イタリア Italy
イタリア半島およびその付け根に当たる部分と、地中海に浮かぶ2つの大きな島(サルデーニャ島、シチリア島)からなる。国土北部のアルプス山脈において、フランス、スイス、オーストリア、スロベニアと国境を接し、南西のシチリア島の対岸にチュニジアが、南には旧植民地のリビアが存在する。首都はローマ。
■ローマ
イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。2010年の都市的地域の人口では271万人であり、世界128位である。伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。
■キジアーナ音楽院
Accademia Musicale Chigiana; Chigiana Musical Academyは、イタリア、シエナにある音楽専門の国際的研究施設である。1932年、グイド・キージ・サラチーニ伯爵によって設立された。主要楽器並びに声楽、指揮、作曲の各専攻がある。夏季に「キジアーナ音楽祭」が開催される。
■グレゴリアン大学
(Pontifica Universita Gregoriana) はイタリア、ローマにある教皇庁立のカトリック大学。1551年創立という長い歴史と伝統を誇り、2001年9月には創立450周年を祝った。同大学には世界中130の国と地域からの司祭、修道者、神学生、一般人など1600人の学生が学び、世界最大規模の神学部の一つである。
イタリア政府観光局
外務省:イタリア
在イタリア日本国大使館
■ボローニャ大学
Universita di Bologna、略号:UNIBOは、イタリアのボローニャに所在する大学である。ヨーロッパ最古の総合大学であり、規模においてイタリア国内第2位の大学でもある。世界の大学の原点とされ、「母なる大学」とも雅称される。創立以来9世紀を超える歴史のうちには、ペトラルカやダンテ・アリギエーリ、ガリレオ・ガリレイ、コペルニクスなどといったそうそうたる著名な才人が過去の在籍者に名を連ねる。
■トリノ大学
University of Turin、は、イタリア北西部のピエモンテ州トリノにある国立大学。ヨーロッパで最も伝統があり、ノーベル賞受賞者を複数輩出した、格式高い名門大学の一つである。現在は12の学部と55の学科からなる。また国連との共同プログラムを設立する等の先進的な取組でも知られる。
■サクロ・クオーレ・カトリック大学
(Università Cattolica del Sacro Cuore, UCSC) は、イタリア・ロンバルディア州ミラノにある大学である。ブレッシャ、ピアチェンツァとクレモーナ、ローマとカンポバッソにもキャンパスがある。 1921年に創立され、ヨーロッパで最も大きな私立大学で、世界で最も大きなカトリック大学である。
■聖チェチーリア音楽院
Accademia Nazionale di Santa Ceciliaは、イタリアの音楽大学。ローマに所在。1585年にローマ教皇シクストゥス5世により、聖女セシリアと教皇グレゴリウス1世を記念して教皇領に創設された音楽教習所を前身としている。
■パヴィア大学
University of Paviaはイタリアのパヴィーアにある大学。1361年に設立されたイタリアの大学のひとつ。 大学の前身になった学校が設立されたのは9世紀にさかのぼり、当時は神学、天文学、法律などを学ぶ場であった。これを元に1361年に総合大学として設立された。
■パドヴァ大学
(Universita degli Studi di Padova,略称UNIPD)は、イタリアのパドヴァに1222年9月29日に創立された、イタリアで2番目に古い大学である(最古の大学はボローニャ大学)。ガリレオ・ガリレイ、ダンテ、ペトラルカが教授を務めるなど、歴史上の有名人が多くかかわっている。
■ローマ・ラ・サピエンツァ大学
(Università degli Studi di Roma "La Sapienza")は、イタリアで歴史が古い大学の1つである。1303年ボニファティウス8世によって聖職者養成のための大学として設立された。1431年エウゲニウス4世によってパラッツォ・サピエンツァに再建された。1870年に教皇庁立大学から国立大学になった。
■フィウミチーノ空港
(伊: Aeroporto di Fiumicino、)はローマの南西(市内より約30キロ)、フィウミチーノ(Fiumicino)市にある国際空港。別称、(ローマ・)レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港(伊: Aeroporto internazionale Leonardo da Vinci、英: Rome Leonardo da Vinci International Airport)。ローマ市外のフィウミチーノ市にあり、ミラノのミラノ・マルペンサ国際空港と肩を並べるイタリア最大の国際空港の一つ。ルネッサンス期の芸術家で発明家でもあるレオナルド・ダ・ヴィンチにちなんで命名された。
■ミラノ・マルペンサ国際空港
