ハンガリー Hungary
中央ヨーロッパの共和制国家である。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国であり、首都はブダペスト。
■ブダペスト
Budapestは、ハンガリー共和国の首都で、産業、商業、交通におけるハンガリーの中心都市。中央ヨーロッパ有数の世界都市である。人口は1980年代半ばの207万人が最高で、それから若干減少し現在は180万人である。記録の残されている限りでは、ブダペストの歴史は89年頃ローマ帝国が、もともとケルト族が定住していた現在のオーブダ地区の近くに建設した都市アクインクムに始まり、アクインクムは106年から4世紀の終わりまで、ローマ帝国のパンノニア州の州都であった。
■エトヴェシュ・ロラーンド大学
LTEは、ハンガリー共和国のブダペシュトに本部を置く大学である。1950年に物理学者のエトヴェシュ・ロラーンドにちなんで現在の名称に変更された。1635年、大司教で神学者のパーズマーニ・ペーテルにより、ナジソンバト(現在のスロヴァキア共和国トルナヴァ)に、教養学部と神学部を置いたイエズス会系の大学として創立。1667年に法学部、1769年に医学部が設置された。
■ブダペシュト・コルヴィヌス大学
Budapesti Corvinus Egyetemは、ハンガリーの首都ブダペシュトに本部を置く大学。経済学に特化した教育機関で、2000年からは他の大学の併合を進めている。グランドマーケットホールの隣に位置し、ダニューブ川を挟んでブダペシュト科学技術経済大学が拠点を構えるブダペシュト・コルヴィヌス大学の主要事務所は、Miklos Yblが設計した新ルネサンス様式の建物である。1874年に完成し、1950年と1989年〜1990年に大規模な修理が施された。
■ミシュコルツ大学
(Miskolci Egyetem (ME):1990年以前の名称は重工業工科大学)はハンガリー北部で最大の大学である。850人以上の教員と15000人の学生を擁する公立大学である。ミシュコルツ大学は1735年にシェルメツバーニャ にヨーロッパで初めて設立された鉱山学校の歴史を引き継ぐ大学である。
外務省:ハンガリー共和国
在ハンガリー日本国大使館
■ハンガリー科学アカデミー
(Magyar Tudomanyos Akademia)は、ハンガリーにおける最高の権威を持つ学会である。ブダペストのドナウ川の土手にある。1825年、セーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵が自身の1年分の不動産収入を、(当時、ハンガリー国会があった)ポジョニ(現在のブラチスラヴァ)の国会の地区セッション Learned Society に提供し、他の議員がそれにならって資金提供したのが始まりである。その任務は、ハンガリー語の科学関係の語彙を開発し、科学や工学の研究および伝播をハンガリー語で行えるようにすることだった。1845年に現在の名称となった。本部ビルはネオ・ルネサンス様式の建築物で、1865年に完成した。
■センメルヴェイス大学
Semmelweis Egyetemとは、ハンガリーブダペストにある医科大学である。センメルヴェイス・イグナーツから名前が取られている大学で、ハンガリー国内では最古の医科大学である。生徒数は11,000人を越え、60カ国以上の国家から人が来ており、外国人比率は18%とされる。
■リスト・フェレンツ音楽大学
Liszt Ferenc Zenemuveszeti Egyetemは、ハンガリーの首都ブダペストに拠点を構える音楽大学である。リスト音楽院やフランツ・リスト音楽院などと表記されることもある。略称:LFZE。1875年、作曲家リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)により創立。第1の校舎(3階建ての新ルネサンス様式建造物)はラーング・アードルフ(Lang Adolf)によって設計され、1877年から1879年にかけて、現在のアンドラーシ通り沿いに建てられた。
■リスト・フェレンツ国際空港
