コソボ Kosovo
バルカン半島中部の内陸部に位置する地域である。北東をセルビア、南東をマケドニア共和国、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。6-7世紀以前のコソボの歴史は、現在でもあまり明らかではない。6-7世紀以前には、古代トラキア人やイリュリア人 (Illyrians) が住んでいたであろうといわれている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニア人 (Dardanian) と呼ばれた。このため、この地方は当時ダルダニヤと呼ばれていた。
■プリシュティナ
Pristinaは、コソボ共和国の首都。近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア共和国の首都)などが挙げられる。1990年代のコソボ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にある。コソボの北東部に位置し、セルビア中央部とを隔てるGoljak山地にある。市内を流れる川は無い。近年は市域は郊外に拡大している。 公園や商業施設に乏しい町であったが、近年は都市計画に従って整備が進められている。マザー・テレサ広場やいくつかの整備された公園が造られた。道路の舗装や植樹、公共施設の洗浄や修繕も進んでいる。
東ローマ帝国時代にユスティニアヌス1世によって、今日のプリシュティナの南のリプリャンにUlpianaという町が作られた。ローマの衰退で、代わってプリシュティナが誕生、その後、バルカン半島の交通の要衝に位置しているため交易都市として発展した。
■プリズレン
コソボ南部に位置する歴史的な都市で、プリズレン郡の中核都市である。 都市の人口は約170,000人であり、ほとんどがアルバニア人である。プリズレン基礎自治体は、プリズレンの町と76の村々で構成され、その人口は約221,000を抱えるものと推計される。プリズレン峡谷の名前は 古くイリュリア人の時代に遡る。 都市として古代ローマ時代には存在しており、2世紀に「テランダ」(Theranda)という名前でクラウディオス・プトレマイオスのゲオグラフィアに記されている。
外務省:コソボ共和国
■ジャコヴァ
コソボ西部の都市および基礎自治体である。また、ジャコヴァ郡の行政的な中心都市で2011年現在の基礎自治体の人口は94,158人である。2011年現在、市街に48,000人が居住し基礎自治体全体では94,158人が居住する。セルビアの歴史的文献によればジャコヴィツァまたはジャコヴァは14世紀後半に設立された。セルビア人貴族ヴク・ブランコヴィッチの配下であるヤコヴという人物がここに修道院を作って自身の名前を冠し、その後その名前が町の名前にもなった。
■ジラニ
コソボ東部の都市、自治体。ジラニ郡 / グニラネ郡の中心都市でもある。トルコ語ではギラン(Gilan)と呼ばれる。1999年には郊外の壊滅したセルビア軍の基地跡にKFOR(コソボ治安維持部隊)を管理統制するキャンプ・モンティースが設営された。このキャンプは米海兵隊が運営していたが、米軍の派遣人員縮小に伴い2007年にコソボ防護隊に移管された。
■ミトロヴィツァ
コソボ北部にある町、およびそれを中心とした基礎自治体。ミトロヴィツァ郡にあり、その郡都である。コソボ紛争が1999年に終結して以降、町は南のアルバニア人と北のセルビア人によって分断されている。町全体では、アルバニア人が多数派となっている。町の北部は、コソボのセルビア人共同体の事実上の首都となっている。
■スケンデライ
コソボ北西部、ミトロヴィツァ郡に属する都市、およびそれを中心とした基礎自治体の呼称。スケンデライ/スルビツァは歴史的にコソボ最貧の町であり、ユーゴスラビア時代から開発はほとんど進められず、失業率は高い状態にあった。農業が地元の主力産業であるが、域内の既存の農地も十分に開発されていない。
■ペヤ
コソボ北西部、ペヤ郡に属する都市、およびそれを中心とした基礎自治体の呼称。UNESCOの世界遺産に登録されているペーチ総主教修道院がある。町はウロシュ4世統治時代に中世セルビア王国の宗教的中心地となり、セルビア正教会の総主教座が1346年に置かれた。これは1766年にペーチ教区が廃止されるまで続いた。
■フシェ・コソヴァ
コソボ・プリシュティナ郡の町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、コソボのほぼ中央に位置している。コソボの首都プリシュティナからは南西に8キロメートルに位置している。1999年に紛争が終結すると、町を去ったアルバニア人の多くが戻り、他方でセルビア人は町を追われた。その後もこの地に留まったセルビア人は、アルバニア人が多数を占める地域の中のセルビア人の飛び地に身を潜めている。
■スハレカ
コソボのプリズレン郡に属する町、およびそれを中心とした基礎自治体である。スヴァ・レカとはセルビア語で「乾いた川」を意味する。1999年のコソボ紛争以降、アルバニア人たちは、プリズレン近くの古い要塞跡にちなんで町をセランダと呼ぶようになった。
■呼称
「コソボ」という地名は、ブルガリア語でクロウタドリを意味する「コス」(ブルガリア語:Кос / Kos)に由来している。英語ではRepublic of Kosovo、コソボの独立を承認していない国々は、コソボを国連の管理下にあるセルビアの一部として取り扱っている。
1.面積:10,908平方キロメートル(岐阜県に相当)
2.人口:220万人(2008年、世銀統計)
3.首都:プリシュティナ(人口60万人、推定)
4.民族:アルバニア人(92%)、セルビア人(5%)、トルコ人等諸民族(3%)
5.言語:アルバニア語(アルバニア人)、セルビア語(セルビア人)等
6.宗教:イスラム教(主にアルバニア人)、セルビア正教(セルビア人)等
■ユーロ
