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エストニア共和国
Republic of Estonia

ヨーロッパ

フィンランド湾
バルト海の最奥部、フィンランドとエストニアにはさまれた細長い湾。東西に約400kmの長さがある。平均水深は40mほどで、冬には結氷する。湾の奥にはサンクトペテルブルク、北岸にヘルシンキ、南岸にはタリンなどの都市が位置する。ヴォルガ・バルト水路によりラドガ湖、ボルガ川などと結ばれている。大小多くの島が偏在する多島海である。

バルト海
Baltic Seaとは、北ヨーロッパに位置する地中海。ヨーロッパ大陸本土とスカンジナビア半島に囲まれた海洋であり、日本での古称は東海。面積40万平方km。平均深度は55mと浅い海洋であるが、最大深度は459mとなっている。平均水温は3.9度。特筆すべきこととして、平均塩分濃度が全海洋平均の31.9パーミルと比べて26パーミルとかなり低いことがあげられる。

リガ湾
バルト海の東、ラトビアとエストニアの間にある湾。
面積は約18000km2、水深は最大54m。 北にはサーレマー島があり、イルベ海峡でバルト海の他の部分と繋がっている。 沿岸の主な都市はリガ、パルヌ。注ぐ河川はダウガヴァ川など。

イルベ海峡
(Irbe Strait)は、エストニア領サーレマー島の南端に当たるソルベ半島とラトビアのクールラント半島との間にあり、リガ湾からバルト海への主要な出口となっている。最狭部の幅は27キロメートル。大型船の航行が可能なように南岸に沿って航路が浚渫されている。

ヒーウマー島
Hiiumaa、はバルト海にある、エストニア領の島。サーレマー島の北にある。面積は989 km2。考古学的には、4世紀頃の遺跡が発見されている。文献資料としては、1228年の北方十字軍によるものが初めてのものとなる。

ペイプシ湖
(Peipsi-Pihkva jarv,)は、エストニアとロシアの国境にあるエストニア最大の湖。北のペイプシ湖、南のピヒクバ湖、ふたつを繋ぐレーミ湖から成る。ヨーロッパでもロシアのサンクトペテルブルクの北東に位置するラドガ湖・オネガ湖、スウェーデンのヴェーネルン湖、フィンランドのサイマー湖に続き5番目に大きい。

ナルヴァ川
Narva jogi)は、ペイプシ湖からエストニアのナルヴァ、ロシアのイワンゴロド両市の間を流れフィンランド湾に注ぐ、両国の国境線となる川である。1956年にナルヴァ貯水湖(貯水量:191km2)が造られた。川の全長は75km、川幅の平均は300m水深は5mで、最大の支流はプリュッサ川である。

ヴェリーカヤ川
Velikaja jogi は、ロシア北西部のプスコフ州を流れる河川である。プスコフ州南部のベジャニツカヤ丘陵に発し、北へ流れ、オポーチカ、オストロフ、州都プスコフを経てペイプシ湖に入る。


リヴォニア騎士団
ドイツ騎士団のリヴォニア地域にあった自治的な分団で、1435年から1561年までリヴォニア連盟に参加していた。シャウレンの戦いでサモギティア人に敗北した後、リヴォニア帯剣騎士団の残党はドイツ騎士団に吸収され、1237年にリヴォニア騎士団として分団を組織した。


ヴォロ語
エストニア南東部の言語。エストニア語、フィンランド語、ハンガリー語同様、ウラル語族・フィン・ウゴル語派に属する。ヴォロ人と呼ばれる7万人の人々によって、郷土色の強い地域言語として話されている。タリンやタルトゥその他、エストニアの各地にも話者がいる。

フィン・ウゴル語派
ハンガリー語、フィンランド語、エストニア語などを含む。このほかにロシア連邦などに分布する多数の少数民族の言語を含むが、すでに絶滅した言語、現在危機に瀕する言語も多い。故地はウラル山脈より西のロシア中央部・北部にあるサンクトペテルブルク付近のイングリア(Ingria, インゲルマンラント)で、語族としての形成は紀元前3千年紀にさかのぼると伝えられる。

エストニア語
Eesti keel)はウラル語族・フィン・ウゴル語派・バルト・フィン諸語(英語版)に属する言語。話者は約110万人で、エストニアの主要言語であり、また公用語となっている。フィンランド語に近く、ハンガリー語とも系統を同じくする。

ウラル語族
言語の分類の一つで、主にシベリア(北アジア)中北部、北欧、東欧の民族によって話される諸言語からなる語族である。約2,500万人に話されている。代表的な言語として、フィン・ウゴル語派(故地はイングリア)に属するサーミ語、フィンランド語、エストニア語など、そしてサモエード語派(故地はウラル山脈以東、アルタイ山脈以西)に属するネネツ語(英語版)などに大幅に分かれる。

バルト三国
バルト海沿岸のエストニア、ラトビア、リトアニアの3つの国をいう。3か国とも北大西洋条約機構(NATO)、欧州連合(EU)へそれぞれ加盟している。歴史的にエストニアやラトビアは北欧諸国やドイツと、リトアニアはポーランドとのつながりが深く、また3か国はロシアとも深く関わってきた。