ハンガリー共和国の首都、ブダペストにある空港である。市の東南東16kmに位置する。フラッグ・キャリアのマレーヴ・ハンガリー航空の他、格安航空会社のウィズエアーなどがハブ空港にしている。2011年3月リスト・フェレンツ(ドイツ語:フランツ・リスト)生誕200周年を記念して、フェリヘジ国際空港からリスト・フェレンツ国際空港に名称が変更された。
■コシュート・ラヨシュ広場駅
ハンガリー共和国ブダペスト県ブダペスト市に位置するブダペスト地下鉄2号線の駅である。由来はハンガリー王国の政治家コシュート・ラヨシュにちなむ。
■ブダペスト地下鉄
ハンガリー共和国の首都ブダペストの地下鉄であり、BKV(ブダペスト交通会社)により運営されている。3本の路線があり、それぞれ路線番号およびラインカラーで区別されている。現在4号線が建設中で、2014年頃完成の予定である。また、5号線の計画も具体化されている。地下鉄1号線は、世界でロンドンに次いで3番目、ユーラシア大陸では2番目に営業を開始した地下鉄であり、電気運転の地下鉄としては世界初の地下鉄である。
■アンドラーシ通り
ハンガリーの首都ブダペストにおいてエルジェーベト広場(Erzsebet ter)と市民公園(Varosliget)をつないでいる大通りで、その歴史は1872年に遡る。通りには、美しいファサード、階段室、内装などを備えた折衷主義的なネオルネサンス様式の宮殿や邸宅が立ち並んでおり、その地下を走るブダペスト地下鉄などとともに、2002年にユネスコの世界遺産リストに登録された。
■エールド
ハンガリーのブダペスト大都市圏、ペシュト県に位置する都市。この地では5万年前の男性の骨が発見されており、古代から人が住んでいたことがうかがえる。エールド自体は1243年に初めてその名が登場し、その名は森という意味のerdoか小川という意味のerからきたとされる。
■ラーツケヴェ
(Rackeve)は、ハンガリー共和国のペシュト県の町。ブダペシュトの南、ドナウ川の中洲チェペル島(Csepel sziget)に位置する。人口7,071人(2001年国勢調査)。ラーツケヴェは、現在もハンガリー国内のセルビア系住民の精神的中心地であり続けている。 町には、1487年に建造された正教教会としては世界唯一のゴシック様式教会が現存している。教会本体と分離してそびえる鐘楼は、聖職者の住居を土台にして18世紀に建てられた。
■エゲル
(Eger)はハンガリーの都市。ヘヴェシュ県の首都。赤ワインの生産地として有名。エゲルの名はハンガリー語の単語egerfa(ハンノキの意)に由来すると考えられている。
■ソルノク
(Szolnok、は、ハンガリー、ヤース・ナジクン・ソルノク県の都市。ソルノク一帯には古代から人の定住があった。マジャル人のハンガリー征服以前、ケルト人、スラヴ人、アヴァール族が住んでいた。ハンガリー人が一帯に定住したのは10世紀である。第一次世界大戦と第二次世界大戦で町は多大な被害を受けた。1944年には激しい空襲を受け、ソビエト軍が町を解放した時にはほんのわずかな住民がいただけだった。社会主義政権時代、ソルノクは復興を果たした。工場が建設され、温泉施設が開業すると観光業に重点が置かれた。1990年11月13日、ソルノクは市に昇格した。
■ケチケメート
( Kecskemet )はハンガリーの都市。バーチ・キシュクン県の県都であり、国内第8位の都市である。コダーイ・ゾルターンの出生地である。ケチケメートは、ブダペストとセゲドの中ほどに位置し、どちらからも86キロほど離れている。国内を流れる大河、ドナウ川とティサ川の両方とも等しい距離にある。ケチケメートの町周囲に人が定住した最初の跡は、5000年ほど前に遡る。サルマタイ人が町周辺に侵攻したのは紀元前1世紀頃である。
■セーケシュフェヘールヴァール
(Szekesfehervar) は、ハンガリー共和国中西部の都市である。かつて、ハンガリーの歴代国王が戴冠・埋葬された都市として知られる。約60キロほど北東に首都ブダペスト、約250キロほど南西にクロアチアの首都ザグレブが位置しており、両都市を結ぶ鉄道の通過点に当たる。イシュトヴァーン博物館では、ハンガリーの初代国王イシュトヴァーン1世についての関連物のみならず、鎧や馬具、装飾品などが展示されている。
■セクサールド
