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モンテネグロ
Montenegro
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■バルカン半島
Balkan、は、ヨーロッパの東南部で、トルコのヨーロッパ部分、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、そして1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分(マケドニア共和国、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)からなる地域と考えられている。バルカン半島の北限はしばしばドナウ川とサヴァ川とされているが、歴史的な繋がりの深いルーマニアや旧ユーゴスラビアのスロベニアをバルカンに含めることもあり、必ずしも定まった地域概念ではない。
■シュコダル湖
モンテネグロとアルバニアの国境にある湖で、バルカン半島最大の湖である。この名称は北アルバニアの都市シュコドラから名付けられている。モンテネグロ側の湖とその周辺地域は、1983年に国立公園に指定されている。この地域はヨーロッパ最大の鳥類の保護区であり、約270種の鳥が生息している。狩猟鳥やヨーロッパでも残存する生息地の少ないペリカンなどがいる。
■ディナル・アルプス山脈
山脈はアドリア海沿岸に北西から南東へ645km伸びる。北西のジューリア・アルプス山脈からシャル=コラブ山塊までは北から南へ直接延びる。最高峰は、北アルバニア、東モンテネグロの国境となっているマヤ・イェゼルツァ峰で、2692mである。
■リム川
モンテネグロ、アルバニア、セルビアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境における河川である。ドリナ川の支流として、リム川は長さが220キロで、支流の中で最も長い。
■ベオグラード=バール鉄道
セルビアの首都ベオグラードとモンテネグロの主要港湾都市バールを結ぶ鉄道路線である。バール鉄道と通称される。全長476kmの単線標準軌で、301kmはセルビア領内を通り平均海抜は175mである。山岳路線で急勾配のため、強力な電気機関車を必要とするので、当初から全線交流電化25kv50Hzで建設された。戦後、社会主義経済建設のため、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の中核プロジェクトとして、国の総力を挙げて1951年に着工された。建設の目的は、内陸の首都ベオグラードと、アドリア海に面する貿易港のバールとを、他国を経由せず最短距離で結ぶ戦略的なものだった。予定路線は道路さえまばらなディナル・アルプス山脈の深い山岳地帯であり、そこを貫くため、2本の長大トンネルと世界でいまだに最も高いマラ・リイェカ橋梁を含む難工事に、25年もの歳月を要した。
■マラ・リイェカ橋梁
モンテネグロの首都ポドゴリツァの北20kmに位置する、ベオグラード=バール鉄道の鉄道橋である。建設計画は1969年に開始され、1973年に完了した。マラ・リイェカ橋梁はフランスのファデ橋梁を抜いて世界一高い鉄道橋となっている。橋の全長は498.8mで、橋梁の高さは下を流れるマラ・リイェカ(小さい川の意)の上198mにあり、ベオグラード=バール鉄道では一番長い橋梁となっている。 橋の建設には36,600m3のコンクリートと、100,000トンの鋼材が使われている。
■モンテネグロの歴史
モンテネグロ人(イリュリア人との混血)は、10世紀までにドュクリャ公国(Duklja)という半独立の国を形成した。1077年にローマ教皇のグレゴリウス7世はドュクリャ公国を独立国として認識し、ステファン・ヴォイスラヴの建てたヴォイスラヴ王朝の貴族であるミハイロ王をドュクリャ王(ラテン語:rex Doclea)として承認した。
<歴史>
■1516年
ツェティニェ家による神政政治が確立した。これがモンテネグロが独自に持った最初の国家形態である。ツェティニェ家はその神政政治という性格から叔父から甥へと主教座が継承され、オスマン帝国のスルタンに朝貢を続けながら国家を存続させた。
■1878年
露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約、ベルリン条約でオスマン帝国からの完全な独立を承認された。1905年に憲法が制定されて、モンテネグロ公はモンテネグロ王と規定しなおされ、国号はモンテネグロ王国になった。
■1991年
ユーゴスラビア紛争においてもモンテネグロ共和国はセルビアと歩調を合わせており、最後までユーゴスラビア連邦共和国から離脱しなかった。1997年の選挙でミロ・ジュカノヴィッチが大統領に就任した頃から、分離独立の示唆が行われて来ていた。