エストニアの歴史
現在のエストニアにあたる土地には紀元前500年頃にはエストニア族(ウラル語族)と呼ばれる民族集団が居住していた。しかし、東方から到来した東スラヴ人と混血し、さらにはヴァイキング(ヴァリャーグ)の襲来によってノルマン人とも混血が進み、10世紀までにはいまのエストニア民族が形成されていった。

デーン人
Daner)とはデンマーク地方に居住していたノルマン人の一派である。イングランドをはじめとした各地に進入し、大帝国を建設した。当初はヴァイキングとして海賊活動を主体として行なったが、後にキリスト教に改宗し、デンマーク王国としてデーン人を包括した統一国家を造り上げる。9世紀にイングランドに侵攻し、デーンロウを築き上げた。


エストニア公国
Hertigdö嗷嚶續 Estland)は1561年から1721年までスウェーデン帝国の自治領であった地域。スウェーデン・エストニアとしても知られる。リヴォニア戦争の最中、現代のエストニアの北部でスウェーデンの法が敷かれた際に、スウェーデンの統治が始まった。

ノヴゴロド公国
公座を大ノヴゴロドに置いていた中世のルーシ(古代ロシア)の主要な都市国家の一つ。中世には特殊な貴族共和制により、しばしばノヴゴロド共和国と呼ばれ、こちらの名前が定着しつつある。「タタールのくびき」にルーシ全体があえぎ、北方十字軍がスラヴ人へ正教からカトリックへの「剣による改宗」を強制していた13世紀のルーシの中心であった。

エストニア・ソビエト社会主義共和国
Estonskaya Sovetskaya Sotsalisticheskaya Respublika)は、ソビエト社会主義共和国連邦の構成国の一つ。第二次世界大戦が起こると、1940年ラトビア、リトアニアとともにソ連に占領、編入される。独ソ戦勃発後は、1941年から1944年まで、ナチス・ドイツの占領下にあった。第二次世界大戦末期にソ連軍による再占領の後、再度、ソ連構成共和国となり社会主義化が行われた。1991年8月20日ソ連から独立。


ニスタット条約
Freden i Nystad、は、大北方戦争の後、1721年9月10日(旧暦で8月30日)にロシアとスウェーデンのあいだで結ばれた講和条約。現在のフィンランドのウーシカウプンキ(Uusikaupunki、スウェーデン語でニュスタード)において結ばれた。大北方戦争中にロシアが占領していたフィンランド、ヴィスマル、フォアポンメルン西部はスウェーデンに返還されたが、カレリアの大部分、エストニア、リヴォニア(ラトヴィア)、イングリア(インゲルマンラント、イジョール)、またバルト海のサーレマー島とヒーウマー島(ともに現エストニア領)はスウェーデンからロシアに割譲された。


■経済
エストニアはバルト3国中で最も経済状況は良好である。フィンランドから高速船で1時間半という立地と、世界文化遺産に登録されたタリン歴史地区を背景に、近年は観光産業が発達している。1年間の観光客数は500万人を超えるともいわれる。その他にもIT産業が堅調で最近では、eストニアと呼ばれている。


■国民
住民は、フィン・ウゴル系のエストニア人 (Estonians) が68.7%、ロシア人が25.6%、ウクライナ人が2.1%、ベラルーシ人が1.2%、フィン人が0.8%、その他1.6%となっている。(2008年時点)残留ロシア人は、大きな問題になっている。


エストニア料理
バルト沿岸諸国としてドイツ料理の影響を強く受けているが、後の支配者であるスウェーデン料理の影響も強く、長くスウェーデンの支配下にあった同じフィン・ウゴル語派の隣国フィンランドと似通った食文化を共有している。フィンランド料理との相違点としては、ドイツの影響を受けてビールを使った料理が好まれること。料理の嗜好にとどまらず、フィンランド人に比べてエストニア人は酒好きと考えられている。


<世界遺産>
タリン歴史地区/旧市街
Historic Center of Tallinnはエストニアの首都タリンの旧市街に残る歴史的遺産。1997年ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。タリンは1219年以来デーン人によって建設され、1346年ドイツ系ドイツ騎士団、1583年スウェーデン、1710年ロシア帝国と支配者が交代した。旧市街にはトームペア城を始め、大聖堂、聖霊教会、聖ニコラス教会、アレクサンドル・ネフスキー教会、城壁などが残る。
シュトルーヴェの測地弧
ドイツ出身のロシアの天文学者、フリードリヒ・ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・シュトルーヴェが中心となって、1816年から1855年に掛けて子午線弧長の測量のために設置された三角点群。これらの観測点群は、地球の大きさなどを正確に測る上で多大な貢献をしたものであり、当時設置された265か所の測量点のうち34か所が、2005年にユネスコの世界遺産に登録された。


サーレマー島
Saaremaaはバルト海にある、エストニアで最も大きい島。中心都市は南岸にある人口14,919人(2006年)のクレッサーレである。北方十字軍の後、デンマーク、スウェーデン、ロシア帝国と支配者を代えた。第一次世界大戦中にドイツ軍が北岸に上陸して島を占領した。第一次世界大戦後は、エストニア領として帰属した。紀元前660年頃に形成され、フィンランド神話にも伝えられたカーリ・クレーターがあることで知られる。


