フランス French
北東にベルギー、ルクセンブルク、東にドイツ、スイス、南東にイタリア、モナコ、南西にアンドラ、スペインと国境を接し、西は大西洋に、南は地中海に面する。また、北海のドーバー海峡を隔てて北西にイギリスが存在する。海外領土でもサン・マルタン島でオランダと陸上国境を接し、南米植民地の仏領ギアナでは西にスリナム、南にブラジルと陸上国境を接する。首都はパリ。
フランスの国土は西ヨーロッパに位置する本土のほか、地中海に浮かぶコルシカ島、南米のフランス領ギアナ、カリブ海のマルティニーク、グアドループ、インド洋のレユニオンといった4海外県、さらにはニューカレドニアやフランス領ポリネシアなどオセアニアの属領をも含む。その面積は西ヨーロッパ最大であり、可住地の広さは日本のおよそ3.5倍にも達する。本土の形状はだいたい六角形の形を成しており、これはフランスの公用語であるフランス語にも影響し、六角形を意味する"l'Hexagone"が「フランス本土」を意味する。
■パリ
ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。この川の中州であるシテ島を中心に発達した。行政上では、1コミューン単独で県を構成する特別市であり、ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ。セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。■パリ市公式サイト
■パリ大学
Universite de Parisは、フランス共和国の、パリ、クレテイユおよびヴェルサイユの3大学区にある13の大学の総称である。多くのノーベル賞受賞者を送り出している他、政治学、科学、物理学、神学などの分野で優秀な学者を多数輩出。また芸術の教育機関としても名高い。
■パリ国立高等音楽・舞踊学校
Conservatoire de Parisは、フランスの音楽、舞踊、音楽音響のための高等教育機関で、フランス国立高等音楽院のひとつ。音楽の高等教育機関としては世界で最も歴史が深く、その伝統と実績から世界各国の音楽院、音楽大学のモデルにもなっている。
■リヨン国立管弦楽団
(Orchestre national de Lyon)は、フランスのリヨン市に本拠を置くオーケストラである。1969年に、地方オーケストラ再編の一環としてローヌ=アルプ・フィルハーモニー管弦楽団(Orchestre philharmonique Rhô墺夥絖Alpes)として設立。1971年現在名となる。1983年にリヨン歌劇場管弦楽団を分離する。歴代の音楽監督として、ルイ・フレモー、セルジュ・ボド、エマニュエル・クリヴィヌ、デイヴィッド・ロバートソンが務めた。
■スコラ・カントルム
(Schola Cantorum)は、1894年にヴァンサン・ダンディが、パリ音楽院に対抗して設立した音楽学校。設立当初はダンディはシャルル・ボルドとともに裏方に回り、パリ音楽院のオルガン科教授のアレクサンドル・ギルマンが、校長および設立者を務めた。
■ポワティエ大学
University of Poitiersはフランスのポワティエにある大学。1431年にローマ教皇のエウゲニウス4世とフランス王シャルル7世によって設立された。
■リヨン大学
University of Lyonはフランスの都市リヨンにある大学。現在は3つの大学に分かれている。
■パリ・カトリック大学
(L'Institut catholique de Paris) は、フランス共和国のパリにある私立大学。1875年に設立された。多数の学部から構成されており、この大学で修士号や博士号を取得できる。
外務省:フランス共和国
在フランス日本国大使館
■サン=テグジュペリ国際空港
Saint-Exupery International Airportは、フランスのリヨンにある空港である。リヨン・サン=テグジュペリ国際空港ともいう。1994年にTGVとの接続駅であるサトラス駅(現リヨン・サン=テグジュペリTGV駅)が空港近くに開業し、連絡橋で結ばれている。
■オルリー空港
L'Aeroport d'Orlyは、フランス・パリの国際空港。シャルル・ド・ゴール国際空港と並ぶパリの玄関口のひとつ。空港敷地は、オルリーを含むパリ南の郊外コミューン7つにまたがっている。主にヨーロッパ域内、中近東、アフリカ、カリブ海方面へのフライトが就航している。
■ル・ブルジェ空港
AEroport Le Bourgetパリで最初、そしてフランスで最初の本格的空港として、パリ郊外北方のセーヌ=サン=ドニ県のル・ブルジェに1919年に開港した。
■コート・ダジュール空港
AEroport COte d'Azurは、フランスのニースにある国際空港。利用客は約1000万人で、シャルル・ド・ゴール国際空港、オルリー空港に次ぐフランスで3番目に利用客の多い空港となっている。
■シャルル・ド・ゴール国際空港
Charles de Gaulle International Airportは、フランスの首都パリの国際空港。フランスの軍人・大統領のシャルル・ド・ゴールにちなんで名付けられた。
■マルセイユ・プロヴァンス空港