(伊: Aeroporto internazionale Milano-Malpensa)はイタリアのミラノ郊外にある国際空港。ミラノ市の北西48kmのソンマ・ロンバルドにある。ローマ・フィウミチーノ空港と肩を並べるイタリア最大の国際空港の一つ。イタリアのフラッグキャリア、アリタリア航空の本拠地の1つ。マルペンサ2000計画により従来のマルペンサ空港はターミナル2、新規に構築された現在のメインターミナルをターミナル1となり北部イタリア最大の空港となる。
■バーリ国際空港
Aeroporto di Bariはイタリア南部プッリャ州バーリ中心部から北西8kmにある国際空港である。
■ナポリ・カポディキーノ国際空港
Aeroporto di Napoli-Capodichino、は、イタリアのナポリにある国際空港。主に国内やEU内への便が利用している。現在のターミナルが手狭であるため、現在拡張工事中である。
■チャンピーノ空港
Aeroporto di Roma-Ciampinoは、ローマ郊外のチャンピーノにある空港。
■ミラノ・リナーテ国際空港
Aeroporto internazionale Milano-Linate、はイタリア共和国ミラノにある国際空港。ミラノ出身の発明家で、航空技術のパイオニアであるエンリコ・フォルラニーニの功績を称え、エンリコ・フォルラニーニ空港(Aeroporto Enrico Forlanini)という別称が付けられている。
■トリノ空港
Aeroporto di Torinoは、イタリア共和国トリノ市中心部から北へ16kmの距離のカゼッレにある空港。
■ヴェネツィア・テッセラ空港
Aeroporto di Venezia-Tessera,は、イタリアのヴェネツィアにある空港である。ヴェネツィア出身の旅行家であるマルコ・ポーロにちなんでマルコ・ポーロ国際空港(Malco Polo International Airport)という別称もある。
■ヴェネツィア
Comune di Venezia、は、イタリアの北東部に位置するコムーネ。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県庁所在地である。中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」などの別名をもつ。
■ミラノ
イタリアの都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。ミラノ・コレクションなどで知られるように古くから服飾・繊維産業などファッション関連の産業が盛んな土地柄であるが、近年は航空産業や自動車産業、精密機器工業なども発達しておりイタリア最大級の経済地域を形成している。ミラノは古代にはメディオラヌムと言い、紀元前600年のケルト人の町を元にしている。
■ナポリ
ナポリ市(伊: Comune di Napoli、ナポリ語:Napule)は、イタリア南部・カンパニア州の州都で、ナポリ県の県庁所在地である。世界三大夜景の街として有名。ナポリ語が話されていて、ナポリ語での名称はナプレ(Napule)となる。英語名はNaples(ネイプルズ)。「ナポリを見てから死ね」(日本のことわざでいうところの「日光を見ずに“結構”と言うな」)と言われるほど風光明媚な土地としても知られる(但し、現在では「ナポリが死なないうちに見ておけ」という皮肉の意も含まれる)。
■トリノ
Torinoイタリア共和国ピエモンテ州トリノ県のコムーネの一つで、ピエモンテ州の州都かつトリノ県の県庁所在地。すぐ西方にはアルプス山脈を控えていて、その東斜面に市街地が位置し、西方への道路はモンチェニージオ峠によってフランスと連絡している。また水利面ではポー河上流河畔に位置し、ミラノ付近ともカヴール運河で結ばれ、米の集散地として知られる。
■アオスタ
Aosta) またはアオスト (仏: Aoste) は、人口34,270人のイタリア共和国ヴァッレ・ダオスタ特別自治州のコムーネの一つで、ヴァッレ・ダオスタ州の州都である。先史時代以前には巨石文明があり、ケルト人に属するリグーリア族が支配していた。
■アレッツォ
Arezzoは人口91,582人のイタリア共和国トスカーナ州のコムーネの一つで、アレッツォ県の県都である。アルノ川中流に臨み、中世の美術で著名。サッカーセリエC1に所属するACアレッツォの本拠地。
■サンレーモ
(Sanremo)は、イタリア共和国リグーリア州インペリア県にある、人口約5万人の基礎自治体(コムーネ)。リグーリア海岸の港湾都市・観光都市であり、インペリア県最大の人口を有するコムーネである。サンレモ音楽祭をはじめとするさまざまなイベントの舞台として知られる。
■サンレモ音楽祭
Festival della canzone italiana)はイタリア・リグーリア州のサンレモで開催されているポピュラー音楽の音楽祭。1951年より毎年開催されており、和訳では音楽祭とされているが「歌」に焦点が当てられている。
■トレント
Trientは、イタリアの都市である。 トレンティーノ=アルト・アディジェ州の州都でトレント自治県の県庁所在地にあたる。1929年より、トレント大司教座が置かれている。800年に渡る司教公支配、ヨーロッパの他国からの相対的な独立、オーストリア支配と、自治体の宿命の強力な観念が、トレント市の文化に顕著な痕跡を残した。
■カリャリ
Cagliari, は、イタリア共和国サルデーニャ自治州の州都である。カリャリ県の県都でもある。サルデーニャ島の南部にあり、同名の湾に面している。郊外コムーネを含む、人口約50万人の都市圏を形成している。
