルである。全長は24.5 kmで、道路トンネルとしては世界最長である。1995年に建設が始まり、2000年に完成した。このトンネルはオスロとベルゲンを結ぶ欧州自動車道路E16号道路の一部である。


ハーマル
Hamarは、ノルウェー・ヘードマルク県の都市。ノルウェー最大の湖ミョーサ湖畔にある。面積351平方キロメートル、人口27,593人(2006年)。トロンヘイムへ向かう2つの鉄道の沿線がある重要な地でもある。

モルデ
(Molde)は、ノルウェー、ムーレ・オ・ロムスダール県の都市。モルデは、風変わりな木造住宅、みずみずしい庭園と公園、散歩道とあずまやなど、牧歌的な町並みに囲まれた豪華なホテルとみなされ、バラの町というあだ名があった。この美しい町が、1916年1月21日に起きた大火で三分の一を失った。しかし、モルデは再建されて経済成長を続けた。

ハルデン
Halden)は、ノルウェーのエストフォル県にある町、自治体。ティスタ川デルタに面し、近くにはフィヨルドもある。スウェーデンと境を接する町としては最南端に位置する。市街地に張り巡らされた運河、レード邸、ヘイオスマステンというテレビ塔、スヴィネスンド橋などの観光地がある。スヴィネスンド地区のフレデリクスハルド要塞には歴史博物館も設けられている。

ナルヴィク
(Narvik)はノルウェーのヌールラン県の町で、北極圏内に位置する。人口18,301人(2007年現在)、面積2029平方キロ。東部には山々がそびえ立ち、スウェーデンと国境を接している。1番高いストルステイン(フィエレット)は標高1894mである。樹木限界線より高い場所では湖や谷も見られる。

ヴァドソー
Vesisaariは、ノルウェー・フィンマルク県の都市。面積1,258平方キロメートル。人口6,186人(2004年)。19世紀からの木造建築が被害を受けずに今も残っている。ノルウェー人の建てたエスベンセン邸、フィンランド人の建てたトゥオマイネン邸などである。ヴァドソヤ島は1926年、探検家ウンベルト・ノビレとロアール・アムンセンが飛行船ノルゲ号で北極点探険へ向かった出発地である。ノビレは飛行船イタリア号で1928年に再度訪れている。

リレハンメル
(Lillehammer)はノルウェーの都市。オップラン県の県都。1994年に冬季オリンピックがこの地で開催された。今の所、夏冬通して五輪開催・世界都市としては最も北に位置している。人口は約2万5千人(2004年)。

アーレンダール
(Arendal)は、ノルウェー、アウスト・アグデル県の都市。市中心街の中程には1600年代に建てられた木造建築が残る地域がある。この地域はティホルメンと呼ばれ、19世紀以前に建てられた建物が残る。アーレンダールの内港はポーレンといい、魚市場とパブ、レストランが立ち並ぶ。

ベルゲン
(Bergen、は、ノルウェー王国ホルダラン (Hordaland) 県の中心都市、ノルウェー第2の都市(周辺町村との大合併がなされた)である。ベルゲンには1946年に大学が創設された。ベルゲン大学は、今日では約17000人の学生と、3000人の職員を擁する。また市内には複数の研究所、例えば海洋研究所、NIFES、そしてクリスティアン・ミケルセン研究所 (CMI)がある。また、国の漁業管理庁がある。

ラルヴィク
(Larvik)はノルウェー・ヴェストフォル県の都市。オスロの南西105キロにある。面積530平方キロメートル、人口23,100人。周辺人口を含めて約4万人の都市圏を形成する。経済は農業、商業、サービス業、運送業に依存している。ラルヴィクはミネラルウォーターFarriskildeneの水源として知られ、ファリスのブランド名で売られている。


ハーシュタ
(Harstad) は、ノルウェー・トロムス県の都市、およびそれを含む基礎自治体。基礎自治体としての面積は372平方キロメートル、域内人口23,242人(2007年)。北極圏のおよそ250キロ北に位置する。トロムス県第2の都市で、北部ノルウェーで3位の人口をもつ。近年、3000年前と2600年前のものとみられる青銅器がトロンデネス半島(ハーシュタ北部)で見つかった。これらは海岸近くの墓地に一緒に埋められた物で、青銅器文化がハーシュタ地域にあったことを示す。

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ロングイェールビーン
Longyearbyen)は、ノルウェー領スヴァールバル諸島にある町。スピッツベルゲン島西部のイース・フィヨルド南岸に面している。人口は約2000人でスヴァールバル諸島人口の大半を占め、1000人以上の人口を有する町の中では、世界で最も北にある。