Marseille Provence Airport (IATA: MRS, ICAO: LFML)とはフランスプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ=デュ=ローヌ県マリニャーヌにある空港。マルセイユの市街地からは27km離れている。1922年10月22日に水上機の基地として建設され、パンアメリカン航空が定期便を開設した。1931年にはアエロポスタルとユニオン航空によって、アンティーブまでの定期航路が開設された。
■ストラスブール国際空港
AEroport International Strasbourgは、フランスのアルザス地域圏のストラスブールにある国際空港。空港はストラスブール市街地より南西に約10kmはなれた、エンツハイムに位置している。
■ユーロエアポート
(EuroAirport Basel-Mulhouse-Freiburg)とは、バーゼル・ミュールーズ空港(Basel Mulhouse Airport)の別称である。
■アヴィニョン大学
(l'Université d'Avignon et des Pays de Vaucluse)は、エクス=マルセイユ大学区に属するフランスの大学。ソルボンヌの創設に反対していたローマ教皇ボニファティウス8世と、プロヴァンス伯でもあったナポリ王シャルル2世は、1303年に独自の大学を創設した。これがアヴィニョン大学である。
■モンペリエ大学
l'Universite de Montpellier は、フランス南部の都市モンペリエにある大学。フランスの大学としては屈指の歴史を誇り、とりわけ医学部はヨーロッパ最古とされる。
■マルセイユ
(Marseille) は、フランス最大の港湾都市で、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の首府、ブーシュ=デュ=ローヌ県の県庁所在地である。2005年の人口は約82万人でパリに次ぎフランス第二位、都市圏人口ではパリとリヨンに次ぎ第三位の規模を誇る。フランスにおける貿易・商業・工業の一大中心地である。近接するトゥーロン軍港に対して、貿易港を有する。これはフランスおよび地中海で最大、ヨーロッパでは第3位の玄関港として、110航路、120カ国の360以上の港と連絡している。
■リヨン
(Lyon) は、フランスの南東部に位置する都市で、ローヌ=アルプ地域圏の首府、ローヌ県の県庁所在地である。リヨンの近郊にはリヨン市の人口を含め、164万8216人が住み(1999年)、都市圏としてはフランス第二の規模を持つ。ローマ帝国のガリア属州の植民市ルグドゥヌムとして古代から栄えた物資の集散地であり、中世には市の立つ町としてヨーロッパでも有数の交易地として栄えた。
■ディジョン
(Dijon)は、フランス中部に位置する都市。ブルゴーニュ地域圏の首府、コート=ドール県の県庁所在地である。かつてはブルゴーニュ公国の首都であった。マスタードの生産地として知られる。数多くの戦禍に巻き込まれながら、かつての繁栄の時代を物語る建物が現存する。特に中心部には、12世紀から15世紀にかけ建てられた半木造の建物が残っている。
■モンマルトル
(Montmartre) はパリで一番高い丘。セーヌ川右岸18区にあり、パリ有数の観光名所である。サクレ・クール寺院、テルトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがある。19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントやカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が後に続き、19世紀末の世紀末芸術の時代にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌した。
■ナント
(Nantes)は、フランスの西部、ロワール川河畔に位置する都市。ブルトン語(ブレイス語)ではナオネト(Naoned)、ガロ語ではノーント(Naunnt)と称する。ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏の首府であり、ロワール=アトランティック県県庁所在地である。ブルターニュ半島南東部に位置し、大西洋への玄関口となっている。フランスのグラン・ウエスト地域最大の都市でかつ、国内第6位の都市である。
■ル・アーヴル
Le Havreは、フランス北西部の大西洋に臨む港湾都市。セーヌ川右岸の河口にあたり、ルーアンを首都とするオート=ノルマンディー地域圏セーヌ=マリティーム県に属する。2005年、戦後再建された中心部の街並みが「オーギュスト・ペレによって再建された都市ル・アーヴル」として世界文化遺産に登録された。
■オンフルール
Honfleurは、フランス、ノルマンディー地方の港町である。バス=ノルマンディー地域圏、カルヴァドス県に属し、セーヌ川左岸の河口に位置する。観光の町としても知られ、旧港の風景は印象派の絵画の題材ともなった。画家のウジェーヌ・ブーダンや、作曲家のエリック・サティの生地でもある。
■ジヴェルニー
(Giverny)はセーヌ川の右岸に位置し、パリから西方約80キロ地点にある。印象派画家であるクロード・モネがその晩年に居を構え、連作「睡蓮」を制作した場所として名高い。モネの家は、現在クロード・モネ財団によって運営されており、4月から11月までの間、一般客に開放される観光地となっている。