■パレルモ
Palermoは、イタリアの南部シチリア島北西部に位置する都市。シチリア州の州都であり、パレルモ県の県都。第二次世界大戦中、1943年7月に連合国軍がシチリア上陸作戦(ハスキー作戦)を行い、パレルモの町は爆撃を受けて破壊された。戦後町は荒廃したが、近年ノルマン王宮跡や大聖堂、いくつもの教会などの歴史地区を核に旧市街の保存・再生計画が完成した。
■カターニア
Cataniaは、人口305,773人のシチリア島の二番目に大きな都市。島の東側の海岸に位置し、イタリア共和国シチリア州カターニア県のコムーネの一つでカターニア県の県都である。
■メッシーナ
Messinaはイタリア共和国シチリア州メッシーナ県のコムーネ。メッシーナ県の県都である。数多くの教会や宮殿があったが、1908年の大地震で倒壊・再建されたものが多い。
■シラクサ
Siracusa、は、イタリア共和国のシチリア島東岸に位置する都市で、シラクーザ県の県都である。紀元前734年頃、ギリシアのコリントスの植民者たちがこの場所を発見し、低湿地帯を意味するシラコ(Sirako)と名づけたのが起源である。
■ジェノヴァ
Genova,はリグーリア州ジェノヴァ県に属する人口約600,000人のイタリア共和国の都市。海港を備え、古くからアマルフィ、ヴェネツィア、ピサなどとともに海洋国家として栄えた。その頃は la Superba、すなわち華麗な都市との異名があった。
■トリエステ
Trieste、イタリア北東部にあるフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都で、人口約21万人の基礎自治体(コムーネ)。トリエステ自治県の県庁所在地でもある。アドリア海の最奥部、トリエステ湾に面した港湾都市である。スロベニアとの国境の都市であり、スロベニア領の都市コペル(イタリア名:カポディストリア)は南に24km離れている。トリエステにはイタリア海軍の基地が置かれている。
■ボローニャ
Bologna、は、イタリア、エミリア=ロマーニャ州の都市。ボローニャ自治県の県庁所在地でもある。数世紀以上、ボローニャは多くのニックネームを獲得してきた。『学問都市』(ラ・ドッタ)は有名な大学にちなみ、『肥満都市』(ラ・グラッサ)はその食文化にちなむ。
■フィレンツェ
(Firenze)は、イタリアのトスカーナ州フィレンツェ県に属する人口36万人の都市である。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県庁所在地であり、近郊の人口は約20万人。1986年の欧州文化首都に選ばれていた。
■ペルージャ
(Perugia)は人口約15万人のイタリアの都市。略号はPG。ウンブリア州の州都およびペルージャ県の県庁所在地である。イタリア中部の大学町。アッシジの最寄りの町になる。ペルージャは、チョコレートで有名であり、これはBaciというチョコレートが広く輸出されているペルジーナに拠るところが大きい。
■アンコーナ
Ancona、は、イタリア共和国マルケ州アンコーナ県のコムーネで、アドリア海に面した海港を持つ。アンコーナ県の県都。アンコーナは、およそ紀元前390年頃、古代ギリシャ植民都市シラクーザによって建設され、そのアンコーナという名前を与えられた。
■ラクイラ
(L'Aquila)は、人口69,368人のイタリア共和国アブルッツォ州ラクイラ県のコムーネの1つで、ラクイラ県の県都かつアブルッツォ州の州都である。2009年4月6日のラクイラ地震で大きな被害を受け308人の死者が出た。
■バーリ
(Bari、バリとも)とはイタリア南部プッリャ州の州都、またバーリ県の県都である。守護聖人はサンタクロースの元ともいわれるミラの聖ニコラオスである。
■ポテンツァ
(Potenza、ポテンツァ方言:Putenz) は、イタリア共和国バジリカータ州ポテンツァ県のコムーネの一つ。ポテンツァ県の県都である。県都としてはイタリアで最も標高が高く、アペニン山脈中のバセンタ川谷を見下ろす位置にある。
■カタンザーロ
(Catanzaro) は、人口95,099人のイタリア共和国カラブリア州カタンザーロ県のコムーネの一つで、カタンザーロ県の県都である。町は10世紀のビザンティン時代が元になっている。
■ローマ・テルミニ駅
Stazione di Roma Terminiは、イタリア・ローマの玄関口である中央駅。トレニタリア(旧国鉄)、ローマ地下鉄の駅。エスクイリーノの丘に有る。乗降客数は1日約48万人で、イタリアの鉄道駅では最も多い。古代ローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスのテルメ(Terme 公共浴場)の遺跡に近いことから、この名が付いた。
■ナポリ地下鉄
(Metropolitana di Napoli) は、 ナポリ市の公共鉄道網を示す名前である。7路線の地下鉄と4路線のケーブルカーと言う構成で提供されている。
■エネルギー