スタヴァンゲル
(Stavanger)はノルウェーの都市。ローガラン県の県都。人口は約11万2千人(2004年)。北海沿岸に位置する港湾都市。北海油田に近いため石油産業が発展した。そのほか、魚の缶詰工業なども盛ん。郊外にスタヴァンゲル空港があり、空路からもスタヴァンゲルへ訪れることができる。

ライカンゲル
(Leikanger)は、ノルウェー、ソグン・オ・フィヨーラネ県の町。面積180平方キロメートル、人口2,199人(2006年)。ノース語で古い農場Leikvangirにちなむ。最初の教会が建てられた場所である。leikrはスポーツや運動を、vangrは草地のことである。1889年までLekangerというつづりだった。

フレドリクスタ
(Fredrikstad)はノルウェーのエストフォル県に属する都市。面積288平方キロメートル、人口70,962人(2006年)。フレドリクスタはグロンマ川が北海に到達する場所にある。近隣のサルプスボルとともに、ノルウェー第5の都市圏を形成する。

スタインシャー
(Steinkjer)は、ノルウェー、ヌール・トロンデラーグ県の都市。面積564平方キロメートル、人口20,451人(2004年)。ボラレイネンにある岩絵に、トナカイとクマが描かれていることから、石器時代から定住者がいたとされている。同じ地域のバーダールにさらに6000年ほど古い壁画が残る。

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コングスベルグ
(Kongsberg)は、ノルウェーの都市でブスケルー県のヌーメダール谷の南端に位置する。面積792平方キロメートル。人口24,020人(2008年 )。1624年、当時のデンマーク=ノルウェー王クリスチャン4世により鉱業地区として『王の町』の名を授かった。1802年に公式に商業都市としてロイヤル・チャーターを授かった。


■政治
ノルウェーは議会制度を持つ立憲君主制による政治を行っている。国王の役割は、主に儀式や式典などに限られるが、国の象徴として国民意識の統一に重要な役割を果たしている。1814年の法律で国王には、議会または首相を含む内閣は国王により任命される、という重要な執行権が与えられたが、殆どの場合は議会が王の名の下に行っている。


ノルウェー労働党
Norwegian Labour Partyは、ノルウェーの最大の政党で社会民主主義政党。社会主義インターナショナル加盟政党。1887年に創設。1921年から1923年までの一時期、コミンテルンに加盟。1928年最初の労働党内閣が発足したが、2週間しかつづかなかった。1930年代には、革命的特徴は消え失せ、改良主義路線を取った。

保守党
ノルウェーの保守主義政党、リバタリアニズム政党。正式名は右翼党。1884年設立。国際民主同盟加盟政党。都市部の自営業者や官僚が本来の支持基盤である。経済政策は減税を主体とする自由主義的なものだが、社会政策では保守とは到底言えないような寛容的なものである。

キリスト教民主党
Christian Democratic Party、は1933年に結成されたノルウェーのキリスト教民主主義政党。原語をそのまま訳すとキリスト教人民党になる。クェル・マニェ・ボンデヴィック前首相(在任:1997年 - 2000年、2001年 - 2005年)らを輩出した党としても知られる。欧州人民党にオブザーバーとして参加。

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スヴァールバル条約
1920年に締結された、スヴァールバル諸島の取り扱いに関する多国間の条約。内容は、スヴァールバル諸島をノルウェーの統治下におくとする他、ノルウェーの法律は全ては適用されず、また、全ての加盟国は等しくこの島で経済活動を行う権利を有するとされ、さらに、スヴァールバル諸島を非武装地帯とすることも定めている。


■国名
英語による表記は Kingdom of Norway。通称 Norway。形容詞はNorwegian。日本語による表記はノルウェー王国。通称はノルウェー。ノルウェイとも。古くはノールウエーと表記された[3]。漢字では諾威と表記し、諾と略す。


1.面積:38.6万平方キロメートル(日本とほぼ同じ)
2.人口:約493万7000人(2011年4月1日現在、ノルウェー中央統計局)
3.首都:オスロ(人口約59万9230人:2011年1月1日現在、ノルウェー中央統計局)
4.言語:ノルウェー語
5.宗教:福音ルーテル派(国教)