■ルーアン
(Rouen)は、フランス西部に位置する都市で、オート=ノルマンディー地域圏の首府、セーヌ=マリティーム県の県庁所在地である。古くのルーアンはセーヌ川右岸のみであったが、現在は左岸とラクロワ島も市域に含まれている。市街の北側は丘陵が続いている。
■アヴィニョン
(Avignon)は、フランスの南東部に位置する都市で、ヴォクリューズ県の県庁所在地である。童謡『アヴィニョンの橋の上で』で知られるサン・ベネゼ橋も有名。橋の上で輪になって踊ろうと歌われているが、実際は、踊れるほど安全な橋ではない。渡ることさえ危険なときもあり、橋から転落し命を落とした者さえいる。
■アルル
Arles、はフランス南部にあるコミューン。同国内最大面積を持つ。アルルはローヌ地方の主要な港として、経済的に長い間影響力を残した。19世紀の鉄道の開通が、最終的に水運による貿易を壊滅させてしまい、街をある種の僻地にしてしまった。しかしこのことで、画家フィンセント・ファン・ゴッホにとってこの街が魅力的な目的地となった。彼はその景観に魅了され、アルル時代に300以上の絵画や描画を制作した。夜のカフェ、ファンゴッホの寝室、ローヌ川の星月夜(Starry Night Over the Rhone)、アルルの女を含む彼の有名な絵画の多くはこの地で完成した。
■アンティーブ
Antibes,はフランス南部アルプ=マリティーム県にある保養地。紀元前43年、アンティーブは公式にローマ帝国に併合され、支配が500年続いた。ローマ人はアンティーブをこの地域で一番大きい街に変え、ガリアへの主要な入り口とした。水道橋や要塞壁、アンフォラは今日でも見ることができる。
■オルレアン
フランスの中部に位置する都市で、サントル地域圏の首府、ロワレ県の県庁所在地である。パリの約130km南西に位置する。かつては大都市であったが、現在は250,000人の住民を持つ平均的な都市である。1時間かからずにフランスの首都へ行けるという戦略上の重要性は、輸送コストを減らすという形でビジネスを惹きつけている。
■ミュルーズ
Mulhouseは、フランス東部、アルザス地域圏のオー=ラン県南部の都市。スイスとの国境及び、スイスの主要都市の一つであるバーゼルから近い。染色織物博物館、国立自動車博物館、シテ・デュ・トラン(フランス鉄道博物館)など、産業関連の博物館の集まる都市でもある。
■ランス
(Reims)はフランス北部シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏マルヌ県の郡及び市。人口約20万。シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏最大の都市である。1619年にはジャン=バティスト・コルベールがこの町で生まれている。町は第一次世界大戦で戦場となり、破壊されたことがある。1962年シャルル・ド・ゴール大統領とコンラート・アデナウアー首相がこの地で会見し、歴史的な独仏和解が行われた。
■ニース
(Nice)は、フランスの南東部に位置する都市で、アルプ=マリティーム県の県庁所在地である。市内中心部のマセナ広場とガリバルディ広場を通る二区間は、架線給電ではなく、蓄電池を使用した区間となっている。方式こそ違えど、ボルドーと同様、都市景観を重視した電気方式を採用していることが評価されており、建設にあわせた街路樹の植生や、沿線に15人のアーティストによる現代芸術作品を設置するなどの「街の衣替え」の実践を推進している。
■リール
Lille, は、フランス北部の都市で、ベルギーと国境を接するノール=パ・ド・カレー地域圏の首府、ノール県の県庁所在地である。シャルル・ド・ゴールの生地である。大学が多く、9万人の学生がいる。
■トゥールーズ
Toulouseは、フランスの南西部に位置するコミューンで、ミディ=ピレネー地域圏の首府、オート=ガロンヌ県の県庁所在地である。独特の建築的外観を持つ建物が多いことから、別名『バラ色の都市』(la ville rose)と呼ばれる。これは、他のフランス都市であれば石を山から切り出してきて建築資材に使用するところ、トゥールーズ周辺には資材に適した石がないため、焼いたテラコッタ・レンガを積み重ねて資材としたことに由来する。
■ボルドー
Bordeaux)は、フランスの南西部に位置する都市で、アキテーヌ地域圏の首府、ジロンド県の県庁所在地である。ガロンヌ川河口に位置する港町で、湾曲部にそって三日月形に市街地が形成される港町である。ボルドーワインの産地として世界的に有名。中心部から北側にかけては、都市計画による大通りがある。
■ストラスブール
Strasbourg, は、フランス北東部の、ライン川左岸に位置する都市である。フランスでの発音は「ストラズブール」に近い。アルザス地域圏の首府であり、バ=ラン県の県庁所在地でもある。ライン川の河川港を抱える交通の要衝である。都心にあるカテドラル(ノートルダム大聖堂)、アルザスの伝統家屋が密集したプチット=フランス地区がユネスコの世界遺産に登録されている。イル川の中洲である周囲2kmほどの島が都心であり、観光スポットもショッピングスポットもこの中洲に集中している。
■トゥーロン
Toulonは、フランスの南東部に位置する、地中海に面する都市。ヴァール県の県庁所在地である。地中海のトゥーロン湾にのぞみ、王政の時代から現代にいたるまでフランス海軍の基地がおかれている軍港であり、現在フランス第一の軍港、および海軍工廠、地中海艦隊の司令部がある。
