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イタリア共和国
Republic of Italy

ヨーロッパ

 


イタリア半島
Penisola italianaは、ヨーロッパ大陸のアルプス山脈の南側から地中海に南東に延びた形の半島。別名アペニン半島。東側をアドリア海、南側をイオニア海、西側をティレニア海に分断している。アペニン山脈が貫いていて、半島のつけ根には北のアルプス山脈と南のアペニン山脈に囲まれるようにパダーナ平原がある。

コルシカ島
Corsica)、または、コルス島は、地中海西部、イタリア半島の西に位置するフランス領の島である。面積は約8,680km2(日本の広島県と同程度)と、地中海ではシチリア島、サルデーニャ島、キプロス島に次いで4番目に大きく、人口は約30.2万人である。

リグリア海
Ligurian Sea)は、地中海の一部を構成する海域。イタリア半島とコルシカ島に囲まれている。リグーリア海岸(リヴィエラ)は景勝地として知られる。

エトナ火山
Etna)はイタリア南部シチリア島の東部にある活火山。旧名をモンジベッロ (Mongibello) という。ヨーロッパ最大の活火山であり、現在の標高は3,326mであるが、山頂での噴火により標高は変化する。

アルプス山脈
Alps)は、アルプス・ヒマラヤ造山帯に属し、ヨーロッパ中央部を東西に横切る「山脈」である。オーストリアを東端とし、スロベニア、イタリア、スイス、リヒテンシュタイン、ドイツを経由してフランスに至る。

サルデーニャ
(Sardegna)は、イタリア半島、スペイン、チュニジアの間、フランス領コルシカ島(コルス島)の南に位置するイタリア領の島である。シチリア島に次ぎ、地中海で2番目に大きな島となっている。

ボニファシオ海峡
Bocche di Bonifacio、イタリア語読みではボニファーチョ)は、フランス領コルシカ島とイタリア領サルデーニャ島との間の海峡である。

アドリア海
Mar Adriaticoは、イタリア半島とバルカン半島に挟まれた海である。北部は閉じており、ヴェネツィア湾と呼ばれる。南部はオトラント海峡、イオニア海を経て地中海に繋がる。バルカン半島沿岸には、ダルマティア諸島がある。アドリア海の海港として知られる都市には、ヴェネツィア、バーリなどがある。

イオニア海
Mare Ionioは、地中海の海域の一つである。イタリア半島の南部から、オトラント海峡を挟んでアルバニアとギリシャの間に位置する。メッシーナ海峡でティレニア海と、オトラント海峡ではアドリア海と通じている。

ティレニア海
イタリア語:Mar Tirreno、英語:Tyrrhenian Seaは、イタリア半島の西側に広がり、北側をリヴィエラ海岸、西側をコルシカ島とサルデーニャ島、南側をシチリア島とチュニジアに挟まれた海である。「ティレニア」の名前は、この海域の沿岸に位置するトスカーナ地方の住人であったエトルリア人を、古代ギリシア人が「テュレニア人」"Tyrrhenoi"と呼んだことに由来する

アペニン山脈
イタリアの山脈。イタリア半島を縦貫する山脈であり、長さは約1,200km。最高所はコルノ・グランデの標高2,912m。アフリカプレートがユーラシアプレートに衝突した白亜紀末期より隆起が開始された。

ポー平原
Pianura padanaは、イタリアの北部および中部の4州(ピエモンテ州、ロンバルディア州、エミリア・ロマーニャ州、ヴェネト州)にまたがるポー川流域の平野。ポー平原西部(ポー川上流)にはトリノやミラノなど大工業地帯があり、最下流のアドリア海に面した一帯は低湿地で、河口付近にはデルタが形成されている。

ヴェスヴィオ
Il monte Vesuvio)は、イタリア・カンパーニア州にある火山。ナポリから東へ約9kmのナポリ湾岸にある。現在は噴火していない。紀元後79年8月24日の大噴火が有名であり、この時の火砕流でポンペイ市を、土石流でヘルクラネウム(現エルコラーノ)を埋没させた。

ポー川
Poは、イタリア北部を横断している、イタリア国内で最も長い川である。アルプス山脈などに源流を持ち、ロンバルディア平原、ポー平原を流れ、アドリア海に注ぐ。総延長は650kmを超える。

ヴェネツィア湾
golfo di Veneziaは、 アドリア海最北部にある湾である。イストリア半島からポー川デルタまでを指す。流入河川としてはポー川のほか、ピアーヴェ川とタリアメント川などがあり、主要な沿岸都市としてヴェネツィア・トリエステなどがある。

アルノ川
アルノ川(Arno)は、イタリア中部を流れティレニア海に注ぐ、長さ241kmの川である。トスコ=エミリアーノ・アペンニーノにあるファルテローナ山(it:Monte Falterona)に源を発し南へ流れる。アレッツォ付近で北西に転じ、フィレンツェで西に変える。ポンテデーラの谷を流れ、ピサの西側でティレニア海に注ぐ。

テヴェレ川
(Tevere)は、イタリアで3番目に長い川。エミリア・ロマーニャ州のアペニン山脈からトスカーナ州、ウンブリア州を経由し、ラツィオ州でティレニア海に注いでいる。

アディジェ川
(Adige)は、イタリア北部を流れアドリア海に注ぐ、イタリアで2番目に長い川である。流域面積12,100km2は、ポー川、テヴェレ川に次いで3番目となる。


メッシーナ海峡大橋
イタリア本土とシチリア島を結ぶ、メッシーナ海峡に架かる予定の吊り橋である。完成すれば世界最長の吊り橋になる。複線の鉄道と、その両脇に片側2車線の道路が設けられ、鉄道・道路併用橋としても世界最長になる予定(現在の最長橋は、瀬戸大橋)。


イタリアの歴史
イタリア半島はアルプス・ヒマラヤ造山帯の活動によってできた。イタリアに人類が出現したのは旧石器時代とされる。紀元前8世紀のローマの建設以前のイタリアの状況について判明していることは少ない。ただ一つの例外は、イタリア半島の先端やシチリア島など「マグナ・グラエキア」と呼ばれる地域に移住してきたギリシャ人の歴史であるが、同地域でのちに重要な都市となるシラクサやタレントゥム(現在のターラント)が建設されたのはローマと同じ頃である。


サルデーニャ語
サルデーニャ語はイタリア領内地中海のサルデーニャ島で使われている言葉であり、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属すロマンス諸語の1つで、ロマンス諸語の中では特異な言語である。

サルデーニャ王国
Regno di Sardegnaは、イタリアのピエモンテとサルデーニャ島、及び現フランス領のサヴォワとニースを主要な領土とした王国である。サヴォイアから興ったサヴォイア公国を起源とする。ピエモンテのトリノを首都としたことから、ピエモンテ王国とも呼ばれる。イタリア統一運動(リソルジメント)において中核となり、イタリア王国の前身となった。

ジェノヴァ共和国
Repubblica di Genova、は、ジェノヴァを中心にして1096年から1797年まで存在した国家。中世後期から12世紀・13世紀までのジェノヴァは、大きな交易で繁栄した時代だった。ジェノヴァ商人は東方から買い付けた絹、貴重な香辛料、貴金属、ミョウバンなどを扱っていた。1096年頃に成立したときのジェノヴァ共和国は、イタリア王国に属する自由コムーネであった。

フィレンツェ共和国
(Repubblica fiorentina, Repubblica di Firenze)は、かつてイタリアに存在した国である。首都はフィレンツェ。13世紀頃共和制となる。当初は寡頭政治であったが、政争の末、メディチ家が台頭する。共和国との名ではあるが、15世紀にコジモ・デ・メディチが支配して以降は、実質的にはメディチ家が支配したシニョリーア制であった。


ハドリアノポリスの戦い
Proelium Hadrianopolitanumは、378年にローマ帝国皇帝ウァレンス率いるローマ軍とゴート族との戦闘である。結果、ローマ軍は敗退し、以後トラキア地方はゴート族に占領されることになった。

第二次エチオピア戦争
1935年から1936年にかけて起きたイタリア王国とエチオピア帝国の戦争。第一次エチオピア戦争で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図して侵攻を行い、短期間の戦闘をもって全土を占領した。


ラテン人
Latiniは、イタリック語派に属する古代民族で、イタリア中西部のラティウム・ベトゥスに居住した勢力を指す。紀元前1000年頃から居住を開始したラテン人は、後に世界帝国へ躍進するローマ文明の礎を築いた事で知られている。また彼らの使用した言語(ラテン語)はロマンス諸語の母体となり、多大な文化的影響を残している。

エトルリア人
イタリア半島中部の先住民族。 インド・ヨーロッパ語族に属さないエトルリア語を使用していた。 徐々に古代ローマ人と同化し消滅した。初期のローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣したとされ、ローマ建築に特徴的なアーチももともとエトルリア文化の特徴といわれる。

サビニ人
Sabiniは、イタリア半島はローマの北東、ティベリス川一帯に住んでいた古代の部族である。好戦的で城壁を持たない町に住んでおり、サビニ人は自らの起源を「スパルタからの移民であると言っている」と言われている。ローマ人によって女が強奪されたいわゆるサビニの女たちの略奪の後、ローマと4度の戦争を起こすが、結果的にローマに併合された。サビニ族出身のクラウディウス氏族はローマ最高の名門に登り詰めている。

ヴァンダル族
(Vandal)は、ローマ帝国末期にヨーロッパ中央部に侵入してきた系統不明の民族で、北アフリカのカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国した。19世紀の研究により、ヴァンダル族は全体としてプシェヴォルスク文化に属することが明らかになった。


イタリア王国
Regno d'Italia)は、現在のイタリア共和国の前身となる王国。1861年に成立し、1946年に共和制へ移行した。イタリア北西部とサルデーニャ島を領有していたサルデーニャ王国は、フランス帝国と結んでオーストリア帝国を破り、ヴェネト地方を除く北イタリアを統一した。続いてサルデーニャ王であったサヴォイア家のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、ローマ以外の教皇領を併合して中部イタリアに領域を広げた。そして最後に両シチリア王国を滅ぼした英雄ジュゼッペ・ガリバルディが南イタリアを献上したことでイタリアの大部分を統合、かつてのナポレオンのようにヴェストファーレン条約によって廃止されていたイタリア王の称号を復活させ即位した。

ローマ街道
ローマ街道の歴史は、紀元前312年にローマのケンソルであったアッピウス・クラウディウス・カエクスの要請により敷設されたアッピア街道(Via Appia)に始まる。イタリア国内にあるローマ街道は現在では自動車道に整備され、「執政官街道」などと呼ばれる。高速道路がはりめぐらされた現在でも渋滞時の抜け道として利用されている。


ローマ帝国
ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:ティベレ川)のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。当初はエトルリア人などの王を擁いていたローマは、7代目の王を追放して、貴族による共和政を布いた。古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。前3世紀から2世紀、3度にわたるポエニ戦争の前後から、イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、貧富の格差は拡大し、それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、やがて「内乱の一世紀」と呼ばれた時代になるとマリウスなど一部の者は、武力を用いて政争の解決を図るようになる。


イタリア統一運動
19世紀に起こったイタリア統一を目的とした政治的・社会的運動である。イタリア語でリソルジメント(Risorgimento)と呼ばれ、日本語でもそのまま用いられる。ナポレオン没落後はオーストリア帝国の影響の下で旧体制が復活したが、カルボナリやマッツィーニの青年イタリアを中心とした勢力により、イタリアの統一と封建制度の打倒が目指された。

 


