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ラトビア共和国
Republic of Latvia
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■地理
バルト海に面するヨーロッパ北東部に位置する共和制国家。第一次世界大戦後の1918年に独立。その後1940年にソビエト連邦に占領された。リトアニア、エストニアとともにバルト三国と呼ばれる。1991年にソ連から独立を回復。エストニア、リトアニア、ロシア、ベラルーシと国境を接する。
■バルト海
Baltic Seaとは、北ヨーロッパに位置する地中海。海域の北部にはボスニア湾、東部にはフィンランド湾、リガ湾、南部にはグダニスク湾などの湾がある。また、海域に面した国家は多くスウェーデン、フィンランド、ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ドイツ、デンマークの国々が面している。
■ダウガヴァ川
東ヨーロッパを流れる全長1,020kmの川である。ロシアのヴァルダイの丘に源を発し、ベラルーシ・ラトビアを流れリガ湾でバルト海に注ぐ。
■ガウヤ川
ガウヤ川(Gauja、エストニア語とリトアニア語では Koiva)は、ラトビアで最も長い河。全長452km。ツェーシスの約30キロ南に水源がある。水源から東へと流れ、のち北上してエストニアとの国境(ヴァルカ、ヴァルガ)近くへと至る。
■イルベ海峡
(Irbe Strait)は、エストニア領サーレマー島の南端に当たるソルベ半島とラトビアのクールラント半島との間にあり、リガ湾からバルト海への主要な出口となっている。
■ザチュサラ島
(Zakusala)は、ラトビアのリガに位置する、ダウガヴァ川の中洲の島である。島にはリガラジオ&テレビタワーがある。
■リガラジオ&テレビタワー
Riga Radio and TV Tower)は、ラトビアのリガに位置する塔である。1979年から1989年にかけて建設された。高さは368.5mであり、ヨーロッパでは3番目、世界では11番目に高い塔である。展望台は97mのところにあり(リガで最も高い展望部)、天気がよければリガ湾を含むリガの大部分を眺めることが出来る。
■ヴェンタ滝
(Ventas Rumba)は、ラトヴィアのクルディーガにある「滝」。ヨーロッパで最も幅の広い「滝」とされる。クルゼメ(クールラント)地方における観光地の一つ。クルディーガ市の公式サイトによると、全長幅は約240メートルでヨーロッパ最長(高さは約180〜200センチ)。一般に幅の広さで知られるスイスのライン滝は、全長幅が約150メートルしかない(高さは約20メートル)。
■グートゥマニャ洞穴
Gutmanis Cave)とは、ラトヴィア最大の洞穴。ラトヴィアのガウヤ国立公園内にある。奥行きは19メートル、幅は12メートル、高さは約10メートル。リガから約50キロ離れたスィグルダにあり、市街地からロープウェイを使って川の対岸に渡る。17世紀に起こった物語として伝えられる「トゥライダの薔薇」にも現れる場所である。
<歴史>
■8世紀
ヴァイキングが進出。居留地のみ。13世紀初めごろに、リヴォニア帯剣騎士団が領有を始める。
■1629年
リーフラント(スウェーデン)とクールラント(ポーランド)に分裂。1730年リーフラントもクールラントも事実上ロシア帝国の支配下に。
■1918年11月18日
第一次世界大戦後に独立を宣言。1940年8月5日 ソ連に併合され、ラトビア・ソビエト社会主義共和国となる。
■1941年
第二次世界大戦(独ソ戦)により全域がナチス・ドイツの軍政下に入る。
■1945年
ドイツ降伏。ラトビア・ソビエト社会主義共和国が復活し、全域が再びソ連領となる。
■1990年5月4日
ラトビア共和国がソ連からの独立を宣言。
■1991年8月21日
ソ連がラトビア独立を承認し、独立が完全回復。
■2004年5月1日
欧州連合 (EU) に加盟。
■バルト三国
バルト海沿岸のエストニア、ラトビア、リトアニアの3つの国をいう。3か国とも北大西洋条約機構(NATO)、欧州連合(EU)へそれぞれ加盟している。三国ともロシア帝国に支配されていたが、ロシア革命ののち、1918年に三国とも独立を達成した。しかし第二次世界大戦中の独ソ不可侵条約における秘密議定書を発端としてソ連とドイツによる占領が続いた。1940年にソビエト連邦に併合され、ソビエト連邦構成共和国であるエストニア・ラトビア・リトアニアの各「ソビエト社会主義共和国」として連邦政府の強い統制下に置かれた。1941年に始まった独ソ戦によりこの地域はナチス・ドイツの支配を受けたが、1944年から1945年にかけて再びソ連に占領された。戦後、ソ連は自らが得た戦前の旧ポーランド領の一部をリトアニアに編入し、現在に至るバルト三国の国境線が確定した。
■民族
2011年現在の民族別住民構成は、ラトビア人が62.1%、ロシア人が26.9%、ベラルーシ人が3.7%、ウクライナ人が2.3%、ポーランド人が 2.4%、リトアニア人 (Lithuanians) が1.4%である。その他ラトガリア人 (Latgalians) やリヴォニア人が生活している。
■言語
言語はラトビア語が公用語であるが、リガなどの都市部ではロシア語系住民(ロシア人、ベラルーシ人等)が多く、ロシア語の使用率も高い。話者は少数であるものの、ラトヴィア語に近いラトガリア語及びウラル語族のリヴォニア語も法律によって権利を保障されている。 母国語話者の割合は公用語のラトビア語58.2%、ロシア語 37.5%である。
■ラトビア語
比較的リトアニア語と近い関係にあるが、双方の言語同士で意思疎通を図ることはほとんどできず、文法的特徴や単語が他言語より近似している程度である。歴史の流れの中でドイツ語、リヴォニア語、エストニア語、スウェーデン語、そしてロシア語などの影響を受けてきた。
■リーヴ人
