ドイツ Germany
ヨーロッパ中部に位置する連邦共和制国家である。首都はベルリン。北はデンマーク、東はポーランド、チェコ、南はオーストリア、スイス、西はフランス、ルクセンブルク、ベルギー、オランダと国境を接する。また、北部は、北西側が北海、北東側はバルト海に面する。世界で初めて公的年金、保険制度を導入した国であり、日本など多くの諸外国が規範としている。医学をはじめとして化学、数学、物理学などの自然科学分野、哲学、文学、演劇などでも高い実績を築いてきたが、中でも18世紀後半以降の音楽史では同系国家であったオーストリア(1866年まではドイツ連邦議長国)とともに独占的ともいえる地位を築き、今日もヨーロッパの歌劇場の過半数、全世界のオーケストラの1/4以上がドイツにあるといわれる。
■ベルリン
2008年の人口は342万人。2010年の都市的地域の人口は370万人であり、世界第85位、EUでは第8位である。ベルリンという名称が歴史的文書で最も古く遡れるのが1244年である。1448年にはブランデンブルク辺境伯がブランデンブルクからベルリンに宮殿を移した。1990年10月3日には東西ドイツが統一し、1991年には東西統一ドイツの首都と定められた。以降、東西に分断されていた道路網や地下鉄も含む鉄道網といった、交通網の東西直結工事が行われ、インフラ整備や再開発が旧東ベルリン地区を中心に進行した。
■ベルリンの壁崩壊
1989年11月9日に東ドイツ政府が東ドイツ市民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で誤発表した事によって、ベルリンの壁が11月10日以後に東西ベルリン市民によって破壊された事件である。略称として壁崩壊(ドイツ語: Mauerfall)という。ベルリンの壁崩壊は、既に民主化を果たしていたポーランドやハンガリーやブルガリアのみならず、東ヨーロッパ全域に波及した。1989年11月17日には、チェコスロバキアでビロード革命が発生し、ポーランドのワルシャワではチェーカー(KGBの前身)の設立者フェリックス・ジェルジンスキーの銅像が三つ裂きにされて撤去された。そして、マルタ会談の直後の12月16日にはルーマニア革命 (1989年)が発生した。そして、ベルリンの壁崩壊から2年後の1991年8月20日にはバルト三国が独立し、1991年12月25日には共産主義の元祖であったソビエト連邦自身まで崩壊した。
■ハンブルク
正式には、自由ハンザ都市ハンブルク(Freie und Hansestadt Hamburg, フライエ・ウント・ハンゼシュタット・ハンブルク)と称する。ブレーメン市と同様に、中世以来の自由都市としての地位を現代まで維持している。ベルリン特別市に次ぐドイツ第二の都市である。欧州屈指の歓楽街を持ち、経済、芸術ともに盛んである。エルベ川の支流・アルスター川の河口にある港湾都市で、ドイツ北部における経済の中心地。オペラハウス(実際は市立だが、独立性の高い政府組織を持つ他の州立歌劇場と同様、一般にはハンブルク国立歌劇場と呼ばれる)は、モーツァルト以前のイタリア語オペラ全盛期にもドイツ語オペラ上演を盛んに試みていた名門であり、専属オーケストラはハンブルク・フィルハーモニーの名でコンサートも行う。
外務省:ドイツ連邦共和国
在ドイツ日本国大使館
■ドレスデン空港
(Flughafen Dresden)は、ドイツ・ザクセン州の州都ドレスデンにある国際空港である。交通量は1990年代前半には7倍に増加し1995年に第2ターミナルがオープンする。2001年には第3ターミナルがオープンしさらに ターミナルは拡張されている。2006年度の総旅客数は約183万人である。
■シュトゥットガルト空港
Flughafen Stuttgartは、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州の州都シュトゥットガルトにある空港である。シュトゥットガルト市街から南へ約13kmに位置する。
■ハノーファー空港
(Flughafen Hannover-Langenhagen、正式名:ハノーファー・ランゲンハーゲン空港)は、ドイツ・ニーダーザクセン州の州都ハノーファーにある国際空港である。
■ブレーメン空港
(Flughafen Bremen)はドイツ・ブレーメンにある国際空港である。1913年、ブレーメン州議会から航空協会に公式に認可が下り、空港の運用開始。1920年、KLMがアムステルダムからブレーメン、ハンブルクを経由してコペンハーゲンまで運航する便を就航させる。
■カールスルーエ
Karlsruheドイツ連邦共和国の都市。バーデン=ヴュルテンベルク州に属する。人口は約28万人で、同州ではシュトゥットガルト、マンハイムに続く第三の規模の都市である。ライン川の近くに位置する工業都市で、ライン川とは運河で結ばれている。南にはシュヴァルツヴァルトが広がる。
■ミュンヘン
Munchen, バイエルン州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。面積は310 km2, 人口は約135万人。名実共に、ベルリン特別市、ハンブルク特別市に次ぐドイツ第3の都市で、特別市(一市単独で州を構成する)を除けば最大の人口である。大小多数のビール醸造所があり、世界最大のビールの収穫祭であるオクトーバーフェストには世界中から毎年600万人以上の観光客が訪れる。
■フライブルク・イム・ブライスガウ