■国際連合安全保障理事会
United Nations Security Councilは、国際連合の主要機関の一つ。安全保障理事会は、実質的に国際連合の中で最も大きな権限を持っており、事実上の最高意思決定機関である。国連主要機関の中で法的に国際連合加盟国を拘束する権限がある数少ない機関でもある。その目的や権限は、国際連合憲章に定められていて世界の平和と安全の維持に対して重大な責任を持つことが規定されている。
■ローランの歌
La Chanson de Rolandは、11世紀成立の古フランス語叙事詩(武勲詩)である。『ローランの歌』は、シャルルマーニュの甥であるローランを称える、約4000行の韻文十音綴から成る叙事詩である。ノルマンディ地方で用いられたアングロ=ノルマン方言の、古フランス語を用いて書かれている。レコンキスタの初期の戦いともいえる、シャルルマーニュ率いるフランク王国とスペインのイスラム帝国の戦いを描いた物語である。
■国名
正式名称は、Republique française(レピュブリク・フランセーズ)。通称、France。 略称、RF。国名の France は、11世紀の『ローランの歌』においてまでは遡って存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている France はフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国[1] に、France という名前が用いられているが、これは後代がそのように名付けているのであって、その時代に France という国名の存在を認定できるわけではない。
1.人口:約6,503万人(2011年1月1日、仏国立統計経済研究所)
2.面積:54万4,000平方キロメートル(仏本土、仏国立統計経済研究所)
3.宗教:カトリック、イスラム教、プロテスタント、ユダヤ教
1946年10月 第4共和制発足
1958年10月 第5共和制成立
2007年5月 サルコジ大統領就任
■主要産業、産業の特徴(1)化学、機械、食品、繊維等(2)農業は西欧最大の規模。工業においては宇宙・航空産業、原子力産業などの先端産業が発達。
■主要貿易品目(1)輸出: 航空・宇宙機材、自動車、薬品(2)輸入: 原油・石油、自動車、天然ガス
■国民運動連合
仏:Union pour un Mouvement Populaire, UMP)は、フランスの保守政党・中道右派政党。2002年に、共和国連合、自由民主党及びフランス民主連合の大部分が合併して形成された。当初は大統領多数連合と称し、ジャック・シラク前大統領支持の与党として出発。現在は、フランス国民議会、元老院の過半数を占める。ニコラ・サルコジ大統領の出身・支持政党。
■フランス民主連合
Union pour la Democratie Francaise)とは、かつて存在したフランス共和国の政党である。略称はUDF。1978年に、当時フランスの大統領であったヴァレリー・ジスカール・デスタンを支持する選挙連合として発足した。従って、結成時は緩やかな政党連合であったが、次第に単一政党としての性格を強めていくことになる。
■政治
現在のフランスは、直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)に首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられ、立法府である議会より行政権の方が強い体制が敷かれている。議会は二院制を採用し、上院に当たる元老院と、下院にあたるフランス国民議会がある。
■フランス共産党
フランス語: Parti communiste francais、通称PCF)は、前身のフランス社会党(SFIO)から左派が分裂して1921年に結成されたフランスの左翼政党。マルクス・レーニン主義を掲げ、パブロ・ピカソやエリック・サティ、イヴ・モンタンらも党員だった時期がある。
■ド・ゴール主義
ド・ゴール主義の最も大きな主張は外国の影響力(特に英米)から脱し、フランスの独自性を追求することである。また、ド・ゴール主義は哲学的な形で社会や経済にも言及しており、政府が積極的に市場や経済に介入することを志向する。
●映画
マルセル・カルネの監督した「天井桟敷の人々」は第二次世界大戦下の戦時中に撮影され、1946年に公開。ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロルなどは、映画の助監督の経験もないまま自分達で個人的に映画製作を始め話題に。
ヌーヴェル・ヴァーグの初期の作品としてジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグら主演のゴダールの「勝手にしやがれ」(1960)、トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959)、シャブロルの「いとこ同士」(1959)がある。
■アヴィニョン演劇祭