<世界遺産>
ヴァルカモニカの岩絵
アルプスの山麓のオーリオ川(Oglio)沿いに約70kmに続いている渓谷である。この渓谷の岩に、約1万年前に彫られたと推定されているものから、ローマ帝国時代のアルファベットの彫られた岩まで約8000年間に渡る線刻画が残っている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ作の「最後の晩餐」があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエの教会とドメニコ会修道院
ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼で、レオナルド・ダ・ヴィンチがサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描いた。 完成は1498年。 ヨハネ福音書に登場する一場面として、弟子の裏切りを予言するイエス・キリストと、それを受けて動揺する弟子たちの様子を、それまでに無い写実性をもって表した、縦4m・横9mの巨大なテンペラ画である。

フィレンツェ歴史地区
フィレンツェは屋根のない博物館とも表されるほど、稀有な建築物や彫刻などの芸術作品が残る。

ヴェネツィアとその潟
ヴェネツィアは、5世紀頃、ゲルマン族の進入から逃れるために、当時湿地帯であった場所に街を作ったのが始まりといわれている。ヴェネツィアの街は100以上の島々が、およそ400の橋と150をこえる大小の運河で結ばれている。潟の上になるヴェネツィアは、常に治水対策が重要課題であった。

ピサのドゥオモ広場
ピサのはずれにあるドゥオモ広場に建つ、洗礼堂、大聖堂、鐘楼、墓所回廊の4つが印象的である。ピサのこのころの繁栄を象徴した建物群である。特に鐘楼はピサの斜塔として有名。

サン・ジミニャーノ歴史地区
サン・ジミニャーノはローマ近くフィレンツェから 50km 程南に位置している。街の名前は398年になくなったモデナの司教、聖ジミニャーノからとられた。

マテーラの洞窟住居
サッシ(岩壁を意味するサッソの複数形)とは、洞窟住居のことである。マテーラのあるグラヴィナ渓谷は石灰岩の侵食により造成され、渓谷にはこのサッシが何層にも重なって存在している。

シエナ歴史地区
シエーナの起源は明確にはわかっておらず、古いローマの都市であるとする伝説もあるが、根拠はない。シエーナが歴史の表舞台に立つのは、東ゴート王国が滅び、東ローマ帝国による短い統治があった後、イタリア半島北部にランゴバルト王国が成立してからである。

ナポリ歴史地区
ナポリの起源は紀元前470年頃にギリシアの植民都市として建設されたことにさかのぼる。当時の町の名前は新しい都市という意味でネアポリス(Neapolis)と呼ばれ、碁盤の目のように整然とした都市計画のもとに整備されていたと考えられている。紀元前4世紀頃に古代ローマの支配下に入る。

クレスピ・ダッダ
イタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県カプリアーテ・サン・ジェルヴァージオというコムーネにある、労働者のための町の名前である。

フェッラーラ:ルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯
人口約13万人のイタリア共和国エミリア=ロマーニャ州の街で、フェラーラ県の県都である。

デル・モンテ城
カステル・デル・モンテ(Castel del monte)は、イタリア南部プーリア州アンドリアの南約20kmにありサンタ・マリア・デル・モンテの近くに位置し、付近一帯はアルタムルジャ国立公園(Parco Nazionale dell'Alta Murgia)として指定されている。イタリア語で、「カステル」が城、「モンテ」が山で「山の城」を意味する。このことからモンテ城、デルモンテ城とも和訳されている。

アルベロベッロのトゥルッリ
アルベロベッロにはトルッロ(「部屋一つ屋根一つ」の意)という建物が約1,000軒ある。16世紀半ばに約40軒のトルッロが建てられ、以後100年の間に土地開墾のため集めた農民が住むのにこの家屋を作らせた。

ラヴェンナの初期キリスト教建築物
ラヴェンナは、西ゴート族による410年のローマ侵略の後、西ローマ帝国、そして東ゴート王国の首都、さらには東ゴート王国を滅ぼした東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が総督府を置いてイタリア統治の拠点にした都市である。ホノリウスが、ミラノから防衛の容易なこの街にやってきた時には、すでに良港クラッシスを要する交易都市として栄えており、751年まで西の首都であり続けた。

ピエンツァ市街の歴史地区
シエナの貴族ピッコロミミ(Piccolomini)家が神聖ローマ帝国皇帝のフリードリヒ2世からヴァル・ドルチャの地を与えられ、ピエンツァもその一部に含まれていた。当初、ピエンツァはコルシャーノという小さな村落に過ぎなかった。だが、このコムーネ出身のピウス2世が教皇となると、ピウス2世はこの地を自らにちなんでピッコロミミと名づけ、理想のルネッサンス期の街づくりに挑んだ。

カゼルタの18世紀の王宮と公園、ヴァンヴィテルリの水道橋とサン・レウチョ邸宅
人口79,137人のイタリア共和国カンパニア州カゼルタ県のコムーネの一つで、カゼルタ県の県都である。

サヴォイア王家の王宮
イタリア統一運動の際主力となったサヴォイア家は、統一イタリアの首都をトリノに定め、その周辺に様々な建築を残した。多くの建物は当時の最新技術を駆使したもので、現在でもその威容を誇る。

パードヴァの植物園/オルト・ボタニーコ
パドヴァは、ヴェネト州にある街。ヴェネツィアの西約30kmにある。この町にあるパドヴァ大学は、1222年に創立。イタリアではボローニャ大学に次いで2番目に古い大学である。特に医学、自然科学の分野での名声を勝ち取り、ガリレオやダンテ、ペトラルカが教鞭を取り、コペルニクスが学んだことでも有名である。世界遺産に登録された植物園は、植物学者フェデリコ・ボナフェーデが構想し、建築家のアンドレア・モロニが設計した。

モデナの大聖堂、トッレ・チヴィカとグランデ広場
モデナ大聖堂(Duomo di Modena)は、イタリア・モデナにある大聖堂。ヨーロッパで重要なロマネスク建築の一つで、ユネスコの世界遺産に登録されている。モデナ出身の著名なテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティの葬儀が行われた場所である。

ギルランディーナの塔
ギルランディーナないしギルランディーナの塔(Torre della Ghirlandina)は、イタリアのモデナ大聖堂に隣接する鐘楼である。高さ 86.12 mの塔の上からは市の周囲を一望でき、古くからモデナの主要なランドマークになっている。

■ポンペイ、エルコラーノおよびトッレ・アヌンツィアータの遺跡

ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ
イタリアシチリア島のピアッツァ・アルメリーナ郊外約5キロメートルのところにある古代ローマの別荘(ヴィッラ)である。ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレにはローマ時代に描かれたモザイク絵画が数多く残っている。

スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ
Su Nuraxi di Baruminiは、イタリア・サルデーニャ州バルーミニにあるヌラーゲ考古遺跡である。1997年に、UNESCOの世界遺産に登録された。紀元前1500年ごろより建設が開始されたヌラーゲは、3層のタワーになっている。

ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群/パルマリア、ティーノとティネット島アマルフィ海岸
ポルトヴェーネレ(Portovenere)は、人口4,045人のイタリア共和国リグーリア州ラ・スペツィア県のコムーネの一つである。チンクエ・テッレ (Cinque Terre) は、イタリア北西部、リグーリア州、ラ・スペツィア県のリグーリア海岸沿いにある5つの村を指す。イタリア語で「5つの土地」と言う意味で、観光地にもなっており、ポルトヴェーネレや小島群などと共にユネスコの世界遺産にも登録されている。

ティーノ島
ラ・スペツィア湾の守護聖人聖ウェネリウス(Saint Venerius, サン・ヴェネーリオ)は、この島に最初隠者として住まい、後に没年まで修道院長を務めた。その都市は630年とも9世紀ともされるが、この聖人の確かな資料が存在していない。この島では9月13日が彼の祝日となっている。

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ティネット島
ティネット島は、スペツィア湾(Golfo della Spezia)の西の外れに位置している小島である。地方自治体上の区分では、ポルトヴェーネレに属している。島の最西部には、6世紀に遡る小さな祈祷所の遺跡がある。それに対して東部には、2つの身廊を持つ聖堂と、修道士たちが暮らしていた独居房群から成る、より複雑な建造物の遺跡がある。こちらは11世紀に何段階かに分けて作り上げられたものだが、サラセン人によって完全に破壊された。

モデナの大聖堂、市民の塔、グランデ広場
モデナ大聖堂(Duomo di Modena)は、イタリア・モデナにある大聖堂。ヨーロッパで重要なロマネスク建築の一つで、ユネスコの世界遺産に登録されている。モデナ出身の著名なテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティの葬儀が行われた場所である。

アマルフィ海岸
Costiera Amalfitanaはイタリアはカンパニア州サレルノ県、ソレント半島南岸の海岸。ティレニア海・サレルノ湾に面する。ヴィエトリ・スル・マーレからアマルフィを抜け、ポジターノへ到るまでの一帯を言う。世界一美しい海岸と言われ、1997年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。30 キロメートルに及び海岸線には斜面に張り付くように小さな町が点在している。

アグリジェントの遺跡地域
神殿の谷(Valle dei Templi)は、シチリア島南部アグリジェントに残る考古遺跡である。マグナ・グラエキアの芸術と建築に関する最高傑作の部類に属する遺跡群で、シチリア島の観光名所というだけでなく、イタリアの国定史跡にもなっている。

ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ
イタリアシチリア島のピアッツァ・アルメリーナ郊外約5キロメートルのところにある古代ローマの別荘(ヴィッラ)である。ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレにはローマ時代に描かれたモザイク絵画が数多く残っている。

スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ
Su Nuraxi di Baruminiは、イタリア・サルデーニャ州バルーミニにあるヌラーゲ考古遺跡である。1997年に、UNESCOの世界遺産に登録された。紀元前1500年ごろより建設が開始されたヌラーゲは、3層のタワーになっている。

アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ
イタリア北東部のアクイレイアにある世界遺産。アクイレイアの町は、紀元前181年に建設された古代ローマの植民都市に起源を持つ。当時はアドリア海が現在よりも内陸に入り込んでおり、この都市は海のほとりに位置していた。帝政期の1世紀から4世紀にかけて、アクイレイアは交易都市として繁栄し、最盛期には10万人を超える人口を擁して世界有数の都市と謳われた。

ウルビーノ歴史地区
Urbinoは人口15.128人のイタリアの都市。 ペーザロとともにペーザロ・エ・ウルビーノ県の県庁所在地であり、マルケ州の主要都市。



パエストゥム
(Paestum) は、イタリア南部カンパーニア州サレルノ県カパッチョ=ペストゥムにある古代ギリシア、古代ローマ遺跡。
ヴェーリア
この古代都市は、本来、マグナ・グラエキア時代に当たる紀元前538年から同535年頃にギリシャ人たちによって建造されたもので、当時はヒエレ(Hyele)といった。
パドゥーラ修道院
(Certosa di Padula) は、「サン・ロレンツォ修道院」(Certosa di San Lorenzo)としても知られている、チレントの公園の端にあるイタリアにある最も大きく有名な修道院のひとつである。
チレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園
(Parco nazionale del Cilento e Vallo di Diano) は、イタリアの国立公園の一つでサレルノ県内の36,000ヘクタールに1991年に設立された。その後拡大され、約180,000ヘクタールとなった。


ヴィッラ・アドリアーナ(ハドリアヌス帝の別荘)
ティヴォリは、ローマの東約30kmにある丘陵の上にある、穏やかな気候に恵まれ、豊かな森に囲まれた街。ここは古代ローマ時代から上層階級の保養地であった。

