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モナコ公国
Principality of Monaco

ヨーロッパ

ポカイア
Phocaeaは、アナトリア半島西岸にあった古代ギリシア領イオニアの都市(現 トルコのフォチャ)。ギリシアの入植者は、ここから紀元前600年ころにはマッサリア(現 フランスのマルセイユ)、紀元前575年ころにはエンポリオン(現 スペイン・カタルーニャ地方のエンプリエス)、紀元前540年ころにはエレア(現 イタリア・カンパニア地方のヴェリア)といった植民地を建設した。

ジェノヴァ共和国
ジェノヴァを中心にして1096年から1797年まで存在した国家。11世紀中頃を起源として、ジェノヴァとその周辺地域で誕生した。都市の通商が増加するにつれ、共和国の領域も拡大した。1098年の第一次十字軍後、ジェノヴァはシリアに定住地を獲得した。サラディンの遠征の最中にその定住地の多くが失われた。1261年、スミルナがジェノヴァ領となった 。

サルデーニャ王国
(Regno di Sardegna)は、イタリアのピエモンテとサルデーニャ島、及び現フランス領のサヴォワとニースを主要な領土とした王国である。サヴォイアから興ったサヴォイア公国を起源とする。ピエモンテのトリノを首都としたことから、ピエモンテ王国とも呼ばれる。イタリア統一運動(リソルジメント)において中核となり、イタリア王国の前身となった。


サヴォワ
Savoiaは、南ヨーロッパの歴史的地域名。おおよそ現在のフランス南東部、ローヌ=アルプ地域圏のサヴォワ県とオート=サヴォワ県にあたるが、歴史的領域としては現在のイタリア領とスイス領にも一部がまたがっている。サヴォワは北をレマン湖、東から南をアルプス山脈、南東部をシャルトルーズ山地、東をローヌ川とギエール川に囲まれる。


フランス革命
French Revolutionは、フランスで起きた市民革命で、フランスの社会を根底から変革させ、全ヨーロッパに影響を及ぼした。一般に1789年7月14日のバスティーユ襲撃に始まり、ナポレオン・ボナパルトによる1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターで終焉したとする[1]。当時、フランスでは啓蒙思想家であるルソーや百科全書派であるヴォルテールにより、社会契約説が多くの知識人に影響を与え、それに国民が共感したことで、当時の社会体制(アンシャン・レジーム)に対する反発が鬱積した。ブルボン朝政府、特に国王ルイ16世はこれを緩和するために漸進的な改革を目指したが、特権階級と国民との乖離を埋めることはできなかった。

ウィーン会議
Congress of Viennaは、1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された会議。ヨーロッパ諸国の代表が集い、議長はオーストリアの外相メッテルニヒが務めた。ウィーン会議は、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年9月1日から開催された。

ヴェルサイユ条約
1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約の通称。1916年12月12日、ドイツ帝国が和平の探りを入れるために覚書を発表すると、12月18日に中立国であったアメリカ合衆国大統領大統領ウッドロウ・ウィルソンは平和覚書を発表し、和平仲介を買って出た。しかしこの際は連合国の拒否に遭い、和平は実現しなかった。ウィルソンはその後も和平実現の望みを捨てず、1917年1月22日の上院演説で「国際連盟設立」、公海の自由、世界規模の民主化、ポーランドの自由化を求め、公正な「勝利無き講和」を訴えた。


モナコグランプリ
Monaco Grand Prixはモナコ公国のモンテカルロ市街地コースで行われるF1のレースのひとつ。インディ500、ル・マン24時間レースと並び「世界3大レース」の1つに数えられ、現在ではF1のイメージリーダーともいえる名物レースとなっている。1950年のF1世界選手権発足時よりイギリスGP、イタリアGP、ベルギーGPと並んで同シリーズに組み込まれている。この内、同じコースで開催され続けているのはモナコGPのみである。伝統と華やかさに加え、高い技量と集中力を要する難コースであることから、「モナコGPの優勝は3勝分の価値がある[4]」といわれる。ここで際立って強いドライバーは「モナコ・マイスター」と賞賛されることがある。過去3勝以上を挙げたドライバーには、スターリング・モス(3勝)、グラハム・ヒル(5勝)、ジャッキー・スチュワート(3勝)、アラン・プロスト(4勝)、アイルトン・セナ(6勝)、ミハエル・シューマッハ(5勝)といった名手が名を連ねている。