■1999年
コソボ紛争でもセルビアの行動を非難し、アルバニア難民の受け入れに努めた。コソボ紛争後、通貨や関税に関してセルビアから独立し、徐々に独立の動きが強まっていった。
■2003年2月
3年後の2006年以降に分離独立の賛否を決める国民投票を実施できるという条件付きで国家連合セルビア・モンテネグロが成立した。
■2006年5月21日
セルビアからの分離独立の可否を問う国民投票が実施された。欧州連合は、セルビア・モンテネグロでなければ欧州連合への加盟を認めないという立場を取っていたが、投票の直前には「50%以上の投票率と55%以上の賛成」というハードルに切り替えた。
■2006年6月3日夜(日本時間4日未明)
独立賛成派が国民投票の結果に基づき独立を宣言した。6月5日にはセルビアもセルビア・モンテネグロの継承を宣言して、モンテネグロの独立を追認した。6月12日には欧州連合がモンテネグロに対する国家承認を行った。
■2007年10月
新憲法を制定し、国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更した。
■イリュリア
ラテン語: Illyricumは、古代ギリシア・ローマ時代に現バルカン半島の西部に存在した王国。 イリュリア語を話すイリュリア人によって建国され、共和政ローマによって滅ぼされた。考古学の一説によれば、イリュリア人の祖先は、青銅器時代の初期にはイリュリア地方に定着し、非インド・ヨーロッパ語族の祖先と混合したと考えられる。
■国民
2003年の国勢調査(セルビアとは別に実施)によると、民族構成はモンテネグロ人が43.16%、セルビア人が31.99%、ボシュニャク人が7.77%、アルバニア人が5.03%、ムスリム人が3.97%、クロアチア人が1.1%、ロマもしくはエジプト人と答えた人が0.46%だった。
■アルバニア人
主にアルバニア共和国とコソボを中心としたバルカン半島に住む民族。アルバニアの住民の95%、コソボの住民の92%を占め、その他にもマケドニア共和国では人口の25%を占めマケドニア国内最大の少数民族である。モンテネグロやセルビア、ギリシャなど、それ以外のバルカン半島諸国に少数が住む。
■ムスリム人
Muslimani は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国において、ボシュニャク人を指して用いられていた呼称であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国の主要構成民族のひとつであった。1990年代のユーゴスラビア崩壊後のムスリム人の民族復興運動によって、ボスニア・ヘルツェゴビナでは公式に、「ムスリム人」に替えてその歴史的呼称である「ボシュニャク人」の呼称が承認された。
■南スラヴ人
スラヴ人の中で主にバルカン半島周辺にいる旧ユーゴスラビアのボシュニャク人、セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、ブルガリア人などのことを指す。
■イリュリア人
llyrii/Illyri)は古代のバルカン半島西部やイタリア半島沿岸南東部(メッサーピ)に住んでいた民族である。イリュリア人が住んでいた地域はギリシャやローマの作家たちによりイリュリアとして知られるようになったが、イリュリア人が住んでいた範囲は以前ユーゴスラビアだった地域やアルバニアなどで、アドリア海からドラーヴァ川までの東西と、大モラヴァ川 の東からヴィヨーセ川 河口の南までの範囲である。
■モンテネグロ人
モンテネグロ人はモンテネグロを主に構成する南スラブ人である。モンテネグロ人がセルビア人とは別の民族であるかどうかはしばしば論争の対象になっている。モンテネグロ人は、言語・歴史、文化、宗教、起源においてセルビア人にきわめて近しい存在であるといえるが、他の南スラブ諸民族とも密接な関係を有している。宗教的にはほとんどが正教会であり、イスラム教がそれに次ぐ。
■セルビア人
主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。1992年のユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)が成立しセルビアはモンテネグロとともに連邦構成国となった。その後2003年にFRJの国称はモンテネグロ人アイデンティティー確立の風潮にあわせセルビア・モンテネグロと改まった。
■南スラヴ人
スラヴ人の中で主にバルカン半島周辺に居る旧ユーゴスラビアのボシュニャク人、セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、ブルガリア人などのことを指す。これらの民族は、ほかの西スラヴ人、東スラヴ人とは根本的に異なる歴史を歩んできており、ほかのスラヴ語とはことなる南スラヴ語群の言語を話す。バルカン型と言われ、民族の混血・混交が激しく、特にモンテネグロは、アルバニア人と共に古代まではイリュリア人、ブルガリア人は、その指導層がブルガール人であった。
