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ハンガリー共和国
Republic of Hungary

ヨーロッパ

■地理
ハンガリーの国土はカルパティア山脈の麓に広がるカルパート盆地のうちの平野部をなす。ハンガリー平原またはハンガリー盆地と呼ばれる国土の中心は、中央を流れるドナウ川によってほぼ二分され、東には大きな支流のティサ川も流れている。国土の西部にはヨーロッパでも有数の大湖であるバラトン湖がある。また各地に温泉が湧き出ており、公衆浴場が古くから建設・利用されてきた。ヨーロッパ有数の「温泉大国」であり、多くの観光客が温泉目当てに押し寄せる。 トランシルヴァニア地方など、ルーマニアとの国境係争地帯を持っている。

中央ヨーロッパ
Central Europe、は、ヨーロッパの中央部に位置し、西ヨーロッパと東ヨーロッパに挟まれた歴史的・文化的世界で、人口が大きくかつ社会資本も高いレベルで充実しており、ドイツのようにすでに経済大国となっているかあるいはポーランドのように着実に経済大国化を進めている国々を含む非常に活発な地域である。中欧とも。以下の国が代表的な現代中央ヨーロッパの国々である。


カルパティア山脈
主にスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと、周辺のチェコ、ハンガリー、セルビアにまたがっており、全長約1500km。 スロバキアのブラチスラヴァ付近から北東に延び、東、南東へ向きを変えてルーマニア中部のトランシルヴァニアに達し、さらに西、北へと向きを変える。

ドナウ川
ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。現在の名ドナウ(ドイツ語)と各国語でそれに相当する名前は、ラテン語の Danubiusダーヌビウス に由来する。これはローマ神話のある河神の名である。地理学上のドナウの源泉は本流であるブレク川の源泉であり、これはフルトヴァンゲンという町の郊外にある。この「ブレクの泉」にはドナウ川の真の源泉である旨の説明版がある。ブレクの泉より100mほどの場所にあるエルツ川の源泉はライン川に合流する。ライン川は北海に注ぎ、ドナウ川は黒海に注ぐので、この2つの泉の水が出会うことはない。

バラトン湖
Balaton, とはハンガリー西部にある湖。中央ヨーロッパ最大の湖。ハンガリーの首都ブダペストからは南西に130kmほどの位置にある。ハンガリー人はこの湖をハンガリーの海と呼ぶ。沿岸都市は湖水浴を楽しむ観光地として賑わっている。

ティサ川
ハンガリー語:Tiszaはバルカン半島を流れるドナウ川の支流の一つ。全長997km。流域面積は約15万7千平方km。ウクライナ西部のカルパチア山脈に発し、フツーリシュチナからハンガリー・ハンガリー大平原を南へ流れ、セルビアに入りベオグラードの北方約45kmでドナウ川に合流する。流量の季節変化が顕著で、雪解け水などの影響によりしばしば洪水が起きる。1970年代にはハンガリーに洪水調整用の人造湖であるティサ湖が造られるなど、整備がすすめられ、灌漑利用などが進んでいる。

ザラ川
ハンガリー西部のヴァシュ県ウールシェーグに源を発し、バラトン湖へと注ぐ、全長126kmの河川。上流では東の方向に流れ、ザラエゲルセグで東北方向に、トュルイェで南へと流れを変えてバラトン湖に流下する。更新世までこの川は小ハンガリー平原に向かって北に流れていたが、更新世の終わりごろ現在のバラトン湖周辺が窪地になったことから流れる方向が変わったことが明らかになっている。


プスタ
(Puszta)は、ドナウ川の中流域に広がる平原で、その大部分をハンガリーが領有し、スロヴァキア、セルビア(ヴォイヴォディナ)、スロヴェニア、オーストリアの一部にも広がる。ハンガリー随一の穀倉地帯で、小麦やヒマワリなどが栽培されている。


トランシルヴァニア
(Transylvania)は、ルーマニア中部・北西部の歴史的地名。東にはカルパティア山脈、南にはトランシルヴァニアアルプス山脈(南カルパティア山脈)が横たわる。北はウクライナ、西はハンガリー、南西はセルビアに接している。


トカイワイン
Tokajiは、ハンガリーのトカイ(Tokaj)と周辺の地方からなるトカイ・ワイン地区(ハンガリー語:Tokaj-Hegyalja Borvidek)で作られるワインである。フランスのソーテルヌ・ワイン、ドイツのトロッケンベーレンアウスレーゼと並ぶ世界三大貴腐ワインのひとつに数えられる。フランスのルイ14世に「王者のワインにしてワインの王者」(Vinum Regum, Rex Vinorum)と絶賛した逸話は有名である。フランツ・シューベルトが1815年に作曲した「トカイ賛歌("Lob des Tokayers", D. 248)」という歌曲作品がある。


■温泉文化
ハンガリーでは温泉が湧き出し、温泉文化が古くから伝わっている。ブダペストにおける温泉文化は2000年近くある。ブダペストのオーブダ地区にある、古代ローマ時代のアクインクム遺跡に、ハンガリー最初の温泉浴場が建設された。当時の浴場跡を今日でも見ることができる。オスマン帝国に支配されていたときに、ドナウ川河畔に発達した。


ケルト人
Celt, Kelt)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年〜紀元前500年)を発展させた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年〜紀元前200年)に発展する。

マジャル人
ハンガリー語: Magyarokとは、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族。固有の言語はウラル語族のハンガリー語である。人種的にはモンゴロイドとコーカソイドが複雑に混じっているが、歴史的には後者の混交が多く進んだため、現在では外見的にモンゴロイドの痕跡は皆無といってよいほど認め難い。マジャル人の総人口は約1450万人で、そのうちハンガリーには約950万人(2001年)[19]のマジャル人が居住している。


パンノニア
(Pannonia)は古代に存在した地方名。ローマ帝国の時代には皇帝属州であった。北と東はドナウ川に接し、西はノリクムと上イタリア、南はダルマティアと上モエシアに接した。パンノニアの領域は現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがる。

オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には現在のトルコの都市イスタンブルを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。


アウスグライヒ
(「和協」「妥協」、Osterreichisch-Ungarischer Ausgleich, ハンガリー語: Kiegyezes)とは、オーストリア帝国の外交政策、1867年頃の政治的戦略名。結果、オーストリア=ハンガリー帝国の誕生につながる。1867年、時のオーストリア帝国は、イタリア統一戦争・普墺戦争等の戦争に敗北し、外交においてはロシア帝国との関係を悪化させ、その世界的地位を低下させてきた。そのような中、多民族国家であるオーストリア帝国内の諸民族は活発に自治・権利を獲得するための運動をしていた。連邦的改変を求める声が諸民族からあがったが、権利を失いたくない支配者階級のドイツ人の抵抗と国色の変化を恐れた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の反対もあり、マジャル人(ハンガリー人)と協力して帝国内の諸民族を抑えることとした。このドイツ人とハンガリー人との妥協をアウスグライヒという。


ブダペスト子供鉄道
ブダペスト子供鉄道は、ハンガリーの首都であるブダペストの第2区と第11区にまたがり存在する狭軌鉄道である。路線はセーチェーニ山(セーチェーニヘジュ)駅とヒューヴェシュ谷(ヒューヴェシュヴェルジュ)駅とを結ぶ11.2kmの単線非電化である。列車の平均速度は20km/hほどである。子供鉄道との名は、ピオネール活動に由来し、正式名称は「ハンガリー国有鉄道非公開株式会社セーチェーニ山子ども鉄道」である。


スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。古代にはゲルマン人に次ぐ民族大移動の一部を成してポリーシャからヨーロッパ全域に拡張した。スラヴ全体に関する様々な学問をスラヴ学という。英語で「スレイヴ」(奴隷)という誤解を含んだ不名誉なレッテルで語られることも多いが、しかしその語源となったスラヴ語本来の「スラヴ・スロボ」の意味は、『言語』、『言葉』を意味するもの(スラヴ語: スローヴォ)である。

クマン人
クマン人は、東欧・中央亜の草原地帯で活動したテュルク系遊牧民族である。元来はキプチャク草原と呼ばれる現在のカザフスタンから東ヨーロッパまでの平原地帯に広がって遊牧生活を行ったキプチャクのうちの西部、黒海北岸からベッサラビア(現モルドバ)の方面に遊牧していたテュルク系遊牧民たちのことであった。これらの人々は、クマン(ポロヴェツ)は11世紀頃に黒海北岸にあらわれ、ルーシやモルダヴィア、ワラキア、トランシルヴァニアにたびたび侵入して略奪を行った。

セルビア人
主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。7世紀ごろバルカン半島中西部に定住し東ローマ帝国の影響下で正教会を受容した。12世紀後半にセルビア王国を打ち建ててセルビア人は東ローマ帝国から自立し、新たにセルビア正教会を樹立して宗教上も独立を勝ち取った。