Festival d'Avignonは、毎年のヴァカンスの時季に、南フランスのアヴィニョンで開かれている、演劇ほかのフェスティヴァルである。期間中は、約9万の町の人口に匹敵する数の演者・観客が、フランス始め各国から、集まる。演目は、演劇、バレエ、ミュージカル、映画・コンサート、舞踊、コンテンポラリー・ダンス、マリオネット、マイム、騎馬オペラ・サーカス・大道芸など、幅広い。
●音楽
ウィーン古典派からロマン派にかけてドイツ圏の作曲家たちに押されて奮わなくなり、パリで活躍する作曲家もドイツ人が多くなった。その一人オッフェンバックの傘下からビゼーが出現するが短命で世を去り、その後パリ楽壇のボス的存在であったサン=サーンスはドイツ人ペンネームを使うなど、一種の文化植民地状態に陥ってしまう。しかし、そのサン=サーンスを批判したフランク(彼もドイツ系ベルギー人ではあったが)が現れた頃から独自のフランス音楽を模索する動きが高まり、19世紀末20世紀にかけての「フランス6人組」やフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルらによって一つの頂点を築く。
ポピュラー音楽においては20世紀初頭から1950年代にかけてミュゼットや、いわゆるシャンソンとして知られる音楽が流行し、エディット・ピアフやイヴ・モンタン、シャルル・アズナヴールなどが活躍した。また、戦前はアルゼンチンのタンゴが流行し、アルゼンチンでは「パリのカナロ」などの楽曲が作られた。
1960年代から1970年代にはアメリカ合衆国やイギリスのロックの影響を受け、セルジュ・ゲンスブールやシルヴィ・バルタン、フランス・ギャル、ジョニー・アリディ、ミッシェル・ポルナレフ、ジュリアン・クレール、アラン・シャンフォー、ロック・バンドではアンジュ、マルタン・サーカス、ズー、テレフォンヌなどが活躍した。
■ジュール・ヴェルヌ
Jules Verne, 1828年2月8日 - 1905年3月24日は、フランスの小説家。H・G・ウェルズとともにSFの開祖として知られ、SFの父とも呼ばれる。フランス西部ペイ・ド・ラ・ロワール地方のナントで生まれる。家はロワール川の中州の一つであるフェイド島にあり、子供時代はほとんどこの家庭で過ごした。そして、この人里離れた孤立が彼の想像力と兄弟との絆を強くした。また、この当時のナントは交易が盛んで、異国情緒豊かな港町であった。そのようなナントに訪れてくる船乗りたちの冒険話もヴェルヌの冒険心と想像力をかきたて、彼は海の英雄になることを夢見たという。
■ルネ・デカルト
Rene Descartes, 1596年3月31日 - 1650年2月11日は、フランス生まれの哲学者・自然哲学者(自然学者)・数学者。デカルトは1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医者たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。
■クロード・ドビュッシー
Claude Achille Debussy, 1862年8月22日 - 1918年3月25日は、フランスの作曲家である。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。
■エディット・ピアフ
Edith Piaf, 1915年12月19日 - 1963年10月11日)は、フランスのシャンソン歌手。彼女はエディット・ジョヴァンナ・ガション(Edith Giovanna Gassion)としてパリの貧しい地区ベルヴィル(Belleville)に生まれた。 ピアフはベルヴィル街72の路上で生まれたという伝説があるが、出生証明書によればベルヴィルのテノン病院で誕生したというのが事実である。47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフはリヴィエラで癌により死去する。死はその翌日に公表されたが、同日友人のジャン・コクトーが死去した。ピアフの死に衝撃を隠せず「何ということだ」と言いながら寝室へ入りそのまま心臓発作で息を引き取ったという。
■天井桟敷の人々
原題:Les enfants du Paradis「楽園の子供たち」)は、第二次世界大戦中、ヴィシー政権下のフランスで製作された映画。製作期間3年3ヵ月、製作費16億円は、当時としては破格の規模。また各国の映画評論家から高い評価を受ける作品でもある。バチスト・ドビュロー/ジャン=ルイ・バロー:主人公。パントマイム芸人でガランスに思いを寄せる。ガランス(クレール・レーネ)/アルレッティ:落ち目の女芸人。バチストに誘われ、無言劇団「フュナンビュール座」へ。後にモントレー伯爵と結婚。
■ジャン=リュック・ゴダール
Jean-Luc Godard, 1930年12月3日 - )は、フランス・スイスの映画監督、編集技師、映画プロデューサー、映画批評家、撮影監督、俳優である。パリに生まれる。ソルボンヌ大学中退。ヌーヴェルヴァーグの旗手。
■ジャン=ポール・ベルモンド
Jean-Paul Belmondo、1933年4月9日 - )は、フランスの俳優。シリアスなドラマからアクション・コメディまで、出演映画は幅広い。20世紀後半のフランスを代表する俳優の一人。1933年4月9日パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)で生まれる。父のポール・ベルモンドは、フランス美術アカデミーの会長もつとめた彫刻家で画家(シチリアとピエモンテにルーツをもつイタリア系フランス人)、母も画家だった。