■ゴート族
ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の古民族。バルト海南部から黒海沿岸部に移動した後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」によってイタリア半島やイベリア半島に王国を築いた。ローマ帝国の軍勢と戦い、壊滅的打撃を与えたこともある精強な軍を持った民族である。また、ゲルマン系のなかでは早くからローマ帝国の文化を取り入れて独自のルーン文字を残したほか、ローマ軍に傭兵として雇われるなど、後期のローマ帝国の歴史において大きな役割を担った。
■ボシュニャク人
は、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。
■モンテネグロ公国
1852年から1910年の間、バルカン半島の現在のモンテネグロに存在した公国である。中世以降、モンテネグロの地はツェティニェの主教公(vladika)が治める神政政治の土地として運営されてきた。モンテネグロはオスマン帝国の強い影響下にあったが、自治権を保持して独自の文化を育んだ。1905年の憲法制定にともない、ニコラ1世の君主号の格式は公(主教公)から国王に格上げされた。1910年には正式にモンテネグロ王国へ移行した。
■ユーゴスラビア紛争
ユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった内戦である。1991年から2000年まで主要な紛争が継続した。多民族国家のユーゴスラビアは第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていたが、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。この国は後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」といわれるほどの多様性を内包していた。
■コソボ紛争
バルカン半島南部のコソボで同時に発生した2つの武力衝突を示す。
1996年-1999年: ユーゴスラビア軍およびセルビア人勢力と、コソボの独立を求めるアルバニア人のテロリスト組織コソボ解放軍との戦闘1999年: 1999年の3月24日から6月10日にかけて行われたNATOによるアライド・フォース作戦[13]、この間、NATOはユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加え、アルバニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流動が起こった。
■バルカン戦争
1912年から1913年にかけてヨーロッパの東南部で発生した戦争。バルカン同盟諸国(ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア)と衰退しつつあるオスマン帝国との間で発生した第一次バルカン戦争(1912年10月-1913年5月)と、その戦後処理においてブルガリアと、ギリシャ・セルビアの対立から発生した第二次バルカン戦争(1913年6月-1913年8月)からなる。
■宗教
74%が正教会、イスラム教が17.74%となっている。
■セルビア正教会
セルビアを中心にセルビア人の間で信仰されている正教会の一組織であり、独立正教会の一つ。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(セルビア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。
■モンテネグロ正教会
Crnogorska Pravoslavna Crkva, CPC)は、モンテネグロを中心にモンテネグロ人の間で信仰されている正教会の一組織である。だが、コンスタンディヌーポリ総主教庁はじめ各正教会からその地位を承認されていない。
■公用語
セルビア語のモンテネグロ方言であり、63.5%が自らの母語をセルビア語であると宣言しているが、約22%がセルビア語と方言程度の違いのあるモンテネグロ語を母語としていると答えている。
■ステファン・ネマニャ
(Stefan Nemanja,1113年 - 1200年)は、セルビア王国ネマニッチ朝の創始者。在位1171年 - 1196年。1168年、兄を殺してセルビア侯として即位する。その後セルビアの諸部族を統一、宗主であった東ローマ帝国との長い戦いに勝利し、1171年には独立の君主、セルビア王ステファン1世として即位しネマニッチ朝を開いた。しかし、この時点では「王」は自称であり、国際的には「侯」の扱いを脱しなかった。その後はブルガリアの独立を支援するなど、東ローマ帝国と徹底して対立、抗争を繰り広げたが、その一方で正教会を保護するなどもしている。