(ハンガリー語: Szekszard)は、ハンガリーのトルナ県にある都市で、同県の県都。セクサールドは1015年に初めて文献に登場した。1061年にはベーラ1世によりベネティクト修道院が建てられた。マーチャーシュ1世在位中、セクサールドでは王に対しての陰謀に関わったヨン主教が統治していたため、マーチャーシュ1世はセクサールド城を壊滅させるよう命じた。1485年には五つの市場が一年365日開かれる大きな町になったが、オスマン帝国に支配されると衰退し、修道院も破壊された。
■カポシュヴァール
ドイツ語 Kopisch, Ruppertsberg, Ruppertsburg, はハンガリー西部の都市で、ショモジ県の首都。カポシュ川に跨る。高速M7と67番道路を使用すれば、ブダペストからの距離は約186kmである。言い伝えによれば、都市はローマと同じく「七つの丘」をもとに建設された。 この街は1009年に書かれた書物に"Kapos"という名前で登場している。1555年にはオスマン帝国によって占領され、1686年まで続いた。
■ソンバトヘイ
Szombathely、は、ハンガリー西部の都市。ヴァシュ県の県都で、オーストリア国境に近い。ソンバトヘイはハンガリー最古の都市である。コロニア・クラウディア・サヴァリエンスム(Colonia Claudia Savariensum、クラウディウスのサヴァリア植民地)として紀元45年に建てられた。
■ザラエゲルセグ
(Zalaegerszeg)は、ハンガリーの都市。ザラ県の県都。ザラ川のほとりにあり、オーストリア、スロヴァキアの国境に近い。首都ブダペスト南西約220km地点である。石器時代後期には既に人が定住しており、後のこの地域にはケルト人が住んだ。
■ヴェスプレーム
Veszprem 、は、ハンガリーの都市。バラトン湖のおよそ15km北にあり、ヴェスプレーム県の県都となっている。ヴェスプレームは大学を持っていた古いハンガリー都市の一つである。大学では学生たちが法律と芸術を学んでいた。1276年の火事で大学は焼け落ち、再びヴェスプレームに大学ができたのは20世紀になってからのことである。
■タタバーニャ
Tatabanya、は、ハンガリーの都市。コマーロム・エステルゴム県の県都。ゲレチェ山脈に近く、その豊富な地下資源から鉱業が発展した。オーストリアとハンガリーを結ぶ交通の要所であり、ウィーンとブダペシュトを結ぶ鉄道がタタバーニャを通過する。
■シャルゴータルヤーン
Salgotarjan、 はハンガリー北部のノーグラード県の都市。ブダペストから北東に120キロ、ミシュコルツから西に70キロに位置する。
■ペーチ
Pecs は、ハンガリー・バラニャ県の都市。国内第5位の人口を持つ。ペーチは、エッセン、イスタンブルと同時に、2010年度の欧州文化首都に選ばれた。毎日数本のブダペスト行き電車があるのと同様、毎日ウィーン、オシエク、サラエヴォ行きの直行電車がある。現在、ペーチとブダペストをつなぐ新たな高速道路が建設中である。開通すると、現在ブダペストまで3時間30分ほどかかる時間が短縮される。
■セゲド
Szeged、は、ハンガリー南部に位置する都市。チョングラード県の県都。セルビア・モンテネグロ、ルーマニアの国境に近い。ティサ川沿いに位置する。ティサ川は、肥沃な土をもたらすという点ではセゲドに大きな恵みをもたらし、現在でもパプリカの生産地として有名である。
■ベーケーシュチャバ
BEkEscsaba、は、ハンガリー南東部の都市。ベーケーシュ県の県都。共産主義政権下のベーケーシュチャバは、ベーケーシュ県の県都となった(1950年)。そして国内有数の食品加工産業の中心地として発展していった。1990年に民主化されると、工場は経済危機に陥り、多くの住民が職を失った。現在、経済危機は過ぎ去ったように見え、ベーケーシュチャバは再び繁栄を続けている。
■デブレツェン
Debrecen、はハンガリーの都市。ハイドゥー・ビハール県の県庁所在地。ブダペシュトに続いてハンガリー第二の都市である。交通の要所であり、中世より農作物集散の地として栄えた。現在も、穀物や牛、豚などの生産が盛んな農業地域である。近隣の都市としては、約90キロ北西にミシュコルツが位置している。
■ニーレジハーザ