■アラン・ドロン
Alain Delon、1935年11月8日 - )はフランスの映画俳優。1960年代から1980年代初めにかけ美男の代名詞的存在だった。身長184cm。4歳で両親が離婚し母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリ(豚肉専門の肉屋)の義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生れた娘(エディット)だけを可愛がった為にアランは除け者とされる。自分の居場所を求めていたアランは苦渋の策としてフランス外人部隊へ志願。1955年休戦条約によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サンジェルマン・デ・プレに落ち着いた。
■モリエール
1622年1月15日 - 1673年2月17日は17世紀フランスの劇作家で、コルネイユ、ラシーヌとともに古典主義の三大作家の一人とされる。本名はジャン=バティスト・ポクラン(Jean-Baptiste Poquelin)で、パリの裕福な家庭に生まれる。オルレアンの大学で法律を学んだ後、俳優となるが芽が出ず、売れない劇団の座長として地方の旅回りを続けた。その中で喜劇作品を書き始めた。
■ジャン=ピエール・ブランシャール
1753年7月4日 - 1809年3月7日はフランスの気球乗り。1785年、気球による世界初のドーヴァー海峡横断に成功。パラシュートの先駆者の1人でもある。科学者というよりはショーマンであった。自称、「気球による空の征服者」。フランス北部のウール県レザンドリで、旋盤工の息子として生まれる。若い頃から発明と機械いじりの才能を示し、独学で、ドライジーネに似た乗り物(16歳)やオートマタ(時期不詳)を作った。しかし彼が真に情熱を抱いていたのは、大空の征服であった。「6枚の翼と舵を持った、鳥形をした空飛ぶ船」に精力を注ぎ、1782年3月5日には公開飛行を試みたが離陸できなかった。
■アレクサンドル・デュマ・ペール
Alexandre Dumas, 1802年7月24日 - 1870年12月5日は、フランスの小説家。ナポレオンがデュマ将軍の死後、遺族に終身年金を下付しなかったため、幼少期は貧しい生活を余儀なくされ、まともな学校教育を受けることが出来なかった。ただし、本人自身も勉強に身をいれるようなことはなかったという。15歳で、公証人役場で見習いとして働きはじめるが、17歳のときに『ハムレット』の劇を見て感激し、劇作家を目指す。パリに上京し、父の友人の紹介で、オルレアン公爵(後のフランス国王、ルイ・フィリップ)家の秘書室に勤めることになったデュマは文学や歴史の勉強に励んだ。
■ジネディーヌ・ジダン
(Zinedine Yazid Zidane 発音例、1972年6月23日 - )は、フランス国籍の元サッカー選手。「ジダヌ」と表記されることもある。現在は現役時に所属したレアル・マドリードのスポーツディレクターを務める。アルジェリア移民2世のカビル人で、マルセイユ北部郊外のラ・カステラン地区の貧困層が多く住む地域で育ったという自身の出自も手伝って、移民国家の象徴としてフランスではスポーツ選手の枠を超えた人気を誇っている。ジダンの両親は、アルジェリア戦争が勃発する少し前の1953年にアルジェリアからパリへ移住。1968年にパリからマルセイユへ引っ越した。そこで4男1女の5人兄弟の末っ子として生まれたジダンは、キャプテン翼の影響でサッカーを始め、友人とのストリートサッカーでサッカースキルを磨いた。子供時代は父親の影響で柔道もしており、11歳の時に茶帯を取得した。
■マリー・アントワネット
(仏: Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃。マリア・アントーニアは1755年11月2日、ウィーンで誕生した。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。フランス革命中の1793年に刑死した。
■ジャン=ジャック・ルソー
(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日 - 1778年7月2日)は、スイス生まれの哲学者・政治哲学者・教育思想家・作家・作曲家。単なる純理論にとどまらない、多感さを反映した著作は広く読まれ、フランス革命やそれ以降の社会思想にも多大な精神的影響を及ぼした。1712年、スイスのジュネーヴに時計職人の息子として生まれるが、母は8日後に死去。7歳頃から父と共に小説や歴史の書物を読み、理性よりも感情の優位を説く思想の基礎を築いた。1725年に父と兄が家を出てしまい、ルソーは牧師に預けられたのちに彫金工に弟子入りをするが3年後に出奔し、放浪生活を送る。
■アンドレ・カプレ
Andre Caplet, 1878年11月23日 ル・アーヴル - 1925年4月22日 ヌイイ=シュル=セーヌ)は、フランスの作曲家・指揮者。ドビュッシーの友人で、ドビュッシーの『聖セバスティアンの殉教』と『おもちゃ箱』において作曲者のオーケストレーションを大幅に補筆したことで知られている。また、『月の光』『子供の領分』など、ドビュッシーのピアノ曲をオーケストラ用に編曲した。
