オランダ Netherlands
西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。海外領土としてカリブ海に6つの島を有する。憲法上の首都はアムステルダムだが、政治の中心は王宮や国会の所在地であるデン・ハーグ。ヨーロッパ北西部に位置し、東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクス三国と呼ばれる。
■デン・ハーグ
事実上のオランダの首都で、アムステルダムとロッテルダムに次ぐオランダ第3の都市でもある。13世紀にその原型が作られた騎士の館(リッデルザール)と称される建物が現在の国会議事堂となっている。国会議事堂のほかに、王室の宮殿、中央官庁、各国の大使館などが置かれており、ほぼすべての首都機能を持っている政治の中心都市である。
■アムステルダム
憲法上に規定されたオランダの首都。元々は小さな漁村だったが、13世紀にアムステル川の河口にダムを築き、町が築かれた。16世紀には海運貿易の港町として、ヨーロッパ屈指の都市へと発展した。現在のアムステルダムは、アムステルダム中央駅を中心に市内に網の目状に広がる運河や、その運河に沿って並ぶ17世紀の豪商の邸宅、自転車、飾り窓の女性たち、アンネ・フランクの家などで広く知られる。市内には、1632年に創立された公立のアムステルダム大学と、1880年に創立されたキリスト教系のアムステルダム自由大学がある。どちらも学生数2万人を超える大規模な大学である。
■スキポール空港
Schiphol Airport、アムステルダム国際空港とも)は、オランダ最大の空港で、アムステルダム南西の北ホラント州 ハーレマーメール基礎自治体に位置する。
■アイントホーフェン空港
Vliegbasis Eindhovenは、オランダの北ブラバント州 アイントホーフェンの西約8kmにある軍民共用空港である。アイントホーフェン空港はオランダで2番目の規模の空港であり、2007年には約150万人の利用客があった。
■クィーン・ベアトリクス国際空港
Queen Beatrix International Airportとは、アルバの主都、オラニエスタッドにある国際空港。空港名は、現オランダ女王ベアトリクスの名を冠している。
■フローニンゲン・エールデ空港
Groningen Airport Eeldeとは、オランダのドレンテ州 ティナールロ基礎自治体のエールデ地区にある民間空港である。フローニンゲンの南10kmの位置にある。
■マーストリヒト・アーヘン空港
Maastricht Aachen Airportとは、オランダのリンブルフ州 ベーク基礎自治体にある民間空港である。マーストリヒトの北東9km、ドイツのアーヘンの北西30kmの位置にある。
■フラミンゴ空港
Flamingo International Airport)は、カリブ海にあるオランダの特別自治体(旧オランダ領アンティル)・ボネール島の空港。
■プリンセス・ジュリアナ国際空港
Princess Juliana International Airportは、カリブ海のオランダ自治領シント・マールテン(セント・マーチン島南半部)にある国際空港である。大型旅客機がビーチ上の低空を通過して着陸することで知られている。
■オランダ鉄道
NS, Nederlandse Spoorwegenは、オランダの鉄道を運営する鉄道事業者で、旧オランダ国鉄を継承した、全国組織の鉄道事業者である。オランダ鉄道は、日本の約1割に相当する40,000平方キロの国土に、約2800kmの鉄道網を有し、日本やドイツと並んで、鉄道密度が高い国である。また、旅客輸送密度はヨーロッパで群を抜いて高く、鉄道が国内交通で重要な役割を果たしている。
■アムステルダム中央駅
Station Amsterdam Centraal スタシオン・アムステルダム・セントラール)は、1889年に開業したオランダの首都アムステルダムにあるオランダ鉄道の駅である。Amsterdam CSとも略記される。駅舎は建築家P.J.H.カイペルスとA.L.ファン・ゲントによって設計された。アムステルダム中央駅はオランダにおいて著名建築家によって設計された最初の駅である。それまでは鉄道の技術者や無名の建築家が設計していたが、アムステルダム中央駅はその重要性からアムステルダム国立美術館を設計した実績を持つカイペルスが起用された。ネオゴシックとネオルネサンスを融合させた様式であり、国立美術館とは強い類似が見られる。
■ロッテルダム中央駅