リーヴ人は、フィン・ウゴル系一派の民族。人種はコーカソイドに属する。紀元前1世紀頃に、原住地のウラル山脈(ウラル地方)より西のロシア中央部・北部にあるサンクトペテルブルク付近のイングリア(Ingria, インゲルマンラント)から移動して来たフィン・ウゴル人の一派である。その一部が、バルト地方に残り、リーヴ人ないし、エストニア人になったと考えられ、同時期に北上した部族は、後にフィンランドを形作る数部族を形成したとされる。バルト地域の南部に移住した部族は、リーヴ人と後年呼ばれ、その民族が居住する地域がリヴォニアとなった。
■バルト人
バルト海東南岸付近(現在のリトアニアと、ラトビア)に居住するバルト語派を話す民族をいう。古くからバルト海の東南にある南のヴィスワ川、ダウガヴァ川、また ドニエプル川 北方が囲まれている地域に居住したインド・ヨーロッパ語族のグループから来ている。地域にある数多くの湖や沼沢はバルト人を外の世界から切り分けていたため、バルト語派は多くの古代語の特徴を保っている。
■バルト・ドイツ人
Deutsch-Balten)は、バルト海南岸と東岸に居住していた、さまざまな民族を先祖とする混血のドイツ人のことである。中世までにドイツ人の居住地は、エルベ川西岸まで広がっていた。13世紀頃から騎士修道会であるドイツ騎士団やリヴォニア帯剣騎士団によるキリスト教化の進展に従い、ドイツ人は東方植民を始め、ベルリンのあるシュプレー川流域からプルセン人諸部族、スラヴ人諸部族、フィン・ウゴル語族諸部族の居住するヴィスワ川、ネマン川流域へ移住した。
■ヴェンド人
Vernderは、民族移動時代の後、ゲルマン人の居住地の近郊もしくはその領域内に住むスラヴ人を差すゲルマン語族(後にドイツ語)の言葉。従ってこれは特定の部族ではなく、いろいろな民族や部族あるいは集団に対して用いられた言葉が次第に「いつ、どこに居るか」(あるいは「居たか」)によって使われるようになったものである。
■ソルブ人
Serbyは、現在ドイツ連邦共和国の東部に在住するスラヴ人の一派である。インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派、西スラヴ語群の一派であるソルブ語を話す。高地ソルブ語と低地ソルブ語の2つの言語グループに分かれている。
■ベラルーシ人
Belarusiansは、東スラヴ人に属する、ベラルーシの人口の大半を占める民族である。ベラルーシ近隣のポーランド、ロシア、リトアニア、ウクライナにも居住している。ベラルーシ国民は古くからこの地に生活していた東スラヴ系の諸部族であるルーシ人(ルテニア人)の北部集団がルーツであると考えられており、古くはキエフ大公国を構成する諸公国を支えていた。
■ロシア人
東スラヴ人に属する民族である。ロシア語を母語として話す。ロシア連邦(80%以上)・ウクライナ(17.3%)・ベラルーシ(11.4%)などを中心に、旧ソビエト連邦構成国に広く居住する。ロシアでは最も人数の多い民族集団である。ロシア人の人口は約1億4千万人と推定され、ヨーロッパ最大の民族でありまた世界でも人口の多い民族のひとつである。およそ1億1600万人のロシア人がロシア連邦内に、1600万人がロシアの近隣諸国に住んでいる。その他、約460万人のロシア人が世界各国に居住しているが、その多くはアメリカと西ヨーロッパ諸国におり、東ヨーロッパやアジア地域などで暮らすロシア人は比較的少ない。
■ポーランド人
Polacy)は、ポーランドの主要民族。中東欧に広がるスラヴ語派の話者の集団のひとつで、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派の西スラヴ語群に属するポーランド語を母語とする。英語名はPoles。民族名の起こりは、古代にポーランド平原を統一し、ポーランド王国の基礎を築いた西スラヴ人の一派の諸部族のうちの中心部族であったポラン族(別名レフ族)に由来している。
■非国籍者問題
ラトビア移民帰化局によると、ラトビアの人口は約230万人であるが、ラトビア国籍保有者は約180万人、外国籍保有者が3〜4万人となっている。そして、残りの約45〜50万人のソ連時代から帰化せずに永住してきた移民は非国籍者という扱いになっている。彼らは、文字通り国籍がどの国からも付与されていないため、ソ連時代のラトビア国内で出生し一度も国外へ出たことがない場合でも、帰化しない限りラトビア国籍保有者となることができず、また、他国の国籍保有の条件を満たしているわけでもない(または、生活の便宜上そうすることを希望していない)ため、いずれの国からも国民としての扱いを受けることができない。 したがって、彼らは選挙権をはじめとするさまざまな市民権の行使ができない場面があり、人道的観点から、ラトビアにおける最も重大な政治問題のひとつとして解決が望まれている。
<世界遺産>
■リガ歴史地区
世界遺産に登録されている旧市街「リガ歴史地区」は約300棟のアールヌーボー調の建築物の宝庫として著名である。
■シュトルーヴェの測地弧
ドイツ出身のロシアの天文学者、フリードリヒ・ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・シュトルーヴェが中心となって、1816年から1855年に掛けて子午線弧長の測量のために設置された三角点群。これらの観測点群は、地球の大きさなどを正確に測る上で多大な貢献をしたものであり、当時設置された265か所の測量点のうち34か所が、2005年にユネスコの世界遺産に登録された。
■テッラ・マリアナ
(羅:Terra Mariana/聖母マリアの土地)は、中世リヴォニアの公式名称であり、現在のエストニアとラトビアからなる領域で、リヴォニア十字軍の結果作られた。1207年2月2日に神聖ローマ帝国の公国として創設されたが、教皇インノケンティウス3世により教皇国の直轄地であると宣言された1215年にその地位を失った。
■ラトビア・ソビエト社会主義共和国
Latviyskaya Sovetskaya Sotsialisticheskaya Respublika)は、ソビエト社会主義共和国連邦の構成国の一つ。ラトビアは第二次世界大戦以前には独立国であったが、大戦が起こると1940年にエストニアやリトアニアとともにソ連に占領される。7月21日ラトビア・ソビエト社会主義共和国となり、8月5日にソ連に編入される。
■宗教
ルーテル教会、ローマ・カトリック、正教会などである。
■ルーテル教会