Fribug im Brisgauは、ドイツ連邦共和国の南西部の都市。バーデン=ヴュルテンベルク州に属する。人口、約21万9千人(2008年)[1]。黒い森(シュヴァルツヴァルト)の南、ライン川沿いに位置している。1960年代から公共交通整備・太陽光発電など環境保全に取り組んでおり、環境首都として近年有名になりつつある。大学都市であり、フライブルク大学や教育大学・音楽大学の学生や教職員などが多く居住している。
■ケルン
ローマ帝国によってローマ植民市として建設されたライン川中流の古市であり、ケルンの名はラテン語で植民市を意味する Colonia に由来する。ライン川の河畔に位置しており、陸上、水上交通の要所である。重工業が発展する一方で、オーデコロンの生産地でもある。近隣の都市としては、約25キロ南にボン、10キロ北にレバークーゼン、35キロ北にデュッセルドルフが位置する。
■マンハイム
Mannheimは、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州最北端に属する郡独立市。人口約31万人を擁する大学都市で、シュトゥットガルトに次ぐ同州第2の都市である。かつてプファルツ選帝侯の宮廷所在地であったこの街は、現在ヨーロッパ有数の大都市圏であるライン=ネッカー・ドライエックの経済的・文化的中心都市となっている。
■ブレーメン
(Bremen)は、自由ハンザ都市ブレーメン州(通常ブレーメン州と短縮して呼ばれる)の首都である。2都市からなるこの州にはブレーメン市の北 60 kmのブレーマーハーフェン市が含まれる。ブレーメンはドイツで10番目の大都市であり、ドイツに11あるヨーロッパ大都市圏の1つであるブレーメン/オルデンブルク大都市圏に属す。
■ヴィースバーデン
Wiesbadenは、ドイツの都市。ヘッセン州の州都。ヘッセン州において、フランクフルト・アム・マインに続く第二の都市。マイン川とライン川の合流点に位置し、河川交通の要衝である。古代ローマ帝国の時代より温泉で知られており、観光業も発展している。郊外のネロ山には、水を動力とした珍しい鉄道であるネロベルク登山鉄道が走っている。
■ドレスデン
(Dresden)は、ドイツ連邦共和国ザクセン州の州都でありエルベ川の谷間に位置している都市である。人口は約51万人(2008年)である。近年では観光地としての開発も顕著で、東部ドイツ有数の大都市として賑わいを見せており、1990年の東西ドイツ統合後、歴史的建築物の再建計画が一層推進されつつある。廃墟のまま放置されていた王妃の宮殿(Taschenbergpalais)が再建されて高級ホテルに生まれ変わったほか、同じく瓦礫の堆積のままの状態で放置されていた聖母教会の再建には、世界中から182億円もの寄付が集まり、2005年10月に工事が完了した。瓦礫から掘り出したオリジナルの部材をコンピューターを活用して可能な限り元の位置に組み込む作業は「ヨーロッパ最大のジグソーパズル」と評された。
■シュトゥットガルト
Stuttgart、バーデン=ヴュルテンベルク州の州都であり、ドイツ南西部の世界都市。人口は約59万1千人(2006年)。ネッカー川沿いにあるドイツを代表する工業都市で、ドイツでもっとも豊かな地域といわれているバーデン・ビュルテンベルク州の州都である。ダイムラー、ポルシェやボッシュなどドイツを代表する世界的な企業の本社がおかれている。かつてのヴュルテンベルク王国の首都であり、美術館や音楽施設が充実した芸術都市としての性格も有する。シュトゥットガルト室内管弦楽団や、シュトゥットガルト州立歌劇場、シュトゥットガルト・バレエ団の活躍は世界的にも知られる。
■ハノーファー
Hannoverは、ライネ川沿いにある北ドイツの主要都市のひとつ。ニーダーザクセン州の州都でもある。人口515,948人(2004年)。地域の行政の中心地としても政治的力点の置かれた町である。
■フランクフルト・アム・マイン
(Frankfurt am Main)、通称フランクフルト(Frankfurt)は、ドイツ中西部の都市。ライン川の支流の一つ、マイン川の下流域に位置する。人口は約67万人。近郊を含む都市的地域の人口は229万人であり、世界第170位である。政治都市である首都ベルリンに対する経済、金融、交通の中心都市である。
■ヴォルムス
Worms)は、ドイツ連邦共和国の都市。ラインラント=プファルツ州に属する。宗教改革に際して、マルティン・ルターを帝国追放刑にすることを決定した帝国議会が開催された地としても知られる。
■ポツダム
(Potsdam)はドイツ連邦共和国東北部に位置する郡独立市。ブランデンブルク州の州都である。ベルリンの西南近郊に位置し、ベルリンの中心街から約26kmである。第二次世界大戦末期の1945年にポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿などが、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
■シュヴェリーン
(Schwerin)はドイツ連邦共和国の都市。メクレンブルク=フォアポンメルン州の州都。「七つの湖の街」とも称され、周辺を多くの淡水湖に囲まれている。その最大のものがシュヴェリーン湖であり、観光客も多く訪れる。
■デュッセルドルフ
Dusseldorfは、ドイツ連邦共和国の都市でノルトライン=ヴェストファーレン州の州都。ライン川河畔に位置し、 ライン・ルール大都市圏地域の中心でルール工業地帯のすぐ南西部にあり、金融やファッション、世界的な見本市(メッセ)の中心都市である。
■マクデブルク