ASモナコ
アソシアシヨン・スポルティーヴ・ドゥ・モナコ・フットボール・クルブ(Association Sportive de Monaco Football Club)は、モナコ公国・モナコに本拠地を置くサッカークラブチーム。愛称はMonegasque (モネガスク)。これは小国であるモナコに長く生活の根を下ろす地元住民を指した呼び名でもある。1987年からチームの指揮を執ったアーセン・ベンゲルの時代には、グレン・ホドルとマーク・ヘイトリーのイングランド代表コンビを中心に、堅守速攻の近代的なサッカーで毎年優勝争いを繰り広げた。

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スタッド・ルイ・ドゥ
Stade Louis IIはモナコフォンヴェイユ区にある、サッカー、陸上競技の競技施設である。モナコにある唯一のスタジアムでフランスリーグの強豪ASモナコのホームスタジアムである。モナコ大公ルイ2世にちなんで名づけられた。


世界ラリー選手権
(World Rally Championship, 通称:WRC) は、世界各国で行われるラリーの世界選手権である。 1973年、それまで世界各地で単独に開催されていたラリーを組織化し、世界選手権としてスタートした。


ラリー・モンテカルロ
(Rallye Automobile Monte Carlo)は、モナコ公国を中心に行われるラリーイベントの一つ。[1]初開催されたのはインディ500初開催年と並び同年となる1911年で、現在行われている国際モータースポーツイベントの中でも最も古い部類に入る。また格式も高く、いわゆる世界三大レースにも匹敵すると言われている。スタート地点はモナコのモンテカルロであるが、実際の競技はほとんどモナコの北、フランス国内のアルプス山脈周辺の舗装路で行われるターマックラリーである。


フランソワ・グリマルディ
Francois Grimaldiは、ゲルフ(教皇派)のジェノヴァ人。現在のモナコ公家・グリマルディ家の始祖として知られる。ジェノヴァの都市貴族グリマルディ家出身。1297年1月8日、フランソワ・グリマルディはフランシスコ会の修道士姿に変装し、ギベリン(皇帝派)に占領されていた要塞に侵入。モナコの岩を占領した。これが現在のモナコ公国の始まりであるが、フランソワ自身はモナコの統治を行ったわけではなかった。彼はわずか4年後にジェノヴァ軍によってモナコを追われており、この「岩」をめぐるジェノバとの争いは一族の者が継承した。

グレース・ケリー
Grace Patricia Kelly、1929年11月12日-1982年9月14日は、モナコ公国レーニエ3世大公妃、アメリカ合衆国の元女優。同時代の女優マリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的に、グレースの気品を湛えた美貌は「クール・ビューティー」(cool beauty)と賛美された。人気絶頂の最中、ヨーロッパの王族と結婚し女優業から引退した。1929年、ペンシルベニア州フィラデルフィアのアイルランド系カトリックの裕福な家に生まれた。父:ジョン・ブレンダン・ケリーは貧困層出身であったが、一代で建築業をもって成功した億万長者でオリンピックのボート競技金メダル選手。母:マーガレットはドイツ系で元モデルであり大学講師だった。

アルベール2世 (モナコ大公)
(Albert II de Monaco Albert Alexandre Louis Pierre Grimaldi、1958年3月14日 - )はモナコ公国の公(在位2005年7月12日 - )。父はレーニエ3世、母はハリウッド女優であったグレース・ケリーである。2005年3月31日、摂政に就任し、2005年4月6日にレーニエ3世が薨去したため、同年7月12日即位式が行われた。1977年アマースト大学に入学し、政治学、経済学、音楽、英文学を専攻。1981年卒業。学生時代からスポーツにも熱心で、自らもスポーツマンで冬季オリンピック大会に5回ボブスレー選手として出場している(自身は現在IOC委員)。