Nyiregyhazaは、ハンガリー北東の都市。サボルチ・サトマール・ベレグ県の県都。国内7番目の人口を抱える。温泉湖ショーシトージョージフュルデーが数世紀に渡り観光客に人気がある。湖水は非常に温かく、およそ26℃あり、2,000平方キロメートルの公園に周囲を囲まれている。ヴァダスパークと呼ばれる大きな動物園があり、世界の五大陸から集められた動物が見られる。
■ミシュコルツ
Miskolc、は、ハンガリーの都市。ボルショド・アバウーイ・ゼムプレーン県の県都。近郊のゼンプレーン山麓で生産されるトカイワインが世界的に知られている。古代においては、ケルト人が「Cotinus」と称される集落を築いた記録が残されている。
■ドゥナウーイヴァーロシュ
フェイェール県の都市。ドナウ川の右岸にあり、首都ブダペストの南およそ67km地点である。先史時代から人の定住があった。ローマの遠征軍は、この地にIntercisaという駐屯地をつくっていた。10世紀初頭、マジャル族がパンノニアへ侵入、統一国家を形成した。
■モションマジャローヴァール
モションマジャローヴァールは、1939年にモション(ヴィーゼルブルク)とマジャローヴァール(ウンガリッシュ・アルテンブルク)が合併して誕生した。西ハンガリー大学農学・食物科学学部がある。1818年にテシェン公アルベルトが設立した農学の高等教育機関が、現在の学部に発展した。
■国名
公式の英語表記は Hungary。語源として一般に認められているのは、7世紀のテュルク系の Onogur という語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャール7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。
1.面積:約9.3万平方キロメートル(日本の約4分の1)
2.人口:約998.6万人(2010年12月現在、中央統計局)
3.首都:ブダペスト
4.民族:ハンガリー人
5.言語:ハンガリー語
6.宗教:カトリック約52%、カルヴァン派約16%
紀元前1世紀より ローマ領パンノニア州州都
紀元4世紀 フン族が侵入し、ローマ人を駆逐
896年 ハンガリー民族定住
1000年 ハンガリー王国建国
1241〜1242年 蒙古軍襲来
1526〜1699年 トルコによる占領
1699〜1918年 ハプスブルグ家統治
1867年 オーストリア・ハンガリー二重帝国
1920〜1944年 ホルティ摂政によるハンガリー王国
1920年 トリアノン条約(領土の3分の2を割譲)
1941〜1945年 第2次世界大戦(枢軸国)
1946年2月 共和国
1949年8月 人民共和国
1956年10月 ハンガリー動乱
1989年10月 共和国に体制転換
1999年3月 NATO加盟
2004年5月 EU加盟
2007年12月 シェンゲン領域加入
2011年4月 新憲法制定
■主要産業;機械工業、化学・製薬工業、農業、畜産業
■主要貿易相手国(1)輸出 ドイツ(25.2%)、イタリア(5.5%)、英国(5.4%)(2)輸入 ドイツ(25.5%)、ロシア(7.8%)、中国(7.1%)
■フォリント
(Forint, HUF)は、ハンガリーの通貨単位。1フォリントは100フィレール。1945年から1946年にかけて、旧通貨であるペンゲーがハイパーインフレーションを起こした後、1946年8月1日から採用された。
■汎ヨーロッパ・ピクニック
Paneuropai piknik、とは1989年8月19日、オーストリア共和国ブルゲンラント州に食い込むハンガリー領ショプロンで開かれた政治集会。ピクニック事件、ヨーロッパ・ピクニック計画とも呼ばれる。この政治集会には西ドイツへの亡命を求める1000人程の東ドイツ市民が参加した。この時彼らは一斉にハンガリー・オーストリア国境を越え亡命を果たした。後にベルリンの壁崩壊へと繋がる歴史的事件である。
■ハンガリー共和国憲法
Magyar Alkotmanyは、ハンガリーでかつて施行されていた憲法典である。国民議会は、ハンガリー共和国の行政構造および法秩序、国民の基本的人権と債務を定めると規定されている。憲法は国の最上位の法典であり、全ての法律より優先される。憲法の最優先は憲法裁判所によって守られている。2011年に制定されたハンガリー基本法の施行に伴い、廃止された。
■ハンガリー社会党