Station Rotterdam Centraal スタシオン・ロッテルダム・セントラール)はオランダのロッテルダム市 中央区(Centrum)にあるオランダ鉄道(NS)とロッテルダム電鉄(RET)の駅。オランダ鉄道(NS)の1957年に建設された旧駅舎は2007年に撤去され、2013年に新駅舎が開業する予定である。
■ラインバーン商店街
(Lijnbaan)は、オランダ、ロッテルダムの中心地にある商店街。旧商店街が1940年5月14日のドイツ空軍による空襲によって壊滅的な打撃を受けた後、1953年に建設された。道路を完全に歩行者専用としたため、最初に歩行者天国を始めた発祥の地と言われている。
■クレラー・ミュラー美術館
オランダ・ヘルダーラント州エーデのデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園内のオッテルロー村(Otterlo)にある、美術館である。アントン・クレラー・ミュラーと、その夫人ヘレン・クレラー・ミュラーのコレクションを基に1938年に開設された。フィンセント・ファン・ゴッホに関するコレクションで知られ、その絵画87点におよぶ規模はアムステルダムのゴッホ美術館とならび、2大ゴッホ美術館と称される。
■フローニンゲン大学
University of Groningenは、オランダ北部の都市フローニンゲン市にある大学である。オランダでも2番目に古く、3番めに大きな大学で、現在20,000名以上の学生が学んでいる。
■ユトレヒト大学
Universiteit Utrechtはオランダのユトレヒトにある公立大学。1636年に設立され、オランダの大学としてはライデン大学に次ぐ古さを誇っている。また、ヨーロッパの大学としても最も規模の大きな大学の一つである。1584年に設立されたユトレヒト市図書館は、大学の設立と一体のもので、これはオランダ北部では最大規模のものである。2004年の時点で、大学の26,787人の生徒、8,224人の教授陣を有する。
■アイントホーフェン工科大学
(Technische Universiteit Eindhoven)は、オランダのアイントホーフェンにある公立大学。TU/eと略される。
■ユトレヒト
Utrechtは、オランダのユトレヒト州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。オランダ第4の都市であり、ユトレヒト州の州都でもある。首都アムステルダムから30キロほど南に位置する。ユトレヒトの起原はローマ帝国が47年頃に建てた要塞である。これは現在よりも北を流れており、ローマ帝国の国境であるライン川河畔にあった。ユトレヒト旧市街でひときわ目立つ大聖堂の塔の姿が今日望めるのは、その塔を越える高さの建物を建ててはいけないという暗黙の了解が長い間守られてきたことによる。
■ロッテルダム
Rotterdamは、オランダの南ホラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。ロッテルダム港を擁する世界屈指の港湾都市で、人口規模はアムステルダムに次いでオランダ第2位である。世界都市であり、国内の他都市に比べて近代的なビルが立ち並ぶ。
■アイントホーフェン
Eindhovenは、オランダの北ブラバント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)で、ドメル川沿いにある南部を代表する工業都市。オランダ第5位の人口を擁する都市で、周辺の自治体を含むアイントホーフェン都市圏の人口は70万人に達する。
■スヘルトーヘンボス
Den Boschは、オランダ南部に位置する都市または広域行政区。北ブラバント州の州都。スヘルトーヘンボスで行われているカーニバルがオランダ最古(記録に残る限りで1385年)のものである。カーニバル期間中、スヘルトーヘンボスは架空の国ウテルドンク("Oeteldonk": 湿地のカエル)と呼ばれ、ウテルドンク国プリンス、アマデイロ25世(2006年-)の統治下に置かれる。ウテルドンク(蘭:Oeteldonk)の名前は、スヘルトーヘンボスの街を囲む湿地帯(donk)と、その湿地帯に住むカエル(oetel)に由来すると言われている。
■アッセン
Assenはオランダ ドレンテ州の州都である基礎自治体(ヘメーンテ)。フローニンゲンの南西24km、アムステルダムの北東130kmに位置する。繊維、印刷業などの軽工業と観光業などのサービス業が盛んで、各種医療機関が集中するドレンテ州の医療の中心でもある。郊外に新石器時代の遺跡が残されており、街の博物館に先史時代の発掘物が展示されている。