マルティン・ルターによりドイツに始まる、キリスト教の教派または教団で、ルター派とも言われる。代表的なプロテスタントの流れの一つであり、全世界に推定8260万人の信徒が存在する。発祥の地ドイツを始め、北欧諸国では国民の大半がルター派であり、そこから移民が渡った先のアメリカ合衆国、カナダでも信徒数が多い。大バッハやヘンデルが所属し、ルター自身も作詞・作曲家であったことから、音楽に縁が深い教会としても知られる。
■カトリック教会
Ecclesia Catholica)はローマ教皇を中心とし、全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。カトリック教会の教説(教え)は「聖書と聖伝」という言葉であらわされるように、旧約聖書、新約聖書およびイエス・キリストと使徒の教えに由来し、教父たちによって研鑽され、多くの議論を経て公会議などによって確立されてきたものである。
■正教会
Orthodox Church)は、ギリシャ正教[9]もしくは東方正教会[10](とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。
■百万本のバラ
ラトビアの歌謡曲を原曲とするロシア語の歌謡曲である。『百万本のバラ』の原曲は、1981年にラトビアの放送局「ミクロフォンス (Mikrofons)」が主催する歌謡コンテスト「ミクロフォナ・アプタウヤ (lv:Mikrofona aptauja)」に出場した『Davaja Māriņa(マーラは与えた)』というラトビア語の歌謡曲である。作曲はライモンズ・パウルス(lv:Raimonds Pauls)、作詞はレオンス・ブリアディス (苗字のカナ表記はブリエディスともする。日本では加藤登紀子による日本語版でも知られる。
■アレクサンドル・カレリ
Aleksandr Yuriyevich "Sasha" Kaleri1956年5月13日-は、ラトビアのユールマラ出身のロシアの宇宙飛行士であり、ミール及び国際宇宙ステーションで長期滞在を行った。カレリはモスクワ物理工科大学を卒業し、1979年にエネルギアに就職してミールの設計に携わった。彼は1984年に宇宙飛行士の候補に選ばれ、1992年にソユーズTM-14、1996年にソユーズTM-24、2000年にソユーズTM-30で3度ミールを訪れた。
■アーブラハム・ツェーヴィ・イーデルゾーン
Abraham Zevi (Zwi, Zvi, Zebi) Idelsohn, 1882年7月14日 - 1938年8月14日は、ラトビア出身で、ドイツ、イスラエルの地、アメリカ、南アフリカで活動した音楽学者。ユダヤ音楽などオリエントの音楽と、初期西洋音楽の関係を明らかにした。例えば、ヘブライ語典礼歌とグレゴリオ聖歌の類似性を発見したことなどはイーデルゾーンの研究成果である。
■マックス・ヴァインライヒ
Max Weinreich1893年/1894年 ロシア帝国クールラント県ゴールディンゲン Goldingen (現ラトビア・クルディーガ Kuldiga) - 1969年 ニューヨーク市)は、クールラント出身のユダヤ教徒のイディッシュ語学・言語学者。 高名な言語学者ウリエル・ヴァインライヒの父でもある。
■ヴァイラ・ヴィーチェ=フレイベルガ
Vaira Vike-Freiberga, 1937年12月1日 -は、ラトビアの政治家、心理学者。元同国大統領。リガ出身。父は、彼女が1歳のときに他界。1944年12月31日、家族でドイツに移住。初等教育は、ドイツ、リューベックのラトビア人難民キャンプの学校とモロッコ、カサブランカのフランス語学校で受けた。1953年に家族でカナダに移住し、銀行で秘書として働いた。カナダで、英語と心理学の学位を受けた。後に実験心理学の博士号も受けた。1957年から在外ラトビア人中で青年教育家、民俗専門家として働く。
■セルゲイ・エイゼンシュテイン
Sergei Mikhailovich Eisenstein、1898年1月10日(グレゴリオ暦1月23日) - 1948年2月11日は、ソビエト連邦の映画監督。1898年 ロシア帝国の支配下にあったラトビアのリガに生まれる。父ミハイル・エイゼンシュテインは建築家だった。モンタージュ理論を確立し自ら実行した人物で、映画史において極めて重要な人物の1人とされている。最も有名な映画作品は1925年の『戦艦ポチョムキン』である。未完に終わった3部作『イワン雷帝』(1944年)は彼の集大成とされている。ハリウッドとも関係が深く『戦艦ポチョムキン』に感銘を受けソ連を訪れたメアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスに会い、その後ハリウッドからの招聘などを通じて人脈を広げた。ウォルト・ディズニーやチャーリー・チャップリンとは親友である。
■ソロモン・シェレシェフスキー
Solomon Veniaminovich Shereshevskii, 1892年 − 1958年は、完璧な記憶力の持ち主として「記憶術師シィー」の名で有名になったラトビア出身のユダヤ人。記憶の天才として知られる。ノートやメモなどを取らずに一語一句正確に記憶することができ、またいつでもそれを思い出すことができた。シェレシェフスキー自身が、音に味覚や色や線・飛沫のような単純な形を感じたり、文字・数字に色や明暗・質感・形などを感じたりすると語っている。
■ミハイル・バリシニコフ
Mikhail Nikolaevitch Baryshnikov, 1948年1月28日 - はソ連出身のバレエダンサー・振付家・俳優。愛称はミーシャ。旧ソ連・ラトビア社会主義共和国のリガに生まれる。両親はともにロシア人。父親はソ連軍の将校、母親は仕立て屋であった。9歳[1]のときに母親[2]の勧めでバレエを始め、その後ラトビア国立劇場附属バレエ学校の生徒となる。バレエ団の公演にも参加するようになり、16歳のレニングラード巡演の際に名門ワガノワ・バレエ学校に推薦されて入学した。ワガノワではA・プーシキンに師事し、在校中の1966年にヴァルナ国際バレエコンクールのジュニア部門で第1位を獲得。
■ヴィルヘルム・オストヴァルト