ヴェローナ市街
イタリア北東部の都市ヴェローナはローマ時代の遺跡や中世の街並みがよく残されている。ヴェローナはイタリアの北東部、アルプス山脈の麓にある街である。

アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群
アッシジは、イタリア中部のスバジオ山(モンテスバジオ、標高約1,300m)の斜面に広がる人口2万人強の小さな町であるが、フランシスコ会の創立者アッシジのフランチェスコが生まれたことで有名で、カトリック教会の巡礼地として人気がある。

ティボリのエステ家別荘
4.5haにという広大な敷地の庭園内には、オルガンの噴水、エフェソスのアルテミス(多産の女神)、百噴水など使われているモチーフがギリシャ・ローマ時代の噴水500ほど、築かれている。

ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々
シチリア島の東南部にある8つの町、カルタジローネ、ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、カターニア、モディカ、ノート、パラッツォーロ・アクレイデ、ラグーザ、シクリの街並みが世界遺産に登録されている。登録を受けた2002年でも、これらの町は約120,000人の居住者をもつ生きた街並みである。

ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティ
サクロ・モンテ(イタリア語: Sacro Monte ; 複数形: Sacri Monti サクリ・モンティ)は「聖なる山」(英: Sacred Mountains)を意味する。本物件では北イタリアの9つのサクロ・モンテが世界遺産に登録されている。

オルチャ渓谷
名前の元となったオルチャ川が中央を横切り、美しい風景が拡がり、中世に起源を持つ様々な街があり、その中の二つピエンツァとモンタルチーノは特筆に値する。

チェルヴェーテリとタルクイーニアの古墳群
チェルヴェーテリ近郊のバンディタッチャ遺跡とタルクイーニア近郊のモンテロッツィ遺跡という、エトルリア人が残した2ヶ所のネクロポリスが対象となっている。

シラクーザとパンターリカの岩壁墓地遺跡
シラクサ
Syrakousai)は、イタリア共和国のシチリア島東岸に位置する都市で、シラクーザ県の県都である。

パンターリカの岩壁墓地遺跡
紀元前13世紀から紀元前7世紀までの5000以上の墓が残る、シチリア島の巨大なネクロポリスである。

ジェノヴァのレ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度
ストラーデ・ヌオーヴェ(単数形はストラーダ・ヌオーヴァ)は、「新しい街路群」の意味で、ジェノヴァで16世紀に整備されたストラーダ・ヌオーヴァ(現在のガリバルディ通り)と、それ以降の時代に出来た二つの街路を指している。

マントヴァとサッビオネータ
マントヴァ
マントヴァは三方を12世紀につくられた人工湖によって囲まれている。これらはガルダ湖から発したミンチョ川の水をせき止めたものである。
サッビオネータ
ヴェスパシアーノ・ゴンザーガによって作られ、ゴンザーガ家の公国の中心であった。

レーティシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観
なお、レーティッシュ鉄道の名前の由来は紀元前3000年頃からこの地に住んでいたとされるスイス東部の先住民族であるラエティア族の名やそれに由来するこの地方の古い地名であるラエティア/レーティエンにまで遡ることができる。

エオリア諸島
いまなお活発な火山活動を行っているストロンボリ島(ストロンボリ火山)は「ストロンボリ式噴火」の典型として知られるほか、ヴルカーノ島(ヴルカーノ火山)が「ブルカノ式噴火」の典型とされるなど、火山学に大きな学術的寄与を行っている。

ドロミーティ
(Dolomiti) は、イタリアのチロル地方、東アルプス山脈に属する山群で、北はリエンツァ川から西はイザルコ川とアディジェ川南はブレンタ川東はピアーヴェ川に囲まれた範囲である。ドロミテとも表記される。

サン・ジョルジョ山
Monte San Giorgio)は、スイス・ティチーノ州の南部にあるピラミッド型をした山。標高1,097m。木々の生い茂る緑豊かな山だが、より重要な点は、中生代三畳紀中期(2億4,500万年前 - 2億3,000万年前)に属する5つの地層から、多くの化石が出土しているところにある。

■国民
ラテン系を中心に、ケルト系、ゲルマン系、ギリシャ系などの混成民族であるイタリア人が大半であるが、長年にわたって多くの都市国家が分かれていたせいもあり、イタリア統一後も未だに各都市の国民であるという意識が残っている。

■言語
公用語はイタリア語。そして、等語線のラ・スペツィア=リミニ線があり、この線の北西の北イタリア(西ロマニアの側)と、南東にあたる中南部のイタリア(東ロマニアの側)では言葉が異なる。東ロマニアに分類される中部イタリアのトスカーナ州の言葉を中心に標準語が形成されている。

エスノローグ
(Ethnologue: Languages of the World, 民族語の意)はキリスト教系の少数言語の研究団体国際SILの公開しているウェブサイトおよび出版物。2005年に発表された第十五版では、世界の言語6912について話者数、分布、方言、系統、聖書の翻訳の有無などを掲載している。言語に関する目録としてはLinguasphere Observatoryに次ぐ規模であるが、一部の言語では記述が古いままである。

ヴェネツィア語
ヴェネツィア語またはベネチア語は、ヴェネツィアなどで話されている言語。イタリア語の方言ではなく全く別個のもの。ヴェネツィア語の歴史は、5世紀ごろにヴェネト人がゲルマン系民族などに追われてヴェネツィアに避難したことから始まる。

シチリア語
Sicilian language)は、シチリア島とイタリア南部で使用されているロマンス語の一種。シチリア方言はシチリアとその周辺の島々で話され、カラブリア州の南部と中央部、プッリャ州の南部、カンパニア州、イタリア本土でも使用される。


マフィア
マフィア(伊:Mafia)とはシチリア島に存在する犯罪者による秘密結社の通称。コーザ・ノストラとも言うがマフィアは『名誉ある男』であり『任侠道』をともない、コーザ・ノストラ(伊:Cosa nostra)は『(全て)我々のもの』を意味する秩序のない組織的な犯罪集団を意味するため一線を画す、またコーザ・ノストラは第2次世界大戦時にアメリカがラッキー・ルチアーノを大量の武器と共に強制送還しイタリアの内部崩壊を図った、そのときのルチアーノの傍若無人な振る舞いにより作られた言葉であるため、オメルタなど自戒のない新興犯罪組織のこととなる。

ピエトロ・アレティーノ
Pietro Aretino、1492年4月20日− 1556年10月21日は、ルネサンス期イタリアの作家、詩人。「ティータ Tita」と呼ばれた美しい遊女で何人もの芸術家のモデルとなった女性を母として、アレッツォの孤児院で生まれる。保護者も友人もなくお祈りができるくらいの教育しか受けなかった。13歳の時に母親から金を盗んでペルージャに逃げ、ある製本屋の部屋を借りて住む。19歳の時にローマの富裕な商人アゴスティーノ・キージに下男として雇われ、ついで後の教皇ユリウス2世であるサン・ジョバンニ枢機卿の召使いとなる。その屋敷を出てロンバルディア地方を放浪しつつ放蕩生活をおくった末に、ラヴェンナでフランチェスコ派の托鉢僧になりすます。アリオストにより「王侯の懲らしめの鞭、神のごとき」と形容されたアレティーノは敵も多く、何度も殺されかけたが、最期は自宅で卒中で倒れたとも笑いすぎて死んだともされている。

フィリッポ・ブルネレスキ
Filippo Brunelleschi, 1377年 - 1446年4月15日 は、イタリアの金細工師、彫刻家、そしてルネサンス最初の建築家である。フィレンツェおよびローマを中心に活動した。後世には遠近法の発明やオーダーの発見をも彼のものとすることがある。彼は幾何学に関心を持ち、芸術活動に視覚原理を導入しようとした。この試みはブルネレスキ自身によって完成することはなかったが、レオン・バッティスタ・アルベルティに引き継がれ、その著作によって、透視図法の理論が確立された。このように、ブルネレスキの着想は、やがてその後継者によって発展し、初期ルネサンス建築の開花を促した。

ジュゼッペ・ガリバルディ
Giuseppe Garibaldi、1807年7月4日 - 1882年6月2日はイタリア王国統一に貢献した軍事家である。イタリア統一運動を推進。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人。1860年、千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助し両シチリア王国を滅ぼした。その後、征服地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上してイタリア統一に大きく貢献した。その後は政治家となることなく余生をカプレーラ島で送った。

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
oseph-Louis Lagrange, 1736年1月25日 - 1813年4月10日は、イタリアのトリノで生まれフランスで活動した数学者、天文学者である。オイラーと並んで18世紀最大の数学者といわれている。彼の初期の業績は、微分積分学の物理学、特に力学への応用である。その後さらに力学を一般化して、最小作用の原理に基づく、解析力学(ラグランジュ力学)をつくり出した。ラグランジュの『解析力学』はラプラスの『天体力学』と共に18世紀末の古典的著作となった。

アンセルムス
カンタベリーのアンセルムス(Anselmus Cantuariensis, 1033年 -1109年4月21日)は中世ヨーロッパの神学者、かつ哲学者であり、1093年から亡くなるまで カンタベリー大司教の座にあった。カトリック教会で聖人。アンセルムスは初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人であり、それゆえ一般的に、彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。

ピア・アンジェリ
(Pier Angeli、1932年6月19日 - 1971年9月10日)はイタリアのサルデーニャ島出身の女優。双子の姉妹のマリサ・パヴァンも女優。16歳のときにイタリア映画でデビュー。とくに1950年の『明日では遅すぎる』(主演)ではイタリア映画のネオ・レアリスモ運動の大きな原動力となったこの作品の評価と商業的成功に多大に貢献、これが1950年代の米国進出(メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約)のきっかけとなる。MGMではポール・ニューマンの『傷だらけの栄光』(当初はジェームズ・ディーン主演の予定だった)でヒロインを演じるなど清純派女優としてハリウッドで活躍した。

ティベリウス
Tiberius Julius Caesar、紀元前42年11月16日 - 紀元後37年3月16日は、ローマ帝国の第2代皇帝(在位:紀元14年 - 37年)。初代皇帝アウグストゥスの養子。養子となる以前の名前は実父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ。なお、イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝である。イエスの言葉である「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」の「カエサル」とは、ティベリウスのことである。

ラウラ・バッシ
Laura Bassi, 1711年10月31日 - 1778年2月20日はイタリアの女性物理学者。ヨーロッパの大学で初めて教授となった女性である。ボローニャに、法律家の娘に生まれた。1731年にボローニャ大学の教授に任命された。1738年に結婚し12人の子供を生んだが、1776年に65歳で物理学の教授に復帰した。

ルイージ・ガルヴァーニ
(Luigi Galvani、1737年9月9日 - 1798年12月4日)はイタリアのボローニャ出身の医師、物理学者である。ガルバーニとも表記する。1771年、電気火花を当てると死んだカエルの筋肉がけいれんすることを発見。これが生体電気研究の端緒となり、今日の神経系の電気パターンや信号の研究に繋がっている。はじめ神学を学び、本人は教会の聖職者となることを望んでいたが、両親は医者になるよう教育を受けさせた。

ジョヴァンニ・スキアパレッリ
(Giovanni Virginio Schiaparelli, 1835年3月14日 - 1910年7月4日)は、火星の研究で有名なイタリアの天文学者。上院議員でもあった。ファッションデザイナーのエルザ・スキアパレッリは姪にあたる。ミラノの天文台長であり、1877年の火星の大接近を口径22cmの屈折望遠鏡で観測し、火星の表面全体に線状の模様を発見した。その後の1879年、1881年の観測結果と合わせ発表、イタリア語でcanali(溝、水路)と呼んだ。