■バールン
Baarnは、オランダのユトレヒト州に位置する基礎自治体(ヘメーンテ)であり、町である。郊外には王室の御用邸があり、その一つスーストデイク宮殿にはエンマ女王、ユリアナ女王、ユリアナ女王の夫君のベルンハルト王配が暮らした。
■レリスタット
Lelystadは、オランダのフレヴォラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。フレヴォラント州の州都であり、また、オランダで最も新しく誕生した都市のひとつである。レリスタットには、フレヴォラント干拓地およびアイセル湖の重要なインフラ設備が数多く存在している。
■レーワルデン
(Leeuwarden)はオランダの都市。フリースラント州の州都。オランダ北部の重要な牛市場があり、酪農製品の製造が盛ん。干拓事業により造られた土地の為、標高は海面下であり、ワデン海やアイセル湖に程近い。オランダの代表的な酪農の町で、運河が通り、酪農製品の集散地となっている。
■アーネム
Arnhemは、オランダのヘルダーラント州の州都。ライン川に沿った美しい街で庭園都市、公園都市などとも呼ばれる。北西10キロにデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園があり、同公園内にフィンセント・ファン・ゴッホのコレクションで知られるクレラー・ミュラー美術館があることから、アーネムを経由して訪れる観光客も多い。
■マーストリヒト
Maastricht, は、オランダ南東端部、リンブルフ州の基礎自治体(ヘメーンテ)である。マーストリヒトはオランダで最も古い町であるといわれているが、オランダで最初にローマ帝国から都市権を得たのはナイメーヘンである(西暦98年)。8000年から25000年前の旧石器時代の遺構が、市内の西部で発見されている。ローマ人が住みつく少なくとも500年前には、マース川が浅瀬になり対岸に容易に渡ることができる地点にケルト人が住んでいた。
■フローニンゲン
Groningen フローニンヘンはオランダのフローニンゲン州にある基礎自治体(ヘメーンテ)で、オランダ北部における商工業の中心都市。1959年に発見されたフローニンゲン・ガス田は南北45km・東西25kmの大きさで、世界で10本の指に入る埋蔵量を有する。
■ミデルブルフ
Middelburg)はオランダ南西部の都市で ワルヘラン半島に位置するゼーラント州の州都である。人口46,000人ほどの市で、その歴史は8世紀後半から9世紀始めにさかのぼることができる。初めてミデルブルフについての記録が残るのは、ヴァイキングの侵略に対するワルヘラン島の3つの防御点の一つで地名は'中央の城砦'の意味に由来する。844年に修道院が立てられ、これはスペインからの独立時まで、存続した。
■ハールレム
(Haarlem)はオランダの北ホラント州にある基礎自治体 (ヘメーンテ)であり、州都が置かれている都市。ニューヨークのハーレム地区の名称は、このハールレムに由来する。街の中心部から北海沿岸まで約5キロ程度。スパールネ川沿いに位置する。印刷業のほか、チューリップやヒヤシンスなどの球根栽培も盛ん。
■アルメレ
Almereは、オランダのフレヴォラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。アムステルダムの東約30kmの位置にあり、1968年に干拓されたフレヴォラント南干拓地(Zuidelijk Flevoland)の西部にある。オランダで最も新しく誕生した都市のひとつである。
■アペルドールン
Apeldoorn アポドォン)は、オランダのヘルダーラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。16世紀より製紙産業が盛んで、オランダ王室の基となったオラニエ=ナッサウ家の夏の離宮であるヘット・ロー宮殿があることでも有名である。
■デン・ヘルダー
Den Helder)は、オランダの北ホラント州にある基礎自治体、都市。デン・ヘルデルとも表記される。北ホラント半島の先端を占め、海軍の重要な基地が置かれている。
■エンスヘーデ
Enschede、はオランダのオーファーアイセル州にある基礎自治体 (ヘメーンテ)である。東側はドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州と接している。中世から20世紀初頭にかけて繊維産業で栄えた街である。
■ブレダ