オイルシェール
oil shaleとは、油母 (ケロジェン、en:kerogen) を多く含む岩石である。これらを化学処理して液状もしくはガス状炭化水素とすることができる。油母を熱分解することで、合成石油にすることができる。すなわちオイルシェールを加熱すると、油の蒸気や可燃性のガス(オイルシェールガス)が発生するので、これを回収して使用する。オイルシェールを発電や暖房目的で直接燃やすこともあり、化学産業の原料として使うこともある。オイルシェールは石油の代替エネルギーとなりうる。

シェールガスは温室効果ガスを大量に発生する。その発生量は単位熱量比較だと天然ガス、石油など他の化石燃料よりも多く、非常に大きな欠点である。

オイルシェールは腐泥岩(en:sapropel)の一種であり、有機物を多く含む堆積岩である。オイルサンドが油分を含むのに対し、オイルシェールに含まれる油母は地中での加熱や加圧が不十分なため、油分にまで分解していない。また、石炭に比べると有機物の含有率が低い。商業的に取引されているオイルシェールに含まれている有機物と無機物の比率は、0.75:5から1.5:5(つまり有機物の割合が13%から23%)である。


カルマン・キャス
Carmen Kass, 1978年9月14日 - は、エストニア出身のスーパーモデル。パイテに生まれる。母親が農場で働いて女手一つで彼女を育てた。14歳のときにタリンのスーパーマーケットでイタリアのモデル・エージェンシーにスカウトされミラノに移りモデルとしてのキャリアをスタートした。18歳でパリに移り、ヴォーグ誌やELLEの表紙を飾るようになる。

把瑠都凱斗
1984年11月5日 - は、エストニア・ソビエト社会主義共和国(現在のエストニア共和国)ラクヴェレ県エバベレ村出身で尾上部屋(入門時は三保ヶ関部屋)所属の現役大相撲力士。本名はカイド・ホーヴェルソン 。柔道経験者であり、18歳の時、本人曰く「出場選手4人」とのことだが、柔道エストニアジュニア王者の栄冠に輝いた。早くに父を亡くし生活苦に喘いでいたこともあり、バーの警備員を務めていたこともあった。また、その優しい性格と太り気味の体格からいじめを受けていたとされる。

エルンスト・エピック
1893年10月23日 − 1985年9月10日は、現在のエストニアの天文学者である。後半生は北アイルランドのアーマー天文台で活動した。主に小惑星、彗星、流星などの小天体の分野などを研究した。姓は「オピック」とも表記する。

アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン
1770年11月19日 - 1846年8月24日はエストニア出身のロシア海軍提督であり探検家。ロシアで最初に世界周航(1803年 - 1806年)を行った。彼はこの航海で「日本海」を通り、後に彼が作成した地図には「日本海」を "MER DU JAPON" と記したとされ、「日本海」を最初に命名した人物として日本の百科事典類には記されている。

フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルト
Friedrich Reinhold Kreutzwald, 1803年12月26日 はロシア帝国エストラント県ヴィールラント地方、ザンクト・カタリーネン近郊 イェンパー- 1882年8月25日 ドルパット(現タルトゥ))エストニアの作家・医師。

ハインリヒ・レンツ
Heinrich Friedrich Emil Lenz, 1804年2月12日 - 1865年2月10日は、1833年のレンツの法則で有名なエストニアの物理学者。現在はエストニアの都市であるタルトゥで生まれた。タルトゥ大学で物理学と化学を学んだ後、1823年から1826年に行われたオットー・フォン・コツェブーの第3回の世界一周調査に参加し、各地の海水の水質や物理的性質の研究を行った。1833年、「磁界の変化によってコイルに発生する起電力はコイルを貫く磁力線の変化に比例し、発生する電流の向きは磁力線の変化を妨げるような向きとなる」というレンツの法則を発見し、1842年にジュールの法則をジュールとは別に発見した。

レポ・スメラ
Lepo Sumera, 1950年5月8日 - 2000年6月2日は、エストニア(ソビエト連邦)の作曲家。10代でヴェリヨ・トルミスに、1968年からはエストニア音楽大学で、著名なヘイノ・エッレル教授について学んだ。1970年にエッレル教授が亡くなってから1973年の卒業までは、ヘイノ・ユリサルの指導を受けた。大学卒業後は、1979年から1982年まで、モスクワ音楽院でロマン・レデネフ教授に学んだ。

トーマス・ゼーベック
Thomas Johann Seebeck, 1770年4月9日 - 1831年12月10日はドイツの物理学者、医師。1821年にゼーベック効果を発見した。レバル(現在のエストニア、タリン)でバルト・ドイツ人商人の家庭に生まれる。ギムナジウム卒業後はベルリン大学とゲッティンゲン大学で医学を学び、1802年にはゲッティンゲン大学から医学博士の学位を受けた。ゼーベックは医業のかたわら物理実験を行なった。最初イェーナで光学の研究を始め、太陽スペクトルの異なる色における熱効果や化学作用を調べた。