イタリアはエネルギー資源の輸入国であり、ガス、石炭、石油の大部分を外国に依存している。イタリアの発電量の82%は、石油、天然ガス、石炭、亜炭をもちいた火力発電が生みだしており、13%が水力発電によるもの。イタリアは1950年代後半から原子力発電の研究開発を開始し、当時の世界原子力技術で最先端であり、1965年時点には3カ所の原子力発電所が稼動していた。しかしながらチェルノブイリ原発事故などがきっかけとなり、1987年の国民投票で原発の全面停止を決定。運転を停止する。1990年には停止中の原子力発電所の運転を再開しないことが決まった。
■国名
正式名称は、Repubblica Italiana (イタリア語: レプッブリカ・イタリアーナ)。通称は、Italia。公式の英語表記は、Italian Republic(イタリャン・リパブリク)。通称は、Italy(イタリ)。イタリアという名の由来に定説はない。確かなことは、イタリアという単語は元々、半島の南端部の狭い地域の名だったということである。由来についての有力な説は、古ラテン語の vitulus (ウィトゥルス、雄の子牛)から転じたものである。
1.面積:30.1万平方キロメートル(日本の約5分の4)
2.人口:59.3百万人
3.首都:ローマ
4.言語:イタリア語(地域により独、仏語等少数言語あり)
5.宗教:キリスト教(カトリック)が国民の約97%。その他、キリスト教(プロテスタント)、ユダヤ教、イスラム教、仏教。
1861年3月 ヴィットーリオ・エマヌエーレII世、イタリア王国建設
1922年11月 ファシスト党ムッソリーニ政権掌握
1929年2月 バチカンとラテラーノ条約調印
1943年7月 ムッソリーニ政権崩壊
1945年12月 キリスト教民主党首班の第一次デ・ガスベリ内閣成立
1946年6月 国民投票で王制廃止
1948年1月 共和国憲法施行
1962年2月 初の中道左派政権成立
1994年4月 キリスト教民主党中軸の戦後政治の終焉
■主要産業:機械、繊維、自動車、鉄鋼
■主要貿易品目(1)輸出: 1)石油及び同調整品、2)医薬品、3)自動車部品(2)輸入: 1)原油、2)自動車、3)石油ガス、4)医薬品
■ユーロ
9年1月1日に決済用仮想通貨として導入された。この時点では現金のユーロは存在しなかった。3年後の2002年1月1日に初めて現金通貨としてのユーロが発足した。この時、導入国の従来の通貨に代わり、ユーロが法定通貨となった。ユーロ硬貨はユーロ圏16か国のほかに、合意によって認められている3か国がそれぞれ鋳造しており、裏面は各国で独自のデザインを採用している。ユーロ紙幣のデザインは統一されているが、紙幣に印刷されている番号の先頭の文字によって、その紙幣の印刷された国が判別されるようになっている。
■自由の人民
Popolo della Libertà, PdLは、イタリアの政党。日本の報道機関では自由国民と表記される。また、外務省ホームページでは「自由国民党」と表記されている。
■民主党
Partito Democratico,"PD"は、イタリアの政党。
■中道連合
2008年総選挙の際、「キリスト教中道民主連合」、「白いバラ」、「イタリア民主社会党」の三党合意の下に設立された政党連合
■虹の左翼
Sinistra Arcobaleno、"SA"は、イタリアの政党連合。代表は、ファウスト・ベルティノッティ(代議院議長 - 共産主義再建党)。2008年4月の総選挙では、議席獲得に必要な最低得票率4%を得られず、上院・下院ともに議席ゼロとなった。。
■マグナ・グラエキア
Magna Graeciaは、古代ギリシア人が植民した南イタリアおよびシチリア島一帯を指す名前。ギリシア人たちが持ち込んだ古代ギリシア文化やヘレニズム文化は、エトルリア文化や古代ローマ文化に影響を与えたほか、南イタリアにはギリシア語を話す共同体が今日まで残った。またギリシア植民都市の遺跡はイタリア半島やシチリア各地に散在し、今日の大きな都市の起源となったものもある。
■音楽
現在も世界で用いられる音楽用語の多数がイタリア語であることから推察できるように、イタリアはルネサンス期以来、もっとも長い期間、西洋音楽をリードし続けた。18世紀後半のウィーン古典派の台頭、続くバッハの復権などによって主導権はドイツ圏に移ったが、ことオペラに関してのみはヴェルディ、プッチーニらの大作曲家を輩出したイタリアがなお大勢力を保ち続け、古典派まではドイツ人作曲家も大部分のオペライタリア語で作曲したこともあり、今なおオペラといえばイタリアというイメージは強い(ただし、上演数に関しては現在はドイツのほうが数倍に及ぶ)。
■映画
戦後、イタリアの映画は広く認知され、1980年頃の芸術的な凋落まで輸出された。この時期の世界的に有名なイタリアの映画監督としては、ヴィットリオ・デ・シーカ、フェデリコ・フェリーニ、セルジオ・レオーネ、ルキノ・ヴィスコンティ、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ダリオ・アルジェントなどの名が挙げられる。ネオレアリスモと呼ばれる重厚な現実主義から出発し、次第に奔放華麗な前衛性を獲得、さらに残酷味を前面に出したマカロニウェスタンからホラーへと展開する娯楽映画など、その幅は驚くほど広い。
自転車泥棒 (映画)
1948年に公開されたイタリア映画。第二次世界大戦後のイタリアを舞台に、戦後の貧困とその中で生きる親子を描いた作品。
■RAI国立交響楽団