シャルル3世 (モナコ大公)
(Charles III, Prince of Monaco、1818年12月8日 − 1889年9月10日)はモナコ大公(在位 1856年6月20日 − 1889年9月10日)。フロレスタン1世の長男として生まれる。大公在位中の1860年代には、マントンやロクブリュヌといった当時はまだ“スペルゲス”と呼称される荒地だったモナコ近郊の土地を、地中海性気候であるといった気候面での利点を見出し、高級リゾート地として発展する可能性に目を付けて開発に力を入れる様に指示、禁止されていたカジノの経営を許可した事から、モナコが今日の様なリゾート大国になる礎を築いた。カジノと観光収入によって、国民は税金を納める必要が無くなったのも、彼の代からである。この功績から、現在ではこの周辺一帯を“モンテカルロ(シャルルの山)”と呼んでいる。

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シャルル・ガルニエ
(Charles Garnier、1825年11月6日 - 1898年8月3日)は、フランスの建築家。パリ・オペラ座(ガルニエ宮)やモンテカルロの国営カジノの設計で知られる。1825年、パリの下町であるムツタール街に生まれる。父は鍛冶職人で、母はレース編屋。親は教育熱心で、学費捻出のために働いたという。1842年、エコール・デ・ボザールに入学、ルイ=イボリット・ルバに師事する。エドモン・アブーとギリシャを、また、テオフィル・ゴーティエとコンスタンチノープルをそれぞれ訪れた。アイギナ島のアファイア神殿の影響を受けて、多色画法を学ぶようになった。帰国後はバリューのもとで修行し、1860年にオペラ座の建築設計競技で当選し、ガルニエ設計による壮麗なオペラの殿堂が実現する(1862-1875年)。1874年フランス学士院会員と同時に、アカデミー・ボザール建築部門に名を連ねるが、アトリエは持たなかった。

レーニエ3世
Rainier Louis Henri Maxence Bertrand Grimaldi, 1923年5月31日 - 2005年4月6日)は、モナコ公国大公(在位1949年5月9日 - 2005年4月6日)。ポリニャック伯ピエールとシャルロットの間にアルジェリアで生まれる(アントワネット公女という姉がいる)。イギリスのパブリックスクールを卒業後、スイスのル・ロゼを卒業。モンペリエ大学、パリ政治学院に学ぶ。第二次世界大戦時フランス軍に従軍。大佐まで進む。祖父ルイ2世の死去により即位。

ハインリヒ6世
(Heinrich VI、1165年11月 - 1197年9月28日)は、、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位:1191年 - 1197年)、シチリア王(在位:1194年 - 1197年)。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と2番目の妃ベアトリクスの子。1165年にナイメーヘンで、フリードリヒ1世とベアトリクスの次子として生まれる。1169年6月、4歳のハインリヒはバンベルクでドイツ国王(ローマ王)に戴冠された。

モナコ Monaco
西ヨーロッパの立憲君主制国家。都市国家であり、首都モナコ市がそのまま全領土となる、世界で2番目に小さいミニ国家で、国連加盟国の中では世界最小である。フランスの地中海沿岸地方コート・ダジュールのイタリアとの国境近くに位置する。カジノやF1モナコグランプリ、WRC・ラリー・モンテカルロが開催されることで知られる。
モナコという地名は、現在のモナコの近隣に6世紀にあったポカイア人の入植地の名に由来する。その地はギリシャ語で「一軒家」を意味するMonoikosと呼ばれていた。ギリシア神話では、ヘラクレスが現在のモナコの地を通りかかり土地の神々を退散させたとあり、それに因んで1つの神殿が作られた。その1つの神殿が「一軒家」に転じ、地名が生じた。

モンテカルロ
Monte-Carluは、モナコの4つの地区(カルティエ)の1つであり、同国の北東部、モナコ湾の北岸に位置する。 モンテカルロとはイタリア語で「シャルル3世の山」という意味でその治世下に名づけられた。 国営賭博カジノをはじめ、湯治場、ゴルフ場、水泳場、美術館、植物園、豪華なホテルなどの設備が集まる同国の中心市街地である。