Magyar Szocialista Part、MSZPは、ハンガリーの社会民主主義政党。旧ハンガリー社会主義労働者党の法的後継政党。社会主義インターナショナルに加盟。1990年の体制転換以降初の国会選挙以来、1994年、2002年、2006年の3度にわたり選挙に勝利し、連立によって与党となったこともある。
■自由民主同盟
Szabad Demokratak Szovetsegeは、ハンガリーのリベラル・中道左派政党。自由主義インターナショナル加盟。略称はSZDSZ。1990年の国会選挙で第二党となり、1994年、2002年、2006年の選挙後、ハンガリー社会党との連立政権に参加している。
■フィデス=ハンガリー市民同盟
Fidesz-Magyar Polgari Szovetsegは、ハンガリーの中道右派・キリスト教民主主義・保守主義政党。略称はFidesz-MPSZ、Fidesz(フィデス)。1988年3月に大学の学生自主研究機関であるライク・ラースロー・コレギウム、ビボー・イシュトヴァーン・コレギウムを中心とする37名の大学生ら知識人が結成したが、結成直後、共産主義政権下で自由に認められていない政治団体の結成であるとして、官憲により弾圧された。
■インターネット民主党
Internetes DEmokracia partja インテルネテシ・デモクラーツィア・パールテャ 略:IDE イデ、英: party of Internet DEmocracy)は、ハンガリー共和国の政党。IDEは既存の間接民主制の直接民主主義による補完、具体的には、間接民主的に獲得した議席を直接民主的に運用し、有権者による代表達の常時直接的なコントロールを実現することを目標として掲げている。
■アンドラーシュ・シフ
Andras Schiff, Schiff Andra 鵺 1953年12月21日 - は、ハンガリー出身のピアニスト。磨かれたタッチと、知性的でありながら愉悦感あふれる表現で、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどドイツのバロック音楽及び古典派音楽を中心としながらも、シューマンやショパンなどのロマン派音楽までこなす傑出したピアニストの一人。
■セント=ジェルジ・アルベルト
(Nagyrapolti Szent-Gyorgyi Albert1893年9月16日ブダペスト - 1986年10月22日ウッズホール)は、ハンガリー出身のセーケイ人でアメリカ合衆国に移住した生理学者。ビタミンCの発見などにより、1937年度ノーベル生理学医学賞を受賞。筋肉の研究などでも知られる。初めはブダペスト医科大学で学んだが、母方の祖父とおじがブダペスト大学の解剖学教授だった関係で、叔父の研究室に入り研究を開始した。ファシストがハンガリーで権力を握ると、セント=ジェルジはユダヤ系の友人を逃がす活動を始めた。さらに第二次大戦末期には首相に依頼され、連合国との和平交渉の密命を帯びて(表向きは講義のため)イスタンブルへ赴いた。この計画はドイツに知られ、アドルフ・ヒトラーが逮捕命令を出したため、彼は終戦まで逃亡生活を送る。
■バルトーク・ベーラ
バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartok Bela Viktor Janos, 1881年3月25日 - 1945年9月26日)はハンガリー領トランシルヴァニア(正確にはバナート)のナジセントミクローシュに生まれ、ニューヨークで没したクラシック音楽の作曲家、ピアノ演奏家、民俗音楽研究家。作曲以外にも、学問分野としての民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカのアルジェリアまで足を伸ばすなどの精力的な活動を行った。母のパウラによれば、バルトークは病弱だったが、きちんと言葉をしゃべる前から母のピアノ演奏のダンスのリズムを区別し、3歳くらいから母のピアノ演奏に合わせて太鼓を叩き、4歳では自己流で40曲のピアノ曲を弾くなど音楽的素養を見せていた。そこで彼女は娘を出産した後の5歳頃から息子に正式なピアノ教育を始める。
■ポール・エルデシュ