(Magdeburg)はドイツ連邦共和国の都市。ザクセン=アンハルト州の州都。主な宗教はルター派プロテスタント。人口は約28万人。18世紀に活躍した作曲家ゲオルク・フィリップ・テレマンの出身地で、隔年でテレマン音楽祭が開催される。
■キール
(Kiel)は、バルト海に面したドイツ北部の都市。シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の州都。70キロ北西にフレンスブルク、60キロ南東にリューベック、85キロ南にハンブルクが位置する。
■マインツ
Mainz)はドイツ連邦共和国の都市。ラインラント=プファルツ州の州都。中世よりマインツ大司教の司教座聖堂の所在地であり、活版印刷の発明者ヨハネス・グーテンベルクの出身地でもある。
■ザールブリュッケン
(Saarbruckenは、ドイツ連邦共和国の都市。ザールラント州の州都。フランスに近く、豊富な地下資源などをめぐり、その帰属は中世から現代にいたるまで変転を繰り返してきた。その豊富な地下資源ゆえ、かつては炭鉱業・製鉄業で栄えたが、近年はこれらの産業が衰退の一途をたどっている。
■エアフルト
(Erfurt)は、ドイツ中央部の町でテューリンゲン州の州都。人口20万。13世紀ころには、すでにヨーロッパの交通・交易の要所として繁栄していた。それはこの土地が、長い期間にわたって文化の交差点であったことをも意味する。それを象徴する建造物がクレーマー橋である。
■イェーナ
(Jena) は、ドイツのテューリンゲン州(チューリンゲン州)の都市。イエナと表記されることもある。人口10万。ヴァイマル(ワイマール)から列車で15分ほどの距離にある。フリードリヒ・シラー大学は1558年に開学した。大学名がイェーナ大学からこの名前に変更されたのは20世紀前半である。
■エッセン
Essen)は、ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市。人口は約58万人(2007年)。エッセン市は、「買物都市」としても有名である。大聖堂の前を通るケトヴィガー通りは、早くも1958年に車を締め出した歩行者空間に模様替えされており、ドイツ初の都心歩行者空間であるとされている。
■ドルトムント
Dortmundは、ドイツ連邦共和国の都市。ノルトライン=ヴェストファーレン州に属する。人口はおよそ58万人。鉄道と空港が整備されているドルトムントは、広域交通の拠点である。とくに、ドルトムント中央駅はドイツ鉄道にとって重要な駅で、多数のICE(ドイツ新幹線)が発着している。
■ボン
ボン(Bonn)はジーベンゲビルゲ山脈の北部にあるライン川沿いのケルンの南約20 km に位置する、ノルトライン=ヴェストファーレン州に属するドイツ連邦共和国の(19番目に大きい)都市である。統一以前の1949年から1990年まで西ドイツの首都であった。人口310,930人(2002年)。
■ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン
Universitat Bonnは、ドイツのボンにある総合大学。通称はボン大学。ボン大学は、現在135以上の異なる国から5,000人以上の外国人学生を含む合計31,000人の学生を受け入れている。学生は、カリキュラムを100以上の異なるテーマの中から選ぶことができる。
■ブレーメン大学
Uni ブレーメン)は約2万人の学生と1,500人以上の研究者を擁するブレーメン州最大の大学である。この大学は1971年から72年にかけての冬学期に開校した。定礎式は1970年11月11日に行われた。1973年からは教育大学を併合した。その後しばらくは教員育成がこの大学の主眼となっていた。現在では医学部と神学部を除くほとんどの学部が存在する総合大学となっており、特殊な研究分野(およびその施設)もいくつかある。
■アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク
(Albert-Ludwigs-Universitat Freiburg) は、ドイツ南西部、バーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある大学である。通称「フライブルク大学」。ドイツで5番目に古い大学であり、1457年、オーストリア大公アルブレヒト6世によって創立された。ドイツで最も権威のある大学の一つであり、ヨーロッパにおいてもトップクラスの名門大学の一つに数え上げられる。2007年、ドイツにおける「卓越した大学(Exzellenzinitiative)」に指定された。
■ケルン大学
University of Cologne) は、ヨーロッパ最古の大学の一つである。ドイツ連邦国内で最大の学生数(44,000人)を持つ。設立は、1388年、神聖ローマ帝国4番目の大学である。プラハ・カレル大学(1348年)、ウィーン大学(1365年)、ハイデルベルク大学(1386年)に次ぐ古さである。
■ケルン音楽大学
(Hochschule für Musik Koln)はヨーロッパで最大級の音楽大学。2004年から2005年にかけての学生数は、ケルンで1065名、ヴッパータールで228名、アーヘンで217名である。1850年に「ケルン音楽院」として創設。1925年には州立音楽大学となり、新しい研究と試験規則を導入したことで知られた。
■ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