Friedrich Wilhelm Ostwald、ラトビア語: Vilhelms Ostvalds、1853年9月2日 − 1932年4月4日はドイツ(バルト・ドイツ人)の化学者。1909年、触媒作用・化学平衡・反応速度に関する業績が認められ、ノーベル化学賞を受賞した。ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフやスヴァンテ・アレニウスと共に物理化学という分野を確立した1人とされている。
■ミハイル・タリ
Mikhail Nekhemievich Tal1936年11月9日 - 1992年6月28日は、元チェスの世界チャンピオンである。無謀と思われるようなサクリファイスをして勝つことからチェスの奇術師、チェスの魔術師の異名を持つ。ラトビアの首都リガで生まれる。医師の父に7歳のときチェスを教わった。1954年にインターナショナルマスターとなり、1957年にグランドマスターとなる。1960年ミハイル・ボトヴィニクを破り当時世界最年少のチェスの世界チャンピオンとなった。翌年のリターンマッチでボトヴィニクに敗れ、健康が思わしくなかったことからその後挑戦者になることもなかった。
■ヤーニス・ルーシス
Janis Lusis、1939年5月19日 - は、旧ソビエト連邦(ラトビア)の陸上競技選手である。ルーシスは、夏季オリンピックに4回出場し、金・銀・銅メダルをそれぞれ1つずつ獲得。ラトビアの選手で、3色のメダルをそろえた唯一の選手である。ルーシスは、1968年に91.68m、1972年に93.80と2度の世界新記録を樹立。また、彼は4度ヨーロッパ選手権を制している。
■グジェゴシュ・フィテルベルク
Grzegorz Fitelberg 1879年10月18日、ロシア領ヴィチェプスク県ダウガフピルス - 1953年6月10日、カトヴィツェ)は、現在のラトビア出身のユダヤ系ポーランド人のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。カロル・シマノフスキ、ミェチスワフ・カルウォヴィチ、ルドミル・ルジツキ、アポリナリ・シェルトらと共に若きポーランド(ムウォダ・ポルスカ)の一員。
■ソロモン・ミホエルス
1890年3月4日 - 1948年1月13日は、ソ連の舞台監督、俳優。ソ連人民芸術家。ユダヤ人反ファシスト委員会(EAK)議長。1919年から舞台に立つ。1925年、モスクワ国立ユダヤ人劇場を設立い、1929年にその芸術指導官となった。戦後、EAKの他のメンバーと共に、イスラエル建国に関する情報を収集した。しかし、情報は誤っており、ソ連の軍事援助を得たイスラエルには、親米政権が誕生した。この後、EAKは解散され、その指導者達は弾圧された。ミホエルスは、舞台評論家のV.ゴルベフ=ポタポフと共に、ソ連国家保安省のエージェントにより事故を装って暗殺された。
■モリス・ハレ
Morris Halle 1923年 - は、アメリカの言語学者。旧姓ピンコヴィッツ(Pinkowitz)。ラトヴィア出身の東欧系ユダヤ人。1940年にナチスから逃れるべく一家で渡米した。1941年から1943年までニューヨーク市立大学で工学を専攻。1943年から1946年まで米国陸軍で過ごす。1946年にシカゴ大学へ入学し、1948年に言語学の学位を取得。さらにコロンビア大学でロマン・ヤコブソンに師事。1951年にMITの教授となる。1955年、ハーヴァード大学で博士号を取得。1996年にMIT教授を辞すも、少数の講座を担当し続けている。
■ユーリイ・トゥイニャーノフ
Yury Nikolayevich (Nasonovich) Tynyanov、1894年10月18日 - 1943年12月20日は、ロシアの作家、文芸評論家、翻訳家、文学者にして脚本家。ユダヤ系。1894年、ラトヴィア(当時はロシア領)のレーゼクネで生まれた。トゥイニャーノフは、プーシキンの権威であり、ロシア・フォルマリズム学校の主要なメンバーの一人であった。1928年言語学者のロマーン・ヤコブソンとともに構造主義の先駆的考察として知られる『言語の命題』Theses on Languageを発表した。
■エリヤ・バスキン
(Ilya (Elya) Zalmanovich Baskin 1950年8月11日- )は、旧・ソビエト連邦・ラトビア・ソビエト社会主義共和国(現・ラトビア)・リガ出身の俳優。当初はソ連映画界で活動していたが、1976年に渡米、アメリカ合衆国の映画、テレビドラマに出演するようになる。ロシア人の役を演じる事が多い。
■クリスティアン・パンダー
Christian Heinrich Pander, 1794年7月12日 リーガ - 1865年9月10日 ペテルブルク)はラトビア出身の動物学者。鶏の胚発生の研究によってよく知られており、発生学の創設者の一人とされる。
■イングナ・ブターネ
(Inguna Butane, 1986年2月24日- )は、ラトビアのファッションモデル。大学生の頃、モデル・コンテストに出場した際スカウトされた。2005年から本格的にランウェイデビュー。現在はエスカーダの広告の顔である。
■レオ・マイケルソン
Leiba Mordkhelevich Mikhelson, 1887年 リーガ - 1978年はラトビア出身のアメリカ合衆国の芸術家。 エコール・ド・パリの一員でもある。ロシアのサンクトペテルブルクとエストニアのタルトゥで学んだ。1918年のロシア革命によりロシアを去ることを余儀なくされたミヘルソンはドイツのミュンヘンに移り、そこでドイツ表現主義の影響を受けた。ミヘルソンは"永遠なる移民"また"永遠なる学生"と描写されることもあるが、それは彼が常に新しいスタイルを取り入れたからであった。
■エルネスツ・ガルビス
(Ernests Gulbis, 1988年8月30日 - )は、ラトビア・リガ出身の男子プロテニス選手。2008年全仏オープン男子シングルスでベスト8に入った選手である。これまでにATPツアーでシングルス3勝、ダブルスで2勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス21位、ダブルス130位。身長190cm、体重77kgの長身選手。1991年にラトビアが独立し、それに伴ってソ連崩壊が起きた時、ガルビスはわずか3歳であった。彼の家族は、祖父はソ連時代のバスケットボールの名選手であり、父親も元バスケットボール選手、母親は劇場女優で、エルネスツは5人きょうだいの2番目の子供として生まれた。