■レーモン・クノー
(Raymond Queneau, 1903年2月21日 - 1976年10月25日)は、フランスの詩人・小説家。『地下鉄のザジ』、『文体練習』などの実験的な作風で知られる。ノルマンディー地方のル・アーヴルに生まれる。1919年にラテン語とギリシア語のバカロレアを取得、翌年には哲学のバカロレアを取得した。1921年から2年間ソルボンヌ大学で文学と数学を学び、哲学と心理学の学士号を取得した。
■エリック・サティ
(Erik Alfred Leslie Satie、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家。「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」と称され、西洋音楽に大きな影響を与えたと見なされている(ドビュッシー、ラヴェルも「その多くの作曲技法はサティによって決定づけられたものだ」と公言)。印象主義の作曲家たちにも影響を与えたとされる。パリ音楽院在学中にピアノ小品『オジーヴ』『ジムノペディ』『グノシエンヌ』などを発表。カフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、コクトーやピカソと交流。
■ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール
(Rene-Robert Cavelier, Sieur de La Salle、1643年11月24日−1687年3月19日)は、フランス人探検家。アメリカ合衆国とカナダの五大湖地域、ミシシッピ川、メキシコ湾を探険し、ミシシッピベイスン全体をフランス領として主張し、「ルイジアナ」と名付けた人物である。
■マルセル・デュプレ
(Marcel Dupre, 1886年5月3日 - 1971年5月30日)はフランスのオルガニスト・作曲家。ルーアンの音楽一家に生まれる。神童であったが、パリ音楽院には1904年に入学し、シャルル=マリー・ヴィドールと、アレクサンドル・ギルマン、ルイ・ヴィエルヌほかに師事した。欧米各地で2000回以上のオルガン演奏会を行い、有名になる。1920年の演奏会では、全10回にわたってバッハのオルガン作品全曲を暗譜で演奏した。
■ジャック・リヴェット
Jacques Rivette、1928年3月1日 - は、フランスの映画監督、脚本家、映画批評家、雑誌編集者である。『カイエ・デュ・シネマ』誌元編集長であり、ヌーヴェルヴァーグの中心的人物である。
■フランソワ・オランド
(Francois Hollande、1954年8月12日 - ) は、フランスの政治家。前フランス社会党第一書記であり、国民議会議員である。セーヌ=マリティーム県ルーアン出身。耳鼻咽喉科の医者ジョルジュ・オランドを父に、ソーシャルワーカーのニコール・トリベールを母に生まれる。
■ナポレオン・ボナパルト
(Napoleon Bonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、革命期フランスの軍人・政治家。1769年、コルシカ島のアジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテと母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子供(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。軍人、小土地自由農民とプチブルジョワジーを基盤とするその権力形態はボナパルティズムと呼ばれる。反面ナポレオンが用い、広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。
■アドリアン=マリ・ルジャンドル
(Adrien-Marie Legendre, 1752年9月18日 - 1833年1月10日)はフランスの数学者。統計学、数論、代数学、解析学で様々な功績を残した。ルジャンドルの研究は多くの数学者に受け継がれ、さまざまな理論が生み出された。例えば、アーベルの楕円関数論の研究や、ガウスによる統計学や数論の研究などは、ルジャンドルの仕事が元となっている。1825年にフェルマーの最終定理の n = 5 の場合の証明を与えた。ちなみに、この証明は1828年のディリクレの証明とほとんど同じだったが、独立に証明された。
■ミレイユ・マチュー
(Mireille Mathieu, 1946年7月22日 - )はフランスの女性シャンソン歌手。フランスのアヴィニョンの貧しい14人兄弟の家に生まれた。現在、世界一沢山のシャンソンのディスクを出した歌手とされている。彼女のテレビ・デビューは1965年11月21日で、それ以来フランスを代表する歌姫として、特に60年代と70年代には絶大な人気を博した。来日公演も幾度か行っている。16歳の時パリに上り、テレビの歌番組でエディット・ピアフの「愛の賛歌」を歌ってチャンピオンとなった。そのとき、「ピアフの再来」と呼ばれ、フランス歌謡界に衝撃を与えた。
■ジャンヌ・カルマン