Munchner Philharmonikerはドイツ・ミュンヘンに本拠を置くオーケストラである。略称はMPhil。 本拠地はミュンヘン市内の複合文化施設内にあるフィルハーモニー・ガスタイク。1893年に創立されたカイム管弦楽団がその前身であり、1928年にミュンヘン市のオーケストラとなったことに伴い現在の名称に変更された。戦前は、ブルックナーの弟子で、その交響曲の「改訂版」に名を残すフェルディナント・レーヴェや、その交響曲の「原典版」の演奏の普及に努めたジークムント・フォン・ハウゼッガーやオズヴァルト・カバスタらが首席指揮者を務めた。また1906年には、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがこの楽団を指揮して楽壇デビューを果たした。
■ブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団
Die Deutsche Kammerphilharmonie Bremenは、ドイツ・ブレーメンに本拠を置く室内オーケストラである。1980年に音楽大学の学生を中心として設立。1983年の国際連合での演奏、1984/85年にはロッケンハウス音楽祭で成功を収め、1987年にプロの楽団としてフランクフルトを本拠地に正式発足。1992年にブレーメンへ移転した。
■フランクフルト歌劇場
(Oper Frankfurt)は、ドイツ・フランクフルトにあるオペラ座、歌劇場。 1995年、1996年、2003年に年間最優秀オペラ座(Opernwelt紙)に選ばれる。1782年にフランクフルト初の歌劇場として「コメディエンハウス」(Comoedienhaus)が開場した。10年後の1792年、その頃には「フランクフルト国民劇場」(Frankfurter Nationaltheater)と呼ばれていたこの劇場は、専属のオーケストラ(現フランクフルト・ムゼウム管弦楽団)を得る。
■ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン
Ludwig-Maximilians-Universitat Munchen)は、ドイツ・バイエルン州ミュンヘンにある大学。州立大学である。ドイツ九大エリート大学の一つとされている。通称、ミュンヘン大学。1472年に下バイエルン=ランツフート公ルートヴィヒ9世によってインゴルシュタット大学として創設されたが、北のプロテスタント系ライプツィヒ大学と対立して長らくイエズス会の支配下におかれ、閉鎖を繰り返しつつ、ナポレオン戦争の後の1826年にバイエルン王ルートヴィヒ1世によってミュンヘンに移転再創設された。
■ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン
Johann Wolfgang Goethe-Universitat Frankfurt am Mainは、ドイツ・ヘッセン州のフランクフルト・アム・マインにある公立大学。2009年冬学期の時点で38,000名以上の学生を抱え、学生数ではドイツ一の大学である。16の専攻分野、170科目を600名以上の教授が担当している。
■フリードリヒ・シラー大学イェーナ
Friedrich-Schiller-Universitat Jena)は、ドイツ・テューリンゲン州のイェーナにある大学。通称イェーナ大学。以降、本項ではこの呼称を用いる。1934年にドイツの作家フリードリヒ・シラーにちなんで現在の名称へと改称した。2004年現在、大学は入学した約19,000人の学生と340人の教授を抱えている。
■ドルトムント工科大学
Technische Universitat Dortmund)は、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州ドルトムントにある大学。略称はTUドルトムント。1968年にドルトムントの南西に創立された。当初は「ドルトムント大学」と称していたが、2007年に名称が工科大学に変更された。
■ドイツの国旗
現在のドイツ連邦共和国の国旗は、上から順に黒・赤・金の三色で構成されている。国旗の規定はドイツ連邦共和国基本法の第22条に記されている。この色は1813年のナポレオン戦争時にルートヴィヒ・アドルフ・ヴィルヘルム・フォン・リュッツォウが率いたリュッツォウ義勇軍の軍服(黒地に赤の襟、金のボタン)をシンボルカラーにしたのが由来といわれている。
1.人口:8,180万人(2009年末)、人口密度:1平方キロメートルあたり約230人(独連邦統計庁)
2.面積:35.7万平方キロメートル(日本の約94%)
(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、フランス、オーストリア、スイス、チェコ、ポーランド、デンマークの9カ国と国境を接する)
3.首都:ベルリン(約344万人)(2009年末、連邦統計庁)
4.民族:ゲルマン系を主体とするドイツ民族(在留外国人数約670万人)(2009年末、連邦統計庁)
5.宗教:キリスト教(カトリック2,518万人、プロテスタント2,452万人)、ユダヤ教(11万人)(2008年末、連邦統計庁)
6.国旗:1949年、基本法にて定められた黒赤金三色旗
7.国歌:戦前から引き継いだもの(ハイドン弦楽四重奏「皇帝」を使用)、但し歌詞は三番のみを使用
378年 ゲルマン民族、ローマ帝国領内に侵入
911年 選挙王政による初代ドイツ国王コンラート一世即位
962年 神聖ローマ帝国成立(〜1806年)
1701年 プロイセン王国成立(〜1871年)