アウレリオ・ペッチェイ
Aurelio Peccei、1908年7月4日 - 1984年3月14日)は、イタリアの学者、実業家。ローマクラブの創設者、初代会長として知られる。1908年、イタリアのトリノに生まれる。トリノ大学卒業。経済学博士。第2次世界大戦中は、レジスタンス運動の闘士として活躍。地下活動のなか1944年に逮捕・投獄された。大戦後、イタリアの自動車メーカーであるフィアットの再建に尽力。1964年、請われてオリベッティ社の会長に就任した。

マッシモ・ミラ
(Massimo Mila, 1910年8月14日トリノ−1988年12月26日トリノ)はイタリアの音楽学者、音楽評論家。1935年反ファシズム運動に参加し当局に逮捕され、ローマで五年間服役する。その後とくにカナヴェーゼ地方でレジスタンス活動に参加する。トリノ大学及びジュゼッペ・ヴェルディ音楽学校で教鞭を執るかたわら、国民的な規模の雑誌や日刊紙で音楽評論家として活動した。その功績により、第五回サン=ヴァンサン賞(1953年)、第七回サン=ヴァンサン賞(1955年)、アントニオ・フェルトリネッリ賞(1985年)を受賞している。また熱心な登山家でもあり、関連著作も残した。

リッカルド・ザンドナーイ
Riccardo Zandonai, 1883年5月30日 - 1944年6月5日は、イタリア・オペラの作曲家。1898年よりピエトロ・マスカーニに作曲を師事。ダンテの『煉獄篇』を自由に翻案したオペラ《フランチェスカ・ダ・リミニ》によって名高い。プッチーニが《トゥーランドット》の終幕を完成を見ないままに生涯最後の日々を迎えたころ、出版社のリコルディは、万一の場合の完成者に最もふさわしい人物として、ザンドナーイを候補に上げた。プッチーニ自身もその案に賛成し、トスカニーニもそれを英断として褒め称えている。

ルイジ・ノーノ
(Luigi Nono, 1924年1月29日 - 1990年5月8日)はイタリアのヴェネツィアの作曲家。電子音楽、ミュージック・セリエルにおける主導的存在の一人となった。ノーノは1941年にヴェネツィア音楽院で理論をジャン・フランチェスコ・マリピエロに学び、その後大学で法学部を卒業している。1946年にブルーノ・マデルナやヘルマン・シェルヘンに作曲を学びセリー技法を習得する。

ルイジ・ノーノ
(Luigi Nono, 1924年1月29日 - 1990年5月8日)はイタリアのヴェネツィアの作曲家。電子音楽、ミュージック・セリエルにおける主導的存在の一人となった。ノーノは1941年にヴェネツィア音楽院で理論をジャン・フランチェスコ・マリピエロに学び、その後大学で法学部を卒業している。1946年にブルーノ・マデルナやヘルマン・シェルヘンに作曲を学びセリー技法を習得する。

ジョヴァンニ・ファルコーネ
(Giovanni Falcone, 1939年5月18日 - 1992年5月23日)はイタリアの裁判官。その生涯をマフィア撲滅運動に捧げるも、盟友の治安判事パオロ・ボルセリーノと相前後してマフィアの手で暗殺された。1978年、ロッコ・キンニーチ判事がパレルモ地裁の予審部長に就任。ファルコーネは彼のもとでボルセリーノら若い世代の判事たちともに銀行口座を調べてマフィアの不正な利益を洗い出し摘発するという新しい捜査方法を用いて成果を挙げた。

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ
Vincenzo Bellini, 1801年11月3日 - 1835年9月23日はシチリア島・カターニアに生れ、パリ近郊で没したクラシック音楽の作曲家で、主としてオペラ作曲家として有名である。ロッシーニやドニゼッティと共に19世紀前半のイタリアオペラ界を代表する天才である。中でも特にベッリーニについてはショパン、ベルリオーズ、ワーグナーらの賞賛と愛情の言葉を得ている事で知られている。

アルド・クレメンティ
Aldo Clementi、1925年5月25日 - 2011年3月3日)はシチリア・カターニア生まれの、イタリアの作曲家。ジョヴァンナ・フェッロとアルフレッド・サンジョルジに師事。ピエトロ・スカルピーニのピアノのマスタークラスを受講した事もあり、ピアニストとしての訓練も受けた。現在に到るまでイタリアの作曲家達は、対位法の伝統とは切っても切れない関係にあるといえるであろう。その中でクレメンティはマドリガル様式に現代的解釈を与えることに成功した、唯一の作曲家である。

アンジェロ・ダリーゴ
(Angelo d'Arrigo、1961年4月3日 - 2006年3月26日)は、イタリアの飛行家、冒険家。ハンググライダー、無機関・無動力の超軽量飛行機などを使用した冒険飛行で世界記録を保持していた。2006年には、コンドルの飛行ルートに沿って南アメリカ最高峰のアコンカグア上空を飛行した。2006年3月26日イタリア、コーミゾの航空ショーの最中、乗っていた軽飛行機が墜落し事故死した。45歳。

エットーレ・マヨラナ
Ettore Majorana、1906年8月5日 - 1938年に行方不明はイタリアの物理学者である。エンリコ・フェルミのチームで活躍した。1938年行方不明となった。シチリア島のカターニアに生まれた。数学的な才能にあふれ、ローマ大学のフェルミのチームで活躍した。1933年に核力の理論として中性子と陽子の交換力を考え、これはマヨラナ力と呼ばれる。1937年に中性粒子(粒子と反粒子が同じ)の理論を作り、中性粒子はマヨラナ粒子と呼ばれる。

フィリッポ・ユヴァラ
Filippo Juvarra、1678年3月7日−1736年1月31日は、イタリアの建築家。18世紀のもっとも偉大なイタリアの建築家であり、かつ輝かしいとまで評された図案家。メッシーナの銀細工師の家庭で生まれた。1703年か1704年から1714年にかけて、ローマのフォンターナのもとで修業をつみ、はじめ舞台設計者としての名声を得た。この劇場設計での経験は、その後に続くほとんどすべての作品に痕跡を残したといわれる。

アルキメデス
Archimedes紀元前287年 - 紀元前212年は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。彼の生涯は全容を掴めていないが、古典古代における第一級の科学者という揺ぎ無い評価を得ている。彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察はてこの本質を説明した。彼は革新的な機械設計にも秀で、シージ・エンジンや彼の名を冠したアルキメディアン・スクリューなどでも知られる。アルキメディアン・スクリューは、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている。

フランク・キャプラ
Frank Russell Capra, 1897年5月18日 - 1991年9月3日は、アメリカ合衆国の映画監督。『或る夜の出来事』『オペラハット』『我が家の楽園』と3度アカデミー監督賞を受賞している。イタリア・シチリア島ビザックイーノ出身。ぶどう園を営む家庭に生まれるが、7人兄弟だったため家は貧しく、6歳で家族と共にロサンゼルスに移住。その後は本のセールスなど詐欺まがいの職業を転々とした後、作家になる為にシナリオ学校に入るが、小説よりも映画に興味がおき、1921年にインディペンデント系のクリスティ映画社に入社。

サルヴァトーレ・クァジモド
(Salvatore Quasimodo, 1901年8月20日 - 1968年6月14日)はイタリアの作家。1959年にノーベル文学賞を受賞した。ジュゼッペ・ウンガレッティ(Giuseppe Ungaretti)、エウジェーニオ・モンターレ(Eugenio Montale)とともに20世紀イタリアの最高の詩人と言われている。クァジモドはシチリア州のモーディカで生まれ、1908年に父親が地震による人口の集中に対処する仕事を任されたため、メッシーナに引っ越した。自然の大きな力は若いクァジモドの心に衝撃を残した

ジュゼッペ・ウンガレッティ
(Giuseppe Ungaretti, 1888年2月8日 - 1970年6月1日)はイタリアの詩人。生と死を見つめ自己を見据えたその詩風によって、救いを希求しながらもいかなる安易な救いも拒むその姿勢によって、また簡潔でありながら従来の詩の伝統を越え出る新たな詩表現によって、イタリアの現代詩を切り開いた。20世紀イタリアの最高の詩人の一人であり、20世紀文学の巨人の一人とも目されている。。

レオナルド・シャーシャ
(Leonardo Sciascia, 1921年1月8日ラカルムート - 1989年11月20日パレルモ)は20世紀のイタリアの作家、小説家、詩人、評論家、政治家。イタリア文学史上初のマフィアを告発する小説を書いた作家として知られる。父親と祖父は硫黄鉱山で働いていたので、作家の歴史は硫黄鉱山の仕事に深く根づいている。『マヨラーナの失踪』はもっとも注目された時期のシャーシャの代表作であると言える。

マウロ・マウル
(Mauro Maur, 1958年8月8日 - )は、イタリアのトランペット奏者、作曲家。1985年からローマ歌劇場管弦楽団の首席トランペット奏者を務める。、グローリア・ゲイナー、プラシド・ドミンゴ、クラウディオ・シモーネとイ・ソリスティ・ヴェネティなどと共演し、卓越した多芸多才ぶりを発揮しつつ国際的キャリアの道を直進している。

アルベルト・トンバ
(Alberto Tomba, 1966年12月19日 - )は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ボローニャ県サン・ラッザロ・ディ・サーヴェナ出身のアルペンスキーヤー。1980年代後半から1990年代にかけて回転および大回転で活躍した。冬季オリンピックでは3つの金メダルを獲得し、ワールドカップではインゲマル・ステンマルク、ヘルマン・マイヤーについで史上3位の50勝をあげている(2010年12月現在)。その爆発的な競技力と劣勢でも終盤で大逆転劇を演じる事、またその破天荒な私生活と姓の響きも相まってTomba la Bomba(爆弾トンバ)と呼ばれた。

ジャンナ・ナンニーニ
(Gianna Nannini, 1956年6月14日-)はイタリアのロック歌手。イタリアやドイツを中心に活動中。実家はトスカーナ州シエナにある名門菓子店である。ルッカの音楽学校でピアノを習い、1976年に最初のアルバムを発表した。1994年にはシエナ大学で文学と哲学の学位をとり最大限の投票と賞賛と共に卒業した。翌年、フランス大使館であるファルネーゼ宮殿のバルコニーに登りムルロア環礁での核実験を再開すると言うアルプスの向うの政府の決定に対し抗議の即興コンサートを行った。

ラインホルト・メスナー
Reinhold Messner, 1944年9月17日 ブレッサノーネ近郊フィルネス・フーネス Villnoss-Funes -)は、イタリアの登山家、冒険家、作家、映画製作者。1986年に人類史上初の8000メートル峰全14座完全登頂(無酸素)を成し遂げた。1970年のナンガ・パルバット登頂を皮切りに17年の歳月をかけて1986年には人類史上初となる8000メートル峰全14座完全登頂という登山史における大金字塔を打ち立てた。ラインホルト・メスナーはパドヴァ大学建築科を卒業しており、一時期数学教師として中学校で教鞭を取っていた。

アントニオ・ネグリ
(Antonio “Toni” Negri, 1933年8月1日 - )は、イタリアの哲学者、政治活動家。パドヴァ大学、パリ第8大学などで教鞭を執る。主にバールーフ・デ・スピノザの研究や、カール・マルクスの研究で知られる。マイケル・ハートとの共著『<帝国>』では、グローバリゼーションの進展に伴い出現しているこれまでとは異なる主権の形態を<帝国>と捉えた。主にバールーフ・デ・スピノザの研究や、カール・マルクスの研究で知られる。マイケル・ハートとの共著『<帝国>』では、グローバリゼーションの進展に伴い出現しているこれまでとは異なる主権の形態を<帝国>と捉えた。