そもそもの成り立ちはトリノに最初の交響楽団が創設された1931年までさかのぼる。その後ローマ、ミラノ、ナポリに交響楽団が、ナポリにはアレッサンドロ・スカルラッティ室内管弦楽団もつくられた。これらのオーケストラには客演した指揮者としてはヴィットリオ・グイ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤン、アントニオ・グァルニエリ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、レオポルド・ストコフスキー、セルジュ・チェリビダッケ、カルロ・マリア・ジュリーニ、マリオ・ロッシ、ロリン・マゼール、トーマス・シッパーズ、ズービン・メータ、ヴォルフガング・サヴァリッシュなどの名指揮者が名を連ねる。
2011/011/08 財政不安のイタリアでベルルスコーニ首相への辞任圧力が高まっている。
イタリア内閣、政治家はゼロ
2011/11/18 イタリアのモンティ首相は16日閣僚名簿を発表した。16人の閣僚を政治家ではなく有識者で固めた「実務者内閣」となった。モンティ氏は記者会見で「政治家はいない方がよいと言う結論に達した。邪魔が入らないからだ」と述べ、既得権を持つ支持者らを抱える政党の思惑から距離を置き、財政再建と構造改革に取組む姿勢を打ち出した。政治の後ろ盾のない新政権がどうなって行くか、とても興味ある問題で日本の政治にとっても刺激になる要素はたくさんあるように思われます。
イタリア 新内閣への抗議デモ
イタリアでは17日、前の日に発足したばかりのモンティ新内閣に対し学生や労働組合が、各地で抗議デモを行いました。このうち首都ローマでは、数千人のデモ隊がモンティ新内閣の信任投票が行われる議会上院の近くまで行進し、国民に負担を強いる財政緊縮策は受け入れられないと抗議の声を上げて、警備に当たっていた警官に卵やトマトを投げつけました。また、北部のミラノでは、デモ隊がモンティ新首相が学長を務めてきた大学に近づこうとして、警官隊と衝突しました。抗議デモは、さらに北部のトリノや南部のシチリア島でも行われ、財政の立て直しには追加の緊縮策が必要だとするモンティ新首相の今後の政権運営の難しさを予感させるものとなりました。
■ジェロラモ・カルダーノ
ジェロラモ・カルダーノ(Gerolamo Cardano、1501年9月24日 - 1576年9月21日)は、16世紀のイタリアの人物。ジローラモ・カルダーノ(Girolamo Cardano)との表記もある。ミラノで生まれ、ローマで没した。一般に数学者として知られている。本業は医者、占星術師、賭博師、哲学者でもあった。ジェロラモの父親はレオナルド・ダ・ヴィンチの友人で数学の才能に恵まれた弁護士であり、彼はその私生児として生まれた。
■アルド・ロッシ
アルド・ロッシ(Aldo Rossi, 1931年5月3日 - 1997年9月4日)は、イタリアの建築家。1980年代を中心に、建築理論・ドローイング・設計の三分野で国際的な評価を達成する非凡な業績を挙げた。ロッシは著書の中で、現代の建築界では都市に対する理解の欠如が常態になっていると批判した。彼は、都市は時間をかけて建設されてゆくものとして研究され評価されるべきだと論じた。
■マウリツィオ・ポリーニ
Maurizio Pollini, 1942年1月5日 - は、イタリアのミラノ出身のピアニスト。父親は建築家ジノ・ポリーニであり、また母親(彫刻家ファウスト・メロッティの妹)は声楽もこなすピアニストで、5歳からカルロ・ロナーティに、ロナーティの死後はカルロ・ヴィドゥッソにピアノを学ぶ。現役ピアニスト中、最も高い評価を受けているひとりである。1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールに審査員全員一致で優勝。審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を述べ、一躍国際的な名声を勝ち取る。
■アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ
Arturo Benedetti Michelangeli, 1920年1月5日 − 1995年6月12日は、イタリアのピアニスト。ブレーシャ地方の出身。アッシジの聖フランチェスコの末裔と自称していた。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリンを学んだが、間もなくピアノに切り替えた。10歳でミラノ音楽院に入学。父親の主張により、一時期医学を学んだこともある。1938年、18歳で国際イザイ音楽祭に参加。一次予選の演奏から早くも注目を集めるが、初見が苦手であったことが災いし、第7位の入選にとどまった。翌1939年、ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝し、審査員長のアルフレッド・コルトーから「リストの再来」と賞賛された。音楽家以外にも医師・パイロット・レーサーなどの肩書きを所持していた。
■オリビエーロ・トスカーニ
Oliviero Toscani, 男性, 1942年- は、イタリア 、ミラノ生まれの写真家。ベネトンの広告キャンペーンの作品を手がけたことで世界的に知られる。チューリッヒで写真を学び、ローマの広告代理店に入社、『エル』、『ヴォーグ』等の雑誌でファッション写真を撮り、1983年よりベネトン社と契約、ベネトンでは、およそ従来のファッションブランドの広告写真からはかけ離れたAIDS、人種差別、戦争、死刑制度等を正面から取り上げ、その強烈な作品は世界各地で大きな議論を呼んだ。