スキタイ
紀元前8世紀〜紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その土地をスキュティア、スキティアと呼ぶ。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称で「スキュティア地方の人々」の意味であるが、国家的な意味では後に述べる王族スキタイを指した。


アヴァール
(Avars)は、 5〜9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれる。フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアヴァールである。フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていない。しかし、アヴァールは東ローマ帝国およびフランク王国と接触し、スラヴ諸民族の形成に大きな影響を与えた。

モハーチの戦い
Mohacsi csata,は、1526年8月29日にハンガリーのモハーチ平原で、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦。オスマン帝国軍が勝利し、ハンガリー平原へと進出する。この戦いでハンガリーはハプスブルク家が統治することになる王領ハンガリー(ハンガリー王国)とトランシルヴァニア公国(東ハンガリー王国)、オスマン帝国領ハンガリーに三分割され、ハンガリー中央部のオスマン支配が150年間続いた。


ハプスブルク家
Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。


ハンガリー・ルーマニア戦争
第一次世界大戦終戦後の1918年から1919年までハンガリーとルーマニアとの間で行われた戦争である。1918年12月1日にトランシルヴァニアがルーマニアとの合併を宣言したことが、この戦争の原因となった。1919年4月に共産主義者がハンガリーで権力を掌握し、軍部はこの機会に戦争を開始してトランシルヴァニアを奪還しようと企てた。


■国民
ハンガリー共和国の国民の95%以上はマジャル人(ハンガリー人)である。マジャル人はフィン・ウゴル語族のハンガリー語(マジャル語)を母語とし、ウラル山脈の方面から移ってきた民族である。その他の民族では、ルテニア人(ウクライナ人)、チェコ人、クロアチア人、ルーマニア人などもいるが、いずれもごく少数である。第二次世界大戦以前には、ユダヤ人人口もかなりの数にのぼったが、第二次世界大戦中の迫害などによってアメリカ合衆国やイスラエルに移住していった人が多い。


<世界遺産>
ホローケー
ホッローケーという村の名前はハンガリー語の「カラス」と「石」を組み合わせたものである。伝説によれば有力者がこの城を建てて、隣国の美女をさらってそこに幽閉した。その乳母が悪魔に女性の救助を依頼すると、悪魔はカラスたちを使い、城の石を持ち去って助け出したといい、ここから城と村が「ホッローケー」と呼ばれるようになったのだという。

パンノンハルマのベネディクト会修道院とその自然環境
この大修道院は町に隣接する小高い丘(282m)の上にあり、トゥールの聖マルティヌスはこの丘の麓で生まれたと信じられている。

■ホルトバージ国立公園

ブダペスト、ドナウ河岸とブダ城地区
ハンガリーの首都ブダペストはその美しさに定評があり、「ドナウの真珠」、「ドナウのバラ」、「ドナウの女王」、「東欧のパリ」など、それを称える異名をいくつも持っている。この世界遺産はその街並みが登録されたもので、登録名が示すようにドナウ川両岸の歴史地区、そして大陸ヨーロッパ初の地下鉄が通るアンドラーシ通りが対象となっている。

■ペーチ市にある初期キリスト教霊園

■アグテレック・カルストとスロバキア・カルストの洞窟群


■鉱業
ハンガリーの鉱業は、燃料に利用できる亜炭とボーキサイトが中核となっている。有機鉱物資源では、世界シェアの1.5%を占める亜炭(1391万トン、2002年)、原油(107万トン)、天然ガス(115千兆ジュール)を採掘する。


ハンガリー料理
ハンガリー国内および主要な民族であるマジャル人独自の料理である。伝統的なハンガリー料理は主に、肉、調味した野菜、果物、焼きたてのパン、チーズ、および蜂蜜を用いる。ハンガリー料理は、数世紀の歴史を持つ調味法や調理法に基づいている。

パラチンタ
palacsinta 、とは、ルーマニア、ハンガリー、オーストリア、ブルガリア、チェコで食べられる料理で、薄く焼いたクレープ状のパンケーキでジャムなどを包んだもの。


■音楽
ハンガリーは多様な民族性に支えられた豊かな文化を持ち、特にハンガリー人の地域ごとの各民族集団(ロマなど)を担い手とする民族音楽は有名である。また、リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)、フランツ・レハール、コダーイ・ゾルターン、バルトーク・ベーラなど多数の著名なクラシック音楽の作曲家も輩出した。多様な民族音楽にインスピレーションを受けて作曲した音楽家も多い。また指揮者のゲオルグ・ショルティやピアニストのアンドラーシュ・シフもハンガリー出身である。


■科学
ハンガリーは歴史的に多数の科学者を輩出している。ナチスの迫害から逃れるため、米国に亡命した科学者はコンピュータの開発で活躍した。ハンガリーは優れた数学教育で有名であるが、未だフィールズ賞受賞者はいない。有名な数学者にはエルデーシュ・パールやフランクル・ペーテルらがいる。


ルービックキューブ
(Rubik's Cube)ルービックキューブは、ハンガリーの建築学者で、ブダペスト工科大学教授だったエルノー・ルービックが1974年に考案した。彼は3次元幾何学を説明するための「動くモデル」を求め、ドナウ川の流動を見て発明のヒントを得たという。最初のキューブの原型は、木製の立方体であった(同サイトの“Rubik's history”で見られる)。ルービックは「マジック・キューブ」(魔法の立方体)という名前で特許を取得し、1977年にハンガリーの玩具製造会社「ポリテクニカ」から最初のキューブが発売される。


ゲオルク・ショルティ
(Sir Georg Solti, KBE 、1912年10月21日 - 1997年9月5日)は、ハンガリー出身で、ドイツ、のちイギリスの国籍で活躍した指揮者、ピアニストである。ゲオルグ・ショルティとも書かれる。6歳でピアノを習い始める。その後1924年に、リスト音楽院でヴェイネル、バルトーク、コダーイ、ドホナーニらに指導を受け、ピアノ、作曲、指揮なども学んでいる。13歳の時、コンサートで聞いたエーリヒ・クライバー指揮のベートーヴェン・交響曲第5番の演奏に感動して指揮者を目指すこととなる。1930年 - リスト音楽院を卒業するとブダペストの国立歌劇場でコレペティトール(歌手の練習のためのピアニスト)に採用され、チェレスタやハープシコードなどの楽器の演奏も手がけるなど努力の日々を送りながらオペラを学ぶ。

センメルヴェイス・イグナーツ
(Ignaz Philipp Semmelweis) はハンガリー人の医師である。1818年7月1日 、ハンガリー王国ブダ市タバーン町に生まれ、1865年8月13日、オーストリア帝国ヴィーン市デープリング町にて死去。オーストリアのウィーン総合病院産科に勤務。今日で言う接触感染の可能性に気づき、産褥熱の予防法として医師のカルキを使用した手洗いを提唱した。消毒法及び院内感染予防のさきがけとされ、「院内感染予防の父」と呼ばれる。ただ存命中は不遇な人生のまま生涯を終えている。

テーオドール・ヘルツル
ドイツ語: Theodor Herzl、1860年5月2日 - 1904年7月3日は、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした一人。ヘルツルは、1860年ハンガリー(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)のブダペストで生まれた。18歳の時にウィーンに移り、法律・ジャーナリズム・文学を学んだユダヤ人作家である。当初はコスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけて、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人であったが、新聞記者としてフランスのドレフュス事件(1894年)の取材にあたったとき、いまだ根強いユダヤ人に対する偏見に遭遇してショックを受け、またモーゼス・ヘスの影響も受け、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした。

ルカーチ・ジェルジ
Georg Bernhard Lukacs von Szegedin 、1885年4月13日 - 1971年6月4日はハンガリー・ブダペスト出身の哲学者、マルクス主義者。クン・ベーラ政権で文部大臣、国防大臣を務めた政治家。 ブダペスト大学、ハイデルベルク大学で、ゲオルク・ジンメル、マックス・ウェーバーに学び、『魂と形式』を著す。

マイケル・カーティス
(Michael Curtiz, 1888年12月24日 - 1962年4月11日)は、ハンガリー、ブダペスト出身の映画監督。ハンガリー名はケルテース・ミハーイ(Kertesz Mihaly)(ハンガリーはヨーロッパ圏では珍しく、名字が先で名前が後に来る。1888年12月24日にハンガリーのブダペストに生まれる。マルコシー大学と王立芸術アカデミーで演劇を学び、1906年に舞台俳優としてデビューする。1912年に『Ma es Holnap』で映画デビューし、第一次世界大戦では記録映画班に勤めた。当時は左翼思想の持ち主で、1918年にはハンガリーで左翼陣営のプロパガンダ映画である、最初の長編映画を発表している。1919年、ハンガリーにおける共産主義革命が失敗したため、ドイツに亡命。1927年にワーナー・ブラザーズのジャック・ワーナーから請われてハリウッド入り。1930年代は『海賊ブラッド』、『ロビンフッドの冒険』などのエロール・フリン主演の映画で好評を博した。