(Breda) は、オランダの北ブラバント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。ロッテルダムの南南東30 kmに位置する、オランダ南部の主要都市である。11世紀ごろ、ブレダは神聖ローマ帝国の直轄領であった。1252年に都市権を得た後、レンガ製の城壁とローマ様式の門の建設を許された。1327年にブラバント公ヤン3世がこの地の領有権を得た。
■ズヴォレ
(Zwolle)はオランダオーファーアイセル州の都市で、同州の州都。アムステルダムの北東約120kmに位置する。西暦800年頃フリージア人の商人とカール大帝の軍隊によって、街は設立された。ズヴォレの名前は、丘を意味するSuolleに由来している。
■フィリップスブルフ
(Philipsburg)は、カリブ海のリーワード諸島にあるセント・マーチン島(シント・マールテン島)にある町で、島の南半部を占めるオランダ自治領シント・マールテンの首府である。島の北部(フレンチ・サイド)サン・マルタンの中心地マリゴと比べるとやや静かな街であるが、市街を東西に貫く目抜き通り「フロント・ストリート」(Front Street)を中心として免税店などの店が立ち並ぶ、観光地的な町である。町並みはオランダ風でパステル調着色の家々が立ち並ぶ。
■ナイメーヘン
Nijmegen)はオランダのヘルダーラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)である。オランダで初めてローマ帝国の都市権を得た街として知られる。ライン川の下流のワール川の南岸に街が形成されており、市街地中心よりドイツ国境まで7km程度の距離である。
■ティルブルフ
Tilburg)は、オランダの北ブラバント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)で、オランダで第6位の人口を擁する都市である。ティルブルフでは多くの祭りが開催される。フェスティヴァル・ムンディアル(ワールド・ミュージック)、ジャズ・フェスティヴァル、インディーズ系フェスティヴァルなどがある。ベネルクス諸国最大ともいわれる移動遊園地が、毎年7月に10日間開催される。
■ゼーラント州
(Zeeland、海の国の意)は、オランダ南西部の州。州都はミデルブルフ。北東は南ホラント州、東は北ブラバント州。南はベルギーのオースト=フランデレン州・ウェスト=フランデレン州と境界を接する。
■八十年戦争
Tachtigjarige Oorlogは、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある。
外務省:オランダ王国
在オランダ日本国大使館
オランダ政府観光局
■キリスト教民主アピール
Christen Democratisch Appel CDAはオランダの中道右派、キリスト教民主主義政党。1980年10月11日設立。カトリック、プロテスタント双方の信者に支えられ、とりわけ農村部の高齢者の間で支持が厚いが、キリスト教民主アピールが一時期中道政党を標榜していたことから、各階層のあらゆる宗教の信者を惹き付けている。
■労働党
Partij van de Arbeid、略称:PvdA)はオランダの社会民主主義政党。2007年2月22日以降、第4次バルケネンデ政権の与党でもあったが、現在は野党に転じている。欧州社会党および社会主義インターナショナルに加盟。
■自由民主国民党
Volkspartij voor Vrijheid en Democratie、略称:VVDは、オランダの自由主義政党。現在、第一院・第二院の両方において第一党である。党首のマルク・ルッテは現在、首相を務めている。
1.面積:41,864平方キロメートル(九州とほぼ同じ)
2.人口:1,653万人(2009年オランダ中央統計局)
3.首都:アムステルダム
4.言語:オランダ語
5.宗教:キリスト教(カトリック30%、プロテスタント19%)、イスラム教(4%)、その他(5%)、無宗教(42%)
1568年 対スペイン独立戦争
1648年 オランダ連邦共和国独立
1810年 フランスにより併合
1815年 オランダ王国独立
1839年 ベルギーの独立を承認
1867年 ルクセンブルクの独立
1940年 ドイツによる占領
1945年 オランダの解放
1949年 インドネシアの独立
1975年 スリナムの独立
■主要産業:石油精製、化学、電気、食品加工、天然ガス
■主要貿易品(2009年、Eurostat)(1)輸出:原油、機械類、電気機器(2)輸入:原油、機械類、輸送機器
■ユーロ