1380年〜1814年 デンマークと同君連合形成
(1397年〜1523年、北欧三カ国によるカルマル同盟形成)
1814年 デンマークがノルウェーをスウェーデンに割譲
1905年 スウェーデンとの同君連合を解消し独立
1945年 第二次世界大戦後ナチス・ドイツの占領より解放される
1949年 NATO加盟
1960年 EFTA加盟
1972年 EC加盟を国民投票で否決
1992年 EEA協定批准(1994年発効)
1994年 EU加盟を国民投票で否決

■主要産業:石油・ガス生産、企業向け・サービス、保健・社会福祉

■主要貿易品目(1)輸出 原油・ガス・石油製品、水産物(2)輸入 乗用車、船舶、石油製品


ノルウェー・クローネ
(norsk krone、Norwegian krone)は、ノルウェーの通貨。略称NOK、又はkr。補助単位はオーレで、1クローネ=100オーレ。クローネとは王冠を意味する言葉であるが、これはデンマークやスウェーデンと同じである。1ノルウェー・クローネ=14.14円(2010年10月8日現在)


■経済
。1969年に北海油田が発見されて以降、油田・ガス田の開発が進んだ。北海における石油採掘は国有割合の高い企業(例えばスタトイルハイドロでは発行株式の約3分の2を国が保有)によって行われており、福祉国家ノルウェーの財政に大きく寄与している。水資源が多く水力発電量も活発に行われており。漁業、林業、鉱業も盛んである。漁業では特にノルウェーサーモン(アトランティックサーモン)や大西洋サバが日本に多く輸出されている。漁業文化が日本と似ており捕鯨推進国の一つ(ノルウェーの捕鯨を参照)。

■社会
1人当たりのGDPや平均寿命、就学率、成人識字率ともに世界的に高く、「人間開発指数(HDI)」で、世界トップクラスに位置している(2006年度1位)。また世界で最も男女平等の国としても知られ、男女間の機会均等、社会参加、利益などでも男女の差がなく、社会的要素の利益が男女の垣根なくいかに自由で平等に行き渡っているかを数値化したGDI、男女間の機会均等と社会参加の程度をあらわすGEMどちらも世界一である。


カルマル同盟
1397年にデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3王国間で締結された同盟(物的同君連合)。締結場所が現スウェーデンのカルマルであったので、カルマル同盟と呼ばれる。デンマークはノルウェーとの同盟を、1814年にスウェーデンに割譲するまで417年間維持させた。対するノルウェーは、1537年にカトリック派が追放され、プロテスタント化し、デンマークの従属国とされた。この時ノルウェーのカトリック大司教による改宗への抵抗があった。一部ではノルウェー人によるナショナリズムの昂揚もあったが、勢力は微弱で軍事力も無く、なし崩し的に飲み込まれて行った。


フリチョフ・ナンセン
Fridtjof Wedel-Jarlsberg Nansen, 1861年10月10日 - 1930年5月13日は、スウェーデン統治下のノルウェーの科学者、探検家、国際的な政治家。ナンセンはクリスチャニア(現在のオスロ)で弁護士の子として生まれた。クリスチャニア大学に進学し、動物学を専攻。1882年にはグリーンランド水域への最初の航海を行ない、1888年から翌年にかけてグリーンランド氷原のスキーによる横断に成功した。1893年には北極点遠征を行った。1895年3月にナンセンは士官のハイアラム・ヨハンセンを伴いスキーで極点を目指すこととした。しかし旅は難航し、4月8日に北緯86度14分の地点に到達したところで残りの食糧が僅かとなり、極点到達を断念した。彼らはゼムリャフランツァヨシファで越冬することになり、セイウチやホッキョクグマの肉を食べながら1896年の夏までその場に滞在し、雪解けとともに南下を開始、運良くイギリスの探検隊に救助された。

オッド・ハッセル
Odd Hassel, 1897年5月17日 - 1981年5月11日はノルウェーの物理化学者である。1969年、デレック・バートンとともに、「立体配座の概念の発展と化学への適用」の功績でノーベル化学賞を受賞した。第2次世界大戦中は反ナチ運動を行い、刑務所に入れられたが1944年11月に解放された。 1950年代の初めは、電荷移動化合物の研究を行い、それらの化合物の構造の解明を行った。

クリステン・ニゴール
Kristen Nygaard, 1926年8月27日 - 2002年8月10日は、ノルウェー人の数学者、計算機科学者にして政治家。オスロ生まれ。2002年、心筋梗塞により死去。クリステン・ニガードと表記されることもある。ノルウェー語での発音により近い表記は、ニィゴール。ニゴールは、1960年代にオーレヨハン・ダールと共にオブジェクト指向プログラミングを創始し、プログラミング言語Simulaを開発したことで知られている。現代情報社会の基盤を形成しているコンピュータシステムは人類が創造した最も複雑なものである。ニゴールらが行った革新的研究によってその複雑さを管理することが可能となった。