ポール・エルデシュ、エルデーシュ・パール(Erdos Pal, Paul Erdos; (本姓: Englander), 1913年3月26日 - 1996年9月20日)はハンガリーのブダペスト出身の数学者。生涯に約1500篇もの論文(多くは共著)を発表しており、これ以上に多数の論文を発表した数学者は18世紀最高の数学者と呼ばれているレオンハルト・オイラーのみである。数論、組合せ論、グラフ理論をはじめ、集合論、確率論、級数論など幅広い分野で膨大な結果を残した。彼の伝記(邦題『放浪の天才数学者エルデシュ』)には「博物館に行っても付いていくのは彼の体だけだった」等、数学への情熱を具体的に示すような記述が多くあり、彼がいかに純粋な研究者であったかが伺われる。いつ寝ているか分からないほど数学に没頭していたらしく、一日19時間数学の問題を考えていたと言われている。
■コダーイ・ゾルターン
(Kodaly Zoltan, 1882年12月16日 - 1967年3月6日)は、ハンガリーの作曲家、民族音楽学者、教育家、言語学者、哲学者。ケチケメートに生まれ、幼少時代の多くをガラーンタとナジソンバト(現在のスロバキアのトルナヴァ)で過ごす。父親は熱心なアマチュア音楽家で、コダーイは子供の頃からヴァイオリンの学習を始める。聖歌隊で歌い、また曲を書いたこともあったが、形式的な音楽教育を受けることはほとんどなかった。1900年、コダーイは現代語を学ぶためにブダペスト大学に入学し、同時にブダペストのフランツ・リスト・アカデミーで音楽を学び始める。そこでコダーイはハンス・ケスラーに作曲について学ぶ。哲学と言語学において博士号を授かると、コダーイはパリへ行き、シャルル=マリー・ヴィドールに師事。そこでクロード・ドビュッシーの音楽に出会い、その影響を受ける。
■バビチ・ミハーイ
(Babits Mihaly、1883年11月26日−1941年8月4日)は、ハンガリーの詩人、小説家、翻訳家。1901年から1905年までブダペシュト大学にて学んだ。在学中には、コストラーニ・デジェー、ユハース・ジュラと出逢っている。1918年の革命の直後、ブダペシュト大学の教授に就任し、世界文学とハンガリー現代文学を担当。詩的業績が文学史に刻まれるのは、1908年以降の事である。この年の夏、彼はイタリアに旅行し、ダンテに興味を持った。その後も度々イタリアを訪れたが、この経験がきっかけとなり、『神曲』を翻訳する事となる。地獄篇は1913年、煉獄篇は1920年、天国篇は1923年に訳された。しかし間もなく革命政府は凋落し、反戦主義者だったバビチは左遷されてしまう。
■エトヴェシュ・ロラーンド
(Eotvos Lorand, 1848年7月27日 - 1919年4月8日)はハンガリーの物理学者である。重力質量と慣性質量の等価性を示したエトヴェシュの実験で知られる。1890年重力偏差計を発明した。移動体上で重力測定すると、みかけの重力加速度が静止時と異なる現象はエトヴェシュ効果(エトベス効果)と呼ばれる。気泡に働く浮力と表面張力の比をしめす無次元数エトベス数も、エトヴェシュの名に因んでいる。
■マルセル・ブロイヤー
(Marcel Lajos Breuer1902年5月21日−1981年7月1日)はモダニズムの建築家、家具デザイナー。モジュール構造と単一形態の重要性を提示したモダニズムの父のひとり。1920年代、ブロイヤーはバウハウスで学び、後に同校の教官(マイスター)となった。彼は芸術とテクノロジーの融合を説き、やがて木工工房を任されるまでになった。後に、彼はベルリンで開業し、住宅や商業施設のデザインをした。
■タル・ベーラ
(Tarr Bela, 1955年6月21日 - )は、ハンガリーの映画監督、脚本家。1955年、ハンガリー・ペーチで生まれる。1981年、ブダペストの映画アカデミーを卒業。2011年、監督としての最後の作品と表明している『ニーチェの馬』
■ゴルトツィーエル・イグナーツ
Goldziher Ignac(cz), Ignaz Goldziher, 1850年6月22日 - 1921年はハンガリー出身のイスラム学・東洋学者。ユダヤ系。セゲドの出身。エトヴェシュ・ヨージェフ男爵の支援のもと、エトヴェシュ・ロラーンド大学、ベルリン大学、ライプツィヒ大学、ライデン大学で学ぶ。1872年以降、エトヴェシュ・ロラーンド大学でプリヴァートドツェントとなり、イスラム学を教授、1873年から74年まで近東に滞在し、また1894年からアラビア語教授となる。