ユーロはヨーロッパでは23の国で使用されている。この23か国のうち17か国が欧州連合加盟国である。ユーロは準備通貨としてはアメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位を有していた。さらに、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていた。しかし、近年のユーロ危機で、通貨連盟の矛盾が表面化しその存続を危ぶむ意見さえも出るようになってきている。
■政治
政体は立憲君主制で、国家元首はベアトリクス女王(1980年4月30日即位)。2010年2月20日、キリスト教民主アピール (CDA) 、労働党 (PvdA) とキリスト教同盟 (CU) の3党連立から労働党が離脱したことで第4次バルケネンデ政権が崩壊した。これを受けて同年6月9日に第二院の総選挙が実施され、マルク・ルッテ率いる自由民主国民党 (VVD) が31議席を得て第1党となった。
■経済
エネルギー・資源産業では、オランダは天然ガスの大生産地であり輸出国でもある。石油精製産業も重要であり、代表企業としてロイヤル・ダッチ・シェルが国内だけでなく、石油メジャーとして世界中でエネルギー資源開発を行っている。製造業では、ユニリーバやハイネケンなどに代表される食品・家庭用品産業、フィリップスに代表される電器産業、DSMに代表される化学産業が代表的な産業である。
■ヴェストファーレン条約
Peace of Westphaliaは、1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター条約とオスナブリュック条約の総称である。英語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である。この条約によって、ヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至った。この秩序をヴェストファーレン体制ともいう。
■ニュークリア・シェアリング
(Nuclear Sharing)とは、「核兵器の共有」という北大西洋条約機構(NATO)の核抑止における政策上の概念である。NATO内の核保有国である三カ国(フランス、イギリス、アメリカ)のなかで唯一アメリカだけがニュークリア・シェアリングのための核兵器を提供している。現在ニュークリアシェアリングを受けている国は、ベルギー、ドイツ、イタリア、オランダである。
■国民
住民はゲルマン系のオランダ人が83%で、それ以外が17%である。オランダ人以外としては、トルコ人、モロッコ人、あるいは旧植民地(アンチル諸島、スリナム、インドネシアなど)からの移民などがいる。
■文化
オランダは、他国で思想・信条を理由として迫害された人々を受け入れることで繁栄してきたという自負があるため、何ごとに対しても寛容であることが最大の特徴といえる。現在でも他の欧州諸国に比して実に多くの移民が、その暮し易さのために、合法・非合法を問わず在住している。 合法的に入国を果たしたEU域外からの移民については、オランダ語講習、社会化講習、就職相談をセットにした、いわゆる「市民化講習」の実施を他のヨーロッパ諸国に先駆けて行うなど、一定の移民対策も講じてはいる。
■オランダの映画
オランダの映画産業は小規模なものだが、いくつかの活発な時期を経て、比較的に繁栄してきているといえる。最初のブームは第一次世界大戦中に、オランダが中立国であったときに起こり、ホランディア (Hollandia) といった映画スタジオが長編作品を制作していった。第二の波は1930年代で、トーキーの時代に起こった。1934年から1940年の間には37本の長編映画が封切られた。この後の成長を支えた要因の一つは、音声技術を携えて海外からオランダに渡ってきた人々がいたことが挙げられる。その多くはヒトラーの政権を逃れたドイツからの人々であった。
■ロッテルダム国際映画祭
(International Film Festival Rotterdam, IFFR) は、オランダのロッテルダムで開催される映画祭。1972年に始まり、毎年1月の終わりに開催されている。1995年の第24回以降は、長編映画のコンペティション部門の上映作品を、長編初監督作品か、長編2作目に限っている。このため、新人監督に賞を授与する映画祭となっている。
■レンブラント・ファン・レイン