■フィリップ・ヴヤノヴィッチ
(Filip Vujanovic 954年9月1日-)は元ユーゴスラビアの政治家。現在、モンテネグロ大統領。同国の独立前に大統領代行、首相を歴任した。ヴヤノヴィッチはベオグラードで生まれ育ち、ベオグラード大学法学部を卒業した。1978年から1981年まで市の裁判所に勤め、その後はベオグラード地方裁判所で助手として勤めた。ヴヤノヴィッチは1998年2月5日から2002年11月5日までモンテネグロの首相を務めた。直後の2002年11月25日から2003年5月19日まで大統領代行、同年5月22日に大統領に就任。2006年の独立後も大統領にとどまり、現在もその地位にある。
■ゼリコ・ペトロビッチ
1965年11月13日-はモンテネグロ(かつてのユーゴスラビア)、ニクシッチ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。現役時代はオランダや日本など計4カ国、7つにクラブを渡り歩いた。ポジションは主にミッドフィールダーやサイドバック。労を惜しまない豊富な運動量と、旺盛なファイティングスピリットでサポーターの支持を集め、「ペトロ」の愛称で親しまれた。
■イゴル・ルクシッチ
(Igor Luksic、1976年6月14日 - )はモンテネグロの政治家。バール出身。2004年2月16日に財務大臣に就任。2010年12月29日、首相に就任した。
■ニコラ1世
1841年10月7日 - 1921年3月1日)は、モンテネグロ公(在位:1860年8月13日 - 1910年8月28日)、後にモンテネグロ国王(在位:1910年8月28日 - 1918年11月26日)。また、詩人でもあり、モンテネグロの国民歌「Onamo, 'namo」を書いたことでも知られる。
■ミルコ・ヴチニッチ
Mirko Vucinic, 1983年10月1日 - は、ユーゴスラビア(現モンテネグロ)、ニクシッチ出身のモンテネグロ代表サッカー選手である。セリエA・ユヴェントスFC所属。ポジションはフォワード。USレッチェ在籍時代にズデネク・ゼーマンに才能を見出されたストライカー。レッチェ在籍時の2004-05シーズンに29試合で19ゴールを挙げ、セリエA得点王争いで5位につけるなど才能を開花させる(得点王は24得点を挙げたクリスティアーノ・ルカレッリ)。
■デヤン・サビチェビッチ
Dejan Savicevic、1966年9月15日 - は、ユーゴスラビア(現・モンテネグロ)・ポドゴリツァ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはMF、FW。現役時代のニックネームはジェーニオ(イタリア語で天才)。現モンテネグロサッカー協会会長。サビチェヴィッチはOFKチトーグラードの下部組織でサッカーを学び、1982年にブドゥチノスト・チトーグラードへ入団し、15歳でリーグ戦デビューを飾った。
■プレドラグ・ミヤトヴィッチ
Predrag Mijatovic, 1969年1月19日 - は、モンテネグロ・ポドゴリツァ出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。元ユーゴスラビア代表。ユーゴスラビアを代表するストライカーのひとり。巧みな足技と力強いドリブルが持ち味で、速い足の振りから繰り出す強力なシュートから「バルカンの速射砲」の異名をとった。
■ボシュコ・ヴクサノヴィッチ
1928年1月4日 - 2011年4月4日)は、ユーゴスラビアの水球選手。ユーゴスラビア王国コトル(現在のモンテネグロ)出身。1952年のヘルシンキオリンピックにユーゴスラビア代表として出場し、銀メダルを獲得した。
■ミルコ・ペトロヴィチ
1879年4月17日 ツェティニェ - 1918年5月2日 ウィーン)は、モンテネグロ王国の王族。モンテネグロ王ニコラ1世と王妃ミレナ・ヴコティッチの次男。グラホヴォ=ゼタ大公の儀礼称号を有した。ミルコは1911年にセルビア人民族主義組織の黒手組に入った。モンテネグロ王国が実質的に崩壊した直後の1917年、ミルコは妻ナタリヤと離婚し、翌1918年にウィーンで客死した。
■ボリス・ペトロヴィッチ
1980年1月21日 レ・リラ - )は、旧モンテネグロ王家の子孫。現在のモンテネグロ王家家長ニコラ2世の一人息子で、その推定相続人。ニコラ2世とそのフランス人の妻フランシーヌ・ナヴァロ(Francine Navarro, 1950年 - 2008年)の間の第2子、長男として生まれた。パリの装飾美術国立高等学校(l'Ecole nationale superieure des Arts decoratifs)でタイポグラフィを専攻し、2005年に同校を卒業した。