アトル・セルバーグ
Atle Selberg, 1917年6月14日 - 2007年8月6日 はノルウェーの数学者。解析的整数論や保型函数に於る業績で有名、特にそれらをスペクトル理論によって関連付けた。ノルウェーのLangesundに九人兄弟姉妹の末子として生まれる。少年期の逸話として、14歳の時にヨハン・ベルヌーイによる(1697)とされる一公式を独力で発見したというものがある。すでに大学入学前には、最初の論文を執筆していた。学生の時分よりラマヌジャンの仕事に影響を受け、其論文をヒントに、自身の告白によれば、二十歳の頃ラーデマッハーとは独立に分割数の解析的表現を発見したという。

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ニールス・アーベル
Niels Henrik Abel、1802年8月5日 - 1829年4月6日はノルウェーの数学者である。1818年に、数学教師ホルンボエに出会ってから、数学に興味を抱くようになった。友人達とヨーロッパ中を回って長く遊学し、クレレと知遇を得て、クレレの雑誌に多数の研究論文を掲載した。ヤコビやルジャンドルはアーベルの業績を認めていたが、ガウスはアーベルの研究論文に不快感を示し、コーシーは彼の論文をまともに審査しないまま放置するなど、アーベルには正当な評価が与えられなかった。帰国後はクリスチャニア大学に臨時講師を勤めたが、病気(結核及び併発した肝機能障害)のために26歳で世を去った。しかし、彼が当時世界最高レベルといわれた数学の総本山パリ科学アカデミーへ提出した「超越関数の中の非常に拡張されたものの一般的な性質に関する論文」こそ、のちに“青銅よりも永続する記念碑”と謳われ、後代の数学者に500年分の仕事を残してくれたとまで言われた不滅の大論文だった。

レネ・マーリン
レネ・マーリン・ペーダーシェン(Lene Marlin Pedersen, 1980年8月17日 - )は、ノルウェー、トロムソ出身の女性シンガーソングライター。1998年10月にノルウェーでリリースされたシングル『Unforgivable Sinner』(邦題:天使のように…)でデビューし、ノルウェー・チャートで初登場1位を獲得し、大ヒットとなった。

ロルフ・ラヴランド
(Rolf Lovland, 1955年4月19日 - )はノルウェー・クリスティアンサン生まれの作曲家。早期から作曲をはじめ、9歳ごろにはバンドを結成していた。クリスティアンサン音楽学校で学び、後にオスロのノルウェー音楽院で博士号を所得した。アイルランド出身のヴァイオリニスト、フィンヌーラ・シェリーとシークレット・ガーデンを結成。「ユー・レイズ・ミー・アップ」の作曲者として知られており、その曲は125以上の言語で歌われている。

リヴ・ウルマン
(Liv Ullmann、1938年12月16日 - )は、ノルウェーの女優・映画監督。エンジニアの父親の仕事の都合で東京で生まれ、カナダ、ニューヨーク、オスロなどで育った。ロンドンで演技を学び、ノルウェーで舞台に立ち、1957年にノルウェーで映画デビュー。北欧からの移民農家の妻を演じた1972年の『移民』(或いは『移民者たち』)でゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)を受賞、アカデミー主演女優賞にもノミネートされた。

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シセル
Sissel、1969年6月24日-は、ノルウェー出身の女性歌手。もともと母国・ノルウェーで国民的歌手として人気があったが、近年は「クリスタル・ボイス」とも評せられる透明感溢れる歌声と安定した歌唱力が世界的に高い評価を受け、国際的に広く精力的な音楽活動を続けている。8歳の時に聖歌隊に入り、徐々に歌唱力を磨く。やがてその歌唱力がノルウェー内で評判となり、1985年、アルバム「シセル」でCDデビュー、一躍国民的人気歌手となる。

ヨアキム・ハンセン
(Joachim Hansen、男性、1979年5月26日 - )は、ノルウェーの総合格闘家。オスロ出身。ヘルボーイ・ハンセンMMA所属。ブラジリアン柔術黒帯。元修斗世界ウェルター級王者、元DREAMライト級王者。見るものに強烈な印象を与えるその風貌と、グラウンドでの凄まじいパウンドから日本では「北欧の処刑人」、海外では「ヘルボーイ」の異名をとる。