■トッポ・ジージョ
Topo Gigioはイタリア人形劇のキャラクター。イタリア・ミラノ生まれのネズミの男の子が主人公の物語。原作はマリア・ペレゴ (it:Maria Perego)。主人公。「トッポ」が姓で、「ジージョ」が名である。本名は「トッポ・ルイス」で、ジージョは愛称。因みにトッポとはイタリア語でネズミの意。ただし、イタリア語での発音はトーポと伸ばすほうが近く、トッポという発音の場合、切り株(toppo)という意味となる。またイタリア語ではルイージ(英語などのルイスに相当)の愛称がジージョ(Gigio)となる。
■ブルーノ・ムナーリ
Bruno Munari、1907年10月24日ミラノ生まれ、1998年9月30日没は、イタリアの美術家。美術家、グラフィックデザイナー、プロダクトデザイナー、教育者、研究家、絵本作家など、ムナーリには多くの顔があるため、その全体像が掴みにくい。幼少期を北イタリアのバディーア・ポレージネというちいさな街で過ごし、18歳の時ミラノへ戻り、イタリアの前衛美術運動の一つ「未来派」の活動に参加、「役に立たない機械」を発表する。ムナーリは「未来派」の中でも「後期未来派」に分類され、運動の考え方に共鳴するものの中心的な人物として活動はしていない。絵本「スイミー」などで有名なレオ・レオニともこの時期未来派の芸術家として交流を持つ。
■ソフィア・ローレン
Sophia Loren、1934年9月20日 - はイタリアを代表する女優である。イタリアの首都であるローマで、ロミーダ・ヴィラーニとリカルド・シコローネの間に生まれた内縁の子であった。幼少時はナポリ近郊のポッツオーリで貧困の中成長し、1950年代初頭にヨーロッパ映画に端役として出演した。ソフィアは喜劇王チャーリー・チャップリンの最後の監督作品『伯爵夫人』に出演したことがあり、マーロン・ブランドと夢の共演を実現した。この作品は、チャップリンが、赤狩りによってハリウッド及びアメリカから追放された後の作品で、イギリスで製作、公開されたがあまり知られていない。
■レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonardo da Vinci, 1452年4月15日 - 1519年5月2日はイタリアのルネサンス期を代表する芸術家で、万能人 (uomo universale, ウォモ・ウニヴェルサーレ) などと呼ばれている。レオナルドは1452年4月15日、イタリアのトスカーナにあるヴィンチ村で生まれた。生家は現存する。ヴィンチ家は13世紀より続くヴィンチ村では名の通った血筋で、父セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Ser Piero da Vinci) は公証人を務め、家は裕福であった。幼少期のレオナルドは、原因は不明だが正当な教育を受けず、自然とともに暮らしていた。当時から左手で鏡文字を書いたと言われるが、これは彼が読み書きの教育を受けなかったためともされる。この時期に、自由奔放な性格だったと言われる叔父から影響を受けたと指摘されている。
■ミケランジェロ・ブオナローティ
Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, 1475年3月6日 - 1564年2月18日は、イタリアルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。名前はミカエル(イタリア語: Michele)と天使(イタリア語: angelo)を併せたもの。幼少の頃から絵画や彫刻に興味を示し、1488年、13歳でドメニコ・ギルランダイオに弟子入りした。ドメニコは彼の才能に感心し、フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介した。ロレンツォはミケランジェロを自宅に引き取り学ばせた。
■ヴィットリオ・デ・シーカ
Vittorio De Sica,1901年7月7日 - 1974年11月13日はイタリア出身の映画監督・俳優。イタリアのフロジノーネで生まれ、最初は舞台俳優であった。いくつかの劇団を渡り歩いた後、1933年に自分の劇団を設立、映画にも出演するようになり、イタリア演劇界でスターとなっていった。1940年に映画監督としてデビュー。脚本家のチェーザレ・ザヴァッティーニとコンビを組んだ『靴みがき』や『自転車泥棒』などでイタリアのネオ・リアリスモの巨匠とみなされるようになる。
■ミケランジェロ・アントニオーニ
Michelangelo Antonioni、1912年9月29日 - 2007年7月30日は、イタリア中部フェラーラの生まれの映画監督。ボローニャ大学卒業後、1940年にローマに移り、チネチッタの撮影技術センター(Centro Sperimentale di Cinematografia)で学ぶ。ここで彼は、その後一緒に映画を作っていくことになる何人かの映画技術者と出会う。中でもロベルト・ロッセリーニとの出会いは重要だった。
■ジョヴァンニ・カッシーニ