ユーロはヨーロッパでは23の国で使用されている。この23か国のうち17か国が欧州連合加盟国である。ユーロは準備通貨としてはアメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位を有していた。さらに、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていた。しかし、近年のユーロ危機で、通貨連盟の矛盾が表面化しその存続を危ぶむ意見さえも出るようになってきている。
■コソボ民主連盟
1989年コソボの知識人グループによって創設され、その中心人物のひとりが、後に初代のコソボ大統領に就任したイブラヒム・ルゴヴァであった。ルゴヴァは2006年1月21日に死去するまで同連盟の党首であった。コソボ民主連盟の主張は、コソボの独立、自由と民主主義であり、自党を近代的、現代的な民主主義政党と規定している。
■デイトン合意
Dayton Agreement)とは、1995年11月にアメリカ合衆国オハイオ州デイトン市近郊のライト・パターソン空軍基地においてまとまり、同年12月14日にパリで署名された和平合意。デイトン・パリ合意などともいう。この合意によりユーゴスラヴィア紛争の1つである、3年半にわたったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争は終結した。
■コソボ憲法
Constitution of the Republic of Kosovo)はコソボ共和国の憲法である。2008年6月15日に施行された。その前までのコソボの統治は、国際連合安全保障理事会の決議1244号に基づいて2001年に批准された暫定憲法の下に行われていた。暫定憲法では、コソボの暫定統治機構を決め、国際連合事務総長の特別代表の最終決定権を保留していた。
■コソボ地位問題
セルビアの領土から国際連合による暫定統治に委ねられたコソボの最終的な国際法上の地位を確定する問題である。2007年末にコソボの地位をめぐる交渉は合意に達することができず、また2007年11月のコソボ議会選挙の結果を受けて2008年2月にコソボが一方的に独立を宣言したため、事実上、コソボ地位プロセスは実を結ぶことなく終了した。
<歴史>
■6世紀以前
6-7世紀以前には、古代トラキア人やイリュリア人 (Illyrians) が住んでいたであろうといわれている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニア人 (Dardanian) と呼ばれた。このため、この地方は当時ダルダニヤと呼ばれていた。
■12-13世紀
セルビア人の居住地域は、諸侯により群雄割拠される状態が続いていたが、セルビア人の指導者だったステファン・ネマニャは、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸侯国を統一し、セルビア王国を建国した。これによってコソボはセルビア誕生の地域となった。
■コソボの戦い
オスマン帝国がバルカン半島を征服しようとした時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦い抜き、最終的に「コソボの戦い」へ至った。セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦い、オスマン帝国の皇帝ムラト1世を殺すことに成功した。皇子バヤズィト1世は、コソボの戦いの中で新皇帝となった。最後の戦いが行われた平原には、ムラト1世の墓地が今でも残されている。セルビア人はコソボの戦いでムラト1世を戦死させたが結局オスマン帝国に敗北し、セルビアの貴族も、指導者のセルビア侯ラザルもすべて殺されてしまった。それ以来バルカン半島の国々は皆オスマン帝国に征服され、5世紀もの間自分たちの国を持つことができなかった。
■コソボの戦いの伝説化
コソボの地で初のセルビア人の統一王国が誕生したことと、コソボの戦いでの敗北によってセルビアは最終的にオスマン帝国に併呑されるに至ったことから、セルビア人からはコソボは民族にとって重要な土地とみなされている。コソボの戦いは伝説化され、民族的悲劇として後世に語り継がれることとなった。
■アルバニア人の入植
17世紀後半から18世紀前半にかけて、ハプスブルク皇帝の呼びかけに応じ、ペーチのセルビア正教総主教に率いられたセルビア正教徒がドナウ川対岸へ移動したことが背景にあるとされる。これを受けてオスマン帝国側はアルバニア人ムスリムをコソボに入植させていった。
■19世紀
アルバニア人の民族意識が高揚してくると、1878年にはコソボの都市・プリズレンで民族主義者の団体・プリズレン連盟(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。
■20世紀
20世紀初頭のバルカン戦争の後、1912年にアルバニアの独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。しかし、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。
■1946年
セルビア共和国内の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州)とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。
■1968年
自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生し、1974年のユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ自治州はコソボ社会主義自治州に改組され自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。
<独立運動>
■1982年
スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立した。彼らの目的はコソボをユーゴスラビアから分離し、独立した国を創ることだった。80年代にこの組織は世界中に分散しているアルバニア人を集め、水面下でネットワークを張り巡らし、武装勢力を結成している。
■1995年