クルト・ニルセン
(Kurt Erik Nilsen 1978年9月29日 - )はノルウェー・ベルゲン出身の歌手。2003年に放送されたIdol(TV2で放送されているノルウェー版ポップアイドル)で優勝し、タル・バックマンによって作曲された「She's So High」で歌手デビュー。ファーストアルバムのIはアルバムチャートで1位を記録した。2004年1月1日に放送されたワールドアイドルでは、アメリカの覇者ケリー・クラークソンらを破り、世界一のアイドルになった。

フルダ・ガルボルグ
(Karen Hulda Garborg、1862年2月22日 - 1934年11月5日)はノルウェーの作家、舞踊家、劇場の指導者。ヘードマルク県ハーマルの生まれ。若い頃、クリスチァニア(現在のオスロ)に移住し、労働運動とノルウェーの建国、特に言語運動に従事した。彼女は女優になりたかったが、家族が貧しかったので、店で働かざるを得なかった。

ウィレム・バレンツ
Willem Barentsz,1550年ごろ - 1597年6月20日)はオランダの航海士、探検家。ヨーロッパ北部の海を探検した初期のヨーロッパの探検家の一人。1594年、東アジアに至る北東航路探検のため、2隻の船でアムステルダムを出航。ノヴァヤゼムリャの西岸に達した。そのまま島にそって北に進んだが、結局は引き返した。

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ホーコン7世
(Haakon VII, 1872年8月3日 - 1957年9月21日)は、ノルウェー国王(在位:1905年 - 1957年)デンマーク王フレデリク8世とスウェーデン王カール15世の娘ロヴィーサの次男。兄はデンマーク王クリスチャン10世。元の名はクリスチャン・フレゼリク・カール・ゲオルク・ヴァルデマー・アクセル(Christian Frederik Carl Georg Valdemar Axel)で、カール王子と呼ばれた。

エミル・ウィングステッド
(Emil Wingstedt、1975年5月9日 - )はスウェーデンのオリエンテーリング選手。ノルウェーのハルデン出身である。スプリント種目を得意とし、これまで出場した7度の国際選手権(世界選手権、ヨーロッパ選手権)のうち6度で金メダルを獲得しており、唯一優勝を逃した2010年も銅メダルを獲得している。前述のとおりスプリント種目においては特に素晴らしい成績を残しているが、他の種目についても好成績を残している。メダルを獲得する以外にもワールドカップでは2000年に総合4位になっているほか8勝をおさめている。

エリオット・ネス
(Eliot Ness、1903年4月19日 - 1957年5月16日)は、アメリカ合衆国財務省の酒類取締局(Bureau of Prohibition)の捜査官。両親はノルウェー移民のピーターとエマ。ネス家はパン屋を経営しており、暮らしは裕福ではなかったが、貧しくもなかった。シカゴ大学で法律・商業を学んで会社の信用調査をしていたが大学に戻って犯罪学の修士をとり成績優秀で卒業。テニスが趣味だった。

アイヴィン・アルネス
(Eyvind Alnæs, 1872年4月29日 フレドリクスタ − 1932年12月24日 オスロ)はノルウェーの作曲家・ピアニスト・オルガニスト・合唱指揮者。オスロでイヴェル・ホルテルに、ライプツィヒでカール・ライネケに師事した後、《交響曲 第1番》を1896年にベルリンでユリウス・ルートハルトに初演してもらう。1895年から1907年までドランメンにてオルガニストを務め、その後はオスロのいくつかの教会でオルガニストや聖歌隊の指揮者を務めた。

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ペーテル・ニコライ・アルボ
(Peter Nicolai Arbo、1831年6月18日−1892年10月14日)はノルウェーの画家である。主にノルウェーの歴史や北欧神話を題材にした作品を手がけた。とりわけ『アスガルトスレイエン』(ワイルドハント)や、北欧神話に登場する女性、ワルキューレを描いた作品は有名である。

ラッセ・イェルツェン
(Lasse Gjertsen 1984年7月19日-)は動画共有サイトYouTube上ではユーザーネーム"Lassegg"で知られているノルウェーのアニメーター、ミュージシャン、ヴィデオ作成者。Youtubeで公開されている短編、"Hyperactive"〔『たまらない活発さ』〕と"Amateur"〔『素人』〕でよく知られているが、これはストップ・モーション・アニメと同種の効果を狙って、ヴィデオ撮りした一連の短いカットをまとめたものだった。