Giovanni Domenico Cassini、1625年6月8日 - 1712年9月14日は、イタリア出身のフランスの天文学者。パリ天文台の初代台長でもあった。イタリアのペリナルドで生まれ、1673年にフランスに帰化。土星の4つの衛星を発見したほか、惑星観測で様々な功績を残している。
■ラファエロ・サンティ
Raffaello Santi, 1483年4月6日 - 1520年4月6日は、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家。ラッファエッロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ(Raffaello Sanzio da Urbino)との表記もあり、英語名でラファエル(Raphael)と書かれることもある。ミケランジェロが偉大な改革者であるのに対し、ラファエロはそれまでの芸術手法を統合、洗練し、優雅な様式を確立した、総合芸術の天才であると言える。
■カルロ・マリア・ジュリーニ
Carlo Maria Giulini, 1914年5月9日 - 2005年6月14日は、イタリア出身の指揮者。世界的な名声と比べて、特定のポストに就いていた期間が短く、孤高の巨匠として知られる。プッリャ州北部のバルレッタに生まれる。サンタ・チェチリア音楽院に学び、ヴィオラ奏者として出発している。ヴィオラ奏者時代には、客演したブルーノ・ワルターなどの当時の大指揮者の指揮に触れる機会を得る。
■アメデオ・モディリアーニ
Amedeo Clemente Modigliani、1884年7月12日 - 1920年1月24日は、イタリアの画家、彫刻家。主にパリで制作活動を行った。モディリアーニはヴェネツィアで美術学校に通った後、1906年にパリへ移住した。1907年と1912年にはサロン・ドートンヌ、1908年、1910年、1911年の各年にはアンデパンダン展に出品している。最初は彫刻家を志し、1915年頃まではアフリカ、オセアニア、アジア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていた。
■ジョルジョ・ナポリターノ
Giorgio Napolitano、1925年6月29日 - は、イタリアの政治家。大統領(第11代)。カンパニア州ナポリ県ナポリ出身。ナポリ大学法学部卒業。舞台芸術に関心を持ち、ナポリの小劇場で俳優として舞台活動を行う。また「トマッゾ・ピニヤッチェリ」のペンネームで、ナポリ方言のソネット集を出版している。
■マリオ・モンティ
Mario Monti、1943年3月19日 - は、イタリアの経済学者、政治家。現在、同国閣僚評議会議長(首相に相当)、経済財務大臣。1943年、イタリア王国ロンバルディア州ヴァレーゼにて生まれた。ミラノにあるボッコーニ大学(英語版)より経済と経営の学位を得た。イェール大学では後にノーベル経済学賞を受賞することになる経済学者、ジェームズ・トービンの元で大学院研究を終えた。
■ジュゼッペ・マッツィーニ
Giuseppe Mazzini, 1805年6月22日 - 1872年3月10日は、イタリアのイタリア統一運動時代の政治家、革命家。カヴール、ガリバルディと並ぶ「イタリア統一の三傑」の1人。ジェノヴァで医学部教授の息子に生まれる。病弱ながら聡明で、ジェノヴァ大学を卒業し、弁護士を開業。彼はイタリアの秘密結社・カルボナリに入党するが、彼の革命を目指す活動はすぐに法律から追われることになる。
■アメデオ・アヴォガドロ
(il Conte Lorenzo Romano Amedeo Carlo Avogadro di Quaregna e Cerreto, 1776年8月9日 - 1856年7月9日)は、イタリアのトリノ出身の物理学者、化学者。「アボガドロの法則」でとくにその名が知られている。生涯トリノ近郊を離れることがほとんどなかった。アヴォガドロは大学で法学と哲学を修めた。学位取得は教会法に関するものであった。大学卒業後は弁護士となり、法律事務所を開く。ところが、1800年ごろから数学と物理学に興味を覚え、自然哲学者への道を進む。「同温同圧のもとでは、すべての気体は同じ体積中に同数の分子を含む」というのがアボガドロの法則の基本的な内容である。
■ジャコモ・マッテオッティ
(Giacomo Matteotti、1885年5月22日−1924年6月10日)は、イタリアの社会主義者。統一社会党の書記もつとめた。台頭するファシズムに対峙したが、1924年に暗殺された。ボローニャ大学で法学を修めた。若い頃より活発に社会主義運動に参画した。第一次世界大戦に際しては、戦争反対の姿勢をとった。統一社会党の中心人物として、とりわけ1922年のムッソリーニ政権成立以降、ファシスト党・ムッソリーニらの批判を続けたが、1924年6月にローマで暗殺された。
■ジョヴァンニ・カッシーニ
(Giovanni Domenico Cassini、1625年6月8日 - 1712年9月14日)は、イタリア出身のフランスの天文学者。パリ天文台の初代台長でもあった。イタリアのペリナルドで生まれ、1673年にフランスに帰化。土星の4つの衛星を発見したほか、惑星観測で様々な功績を残している。カッシーニはパンザノの天文台に1648年から1669年まで勤めた。ボローニャ大学で天文学を教え、1671年にパリ天文台の天文台長になった。