■ヴィルモス・スィグモンド
Vilmos Zsigmond, ジグモンド・ヴィルモシュ、1930年6月16日 - はハンガリーのセゲド生まれの映画キャメラマン、撮影監督。父親は著名なサッカー選手兼コーチ。10代半ばで写真、絵画について興味を持ち、その延長で映画の道へと進む。ブダペストの国立映画演劇アカデミーに入学後は、映画撮影で修士号を取得、その後、5年間の実地の後に、撮影監督の地位につくが、ハンガリー動乱に巻き込まれ、その様子を撮影したフィルムを持ってアメリカへ亡命することとなる。
■サボー・マグダ
Szabo Magda, 1917年10月5日 - 2007年11月19日は、ハンガリーの作家。ハンガリーで最も著名な女性作家と言われた。小説のほか、ドラマ、エッセイ、詩なども書いた。1917年、ハンガリー第二の都市デブレツェンで生まれた。サボーの作品は、ハンガリーで数々の賞を受賞するとともに、世界42ヶ国で出版されている。2003年、フランスの文学賞フェミナ賞で外国小説賞を受賞した。
■ゲオルク・ド・ヘヴェシー
Hevesy Gyorgy, 1885年8月1日 - 1966年7月5日はハンガリー生まれの化学者、1923年ハフニウムを発見した。1943年化学反応研究におけるトレーサーとしての同位体の応用研究でノーベル化学賞を受賞した。フライブルク大学、ストックホルムの有機化学研究所につとめた。フローゲン大学の、ディルク・コスターと共同してX線分析法を使って、ハフニウムを発見した。
■ヴァーシャーリ・タマーシュ
(Vasary Tamas, 1933年8月11日 - )はスイス国籍を持つハンガリー出身のピアニスト・指揮者。ブダペストのリスト音楽アカデミーでエルンスト・フォン・ドホナーニらに師事し、その後は母校でコダーイ・ゾルターンの助手を務める。コダーイからスタインウェイのグランドピアノを贈られた。1948年にブダペストのリスト国際コンクールに優勝するが、1956年にハンガリーを出国してスイスに落ち着き、1960年と1961年に、西欧の主要な都市でデビューを果たす。
■エステルハージ・ペーテル
(Esterhazy Peter,1950年4月14日 - )はハンガリーの小説家。ハンガリー最大の貴族、エステルハージ家の末裔にあたる。1976年にデビューし、その斬新な作風や言語感覚によってハンガリー文学の新世代を代表する作家となった。独特な言葉の扱い方や、引用やパロディを頻繁に用いるその手法などから、しばしば「ポストモダン的」と評される。
■エトヴェシュ・ペーテル
1944年1月2日 - は、ハンガリーの作曲者、指揮者。ルーマニア、トランシルヴァニア地方のオドルヘユ・セクイエスク(ハンガリー語:Szekelyudvarhely, セーケィウドヴァルヘイ)の生まれ。ブダペストとケルンで作曲を学び、1962年からハンガリーで映画音楽の作曲を始める。1968年から1976年にかけて、定期的に シュトックハウゼン・アンサンブルと演奏する。
■コチシュ・ゾルターン
(Kocsis Zoltan, 1952年5月30日 - )はハンガリーのブダペスト出身のピアニスト・指揮者・作曲家。日本では、同世代の他のハンガリーのピアニスト、ラーンキ・デジューやシフ・アンドラーシュと合わせて、「ハンガリーの三羽烏」や「ハンガリーの三天王」などと呼ばれている。
■アントン・ザイドル
Anton Seidl, 1850年5月7日 - 1898年3月28日は、ハンガリー出身の指揮者。ブダペストに生まれる。1870年10月にライプツィヒ音楽院に入学、1872年まで在籍するが、同年バイロイトでリヒャルト・ワーグナーの浄書係(コピスト)に選ばれる。同地では『ニーベルングの指環』の最初の浄書の作成を手伝う。骨の髄までワーグナーに魅了され、当然のように1876年の第1回バイロイト音楽祭に参加した。
■シャーンドル・ジェルジ
(Sandor Gyorgy, 1912年9月21日 - 2005年12月9日)は、ハンガリー・ブダペスト出身のピアニスト。彼はピアノの師であったバルトークの生涯の友人にして、バルトークのピアノ曲の演奏および解釈の第一人者でもあり、1945年のバルトークの葬儀に出席した10人のうちの1人であった。そして1946年にはバルトークが遺したピアノ協奏曲第3番の世界初演を行っている。