セルビアの一部だったコソボの数か所で、警察官やセルビア人が殺される事件が起きた。これが、「コソボ解放軍」の実力行動の始まりだった。アルバニア人による、コソボに住んでいたセルビア人を殺害したり、強制移送したり、恐怖などを利用して国外脱出を余儀なくしたことは「民族浄化」であると考えられる。更に、コソボ解放軍などによる迫害はセルビア人以外の少数民族に対しても及び、クロアチア人やアッシュカリー、ロマなどが迫害の対象となった。
■紛争
コソボの独立を阻止したいセルビアはクロアチア、ボスニアでの紛争の結果大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。この結果コソボの民族バランスは大きくセルビア人側に偏ることになった。
■1998年
セルビアとしてもコソボのゲリラ活動に対して対応をせざるを得なくなってきた。セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなどコソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これがコソボ紛争の始まりである。
*戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接するマケドニア共和国やアルバニア、モンテネグロなどに流出し、再びセルビア側の「非人道的行為」がクローズアップされるようになった。国連やEUは、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。1999年3月からは、NATOが国際世論に押されてセルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った。
■主要産業:サービス業(68%)、工業(20%)、農業(12%)(2008年、世銀統計)
■主要貿易品目:輸出: 鉱物性生産品、卑金属、食料品:輸入: 機械類、鉱物性生産品、食料品
■コソボ民主党
Partia Demokratike e Kosoves, PDK)は、コソボの政党であり、コソボ議会で最大の議席数を持っている。党是は社会民主主義であり、コソボの主要な左翼政党である。党首は、かつてコソボ解放軍の指導者であったハシム・サチである。
■コソボの独立
2007年の11月の選挙では、コソボのセルビアからの即時独立を主張するハシム・サチ率いるコソボ民主党 (Democratic Party of Kosovo) が第一党となり、翌2008年にはサチが首相に選出された。主にアルバニア系住民に支持されたサチが率いるコソボ暫定政府は、独立の方針を強く訴えた。地位問題において欧州連合及びアメリカ合衆国の支持を得たコソボは、2008年2月のセルビア大統領選挙の確定以降における独立の方針を明確化し、2008年2月17日、コソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択した。
■セルビアの反発
この独立宣言に対して、セルビアでは大きな反発が起こり、17日未明からベオグラードやノヴィ・サドで、米国大使館や米系商店、当時のEU議長国であるスロベニア系商店への投石騒動が起きてた。この他にも、迫害を恐れてコソボを脱出したセルビア人住民が出ていると伝えられている。
■コソボの承認
国家承認のプロセスについては、翌18日にアメリカ合衆国が承認を公表し、ヨーロッパの安保理常任理事国であるイギリス、フランスも翌日に承認している。この他中欧地域の主導権を握るドイツも2月20日に承認した。一方でEU加盟国を個々に見た場合、国内に民族問題を抱えるスペインやキプロス、スロバキア、ルーマニア、ギリシャなど独立承認に慎重な姿勢を示している国もある。このためEUによる機関承認は見送られている。
■国際連合コソボ暫定行政ミッション
United Nations Interim Administration Mission in Kosovo; UNMIK)は、国際連合によるコソボの暫定統治を行う文民機構である。1999年6月10日に国際連合安全保障理事会の決議1244号に基づいて創設された。2008年2月17日にコソボ議会は独立宣言を満場一致で採択した。しかし、国連安全保障理事会決議1244号は依然有効であり、コソボ統治の最高責任者は依然国際連合事務総長コソボ特別代表である。
■国際文民事務所
(International Civilian Office)は、アハティサーリ案に基づいて、コソボ政府による施政を監督する国際機関。コソボ地位問題を仲介していたアハティサーリ国連特使が、コソボ自治州のセルビアからの国際的監督下での独立を認める「アハティサーリ案」(包括的解決案)を提示したことを受け、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアのロシアを除く連絡調整グループ(CG)諸国は、同案に基づくコソボ独立を支持。独立後、1999年のコソボ紛争以来展開している国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)に代わって独立コソボを監督する機関として国際文民事務所を新設し、徐々にUNMIKから権限を移譲していくこととしていた。
■欧州連合・法の支配ミッション
European Union Rule of Law Mission in Kosovo)、通称EULEXコソボは、欧州連合によってコソボに派遣された警察・文民による支援ミッションである。EULEXは、国際連合安全保障理事会決議1244に基づくコソボへの国際的な監視を引き継ぐことを意図して計画された。セルビアやロシアははじめ、EULEXは国際連合安全保障理事会の決議を歪める、違法なものであると主張していたが、2008年の末にはこれらの主張を取り下げた。
■KFOR
Kosovo Force, コソボ治安維持部隊)は1999年6月10日に採択された国連安保理決議1244に基づき、北大西洋条約機構(NATO)指揮の下、当時ユーゴスラビア連邦共和国のセルビア共和国(2008年にセルビア共和国として独立)統治下にあったコソボ・メトヒヤ自治州(2008年2月17日にコソボ共和国として独立を宣言)において治安維持を行う国際安全保障部隊である。