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ラトビア Latvia
ルト海に面する北東ヨーロッパの共和制国家。第一次世界大戦後の1918年に独立。その後1940年にソビエト連邦に併合。旧ソ連、バルト三国を構成する共和国のひとつ。ソ連時代には、重工業が盛んで、ソ連域内屈指の工業地域であった。当時ソ連内を走る電車の約9割がラトビア製であったともと言われていた他、VEFの有名なラジオもリガの工場で生産されていたが、独立回復時にそれらの工業拠点は軒並み放棄され、現在も廃墟のまま残るなど、ソ連時代の産業はほとんど継承されなかった。
■リガ
Rigaは、ラトビア共和国の首都で、同国最大の人口を持つ都市。人口は71万7000人(2008年現在)。世界遺産に登録されている旧市街「リガ歴史地区」は約300棟のアールヌーボー調の建築物の宝庫として著名である。「ドイツよりもドイツらしい」と言われるような中世ドイツらしさが残るのは、ドイツ人によって都市の基礎が形作られたという歴史ゆえであろう。
■リガ国際空港
Riga International Airportは、ラトビア共和国の首都、リガにある国際空港であり、エア・バルティックのハブ空港である。手狭になった中心部に近いSpilve空港の代わりとして1973年に建設され、1999年以降の利用者数はバルト三国最多となっている。特に2005年前後から続くエア・バルティックの積極的な就航路線の拡大を受け、2005年時点で約180万人だった利用者数は2010年末には約500万人になると予測されている。
■ヴェンツピルス国際空港
ラトビア北西の都市ヴェンツピルスの南西5 kmに位置する国際空港である。2010年現在、ラトビア内で最も新しい国際空港であり、リガ国際空港、リエパーヤ国際空港と共に、ラトビアの3つの国際空港の内の一つである。
■リエパーヤ国際空港
リエパーヤ国際空港はリエパーヤの東5 kmの位置にあり、また、ラトビアの首都であるリガからは210 km、隣国リトアニアとの国境からは60 km離れている。空港の敷地面積は2.2 km2あり、全域がリエパーヤ経済特区に指定されている。
■トゥクムス空港
ラトビアの町トゥクムスから南東に5 kmの位置にある空港である。一つの長いエプロンとコンクリート舗装された滑走路を持った軍用空港であったが、2005年に民間空港となった。
■ダウガフピルス
Daugavpilsはラトビア東端の都市。 ダウガヴァ川(ドヴィナ川)に跨る。この都市はベラルーシとリトアニアに面しており、また120kmほどの国境がロシアと接している。この都市は美しい湖に囲まれている。ダウガフピルスはラトビア東部において重要な都市である。22の小学校・中学校があり、4つの職業訓練学校、1つの芸術学校、またダウガフピルス大学とリガ工科大学の一部がある。
■リヴォニア
Livoniaは、現在のラトビアの東北部(ヴィドゼメ地方)からエストニアの南部にかけての地域の名称。この地にはフィン・ウゴル系(ウラル語系)とされるリヴォニア語を話すリーヴ人が住んでいたが、現在では人口数百人程度の少数民族となっている。ドイツ騎士団の植民やバルト人・スラヴ人等との混血により、激減したとされる。20世紀になって、リヴォニアの北部をエストニア、南部をラトビアとして国家が成立した。
■イェルガヴァ
ラトビアの都市。ゼミガレ地方最大の都市である。首都リガからおよそ41km南西に位置する。イェルガヴァはかつてクールラント公国の首都であった。1919年まであったクールラントの中心地であった。イェルガヴァは、リエルペ川右岸の海抜12フィートほどの、肥沃な平野の上に位置する。川の水位が上がると、平野と時には町が浸水してしまう。
外務省:ラトビア共和国
在ラトビア日本国大使館
■ラトビア大学
University of Latvia) はラトビア共和国の首都リガにある、ラトビア最古かつ最大の大学である。 13の学部に約23,300名の学生が学んでいる。ラトビア大学の起源は、1862年に設立されたリガ理工科学校までさかのぼる。 1869年に同学校は建築専門学校となった。 リガ理工科学校はラトビアにおけるアール・ヌーヴォーの発展に、際立って重要な役割を果たした。 現在でもリガ市内の建造物の約40%はこのスタイルによるものである。
■クールラント
クールラント(独: Kurland)は現在のラトビア西部地方の旧名。ラトビア語ではクルゼメ(Kurzeme)と呼ばれる。16世紀から18世紀にかけ、小規模なバルト・ドイツ人国家クールラント公国が存在した。リヴォニア地方の中西部に位置し、古くからバルト語系のラトヴィア人が居住していた。その語源は支族クール人に由来する。スウェーデンに伝わるサガには、ヴァイキングが9世紀まで支配したとあるが定かでない。
■リエパーヤ
ラトビア西部、バルト海沿岸の都市。クルゼメ地方の中心都市で、人口 約85,000人。ラトビア国内でも第3の規模を有する。リエパーヤ港はラトビアの三大港の一つで、リエパーヤ国際空港は国内に3つしかない国際空港の一つ(現在は首都リガとの間に季節便(夏)が運行されるのみ)。現在、カロスタ軍港は解放され、観光地として訪問客を集めている。また市内の聖トリニティ教会には世界でも最大級のパイプオルガンがあり、建造当時のままの姿をとどめている。
■ヴァルカ
Valkaは、ラトビアの都市。エストニア国境に面している。人口は6459人(2005年)。隣接するヴァルガ(Valga)と本来は一つの都市であった。ラトヴィア、エストニアの両国によって分割されたため、市内に国境が設定されているようにみえる。
■ヴァルミエラ
Valmieraは、ラトビアのヴィドゼメ地方にある、同地方最大の町。ヴァルミエラ州の中心地でもある。この一帯はラトビアで最も古い地域のひとつで、9,000年前の住居跡が発掘されている。街の名が最初に文献に登場するのは1323年のことだが、実際にはリヴォニア騎士団のかしらだったヴィルケン・フォン・エンドルプがガウヤ川岸に城(ヴォルマー)とカトリック教会を築いた40年ほど前には街ができあがっていた。