Rembrandt Harmensz. van Rijn、1606年7月15日 - 1669年10月4日は、17世紀を代表する、オランダの画家。単にレンブラントと呼ばれることも多い。大画面と明暗を画面上に強く押し出したルミニズムの技法を得意とし、「光の画家」「光の魔術師」(または「光と影の画家」「光と影の魔術師」)の異名を持つ。油彩だけでなく、エッチングや複合技法による銅版画やデッサンでも数多い作品を残した。620年、14歳のレンブラントはラテン語学校から飛び級でライデン大学への入学許可を受けた。進学したのは兄弟の中で彼のみであり、兄たちは家業の製粉業に就いていた。両親は彼に法律家への道を期待していたが、実際にそこに籍を置いたのはわずか数ヶ月に過ぎず同年末もしくは翌年には画家を志向した。1624年に18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と言われたアムステルダムのビーテル・ラストマンに師事した。
■アンネ・フランク
Annelies Marie Frankは、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女。オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜行生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入り、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家での事を日記に書き続けた。1944年8月4日にゲシュタポに隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送された。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。ゲシュタポに荒らされた隠れ家には、アンネが付けていた日記が残されていた。オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡された。オットーは娘アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。
■ヘリット・リートフェルト
Gerrit Thomas Rietveld 1888年6月24日 - 1964年6月25日は20世紀オランダの建築家、デザイナー。オランダのユトレヒトに生まれた。家具職人の父のもとで修業し、1911年に自分の家具工場をはじめる。1918年、モンドリアンらとともに芸術運動デ・ステイルに参加。デザイナーとしては「赤と青のいす」、建築家としては、世界遺産にも登録されているシュレーダー邸が有名である
■クリストフ・ボイス・バロット
Christophorus Henricus Diedericus Buys Ballot、1817年10月10日 - 1890年2月3日はオランダの気象学者である。気象に関するボイス・バロットの法則やボイス・バロット表で知られる。ボイス・バロットの法則(Buys Ballot's law)は、北半球において、風を背にして立つと低気圧の中心が左手の方向にあるという法則で、アメリカの気象学者ウィリアム・フェレルが少し早く発見したが、学会誌にボイス・バロットが発表したので、ボイス・バロットの名前で呼ばれる。
■マルク・ルッテ
(Mark Rutte, 1967年2月14日 - )はオランダの政治家。自由民主国民党 (VVD) 所属。現在、同国首相(2010年10月14日 - )。ルッテはヒムナシウムに通い、1979年から1985年までの間、とくに芸術を専攻した。ルッテはもともと音楽学部へ進学してコンサート・ピアニストを志していたが、実際には1992年までライデン大学で歴史学を学んだ。その傍らでルッテは自由民主国民党の青年団体である「自由と民主主義」の役員を務め、1988年から1991年にかけては代表を務めた。
■フランシナ・ブランカース=クン
(Francina Elsje “Fanny” Blankers-Koen、1918年4月26日 - 2004年1月25日)は、1948年に行われたロンドンオリンピックで4つの金メダルを獲得したことで知られるオランダの女性陸上競技選手である。成し遂げた当初、女性アスリートに対して渋い顔をする時代において、彼女は既に二児の母親であったことから『空飛ぶ主婦』(The Flying Housewife)という称号を得ることになる。1999年には国際陸上競技連盟による『今世紀を代表する女性アスリート』(Female Athletic of the Century)に選出された。
■デジデリウス・エラスムス