ジョージ・ハッケンシュミット
Georg Karl Julius Hackenschmidt、1878年8月2日 - 1967年2月19日はエストニア、タルトゥ生まれの元プロレスラー。近代プロレスリング創成期を代表する選手として活躍し、ラシアンライオン(ロシアのライオン)の異名をとった。ベアハッグの発明者としても広く知られる。全盛期の鍛え抜かれた強靭な筋肉と、そこから搾り出されるパワーは当時より伝説化しており、ハッケンシュミットの活動期より約1世紀が経過する現在においても特異な存在感を放っている。

ティウ・キュイク
(Tiiu Kuik[1], 1987年3月16日 - )は、エストニアのファッションモデル。身長181センチ。猫のような顔立ちと、左頬のほくろがトレードマーク。業界内では美肌の持ち主としても有名。タリンで生まれ、13歳のときに地元の食品見本市でスカウトされる。

カール・クラウス
(Karl Ernst Claus, 1796年1月23日 - 1864年3月24日)はロシアの化学者である。1844年ルテニウムを発見した。ドルパート(現タルトゥ)に生まれた。14歳で薬局の徒弟になった。30歳頃自分の薬局をカザンにもって成功し、余暇に動植物の研究を続けた。1827年ウラル、ヴォルガ地方を探検し、植物誌を発行した。

ローベルト・ゲルンハルト
(Robert Gernhardt, 1937年12月13日 ドルパート - 2006年6月30日 フランクフルト)は、ドイツの作家・詩人・風刺画家である。エストニア出身。シュトゥットガルトやベルリンで絵画を学び、F・K・ヴェヒター(F. K. Waechter)やF・W・ベルンシュタイン(F(ritz). W(eigle). Bernstein=フリッツ・ヴァイグレ)と共に雑誌「パードン」の編集者を務めた。

マティアス・ヤコブ・シュライデン
(Matthias Jakob Schleiden、1804年4月5日 − 1881年6月23日)は、ドイツの植物学者、生物学者。テオドール・シュワンと共に細胞説の主唱者として知られる。ハンブルク出身。元は弁護士だったが1832年、自殺未遂を起こし、生物学、特に植物学に目覚める。

クリスチャン・ヤルヴィ
(Kristjan Jarvi, 1972年6月13日 タリン - )はエストニア出身のアメリカ人指揮者。同じく指揮者であるネーメ・ヤルヴィの末子である。指揮者である兄パーヴォも、フルート奏者である姉マーリカも熟練の音楽家である。7歳のとき家族に連れられ渡米する。ニューヨークに育ち、マンハッタン音楽学校でニーナ・スヴェトラーノヴァにピアノを学ぶ。その後はミシガン大学でケネス・キースラーに指揮法を師事。

オットー・フォン・コツェブー
(Otto von Kotzebue, 1787年12月30日 - 1846年2月15日)はロシア帝国のために働いたバルト・ドイツ人の航海士。アウグスト・フォン・コツェブーの次男として、当時ロシア帝国領、現在はエストニア領であるタリン(当時はレルと呼ばれた)で生まれる。

シュトルーベ
(Struve)は、4代にわたってドイツ、ロシア、アメリカで活躍した天文学者を輩出した家系。詳細はStruve familyにある。フリードリッヒ・フォン・シュトルーベ(1793年 - 1864年) - タルトゥ大学天文学教授兼同天文台長を務め、その後新設されたプルコヴォ天文台長を務めた。

エンデル・タルヴィング
(Endel Tulving、1927年 - )は、エストニア生まれのカナダ人心理学者。人間の記憶についての世界的権威の一人。トロント大学名誉教授。人間の記憶に、エピソード記憶と呼ばれる特別な記憶があることを提唱し、それが人間らしさを作る特徴であるという記憶理論を展開した。

レイン・ターラミャエ
(Rein Taaramae、1987年4月24日 - )は、エストニア、タルトゥ出身の自転車競技(ロードレース)選手。2011年パリ〜ニース 総合4位 & 新人賞、クリテリウム・アンテルナシオナル 総合3位、エストニア選手権・ITT 優勝。ツール・ド・フランス総合12位。新人賞部門2位。ブエルタ・ア・エスパーニャ 区間1勝(第14)2012年エストニア選手権・ITT 優勝

ジェルマン・アンリ・ヘス
(Germain Henri Hess、1802年8月7日 - 1850年11月30日)はスイス生まれのロシアの化学者である。化学反応の反応熱の総量は、その反応の初めの状態と終わりの状態で決まり、途中の経路には関係しないというヘスの法則を1840年に発表した。時期的にはマイヤーがエネルギー保存則の論文を書く2年ほど前である。ジュネーヴに生まれたが、家族と共にロシアに移住した。現在のエストニアのドルパート大学で医学を学び、後にストックホルムのベセリウスのもとで化学を勉強した。