■ヴェンツピルス
Ventspils、は、ラトビア北西の都市。市内を流れるヴェンタ川にちなんで名付けられた。ヴェンツピルスはリヴォニア帯剣騎士団の城から発展し、1290年の年代記に初めて記述がなされた。1314年にチャーターが授けられ、ハンザ同盟の重要な商業都市となっていった。
■クルディーガ
(Kuldiga) はラトビア共和国西部の町。クルディーガ州の州都。 13世紀はドイツ騎士団領として知られ、1368年にハンザ同盟に加盟。 17世紀には、イェルガヴァとともにクールラント公国の首都となる。古名をドイツ語でGoldingen(「黄金のマーケット」)というように繁栄の時代を迎えた。 町の東にはヨーロッパで最も幅が広い滝、ヴェンタの滝がある。
■ツェーシス
Cesis、はラトビアの古都で、ヴィッゼメ中央高地の北部に位置している。ガウヤ川沿いの高台にあり、青い森林と古い峡谷を見下ろすことができる。ツェーシス州の州都でもある。ツェーシス市は13世紀後半に計画された。市場となる広場と教会が中央に置かれ、宅地の中心は、3つの二の丸がついたリヴォニアの石の城だった。街は石灰の城壁にも囲まれ、8つの塔と5つの門を備えていた。
■レーゼクネ
(Rezekne)はラトヴィアの都市。人口は約3万6千人(2006年)。ラトヴィア東部の都市。首都リガから約250キロ東に位置している。交通の要所であり、ペテルブルクからワルシャワを結ぶ国際列車や、リガからモスクワへと至る国際列車がこの都市を経由する。道路網を通じても各地と結ばれている。
■トゥクムス
ラトビアの4つの地域の内のヴィゼメ、ゼムガレ、クルゼメの3地域の交点に位置する。冷戦期にはトゥクムス空軍基地が運用されていた。1301年に作られたラトビアに唯一残るリヴォニア時代の城であるJaunpils城が現存している。城の近くにはトゥクムスの歴史を専門とした博物館と展示ホールがあり、1592年に建てられたJaunpilsルーテル教会も現存している。
■ユールマラ
(Jurmala)は、ラトヴィアの都市。ラトヴィアの代表的な観光地・保養地である。人口は約5万5千人(2004年)。首都リガの西方に位置する観光都市・保養都市であり、電車・バスで約30分程度。都市の名称は、ラトヴィア語の「海岸」に由来しており、リガ湾に面している。
■ゼムガレ
Zemgaleは、ラトビアの歴史的な地域区分のひとつ。地域名はバルト人のゼムガレ人からとられた。13世紀からセロニアもゼムガレに含まれるようになり、現在もゼムガレ選挙区の東部をなす。同じバルト人のセロニア人にちなむこの地域は、リトアニアの北東部でもある。
■ヴィドゼメ
Vidzeme、は、ラトビアの歴史的・文化的な地方区分のひとつ。「中央の地」という意味で、ダウガヴァ川以北の北中部を指す。古代、リガ湾の近くやダウガヴァ川、ガウヤ川下流域にはラトガレ人やリーヴ人が定住していた。ヴィドゼメの南を流れるダウガヴァ川は、13世紀にドイツ人が到来するまで、右岸のリーヴ人・ラトガレ人と左岸のセミガリア人・セロニア人の境界線でもあった。
■ラトガレ
Latgaleは、ラトビアに5つある歴史的地域区分の1つ。ラトビア南東部にあり、リトアニア、ベラルーシと国境を接する。伝統的に、ユダヤ人、ポーランド人、リトアニア人、ベラルーシ人、古儀式派を信仰するロシア人が暮らしてきた。ラトガレは歴史的にリヴォニア(テッラ・マリアナ)の一部であったが、16世紀のリヴォニア戦争で解体された。その最中、一時的にスウェーデン領となったが、すでにリヴォニアを組み込みつつあったポーランド・リトアニア共和国に編入され、ポーランドの統治下となった。
■リヴォニア帯剣騎士団
正式名称リヴォニアのキリスト騎士修道会は、騎士修道会の一つ。刀剣騎士修道会とも呼ばれる。1202年に設立、1237年にドイツ騎士団に吸収された。この騎士団の目的は、バルト三国周辺の異教徒達を服属させカトリックに改宗させることと、在留クリスチャンや宣教師(伝道者)を保護することである。これは、聖地イェルサレムの守護・奪回や巡礼者の保護を目的としている他の騎士修道会とは本質的に異なる。
■国名
公式の英語表記は、Republic of Latvia。通称、Latvia。国名の「ラトビア」は、バルト人の一派であるラトガル人 (Latgalians) に由来する。
1.面積:6.5万平方キロメートル(日本のおよそ6分の1)
2.人口:223.1万人(2010年12月現在、ラトビア中央統計所)
3.首都:リガ(人口約70.6万人。2010年7月現在、バルト三国最大の都市)
4.言語:ラトビア語
5.宗教:プロテスタント(ルター派)、カトリック
13世紀初より ドイツ騎士団が進出し、領有。
1282年 リガがハンザ同盟に加盟。
1583年 リヴォニア戦争の結果、リトアニア・ポーランド領となる。
1629年 スウェーデン・ポーランド戦争の結果、一部分がスウェーデン領となる。
1721年 北方戦争の結果、大部分がロシア領、残りはポーランド領となる。
1795年 第3次ポーランド分割により全土がロシア領となる。
1918年11月18日 独立を宣言。
1920年8月 ソビエト・ロシアとの間に平和条約締結。
1940年 ソ連に編入。
1990年3月 共和国最高会議選挙。
1990年5月 独立回復宣言。
1991年8月 共和国の地位に関する基本法採択。
1991年9月6日 ソ連国家評議会バルト三共和国の国家独立に関する決定を採択。
2004年3月29日 NATO加盟。
2004年5月1日 EU加盟。
■主要産業:木材関係品、繊維製品、漁業、金属加工品
■主要貿易品目(1)輸出 一次産品、木材及び同加工品、鉄・非合金鋼(2)輸入 一次産品、石油・ガス
■ラッツ
lats、は、ラトビアの通貨単位。Lsと略される。国際通貨コードは、LVL。ラッツは1922年にラトビア・ルーブルに替わって採用された(1ラッツ=50ルーブル)。語源はラトビア(Latvija)の頭3文字から。1940年以後ラトビアはソ連の一部となったため、ラッツにかわりルーブルが使用されることとなった。
■経済