アレッサンドロ・デル・ピエロ
(Alessandro Del Piero, 1974年11月9日 - )は、イタリア、トレヴィーゾ県コネリアーノ出身のサッカー選手。ポジションはFW。その繊細で芸術的なプレーはしばしばピントゥリッキオに喩えられ称賛される。イタリア代表デビューは1995年3月25日のエストニア戦。イタリア代表通算27得点はバッジョと並んで歴代4位タイ。

ルキノ・ヴィスコンティ
(Luchino Visconti di Modrone、1906年11月2日 - 1976年3月17日)は、イタリアの映画監督、舞台演出家、脚本家。イタリア・ミラノの名門ヴィスコンティ家出身の伯爵。裕福な家庭に生まれ、幼少の頃より芸術に親しむ。その出自にもかかわらず、イタリア共産党に入党する。30歳よりジャン・ルノワールのアシスタントとして映画製作に携わるようになる。

ロベルト・バッジョ
Roberto Baggio, 1967年2月18日 - )(バッジオ、バッジォと表記することもある)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身のサッカー選手。 1993年欧州年間最優秀選手、FIFA最優秀選手。03-04シーズンで現役引退。セリエA通算205ゴールは歴代5位。

ジャコモ・プッチーニ
(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini, 1858年12月22日 - 1924年11月29日)は、イタリアの作曲家。その作品である『トスカ』、『蝶々夫人』、『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られる。プッチーニ家は、18世紀から連綿と続くルッカの宗教音楽家の家系であるが、中には器楽作曲家もいた。この中で唯一オペラ作曲家を目指し、なおかつ今日、唯一世界的音楽家として名声を残したのがジャコモ・プッチーニである。

イタリア Italy
イタリア半島およびその付け根に当たる部分と、地中海に浮かぶ2つの大きな島(サルデーニャ島、シチリア島)からなる。国土北部のアルプス山脈において、フランス、スイス、オーストリア、スロベニアと国境を接し、南西のシチリア島の対岸にチュニジアが、南には旧植民地のリビアが存在する。首都はローマ。

 

ローマ
イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。2010年の都市的地域の人口では271万人であり、世界128位である。伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。


キジアーナ音楽院
Accademia Musicale Chigiana; Chigiana Musical Academyは、イタリア、シエナにある音楽専門の国際的研究施設である。1932年、グイド・キージ・サラチーニ伯爵によって設立された。主要楽器並びに声楽、指揮、作曲の各専攻がある。夏季に「キジアーナ音楽祭」が開催される。

グレゴリアン大学
(Pontifica Universita Gregoriana) はイタリア、ローマにある教皇庁立のカトリック大学。1551年創立という長い歴史と伝統を誇り、2001年9月には創立450周年を祝った。同大学には世界中130の国と地域からの司祭、修道者、神学生、一般人など1600人の学生が学び、世界最大規模の神学部の一つである。

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イタリア政府観光局
外務省:イタリア
在イタリア日本国大使館


ボローニャ大学
Universita di Bologna、略号:UNIBOは、イタリアのボローニャに所在する大学である。ヨーロッパ最古の総合大学であり、規模においてイタリア国内第2位の大学でもある。世界の大学の原点とされ、「母なる大学」とも雅称される。創立以来9世紀を超える歴史のうちには、ペトラルカやダンテ・アリギエーリ、ガリレオ・ガリレイ、コペルニクスなどといったそうそうたる著名な才人が過去の在籍者に名を連ねる。

トリノ大学
University of Turin、は、イタリア北西部のピエモンテ州トリノにある国立大学。ヨーロッパで最も伝統があり、ノーベル賞受賞者を複数輩出した、格式高い名門大学の一つである。現在は12の学部と55の学科からなる。また国連との共同プログラムを設立する等の先進的な取組でも知られる。

サクロ・クオーレ・カトリック大学
(Università Cattolica del Sacro Cuore, UCSC) は、イタリア・ロンバルディア州ミラノにある大学である。ブレッシャ、ピアチェンツァとクレモーナ、ローマとカンポバッソにもキャンパスがある。 1921年に創立され、ヨーロッパで最も大きな私立大学で、世界で最も大きなカトリック大学である。

聖チェチーリア音楽院
Accademia Nazionale di Santa Ceciliaは、イタリアの音楽大学。ローマに所在。1585年にローマ教皇シクストゥス5世により、聖女セシリアと教皇グレゴリウス1世を記念して教皇領に創設された音楽教習所を前身としている。

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パヴィア大学
University of Paviaはイタリアのパヴィーアにある大学。1361年に設立されたイタリアの大学のひとつ。 大学の前身になった学校が設立されたのは9世紀にさかのぼり、当時は神学、天文学、法律などを学ぶ場であった。これを元に1361年に総合大学として設立された。

パドヴァ大学
(Universita degli Studi di Padova,略称UNIPD)は、イタリアのパドヴァに1222年9月29日に創立された、イタリアで2番目に古い大学である(最古の大学はボローニャ大学)。ガリレオ・ガリレイ、ダンテ、ペトラルカが教授を務めるなど、歴史上の有名人が多くかかわっている。

ローマ・ラ・サピエンツァ大学
(Università degli Studi di Roma "La Sapienza")は、イタリアで歴史が古い大学の1つである。1303年ボニファティウス8世によって聖職者養成のための大学として設立された。1431年エウゲニウス4世によってパラッツォ・サピエンツァに再建された。1870年に教皇庁立大学から国立大学になった。


フィウミチーノ空港
(伊: Aeroporto di Fiumicino、)はローマの南西(市内より約30キロ)、フィウミチーノ(Fiumicino)市にある国際空港。別称、(ローマ・)レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港(伊: Aeroporto internazionale Leonardo da Vinci、英: Rome Leonardo da Vinci International Airport)。ローマ市外のフィウミチーノ市にあり、ミラノのミラノ・マルペンサ国際空港と肩を並べるイタリア最大の国際空港の一つ。ルネッサンス期の芸術家で発明家でもあるレオナルド・ダ・ヴィンチにちなんで命名された。

ミラノ・マルペンサ国際空港
(伊: Aeroporto internazionale Milano-Malpensa)はイタリアのミラノ郊外にある国際空港。ミラノ市の北西48kmのソンマ・ロンバルドにある。ローマ・フィウミチーノ空港と肩を並べるイタリア最大の国際空港の一つ。イタリアのフラッグキャリア、アリタリア航空の本拠地の1つ。マルペンサ2000計画により従来のマルペンサ空港はターミナル2、新規に構築された現在のメインターミナルをターミナル1となり北部イタリア最大の空港となる。

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バーリ国際空港
Aeroporto di Bariはイタリア南部プッリャ州バーリ中心部から北西8kmにある国際空港である。

ナポリ・カポディキーノ国際空港
Aeroporto di Napoli-Capodichino、は、イタリアのナポリにある国際空港。主に国内やEU内への便が利用している。現在のターミナルが手狭であるため、現在拡張工事中である。

チャンピーノ空港
Aeroporto di Roma-Ciampinoは、ローマ郊外のチャンピーノにある空港。

ミラノ・リナーテ国際空港
Aeroporto internazionale Milano-Linate、はイタリア共和国ミラノにある国際空港。ミラノ出身の発明家で、航空技術のパイオニアであるエンリコ・フォルラニーニの功績を称え、エンリコ・フォルラニーニ空港(Aeroporto Enrico Forlanini)という別称が付けられている。

トリノ空港
Aeroporto di Torinoは、イタリア共和国トリノ市中心部から北へ16kmの距離のカゼッレにある空港。

ヴェネツィア・テッセラ空港
Aeroporto di Venezia-Tessera,は、イタリアのヴェネツィアにある空港である。ヴェネツィア出身の旅行家であるマルコ・ポーロにちなんでマルコ・ポーロ国際空港(Malco Polo International Airport)という別称もある。

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ヴェネツィア
Comune di Venezia、は、イタリアの北東部に位置するコムーネ。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県庁所在地である。中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」などの別名をもつ。

ミラノ
イタリアの都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。ミラノ・コレクションなどで知られるように古くから服飾・繊維産業などファッション関連の産業が盛んな土地柄であるが、近年は航空産業や自動車産業、精密機器工業なども発達しておりイタリア最大級の経済地域を形成している。ミラノは古代にはメディオラヌムと言い、紀元前600年のケルト人の町を元にしている。


ナポリ
ナポリ市(伊: Comune di Napoli、ナポリ語:Napule)は、イタリア南部・カンパニア州の州都で、ナポリ県の県庁所在地である。世界三大夜景の街として有名。ナポリ語が話されていて、ナポリ語での名称はナプレ(Napule)となる。英語名はNaples(ネイプルズ)。「ナポリを見てから死ね」(日本のことわざでいうところの「日光を見ずに“結構”と言うな」)と言われるほど風光明媚な土地としても知られる(但し、現在では「ナポリが死なないうちに見ておけ」という皮肉の意も含まれる)。


トリノ
Torinoイタリア共和国ピエモンテ州トリノ県のコムーネの一つで、ピエモンテ州の州都かつトリノ県の県庁所在地。すぐ西方にはアルプス山脈を控えていて、その東斜面に市街地が位置し、西方への道路はモンチェニージオ峠によってフランスと連絡している。また水利面ではポー河上流河畔に位置し、ミラノ付近ともカヴール運河で結ばれ、米の集散地として知られる。

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アオスタ
Aosta) またはアオスト (仏: Aoste) は、人口34,270人のイタリア共和国ヴァッレ・ダオスタ特別自治州のコムーネの一つで、ヴァッレ・ダオスタ州の州都である。先史時代以前には巨石文明があり、ケルト人に属するリグーリア族が支配していた。

アレッツォ
Arezzoは人口91,582人のイタリア共和国トスカーナ州のコムーネの一つで、アレッツォ県の県都である。アルノ川中流に臨み、中世の美術で著名。サッカーセリエC1に所属するACアレッツォの本拠地。

サンレーモ
(Sanremo)は、イタリア共和国リグーリア州インペリア県にある、人口約5万人の基礎自治体(コムーネ)。リグーリア海岸の港湾都市・観光都市であり、インペリア県最大の人口を有するコムーネである。サンレモ音楽祭をはじめとするさまざまなイベントの舞台として知られる。


サンレモ音楽祭
Festival della canzone italiana)はイタリア・リグーリア州のサンレモで開催されているポピュラー音楽の音楽祭。1951年より毎年開催されており、和訳では音楽祭とされているが「歌」に焦点が当てられている。


トレント
Trientは、イタリアの都市である。 トレンティーノ=アルト・アディジェ州の州都でトレント自治県の県庁所在地にあたる。1929年より、トレント大司教座が置かれている。800年に渡る司教公支配、ヨーロッパの他国からの相対的な独立、オーストリア支配と、自治体の宿命の強力な観念が、トレント市の文化に顕著な痕跡を残した。

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カリャリ
Cagliari, は、イタリア共和国サルデーニャ自治州の州都である。カリャリ県の県都でもある。サルデーニャ島の南部にあり、同名の湾に面している。郊外コムーネを含む、人口約50万人の都市圏を形成している。