フリッツ・ライナー
(Fritz Reiner, 1888年12月19日 - 1963年11月15日)は、ハンガリー出身(ユダヤ系)の指揮者。シカゴ交響楽団音楽監督。ブダペスト生まれ。法律学を修めた後、リスト音楽院に学び、バルトーク、コダーイ等に師事。学生オーケストラではティンパニを担当する。1909年、音楽院を卒業。ブダペストのコミック・オペラに入団し、ティンパニ奏者と声楽コーチを兼ねる。1910年にライバッハ歌劇場に移り、ビゼーのオペラ『カルメン』で指揮者デビュー。1911年〜1914年にブダペスト・フォルクスオパーで活躍。

ケルテース・イムレ
(Kertesz Imre, 1929年11月9日 - )は、ハンガリー・ブダペシュト生まれの作家。ユダヤ系。第二次世界大戦中、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所などで生活を送り、帰還後は高校を卒業して新聞社、工場労働者などを経て、1953年からはフリーランスの作家・翻訳家となる。最初の小説作品でホロコーストの体験をもとに描き出した自伝的小説『運命ではなく』では、ドイツ、フランス、アメリカを中心に高い評価を受ける。

イシュトヴァン・ケルテス
(Istvan Kertesz, 1929年8月28日 - 1973年4月16日)は、ハンガリー生まれの指揮者である。ハンガリーのブダペストで生まれ、同地のフェレンツ・リスト音楽院でゾルタン・コダーイ他に学んだ。1955年からブダペスト国立歌劇場の指揮者となる。1956年ハンガリー動乱の時に西側にジョルジュ・シフラと共に亡命した。その後アウクスブルク国立歌劇場、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などを指揮し、1965年から1968年までロンドン交響楽団の首席指揮者を務めた。日本にも客演したことがあり、日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した1968年の演奏記録が残っている。将来が期待された中堅指揮者であったが、1973年夏、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団に客演した折、イスラエルのテル・アビブの海岸で遊泳中に高波にさらわれ溺死した。43歳没。

ルビク・エルネー
(Rubik Erno, 1944年7月13日 - )は、ハンガリーの発明家、彫刻家、建築家。エルノー・ルービックとも呼ばれる。彼の名を冠したルービック・キューブを初めとする機械式パズルの発明で世界的に知られている。ルビクは、戦時下のハンガリーのブダペストで、航空エンジニアの父と詩人の母の間に生まれた。1967年にブダペスト工科大学(Muszaki Egyetem)を卒業し、建築学の学位を得た。その後、院生として彫刻と屋内建築について研究している。国際ルービック財団を設立し、特に才能のある若手のエンジニアや工業デザイナーを支援に乗り出している。現在は主にビデオゲームの開発と建築学の課題に取り組んでいるという。その傍ら、ルービック・スタジオの経営やルービック360など新しいパズルの作成も平行して続けている。

ロバート・キャパ
(Robert Capa、1913年10月22日 - 1954年5月25日)はハンガリー生まれのアメリカの写真家。1913年10月22日、父デジェー・フリードマンと母ユリアンナ・ヘンリエッタ・ベルコヴィッチの次男として、ハンガリーのブダペストに生まれる。両親は洋服店を営んでいた。1919年福音派の学校に入学、1923年マダーチ・イムレ・ギムナジウムに入学。1931年に共産党活動容疑で逮捕される。釈放後はドイツのベルリンで写真通信社「デフォト」の暗室係となる。1954年4月に写真雑誌「カメラ毎日」の創刊記念に日本に呼ばれる。東京で「ライフ」誌から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け北ベトナムに渡る。5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビンにあるドアイタンという陣地に向かう。午後2時30分ころドアイタンに到着。午後2時55分にドアイタンから1キロの地点にある小川の堤防で地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。その際カメラを手にしたまま死んでいたという。

フランツ・リスト
ハンガリー語:Liszt Ferenc, 1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリーに生まれ、ドイツやオーストリアなどヨーロッパ各国で活躍したピアニスト・作曲家。リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。演奏技術と初見に関しては、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、彼の死後100年以上経っている現在においても、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われている。そんな彼でも、ショパンの「12の練習曲 作品10」だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。また高い演奏技術で万人受けしたリストの演奏に、はじめはショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。

ピーター・フランクル
Peter Frankl 1953年3月26日 - は、ハンガリー出身の数学者・大道芸人。ユダヤ系ハンガリー人である。現在、算数オリンピック委員会専務理事、国際数学オリンピック・日本チームコーチ、東京大学非常勤講師、フランス国立科学研究センター教授。日本ジャグリング協会名誉理事。元早稲田大学理工学部客員教授。NHK教育番組によく出演している。両親はナチスの強制収容所体験者で、医師であった父・ヨージェフ(Frankl Jozsef、1908年 - 1994年)はホロコースト体験後に無神論者となり、母・ジュジャンナ(Frankl Zsuzsanna、1927年 - )も同化ユダヤ人(ハンガリー人)の意識が強いが、ピーター自身はユダヤ人意識が非常に強い。父親がユダヤ人として迫害を受け、全財産を没収されるなどの経験をしたため、彼の父親はピーターに「人間の財産は頭と心の中にあるものだけ」と常に語り聞かせた。この様な価値観から、学力が低いことを恥と感じていない、いわゆる「おバカタレント」がもてはやされている昨今のテレビ業界の現状に関しては、否定的な見解を示している。

アーデル・ヤーノシュ
Ader Janos、1959年5月9日 - は、ハンガリーの政治家。2012年5月10日より、同国の大統領を務める。ジェール・モション・ショプロン県のチョルナという小さな町で育つ。1978年から5年間、ブダペストのエトヴェシュ・ロラーンド大学法学部で法律を学ぶ。1986年から1990年まで、ハンガリー科学アカデミー社会学研究所研究員。

オルバーン・ヴィクトル
Orban Viktor、1963年5月31日 - は、ハンガリーの政治家。1998年から2002年まで首相を務め、2010年5月から再度首相を務めている。セーケシュフェヘールヴァールに生まれ、エトヴェシュ・ロラーンド大学を卒業。社会主義体制末期の1988年、反政府組織「フィデス」の設立に参画し、抗議運動を始める。共産党政権崩壊後、1990年の総選挙でフィデス=ハンガリー市民同盟から立候補し、当選した。

コシュート・ラヨシュ
(Kossuth Lajos1802年9月19日 - 1894年3月20日)は、19世紀ハンガリー王国の政治家、革命家。1802年、ゼンプレーン地方の小さな町モノクで、小さな所領を持ち、弁護士を職業とする下流貴族の長子として生まれた。コシュート家の祖先は13世紀から現在はスロバキアに属するトゥローツ地方に住んでいた。ブダペシュト大学で法律を学んだのち、父の跡を継いで故郷で弁護士となり、1825年にはペシュト(現在のブダペシュトの一部)議会の議員となった。

ヨージェフ・アシュボード
Asboth Jozsef, 1917年9月18日 - 1986年9月22日)は、ハンガリー・ソンバトヘイ出身の男子テニス選手。1947年の全仏選手権男子シングルス優勝者で、当地のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった人である。彼は第2次世界大戦をはさむ時期に、1938年から1957年まで男子テニス国別対抗戦・デビスカップのハンガリー代表選手として活動した。キャリアを通じて、全仏選手権をはじめとする赤土のクレーコートを最も得意にした選手である。

ショーヨム・ラースロー
Solyom Laszlo、1942年1月3日 - は、ハンガリー共和国の政治家。2005年8月5日から2010年8月5日まで、同国の第3代大統領を務めた。ペーチ出身。2002年まで大学教授であった。政治活動は1980年代から始め、1987年にはハンガリー民主フォーラムの設立者の一人となった。現在無所属。

バラージュ・ベーラ
(Balazs Bela, 1884年8月4日 − 1949年5月17日)は、ハンガリーの映画理論家、美学者、作家、詩人。1912年、アビトゥーアに合格。パイプ清掃のアルバイトをしながら、大学でマジャル語とドイツ語を専攻。映画に関する最初の著作集Der Sichtbare Mensch(『視覚的人間』; 1924年)は、ドイツで「言語としての映画」理論が成立する契機となった。エイゼンシュテインやプドフキンもまた、この著作に影響を受けた。