コート・ダジュール
コート・ダジュール(Cote d'Azur)はフランス南部の風光明媚な海岸。日本語では紺碧海岸(こんぺきかいがん)、英語ではFrench Riviera(フレンチリヴィエラ)とも呼ばれる。ふつうトゥーロンを西端、イタリア国境を東端とする地中海沿岸の一帯を指し、行政区分上はヴァール県、アルプ=マリティーム県、モナコ領にあたる。主な都市にはニース、アンティーブ、カンヌ、モナコなどがある。

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マントン
(Menton)は、フランス南東部のコート・ダジュールにある町で、リゾート地としても知られる。イタリア国境に近く、フランス人だけでなくイタリア人も多い。かつてはモナコ公国の領土であったが、1860年にフランス領となり現在に至っている。

ロクブリュヌ=カップ=マルタン
(フランス語:Roquebrune-Cap-Martin)は、フランス、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏、アルプ=マリティーム県のコミューン。モナコに近接する住宅地であり、リゾート地として知られる。

プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏
(Provence-Alpes-Cô竒e d'Azur) は、フランス南東部の地中海沿いの地域圏である。PACA (パカ)と略される。東部はアルプス山脈をはさんでイタリアと国境を接する。

アルプ=マリティーム県
(Alpes-Maritimes)は、フランスのプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の県である。東縁はイタリアとの国境を成す。ヴァール県、アルプ=ド=オート=プロヴァンス県と接する。地中海に面した県南部は、有名なコート・ダジュール地域である。地中海側を除きモナコ公国を三方から囲む。国境を意識しなければ本県が内包する形となる。

 


■歴史
モナコという地名は、現在のモナコの近隣に6世紀にあったポカイア人の入植地の名に由来する。その地はギリシャ語で「一軒家」を意味するMonoikosと呼ばれていた。ギリシア神話では、ヘラクレスが現在のモナコの地を通りかかり土地の神々を退散させたとあり、それに因んで1つの神殿が作られた。その1つの神殿が「一軒家」に転じ、地名が生じた。神聖ローマ帝国のハインリヒ6世から1191年にこの土地を与えられたジェノヴァ共和国は、1228年に今日のモナコを建設した。1793年にはフランス革命軍がモナコを占領、公国はフランスに編入される。ナポレオン・ボナパルトの時代になっても事態は変わらず公国が再建される1814年までフランスの直接支配が続いた。2005年4月6日、レーニエ3世死去。息子のアルベール2世が即位した。同年12月、フランス・モナコ友好協力条約を締結。この条約は、グリマルディ家に跡継ぎがなくなっても公国は将来も存続することをフランスが保証する代わりに、モナコの防衛は今後もフランス軍が行うことを骨子としている。またモナコの自主的外交における制限が緩和され、外国と国交を結ぶ際のフランスによる事前同意が不要になった。

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神聖ローマ帝国
Sacro Romano Impero , 800年 - 1806年は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。帝国の体制は皇帝の権力が諸侯によって弱められることにより、中世から近世にかけて変化した。最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになっている。


■政治
政体はグリマルディ家が世襲する大公(公、公爵)を元首とする立憲君主制である。「公国」ながら日本ではしばしば元首を「大公」と呼ぶ背景は「公国」の概要の項目を参照。国務大臣が首相に相当する。なお、1918年にフランスと結ばれた条約からモナコはフランスにより保護的な一定の主権の制限を受け、外交・軍事はフランスが責任を持っていた。この条約により、モナコ大公の即位継承にはフランスの同意が必要となり、また大公家が断絶した場合はフランスに編入されることになっていた。その後、2005年の新条約ではフランスとの特別な協調関係は維持するが、外交面での制限が緩和され、大公家が断絶してもモナコ公国の存続を保証した。