(Jeanne-Louise Calment、1875年2月21日 - 1997年8月4日)は、人類史上(確実な証拠がある中で)最も長生きをした人物である。フランス人女性であるカルマンは122年と164日間生き、確実な証拠がある中で大還暦を迎えた人類史上唯一の人物である。フェンシングは85歳から始め、自転車は100歳まで乗った。国際的に有名になったきっかけは、1988年にゴッホの百年記念の際、直接会った人としてインタビューを受けた時に、カルマンがゴッホの事を「汚くて、格好も性格も悪い人」だったと語った事であった。114歳の時に本人役で映画「Vincent and Me」に出演して史上最年長の女優にもなった。彼女は自分が喫煙者であることを隠さず、117歳になるまで喫煙した。
■ナディア・ブーランジェ
Nadia Boulanger, 1887年9月16日 − 1979年10月22日はフランスの作曲家・指揮者・ピアニスト・教育者(大学教授)。最高水準にある音楽教師の一人として知られ、20世紀の最も重要な作曲家や演奏家の数々を世に送り出した。10歳でパリ音楽院に入学し、オルガンをアレクサンドル・ギルマンとルイ・ヴィエルヌに、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドールとガブリエル・フォーレに、伴奏法をポール・ヴィダルに師事した。
■アルベール・ルーセル
Albert Charles Paul Marie Roussel, 1869年4月5日トゥールコワン - 1937年8月23日ルーアン)は、印象主義から新古典主義に進み、ラヴェルとともにドビュッシー亡き後のフランス楽壇をリードした作曲家。少年時代は算数に次いで音楽が好きで、しかも海軍の道を志望していた。1889年と1890年に、フリゲート艦イフィジェニー号でインドシナ近海に勤務。明らかにこの航海は、作曲家としての発展において最も有意義な出来事であった。
■フランソワ・トリュフォー
(Francois Roland Truffaut、1932年2月6日 - 1984年10月21日)は、フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人。パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるような、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し、映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。
■ブライム・アスロウム
Brahim Asloum、男性、1979年1月31日 - は、フランスのアルジェリア人プロボクサー。元WBA世界ライトフライ級王者。アマチュア時代にフランス代表として活躍し、フランスに64年ぶりとなるオリンピック金メダルをもたらした。オーソドックスの構えからサウスポーへのスイッチなどを器用にこなし、テクニック重視のボクシングをする。フランスボクシング界の期待の星として注目されていたが、3度目の挑戦にして初めて世界王者となった。
■ジャン=フィリップ・ガシアン
(Jean-Philippe Gatien、1968年10月16日 - )はフランスの元卓球選手。フランスのアレス出身。5歳で卓球を始めた。13歳でパリの国立体育・スポーツ研究センター(INSEP)に入り、17歳からフランス代表として国際大会に出場する。「音速のフットワーク」と呼ばれるほどの優れたフットワークを生かして常にボールの頂点前を捉えるという、独自の前陣ドライブ速攻スタイルを構築し頭角を現す。
■ジャン・ペラン
(Jean Baptiste Perrin, 1870年9月30日 - 1942年4月17日)はフランスの物理学者。息子のフランシス・ペランも物理学者。物質が分子からできていることを実験的に証明した。1926年、ノーベル物理学賞を受賞した。
■ジュリアン・デュヴィヴィエ
(Julien Duvivier, 1896年10月3日 - 1967年10月30日)は、フランスの映画監督、脚本家、俳優である。彼は古典フランス映画のビッグ5の1人である。他の4人は、ジャック・フェデー、ジャン・ルノワール、ルネ・クレール、マルセル・カルネである。
■フィリップ・ノワレ
(Philippe Noiret, 1930年10月1日 - 2006年11月23日)は、フランス・ノール県リール出身の俳優。洋服商の家庭に生まれる。学業に無関心で、リセ・ジャンソン・ド・サイイなどの名門校を転々とする。バカロレア受験に3度失敗した後、諦めて演劇の勉強を始めた。舞台俳優として活動を始めた後、映画デビュー。
■ジャン・アヌイ
(Jean Marie Lucien Pierre Anouilh)はフランス出身の作家・脚本家・劇作家。パリ大学中退後に、ジロドゥーに傾倒し劇作を志す。アヌイはバスク人の血をひきボルドー近郊の小さな村セリゾールに生まれた。彼は仕立屋であった父親から丁寧な物づくりとそれに対する誇りを学んだと考えていた。彼の芸術への傾倒は、バイオリニストであった母の影響であったかもしれない。
■ピエール・ロード
Jacques Pierre Joseph Rode, 1774年2月16日 − 1830年11月25日)は19世紀フランスのヴァイオリニストで作曲家。無伴奏ヴァイオリンのための《24のカプリース(または練習曲)》によりヴァイオリン学習者に親しまれている。日本のヴァイオリン関係者の間では「ローデ」と呼ばれることが多い。