ラースロー・ヴィドツキー
(Laszlo Vidovszky, 1944年2月25日 - )はハンガリーの作曲家、ピアニスト。1983年にエルケル賞、1992年にバルトーク・パーストリ賞を受賞。1996年にはハンガリー共和国の名誉ある美術家(Merited Artist of the Hungarian Republic)に指名された。

ラカトシュ・イムレ
(Lakatos Imre、1922年11月9日 - 1974年2月2日)は、ハンガリーの数学哲学者、科学哲学者。数学の可謬性と、数学の発展の前公理的段階における「証明と論駁の方法論」についての論文で知られる。彼の科学の研究計画における概念である「リサーチプログラム」の概念を紹介したことでも有名。

フランツ・レハール
Franz Lehar, 1870年4月30日 - 1948年10月24日はオーストリア=ハンガリー帝国に生まれ、オーストリア、ドイツを中心にオペレッタの作曲により活躍した作曲家。プラハ音楽院でドヴォルザークらに学び、軍楽隊長を経てウィーンでオペレッタ作曲家としてデビュー。「銀の時代」とよばれたオペレッタの第二黄金期を代表する作曲家となる。

ガーボル・デーネシュ
(Gabor Denes、1900年 6月5日 - 1979年 2月9日)はオーストリア=ハンガリー帝国ブダペスト生まれの電気工学者・物理学者。有名な業績としてホログラフィーの発明があるこのホログラフィーはインライン型ホログラフィーと呼ばれる像を鮮明に観察できない形式のものであった。これは当時レーザーがなかったため、コヒーレント長の短い光源を利用せざるを得なかったからである。そのため1960年にレーザーが発明されるまでこの発明が注目を集めることはなかった。しかし、レーザーの発明によって脚光を浴び、1971年にノーベル物理学賞を受賞することになった。未来を予測する最も良い方法は、未来を創り出すことである。

バロネス・オルツィ
(Baroness Orczy、1865年9月23日 - 1947年11月12日)、は、ハンガリー出身のイギリスで活躍した作家・推理作家。歴史ロマンス作品『紅はこべ』シリーズや安楽椅子探偵の先駆けである『隅の老人』シリーズで人気を博した。1865年、ハンガリーの由緒ある男爵家に生まれる。父フェリクス・オルツィはアマチュア作曲家・指揮者であり、フランツ・リストら当時の高名な音楽家たちと親交が深かった。2歳のとき、小作人の反乱が起こり、一家はブダペストに移った。

カリンティ・フェレンツ
(Karinthy Ferenc、1921年6月2日 - 1992年2月29日)は、ハンガリーの小説家、脚本家、ジャーナリスト、編集者、翻訳家である。また水球選手でもある。彼は1ダース以上の長編小説を書いた。作家、ジャーナリストのカリンティ・フリジェシュは彼の父。作品に、どことも知れぬ都市に迷い込んだ言語学者の体験を描く不条理小説『エペペ』(1970年)、逆にリアリスティックな作風の『ブダペストに春がきた』(1953年)などがある。

ガボール・ザボ
(Gabor Szabo、1936年3月8日 - 1982年2月26日)は、ハンガリーのジャズミュージシャン、ギタリスト。アメリカに渡り音楽活動を行う。ブダペスト生まれ。14歳でギターを始める。20歳の時にハンガリー動乱が起こり、アメリカに渡る。1958年から1960年にかけてバークリー音楽院で学び、その後チコ・ハミルトン楽団で活動。

アッティラ・シハー
(Attila Csihar、1971年3月29日 - )は、ハンガリー・ブダペスト出身のヘヴィメタルミュージシャン。主にブラックメタルの分野で活動している。特にメイヘムのボーカリストとして著名。Void ov Voicesというソロプロジェクトも知られている。1985年に、ハンガリーのブラックメタルバンド、トーメンターでボーカリスト兼ギタリストとして活動を始める。アルバムと同程度の曲数を収録したデモテープ『Anno Domini』[注釈 1][2]をリリースするも、その後、トーメンターは1991年に解散。トーメンターの活動で、ノルウェーのメイヘムとの関わりが生まれ、デッドの自殺によって空席となっていたメイヘムにセッションボーカリストとして招かれた。

ゾルターン・サボー
(Zoltan Szabo、1965年 - )はハンガリー出身の数学者。プリンストン大学教授。ピーター・オジュバット (Peter Ozsvá#h) とともにヘガード分解を用いたフレアーホモロジー論を展開した。同理論から定義された不変量をオジュバット=サボー不変量と呼ぶ。トポロジーだけではなく、ゲージ理論や、レンズ空間に多くの成果をあげた。

タマス・ダルニュイ
(Tamas Darnyi、1967年6月3日 - )はハンガリー、ブダペスト出身の男子競泳選手である。 個人メドレーを専門とし、ソウルオリンピック、バルセロナオリンピックにおいて200m及び400mの2種目で2連覇の偉業を達成した。また、その間に両種目の世界記録を数度にわたり更新した。

クリストフ・フォン・ドホナーニ
(Christoph von Dohnanyi, Dohnanyi Kristof, 1929年9月8日 - )は、ドイツ出身の指揮者、作曲家。ベルリン生まれ。父はウィーン生まれのドイツの法律家ハンス・フォン・ドホナーニである。しかし、反ナチスとユダヤ人支援のレジスタンス活動をしたため、1945年にナチスの強制収容所で処刑された。母はクリスティーネ・ボンヘッファー。母方の叔父はルター派の神学者で、やはり反ナチスのレジスタンス活動家であり、ヒトラー暗殺計画に関わって1945年に強制収容所で処刑されたディートリッヒ・ボンヘッファー。兄は後にハンブルク市長をつとめたクラウス・フォン・ドホナーニ。祖父はハンガリーの作曲家でありピアニストのエルンスト・フォン・ドホナーニ(1877年 - 1960年)。2番目の妻はソプラノ歌手のアニヤ・シリヤ(Anja Silja)。オペラと演奏会の両方で評価が高く、ドイツ系の現役指揮者として重鎮的存在である。

ハンス・フォン・ドホナーニ
Hans von Dohnanyi、1902年1月1日−1945年4月8日または9日)は、ドイツの法律家。反ナチス抵抗運動に参加し、処刑された。ハンガリーの作曲家ドホナーニ・エルネーと、その妻でピアニストだったエリザベート・クンヴァルトの息子としてウィーンに生まれる。両親の離婚後はベルリンで育つ。ギムナジウム時代の学友に、のちに神学者として反ナチ抵抗運動に加わるディートリッヒ・ボンヘッファーとその兄クラウスがいた。1943年3月にはヘニング・フォン・トレスコウによるヒトラー暗殺計画に参加し、暗殺成功後のクーデターを準備したが、失敗に終わった。

ペテーフィ・シャーンドル
(Petofi Sandor1823年1月1日−おそらく1849年7月31日)はハンガリーの詩人、および1848年のハンガリー革命における重要な人物。ハンガリー語を母語とする父ペトロヴィチ・イシュトヴァーンと、スロバキア語を母語とする母マーリア・フルーゾヴァー(Hruz Maria)の間に生まれる。しかしながら、シャーンドルは自身をハンガリー人として認識し、革命の急進的グループ(彼らはハプスブルクの支配からの完全な独立を求め、また自由なハンガリーの設立を目標としていた)の精神的指導者となり、また数々のハンガリーの最も偉大な、国家のための詩を書いた。

ミクローシュ・ペレーニ
(Miklos Perenyi, 1948年 - )は、ハンガリーのチェロ奏者。ブダペスト生まれ。5歳でチェロを始め、7歳でフランツ・リスト音楽院に入学、9歳で演奏会を開く。1960年からローマに留学し、エンリコ・マイナルディに師事(1964年まで)。1963年にブダペストで開催されたカザルス国際チェロコンクールに入賞したことでパブロ・カザルスに認められ、1965年、翌1966年にカザルスのマスタークラスに招待され、マールボロ音楽祭にも参加する。

ロヴァース・イレーン
(Lovasz Iren)はハンガリーの女性民謡歌手・民族誌学者(博士)。ロヴァース・イレーヌとも。ロヴァースは言語学と文学を学び、1987年から1995年までハンガリーの民族誌学博物館で民族音楽学者として働きながら民族学の講義を聴講した。1980年代からダンスハウスでの演奏を始め、ハンガリー、ウェールズ、フィンランドの民族音楽の競技会で優勝した。マカーム (Makam) の参加したアルバムがある。

レヒネル・エデン
(Lechner Odon、1845年8月27日−1914年6月10日)は、ハンガリーの建築家。ハンガリーの分離派建築の中心的人物。ブダペストにアール・ヌーヴォーの世紀末建築を多く残し、スペインのガウディと並び称されることもある。ハンガリーの民族的様式や、インド的様式を取り入れ、セラミックスを多用したことが特徴としてあげられる。