■地理
モナコは、周囲をフランス(プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏のアルプ=マリティーム県)に囲まれた国であり、もう一方は地中海に面している。旧市街地と新市街地があり、世界的に見ても人口密度が高い。平地の面積は極端に少なく、少ない平地を山と海に挟まれたような形になっている。モナコ公園がある。


■経済
モナコの人口は3万人余りであるが、2009年のGDPは69億1900万ドルで、チャドやベニンなどアフリカの人口1000万人程度の中規模国に匹敵する。また鳥取県の県内総生産の30%程の経済規模である。 また、2008年または2009年の1人当たり国民総所得は18万3150ドルで、世界銀行によれば、統計のある国連加盟国・非自治地域中トップである。
主要な産業は観光。特にカジノは、19世紀の一時期は国家収入の9割を占めていたこともある。なお、現在では5%以下であり、経営も半官半民の企業「ソシエテ・デ・バン・ド・メール」(海水浴公社)へ移管されている。


モネガスク・フラン
franc monegasqueとは、ユーロに切り替えられた2002年(法令上は1999年)までのモナコ公国における法定通貨。フランの1/100の補助単位としてサンチーム (centime)、1/10のものとしてデシーム (decime)があった。モネガスク・フランはフランス・フランとともに等価で流通されていた。


■交通
モナコ国内の鉄道は、モナコ政府ではなく、フランス国鉄(SNCF)が運営する。マルセイユ〜ニース〜モンテカルロ〜マントン〜ヴェンティミーリア(イタリア)間の路線の一部を成している。モナコ国内の鉄道路線は約1.7kmである。
1867年にモンテカルロ駅が開業した。当初は地上に鉄道の線路が敷かれていたが、狭隘な土地の有効活用の目的もあり、1958年〜1964年にかけて、モンテカルロ駅から東の区間を地下化した。その後1993年〜1999年にかけて、モンテカルロ駅の移転・地下化と、モンテカルロ駅から西の区間を地下化した。これにより、モナコ国内の鉄道は、ほぼ全区間が地下線となっている。

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フランス国鉄
古くより列車のスピードアップに力を注ぎ、鉄道における速度記録を絶えず更新し続けてきた。1950年代半ば、すでに331km/hの記録を残しており、これらの技術の蓄積がTGVの開発や、320km/hでの営業運転につながっている。
最近では交流電化が主流だが、直流電気機関車の製造技術は世界最先端を行くもので、先に記した直流電化区間での速度記録は、1955年3月28日にCC7107、翌29日はBB9004と、2種の直流電気機関車により達成されたものである。


外務省:モナコ公国
モナコ政府観光会議局


1.面積:2.02平方キロメートル(バチカンに次いで世界第2の小国)
2.人口:35,881人(2009年、モナコ財務経済省)
3.首都:モナコ市
4.言語:フランス語(公用語)
5.宗教:カトリック(国教)

1297年 グリマルディ家がモナコを占拠
1861年 モナコ独立
1911年 モナコ憲法制定
1918年 フランス・モナコ保護友好条約締結
1940年 イタリアによる占拠
1943年 ドイツによる占拠
1962年 新憲法採択
1993年 国連加盟
2005年 レーニエ3世公死去
アルベール2世公即位
フランス・モナコ友好協力条約締結

■主要産業:観光業、金融業


大公銃騎兵中隊
(Compagnie des Carabiniers du Prince)はモナコにおける武装部隊。事実上の警備・儀仗部隊であり、モナコ大公の警備および儀仗、宮殿・観光地などの警備を実施している。人員は約100名、内務省の傘下にあり、士官はフランス陸軍にて訓練を受けている。


フランシスコ会
アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称で、広義には第1会(男子修道会)、第2会(女子修道会)、第3会(在俗会)を含む。アッシジはイタリア中部ウンブリア地方の古市。フランチェスコは1206年サン・ダミアーノ教会の十字架から「早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい。」との声を聞き、まず教会の修復からはじめる。次第に互いに兄弟と呼ぶ同志が増え、「小さき兄弟の修道会」(Ordo fraterorum minororum)と名乗る。


 

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