■エミナ・ツンムライ
Emina Cunmulaj、1984年9月12日 - )あるいはエミナ・チュンムラジュは、モンテネグロのファッションモデル。両親はアルバニア人で、アメリカ合衆国に移住後エミナが生まれた。しかし1988年にモンテネグロへ家族で再移住した。そのため、アルバニア語が流暢に話せる。2001年に旧ユーゴスラビアで開催されたエリートモデルルックで準優勝し、これをきっかけにアメリカへ渡る。2005年のD&Gやヴァレンティノのコレクションで注目を集めた。
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モンテネグロ Montenegro
ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する国。セルビア・モンテネグロを構成する2つの共和国のうちのひとつであったが、2006年6月3日に独立を宣言した。モンテネグロ政府公式ウェブサイトでは首都は行政機関所在地であるポドゴリツァ(旧称チトーグラード)とされるが、モンテネグロ憲法によると首都はツェティニェである。
■ポドゴリツァ
(Podgorica)は、モンテネグロの行政機関所在地。事実上の首都として機能している。(憲法上の首都はツェティニェ。)人口は13万人ほど。モンテネグロ最大の都市である。付近に古代ローマ時代の遺跡ドゥクレアがある。ポドゴリツァは、モンテネグロ語で「Goricaの下」を意味し、「小さな山」を意味する"Gorica"は、市の中心を見渡す丘の名前である。多くの川が合流し、アドリア海にも近いことから古くから戦略上の重要地点であった。石器時代の遺跡が今に残っている。
■ポドゴリツァ空港
Podgorica Airportは、モンテネグロの首都ポドゴリツァにある空港。モンテネグロ航空の本拠地である
■ティヴァト空港
モンテネグロティヴァトに所在する国際空港。ティヴァトの中心部より4km程離れた地点に所在する。80km離れた地点には主要空港が二つ所在するので、通常は国内線営業をしない。よって、国内運用はチャーター便若しくはゼネラル・アビエーションに限定されている。
外務省:モンテネグロ
在セルビア日本国大使館兼轄
■モンテネグロ鉄道
モンテネグロ鉄道の路線網はベオグラード=バール鉄道を基幹としている。1970年代終わりに完成した同路線は世界一高い橋梁として有名なマラ・リイェカ橋梁や6.2kmに及ぶソジナ・トンネルなどを特徴とする、山岳路線である。モンテネグロ領内の三分の一はトンネルと橋梁の区間で占められている。全線電化が完成しているのはこの区間だけで、ポドゴリツァ - ニクシッチは現在電化が進められている。
■ツェティニェ
モンテネグロの都市。イタリア語の名はチェッティーニェ(Cettigne)。モンテネグロの歴史的な首都であり、現在でも憲法上の首都。2003年時点での人口は1万5千人程度。ツェティニェは15世紀に建設されて以来の、多くの歴史的遺産が残っている。街はモンテネグロの首都として同国文化の中心であり、またセルビア文化、正教会にも大きな影響を与えてきた。それは、オスマン帝国によってバルカン半島の大半が支配されている時代でもモンテネグロは独立を保ち続けていたことと大きく関係している。
■コトル
モンテネグロの都市である。人口19,000人。コトルが最初に言及されるのは、紀元前168年である。古代ローマ期を通してローマの属州であり、AcruviumやAscriviumまたはAscruviumとして知られた。中世初期より強化が続き、535年のユスティニアヌス1世の時代に、Ascriviumの上に要塞都市として建築された。後にゴート族を退けている。
■ニクシッチ
ニクシッチの町の人口は、2003年の国勢調査によると58,212人である。ニクシッチの人口はポドゴリツァについで2番目に大きい。ニクシッチを中心とするニクシッチ自治体の人口は75,282人であり、単独の自治体としてはモンテネグロ最大である(ポドゴリツァは2つの自治体によって構成されている)。ニクシッチはモンテネグロの産業、文化、教育の拠点のひとつとなっている。
■バール
モンテネグロのアドリア海沿岸の都市で、同国を代表する港を有する。新石器時代の考古学的発掘により、バールには先史時代にも人が住んでいたことが証明された。バールの経済シンボルはバール港、ベオグラード=バール鉄道とSozinaトンネルである。1937年に設立された亜熱帯文化センターはモンテネグロで最も古い科学学術団体である。亜熱帯の文化と環境保護の分野で研究をしている。
■ブドヴァ