ハンガリー Hungary
中央ヨーロッパの共和制国家である。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国であり、首都はブダペスト。

ブダペスト
Budapestは、ハンガリー共和国の首都で、産業、商業、交通におけるハンガリーの中心都市。中央ヨーロッパ有数の世界都市である。人口は1980年代半ばの207万人が最高で、それから若干減少し現在は180万人である。記録の残されている限りでは、ブダペストの歴史は89年頃ローマ帝国が、もともとケルト族が定住していた現在のオーブダ地区の近くに建設した都市アクインクムに始まり、アクインクムは106年から4世紀の終わりまで、ローマ帝国のパンノニア州の州都であった。


エトヴェシュ・ロラーンド大学
LTEは、ハンガリー共和国のブダペシュトに本部を置く大学である。1950年に物理学者のエトヴェシュ・ロラーンドにちなんで現在の名称に変更された。1635年、大司教で神学者のパーズマーニ・ペーテルにより、ナジソンバト(現在のスロヴァキア共和国トルナヴァ)に、教養学部と神学部を置いたイエズス会系の大学として創立。1667年に法学部、1769年に医学部が設置された。

ブダペシュト・コルヴィヌス大学
Budapesti Corvinus Egyetemは、ハンガリーの首都ブダペシュトに本部を置く大学。経済学に特化した教育機関で、2000年からは他の大学の併合を進めている。グランドマーケットホールの隣に位置し、ダニューブ川を挟んでブダペシュト科学技術経済大学が拠点を構えるブダペシュト・コルヴィヌス大学の主要事務所は、Miklos Yblが設計した新ルネサンス様式の建物である。1874年に完成し、1950年と1989年〜1990年に大規模な修理が施された。

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ミシュコルツ大学
(Miskolci Egyetem (ME):1990年以前の名称は重工業工科大学)はハンガリー北部で最大の大学である。850人以上の教員と15000人の学生を擁する公立大学である。ミシュコルツ大学は1735年にシェルメツバーニャ にヨーロッパで初めて設立された鉱山学校の歴史を引き継ぐ大学である。


外務省:ハンガリー共和国
在ハンガリー日本国大使館


ハンガリー科学アカデミー
(Magyar Tudomanyos Akademia)は、ハンガリーにおける最高の権威を持つ学会である。ブダペストのドナウ川の土手にある。1825年、セーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵が自身の1年分の不動産収入を、(当時、ハンガリー国会があった)ポジョニ(現在のブラチスラヴァ)の国会の地区セッション Learned Society に提供し、他の議員がそれにならって資金提供したのが始まりである。その任務は、ハンガリー語の科学関係の語彙を開発し、科学や工学の研究および伝播をハンガリー語で行えるようにすることだった。1845年に現在の名称となった。本部ビルはネオ・ルネサンス様式の建築物で、1865年に完成した。

センメルヴェイス大学
Semmelweis Egyetemとは、ハンガリーブダペストにある医科大学である。センメルヴェイス・イグナーツから名前が取られている大学で、ハンガリー国内では最古の医科大学である。生徒数は11,000人を越え、60カ国以上の国家から人が来ており、外国人比率は18%とされる。


リスト・フェレンツ音楽大学
Liszt Ferenc Zenemuveszeti Egyetemは、ハンガリーの首都ブダペストに拠点を構える音楽大学である。リスト音楽院やフランツ・リスト音楽院などと表記されることもある。略称:LFZE。1875年、作曲家リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)により創立。第1の校舎(3階建ての新ルネサンス様式建造物)はラーング・アードルフ(Lang Adolf)によって設計され、1877年から1879年にかけて、現在のアンドラーシ通り沿いに建てられた。


リスト・フェレンツ国際空港
ハンガリー共和国の首都、ブダペストにある空港である。市の東南東16kmに位置する。フラッグ・キャリアのマレーヴ・ハンガリー航空の他、格安航空会社のウィズエアーなどがハブ空港にしている。2011年3月リスト・フェレンツ(ドイツ語:フランツ・リスト)生誕200周年を記念して、フェリヘジ国際空港からリスト・フェレンツ国際空港に名称が変更された。

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コシュート・ラヨシュ広場駅
ハンガリー共和国ブダペスト県ブダペスト市に位置するブダペスト地下鉄2号線の駅である。由来はハンガリー王国の政治家コシュート・ラヨシュにちなむ。


ブダペスト地下鉄
ハンガリー共和国の首都ブダペストの地下鉄であり、BKV(ブダペスト交通会社)により運営されている。3本の路線があり、それぞれ路線番号およびラインカラーで区別されている。現在4号線が建設中で、2014年頃完成の予定である。また、5号線の計画も具体化されている。地下鉄1号線は、世界でロンドンに次いで3番目、ユーラシア大陸では2番目に営業を開始した地下鉄であり、電気運転の地下鉄としては世界初の地下鉄である。


アンドラーシ通り
ハンガリーの首都ブダペストにおいてエルジェーベト広場(Erzsebet ter)と市民公園(Varosliget)をつないでいる大通りで、その歴史は1872年に遡る。通りには、美しいファサード、階段室、内装などを備えた折衷主義的なネオルネサンス様式の宮殿や邸宅が立ち並んでおり、その地下を走るブダペスト地下鉄などとともに、2002年にユネスコの世界遺産リストに登録された。


エールド
ハンガリーのブダペスト大都市圏、ペシュト県に位置する都市。この地では5万年前の男性の骨が発見されており、古代から人が住んでいたことがうかがえる。エールド自体は1243年に初めてその名が登場し、その名は森という意味のerdoか小川という意味のerからきたとされる。

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ラーツケヴェ
(Rackeve)は、ハンガリー共和国のペシュト県の町。ブダペシュトの南、ドナウ川の中洲チェペル島(Csepel sziget)に位置する。人口7,071人(2001年国勢調査)。ラーツケヴェは、現在もハンガリー国内のセルビア系住民の精神的中心地であり続けている。 町には、1487年に建造された正教教会としては世界唯一のゴシック様式教会が現存している。教会本体と分離してそびえる鐘楼は、聖職者の住居を土台にして18世紀に建てられた。

エゲル
(Eger)はハンガリーの都市。ヘヴェシュ県の首都。赤ワインの生産地として有名。エゲルの名はハンガリー語の単語egerfa(ハンノキの意)に由来すると考えられている。

ソルノク
(Szolnok、は、ハンガリー、ヤース・ナジクン・ソルノク県の都市。ソルノク一帯には古代から人の定住があった。マジャル人のハンガリー征服以前、ケルト人、スラヴ人、アヴァール族が住んでいた。ハンガリー人が一帯に定住したのは10世紀である。第一次世界大戦と第二次世界大戦で町は多大な被害を受けた。1944年には激しい空襲を受け、ソビエト軍が町を解放した時にはほんのわずかな住民がいただけだった。社会主義政権時代、ソルノクは復興を果たした。工場が建設され、温泉施設が開業すると観光業に重点が置かれた。1990年11月13日、ソルノクは市に昇格した。

ケチケメート
( Kecskemet )はハンガリーの都市。バーチ・キシュクン県の県都であり、国内第8位の都市である。コダーイ・ゾルターンの出生地である。ケチケメートは、ブダペストとセゲドの中ほどに位置し、どちらからも86キロほど離れている。国内を流れる大河、ドナウ川とティサ川の両方とも等しい距離にある。ケチケメートの町周囲に人が定住した最初の跡は、5000年ほど前に遡る。サルマタイ人が町周辺に侵攻したのは紀元前1世紀頃である。

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セーケシュフェヘールヴァール
(Szekesfehervar) は、ハンガリー共和国中西部の都市である。かつて、ハンガリーの歴代国王が戴冠・埋葬された都市として知られる。約60キロほど北東に首都ブダペスト、約250キロほど南西にクロアチアの首都ザグレブが位置しており、両都市を結ぶ鉄道の通過点に当たる。イシュトヴァーン博物館では、ハンガリーの初代国王イシュトヴァーン1世についての関連物のみならず、鎧や馬具、装飾品などが展示されている。

セクサールド
(ハンガリー語: Szekszard)は、ハンガリーのトルナ県にある都市で、同県の県都。セクサールドは1015年に初めて文献に登場した。1061年にはベーラ1世によりベネティクト修道院が建てられた。マーチャーシュ1世在位中、セクサールドでは王に対しての陰謀に関わったヨン主教が統治していたため、マーチャーシュ1世はセクサールド城を壊滅させるよう命じた。1485年には五つの市場が一年365日開かれる大きな町になったが、オスマン帝国に支配されると衰退し、修道院も破壊された。