(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466年?10月28日 - 1536年7月12日)は、ネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。エラスムスの思想は宗教改革運動と対抗宗教改革運動の双方に大きな影響を与えた。『ユートピア』を著したトマス・モアとの親交や自由意志に関するマルティン・ルターとの論争でも知られる。
■バールーフ・デ・スピノザ
Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日はオランダの哲学者、神学者。一般には、そのラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ (Benedictus De Spinoza) で知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、ドイツ観念論やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。幼少の頃より学問の才能を示し、ラビとなる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。伝統から自由な宗教観を持ち、神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。
■ハンス・ダルファー
(Hans Dulfer、1940年5月28日 - )はオランダのテナーサックス奏者。ジャズを基本としながらもファンク色の色濃い作品を数多く発表している。オランダ・アムステルダム生まれ。10代半ばでテナーサックスを始め、17歳でデビュー。元々ジャズの抱えていた(クラシック音楽に対する)反骨精神と斬新さを追い求めた結果として、ファンクやパンク・ロックの色合いの強い音楽性が出来上がっていったと言われている。
■ヘンドリク・ペトルス・ベルラーヘ
(Hendrik Petrus Berlage、1856年2月12日 ― 1934年8月12日)オランダを代表する建築家、都市計画家。オランダの近代建築の父と呼ばれる。1920年から1935年にかけて建設されたアムステルダム南部計画市域拡張部分が「アムステルダム派」の中核的宣言の背景を成し、そのできばえはウィリアム・ホルフォードやジークフリード・ギーディオンに絶賛される。アムステルダム生まれ。
■ヤン・ペーター・バルケネンデ
Jan Peter Balkenende(ヘルプ / リンク), 1956年5月7日 - は、オランダの政治家。キリスト教民主アピール所属。2002年7月22日から2010年10月14日まで、4期にわたって同国首相を務めた。2001年10月1日、バルケネンデはヤープ・デ・ホープ・スヘッフェルの後任としてキリスト教民主アピールの議員団長に選出された。同年11月3日には翌年5月の選挙において比例名簿の最上位となることが決まった。選挙の結果、キリスト教民主アピールは第二院における最大政党の地位を奪回した。
■ヨハン・ホイジンガ
Johan Huizinga、1872年12月7日 - 1945年2月1日はオランダの歴史家。学位論文のテーマは古代インド演劇であった。ホイジンガはブルクハルトのルネサンス観には、疑問を持っていた。彼は『中世の秋』で14〜15世紀のブルゴーニュ公国の文化について考察を行っているが、第8章で遊びと真面目が截然としていない文化たるキリスト教社会にあって、卑猥な言葉も隠し言葉もこれらは全て民族的背景を基盤とし、貴族文化の成熟の象徴であると称えている(これを発展させ、人間の本質を「遊戯」に見出したのが『ホモ・ルーデンス』である)。
■ヘイケ・カメルリング・オネス
(Heike Kamerlingh Onnes, 1853年9月21日-1926年2月21日) はオランダの物理学者である。1870年、フローニンゲン大学に入学。その後1871年から1873年までドイツに留学し、ハイデルベルク大学にてローベルト・ブンゼン、グスターブ・キルヒホッフらの教えを受けた。4.2Kで、水銀の電気抵抗が突然消滅した。当初オネスは試料の電極がショートしたと思ったが、その後で現実に電気抵抗がゼロになったのだと気づいた。これが超伝導現象を発見した瞬間だった。オネスは「水銀は新たな状態へと遷移した。この状態の特異な電気的特性から、これを超伝導状態 (superconductive state) とでも呼ぼう」と記している。
■アベル・タスマン