イタリア語:Buduaは、アドリア海に面したモンテネグロの都市。ブドヴァ基礎自治体の中心地。周囲は海岸であり、ブドヴァンスカ・リヴィエラ(Budvanska Rivijera)と呼ばれる、モンテネグロ観光の中心地である。砂浜、多様なナイトライフ、地中海建築群の秀例で知られる。ブドヴァはおよそ2500年の歴史を持ち、アドリア海沿岸の都市でも古いものの一つである。
■ヘルツェグ・ノヴィ
イタリア語: Castelnuovo, は、モンテネグロの都市。アドリア海沿岸の都市で、コトル湾の入り口、オリェン山の麓に位置している。およそ17万人の人口を持つヘルツェグ・ノヴィ基礎自治体の行政中心地であり、アドリア海沿岸都市で最大のセルビア人人口を抱えている。数世紀に渡りヴェネツィア共和国領アルバニア・ヴェネタに属したヘルツェグ・ノヴィは、イタリア語でカステルヌオーヴォ(新しい城という意味)と呼ばれていた。
■プルジネ
モンテネグロ北西部の町および基礎自治体である。人口は2003年現在、市街で1,494人、基礎自治体全体では4,272人であった。非公式ながらピヴァ地域の中心で、町の名はピヴァ川から名付けられている。
■シャヴニク
シャヴニクは1861年に建造されたモンテネグロ国内でも比較的新しい都市で、地域の農夫に要された当時のモンテネグロ公国内の職人が移住し、郵便局、学校、簡易裁判所、駐屯所を設けたのが始まりである。
■プリェヴリャ
モンテネグロ北西端に位置する都市。プリェヴリャにおける最古の人類生活の記録は氷河期に遡るが、石器時代にメデナ・スティエナ(Medena Stijena)に築かれた集落のほうがはるかに規模が大きいものであった。プリェヴリャにはローマ時代の遺構や僧院、聖堂、モスク、国内最古の学校等が所在している。プリェヴリャにはプリェヴリャ発電所があり、国内の電力の45%を発電しており、モンテネグロ唯一の炭鉱が隣接している。
■ヘルツェグ・ノヴィ
モンテネグロの都市。アドリア海沿岸の都市で、コトル湾の入り口、オリェン山の麓に位置している。およそ17万人の人口を持つヘルツェグ・ノヴィ基礎自治体の行政中心地であり、アドリア海沿岸都市で最大のセルビア人人口を抱えている。数世紀に渡りヴェネツィア共和国領アルバニア・ヴェネタに属したヘルツェグ・ノヴィは、イタリア語でカステルヌオーヴォ(新しい城という意味)と呼ばれていた。ヘルツェグ・ノヴィはモンテネグロ有数の観光名所である。滞在型スパ(Destination Spa)と健康センターとしてよく知られている。近郊のイガロは、イガリスコ・ブラト(igaljsko blato、イガロの泥)と呼ばれるマッド・バス(健康と美容目的の海泥浴)、イガリスケ・スラティネ(igaljske slatine、イガロ鉱泉)と呼ばれる鉱泉地が多くある。
■ビイェロ・ポリェ
モンテネグロ北部に位置する基礎自治体及び基礎自体の中心都市である。2003年の国勢調査による人口は基礎自治体全体では50,284人、市街では15,883人で、ビイェロ・ポリェは非公式ながらモンテネグロ北東部の中心都市である。ビィロ・ポリィの地名はモンテネグロ語で「白い野」を意味する。ビイェロ・ポリェは口述詩人アヴォド・メジェドヴィッチ(Avdo Mededovic)を始め、モンテネグロの著名な作家たちの出身地である。Radaのブランド名で知られるビイェロ・ポリェのミネラルウォーターは夏の期間、モンテネグロ中では多く消費されている。
■アンドリイェヴィツァ
アンドリイェヴィツァは19世紀半ばに成立した比較的新しい都市であるが、それ以前にも人間が定住していた記録がある。1956年にツェティニェにある歴史遺産保存機関による調査により、隣接するベラネの谷から新石器時代の人間活動の痕跡が発見された。
■プラヴ
Plava)はモンテネグロ北東部の町および基礎自治体である。2003年現在の人口は市街で3,615人、基礎自治体全体では13,805人であった。プラヴはプロクレティイェ山脈の麓にあり、リム川水源の近隣に位置する。プラヴの名は古いアルバニア人のカトリック教徒の苗字から来たものと考えられている。
■スヴェティ・ステファン
(Sveti Stefan、は、モンテネグロのリゾート地。ブドヴァ基礎自治体に属する。ブドヴァから約5km離れている。かつては潮の満ち引きで地続きとなる島であったが、現在は狭い地峡で本土と結ばれている。スヴェティ・ステファンは、15世紀に漁村として人が住み始めた。1950年代に村の最後の住民が立ち退いて、スヴェティ・ステファンは村全体が豪奢なホテルに生まれ変わった。モンテネグロ沿岸部で最も高級なリゾートである。
■ベラネ
ベラネは中世、ブディミリャ(Budimlja)として知られていた。中世のセルビア人国家ラシュカの主要都市となり、1219年にサワがセルビア人の土地で初となる主教座を置き、12世紀末にはこの地にはジュルジェヴィ・ストゥポヴィ(Durdevi Stupovi)修道院が設立された。修道院には7人の主教と9人の府主教がおり、聖堂内には文学と美術を学べる環境があった。