1871年 ドイツ帝国成立(いわゆる「ビスマルク憲法」制定)
1918年 ドイツ革命、ワイマール共和国成立
1933年 ヒトラー首相に就任、ナチ党の一党独裁制確立(〜1945年)
1949年 西独基本法の成立、西独、東独の成立
1955年 パリ条約発効、西独主権を取得。西独、NATOに加盟。東独ワルシャワ条約機構に加盟
1961年 「ベルリンの壁」構築
1972年 東西両独、基本条約を締結、関係正常化
1973年 東西両独、国連加盟
1989年11月 「ベルリンの壁」崩壊
1990年7月 両独通貨・経済・社会同盟発足
1990年9月 両独間「統一条約」発効
1990年10月3日 統一
■1986年 廃棄物発生防止・処理規正法
産業廃棄物等の発生源によって規制する規則
■1991年6月 包装材廃棄物政令
■1994年10月 「リサイクル経済促進・廃棄物無公害処分確保法」(廃棄物リサイクル促進法)
■1996年10月 同法施行
製造業者の関与を深める法体系を作った
■2002年1月 デポジット制の制定
環境にやさしくない素材のすべての容器包装廃棄物にデポジットが課される
■2011年7月 脱原発法の成立
2011年3月の福島第一原子力発電所事故の発生を機に反原発の声が高まり、2022年までに国内17基の原発を全て停止することになった。
■ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ
20世紀のモダニズム建築を代表する、ドイツ出身の建築家。“Less is more.” (より少ないことは、より豊かなこと)という標語で知られ、近代主義建築のコンセプトの成立に貢献した建築家である。柱と梁によるラーメン構造の均質な構造体が、その内部にあらゆる機能を許容するという意味のユニヴァーサル・スペースという概念を提示した。
■ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
Wilhelm Furtwangler, 1886年1月25日ベルリン - 1954年11月30日バーデン・バーデン)はドイツの指揮者。作曲活動、ピアノ演奏活動も行った。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督。父はアドルフ・フルトヴェングラーははドイツの考古学者・美術史家。音楽ノート:フルトヴェングラーの没後に残された最終的な推敲を経ていない論考をまとめた本。最終的な推敲を経ていないとはいえ、ほぼ完全な形でまとまったものがほとんどである。特に、「音と言葉」には見られない指揮者自身の役割、フルトヴェングラーの指揮に対する考え方を率直に示した論考も含まれ、極めて貴重である。
■フリードリヒ・フォン・シラー
Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759年11月10日 - 1805年5月9日)は、ドイツの詩人、歴史学者、劇作家、思想家。独自の哲学と美学に裏打ちされた理想主義、英雄主義、そして自由を求める不屈の精神が、彼の作品の根底に流れるテーマである。亡命生活の困窮の中で、身分違いの恋の顛末を描いた市民悲劇『たくらみと恋 (Kabale und Liebe)』(1784)を書き上げ、続いて宮廷を舞台とした戯曲『ドン・カルロス(Don Carlos, Infant von Spanien)』(1787)の執筆を開始する。またこの間、戯曲のみならず詩・評論・歴史書も数多く著す。1783年8月、ふたたびマンハイムへ戻り、劇場お抱え詩人として働くことになる。ここでシャルロッテ・フォン・カルプと知り合う。『たくらみと恋』、『フィエスコの叛乱』を上演した後、シラーは『ドン・カルロス』執筆に難渋し、マンハイム劇場との契約を解除される。これにより、シラーはいよいよ路頭に迷うこととなる。この苦しい生活を支えたのが、シラーの生涯の友クリスティアン・ケルナーとその仲間たちのサークルであった。ケルナー(Christian Gottfried Korner,1756-1831)との交友関係は、精神面でもシラーに与える影響が大きかった。
■ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
独: Ludwig van Beethoven、ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェン:1770年12月16日ごろ- 1827年3月26日。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)であったが無類の酒好きであったため収入は少なく、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言える苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトに弟子入りを申し入れ、モーツァルトにその才能を認められ弟子入りを許されたが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻った。母はまもなく死亡し(肺結核)、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
■嘆きの天使
『嘆きの天使』(ドイツ語: Der blaue Engel)は、1930年製作・公開のドイツ映画である。ハインリヒ・マンの原作を、ドイツに渡ったジョセフ・フォン・スタンバーグが監督した。
■グッバイ、レーニン!