IMFによると、ラトビアの2011年の国内総生産(GDP)は282億ドルであり、日本のほとんどの都道府県より小さい経済規模である。また、2011年の一人当たりのGDPは1万6805ドルである。ソ連崩壊以降、経済の混乱によりインフラの整備・開発の遅れが目立っていたが、近年になり、不動産・金融・製造業等の分野に対する外国(ドイツ、スウェーデン、英国、ロシア等)からの直接投資が活発になっており、ここ数年はEU域内で最も高い成長率を記録するなどリガを中心に経済成長が著しかったが、実体経済に基づかないバブル的な経済事情と、ずさんな審査のもとに組まれた大量の不良融資やローンは、ラトビアを2008年の全世界的な恐慌のあおりを最も酷く受けた国の一つとする結果に至った。
■政治
主な国内問題としては、国内に居住するロシア人への処遇問題がある。ソ連時代からラトビア領内に住む非ラトビア人に対しては、ラトビア国籍取得に際して軒並みラトビア語試験などを課し、民族主義的な側面が多々あり、2009年現在35万人のロシア人が無国籍である。
■サエイマ
サエイマ(ラトビア語Saeima、英語Parliament)は、ラトビア共和国の一院制議会。ラトビアの立法手続は、通常の立法手続についても国民投票制度との組合せをともなう独特のスタイルとなっている。最終的に法律を公布する大統領も、単に法律の公布につき留保するだけでなく、国民投票への付託を促し得る役割を備えている。
■ヨハン・エドゥアルト・エルトマン
Johann Eduard Erdmann、1805年6月12日 - 1892年6月13日)はドイツの哲学者。ヘーゲル中央派、またはヘーゲル右派に属す。ラトビアのヴォルマール(ヴァルミエラ)に生まれ、ベルリン大学で神学を学ぶ。当時のベルリン大学はヘーゲル哲学の牙城であり、彼も例外なくヘーゲルの影響の元で学んだ一人である。卒業後、地元の教会で司祭をしていたが、その後生涯を哲学に捧げるため、1834年にベルリン大学へ。1836年にハレ大学の員外教授、1839年に正教授になる。死ぬまで、ハレで過ごした。
■ギドン・クレーメル
Gidon Markusovich Kremer, 1947年2月27日 - は、ラトビア(生誕時はソヴィエト連邦ラトビア・ソビエト社会主義共和国)のリガ出身のヴァイオリニスト、指揮者。4歳の時から高名なヴァイオリニストでもある父と祖父よりヴァイオリンを習い始める。7歳の時にリガの音楽学校へ入学し、16歳で早くも国内の音楽コンクールで優勝した。のちにモスクワ音楽院へ進学し、当時教壇に立っていたダヴィッド・オイストラフに8年間師事する。
■カルル・ダヴィドフ
Karl Davidov、1838年3月15日 - 1889年2月26日 モスクワは19世紀ロシア帝国の著名なチェリスト。チャイコフスキーから「チェロ界の帝王」と呼ばれた。リトアニア(ポーランド分割当時はロシア帝国領)のクルディガに音楽愛好家の家庭に生まれる。父親は医師で、素人のヴァイオリン奏者だった。5歳からピアノを始めるが、10歳でチェロに転向し、モスクワ劇場の首席チェリストのハインリヒ・シュミットに師事する。18歳でサンクトペテルブルク大学で数学を専攻した後、作曲家としての道を究めるべくライプツィヒ音楽院でモーリツ・ハウプトマンに入門するが、22歳の時にはドレスデンで、ボッケリーニ作品の改訂で有名なグリュッツマッハーにも指導を受けた。
■ミッシャ・マイスキー
Mischa Maisky, 1948年1月10日 - はラトヴィア(旧ソビエト連邦)出身のチェロ奏者。名前はミーシャとも。現在もっとも活躍している世界的チェリストのひとり。同じリガ生まれのヴァイオリニスト、ギドン・クレーメルはマイスキーの1年先輩にあたり、クレーメル主宰のロッケンハウス音楽祭には定期的に出演している。マルタ・アルゲリッチとの共演をはじめ、室内楽にも精力的に取り組んでいる。
■アイザイア・バーリン
Isaiah Berlin 1909年6月6日 - 1997年11月5日は、ロシア帝政下のラトビア・リガ生まれ。ユダヤ系の政治哲学者にして思想史家である。1915年、第一次世界大戦中にはドイツ軍の侵攻を逃れて、ユダヤ人であり木材商人であった父母とともにペトログラードに移る。1917年にロシア革命を目撃している。彼は1919年以降、イギリスに住むようになり、オックスフォード大学に進学。第二次大戦中は戦時勤務の要員として外務省に勤務。彼の有名なエッセイである「自由論」では、自由という概念を積極的自由(positive liberty)と消極的自由(negative liberty)に分け、自由という概念における議論に多大なる影響を及ぼした。
■マーク・ロスコ
Mark Rothko, 本名 Markus Rotkovich, 1903年9月25日 - 1970年2月25日は、アメリカの画家。ジャクソン・ポロックらとともに、抽象表現主義を代表する画家の一人。1903年、当時ロシア帝国領だったラトビアのドヴィンスクにユダヤ系の両親のもとに生まれた。1905年、ロシア革命が各地で起き、コサック兵によるユダヤ人虐殺が始ったため、一家は1913年にアメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに移住した。奨学金を得て、1921年から1923年までイェール大学で学ぶが、中退。1923年にニューヨークに移住し、アート・スチューデンツ・リーグを訪れた際、学生がヌードを描いている姿を見て美術の世界に入る決意をする。だが2ヶ月程で辞め、ポートランドに帰省。ヨゼフィーン・ディロンの元、劇団で役者の修行をする。同じ劇団にはクラーク・ゲーブル が所属している。1925年再びニューヨークに戻った際、ニュー・スクール・オブ・デザインに入りグラフィック・デザインを学ぶ。
■ヴァルター・ツァップ
アルフレート・ヴァルター・ツァップ(Alfred Walter Zapp 、1905年9月4日 - 2003年7月17日)はドイツの光学技術者。ミノックスカメラおよびミノックスシステムの発明者であり、且つミノックス社の創業者である。1905年9月4日 - ラトビアのリガで、バルト・ドイツ人商人の子として生まれる。1918年 - 亡命していた家族とともにリガに戻る。1921年 - エストニアに移住。1921年 - 失業登録をしていた職業安定所の紹介で写真技師のアトリエに就労。1922年 - 17歳で神経症のため美術工芸学校を中途退学、伯父の経営する印刷工場でリトグラフに習熟。1924年 - 19歳のとき「印画紙断裁機」を発明、登録出願する。手作りカメラのモデルを作成。1929年 - 24歳の時肺結核に罹患。1932年 - 写真家の友人、ニキシー(Nixi)の紹介で、先輩の写真家でカメラ研究家のR・ヤーゲンスから援助を受け、共同で超小型カメラの開発の研究にとりかかる。