パレルモ
Palermoは、イタリアの南部シチリア島北西部に位置する都市。シチリア州の州都であり、パレルモ県の県都。第二次世界大戦中、1943年7月に連合国軍がシチリア上陸作戦(ハスキー作戦)を行い、パレルモの町は爆撃を受けて破壊された。戦後町は荒廃したが、近年ノルマン王宮跡や大聖堂、いくつもの教会などの歴史地区を核に旧市街の保存・再生計画が完成した。

カターニア
Cataniaは、人口305,773人のシチリア島の二番目に大きな都市。島の東側の海岸に位置し、イタリア共和国シチリア州カターニア県のコムーネの一つでカターニア県の県都である。

メッシーナ
Messinaはイタリア共和国シチリア州メッシーナ県のコムーネ。メッシーナ県の県都である。数多くの教会や宮殿があったが、1908年の大地震で倒壊・再建されたものが多い。

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シラクサ
Siracusa、は、イタリア共和国のシチリア島東岸に位置する都市で、シラクーザ県の県都である。紀元前734年頃、ギリシアのコリントスの植民者たちがこの場所を発見し、低湿地帯を意味するシラコ(Sirako)と名づけたのが起源である。

ジェノヴァ
Genova,はリグーリア州ジェノヴァ県に属する人口約600,000人のイタリア共和国の都市。海港を備え、古くからアマルフィ、ヴェネツィア、ピサなどとともに海洋国家として栄えた。その頃は la Superba、すなわち華麗な都市との異名があった。

トリエステ
Trieste、イタリア北東部にあるフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都で、人口約21万人の基礎自治体(コムーネ)。トリエステ自治県の県庁所在地でもある。アドリア海の最奥部、トリエステ湾に面した港湾都市である。スロベニアとの国境の都市であり、スロベニア領の都市コペル(イタリア名:カポディストリア)は南に24km離れている。トリエステにはイタリア海軍の基地が置かれている。

ボローニャ
Bologna、は、イタリア、エミリア=ロマーニャ州の都市。ボローニャ自治県の県庁所在地でもある。数世紀以上、ボローニャは多くのニックネームを獲得してきた。『学問都市』(ラ・ドッタ)は有名な大学にちなみ、『肥満都市』(ラ・グラッサ)はその食文化にちなむ。

フィレンツェ
(Firenze)は、イタリアのトスカーナ州フィレンツェ県に属する人口36万人の都市である。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県庁所在地であり、近郊の人口は約20万人。1986年の欧州文化首都に選ばれていた。

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ペルージャ
(Perugia)は人口約15万人のイタリアの都市。略号はPG。ウンブリア州の州都およびペルージャ県の県庁所在地である。イタリア中部の大学町。アッシジの最寄りの町になる。ペルージャは、チョコレートで有名であり、これはBaciというチョコレートが広く輸出されているペルジーナに拠るところが大きい。

アンコーナ
Ancona、は、イタリア共和国マルケ州アンコーナ県のコムーネで、アドリア海に面した海港を持つ。アンコーナ県の県都。アンコーナは、およそ紀元前390年頃、古代ギリシャ植民都市シラクーザによって建設され、そのアンコーナという名前を与えられた。

ラクイラ
(L'Aquila)は、人口69,368人のイタリア共和国アブルッツォ州ラクイラ県のコムーネの1つで、ラクイラ県の県都かつアブルッツォ州の州都である。2009年4月6日のラクイラ地震で大きな被害を受け308人の死者が出た。

バーリ
(Bari、バリとも)とはイタリア南部プッリャ州の州都、またバーリ県の県都である。守護聖人はサンタクロースの元ともいわれるミラの聖ニコラオスである。

ポテンツァ
(Potenza、ポテンツァ方言:Putenz) は、イタリア共和国バジリカータ州ポテンツァ県のコムーネの一つ。ポテンツァ県の県都である。県都としてはイタリアで最も標高が高く、アペニン山脈中のバセンタ川谷を見下ろす位置にある。

カタンザーロ
(Catanzaro) は、人口95,099人のイタリア共和国カラブリア州カタンザーロ県のコムーネの一つで、カタンザーロ県の県都である。町は10世紀のビザンティン時代が元になっている。

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ローマ・テルミニ駅
Stazione di Roma Terminiは、イタリア・ローマの玄関口である中央駅。トレニタリア(旧国鉄)、ローマ地下鉄の駅。エスクイリーノの丘に有る。乗降客数は1日約48万人で、イタリアの鉄道駅では最も多い。古代ローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスのテルメ(Terme 公共浴場)の遺跡に近いことから、この名が付いた。

ナポリ地下鉄
(Metropolitana di Napoli) は、 ナポリ市の公共鉄道網を示す名前である。7路線の地下鉄と4路線のケーブルカーと言う構成で提供されている。

■エネルギー
イタリアはエネルギー資源の輸入国であり、ガス、石炭、石油の大部分を外国に依存している。イタリアの発電量の82%は、石油、天然ガス、石炭、亜炭をもちいた火力発電が生みだしており、13%が水力発電によるもの。イタリアは1950年代後半から原子力発電の研究開発を開始し、当時の世界原子力技術で最先端であり、1965年時点には3カ所の原子力発電所が稼動していた。しかしながらチェルノブイリ原発事故などがきっかけとなり、1987年の国民投票で原発の全面停止を決定。運転を停止する。1990年には停止中の原子力発電所の運転を再開しないことが決まった。


■国名
正式名称は、Repubblica Italiana (イタリア語: レプッブリカ・イタリアーナ)。通称は、Italia。公式の英語表記は、Italian Republic(イタリャン・リパブリク)。通称は、Italy(イタリ)。イタリアという名の由来に定説はない。確かなことは、イタリアという単語は元々、半島の南端部の狭い地域の名だったということである。由来についての有力な説は、古ラテン語の vitulus (ウィトゥルス、雄の子牛)から転じたものである。

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1.面積:30.1万平方キロメートル(日本の約5分の4)
2.人口:59.3百万人
3.首都:ローマ
4.言語:イタリア語(地域により独、仏語等少数言語あり)
5.宗教:キリスト教(カトリック)が国民の約97%。その他、キリスト教(プロテスタント)、ユダヤ教、イスラム教、仏教。

1861年3月 ヴィットーリオ・エマヌエーレII世、イタリア王国建設
1922年11月 ファシスト党ムッソリーニ政権掌握
1929年2月 バチカンとラテラーノ条約調印
1943年7月 ムッソリーニ政権崩壊
1945年12月 キリスト教民主党首班の第一次デ・ガスベリ内閣成立
1946年6月 国民投票で王制廃止
1948年1月 共和国憲法施行
1962年2月 初の中道左派政権成立
1994年4月 キリスト教民主党中軸の戦後政治の終焉

■主要産業:機械、繊維、自動車、鉄鋼
■主要貿易品目(1)輸出: 1)石油及び同調整品、2)医薬品、3)自動車部品(2)輸入: 1)原油、2)自動車、3)石油ガス、4)医薬品


ユーロ
9年1月1日に決済用仮想通貨として導入された。この時点では現金のユーロは存在しなかった。3年後の2002年1月1日に初めて現金通貨としてのユーロが発足した。この時、導入国の従来の通貨に代わり、ユーロが法定通貨となった。ユーロ硬貨はユーロ圏16か国のほかに、合意によって認められている3か国がそれぞれ鋳造しており、裏面は各国で独自のデザインを採用している。ユーロ紙幣のデザインは統一されているが、紙幣に印刷されている番号の先頭の文字によって、その紙幣の印刷された国が判別されるようになっている。

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自由の人民
Popolo della Libertà, PdLは、イタリアの政党。日本の報道機関では自由国民と表記される。また、外務省ホームページでは「自由国民党」と表記されている。

民主党
Partito Democratico,"PD"は、イタリアの政党。

中道連合
2008年総選挙の際、「キリスト教中道民主連合」、「白いバラ」、「イタリア民主社会党」の三党合意の下に設立された政党連合

虹の左翼
Sinistra Arcobaleno、"SA"は、イタリアの政党連合。代表は、ファウスト・ベルティノッティ(代議院議長 - 共産主義再建党)。2008年4月の総選挙では、議席獲得に必要な最低得票率4%を得られず、上院・下院ともに議席ゼロとなった。。


マグナ・グラエキア
Magna Graeciaは、古代ギリシア人が植民した南イタリアおよびシチリア島一帯を指す名前。ギリシア人たちが持ち込んだ古代ギリシア文化やヘレニズム文化は、エトルリア文化や古代ローマ文化に影響を与えたほか、南イタリアにはギリシア語を話す共同体が今日まで残った。またギリシア植民都市の遺跡はイタリア半島やシチリア各地に散在し、今日の大きな都市の起源となったものもある。


■音楽
現在も世界で用いられる音楽用語の多数がイタリア語であることから推察できるように、イタリアはルネサンス期以来、もっとも長い期間、西洋音楽をリードし続けた。18世紀後半のウィーン古典派の台頭、続くバッハの復権などによって主導権はドイツ圏に移ったが、ことオペラに関してのみはヴェルディ、プッチーニらの大作曲家を輩出したイタリアがなお大勢力を保ち続け、古典派まではドイツ人作曲家も大部分のオペライタリア語で作曲したこともあり、今なおオペラといえばイタリアというイメージは強い(ただし、上演数に関しては現在はドイツのほうが数倍に及ぶ)。

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■映画
戦後、イタリアの映画は広く認知され、1980年頃の芸術的な凋落まで輸出された。この時期の世界的に有名なイタリアの映画監督としては、ヴィットリオ・デ・シーカ、フェデリコ・フェリーニ、セルジオ・レオーネ、ルキノ・ヴィスコンティ、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ダリオ・アルジェントなどの名が挙げられる。ネオレアリスモと呼ばれる重厚な現実主義から出発し、次第に奔放華麗な前衛性を獲得、さらに残酷味を前面に出したマカロニウェスタンからホラーへと展開する娯楽映画など、その幅は驚くほど広い。


自転車泥棒 (映画)
1948年に公開されたイタリア映画。第二次世界大戦後のイタリアを舞台に、戦後の貧困とその中で生きる親子を描いた作品。


RAI国立交響楽団
そもそもの成り立ちはトリノに最初の交響楽団が創設された1931年までさかのぼる。その後ローマ、ミラノ、ナポリに交響楽団が、ナポリにはアレッサンドロ・スカルラッティ室内管弦楽団もつくられた。これらのオーケストラには客演した指揮者としてはヴィットリオ・グイ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤン、アントニオ・グァルニエリ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、レオポルド・ストコフスキー、セルジュ・チェリビダッケ、カルロ・マリア・ジュリーニ、マリオ・ロッシ、ロリン・マゼール、トーマス・シッパーズ、ズービン・メータ、ヴォルフガング・サヴァリッシュなどの名指揮者が名を連ねる。

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2011/011/08  財政不安のイタリアでベルルスコーニ首相への辞任圧力が高まっている。

イタリア内閣、政治家はゼロ
2011/11/18  イタリアのモンティ首相は16日閣僚名簿を発表した。16人の閣僚を政治家ではなく有識者で固めた「実務者内閣」となった。モンティ氏は記者会見で「政治家はいない方がよいと言う結論に達した。邪魔が入らないからだ」と述べ、既得権を持つ支持者らを抱える政党の思惑から距離を置き、財政再建と構造改革に取組む姿勢を打ち出した。政治の後ろ盾のない新政権がどうなって行くか、とても興味ある問題で日本の政治にとっても刺激になる要素はたくさんあるように思われます。