■ゾルト・エルデイ
Zsolt Erdei、男性、1974年5月31日 - は、ハンガリーのプロボクサー。ブダペスト出身。世界2階級制覇王者(ライトヘビー級、クルーザー級)。オリンピック出場後、プロボクシングの盛んなドイツに移住し2000年12月5日にプロデビューする。2002年10月5日には空位のWBOインターコンチネンタルライトヘビー級タイトルを獲得した。同タイトルを4度防衛した後、2004年1月17日にメキシコのフリオ・セサール・ゴンザレスを12回判定に下し、WBO世界ライトヘビー級タイトルを獲得した。現在、同タイトル防衛に9度成功してなお無敗を続けている。
■フランツ・フォン・ツァハ
(Franz Xaver Freiherr von Zach, 1754年6月8日 - 1832年9月2日)は、オーストリア(現在はハンガリー)生まれのドイツの天文学者。 行方不明になっていた小惑星ケレスを再発見した。1800年(一説に1799年)、リリエンタールの執政官で天文学者のヨハン・シュレーター (Johann Hieronymus Schroter) と共に、共同捜索チーム未知惑星捜索連盟(通称リリエンタール探偵団 、Lilienthal Detectives)を組織した。
■エルンスト・フォン・ドホナーニ
(Dohnanyi Erno1877年7月27日ポジョニュ(スロヴァキア語名ブラティスラヴァ) - 1960年2月9日ニューヨーク市)は、ハンガリー人の音楽家。指揮者・ピアニスト・音楽教師・学校管理者として多忙の合間を縫って、数々の作品を残した作曲家。音楽学校ではバルトークと同窓生に当たるが、ドホナーニ自身はブラームスの流れを汲む、19世紀ロマン主義音楽の伝統に忠実であり続けた。
■アルトゥル・ニキシュ
(Nikisch Artur, Arthur Nikisch, 1855年10月12日 - 1922年1月23日)は、現在のハンガリー出身で主にドイツで活躍した20世紀初期の大指揮者の一人。1855年、ハンガリー西部、レーベーニ近郊にハンガリー出身の父とモラヴィア出身の母のもと生まれる。ウィーン音楽アカデミーでヴァイオリンと作曲を学び、ウィーン宮廷歌劇場のヴァイオリン奏者として音楽活動をはじめる。1878年、指揮に転じ、ライプツィヒ歌劇場指揮者。
■プシュカーシュ・フェレンツ
(Puskas Ferenc1927年4月1日 - 2006年11月17日)は ハンガリー・ブダペスト出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード(インサイドレフト)。1950年前半から1954年にワールドカップ・スイス大会の決勝で敗れるまで4年間無敗を続け、「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリー代表の主将として活躍した。ハンガリーと1950年代のヨーロッパを代表する名選手である。テクニカルかつパワフルな左足シュートで、第2次大戦後の混乱期にあるヨーロッパを席捲し、「疾走少佐」と呼ばれた。またキックフェイントや足の裏を使った引き技からの技巧的なシュートも得意とした。ハンガリー代表などで共に戦ったチボル・ゾルターンからは「1度ボールをけっただけで2点を奪った」と評され、同じくグロシチ・ジュラは「単にワールドクラスではなく、夢の世界の選手だった」と語った。
■ロージャ・シャーンドル
Sandor Rozsa、1813年7月10日 - 1878年11月22日はハンガリーの盗賊、無法者である。1813年7月10日、ハンガリーで貧しい両親の元に生まれる。子供時代には両親を亡くし、この頃から金持ちの家の金品を盗み出すなど、セゲド市を中心に盗賊稼業を始める。盗んだ金品などは、貧しい農民に振り分け、「ベチャール(義賊の意)」と呼ばれる様になる。しかし、ハンガリー警察に追われる身分となり、1836年に馬泥棒の罪状により投獄される。その後、刑務所からの脱獄に成功し、1848年にヨーロッパで起こったハンガリー革命において、革命指導者コシュート・ラヨシュから恩赦を受けてコシュート軍に参加した。ハンガリー革命では「義勇軍」と名づけた軍隊を結成し、大活躍する。