『グッバイ、レーニン!』 (Good Bye Lenin!) は2002年製作、2003年2月に公開されたドイツの映画。監督はヴォルフガング・ベッカー、脚本はベルント・リヒテンベルクとヴォルフガング・ベッカーの共同、音楽は『アメリ』のヤン・ティルセン。東西ドイツ統合後に庶民の身に起こった悲喜劇を家族像と共に描いた佳作。
■フライ・オットー
Frei Paul Otto、1925年5月31日 - はドイツの建築家、構造家。ケーブルネット構造や膜構造を使った空間が評価されている。フランスの捕虜キャンプにおいて、住居の必要に迫られながらも、資材も何もない厳しい状態に直面した。そのときテントを駆使して住居を構築する実験を始めたのが、彼の膜構造建築への関心のはじまりであったといわれている。オットーは、バックミンスター・フラーとも似た「実験」と「実践」の業績を重ねてきたといえる。
■マルクス・バイエル
Markus Beyer、1971年4月28日 - は、ドイツのプロボクサー。元WBC世界スーパーミドル級チャンピオン。アマチュア時代はドイツの代表として1992年のバルセロナオリンピック、1996年のアトランタオリンピックと2度オリンピックに出場している。派手さはないが確かなテクニックを駆使し、対戦相手に自分のボクシングをさせない巧みさがある。
■マックス・シェーラー
Max Scheler, 1874年8月22日 - 1928年5月19日はユダヤ系のドイツの哲学者である。ルドルフ・オイケンの門下生。哲学的人間学の提唱者。初期現象学派の一人。晩年、カイゼルリンク伯の英知の学校で、「宇宙における人間の位置」と題する講演をし、そこで哲学的人間学という哲学的研究の新分野として提案した。彼によれば、現代はわたしたちが人間と は何かということを全く知らず、かつ、そのことを熟知している時代であるとされ、哲学的人間学は、人間が自身に抱く自意識の歴史について、現代その自意識が突然に増大し続けている事態を解釈するための学問とされる。
■カール・ベンツ
Karl Friedrich Benz, 1844年11月25日 - 1929年4月4日は、 ドイツの技術者である。ゴットリープ・ダイムラーと同時期に、世界で最初に実用的なガソリン動力の自動車を発明した。ダイムラー・ベンツ(ダイムラー)の創立者の一人でもあり、メルセデス・ベンツのブランドに名を残している。ベンツは早いうちから工学技術に関心を抱いており、カールスルーエ工科大学に入学して機械工学や内燃機関について学んだ。大学卒業後は、様々な機械工場を転々としてエンジンの開発を目指していた。
■ヨーゼフ・カイルベルト
Joseph Keilberth、1908年4月19日 - 1968年7月20日は西ドイツの指揮者である。カールスルーエでオーバープファルツの音楽家の家庭に生まれ、祖父はミュンヘンの軍楽隊員、父親はカールスルーエのバーデン公国宮廷楽団のチェロ奏者であった。1925年にカールスルーエ国立劇場(現・バーデン州立劇場)のコレペティトールに、1935年より音楽監督に就任。NHK交響楽団やフランス国立放送管弦楽団とはライブ録音も残している。とりわけ、後者とクリスチャン・フェラスとの共演によるベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』の録音は録音の美しさも相まってこの指揮者の代表的な音源の一つに数えられている。
■ヴィリー・ヘス
Willy Hess, 1859年7月14日 − 1939年 ベルリンはドイツの有名なヴァイオリン奏者・音楽教師。マンハイムに生まれ、ルイ・シュポーアの門弟だった父からヴァイオリンの手ほどきを受け、ヨーゼフ・ヨアヒムに師事。1904年から1910年までボストン交響楽団のコンサートマスターを勤めるかたわら、ハーヴァード大学でもヴァイオリンの指導を行う。ほかにハレ管弦楽団や、フランクフルト、ロッテルダムでもコンサートマスターを勤めた。
■ヴィルヘルム・ディルタイ
Wilhelm Christian Ludwig Dilthey, 1833年11月19日 - 1911年10月1日は、ドイツの哲学者。ディルタイは心理学では、記述的・分析的心理学を標榜し、その流れは了解心理学として心理学のひとつの流れになる。これを基盤にして、精神病理学の世界でひとつの成果を打ち出したのが、カール・ヤスパースであった。またそれの哲学的な解釈は、哲学的解釈学としても知られる。これを方法論として、当時流行の現象学に接木したものが、マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』である。
■ヨハンナ・キンケル