イタリア 新内閣への抗議デモ
イタリアでは17日、前の日に発足したばかりのモンティ新内閣に対し学生や労働組合が、各地で抗議デモを行いました。このうち首都ローマでは、数千人のデモ隊がモンティ新内閣の信任投票が行われる議会上院の近くまで行進し、国民に負担を強いる財政緊縮策は受け入れられないと抗議の声を上げて、警備に当たっていた警官に卵やトマトを投げつけました。また、北部のミラノでは、デモ隊がモンティ新首相が学長を務めてきた大学に近づこうとして、警官隊と衝突しました。抗議デモは、さらに北部のトリノや南部のシチリア島でも行われ、財政の立て直しには追加の緊縮策が必要だとするモンティ新首相の今後の政権運営の難しさを予感させるものとなりました。


ジェロラモ・カルダーノ
ジェロラモ・カルダーノ(Gerolamo Cardano、1501年9月24日 - 1576年9月21日)は、16世紀のイタリアの人物。ジローラモ・カルダーノ(Girolamo Cardano)との表記もある。ミラノで生まれ、ローマで没した。一般に数学者として知られている。本業は医者、占星術師、賭博師、哲学者でもあった。ジェロラモの父親はレオナルド・ダ・ヴィンチの友人で数学の才能に恵まれた弁護士であり、彼はその私生児として生まれた。

アルド・ロッシ
アルド・ロッシ(Aldo Rossi, 1931年5月3日 - 1997年9月4日)は、イタリアの建築家。1980年代を中心に、建築理論・ドローイング・設計の三分野で国際的な評価を達成する非凡な業績を挙げた。ロッシは著書の中で、現代の建築界では都市に対する理解の欠如が常態になっていると批判した。彼は、都市は時間をかけて建設されてゆくものとして研究され評価されるべきだと論じた。

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マウリツィオ・ポリーニ
Maurizio Pollini, 1942年1月5日 - は、イタリアのミラノ出身のピアニスト。父親は建築家ジノ・ポリーニであり、また母親(彫刻家ファウスト・メロッティの妹)は声楽もこなすピアニストで、5歳からカルロ・ロナーティに、ロナーティの死後はカルロ・ヴィドゥッソにピアノを学ぶ。現役ピアニスト中、最も高い評価を受けているひとりである。1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールに審査員全員一致で優勝。審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を述べ、一躍国際的な名声を勝ち取る。

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ
Arturo Benedetti Michelangeli, 1920年1月5日 − 1995年6月12日は、イタリアのピアニスト。ブレーシャ地方の出身。アッシジの聖フランチェスコの末裔と自称していた。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリンを学んだが、間もなくピアノに切り替えた。10歳でミラノ音楽院に入学。父親の主張により、一時期医学を学んだこともある。1938年、18歳で国際イザイ音楽祭に参加。一次予選の演奏から早くも注目を集めるが、初見が苦手であったことが災いし、第7位の入選にとどまった。翌1939年、ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝し、審査員長のアルフレッド・コルトーから「リストの再来」と賞賛された。音楽家以外にも医師・パイロット・レーサーなどの肩書きを所持していた。

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オリビエーロ・トスカーニ
Oliviero Toscani, 男性, 1942年- は、イタリア 、ミラノ生まれの写真家。ベネトンの広告キャンペーンの作品を手がけたことで世界的に知られる。チューリッヒで写真を学び、ローマの広告代理店に入社、『エル』、『ヴォーグ』等の雑誌でファッション写真を撮り、1983年よりベネトン社と契約、ベネトンでは、およそ従来のファッションブランドの広告写真からはかけ離れたAIDS、人種差別、戦争、死刑制度等を正面から取り上げ、その強烈な作品は世界各地で大きな議論を呼んだ。

トッポ・ジージョ
Topo Gigioはイタリア人形劇のキャラクター。イタリア・ミラノ生まれのネズミの男の子が主人公の物語。原作はマリア・ペレゴ (it:Maria Perego)。主人公。「トッポ」が姓で、「ジージョ」が名である。本名は「トッポ・ルイス」で、ジージョは愛称。因みにトッポとはイタリア語でネズミの意。ただし、イタリア語での発音はトーポと伸ばすほうが近く、トッポという発音の場合、切り株(toppo)という意味となる。またイタリア語ではルイージ(英語などのルイスに相当)の愛称がジージョ(Gigio)となる。

ブルーノ・ムナーリ
Bruno Munari、1907年10月24日ミラノ生まれ、1998年9月30日没は、イタリアの美術家。美術家、グラフィックデザイナー、プロダクトデザイナー、教育者、研究家、絵本作家など、ムナーリには多くの顔があるため、その全体像が掴みにくい。幼少期を北イタリアのバディーア・ポレージネというちいさな街で過ごし、18歳の時ミラノへ戻り、イタリアの前衛美術運動の一つ「未来派」の活動に参加、「役に立たない機械」を発表する。ムナーリは「未来派」の中でも「後期未来派」に分類され、運動の考え方に共鳴するものの中心的な人物として活動はしていない。絵本「スイミー」などで有名なレオ・レオニともこの時期未来派の芸術家として交流を持つ。

ソフィア・ローレン
Sophia Loren、1934年9月20日 - はイタリアを代表する女優である。イタリアの首都であるローマで、ロミーダ・ヴィラーニとリカルド・シコローネの間に生まれた内縁の子であった。幼少時はナポリ近郊のポッツオーリで貧困の中成長し、1950年代初頭にヨーロッパ映画に端役として出演した。ソフィアは喜劇王チャーリー・チャップリンの最後の監督作品『伯爵夫人』に出演したことがあり、マーロン・ブランドと夢の共演を実現した。この作品は、チャップリンが、赤狩りによってハリウッド及びアメリカから追放された後の作品で、イギリスで製作、公開されたがあまり知られていない。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonardo da Vinci, 1452年4月15日 - 1519年5月2日はイタリアのルネサンス期を代表する芸術家で、万能人 (uomo universale, ウォモ・ウニヴェルサーレ) などと呼ばれている。レオナルドは1452年4月15日、イタリアのトスカーナにあるヴィンチ村で生まれた。生家は現存する。ヴィンチ家は13世紀より続くヴィンチ村では名の通った血筋で、父セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Ser Piero da Vinci) は公証人を務め、家は裕福であった。幼少期のレオナルドは、原因は不明だが正当な教育を受けず、自然とともに暮らしていた。当時から左手で鏡文字を書いたと言われるが、これは彼が読み書きの教育を受けなかったためともされる。この時期に、自由奔放な性格だったと言われる叔父から影響を受けたと指摘されている。

ミケランジェロ・ブオナローティ
Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, 1475年3月6日 - 1564年2月18日は、イタリアルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。名前はミカエル(イタリア語: Michele)と天使(イタリア語: angelo)を併せたもの。幼少の頃から絵画や彫刻に興味を示し、1488年、13歳でドメニコ・ギルランダイオに弟子入りした。ドメニコは彼の才能に感心し、フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介した。ロレンツォはミケランジェロを自宅に引き取り学ばせた。

ヴィットリオ・デ・シーカ
Vittorio De Sica,1901年7月7日 - 1974年11月13日はイタリア出身の映画監督・俳優。イタリアのフロジノーネで生まれ、最初は舞台俳優であった。いくつかの劇団を渡り歩いた後、1933年に自分の劇団を設立、映画にも出演するようになり、イタリア演劇界でスターとなっていった。1940年に映画監督としてデビュー。脚本家のチェーザレ・ザヴァッティーニとコンビを組んだ『靴みがき』や『自転車泥棒』などでイタリアのネオ・リアリスモの巨匠とみなされるようになる。

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ミケランジェロ・アントニオーニ
Michelangelo Antonioni、1912年9月29日 - 2007年7月30日は、イタリア中部フェラーラの生まれの映画監督。ボローニャ大学卒業後、1940年にローマに移り、チネチッタの撮影技術センター(Centro Sperimentale di Cinematografia)で学ぶ。ここで彼は、その後一緒に映画を作っていくことになる何人かの映画技術者と出会う。中でもロベルト・ロッセリーニとの出会いは重要だった。

ジョヴァンニ・カッシーニ
Giovanni Domenico Cassini、1625年6月8日 - 1712年9月14日は、イタリア出身のフランスの天文学者。パリ天文台の初代台長でもあった。イタリアのペリナルドで生まれ、1673年にフランスに帰化。土星の4つの衛星を発見したほか、惑星観測で様々な功績を残している。

ラファエロ・サンティ
Raffaello Santi, 1483年4月6日 - 1520年4月6日は、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家。ラッファエッロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ(Raffaello Sanzio da Urbino)との表記もあり、英語名でラファエル(Raphael)と書かれることもある。ミケランジェロが偉大な改革者であるのに対し、ラファエロはそれまでの芸術手法を統合、洗練し、優雅な様式を確立した、総合芸術の天才であると言える。

カルロ・マリア・ジュリーニ
Carlo Maria Giulini, 1914年5月9日 - 2005年6月14日は、イタリア出身の指揮者。世界的な名声と比べて、特定のポストに就いていた期間が短く、孤高の巨匠として知られる。プッリャ州北部のバルレッタに生まれる。サンタ・チェチリア音楽院に学び、ヴィオラ奏者として出発している。ヴィオラ奏者時代には、客演したブルーノ・ワルターなどの当時の大指揮者の指揮に触れる機会を得る。

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アメデオ・モディリアーニ
Amedeo Clemente Modigliani、1884年7月12日 - 1920年1月24日は、イタリアの画家、彫刻家。主にパリで制作活動を行った。モディリアーニはヴェネツィアで美術学校に通った後、1906年にパリへ移住した。1907年と1912年にはサロン・ドートンヌ、1908年、1910年、1911年の各年にはアンデパンダン展に出品している。最初は彫刻家を志し、1915年頃まではアフリカ、オセアニア、アジア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていた。

ジョルジョ・ナポリターノ
Giorgio Napolitano、1925年6月29日 - は、イタリアの政治家。大統領(第11代)。カンパニア州ナポリ県ナポリ出身。ナポリ大学法学部卒業。舞台芸術に関心を持ち、ナポリの小劇場で俳優として舞台活動を行う。また「トマッゾ・ピニヤッチェリ」のペンネームで、ナポリ方言のソネット集を出版している。

マリオ・モンティ
Mario Monti、1943年3月19日 - は、イタリアの経済学者、政治家。現在、同国閣僚評議会議長(首相に相当)、経済財務大臣。1943年、イタリア王国ロンバルディア州ヴァレーゼにて生まれた。ミラノにあるボッコーニ大学(英語版)より経済と経営の学位を得た。イェール大学では後にノーベル経済学賞を受賞することになる経済学者、ジェームズ・トービンの元で大学院研究を終えた。

ジュゼッペ・マッツィーニ
Giuseppe Mazzini, 1805年6月22日 - 1872年3月10日は、イタリアのイタリア統一運動時代の政治家、革命家。カヴール、ガリバルディと並ぶ「イタリア統一の三傑」の1人。ジェノヴァで医学部教授の息子に生まれる。病弱ながら聡明で、ジェノヴァ大学を卒業し、弁護士を開業。彼はイタリアの秘密結社・カルボナリに入党するが、彼の革命を目指す活動はすぐに法律から追われることになる。

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アメデオ・アヴォガドロ
(il Conte Lorenzo Romano Amedeo Carlo Avogadro di Quaregna e Cerreto, 1776年8月9日 - 1856年7月9日)は、イタリアのトリノ出身の物理学者、化学者。「アボガドロの法則」でとくにその名が知られている。生涯トリノ近郊を離れることがほとんどなかった。アヴォガドロは大学で法学と哲学を修めた。学位取得は教会法に関するものであった。大学卒業後は弁護士となり、法律事務所を開く。ところが、1800年ごろから数学と物理学に興味を覚え、自然哲学者への道を進む。「同温同圧のもとでは、すべての気体は同じ体積中に同数の分子を含む」というのがアボガドロの法則の基本的な内容である。