シーム・カラス
Siim Kallas、1948年10月2日 - )は、エストニアの政治家。現在は欧州委員会で輸送担当委員を務めている。バローゾ委員会のときには5人の副委員長の一人だったが、第二次バローゾ委員会に改造された際に現在の職に任命された。2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火で、カラスは欧州連合が定めた飛行機の運行再開の延期を守ったことで、航空業界の非難の的にされた 。

エストニア Estonia
ヨーロッパ北東部の共和制国家である。バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の一つであり、南にラトビア、東にロシアと国境を接し、西はバルト海、フィンランド湾に面している。首都はタリン。

タリン
Tallinnはバルト海の最奥部・フィンランド湾に面するエストニア共和国の首都。人口約40万。市街が世界遺産『タリン歴史地区』に指定されている。 2011年の欧州文化首都。同国の北岸に位置しフィンランドのヘルシンキから南80kmに位置している。フィンランド湾を隔てて向かい合うヘルシンキとはわずか80キロしか離れておらず、フェリーで3時間程度、高速船なら1時間半程度の距離である。フィンランドよりも物価(特に酒類)が安いため、タリン市内へ多くの買い物客が訪れる。


タルトゥ大学
University of Tartuはエストニアの都市タルトゥにある大学。グスタフ2世アドルフによって、1632年に設立された。当時の呼称は「アカデミア・グスタヴィアナ」であった。スウェーデンによって建てられた大学としては、ウプサラ大学に続き2番目に古い大学である。タルトゥに大学を建てた理由としては、まだカトリックが有力だったこの地域にプロテスタントを定着させる狙いがあったとされる。

エストニア音楽アカデミー
(Eesti Muusika- ja Teatriakadeemia)はエストニアのタリンにある国立の音楽大学。1918年に設立され、現在はおよそ560人の学生と260人の教員がいる。著名な卒業生に作曲家のアルヴォ・ペルトがいる。


外務省:エストニア共和国
在エストニア日本国大使館


カルドラ
Kertellは、エストニアのヒーウマー島にある、ヒーウ県最大の町。カルドゥラ、カルトラなどとも表記される。ヒーウマー島の東海岸、タレステ湾沿いに位置する。街の南東には4億5500万年前のクレーターがある。

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ヴィリャンディ
エストニア南部の都市及び基礎自治体で、ヴィリャンディ県の県都、ハンザ同盟都市である。人口は2007年現在19,870人である。最古の集落は紀元前5世紀にまでさかのぼる。エストニア人の城が築かれたのはヴァイキング時代のことである。最初に文書に記録されたのは1154年の地理学者イドリースィーによる。

パルヌ
エストニアの都市。バルト海のパルヌ湾沿いにある都市であり、エストニア屈指のリゾート地としても知られる。ピャルヌとも表記される。人口は約4万5千人(2004年)。13世紀、リヴォニア騎士団がこの地に拠点を築いた。バルト海と内陸を結ぶ交易路上に位置しており、14世紀半ばよりハンザ都市の一つとして繁栄した。その支配国を幾度かかえたのち、18世紀の大北方戦争によってロシアに征服され、1721年のニスタット条約でその領有が確認された。

コフトラ=ヤルヴェ
エストニアの北東部にある同国第四の都市、自治体。コホトラ=ヤルヴェなどとも表記される。1924年に設立され、1946年に町となった。オイルシェールが産出されることから、大手石油製品メーカーが軒を連ねている。

パイデ
Paideは、エストニアのイェルヴァ県に位置する町。同県の県都でもある。1291年9月30日にリヴォニア騎士団の長によって建設され、現在でもリヴォニア帯剣騎士団が建てた城塞が残る。

ヨゲヴァ
エストニアにある人口6000人ほどの田舎町。ヨゲヴァ県の県都である。ドイツ語名はライスホルム(Laisholm)。1938年5月1日に町制が敷かれた。1940年1月17日にエストニア史上最も寒い-43.5℃を記録し、現在も破られていない。

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ハープサル
(Haapsalu) はエストニア共和国西海岸のレーネ県にある都市で、同県の県都。リゾート地でもある。風光明媚な海岸線、この一帯で取れる治療用の泥、海岸まで続く瀟洒な町並み、ハープサルショールで知られる。 冷戦時代には郊外に空軍基地があった。

クレサーレ
エストニア、サーレマー島にある都市。クレッサーレとも。リガ湾に面している。クレサーレが最初に歴史に登場したのは1422年である。町は司教邸宅(1381年にラテン語名アルクス・アクイラエとして記載あり)周辺で発展した。

ヴァルガ
Valga、は、エストニアの都市。ヴァルガ県の県都。ラトヴィア国境に接している。人口は14055人(2004年)。中世では、ヴァルク(Walk)と称された都市がタルトゥ司教領とリヴォニア帯剣騎士団領の境界に位置していた。


北大西洋条約機構
アメリカ合衆国を中心とした北アメリカ(=アメリカ合衆国とカナダ)およびヨーロッパ諸国によって結成された軍事同盟。英語圏などでは NATO、ロマンス系諸言語圏(仏・伊・西・葡・ルーマニア等)では OTANと呼ばれる。