■ダニロヴグラード
Danilovgrad/はモンテネグロ中部の町および基礎自治体である。2003年現在の人口は市街で5,208人、基礎自治体全体では16,253人であった。ダニロヴグラードは、モンテネグロの2大都市であるポドゴリツァとニクシッチを結ぶ幹線道路沿いにあり、ゼタ川の肥沃な谷間に位置する。
■コラシン
コラシンは要塞集落で、17世紀半ばオスマン帝国によりニクシッチナヒヤ(nahiye)の村として発展した。コラシンの名称はミロシュ大公が亡くなりその息子トドールに引き継がれたことが、スルタンの布告に1565年に言及されている。
■ジャブリャク
かつて、スラヴ人はこの地をヴァレジナ・ヴォダ(Varezina voda / と呼んでおり、これはこの地には飲み水が豊富であったためと考えられる。その後、隊商の休憩地(ハン)に近かった為にハノヴィ(Hanovi)またはアノヴィ(Anovi)と呼ばれるようになった。現在の名称は、学校や教会が設置された1870年に制定されたが、それらの建造物の大半はバルカン戦争で灰燼に帰した。
■ロジャイェ
モンテネグロ北東部の町、およびそれを中心としたオプシュティナ(基礎自治体)である。2003年国勢調査の時点で、自治体の人口は22,693人、町の人口は9121人であった。 サンジャク地方に位置し、ボシュニャク人やムスリム人を自認するムスリムの住民が多く住む。
■ティヴァト
ティヴァトの名の起源は紀元前3世紀にまで遡る。その起源は、この地に居住したイリュリア人の部族の女王・テウタに由来すると考えられるが、このほかにキリスト教の聖人・聖テオドロスに由来するとするものや、ケルト語で町を意味するToutoに由来するとする説もある。
■ウルツィニ
同国最南端の都市である。この地域の歴史は古く、青銅器時代の居住の跡が見られる。また、紀元前5世紀にコルキスの植民によってこの都市は発見され、紀元前3世紀の詩人、ロドスのアポローニオスにもこの都市は触れられている。その後、この地にギリシアの影響が強くなってくると、イリュリア人は石の壁をこの地に建設し、そして、紀元前163年、ローマ帝国はこの地をオルシニウムと命名した。
■モンテネグロの国旗
モンテネグロの国旗は、2004年7月12日に制定された。1993年に制定された国章を赤地の中央に配置している。国章はニコラ1世のものからキリル文字の頭文字 "НІ豆quot; を除いたもの。国章の中心にあるのはヴェネツィア共和国のシンボルである聖マルコのライオンである。現在のモンテネグロの都市は1797年までヴェネツィア共和国に属していた。スポーツ競技の国際試合などで縦に掲出する場合は、国章を90°回転させて、双頭の鷲の頭が上に来るように配置する。
■国名
自国では「黒い山」を意味するツルナ・ゴーラ(Crna Gora)と呼ぶ。モンテネグロ(Montenegro)とはヴェネツィア語による名称で、意味は同じである。公式の英語表記は、Montenegro。
1.面積:13,812平方キロメートル(福島県とほぼ同じ)
2.人口:62万人(2008年、世銀統計)
3.首都:ポドゴリツァ(人口15万人)
4.民族:モンテネグロ人(40%)、セルビア人(30%)、ボスニア系イスラム教徒(9%)、アルバニア人(7%)等(2003年国勢調査)
5.言語:モンテネグロ語(公用語)、セルビア語、ボスニア語等
6.宗教:キリスト教(正教)、イスラム教等
7.国祭日:7月13日(国家の日)
6〜7世紀 モンテネグロ人等スラブ系民族がバルカン半島に定住。
11世紀 セルビア王国の一部となる。
1389年 オスマン・トルコに敗北し、その支配下となる。
1878年 ベルリン条約によりモンテネグロ公国の独立承認。
1910年 公国から王国となる(1916年に王政廃止)。
1918年 第一次世界大戦後、セルビアに編入され、ユーゴスラビア王国の一部となる。
1941年 第二次世界大戦中、イタリアに占領される。ユーゴスラビア王国消滅。
1944年 「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」(6共和国で構成)の1共和国となる。
1992年 ユーゴ解体の中で、セルビアとともに「ユーゴスラビア連邦共和国」を建国。
2003年 「セルビア・モンテネグロ」に国名変更。
2006年6月 「モンテネグロ共和国」として独立を宣言。
2007年 新憲法を制定(10月)し、国名を「モンテネグロ」に変更。
■主要産業:サービス業(73%)、工業(18%)、農業(9%)(2008年、世銀統計)
■主要貿易品目(輸出)アルミニウム、鉄鋼、農産(輸入)自動車、機械、石油
■ユーロ