ジャコモ・マッテオッティ
(Giacomo Matteotti、1885年5月22日−1924年6月10日)は、イタリアの社会主義者。統一社会党の書記もつとめた。台頭するファシズムに対峙したが、1924年に暗殺された。ボローニャ大学で法学を修めた。若い頃より活発に社会主義運動に参画した。第一次世界大戦に際しては、戦争反対の姿勢をとった。統一社会党の中心人物として、とりわけ1922年のムッソリーニ政権成立以降、ファシスト党・ムッソリーニらの批判を続けたが、1924年6月にローマで暗殺された。

ジョヴァンニ・カッシーニ
(Giovanni Domenico Cassini、1625年6月8日 - 1712年9月14日)は、イタリア出身のフランスの天文学者。パリ天文台の初代台長でもあった。イタリアのペリナルドで生まれ、1673年にフランスに帰化。土星の4つの衛星を発見したほか、惑星観測で様々な功績を残している。カッシーニはパンザノの天文台に1648年から1669年まで勤めた。ボローニャ大学で天文学を教え、1671年にパリ天文台の天文台長になった。

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ウンベルト・エーコ
Umberto Eco、1932年1月5日 - はイタリアの記号論哲学者、小説家、中世研究者、文芸評論家で、ボローニャ大学教授、ケロッグ大学およびオックスフォード大学名誉会員。北西部のアレッサンドリア生まれ。エコ、エコーの表記も見られる。現実の事件に啓示を受け、小説の執筆を開始。1980年に『薔薇の名前』(原題 Il nome della rosa)として発表した。

チェーザレ・ロンブローゾ
Cesare Lombroso、 1835年11月6日 - 1909年10月19日は、イタリアの精神科医で犯罪人類学の創始者である。ノーベル生理学・医学賞を受賞したカミッロ・ゴルジ(Camillo Golgi)の指導教官でもある。

チェーザレ・パヴェーゼ
(Cesare Pavese, 1908年9月9日 - 1950年8月27日)は、イタリアの詩人で小説家、文芸評論家、翻訳者。20世紀のイタリア文学におけるネオレアリズモの代表的な作家の一人。マルクス主義者でもあり、第二次世界大戦下、イタリアのパルチザン活動も行っていた。イタリアクーネオ県サント・ステーファノ・ベルボ生まれ。
1950年、服薬自殺する。

サルバドール・エドワード・ルリア
Salvador Edward Luria、1912年8月13日 - 1991年2月6日は、イタリアの微生物学者で、ファージの研究の草分けであり、分子生物学を創始した一人である。マックス・デルブリュック、アルフレッド・ハーシーとともに1969年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。

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レナート・ドゥルベッコ
(Renato Dulbecco、1914年2月22日 - 2012年2月19日)はイタリア出身のウイルス学者。1940年第二次世界大戦が勃発すると軍医として召集されてフランス・ロシアの前線に派遣され、負傷した。ファシスト政権崩壊後はレジスタンス運動に参加した。戦後研究を再開したが、まもなくレーヴィ=モンタルチーニとともにアメリカへ渡り、ルリアとともにインディアナ大学(ブルーミントン)でバクテリオファージの研究を始めた。

アンドレーア・ガブリエーリ
(Andrea Gabrieli, 1510年ごろ - 1586年後半)はイタリア・ルネサンス音楽の作曲家・オルガニスト。より有名なジョヴァンニのおじである。チプリアーノ・デ・ローレとともに、国際的に有名なヴェネツィア楽派の第一世代に当たり、複合唱の作曲技法をイタリアやドイツに広める上で、多大な影響力をふるった。

エウジェーニオ・モンターレ
Eugenio Montale、1896年10月12日 - 1981年9月12日はイタリアの詩人、小説家、編集者、翻訳家であり、1975年度のノーベル文学賞受賞者である。1915年、モンターレは会計士として働き始めたが、文学への情熱は捨てきれず、市の図書館や姉の大学の哲学の講義に通った。また彼はオペラの声楽も習っていたが、これは後の彼の作品に影響を与えることになった。

フィリッパ・ジョルダーノ
Filippa Giordano, 1974年2月14日 - はイタリア出身の女性歌手。今日のクラシカル・クロスオーバー隆盛の一翼を担う存在である。1974年2月14日、イタリアのシチリア島パレルモで聖歌隊歌手の父とオペラ歌手の母の間に生まれた。祖父はシチリアの伝統的なストリート・ミュージシャンで兄や姉も音楽家という音楽一家に育ち、母親から歌の手ほどきを受けた。1979年、5歳の時にローマに移住。クラシック音楽とともにクラシック・ダンスを習い始め、1983年にはイタリア国立ダンス・アカデミーに特待生として迎えられた。

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アントニオ・グラムシ
Antonio Gramsci, 1891年1月23日 - 1937年4月27日)は、イタリアのマルクス主義思想家、イタリア共産党創設者の一人。戦間期のイタリア、ベニート・ムッソリーニ政権に「この頭脳を止めねば」と危ぶまれて投獄されたが、その獄中で執筆した「ノート」で展開したさまざまな思想概念、例えば「ヘゲモニー」は、イギリスの「カルチュラル・スタディーズ」の論者や、ガヤトリ・C・スピヴァクらインドの歴史研究者らの「サバルタン・スタディーズ」グループ、そして、国際関係学のロバート・コックスやスティーヴン・ギルといった「グローバル政治経済学」などにまで大きな影響を与えている。

オットリーノ・レスピーギ
(Ottorino Respighi, 1879年7月9日 − 1936年4月18日)はイタリアの作曲家・音楽学者・指揮者。ボローニャ出身だが、1913年からはローマに出て教育者としても活動した。1908年までは演奏家、とりわけヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動したが、その後は作曲に転向した。近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩(すなわち《ローマの噴水(イタリア語: Fontane di Roma)》、《ローマの松(イタリア語: Pini di Roma)》、《ローマの祭り(イタリア語: Feste Romane)》)がとりわけ有名である。

プピ・アヴァティ
(Pupi Avati、1938年11月3日 - )はイタリアの映画監督、脚本家、プロデューサー。ボローニャ大学で社会学を学んだ後、働きながらアマチュアのジャズ・ミュージシャンとして活動。その後映画製作をするようになり、1970年に初めての長編映画を監督。

ピエル・パオロ・パゾリーニ
(Pier Paolo Pasolini、1922年3月5日 - 1975年11月2日)はイタリアの映画監督、詩人、小説家。1922年3月5日、イタリアのボローニャで軍人の家庭に生まれた。父はムッソリーニの命を救ったことで有名なファシストだったが母は感受性豊かな芸術家気質であり、正反対の気質から夫婦は不和だった。少年期のパゾリーニは父の軍務のため北イタリア各地を転々としたため、友達の少ない内向的な性格に育つ。

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ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ
Luca Cordero Lanza marchese di Montezemolo、1947年8月31日 - )は、イタリアの実業家。現在はイタリアの自動車メーカーフェラーリの会長を務める。ボローニャ近郊の侯爵家の娘の息子として生まれる。当時母親は未婚であり私生児である。その為もあり、その後上司となるフィアットのジャンニ・アニェッリ会長の「息子」との噂が立つこととなる。

アンニーバレ・カラッチ
(Annibale Carracci, 1560年11月3日 - 1609年7月15日)はバロック期のイタリアの画家。イタリア美術における初期バロック様式を確立した画家の一人であり、イタリア北部のボローニャを中心に活動したボローニャ派の代表的画家である。

■グリエルモ・マルコーニ
(Guglielmo Marconi、1874年4月25日ボローニャ - 1937年7月20日ローマ)は、イタリアの無線研究家、発明家である。無線電信の開発で知られている。マルコーニ無線電信会社を創立した。1909年には、無線通信の発展に貢献したとして、ブラウンとともにノーベル物理学賞を受賞した。

アドリアーノ・バンキエリ
(Adriano Banchieri, 1568年9月3日 - 1634年)はルネサンス晩期からバロック初期にかけて活躍したイタリアの作曲家。音楽理論家、オルガン奏者、詩人でもあった。バンキエリはボローニャのアカデミア・デイ・フロリーディの創設者である。

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ジリオラ・チンクェッティ
(Gigliola Cinquetti, 1947年12月20日 - )はイタリアのポピュラー音楽の歌手。イタリア・ヴェローナ出身。兄と姉がいる。チンクェッティは、1963年のカストロカーロ新人コンテストで優勝。1964年、16歳の時にサンレモ音楽祭で夢みる想い (non ho l'eta) を歌い優勝、ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964 に同じ曲で臨み、イタリアからの出場者としては初の優勝を果たしたことにより一躍有名となった。

ウィルマ・ゴイク
(Wilma Goich, 1945年10月16日 -)はイタリアのポップス歌手。クロアチア民族の血を引き、名前の正確な発音はウィルマ・ゴイッチとなる。リグーリア州サヴォーナ県カイロ・モンテノッテに生まれる。1964年にデビューし、バルセロナで行われた地中海フェスティヴァルに参加、ルイジ・テンコ作曲の「Ho capito che ti amo 愛のめざめ」で優勝した。

グラツィア・デレッダ
(Grazia Deledda, ヌオロ, サルディニア1871年9月27日 - 1936年8月15日)はイタリアの詩人、小説家。1926年にノーベル文学賞を受賞した。彼女はサルデーニャ島のヌオロで裕福な家庭に生まれた。小学校で学んだ後、家庭教師に学び、その後独学で文学を学ぶ。

ジョズエ・カルドゥッチ
Giosue Carducci, 1835年7月27日、ヴァルディカステッロ - 1907年2月17日、ボローニャ)は、イタリアの詩人、古典文学者。元老院議員。父はリソルジメントの支持者。政府の弾圧により、幼少時代はトスカーナ地方を転々とする。詩人になってからは、国家統一を妨げているとして、カトリック教会を批判した。

ダリオ・フォ
(ITA:Dario Fo、1926年3月24日 - )は、イタリアの劇作家、演出家、俳優、舞台美術家。ロンバルディア州ヴァレーゼ県サンジャーノ生まれ。1940年ミラノに移住し、ブレラ美術館のアカデミーで建築学を学ぶ。レジスタンス運動に身を投じ、サロ政権に捕虜として捕らわれながら脱出した経験もある。

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ジョルダーノ・ブルーノ
(Giordano Bruno, 1548年 − 1600年2月17日)はイタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護したことで有名。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。

ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(Giambattista Vico, 1668年6月23日−1744年1月23日)は、イタリアの哲学者。ナポリの貧しい本屋に生まれた。幼少から利発であったらしく貧しいながら初等教育の学校に通わせられている。7歳の時に階段から転落して頭蓋骨を損傷して、陽気であったのが憂鬱で辛辣な人柄に変わってしまったと『自伝』で述べている。

ジュゼッペ・ヴェルデ
Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、1813年10月10日 - 1901年1月27日)は、19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作した。カルロは農業以外にも小売や宿、郵便取り扱いなどを行い、珍しく読み書きもできる人物だった。ヴェルディも父の仕事を手伝う利発な少年だった。だが彼は早くも音楽に興味を覚え、旅回りの楽団や村の聖ミケーレ教会のパイプオルガンを熱心に聴いた。

 

 

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