ルドヴィク・イルゲンス=イェンセン
(Ludvig Irgens Jensen、1894年4月13日 - 1969年4月11日)は、ノルウェーの作曲家。オスロ大学の文献学の学生だったが、ニルス・ラーセンにピアノを学ぶ。1920年より作曲を始めるようになり、その作品の急進的な性質は評価を得た。オラトリオ『帰郷』で国内コンクールの一等賞を獲得し、ノルウェーの記念碑的な作品とみなされた。また歌曲『祭壇』は最もよく知られた作品の1つである。

スパッレ・オルセン
(Carl Gustav Sparre Olsen、1903年4月25日 - 1984年11月8日)は、ノルウェーの作曲家・ヴァイオリニスト。スタヴァンゲル出身。1歳のときに一家はデンマークのコペンハーゲンに移住するが、1909年にオスロに移った。1923年にオスロ・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリニストとなり、その後10年間務めた。1926年から1930年までファッテイン・ヴァーレンに作曲を師事し、1930年から1931年までドイツのベルリンでマックス・ブティングの教えを受けた。

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ラルス・オンサーガー
(Lars Onsager, 1903年11月27日 - 1976年10月5日)はノルウェーオスロ出身のアメリカで活動した物理学者である。オンザーガーあるいはオンセージャーとも表記される。不可逆過程の熱力学の研究により1968年にノーベル化学賞を受賞した。
ノルウェー工科大学卒業。チューリッヒ工科大学を経て、1928年ブラウン大学の教職員となった。

トリグヴェ・グラン
(Jens Tryggve Herman Gran、1889年1月20日 - 1980年1月8日)はノルウェーのパイロット、探検家、作家である。Bergenの豊かな造船業を営む一族の家に生まれた。造船所のオーナーであった父親は5歳の時に亡くなったが、1900年に1年ほどスイスで、ドイツ語とフランス語を学んだ。1907年海軍大学に入り、1910年の春卒業した。フリチョフ・ナンセンの推薦でノルウェーで南極探検の準備をしていたロバート・スコットに協力し、スキーの名手であったグランは、スキーの教官としてテラ・ノヴァ号の探検に参加した。

ヨハン・スヴェンセン
(Johan [Severin] Svendsen, 1840年9月30日 - 1911年6月14日) はノルウェーの作曲家・指揮者・ヴァイオリニスト。スウェーデン統治中のノルウェーのクリスチャニアに生まれ、生涯のほとんどをデンマークのコペンハーゲンに過ごした。より高名な親友のエドヴァルド・グリーグとは対照的に、スヴェンセンは響きの美しさというよりは、管弦楽法の技巧によって名を揚げた。

オッド・ネルドルム
(Odd Nerdrum、1944年4月8日 - )は、ノルウェーの画家。スウェーデン生まれ。アイスランド人。大画面に描かれる古典的な表現はレンブラントやカラヴァッジオなどを彷佛とさせ、古典技法を現代風に展開している。オッド・ネルドルムは自身の作品はアートであるよりもキッチュであるべきだ、という主張を持っている。

リカルド・ノルドローク
(Rikard Nordraak, 1842年6月12日 クリスチャニア − 1866年3月20日)はノルウェー国民楽派の作曲家。ノルウェー国歌《我らこの国を愛す》の作曲者として名を遺している。日本では、一般にリカルド・ノルドロークとして知られている。少年時代より顕著な楽才を発揮するも、当時の他の多くの芸術家に同じく、別の進路に進むことを計画していた。実業界入りするつもりで15歳でコペンハーゲンの商業学校に進む。しかしながら音楽への関心が上回ると、商業を学ぶ代わりに音楽を学び、1859年に進んだ指導を求めてベルリンに留学。

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オーレ・ブル
(Ole Borneman Bull、1810年2月5日 - 1880年8月17日)は、ノルウェーのヴァイオリニストならびに作曲家。「ノルウェー初の国際的スター」と呼ばれる。新旧両大陸を股にかけて波瀾万丈の生涯を送り、ヘンリック・イプセンの戯曲『ペール・ギュント』の主人公のモデルにもなった。9歳で、ベルゲン劇場管弦楽団の第1ヴァイオリンを担当し、ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団と共演してソリストも務めた。18歳の時、オスロ大学に行かされるが、試験に落第してしまう。クリスチャニアの音楽院にも籍を置き、1828年に院長のヴァルデマル・トラーネ(Waldemar Thrane)が病死すると、音楽院とクリスチャニア劇場管弦楽団を監督した。

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