カポシュヴァール
ドイツ語 Kopisch, Ruppertsberg, Ruppertsburg, はハンガリー西部の都市で、ショモジ県の首都。カポシュ川に跨る。高速M7と67番道路を使用すれば、ブダペストからの距離は約186kmである。言い伝えによれば、都市はローマと同じく「七つの丘」をもとに建設された。 この街は1009年に書かれた書物に"Kapos"という名前で登場している。1555年にはオスマン帝国によって占領され、1686年まで続いた。

ソンバトヘイ
Szombathely、は、ハンガリー西部の都市。ヴァシュ県の県都で、オーストリア国境に近い。ソンバトヘイはハンガリー最古の都市である。コロニア・クラウディア・サヴァリエンスム(Colonia Claudia Savariensum、クラウディウスのサヴァリア植民地)として紀元45年に建てられた。

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ザラエゲルセグ
(Zalaegerszeg)は、ハンガリーの都市。ザラ県の県都。ザラ川のほとりにあり、オーストリア、スロヴァキアの国境に近い。首都ブダペスト南西約220km地点である。石器時代後期には既に人が定住しており、後のこの地域にはケルト人が住んだ。

ヴェスプレーム
Veszprem 、は、ハンガリーの都市。バラトン湖のおよそ15km北にあり、ヴェスプレーム県の県都となっている。ヴェスプレームは大学を持っていた古いハンガリー都市の一つである。大学では学生たちが法律と芸術を学んでいた。1276年の火事で大学は焼け落ち、再びヴェスプレームに大学ができたのは20世紀になってからのことである。

タタバーニャ
Tatabanya、は、ハンガリーの都市。コマーロム・エステルゴム県の県都。ゲレチェ山脈に近く、その豊富な地下資源から鉱業が発展した。オーストリアとハンガリーを結ぶ交通の要所であり、ウィーンとブダペシュトを結ぶ鉄道がタタバーニャを通過する。

シャルゴータルヤーン
Salgotarjan、 はハンガリー北部のノーグラード県の都市。ブダペストから北東に120キロ、ミシュコルツから西に70キロに位置する。

ペーチ
Pecs は、ハンガリー・バラニャ県の都市。国内第5位の人口を持つ。ペーチは、エッセン、イスタンブルと同時に、2010年度の欧州文化首都に選ばれた。毎日数本のブダペスト行き電車があるのと同様、毎日ウィーン、オシエク、サラエヴォ行きの直行電車がある。現在、ペーチとブダペストをつなぐ新たな高速道路が建設中である。開通すると、現在ブダペストまで3時間30分ほどかかる時間が短縮される。

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セゲド
Szeged、は、ハンガリー南部に位置する都市。チョングラード県の県都。セルビア・モンテネグロ、ルーマニアの国境に近い。ティサ川沿いに位置する。ティサ川は、肥沃な土をもたらすという点ではセゲドに大きな恵みをもたらし、現在でもパプリカの生産地として有名である。

ベーケーシュチャバ
BEkEscsaba、は、ハンガリー南東部の都市。ベーケーシュ県の県都。共産主義政権下のベーケーシュチャバは、ベーケーシュ県の県都となった(1950年)。そして国内有数の食品加工産業の中心地として発展していった。1990年に民主化されると、工場は経済危機に陥り、多くの住民が職を失った。現在、経済危機は過ぎ去ったように見え、ベーケーシュチャバは再び繁栄を続けている。

デブレツェン
Debrecen、はハンガリーの都市。ハイドゥー・ビハール県の県庁所在地。ブダペシュトに続いてハンガリー第二の都市である。交通の要所であり、中世より農作物集散の地として栄えた。現在も、穀物や牛、豚などの生産が盛んな農業地域である。近隣の都市としては、約90キロ北西にミシュコルツが位置している。

ニーレジハーザ
Nyiregyhazaは、ハンガリー北東の都市。サボルチ・サトマール・ベレグ県の県都。国内7番目の人口を抱える。温泉湖ショーシトージョージフュルデーが数世紀に渡り観光客に人気がある。湖水は非常に温かく、およそ26℃あり、2,000平方キロメートルの公園に周囲を囲まれている。ヴァダスパークと呼ばれる大きな動物園があり、世界の五大陸から集められた動物が見られる。

ミシュコルツ
Miskolc、は、ハンガリーの都市。ボルショド・アバウーイ・ゼムプレーン県の県都。近郊のゼンプレーン山麓で生産されるトカイワインが世界的に知られている。古代においては、ケルト人が「Cotinus」と称される集落を築いた記録が残されている。

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ドゥナウーイヴァーロシュ
フェイェール県の都市。ドナウ川の右岸にあり、首都ブダペストの南およそ67km地点である。先史時代から人の定住があった。ローマの遠征軍は、この地にIntercisaという駐屯地をつくっていた。10世紀初頭、マジャル族がパンノニアへ侵入、統一国家を形成した。

モションマジャローヴァール
モションマジャローヴァールは、1939年にモション(ヴィーゼルブルク)とマジャローヴァール(ウンガリッシュ・アルテンブルク)が合併して誕生した。西ハンガリー大学農学・食物科学学部がある。1818年にテシェン公アルベルトが設立した農学の高等教育機関が、現在の学部に発展した。


■国名
公式の英語表記は Hungary。語源として一般に認められているのは、7世紀のテュルク系の Onogur という語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャール7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。

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1.面積:約9.3万平方キロメートル(日本の約4分の1)
2.人口:約998.6万人(2010年12月現在、中央統計局)
3.首都:ブダペスト
4.民族:ハンガリー人
5.言語:ハンガリー語
6.宗教:カトリック約52%、カルヴァン派約16%

紀元前1世紀より ローマ領パンノニア州州都
紀元4世紀 フン族が侵入し、ローマ人を駆逐
896年 ハンガリー民族定住
1000年 ハンガリー王国建国
1241〜1242年 蒙古軍襲来
1526〜1699年 トルコによる占領
1699〜1918年 ハプスブルグ家統治
1867年 オーストリア・ハンガリー二重帝国
1920〜1944年 ホルティ摂政によるハンガリー王国
1920年 トリアノン条約(領土の3分の2を割譲)
1941〜1945年 第2次世界大戦(枢軸国)
1946年2月 共和国
1949年8月 人民共和国
1956年10月 ハンガリー動乱
1989年10月 共和国に体制転換
1999年3月 NATO加盟
2004年5月 EU加盟
2007年12月 シェンゲン領域加入
2011年4月 新憲法制定

■主要産業;機械工業、化学・製薬工業、農業、畜産業

■主要貿易相手国(1)輸出 ドイツ(25.2%)、イタリア(5.5%)、英国(5.4%)(2)輸入 ドイツ(25.5%)、ロシア(7.8%)、中国(7.1%)


フォリント
(Forint, HUF)は、ハンガリーの通貨単位。1フォリントは100フィレール。1945年から1946年にかけて、旧通貨であるペンゲーがハイパーインフレーションを起こした後、1946年8月1日から採用された。

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汎ヨーロッパ・ピクニック
Paneuropai piknik、とは1989年8月19日、オーストリア共和国ブルゲンラント州に食い込むハンガリー領ショプロンで開かれた政治集会。ピクニック事件、ヨーロッパ・ピクニック計画とも呼ばれる。この政治集会には西ドイツへの亡命を求める1000人程の東ドイツ市民が参加した。この時彼らは一斉にハンガリー・オーストリア国境を越え亡命を果たした。後にベルリンの壁崩壊へと繋がる歴史的事件である。


ハンガリー共和国憲法
Magyar Alkotmanyは、ハンガリーでかつて施行されていた憲法典である。国民議会は、ハンガリー共和国の行政構造および法秩序、国民の基本的人権と債務を定めると規定されている。憲法は国の最上位の法典であり、全ての法律より優先される。憲法の最優先は憲法裁判所によって守られている。2011年に制定されたハンガリー基本法の施行に伴い、廃止された。

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ハンガリー社会党
Magyar Szocialista Part、MSZPは、ハンガリーの社会民主主義政党。旧ハンガリー社会主義労働者党の法的後継政党。社会主義インターナショナルに加盟。1990年の体制転換以降初の国会選挙以来、1994年、2002年、2006年の3度にわたり選挙に勝利し、連立によって与党となったこともある。

自由民主同盟
Szabad Demokratak Szovetsegeは、ハンガリーのリベラル・中道左派政党。自由主義インターナショナル加盟。略称はSZDSZ。1990年の国会選挙で第二党となり、1994年、2002年、2006年の選挙後、ハンガリー社会党との連立政権に参加している。