(Abel Janszoon Tasman、1603年 - 1659年10月10日)はオランダの探検家。特にオランダ東インド会社(VOC)の元で行った1642年と1644年の航海が有名。 1643年には現在のタスマニア島とニュージーランド、フィジーへ到達した最初のヨーロッパ人となった。1633年にオランダ東インド会社への勤務でバタビア(現在のジャカルタ)へ赴任、4年後にアムステルダムへ帰国後、さらに10年の契約で妻とバタビアへ再赴任した。
■ジョニー・ハイケンス
Jonny [Wim] Heykens, 1884年9月24日 フローニンゲン - 1945年6月28日 ヒルフェルスム)は、オランダの作曲家。「ハイケンスのセレナーデ」(Standchen, Op.21-1)の作曲者として知られる。この曲は1943年に日本放送協会のラジオ番組「前線へ送る夕」(ぜんせんへおくるゆうべ)のテーマ曲として採用されたことで一般に知られるようになり、戦後は旧日本国有鉄道(国鉄)の客車の車内放送用チャイムに第一主題の旋律の末尾部分が採用され、今日でもカシオペアを除いた全てのJRの客車列車と、789系、秩父鉄道のパレオエクスプレスに使用されている。
■ダニエル・ベルヌーイ
Daniel Bernoulli, 1700年2月9日 - 1782年3月17日)はスイスの数学者・物理学者。オランダのフローニンゲンに、数学者ヨハン・ベルヌーイの息子として生まれる。伯父としてやはり数学者のヤコブ・ベルヌーイがいる。自然科学の分野以外で特記すべきは、経済理論へのベルヌーイの先駆的な貢献である。1738年に、「リスクの測定に関する新しい理論」というラテン語で書かれた論文が、学術雑誌『ペテルブルク帝国アカデミー論集』に掲載された。
■ヒエロニムス・ボス
(Hieronymus Bosch/本名:Jeroen van Aken、1450年頃- 1516年8月9日)は、ルネサンス期のネーデルラント(フランドル)の画家。初期フランドル派に分類される。史料が乏しく、伝記には不明な点が多いものの、現在のオランダのベルギー国境近くにあるス・ヘルトーヘンボスの画家一家に生まれた。父はアントニス・ファン・アーケン(Anthonis van Aken)、祖父はヤン・ファン・アーケン(Jan van Aken)、兄のホーセン(Goossen)および3人のおじ達は画家であった。
■アーノルド・スコルテン
(Arnold Scholten, 1962年12月5日-)は、オランダ・デン・ボス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代は中盤の底、右サイド、そしてリベロとして活躍。ブラジルの名選手にたとえられ「白いソクラテス (Witte Soctrates)」と呼ばれた。
■ピエール・ド・ラ=リュー
(Pierre de La Rue, 1460年頃〜1518年11月20日)はルネサンス音楽の作曲家。ジョスカン・デ・プレと同世代の作曲家で、アレクサンダー・アグリーコラやアントワーヌ・ブリュメル、ロイゼ・コンペール、イザーク、ヤーコプ・オブレヒト、ガスパル・ファン・ヴェールベケらと並んで、15世紀末から16世紀初頭にかけてネーデルラント楽派様式の指導力を担った一人。
■ヘラルト・テル・ボルフ
(Gerard ter BorchまたはTerburg、1617年12月 - 1681年12月8日)は、オランダの画家。ズウォレ(現在のオーファーアイセル州の町)で生まれた。彼は芸術家であった父親から良い教育を受け、非常に幼い頃から才能の片鱗を見せた。テル・ボルフの現存する作品は比較的少ない。80作品のみが知られる。このうち6作品はエルミタージュ美術館、5作品はルーヴル美術館、4作品はアルテ・マイスター絵画館、2作品がウォレス・コレクションに収められている。
■ルトガー・ハウアー
(Rutger Hauer, 1944年1月23日 - )は、オランダ出身の俳優。両親は演劇学校の教師である。両親が不在のことが多かったため、彼と妹たちは乳母に育てられた。アムステルダムで育ち、15歳のとき家出して海に行き、貨物船に乗りデッキを磨いて一年を過ごす。家に戻った彼は、3年間、電気技師や大工として働きながら夜間学校の演劇クラスに通った。
■ヨリス・イヴェンス
(Joris Ivens、1898年11月18日 ナイメーヘン - 1989年6月28日 パリ)は、オランダのちにフランスの映画監督。ドキュメンタリー映画のビッグ・ネームであり、文明の発展とその不平等に関してときに戦闘的な視線をもちながら、最後の作品群をアジアへと捧げた。1898年11月18日、オランダ・ヘルダーラント州のナイメーヘンに生まれる。「オランダ写真界の元祖」といわれる人物を祖父に持つ。