シェンゲン協定
ヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えることを許可する協定である。欧州経済共同体に加盟していた当時の10の加盟国のうちベルギー、フランス、ルクセンブルク、オランダ、西ドイツの5か国が1985年6月14日にルクセンブルクのシェンゲン付近を流れるモーゼル川に投錨していたプランセス・マリー=アストリ号において署名した文書。

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1.面積:4.5万平方キロメートル(日本の約9分の1)
2.人口:約134万人(2011年)
3.首都:タリン ※タリン歴史地区(旧市街)は世界遺産。
4.言語:エストニア語
5.宗教:プロテスタント(ルター派)、ロシア正教等

1219年 デンマーク人が進出し、タリン市を築く。
1346年 ドイツ騎士団が進出し、領有。
1629年 スウェーデン領となる。
1721年 北方戦争の結果ロシア領となる。
1918年 独立を宣言。
1920年 ソ連と平和条約を締結。
1940年 ソ連に併合。
1990年8月20日 エストニア最高会議が独立回復に関する決定を採択。
1991年9月6日 ソ連国家評議会がバルト三共和国の国家独立に関する決定を採択。
2004年3月 NATO加盟
2004年5月 EU加盟
2010年12月 OECD加盟
2011年1月 ユーロ導入

■主要産業:製造業、不動産業等。製造業においては、機械、鉱産物、金属製品等が主要輸出品。近年は建設等の分野も発展している。エネルギー資源関連では、オイルシェールを産出、主として発電に利用している。

■主要貿易品目(1)輸出:鉱産物(オイルシェール精製油、電力等)、電気製品・部品(携帯電話関連物品等)、電力(2)輸入:鉱産物(原油、天然ガス等)、自動車、電気製品(生活家電等)


ユーロ
ヨーロッパでは23の国で使用されている。この23か国のうち17か国が欧州連合加盟国である。ユーロは準備通貨としてはアメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位を有していた。さらに、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていた。しかし、近年のユーロ危機で、通貨連盟の矛盾が表面化しその存続を危ぶむ意見さえも出るようになってきている。

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オフショア
(offshore, offshoring)とは、金融用語では、外国の投資家や企業の資産管理を受け入れる金融機関や市場を指す。おおむね『タックス・ヘイヴン』(租税回避地)と同義語として使用される。タックスヘイブンとして利用される地域は、法律の適用状態が緩やかで、資産や投資活動に対する課税がないか、少額である必要がある。こういった条件を満たす代表的な地域として、イギリスのマン島など本土の海岸から少し離れた島(マン島はグレートブリテン島とアイルランド島の中間くらいの位置にある)が挙げられる。このことから「国または本土の沿岸から遠く離れた地域」を意味する「オフショア」という言葉[1]が、租税回避地という意味を持つようになった。


タルトゥ
エストニアで2番目に人口の多い都市である。首都のタリンが政治・商業の中心であるのに対して、エストニア最古の大学があるタルトゥはエストニアの学問・文化の中心である。タリンの南180kmにあり、南エストニアの中心都市である。

ナルヴァ
Narvaは、エストニアの都市。かつては「バルト海の真珠」と称される美しい街並みを誇った。18世紀前半における大北方戦争の主戦場として有名。第二次世界大戦における激しい攻撃によって一旦灰燼となり、その歴史的な街並みの多くは失われた。人口は約67,000人で、人口規模ではタリン、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市である。

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ヴォル
Voru)は、エストニア南東部の町。ヴォル県の県都で、ヴォル教区の中心地でもある。1784年8月21日に、ロシア皇帝エカチェリーナ2世の要請に応える形で、リガ総督伯ジョージ・ブラウンの命により築かれた。

ユフヴィ
Johviは、エストニアの町でイダ=ヴィル県の県都。ユフヴィ教区の行政の中心でもある。ロシア国境から50kmに位置する。ソ連時代に移り住んだロシア人とその子孫が人口の58%を占めるため、エストニア人は少数派である。

ラクヴェレ
(Rakvere) はエストニア共和国のレーネ=ヴィル県にある都市で、同県の県都。 大相撲の力士である把瑠都の出身地である。


タリンテレビ塔
Tallinna teletornは、エストニアの首都タリンにあるテレビ塔。テレビ塔だが展望台がある。1980年のモスクワオリンピックで行われるレガッタのイベントに向け、より良質の電信サービスを提供する目的で建設された。塔はタリン中心部から北東に6キロメートルの場所にある地区、ピリタ近郊に位置する。


カルラ国立公園
Karula rahvuspark)は、エストニアの南部にある国立公園である。1979年に保護の対象となり、1993年に国立公園として制定された。

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ラヘマー国立公園
Lahemaa rahvuspark)は、エストニアの北部にある国立公園である。1971年に国立公園として制定された。ソビエト連邦の初の国立公園である。首都タリンから70キロメートル北に位置する。

マッツァル国立公園
Matsalu rahvuspark)はエストニア・ラーネ県にある国立公園であり、また自然保護区でもある。ヨーロッパにおいて渡り鳥が秋を過ごすのに最も重要かつ大規模な場所の一つである。