フィデス=ハンガリー市民同盟
Fidesz-Magyar Polgari Szovetsegは、ハンガリーの中道右派・キリスト教民主主義・保守主義政党。略称はFidesz-MPSZ、Fidesz(フィデス)。1988年3月に大学の学生自主研究機関であるライク・ラースロー・コレギウム、ビボー・イシュトヴァーン・コレギウムを中心とする37名の大学生ら知識人が結成したが、結成直後、共産主義政権下で自由に認められていない政治団体の結成であるとして、官憲により弾圧された。

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インターネット民主党
Internetes DEmokracia partja インテルネテシ・デモクラーツィア・パールテャ 略:IDE イデ、英: party of Internet DEmocracy)は、ハンガリー共和国の政党。IDEは既存の間接民主制の直接民主主義による補完、具体的には、間接民主的に獲得した議席を直接民主的に運用し、有権者による代表達の常時直接的なコントロールを実現することを目標として掲げている。


アンドラーシュ・シフ
Andras Schiff, Schiff Andra 鵺 1953年12月21日 - は、ハンガリー出身のピアニスト。磨かれたタッチと、知性的でありながら愉悦感あふれる表現で、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどドイツのバロック音楽及び古典派音楽を中心としながらも、シューマンやショパンなどのロマン派音楽までこなす傑出したピアニストの一人。

セント=ジェルジ・アルベルト
(Nagyrapolti Szent-Gyorgyi Albert1893年9月16日ブダペスト - 1986年10月22日ウッズホール)は、ハンガリー出身のセーケイ人でアメリカ合衆国に移住した生理学者。ビタミンCの発見などにより、1937年度ノーベル生理学医学賞を受賞。筋肉の研究などでも知られる。初めはブダペスト医科大学で学んだが、母方の祖父とおじがブダペスト大学の解剖学教授だった関係で、叔父の研究室に入り研究を開始した。ファシストがハンガリーで権力を握ると、セント=ジェルジはユダヤ系の友人を逃がす活動を始めた。さらに第二次大戦末期には首相に依頼され、連合国との和平交渉の密命を帯びて(表向きは講義のため)イスタンブルへ赴いた。この計画はドイツに知られ、アドルフ・ヒトラーが逮捕命令を出したため、彼は終戦まで逃亡生活を送る。

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バルトーク・ベーラ
バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartok Bela Viktor Janos, 1881年3月25日 - 1945年9月26日)はハンガリー領トランシルヴァニア(正確にはバナート)のナジセントミクローシュに生まれ、ニューヨークで没したクラシック音楽の作曲家、ピアノ演奏家、民俗音楽研究家。作曲以外にも、学問分野としての民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカのアルジェリアまで足を伸ばすなどの精力的な活動を行った。母のパウラによれば、バルトークは病弱だったが、きちんと言葉をしゃべる前から母のピアノ演奏のダンスのリズムを区別し、3歳くらいから母のピアノ演奏に合わせて太鼓を叩き、4歳では自己流で40曲のピアノ曲を弾くなど音楽的素養を見せていた。そこで彼女は娘を出産した後の5歳頃から息子に正式なピアノ教育を始める。

ポール・エルデシュ
ポール・エルデシュ、エルデーシュ・パール(Erdos Pal, Paul Erdos; (本姓: Englander), 1913年3月26日 - 1996年9月20日)はハンガリーのブダペスト出身の数学者。生涯に約1500篇もの論文(多くは共著)を発表しており、これ以上に多数の論文を発表した数学者は18世紀最高の数学者と呼ばれているレオンハルト・オイラーのみである。数論、組合せ論、グラフ理論をはじめ、集合論、確率論、級数論など幅広い分野で膨大な結果を残した。彼の伝記(邦題『放浪の天才数学者エルデシュ』)には「博物館に行っても付いていくのは彼の体だけだった」等、数学への情熱を具体的に示すような記述が多くあり、彼がいかに純粋な研究者であったかが伺われる。いつ寝ているか分からないほど数学に没頭していたらしく、一日19時間数学の問題を考えていたと言われている。

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コダーイ・ゾルターン
(Kodaly Zoltan, 1882年12月16日 - 1967年3月6日)は、ハンガリーの作曲家、民族音楽学者、教育家、言語学者、哲学者。ケチケメートに生まれ、幼少時代の多くをガラーンタとナジソンバト(現在のスロバキアのトルナヴァ)で過ごす。父親は熱心なアマチュア音楽家で、コダーイは子供の頃からヴァイオリンの学習を始める。聖歌隊で歌い、また曲を書いたこともあったが、形式的な音楽教育を受けることはほとんどなかった。1900年、コダーイは現代語を学ぶためにブダペスト大学に入学し、同時にブダペストのフランツ・リスト・アカデミーで音楽を学び始める。そこでコダーイはハンス・ケスラーに作曲について学ぶ。哲学と言語学において博士号を授かると、コダーイはパリへ行き、シャルル=マリー・ヴィドールに師事。そこでクロード・ドビュッシーの音楽に出会い、その影響を受ける。

バビチ・ミハーイ
(Babits Mihaly、1883年11月26日−1941年8月4日)は、ハンガリーの詩人、小説家、翻訳家。1901年から1905年までブダペシュト大学にて学んだ。在学中には、コストラーニ・デジェー、ユハース・ジュラと出逢っている。1918年の革命の直後、ブダペシュト大学の教授に就任し、世界文学とハンガリー現代文学を担当。詩的業績が文学史に刻まれるのは、1908年以降の事である。この年の夏、彼はイタリアに旅行し、ダンテに興味を持った。その後も度々イタリアを訪れたが、この経験がきっかけとなり、『神曲』を翻訳する事となる。地獄篇は1913年、煉獄篇は1920年、天国篇は1923年に訳された。しかし間もなく革命政府は凋落し、反戦主義者だったバビチは左遷されてしまう。

エトヴェシュ・ロラーンド
(Eotvos Lorand, 1848年7月27日 - 1919年4月8日)はハンガリーの物理学者である。重力質量と慣性質量の等価性を示したエトヴェシュの実験で知られる。1890年重力偏差計を発明した。移動体上で重力測定すると、みかけの重力加速度が静止時と異なる現象はエトヴェシュ効果(エトベス効果)と呼ばれる。気泡に働く浮力と表面張力の比をしめす無次元数エトベス数も、エトヴェシュの名に因んでいる。

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マルセル・ブロイヤー
(Marcel Lajos Breuer1902年5月21日−1981年7月1日)はモダニズムの建築家、家具デザイナー。モジュール構造と単一形態の重要性を提示したモダニズムの父のひとり。1920年代、ブロイヤーはバウハウスで学び、後に同校の教官(マイスター)となった。彼は芸術とテクノロジーの融合を説き、やがて木工工房を任されるまでになった。後に、彼はベルリンで開業し、住宅や商業施設のデザインをした。

タル・ベーラ
(Tarr Bela, 1955年6月21日 - )は、ハンガリーの映画監督、脚本家。1955年、ハンガリー・ペーチで生まれる。1981年、ブダペストの映画アカデミーを卒業。2011年、監督としての最後の作品と表明している『ニーチェの馬』

ゴルトツィーエル・イグナーツ
Goldziher Ignac(cz), Ignaz Goldziher, 1850年6月22日 - 1921年はハンガリー出身のイスラム学・東洋学者。ユダヤ系。セゲドの出身。エトヴェシュ・ヨージェフ男爵の支援のもと、エトヴェシュ・ロラーンド大学、ベルリン大学、ライプツィヒ大学、ライデン大学で学ぶ。1872年以降、エトヴェシュ・ロラーンド大学でプリヴァートドツェントとなり、イスラム学を教授、1873年から74年まで近東に滞在し、また1894年からアラビア語教授となる。

ヴィルモス・スィグモンド
Vilmos Zsigmond, ジグモンド・ヴィルモシュ、1930年6月16日 - はハンガリーのセゲド生まれの映画キャメラマン、撮影監督。父親は著名なサッカー選手兼コーチ。10代半ばで写真、絵画について興味を持ち、その延長で映画の道へと進む。ブダペストの国立映画演劇アカデミーに入学後は、映画撮影で修士号を取得、その後、5年間の実地の後に、撮影監督の地位につくが、ハンガリー動乱に巻き込まれ、その様子を撮影したフィルムを持ってアメリカへ亡命することとなる。

サボー・マグダ
Szabo Magda, 1917年10月5日 - 2007年11月19日は、ハンガリーの作家。ハンガリーで最も著名な女性作家と言われた。小説のほか、ドラマ、エッセイ、詩なども書いた。1917年、ハンガリー第二の都市デブレツェンで生まれた。サボーの作品は、ハンガリーで数々の賞を受賞するとともに、世界42ヶ国で出版されている。2003年、フランスの文学賞フェミナ賞で外国小説賞を受賞した。