■ウンベルト・エーコ
Umberto Eco、1932年1月5日 - はイタリアの記号論哲学者、小説家、中世研究者、文芸評論家で、ボローニャ大学教授、ケロッグ大学およびオックスフォード大学名誉会員。北西部のアレッサンドリア生まれ。エコ、エコーの表記も見られる。現実の事件に啓示を受け、小説の執筆を開始。1980年に『薔薇の名前』(原題 Il nome della rosa)として発表した。
■チェーザレ・ロンブローゾ
Cesare Lombroso、 1835年11月6日 - 1909年10月19日は、イタリアの精神科医で犯罪人類学の創始者である。ノーベル生理学・医学賞を受賞したカミッロ・ゴルジ(Camillo Golgi)の指導教官でもある。
■チェーザレ・パヴェーゼ
(Cesare Pavese, 1908年9月9日 - 1950年8月27日)は、イタリアの詩人で小説家、文芸評論家、翻訳者。20世紀のイタリア文学におけるネオレアリズモの代表的な作家の一人。マルクス主義者でもあり、第二次世界大戦下、イタリアのパルチザン活動も行っていた。イタリアクーネオ県サント・ステーファノ・ベルボ生まれ。
1950年、服薬自殺する。
■サルバドール・エドワード・ルリア
Salvador Edward Luria、1912年8月13日 - 1991年2月6日は、イタリアの微生物学者で、ファージの研究の草分けであり、分子生物学を創始した一人である。マックス・デルブリュック、アルフレッド・ハーシーとともに1969年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。
■レナート・ドゥルベッコ
(Renato Dulbecco、1914年2月22日 - 2012年2月19日)はイタリア出身のウイルス学者。1940年第二次世界大戦が勃発すると軍医として召集されてフランス・ロシアの前線に派遣され、負傷した。ファシスト政権崩壊後はレジスタンス運動に参加した。戦後研究を再開したが、まもなくレーヴィ=モンタルチーニとともにアメリカへ渡り、ルリアとともにインディアナ大学(ブルーミントン)でバクテリオファージの研究を始めた。
■アンドレーア・ガブリエーリ
(Andrea Gabrieli, 1510年ごろ - 1586年後半)はイタリア・ルネサンス音楽の作曲家・オルガニスト。より有名なジョヴァンニのおじである。チプリアーノ・デ・ローレとともに、国際的に有名なヴェネツィア楽派の第一世代に当たり、複合唱の作曲技法をイタリアやドイツに広める上で、多大な影響力をふるった。
■エウジェーニオ・モンターレ
Eugenio Montale、1896年10月12日 - 1981年9月12日はイタリアの詩人、小説家、編集者、翻訳家であり、1975年度のノーベル文学賞受賞者である。1915年、モンターレは会計士として働き始めたが、文学への情熱は捨てきれず、市の図書館や姉の大学の哲学の講義に通った。また彼はオペラの声楽も習っていたが、これは後の彼の作品に影響を与えることになった。
■フィリッパ・ジョルダーノ
Filippa Giordano, 1974年2月14日 - はイタリア出身の女性歌手。今日のクラシカル・クロスオーバー隆盛の一翼を担う存在である。1974年2月14日、イタリアのシチリア島パレルモで聖歌隊歌手の父とオペラ歌手の母の間に生まれた。祖父はシチリアの伝統的なストリート・ミュージシャンで兄や姉も音楽家という音楽一家に育ち、母親から歌の手ほどきを受けた。1979年、5歳の時にローマに移住。クラシック音楽とともにクラシック・ダンスを習い始め、1983年にはイタリア国立ダンス・アカデミーに特待生として迎えられた。
■アントニオ・グラムシ
Antonio Gramsci, 1891年1月23日 - 1937年4月27日)は、イタリアのマルクス主義思想家、イタリア共産党創設者の一人。戦間期のイタリア、ベニート・ムッソリーニ政権に「この頭脳を止めねば」と危ぶまれて投獄されたが、その獄中で執筆した「ノート」で展開したさまざまな思想概念、例えば「ヘゲモニー」は、イギリスの「カルチュラル・スタディーズ」の論者や、ガヤトリ・C・スピヴァクらインドの歴史研究者らの「サバルタン・スタディーズ」グループ、そして、国際関係学のロバート・コックスやスティーヴン・ギルといった「グローバル政治経済学」などにまで大きな影響を与えている。
■オットリーノ・レスピーギ
(Ottorino Respighi, 1879年7月9日 − 1936年4月18日)はイタリアの作曲家・音楽学者・指揮者。ボローニャ出身だが、1913年からはローマに出て教育者としても活動した。1908年までは演奏家、とりわけヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動したが、その後は作曲に転向した。近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩(すなわち《ローマの噴水(イタリア語: Fontane di Roma)》、《ローマの松(イタリア語: Pini di Roma)》、《ローマの祭り(イタリア語: Feste Romane)》)がとりわけ有名である。