■ユリエル・ワインライク
(Uriel Weinreich, 1926年月日 ヴィルナ - 1967年月日)は、リトアニア出身のアメリカの言語学者・イディッシュ語学者。ユリエル・ワインライクとも。 主に「言語接触」と「二言語併用」に関する理論的研究で開拓者的業績をあげた。彼の研究対象は、主にイディッシュ語研究、言語干渉の研究、スラヴ語研究の3分野にまとめられるというが、それぞれ、自分自身の言語生活の観察から出発し、理論化に向かっているという。
■オスヴァルト・シュミーデベルク
(Oswald Schmiedeberg、1838年10月10日 - 1921年7月12日)は、ドイツの薬理学者。シュミーデベルグは「近代薬理学の父」と呼ばれている。当時のロシア帝国のクールラント州Gut Laidsenに生まれ、1866年にタルトゥ大学で血液中のクロロホルムの測定法に関する論文を書きあげ医学の博士号を取得した。後にタルトゥ大学(ドルパート)のルドルフ・ブーフハイムの助手に買われ、1872年にはストラスブール大学の薬理学教授に就任した。
■ニコライ・ハルトマン
(Nicolai Hartmann 1882年2月20日 - 1950年10月9日)は、ドイツの哲学者。1882年2月20日、リガに生まれ、 マールブルク大学でヘルマン・コーエン、パウル・ナトルプに学び、1909年、「プラトンにおける存在の論理学」で教授資格取得。1926年に上梓した「倫理学」において、彼は、シェラーの現象学的価値哲学を批判的に継承した上で、包括的な存在論の一部として体系化した。
■カールリス・ミーレンバハス
1853年1月18日 - 1916年3月27日はラトビア人で最初の言語学者。1876年にドルパト大学で言語学を修めるが、貧乏のため1880年に退学。ラトビア語、ロシア語、ドイツ語の論考やオデュッセイアーの翻訳で知られるが、中でもラトビア語-ドイツ語辞典の編纂の業績で著名である。
■マリス・ヤンソンス
Mariss Ivars Georgs Jansons, 1943年1月14日 - はラトビアの指揮者。マリスは、後にエフゲニー・ムラヴィンスキーと共にレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮者を務めたアルヴィド・ヤンソンスを父としてリガで生まれた。母イライダ・ヤンソンスはユダヤ系の歌手で、マリスを産んだ当時は父親と兄弟をリガ・ゲットーで殺害され、リガに潜伏中だった。レニングラード音楽院でピアノ・ヴァイオリン・指揮を学んだ後、ウィーン国立音楽アカデミーに留学。留学先ではスワロフスキーやエスターライヒャー、そしてザルツブルクでカラヤンの薫陶を受ける。
■ヴァルディス・ドムブロフスキス
(Valdis Dombrovskis、1971年8月5日 - )は、ラトビアの政治家。ソビエト連邦時代にラトビアのリガで生まれた。現在は首相を務める。ドムブロフスキスは1995年にリガ工科大学の経済学士を取得し、1996年にラトビア大学の物理学修士を取得した。1995年から1996年にかけてドイツのマインツ大学で研究所の助手を務め、1997年にラトビア大学固体物理学研究所の助手を務めた。
■ダイニス・クラ
(Dainis Kula、1959年4月28日 - )は、ソビエト連邦の陸上競技選手。1980年モスクワオリンピックの金メダリストである。ラトビア共和国トゥクムス出身。クラは、やり投の選手で、1980年モスクワオリンピックの開催年の春先には90mを超える投てきを見せると、その後ベスト記録を92m06まで伸ばし、オリンピックでの有力候補に名乗りを上げる。
■ヘルマン・ヤドロフケル
(Herman Jadlowker, 1877年7月10日 - 1953年5月13日)は、ソビエト連邦ラトビア・リガ市出身ロシアのテノール歌手。数々の歌はクラシック音楽である。
■イネッサ・ガランテ
Inessa Galante、は、ラトビアのソプラノ歌手。
リガ生まれ。1977年にリガの音楽学校で学んだ。東欧や旧ソ連のオペラハウスを中心に活動していたが、近年は西側の国々でも活躍するようになった。レパートリーはヴィオレッタ(椿姫)、ルチアのタイトルロール、パミーナ(魔笛)や、宗教音楽や歌曲など。
■エドゥアルド・ベルジン
Eduards Berziņs, 1893年 - 1938年)は、ソ連の軍人、チェキスト。強制収容所として悪名高い「ダリストロイ」の管理者。師団主計官。ラトビア人。大粛清で自らも逮捕・銃殺された。1931年11月、企業合同体「ダリストロイ」の長となり、1935年、金の採掘計画の履行に対してレーニン勲章を授与される。
■イオアキム・ヴァツェチス
1873年11月23日 - 1938年7月28日)は、ソビエト連邦の軍人である。二等軍司令官。ロシア革命初期の共和国軍総司令官。赤軍大粛清の犠牲者。1873年11月23日、ラトビアの小作人の家庭に生まれる。1896年、ヴィリニュス歩兵士官学校、1908年、参謀本部アカデミーを卒業。第一次世界大戦時、大隊長、後に第5ゼムガル・ラトゥイシュ(ラトビア人)狙撃連隊長を務めた。1919年7月、反革命白軍組織への関与の嫌疑で逮捕された。獄中で、回想録『我が人生と追憶』1977年にラトビアで出版)を執筆した。
■グスタフ・クルーツィス
(Gustav Klutsis1895年 - 1944年)は、ロシア帝国・ソビエト連邦のグラフィックデザイナー、写真家、美術家である。ロシア・アヴァンギャルド(ロシア構成主義)を代表する1人。フォトモンタージュを駆使した、ポスター、雑誌表紙等のグラフィック作品に長ける。スターリンをあしらったような、プロパガンダのポスターも多く手がけた。立体作品も制作した。
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