ユーロはヨーロッパでは23の国で使用されている。この23か国のうち17か国が欧州連合加盟国である。ユーロは準備通貨としてはアメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位を有していた。さらに、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていた。しかし、近年のユーロ危機で、通貨連盟の矛盾が表面化しその存続を危ぶむ意見さえも出るようになってきている。
■政治
モンテネグロは共和制、議院内閣制を採用する立憲国家である。ユーゴスラビア時代の1992年10月12日に公布された憲法では、モンテネグロを「民主的な主権国家」と規定している。だが2006年6月3日の独立宣言を受け、2007年10月に新憲法を制定。
■世界貿易機関
World Trade Organization、略称WTO)は、自由貿易促進を主たる目的として創設された国際機関である。GATT(ガット)ウルグアイ・ラウンドにおける合意によって、世界貿易機関を設立するマラケシュ協定(WTO設立協定)に基づいて1995年1月1日にGATTを発展解消させて成立した。
■経済
通貨は2006年の国家としての独立以前からセルビアから独立していた。1999年11月3日からそれまでのセルビア・ディナールに変わって、ドイツマルクの流通が合法化された。その後2002年にドイツマルクの流通が完全に停止されてからは、独立後の現在に至るまでユーロが流通している。
■ミレナ・ヴコティッチ
1847年5月4日 - 1923年3月16日)は、モンテネグロ王ニコラ1世の妃。ペータル・ヴコティッチ公とその妻のイェレナ・ヴォイヴォディッチの娘として生まれ、1860年11月8日にわずか13歳で、ツェティニェにおいて19歳のモンテネグロ公ニコラ1世と結婚した。
■ダニロ・ペトロヴィチ
1871年6月29日 ツェティニェ - 1939年9月24日 ウィーン)は、モンテネグロ王国の王位継承者。王国滅亡後の1921年に7日間だけ名目上のモンテネグロ王を称した。ダニロはバルカン戦争や第1次世界大戦では父王らと一緒にモンテネグロ軍を率いて戦った。ダニロは1934年、MGM社が映画「メリー・ウィドウ」の中で、自分を事実とは違う形で描いたとして告訴し、パリの法廷で勝訴して4000ドルの賠償金を手にした。1939年、アンシュルス直後のウィーンで死去した。
■ジェリコ・シュトラノヴィッチ
1960年1月31日 -)はモンテネグロの首相。2006年11月10日に、モンテネグロの首相に就任した。モンテネグロ民主社会党 (DPS) に所属しており、ミロ・ジュカノヴィッチ政権では法務大臣も歴任した。
■ミハイロ・ペトロヴィチ
1908年9月14日 ポドゴリツァ - 1986年3月24日 パリ)は、モンテネグロ王国の旧統治者ペトロヴィチ=ニェゴシュ家の家長(1921年 - 1986年)。儀礼称号はグラホヴォ=ゼータ大公。モンテネグロ王ニコラ1世の孫息子。1941年1月27日にパリにおいて、路面電車の運転手の娘であるジュヌヴィエーヴ・プリジャン(Geneviè廻e Prigent, 1919年 - 1990年)と結婚した。同年、ナチス・ドイツのフランス侵攻に伴い、ミハイロはナチ党政府に拘束され、ドイツのボーデン湖畔の城に住まわされた。
■スヴェトザル・マロヴィッチ
1955年3月21日 - )は、モンテネグロの政治家。2003年から2006年まで存在した国家連合セルビア・モンテネグロの大統領を務めた。モンテネグロのブドヴァ市会計監査局長だった。1989年、モンテネグロ共産主義者同盟中央委員会幹部会委員に選出。1991年6月、モンテネグロ共産主義者同盟のモンテネグロ社会民主党への改称後、同党幹事長となった。現在、同党の副総裁。
■ユッタ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ
1880年1月24日 - 1946年2月17日)は、モンテネグロ王太子ダニーロの妃。モンテネグロ名ミリツァ(Militza)。メクレンブルク=シュトレーリッツ大公アドルフ・フリードリヒ5世と妃エリーザベトの次女として、ノイシュトレーリッツで生まれた。第一次世界大戦中、モンテネグロはユッタの故国を含む中央同盟国側と戦った。ドイツ出身の妃がいることなどお構いなしに、オーストリア軍の爆撃機はバールに滞在中のユッタの別荘を標的にしさえした。
■ニコラ・ペトロヴィッチ
1944年7月7日 サン=ニコラ=デュ=ペルム - )は、現在のモンテネグロ王家家長(1986年 - )。モンテネグロ王ニコラ1世の嫡曾孫にあたる。1964年にパリの芸術アカデミーで建築学を学び、1965年から1967年まで建築・設計事務所の実習生として働き、さまざまな建築・設計に携わった。1967年から1971年にはかけ、アヴォリアのウィンタースポーツ施設の設計に参加している。
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