パウリ・ケレス
Paul Keres、1916年1月7日 - 1975年6月5日は、エストニア出身の旧ソビエト連邦のチェスプレーヤーである。ナルヴァ生まれ。4歳の時、父親がチェスを指しているのを見てチェスを覚えた。しかし長い間「世界チャンピオンになれなかった最強のプレーヤー」と呼ばれた。なおケレスはソビエト連邦選手権では3回チャンピオンとなっている。

ヴァレリー・カルピン
Valeri Karpin、1969年2月2日 - は、エストニア、ナルヴァ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF(RSH、OH)。1994年のアメリカW杯にも出場。同年リーガ・エスパニョーラ・レアル・ソシエダへ移籍し、その後バレンシアCF、セルタ・デ・ビーゴとスペインのクラブチームを転々とし、セルタではアレクサンドル・モストヴォイとともにチームの躍進に貢献。モストヴォイとのコンビは「ロシアン・コネクション」と呼ばれ称えられた。

エリッキ=スヴェン・トゥール
1959年10月16日 - は、エストニアの作曲家。エルッキ=ズヴェン・トゥール、エルキ=スヴェン・ティールとも表記される。エストニアのヒーウマー島カルトラに生まれた。1976年から1980年にかけて、タリン音楽学校でフルートと打楽器を、1980年から1984年にかけて、タリン音楽アカデミーでヤーン・ラーツから作曲を、また個人的にレポ・スメラからも学ぶ。その一方で、1979年から1984年にかけて、「In Spe」というロック・グループを率いて活動。トゥールは作曲に専念するため、In Speを脱退。ペレストロイカの到来で、すぐさま西側の聴衆に注目される。ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団、ヒリヤード・アンサンブル、ストックホルム・サクソフォーン四重奏団、バーミンガム市交響楽団などが彼に作曲を委嘱した。

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アルヴォ・ペルト
1935年9月11日- はエストニア生まれの作曲家である。しばしばミニマリスムの楽派に属する一人とされる。ペルトの音楽教育は7歳より開始され、14、5歳の頃には既に作曲をしていた。タリン音楽院(Tallinn Conservatory)で作曲の勉強をしている彼について、ある級友は次のように語っている:「彼はまったく多作で、袖を振るだけでNote(音符)が落ちてくるようだったよ」。当時、ソヴィエト連邦外部からの影響は皆無に等しく、入手可能な物と言えば精々非合法のテープとスコア程度だった。

ルイス・I・カーン
Louis Isadore Kahn, 1901年2月20日 - 1974年3月17日は、20世紀を代表するエストニア系アメリカ人建築家で、都市計画家、いくつかの大学で研究講義した。1901年、ロシア帝国(当時)のエストニア地方サーレマー島で、ユダヤ人の父レオポルドと、同じくユダヤ人の母ベルサとの間に、2男1女の長男として生まれる。1904年、レオポルトが職を得て単身アメリカに移住すると、1906年に家族も続いて渡米し、一家はフィラデルフィアに定住した。しかし家計は貧しく、ルイスも映画館でオルガンを弾きながら家族を支えたという。

アンドルス・バルニク
1977年9月27日 - は、エストニアの陸上競技選手である。2005年世界選手権の男子やり投の金メダリストである。自己ベストは、2003年に出した87m83である。

ローベルト・ゲルンハルト
Robert Gernhardt, 1937年12月13日 ドルパート - 2006年6月30日 フランクフルトは、ドイツの作家・詩人・風刺画家である。エストニア出身。シュトゥットガルトやベルリンで絵画を学び、F・K・ヴェヒター(F. K. Waechter)やF・W・ベルンシュタイン(F(ritz). W(eigle). Bernstein=フリッツ・ヴァイグレ)と共に雑誌「パードン」の編集者を務めた。

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ウルマス・シサスク
Urmas Sisask, 1960年9月9日 - はエストニアの作曲家。ラプラ出身。1985年にエストニア音楽アカデミーを卒業した。特にグレゴリオ聖歌とバロック音楽を専攻した。幼い頃より天体観測に興味があり、太陽系の惑星の軌道計算に基づいた、#ド・レ・#ファ・#ソ・ラという音階を編み出した。偶然にもこれは日本の音階と同じものになっており、神秘的かつ古風な作風をもたらしている。

ヴェリヨ・トルミス
Veljo Tormis, 1930年8月7日 - はエストニアの作曲家。ヴェリョ・トルミス、ヴェルヨ・トルミスの表記も用いられる。存命中では最も偉大な合唱作曲家の一人に、また20世紀のエストニアで最も重要な作曲家の一人に数えられている。音楽教師で合唱指揮者・オルガン奏者の父親の影響の下に早くから合唱を始める。オルガンストップがもたらす対照的な音色に親しんだことが、成熟期の作品に特徴的な、合唱曲のテクスチュアや楽器法にも影響を及ぼしたようだ。

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル
Jakob Johann Baron von Uexkull、1864年9月8日 (ケブラステ) - 1944年7月25日 (カプリ島))は、エストニア出身のドイツの生物学者・哲学者である。それぞれの動物が知覚し作用する世界の総体が、その動物にとっての環境であるとし、環世界説を提唱。動物主体と環世界との意味を持った相互交渉を自然の「生命計画」と名づけて、これらの研究の深化を呼びかけた。また生物行動においては目的追求性を強調し、機械論的な説明を排除した。