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ゲオルク・ド・ヘヴェシー
Hevesy Gyorgy, 1885年8月1日 - 1966年7月5日はハンガリー生まれの化学者、1923年ハフニウムを発見した。1943年化学反応研究におけるトレーサーとしての同位体の応用研究でノーベル化学賞を受賞した。フライブルク大学、ストックホルムの有機化学研究所につとめた。フローゲン大学の、ディルク・コスターと共同してX線分析法を使って、ハフニウムを発見した。

ヴァーシャーリ・タマーシュ
(Vasary Tamas, 1933年8月11日 - )はスイス国籍を持つハンガリー出身のピアニスト・指揮者。ブダペストのリスト音楽アカデミーでエルンスト・フォン・ドホナーニらに師事し、その後は母校でコダーイ・ゾルターンの助手を務める。コダーイからスタインウェイのグランドピアノを贈られた。1948年にブダペストのリスト国際コンクールに優勝するが、1956年にハンガリーを出国してスイスに落ち着き、1960年と1961年に、西欧の主要な都市でデビューを果たす。

エステルハージ・ペーテル
(Esterhazy Peter,1950年4月14日 - )はハンガリーの小説家。ハンガリー最大の貴族、エステルハージ家の末裔にあたる。1976年にデビューし、その斬新な作風や言語感覚によってハンガリー文学の新世代を代表する作家となった。独特な言葉の扱い方や、引用やパロディを頻繁に用いるその手法などから、しばしば「ポストモダン的」と評される。

エトヴェシュ・ペーテル
1944年1月2日 - は、ハンガリーの作曲者、指揮者。ルーマニア、トランシルヴァニア地方のオドルヘユ・セクイエスク(ハンガリー語:Szekelyudvarhely, セーケィウドヴァルヘイ)の生まれ。ブダペストとケルンで作曲を学び、1962年からハンガリーで映画音楽の作曲を始める。1968年から1976年にかけて、定期的に シュトックハウゼン・アンサンブルと演奏する。

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コチシュ・ゾルターン
(Kocsis Zoltan, 1952年5月30日 - )はハンガリーのブダペスト出身のピアニスト・指揮者・作曲家。日本では、同世代の他のハンガリーのピアニスト、ラーンキ・デジューやシフ・アンドラーシュと合わせて、「ハンガリーの三羽烏」や「ハンガリーの三天王」などと呼ばれている。

アントン・ザイドル
Anton Seidl, 1850年5月7日 - 1898年3月28日は、ハンガリー出身の指揮者。ブダペストに生まれる。1870年10月にライプツィヒ音楽院に入学、1872年まで在籍するが、同年バイロイトでリヒャルト・ワーグナーの浄書係(コピスト)に選ばれる。同地では『ニーベルングの指環』の最初の浄書の作成を手伝う。骨の髄までワーグナーに魅了され、当然のように1876年の第1回バイロイト音楽祭に参加した。

シャーンドル・ジェルジ
(Sandor Gyorgy, 1912年9月21日 - 2005年12月9日)は、ハンガリー・ブダペスト出身のピアニスト。彼はピアノの師であったバルトークの生涯の友人にして、バルトークのピアノ曲の演奏および解釈の第一人者でもあり、1945年のバルトークの葬儀に出席した10人のうちの1人であった。そして1946年にはバルトークが遺したピアノ協奏曲第3番の世界初演を行っている。

ゾルト・エルデイ
Zsolt Erdei、男性、1974年5月31日 - は、ハンガリーのプロボクサー。ブダペスト出身。世界2階級制覇王者(ライトヘビー級、クルーザー級)。オリンピック出場後、プロボクシングの盛んなドイツに移住し2000年12月5日にプロデビューする。2002年10月5日には空位のWBOインターコンチネンタルライトヘビー級タイトルを獲得した。同タイトルを4度防衛した後、2004年1月17日にメキシコのフリオ・セサール・ゴンザレスを12回判定に下し、WBO世界ライトヘビー級タイトルを獲得した。現在、同タイトル防衛に9度成功してなお無敗を続けている。

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フランツ・フォン・ツァハ
(Franz Xaver Freiherr von Zach, 1754年6月8日 - 1832年9月2日)は、オーストリア(現在はハンガリー)生まれのドイツの天文学者。 行方不明になっていた小惑星ケレスを再発見した。1800年(一説に1799年)、リリエンタールの執政官で天文学者のヨハン・シュレーター (Johann Hieronymus Schroter) と共に、共同捜索チーム未知惑星捜索連盟(通称リリエンタール探偵団 、Lilienthal Detectives)を組織した。

エルンスト・フォン・ドホナーニ
(Dohnanyi Erno1877年7月27日ポジョニュ(スロヴァキア語名ブラティスラヴァ) - 1960年2月9日ニューヨーク市)は、ハンガリー人の音楽家。指揮者・ピアニスト・音楽教師・学校管理者として多忙の合間を縫って、数々の作品を残した作曲家。音楽学校ではバルトークと同窓生に当たるが、ドホナーニ自身はブラームスの流れを汲む、19世紀ロマン主義音楽の伝統に忠実であり続けた。

アルトゥル・ニキシュ
(Nikisch Artur, Arthur Nikisch, 1855年10月12日  - 1922年1月23日)は、現在のハンガリー出身で主にドイツで活躍した20世紀初期の大指揮者の一人。1855年、ハンガリー西部、レーベーニ近郊にハンガリー出身の父とモラヴィア出身の母のもと生まれる。ウィーン音楽アカデミーでヴァイオリンと作曲を学び、ウィーン宮廷歌劇場のヴァイオリン奏者として音楽活動をはじめる。1878年、指揮に転じ、ライプツィヒ歌劇場指揮者。

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プシュカーシュ・フェレンツ
(Puskas Ferenc1927年4月1日 - 2006年11月17日)は ハンガリー・ブダペスト出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード(インサイドレフト)。1950年前半から1954年にワールドカップ・スイス大会の決勝で敗れるまで4年間無敗を続け、「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリー代表の主将として活躍した。ハンガリーと1950年代のヨーロッパを代表する名選手である。テクニカルかつパワフルな左足シュートで、第2次大戦後の混乱期にあるヨーロッパを席捲し、「疾走少佐」と呼ばれた。またキックフェイントや足の裏を使った引き技からの技巧的なシュートも得意とした。ハンガリー代表などで共に戦ったチボル・ゾルターンからは「1度ボールをけっただけで2点を奪った」と評され、同じくグロシチ・ジュラは「単にワールドクラスではなく、夢の世界の選手だった」と語った。

ロージャ・シャーンドル
Sandor Rozsa、1813年7月10日 - 1878年11月22日はハンガリーの盗賊、無法者である。1813年7月10日、ハンガリーで貧しい両親の元に生まれる。子供時代には両親を亡くし、この頃から金持ちの家の金品を盗み出すなど、セゲド市を中心に盗賊稼業を始める。盗んだ金品などは、貧しい農民に振り分け、「ベチャール(義賊の意)」と呼ばれる様になる。しかし、ハンガリー警察に追われる身分となり、1836年に馬泥棒の罪状により投獄される。その後、刑務所からの脱獄に成功し、1848年にヨーロッパで起こったハンガリー革命において、革命指導者コシュート・ラヨシュから恩赦を受けてコシュート軍に参加した。ハンガリー革命では「義勇軍」と名づけた軍隊を結成し、大活躍する。

フレッシュ・カーロイ
Flesch Karoly, 1873年10月9日 モション - 1944年11月14日 ルツェルン)は、ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。一般的にはカール・フレッシュ(英語: Carl Flesch)の姓名で知られ、また演奏家としてよりも、数々の演奏家を世に送り出した卓越した音楽教育者として世界的に知られている。

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シャーンドル・コチシュ
Kocsis Sandor、1929年9月23日 - 1979年7月22日)は、ハンガリー出身のサッカー選手。ポジションはFWで、主にセンターフォワードを務めた。 歴代最高のストライカーの一人と考えられている。177cmと目を惹くほどの長身ではなかったがヘディングを得意とし、黄金の頭という異名を取った。1950年代前半にマジック・マジャールと呼ばれ無敵を誇ったハンガリー代表の中心選手の一人で、1954年に開催された第5回ワールドカップ・スイス大会で11得点を挙げ得点王となる。

ベネ・フェレンツ
(Ferenc Bene、1944年12月17日 - 2006年2月27日)は、ハンガリー出身のサッカー選手。ポジションはFW。1962年、17歳の時にハンガリー代表デビューを果たす。19歳で迎えた1964年東京オリンピックで12ゴールを挙げ得点王に輝き、初優勝の原動力となった。その後、1964年UEFA欧州選手権、1966年FIFAワールドカップに出場。特に1966年W杯では、出場した4試合すべてでゴールを挙げる活躍をみせた。

 

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