Johanna Kinkel, 1810年7月8日 ボン - 1858年11月15日 ロンドンはドイツの作曲家・ピアニスト・合唱指揮者・ 音楽教師・ジャーナリスト・作家・歴史家・革命家。ドイツの詩人でリベラリストのゴットフリート・キンケルと再婚するが、ドイツ1848年革命の挫折の後に、イギリスに亡命せざるを得なくなる。1858年に謎の転落死を遂げる。自殺の可能性が疑われたが、自殺に至る動機がなかった。
■ハインリヒ・ヘルツ
Heinrich Rudolf Hertz, 1857年2月22日 - 1894年1月1日は、ドイツの物理学者。マックスウェルの電磁気理論をさらに明確化し発展させた。1888年に電磁波の放射の存在を、それを生成・検出する機械の構築によって初めて実証した。甥であるグスタフ・ヘルツは1925年にノーベル物理学賞を受賞、その息子であるC.ヘルツは医療用超音波検査を発明した。
■ララ・アンデルセン
Lale Andersen , 本名リーゼロッテ・ヘレネ・ベルタ・ボイル 1905年3月23日〜1972年8月29日はドイツの歌手・女優。第二次大戦中に歌った「リリー・マルレーン」は世界的なヒットとなった。17歳で画家パウル・エルンスト・ヴィルケ(1894〜1971)と結婚、3人の子供(ビヨルン、カルメン・リッタ、ミヒャエル)が生まれるが、3人目の子が生まれてすぐ結婚は破綻。1929年、24歳のララは子供たちを家族に預けてベルリンへ行き、ドイツ劇場の俳優養成学校に通ったと言われている。1931年正式に離婚すると、ベルリンのキャバレーなどのステージに立つようになったが、当時の芸名は「リゼロット・ヴィルケ」であった。
■エルヴィン・ロンメル
Erwin Johannes Eugen Rommel1891年11月15日 - 1944年10月14日)はドイツ陸軍(ドイツ国防軍)の軍人である。第二次世界大戦におけるフランス、北アフリカにおける驚異的な活躍で砂漠の狐として知られる。砂漠のアフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、英首相チャーチルに「ナポレオン以来の戦術家」とまで評された。エルヴィン・ロンメルは、1891年11月15日の日曜日の正午、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国のハイデンハイム・アン・デア・ブレンツにおいて生まれた。子供の頃のロンメルは病気がちでおとなしかったという。姉ヘレーネによるとロンメルは色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていたという。しかしロンメル本人は人事記録の中に挟んだ覚書の中で「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している。
■ヘルマン・ゲーリング
(Hermann Wilhelm Goring 1893年1月12日‐1946年10月15日)はドイツの政治家、軍人。ナチ党政権下のドイツにおいて、ヒトラーの後継者に指名されるなど高い政治的地位を占めた。貧しい青年時代を送ったヒトラーとは対照的に、裕福な育ちを反映して貴族的で豪華な生活を好んだ。派手好きな性向は時に幼児的なほど大胆で単純なものであったが、ドイツ国民にはしばしば「憎めない奴」という一種の好印象さえ与えた。亡き妻カリンを偲んで建てたベルリン郊外の豪邸「カリンハル」はサウナ、映画館、トレーニングジム、迎賓ホールなどを備えた宮殿のような館だった。
■ウィリアム・ハーシェル
(Sir Frederick William Herschel, 1738年11月15日 - 1822年8月25日)は、ドイツのハノーファー出身のイギリスの天文学者・音楽家・望遠鏡製作者。ドイツ語名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェル(Friedrich Wilhelm Herschel)である。天王星の発見や赤外線放射の発見など、天文学における数多くの業績で知られる
■カロライン・ハーシェル
Caroline Lucretia Herschel、1750年3月16日-1848年1月9日)はドイツ生まれでイギリスで活躍した女性天文学者である。ウィリアム・ハーシェルの妹であり、兄の助手として天文観測を行い、自らも(35P)ハーシェル・リゴレー彗星などを発見した。1786年から1797年の間に8つの彗星を発見した。その中にはエンケ彗星など最初の発見者でないものも含まれているが、彗星を発見した最初の女性となった。1797年にフラムスティードの星図に記載されていない561の恒星を含む星表を発表した。