トーマス・イルヴェス
(Toomas Hendrik Ilves、1953年12月26日 -)は、エストニア共和国の政治家、大統領。2006年10月9日就任。(任期は5年間)第二次世界大戦後、両親はスウェーデンに移住し、トーマスは移住先のストックホルムで生まれた。父は数学者で、母は心理学者でニュージャージー州に在住。1976年、ニューヨークのコロンビア大学心理学部を卒業し、学士号を取得。

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アンドルス・アンシプ
(Andrus Ansip)はエストニア共和国の現首相で、エストニア改革党の現党首。世界の主要なクロスカントリー10大会を完走した称号を持つ強者で、 2010年2月14日札幌国際スキーマラソンの男子50キロに出場して、3時間27分44秒で完走した。

ロマン・ウンゲルン
Roman von Ungern-Sternberg, 1886年1月22日 - 1921年9月15日)はロシアの軍人、貴族(男爵)で、白軍の首領の一人。 オーストリアのグラーツに、バルト・ドイツ人の貴族の子として生まれる。その後エストニアのタリン、そしてサンクトペテルブルクへ移る。パヴロフスク軍事学校で学んだ後、シベリアへ渡り、モンゴル族やブリヤート人に興味を抱く。

ヴォルフガング・ケーラー
(Wolfgang Kohler 1887年1月21日 - 1967年6月11日)は、ドイツの心理学者。ゲシュタルト心理学の創始者の一人。エストニアのレヴァル(現タリン)出身のバルト・ドイツ人。若いころにドイツに渡独しベルリン大学で博士号を取得した。類人猿が試行錯誤によらない見通し学習を行うことを発見した。

 

レナルト・メリ
(Lennart Georg Meri、1929年3月29日 - 2006年3月14日)は、エストニアの政治家、作家、映画監督。エストニア独立運動の指導者として活躍した後、1992年から2001年までエストニア共和国大統領を務めた。1929年3月29日エストニアの首都タリンにエストニア人の外交官でシェークスピアの翻訳家であったゲオルグ・メリの子として生まれる。メリは早くから外国で学び、いくつもの学校を渡り歩いた。

ネーメ・ヤルヴィ
Neeme Jarvi, 1937年6月7日 - はエストニア出身の指揮者。旧ソ連時代のタリン出身。タリン音楽院で打楽器と合唱指揮を学んだ後、レニングラード音楽院に進んでエフゲニー・ムラヴィンスキーに師事。タリン音楽院に在学中にはエストニア放送交響楽団(現エストニア国立交響楽団)で打楽器奏者として活躍した。その後指揮者に転じ、エストニア放送交響楽団、エストニア国立歌劇場の音楽監督を歴任。

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エルキ・ノール
(Erki Nool、1970年6月25日-)は、エストニアの陸上競技選手。十種競技の選手であり2000年シドニーオリンピックの金メダリストである。シドニーオリンピックの十種競技の円盤投で、円盤投の審判がファールと判定したものを、競技審判が有効と判定を覆し、ノールの唯一の円盤投の有効記録43m66が復活し金メダルを獲得した。

ニコライ・ロパトニコフ
(Nikolai Lopatnikoff,1903年3月16日 - 1976年10月7日)は、ロシア系アメリカ人の作曲家。タリン出身。サンクトペテルブルク音楽院で理論とピアノを学ぶが、ロシア革命で出国。フィンランドに逃れ、ヘルシンキで1920年まで音楽の勉強を続けた。1921年にドイツのハイデルベルクに至り、カールスルーエ大学で工業を学び、1927年に卒業した。その間、作曲をエルンスト・トッホ、ヘルマン・グラブナー、ウィリー・レーベルクにマンハイムやベルリンの音楽院で師事。

フリードリッヒ・フォン・シュトルーベ
Friedrich Georg Wilhelm von Struve、1793年4月15日 − 1864年11月23日、ユリウス暦11月11日)はドイツ系ロシア人の天文学者である。シュトルーベ家は4代に渡ってロシア、ドイツ、アメリカ合衆国で活躍した天文学者を輩出した。現在はドイツ、ハンブルク市の一部となっている、当時デンマーク領のアルトナに生まれた。1808年に現在のエストニア、当時はロシア帝国のタルトゥ大学で学んだ。1813年から1820年の間、タルトゥ天文台で働き1820年には所長となった。

オスヴァルト・シュミーデベルク
(Oswald Schmiedeberg、1838年10月10日 - 1921年7月12日)は、ドイツの薬理学者。シュミーデベルグは「近代薬理学の父」と呼ばれている。当時のロシア帝国のクールラント州Gut Laidsenに生まれ、1866年にタルトゥ大学で血液中のクロロホルムの測定法に関する論文を書きあげ医学の博士号を取得した。後にタルトゥ大学(ドルパート)のルドルフ・ブーフハイムの助手に買われ、1872年にはストラスブール大学の薬理学教授に就任した。

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