■ハインリヒ・オルバース
(Heinrich Wilhelm Matthäus Olbers, 1758年10月11日 - 1840年3月2日)は、ドイツの天文学者・医学者・物理学者。オルバースは毎晩のように天体観測に明け暮れ、1802年3月28日に小惑星パラスを発見した。1807年4月29日には小惑星ベスタを発見した。オルバースは、「宇宙が一様で無限の広がりを持つならば、宇宙は無数の星によって太陽面のように明るく輝かなければならないが、現実の夜空が暗いのは何故か」という「オルバースのパラドックス」を提唱したことで知られる。
■マルティン・ハイデッガー
(Martin Heidegger、1889年9月26日 - 1976年5月26日)は、ドイツの哲学者。現象学の手法を用い、存在論を展開した。その思想の中心的努力は、解釈学的現象学、現象学的破壊、存在の思索といった時期とともに変遷する特徴的思索をもって、伝統的形而上学を批判し、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事に向けられた。
■ヘルマン・ゴルトシュミット
(Hermann Mayer Salomon Goldschmidt, 1802年6月17日 - 1866年4月26日)は、ドイツ出身の天文学者・画家。生涯のほとんどをフランスで過ごし、14個の小惑星を発見した。ユダヤ系の出身。1802年6月17日、ゴルトシュミットはフランクフルトで生まれた。その後、絵画の勉強をするためパリへ移り、数多くの絵を描いた。その後、1847年の月食観測の際にユルバン・ルヴェリエに指導を受けたことをきっかけとして天文学に転向した。
■フェルディナント・ヒラー
(Ferdinand Hiller, 1811年10月24日 - 1885年5月12日)はドイツのロマン派音楽の作曲家。フランクフルト・アム・マイン出身。ユダヤ系の裕福な家庭に生まれる。アロイス・シュミットに師事し、10歳で最初の作曲を手懸ける。その後ヴァイマルに行ってヨハン・ネポムク・フンメルに師事し、ゲーテの知遇を得る。フンメルのもとでヒラーはピアニストとして大成長を遂げ、1827年にはウィーンでベートーヴェンに面会し、最初の弦楽四重奏曲を作曲。1829年にパリを訪れ、1836年まで滞在する。
■ベッティーナ・フォン・アルニム
Bettina von Arnim, 1785年4月4日 - 1859年1月20日は、ドイツの女流作家・文学者。ドイツロマン主義の最盛期の代表として著名な人物で、また同時代の著名なロマン主義の文学者アヒム・フォン・アルニムの妻でもある。彼女の兄、クレメンス・ブレンターノも同じ著名なドイツロマン主義の詩人である。1810年まで彼女は南ドイツのあちこちを移動し、ここでもルートヴィヒ・ティークやルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのような芸術家たちや学者たちと知り合いになった。
■マックス・シュティルナー
Max Stirner, 1806年10月25日 - 1856年6月26日は、ドイツの哲学者。青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の一人。フィヒテとフォイエルバッハの哲学に影響され、極端な個人主義を軸とする哲学を展開。いかなる人間的共通性にも解消出来ない交換不可能な自己の自我以外の一切のものを空虚な概念として退け、その自己が、自らの有する力によって所有し、消費するものだけに価値の存在を認める徹底したエゴイズム・個人主義という彼の思想は、青年ヘーゲル派のメンバーに大きな影響を与えると同時に批判にもさらされた。しかしながら、彼のエゴイズムは単なる浅薄な利己主義ではなく、個々の人間の人格の独自性と自律性を最大限に重んじる立場である。
■テオドール・アドルノ
(Theodor W. Adorno, 1903年9月11日 - 1969年8月6日)はドイツの哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家である。ヘッセン州フランクフルト・アム・マイン出身。マックス・ホルクハイマー、次世代のユルゲン・ハーバーマスらとともにフランクフルト学派を代表する思想家であり、その影響は現在でもなお大きい。ナチスに協力した一般人の心理的傾向を研究し、権威主義的パーソナリティについて解明した。権威主義的態度を測定するためのファシズムスケール(Fスケール)の開発者であり、20世紀における社会心理学研究の代表的人物である。